自民党を離党した渡辺嘉美ではないが、この社会に充満している「閉塞感」は何なんだ、と思う日々が続いている。この閉塞感は、様々なメディアが伝えるのと同じように、国民の大半から見捨てられていながら「権力」にしがみついている政治指導者の在り方に、その直接的な原因のほとんどがあるのだと思うが、さらにそのような現今の政治状況下にあって、この閉塞感をもたらす本質的な原因は何であるのか、というようなことを考えると、結局資本主義体制を越えた(あるいは、資本主義体制をできうる限り良い方向に改良した)社会の仕組み=体制を誰もが提示できず、「未来の展望」を描けないことにあるのではないか、と思わざるを得ない。
粗っぽい言い方になるが、かつてマルクスは資本主義体制の先に「各人が各人の労働や働きに応じた対価を得、飢える者が一人も存在せず、支配-被支配の関係も消滅した社会」、つまり共産主義(社会主義)体制を構想し、その思想の実現を目指してロシアで「革命」が起こり、以後続々と社会主義国家が誕生したが、1980年代後半から始まった社会主義国の「民主化」運動によって社会主義諸国の盟主であったソ連が解体し、70年余り続いた「バラ色の国」建設構想も瓦解し、以後どんな「未来」への展望も示されないまま、現在に至っている。
現在、巷では「革命」を目指した小林多喜二の「蟹工船」がブームとなり、カストロと共にキューバ革命を実現したチェ・ゲバラがその半生を描いた映画がきっかけになったのか、人気だという。しかし「蟹工船」ブームもチェ・ゲバラ人気も、僕には格差社会の片隅に咲いた徒花なのではないか、としか思えない。感受性が鈍くなったからではないと思うが、これらの「徒花」的現象はどう考えても、「革命」(現体制を打倒・否定し、次なる体制を模索・展望する、という意味の)への道を予感させないからに他ならない。ブームだからという理由で「蟹工船」は読んだが、そこから「革命」へと繋がる思考など全く感じられない学生達の姿を日常的に見ていると、余計そのように思えてならない。誰かが「今の若者から<怒り>が感じられない」と言っていたが、たぶん今の若者(学生)達だってこの現状を見れば「怒り」を感じているはずだと思うのだが、その「怒り」が権力や体制の指導者達へと向かわず内攻してしまえば、「革命」など夢のまた夢ということになるだろう。内攻した「怒り」は、自損、あるいは身近な他者(家族、など)への攻撃という形で顕在化する。余談になるが、昨今珍しくなくなった「親殺し・子殺し」も、そのような「内攻する怒り」という側面から考えることができるのではないか。
また、「未来」へのビジョンが描けなくなった(資本制社会の)現在、ということで思い出すのが、アメリカ発の「金融危機」=ブッシュの退陣が象徴する「新自由主義」(ネオコン=新保守主義)の敗退という事実に絡んで、かつて吉本隆明(若い人たちには「よしもとばなな」の父親と言った方が分かりやすいか?)が、バブル経済期にそれが「バブル」と気付かなかったからなのか未だに不明だが、「現在の資本主義は、超資本主義というような状態にあり、近い将来、普通のOLが何十万もするようなコートで身を包むことができ、労働時間も短縮され、週休3日になり、多くの労働者が余暇を楽しむような社会になるだろう」、と言っていたことである。現在の「大不況」やそれに伴う「派遣切り」やリストラの横行を知れば、吉本の「予想」が大ハズレであったことは誰も否定できないと思うが(吉本も、自分の予想が外れたことを自己批判していないようで、この「思想家」の在り方は今後検討されるに価するだろう)、それとは別に、吉本の「外れた予想・未来展望」は、まさに資本主義にも「希望」がない、と証明したことになった。
右を見ても左を見ても「お先真っ暗」という状態に今はあるが、果たして僕らに「未来」はあるのか? そのことを思うと何とも遣り切れない気持ちに襲われるが、ともかく足元(自分の生、あるいは生活)を見据えて、おのれが信じる(考える)道を一歩一歩歩いていくしかないのかも知れない。そうすれば、甘い「夢」かも知れないが、同じような歩みをしている人(たち)にどこかで出会い、共に手を携えて「共生社会」を建設するといった展望も開けてくるのではないか。今は、そのような「ささやかな希」を胸に抱いて生きるしかないというのも、何とも悲しいが、そうでもしなければ押しつぶされてしまうかも知れない。
