黒古一夫BLOG

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「虚しさ」との戦い(3)――「言葉」(思い)が届かない・補遺

2015-06-11 09:44:06 | 仕事
 昨日の記事で書き忘れたことがあった。
 それは、安倍首相はじめ中谷防衛大臣、菅官房長官らの閣僚、そして「違憲」としか思われない「安保法制」を強引に国会通過させようとしている自公の政治家たちが、「反対」する野党の政治家や国民の声を聞かない(聞こうとしない)のは、現政権が「極右」などという言い方では生ぬるいほどに「独裁的」になっている証だ、ということである。
 「独裁的」というのは、他者の意見を聞かず、自分の思い(考え)が「正しい」と思いこみ、その思いに従うことを一方的に強いることに他ならないが、現在の安倍自公「極右」政権は、安保法制論議においてまさにその「独裁」ぶりを発揮している。中谷防衛大臣の「憲法を法制に適応させる」発言、菅官房長官の「(集団的自衛権行使について)合憲だという憲法学者はたくさんいるし、「違憲」という学者の意見に従うつもりはない」発言、そして極めつけは、昨日も書いたが1955年の「砂川判決」を持ち出して「最高裁が集団的自衛権行使は合憲だと判断している」という、安倍首相の「歴史的事実をねじ曲げて」恬として恥じない思考、約300人いるとされる憲法学者の3分の2が「違憲」だと言っている事実を全く無視する態度、これを「独裁的」と言わずに何と言えばいいのか。
 また、安倍首相(及び、彼を取り巻く政治家や官僚、財界人)がいかに「独裁者」的であるかは、彼が総選挙などで「スローガン」としてきた<空疎>な言葉、例えば「美しい日本」、「日本を取り戻す」、「戦後レジュームからの脱却」、これらは一見すると「わかりやすい」ように見えながら、ではその「取り戻す」べき「日本」とは具体的にどのようなものなのか、あるいは「戦後レジューム」とは何であるのか、そのような問いを立てたとき、私たちの脳裏に「鮮明な像」を結ばない、という観念的・空疎な言葉でしかないことがわかるが、「独裁的」というのは、ヒットラーの「ユダヤ人は劣等民族だ」という理由で600万人のユダヤ人を殺した「ホロコースト」のことを想起すれば、観念的・空疎な言葉を使用するその底意に「独裁」の意識が見え隠れすることを、誰しも納得できるのではないだろうか。
 もちろん、そのような「観念的・空疎な言葉」にもなにがしかの「期待」を掛けようとする国民の「ダメさ」も安倍首相らの「独裁」ぶりを側面から援助していると思うが、安保法制に関して今国会の会期中に再建津使用とする目論見は「敵失」によって免れたかも知れないが、アメリカ議会で「安保法制は今夏までに決着付ける」と公言した安倍首相の「傲慢=独裁」ぶりを考えれば、今こそ声を大にして安倍自公「極右」政権に「NO」を突きつける必要があるのではないだろうか
<閑話休題>
 僕の父は、前にも書いたことがあるが、「本土決戦要員」として2度目の招集を受け、茨城県の鹿島灘に展開する部隊で敗戦を迎えたのだが、敗戦から5,6年まじめだった彼が「廃人」のようになって家庭を顧みなかったことを、よく覚えている。彼は、戦中ー戦後の混乱期を自力で乗り越えられない「弱さ」を持っていたのかも知れない、反面彼はまた「戦争犠牲者」だったのではないか、問いまでは思っている。
 集団的自衛権行使が国会で承認され、自衛隊(軍隊)が「他の国(米国)の戦争」に加担することが「認め」られれば、必ずや自衛隊員から「戦死者」は出る。つまり「リスクは高まる」のに、そのことを認めようとしない自公「極右」政権、彼らの「欺瞞」を否定する意思を今こそ固めるべきだろう。

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