黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

覚悟を決めて(1)――生き方が問われている

2017-01-07 10:46:21 | 仕事
 実は、この「覚悟を決めて」というタイトルは、1昨年の12月に70歳の誕生日を迎えた時に考えていたものだったのだが、昨年は課題であった『立松和平の文学』を是が非でも完成させなければならないという気持が強く、また「情況への異論・反論・抗論」というコラムを「解放」誌上に連載中ということもあって、「覚悟を決めて」の内容を具体的に詰められなかったので、中途半端な形では嫌だなと思い、今年までその展開を延ばしてきたのである。
 とは言え、このブログの記事の内容が大幅に変わるということではなく、「覚悟を決めて」というのは、文字通り僕自身の(生き方の)「覚悟」のことであって、その「覚悟」とはどこまで権力に対して「本音」で対応できるか、という気持の持ち方の問題に他ならない。
 具体的に、昨年の後半頃から意識して書いてきたことでもあるのだが、在のような安倍自公政権による「ファシズム(全体主義)」的な社会情況を招来した「責任」の一端は、僕ら自身の生き方にもあるのではないか、具体的にはこんな酷い政治状況にあるにもかかわらず、目先の「利益」を追求する余り、安倍内閣に「支持率50パーセント」を与えてしまうのは「おかしい」というようなことを、自己批判を含めてきちんと言っていこうということである

 自分で言うのもおかしいのだが、現代の情況に対してそれだけ僕自身は「危機感」を持っていると言うことでもある。
 例えば、今朝の新聞やTVのニュースが一斉に報じていることだが、政府自民党は「テロ等準備罪」と名をかえた「共謀罪」の新設する法案を今通常国会に提出することを決めたという。この「共謀罪=テロ等準備罪」が、東京オリンピック・パラリンピックへのテロを防ぐ、という名目で、戦前のあの悪名高き「治安維持法」の「国家反逆罪」――権力(政府)や絶対主義天皇制に反対する勢力を根絶やしにするための法律で、これによって「思想・表現・言論の自由」は大幅に制限され、国家に翼賛的な言論や団体しか許容されなかった。その結果が何をもたらしたか、アジア太平洋戦争によって、日本人の犠牲者320万人、中国・アジア・太平洋全域で2000万二を超える犠牲者を生み出した。戦争文学を一つの批評対象としている僕には、戦争文学作品の随所から人々(国民)の哀しみや悔しさ・怒り。が漏れ伝わってくる経験を何度もしている――。
 「テロ防止」に反対する人はいないだろうということを見越して、これを機会に国民の「自由」を奪おうとする安倍自公政権の「陰謀~野望」、誰がこのような自公政権の「暴挙」を阻止するのか。もうそれは国民一人一人の「自覚と「学び」にしか頼れるものはないのだが、果たしてどれだけの人がそのことを自覚しているか。甚だ心許ない。
 たぶん、それは小池東京都知事の、僕には全くの「パフォーマンス」としか思えない「東京大改革」(何を改革するのか、その実態が全く見えていない。見えているのは、「張り子の虎」であり「落ち目」としか思えない自民党東京都連に対して、「私はあなた達と違うのよ」といった姿勢だけである)に対して、多くの都民が歓迎する姿勢を見せているその情況の中によく現れている。自民党籍を保持したまま自民党東京都連と対立する、その全くよく分からない(矛盾している)小池知事の政治家としての在り方を、「おかしい」と思う人が少なくなっている現状やそのような小池知事の在り方を容認している自民党本部(安倍首相)の在り方もまた、「危機」を象徴している、と言えるだろう。
 このような「改憲」のためなら何でもやる、というまさに「モラル・ハザード」としか言いようがない政治の在り方は、アメリカへの「属国化」を加速させる安倍首相が、真珠湾には「哀悼」の意を伝えに出掛けながら、韓国や中国、他のアジア諸国へは全くその「加害責任」を意識した訪問を行わないという態度や、沖縄辺野古沖への「新基地建設」やヘリパッド建設の強行といった「差別」的な対応に、よく現れている。 そんな安倍首相や安倍内閣の在り方を見て、僕が苛立つのは、そのような安倍政権の在り方に対して「仕方がない」ということで、僕ら国民が是認してしまうからである。
 そんな「国民」など僕はいらない、と思っている。自分自身や子供たちが「戦場」に送られ殺されるかも知れないのに、「天皇陛下万歳」と言い、「日本万歳」と言って「哀しみの涙」を流す大馬鹿者にはなりたくな
い、これも僕の「決意」の一部である。

 何時までも「眠っていてはいけません」。

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