1週間前、職人として最高の栄誉を得た高校時代の友人の訃報を聞いた。確かめる術はないのだが、「自殺」だったという。昨年暮れに元気な姿を見せてくれ、事業も順調だと言っていたのだが、彼に何が起こったのか? 彼の自裁もまたこの社会を覆う「閉塞感」と何らかの関係があるとしたら、「老い」にさしかかった僕らは、危険水域にある世代、と言っていいかも知れない。
粗っぽい言い方になるが、かつてマルクスは資本主義体制の先に「各人が各人の労働や働きに応じた対価を得、飢える者が一人も存在せず、支配-被支配の関係も消滅した社会」、つまり共産主義(社会主義)体制を構想し、その思想の実現を目指してロシアで「革命」が起こり、以後続々と社会主義国家が誕生したが、1980年代後半から始まった社会主義国の「民主化」運動によって社会主義諸国の盟主であったソ連が解体し、70年余り続いた「バラ色の国」建設構想も瓦解し、以後どんな「未来」への展望も示されないまま、現在に至っている。
現在、巷では「革命」を目指した小林多喜二の「蟹工船」がブームとなり、カストロと共にキューバ革命を実現したチェ・ゲバラがその半生を描いた映画がきっかけになったのか、人気だという。しかし「蟹工船」ブームもチェ・ゲバラ人気も、僕には格差社会の片隅に咲いた徒花なのではないか、としか思えない。感受性が鈍くなったからではないと思うが、これらの「徒花」的現象はどう考えても、「革命」(現体制を打倒・否定し、次なる体制を模索・展望する、という意味の)への道を予感させないからに他ならない。ブームだからという理由で「蟹工船」は読んだが、そこから「革命」へと繋がる思考など全く感じられない学生達の姿を日常的に見ていると、余計そのように思えてならない。誰かが「今の若者から<怒り>が感じられない」と言っていたが、たぶん今の若者(学生)達だってこの現状を見れば「怒り」を感じているはずだと思うのだが、その「怒り」が権力や体制の指導者達へと向かわず内攻してしまえば、「革命」など夢のまた夢ということになるだろう。内攻した「怒り」は、自損、あるいは身近な他者(家族、など)への攻撃という形で顕在化する。余談になるが、昨今珍しくなくなった「親殺し・子殺し」も、そのような「内攻する怒り」という側面から考えることができるのではないか。
また、「未来」へのビジョンが描けなくなった(資本制社会の)現在、ということで思い出すのが、アメリカ発の「金融危機」=ブッシュの退陣が象徴する「新自由主義」(ネオコン=新保守主義)の敗退という事実に絡んで、かつて吉本隆明(若い人たちには「よしもとばなな」の父親と言った方が分かりやすいか?)が、バブル経済期にそれが「バブル」と気付かなかったからなのか未だに不明だが、「現在の資本主義は、超資本主義というような状態にあり、近い将来、普通のOLが何十万もするようなコートで身を包むことができ、労働時間も短縮され、週休3日になり、多くの労働者が余暇を楽しむような社会になるだろう」、と言っていたことである。現在の「大不況」やそれに伴う「派遣切り」やリストラの横行を知れば、吉本の「予想」が大ハズレであったことは誰も否定できないと思うが(吉本も、自分の予想が外れたことを自己批判していないようで、この「思想家」の在り方は今後検討されるに価するだろう)、それとは別に、吉本の「外れた予想・未来展望」は、まさに資本主義にも「希望」がない、と証明したことになった。
右を見ても左を見ても「お先真っ暗」という状態に今はあるが、果たして僕らに「未来」はあるのか? そのことを思うと何とも遣り切れない気持ちに襲われるが、ともかく足元(自分の生、あるいは生活)を見据えて、おのれが信じる(考える)道を一歩一歩歩いていくしかないのかも知れない。そうすれば、甘い「夢」かも知れないが、同じような歩みをしている人(たち)にどこかで出会い、共に手を携えて「共生社会」を建設するといった展望も開けてくるのではないか。今は、そのような「ささやかな希」を胸に抱いて生きるしかないというのも、何とも悲しいが、そうでもしなければ押しつぶされてしまうかも知れない。
1週間前、職人として最高の栄誉を得た高校時代の友人の訃報を聞いた。確かめる術はないのだが、「自殺」だったという。昨年暮れに元気な姿を見せてくれ、事業も順調だと言っていたのだが、彼に何が起こったのか? 彼の自裁もまたこの社会を覆う「閉塞感」と何らかの関係があるとしたら、「老い」にさしかかった僕らは、危険水域にある世代、と言っていいかも知れない。
おひさしぶりです。と言いましても、実際にはお会いしていませんが……
