昨日の鳩山首相の「施政方針演説」の全文が今日の朝刊に載っていたが、その新聞やテレビでも言っていたが、1時間弱の演説の中で「いのち」なる言葉が24回出てきたという。「友愛」は1回だそうだから、「友愛」から「いのち」へ、より鳩山首相の理念は抽象度を深め、哲学的になったということなのだろうが、マルクスを引き合いに出すまでもなく、「政治」は形而上学ではなく形而下的(つまり、「土台」)であることを考えれば、鳩山首相の思考がますます「現実=リアル世界」から離れてきた、と言えるのかも知れない。
とは言え、「土建屋政治」と揶揄されてきたことに象徴される、「カネ・モノ」の豊かさのみが追求されてきた政治、つまり経済成長のみが重要視されてきたこれまでの政治、言い方を換えれば「理念=哲学」が軽視されてきた保守政治(自公政権)のことを考えれば、「理念=哲学」だけで飯は食えないが、ともかく「理念=哲学」が政治の場で語られるというのは、決して悪いことではない。
後は、一度口に出した「理念=哲学」を現実世界においてどのように実現していくか、と言うことだと思う。例えば、国内だけでなく、アメリカはもちろんアジアも注目している普天間基地の辺野古沖移設問題に関して、「地元の意向」を無視するような発言をした平野官房長官の在り方を即刻正すことこそ、現実に降り立った「いのちを守る」政治なのだろうと思う。平野官房長官は、官房長という立場上、民主党にも内閣にも、はたまたアメリカにも気を遣わなければならないのかも知れないが、彼の一連の発言を見ていると鳩山首相及びアメリカの意向(日米合意)は「斟酌」しても、名護市民(沖縄県民・日本国民)の「意向=意思」は斟酌しない、ということになり。それでは「いのち」を日常的に危険にさらしているアメリカ軍基地近くに住む人はもちろん国民の大半は納得しないのではないだろうか。
平野氏は、沖縄を視察し、関係者から事情を聞いたらしいが、僕の友人たちがメール・マガジンで伝えてくれている沖縄の現状(名護や辺野古の現実)報告とは、全く異質な感じがする。これまでも書いてきたように、僕は何度も普天間基地を見(隣接する沖縄国際大学を訪れ)、戦闘ヘリが離発着する現場を目撃しているが、どう考えても納得できないのは、あれほどに普天間基地が危険な状態にあるにもかかわらず、人々の暮らしを無視して「極東の安全」とか「仮想敵国に対して」という建前によって基地を存続させてきた「日米」の指導者たちの思想である。沖縄の人たちが、事ある毎に明治初年の明治政府による「琉球処分」を持ち出して、「本土による沖縄の差別」として問題視するのも、理由のあることなのである。先の太平洋戦争における沖縄戦の犠牲者が16万人余り(そのうち、沖縄住民が9万人余り)という事実について思いを馳せれば、「日米合意」などたいしたことではないはずである。
そこで更に思うのは、何故普天間基地がなくなったって一向に日米政府及び軍部は困らないのではないか、という議論が起こらないのかということである。沖縄には嘉手納基地を始め問題のキャンプ・シュワブやその他いたるところにアメリカ軍基地はあり、普天間基地一つがなくなったって、「日米安保体制(冷戦構造)」が揺らぐわけでもなく、沖縄に日本全体の70パーセント程のアメリカ軍基地が存在することに変わりはないのである。普天間基地撤去に対して「代替案」を望んでいるのは、おそらく日米の軍需産業と「思いやり予算」が欲しい米軍だけだろうと思う。オバマ大統領は、「核軍縮」をはじめ「軍縮」を唱えていたはず。ならば、普天間基地撤去(閉鎖)は、オバマの意向(軍縮思想)に沿うはず。
にもかかわらず、日本のマスコミ・ジャーナリズムは、相変わらず「日米合意」を金科玉条の如く振りかざして、鳩山政権の「迷走」ぶりを糾弾している(僕も鳩山政権の「迷走」ぶりについては批判しているが、普天間基地問題に関しては、以上のような理由が背景にあることを承知して欲しい)。繰り返し言うが、どうなっているのか。
僕らが普天間基地移設問題に関して今しなければならないことは、沖縄県民(名護市民)の声をいかに聴き取るか、だけだろうと思う。
とは言え、「土建屋政治」と揶揄されてきたことに象徴される、「カネ・モノ」の豊かさのみが追求されてきた政治、つまり経済成長のみが重要視されてきたこれまでの政治、言い方を換えれば「理念=哲学」が軽視されてきた保守政治(自公政権)のことを考えれば、「理念=哲学」だけで飯は食えないが、ともかく「理念=哲学」が政治の場で語られるというのは、決して悪いことではない。
