黒古一夫BLOG

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書評「哀歌」(曽野綾子著)

2005-04-11 17:06:46 | 仕事
書評「哀歌」(曽野綾子著)                    黒古一夫

 所属する修道会に命じられて部族対立の続くアフリカの国へ赴任した「スール(修道尼)」の鳥飼春菜。彼女は、教会や小中学校を併設する修道院で、「神の僕(しもべ)」で院長の「スール・ルイーズ」や現地人のスールたちに助けられながら、政府の管理するラジオディスクジョッキーが連日「ゴキブリ(ツチ族)を殺せ」と叫ぶ不穏な状況下にあって、自分は何を為すべきか、何ができるのかを模索しながら日々を過ごしていたのだが、ついに多数派部族(フツ族)の激しい「憎悪」に基づく少数派(ツチ族)に対するジェノサイド(集団虐殺)に巻き込まれる。ツチ族を陰に陽に支援していた隣国の大統領が謀殺(?)されたことから、フツ族の民兵組織が軍を後ろ盾にツチ族及びツチ族の血を継ぐ者への暴行、虐殺、略奪を開始し、大量の避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くす。そして、春菜はその渦中で従順な庭師と思っていた男にレイプされる。身も心も疲弊しきって帰国した春菜を待っていたのは、冷淡とも思える修道会の処遇であり、妊娠であった。そんな失意と絶望の春菜を救ってくれたのは、アフリカから脱出する際ホテルで声をかけてくれた美術商の田中一誠であった。春菜に同情した彼は、損得抜きで春菜の生活を助け、生まれてくるであろう「黒い赤ん坊」との生活を決意させる。上下二巻、決して読みやすいとは言えないこの長大な物語において問われているのは、信仰とは何か、人は人生における苦悩と悲しみをどのように乗り越えていくのかであり、貧困と飢餓と動乱のアフリカとは異なるように見える日本の「平和」と「豊かさ」は真に人々に「幸福」をもたらすものなのか、人々は「愛」や「心」を失った生活を送っているのではないか、ということに他ならない。私たちは、この作者の真摯な問いにどう応えられるのか、読後しばしの黙考を強いる硬派の一書である。           (「北海道新聞」4月掲載)



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