昨年「解放文学賞」でお世話になった宮本です。
さて、かなり遅れましたが、贈呈していただいた著『野間宏~人と文学~』を昨夜より読み始め、読了。一言感想をと思い、書いているしだいです。
なるほど、一人の作家の出発、模索、葛藤、そして方法論をわかりやすく書いてあり、野間の全体像がすんなりとたどれたと、感心しております。
私自身は、大学時代、彼の『暗い絵』を読んだとき、何かそこに「美しさ」というか、ある意味での堅牢な(けっしてコンクリートではない微細な神経を幾つも束ねたような)建築物を見ている気がしました。そして、最後の深見進介の科白「仕方のない正しさを……」
の場面へたどりつくために、いく度となく読んだ気がします。
『崩解感覚』『悲しい錘』など初期短編も好きで、その追い詰められた究極のなかにある「生理」の軋みというか、自己救済の姿というか、そこに共感をもったものです。
今回、黒古氏の著作を目にし、当時の思いが少しばかり蘇り、また『暗い絵』を読み返したいと思った次第です。ほんとうにすばらしいご本をいただきありがとうございました。
そこでたまたま、今回のブログを読ませていただきましたが、吉本隆明は、私なりに目をとおしてきた評論家(思想家)ですが、彼のとなえる「大衆の原像」にある意味でのシンパシーを持ちながらも、大衆消費社会の件あたりから、その大衆が90パーセントの消費層で形成され、高度消費社会を動かしていくという運びに入ったころから、じゃあ残りの10パーセントの消費社会に参加できない層はどうすればいいの(実際、教員をやめ、小規模作業所をしてからの私の所得はそこに属します)という思いがあり、「評論」という「大局」を見ていく位置について、ちょっとついていけないなあという感慨をもちつづけていました。
実際にはその10パーセントからまさしく寄生した植物が枝葉を伸ばしていくように貧困層は拡大の一途をたどっていったのでしょうが、その人口数に比して彼らの持つ総所得と総消費力(社会=資本を動かせる力)はどの程度なのか、いろいろ考えると、けっきょくは資本主義的経済合理主義の地点へ収斂しない方法と理論、そして意識をつかんでいく以外ないのかなとも思っている次第です。
バタバタと書きましたが、とにかく一言お礼を言いたくてコメントした次第。
黒古さんもどうかお体気をつけられ、お仕事や家庭菜園など、ぼちぼちはげまれてください。それでは失礼いたします。
それにしても、テレビや新聞などで「限界集落」という言葉に接する度に、宮本さんの作品のことを思い出していました。その後、その「テーマ」はどうなりましたでしょうか。今の状況の中でこそ、「限界集落」などという言い方で農山村を「切り捨て」てきた世の中(政治)に対する宮本さんのような視点が生かされるのではないでしょうか。
3~40枚の短編に仕上げませんか。良い出来であれば、立松氏と相談して「月光」に載せることも可能かも知れません。「月光」は新人募集を行うはずだからです。一度、チャレンジしてみませんか?
お待ちしています。お元気で。
「かつて吉本隆明が、「現在の資本主義は、超資本主義というような状態にあり、近い将来、普通のOLが何十万もするようなコートで身を包むことができ、労働時間も短縮され、週休3日になり、多くの労働者が余暇を楽しむような社会になるだろう」、と言っていたことである。」とありますが、彼のどの著書にこの論があるのか、ご教示たまわればと思います。かねてよりまともな経済学者が吉本氏の経済論を論じないのはご指摘のような議論をしているからかな、という気もしております。先生がおっしゃるように「この「思想家」の在り方は今後検討されるに価するだろう」と思いまので、よろしくお願いします。
関心を持たれている吉本隆明の僕が引用した言説が収録されている本は、『重層的な非決定へ』(85年9月 大和書房刊)です。また、『超資本主義』(95年 徳間書店刊)という本にも同じような内容のことが書かれていたと記憶しています。
いずれにしろ、誰でもそのような陥穽を持ってしまうと思っているのですが、吉本の言説には結構「ブレ」があります。にもかかわらず、これまでの「吉本論」は、吉本を礼賛するにしろ批判するにしろ、その「ブレ」を無視しているように僕には思えてなりません。たぶん、そのような「ブレ」があるから、前馬さんが仰るように、「まともな経済学者」は吉本の経済論を論じないのではないか、と僕は思っています。
どうぞ、ご検討の参考にしてください。