後は、一度口に出した「理念=哲学」を現実世界においてどのように実現していくか、と言うことだと思う。例えば、国内だけでなく、アメリカはもちろんアジアも注目している普天間基地の辺野古沖移設問題に関して、「地元の意向」を無視するような発言をした平野官房長官の在り方を即刻正すことこそ、現実に降り立った「いのちを守る」政治なのだろうと思う。平野官房長官は、官房長という立場上、民主党にも内閣にも、はたまたアメリカにも気を遣わなければならないのかも知れないが、彼の一連の発言を見ていると鳩山首相及びアメリカの意向(日米合意)は「斟酌」しても、名護市民(沖縄県民・日本国民)の「意向=意思」は斟酌しない、ということになり。それでは「いのち」を日常的に危険にさらしているアメリカ軍基地近くに住む人はもちろん国民の大半は納得しないのではないだろうか。
平野氏は、沖縄を視察し、関係者から事情を聞いたらしいが、僕の友人たちがメール・マガジンで伝えてくれている沖縄の現状(名護や辺野古の現実)報告とは、全く異質な感じがする。これまでも書いてきたように、僕は何度も普天間基地を見(隣接する沖縄国際大学を訪れ)、戦闘ヘリが離発着する現場を目撃しているが、どう考えても納得できないのは、あれほどに普天間基地が危険な状態にあるにもかかわらず、人々の暮らしを無視して「極東の安全」とか「仮想敵国に対して」という建前によって基地を存続させてきた「日米」の指導者たちの思想である。沖縄の人たちが、事ある毎に明治初年の明治政府による「琉球処分」を持ち出して、「本土による沖縄の差別」として問題視するのも、理由のあることなのである。先の太平洋戦争における沖縄戦の犠牲者が16万人余り(そのうち、沖縄住民が9万人余り)という事実について思いを馳せれば、「日米合意」などたいしたことではないはずである。
そこで更に思うのは、何故普天間基地がなくなったって一向に日米政府及び軍部は困らないのではないか、という議論が起こらないのかということである。沖縄には嘉手納基地を始め問題のキャンプ・シュワブやその他いたるところにアメリカ軍基地はあり、普天間基地一つがなくなったって、「日米安保体制(冷戦構造)」が揺らぐわけでもなく、沖縄に日本全体の70パーセント程のアメリカ軍基地が存在することに変わりはないのである。普天間基地撤去に対して「代替案」を望んでいるのは、おそらく日米の軍需産業と「思いやり予算」が欲しい米軍だけだろうと思う。オバマ大統領は、「核軍縮」をはじめ「軍縮」を唱えていたはず。ならば、普天間基地撤去(閉鎖)は、オバマの意向(軍縮思想)に沿うはず。
にもかかわらず、日本のマスコミ・ジャーナリズムは、相変わらず「日米合意」を金科玉条の如く振りかざして、鳩山政権の「迷走」ぶりを糾弾している(僕も鳩山政権の「迷走」ぶりについては批判しているが、普天間基地問題に関しては、以上のような理由が背景にあることを承知して欲しい)。繰り返し言うが、どうなっているのか。
僕らが普天間基地移設問題に関して今しなければならないことは、沖縄県民(名護市民)の声をいかに聴き取るか、だけだろうと思う。
あの言葉を発するのであれば、自身が孫を守りたいと想うのと同じで、国民もまた同じ人であり同じ想いであると認識しなくてはならない。
自国民を守ることすら出来ない政府が、世界の命を守りたいなどと大それた事を・・・
世界の命とは、彼にとっては何を指しているのだろうか。
戦争で失われる命、飢餓で失われる命、自害によって失われる命、他殺、事故、数えればきりがない。
多国同士の戦争に、今の日本がどう関われるのだろう。
ましてや、アメリカが戦争を起こせば日本は命を守るどころか、片方では物資や医療などの支援をしても、もう片方では命を奪う為の支援をするでしょう。
世界で飢えに苦しむ人口約10億人。
彼らを飢えから救う事が出来たとしたら、私たちの今の便利な生活は失われる事となるでしょう。
その事実を知ったとしたら、人は自分の利益を他者に無償で与える事が出来るでしょうか。
政治家の発言と本音の矛盾には、正直呆れる他ない。
自身の献金問題が法に触れる事実だとしても、知らぬ存ぜぬで押し通す。
今まで飢えや不便な生活に何一つ苦しむ事のなかった生活を送ってきた人間が、それらに苦しむ人間の何を一体分かると言うのでしょうか。
少なくとも自分には、首相の命を守りたいと言う言葉は、自身を守りたいに聞こえてならない。
今回の彼の演説は、自身の器量のなさを露呈しただけの様な気がする。
魑魅魍魎と対峙する色んなレベルでパワーが要ります。
鳩山首相(政権)にはそれが足りないから、色々と滞りがちなのですよ。