黒古一夫BLOG

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『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』刊行されました

2011-12-01 09:13:49 | 文学


 福島第1原発の1~3号機におけるメルトダウン状況が発表された日に、念願だった『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―核時代を考える』(勉誠出版 2000円+税)が刊行されました。とは言っても、「見本」ができた段階で、書店に並ぶのは来週(8日前後)になるということである。
 それにしても、東電の発表(何か隠しているのではないかという疑念は消えない)によれば、炉心のそこに溜まった溶融したウラン燃料が康応で炉心底部のコンクリート(1メートル)を65センチも溶かしてしまい、あと35センチで、炉心を突き抜け、大地に浸透し始め、そうなれば放射能は制御不能になって拡散されるということであるが、何とも恐ろしいことである。それに、相変わらず放射性セシウムが降下して(あるいは空中に浮遊して)汚染された地区の「除洗」は、その具体的な方法と規模も確定しないまま、そこに居住する人はもちろん関係する人々を「人間モルモット」的に扱い、方途のないまま、未だに放置されたままになっている。福島県が「第1原発」と「第2原発」を「廃炉」にすると決めたことは、「朗報」の一つと言っていいが、一方で政府は産業界に押されてベトナムやトルコなど4カ国への「原発輸出」を決定したということで、そこには政府(野田政権)の姿勢が良く現れていて、菅前首相が「脱原発」を言い出したことの重みを何ら感じない現政権の「保守化」が際だっている。
 そのようなことを考えると、「フクシマ」は全く収束しておらず、「核と人類は共存できない」という核問題に関する哲学についての議論もまた全く展開していないことが、よくわかる。『ひろしまからフクシマへ―核時代を考える』の中で、作家の辻井喬氏は僕との対談(インタビュー)において「核やフクシマについて考えることは、日本の国家像、世界の国家像を考えることだ」と言っているが、まさに今度のフクシマは僕らに「将来の国家、社会」の在り方を考えるいい材料を提供してくれているのではないか、と思う。
 少なくとも、フクシマが収束していない段階(安全性を含めて原発の在り方に対して根源的な問題が解決していない段階)で「原発輸出」などできるはずがないのに、目先の「利益」しか考えない経済優先思想が人間(人類)の在り方に反する「ご都合主義=自己中心主義」であること、このことは肝に銘じなければならないのではないか。つまり、フクシマ=原発問題は「命」の問題、「地球」の問題であること、このことを僕らは肝に銘じなければならないのではないか、と思う。

 なお、画像をお見せした『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―核時代を考える』(その内容については、すでにお知らせしている)は、まさに17人の論客が以上のような「核」や「フクシマ」に関して考えた様々な角度から考え抜かれた論考であふれており、是非手にとって読んで欲しいと思う。もしご近所に書店がなく、版元に直接購入申し込みされる場合、「黒古のブログを見て」と言ってくだされば、少し安くなるのではないか、と思いますので、どうぞよろしくお願い致します。また、ご近所の図書館などにも「リクエスト」していただけると、幸いです。もし本書が商売的に成功すれば、「第2弾」も考えておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

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