狂騒の1日が過ぎ、各マスコミ(新聞やテレビ)は一斉に「大阪ダブル選挙」における橋下徹(大阪維新の会)の「圧勝」の意味をそれぞれ開陳したが、全てのマスコミに目を通したわけではないが、僕が知る限りでは、僕が「危惧」することに応えてくれるようなコメントは一つもなかった。各マスコミは、あたかも「報道」というものが本来持っている「批評精神」を忘れてしまっているかのようで、そのようなマスコミの在り方もまた現代が「転換期」を迎えていることの証でもあるのではないかと思うが、そのことは今措くとして、僕が橋下徹(大阪維新の会)の考え方とやり方及びそのような政治組織に多くの支持を与えた大阪府民・大阪市民に抱いた「危惧」、それは以下のようなものである。
まず、あの小泉郵政改革の時に用いられた「ワンフレーズ政治」、つまり「大阪を変えるのか、変えないのか」という一言によって、「二重行政の無駄を解消する」という美名の下、「経済=実利」と「競争原理」(資本制社会における原理でもある)、従って「弱者切り捨て」を基本とする「大阪都構想」を看板に、大衆を扇動するやり方、これは混迷する現在の社会状況では非常に「大衆受け」するもので、これはまた橋下(大阪維新の会)なら何かやってくれるのではないか、という期待値を高くするものだったのだと思う。
しかし、昨日も書いたように「小泉改革」が結果的に惨憺たる状況をもたらし、それが「政権交代」につながったように、あるいは戦前の「昭和維新」運動が最終的に中国大陸への侵略を進め、国内的にはファシズム的な体制を強化したように、さらに言うならばドイツのヒットラーが登場し、その結果ヨーロッパ全土を戦渦をもたらしユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)が起こったように、「強権」を表に出した政治は結果的には決して国民(市民)のためにならず、国民(市民)を「苦」を強いるものであること、そのような文脈で橋下徹(大阪維新の会)の「政治」を捉えなければならないのではないか。橋下徹(大阪維新の会)を応援した石原慎太郎東京都知事をはじめ「そのまんま東」、渡辺嘉美「みんなの党」代表などの顔ぶれを見れば、いずれも「権力亡者」としか思えない人たちで、それだけでも僕など橋下徹たち「大阪維新の会」が以下にうさんくさいものであるか、と思ってしまう。石原慎太郎の「橋下徹の暴走は俺が止める」といった主旨の発言によく現れている「権威主義」「権力意識丸出し」を喜んで受け入れている橋下ら「大阪維新の会」の存在は、何とも得体が知れない。
橋下徹は選挙に勝利した後に、国会議員が「大阪都構想」に賛成しなければ国政に打って出ると息巻き、内に「小沢問題」を抱えて政党の体を為していない民主党を始め、支持率が一向に上がらない自民党、「風見鶏」的に大衆を扇動してきた公明党、などの既成政党が橋下の「恫喝」に戦々恐々としている様は、軍部の暴走を止められなかった「昭和維新」時代を思い出させ、やはりこのことも現代が「転換期」であることを実感させてくれる。
また、ファシズム(独裁主義)が大衆迎合主義と共にやって来るというのも、ドイツにおけるナチズムの台頭、1930年代における日本型ファシズムの進行過程などを見れば歴然とすることだが、橋下徹(大阪維新の会)が「フクシマ」が起こったとき、代替(自然)エネルギーのことなど全く触れないまま、いち早く「脱原発」を唱え(それはそれで正しい。しかし、橋下らは「脱原発」を実行することができるのだろうか。維新の会を構成するメンバーの大部分は、「原発推進」に熱心だった自民党議員だったということを考えれば、橋下の言う「脱原発」も怪しいものだと思わざるを得ない)、これもまた「大衆受けする(人気取り)」パフォーマンスを行ったが、橋下が当選後繰り返し「民意(選挙結果)に従えない市役所職員、教員は即刻辞めてもらう」という発言に見られるような、「バラ色の未来」を振りまきながら、その衣の袖の下から「弱者=反対は切り捨て」という本音を吐く、彼(大阪維新の会)には「40パーセント」以上の反対票が存在したことをどう考えているのか。結果的に「40パーセント」の民意を無視してファシズム的な政治を推し進めていくのだろうが、少数派を尊重するという民主主義のルールを投げ捨ててまで橋下徹が断行しようとしていることを想像すると、末恐ろしいことになる。
おそらく、本には否定しているようだが、橋下の「野望」は、国会で主導権を握るまでに勢力を拡大して「首相」になることだろうと思うが、「橋下徹総理大臣」が行うファシズム的な政治を想像すると、何としてもそのような「野望」は阻止しなければならないのではないか、と痛切に思う。まずは、大阪文・大阪市民、そして次の国政選挙に70人ほど立候補させるつもりだと言われた関西圏の人々の「良識」に頼りたいと思う。
しかし、「憂鬱」な思いは消えない。
まず、あの小泉郵政改革の時に用いられた「ワンフレーズ政治」、つまり「大阪を変えるのか、変えないのか」という一言によって、「二重行政の無駄を解消する」という美名の下、「経済=実利」と「競争原理」(資本制社会における原理でもある)、従って「弱者切り捨て」を基本とする「大阪都構想」を看板に、大衆を扇動するやり方、これは混迷する現在の社会状況では非常に「大衆受け」するもので、これはまた橋下(大阪維新の会)なら何かやってくれるのではないか、という期待値を高くするものだったのだと思う。
しかし、昨日も書いたように「小泉改革」が結果的に惨憺たる状況をもたらし、それが「政権交代」につながったように、あるいは戦前の「昭和維新」運動が最終的に中国大陸への侵略を進め、国内的にはファシズム的な体制を強化したように、さらに言うならばドイツのヒットラーが登場し、その結果ヨーロッパ全土を戦渦をもたらしユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)が起こったように、「強権」を表に出した政治は結果的には決して国民(市民)のためにならず、国民(市民)を「苦」を強いるものであること、そのような文脈で橋下徹(大阪維新の会)の「政治」を捉えなければならないのではないか。橋下徹(大阪維新の会)を応援した石原慎太郎東京都知事をはじめ「そのまんま東」、渡辺嘉美「みんなの党」代表などの顔ぶれを見れば、いずれも「権力亡者」としか思えない人たちで、それだけでも僕など橋下徹たち「大阪維新の会」が以下にうさんくさいものであるか、と思ってしまう。石原慎太郎の「橋下徹の暴走は俺が止める」といった主旨の発言によく現れている「権威主義」「権力意識丸出し」を喜んで受け入れている橋下ら「大阪維新の会」の存在は、何とも得体が知れない。
橋下徹は選挙に勝利した後に、国会議員が「大阪都構想」に賛成しなければ国政に打って出ると息巻き、内に「小沢問題」を抱えて政党の体を為していない民主党を始め、支持率が一向に上がらない自民党、「風見鶏」的に大衆を扇動してきた公明党、などの既成政党が橋下の「恫喝」に戦々恐々としている様は、軍部の暴走を止められなかった「昭和維新」時代を思い出させ、やはりこのことも現代が「転換期」であることを実感させてくれる。
また、ファシズム(独裁主義)が大衆迎合主義と共にやって来るというのも、ドイツにおけるナチズムの台頭、1930年代における日本型ファシズムの進行過程などを見れば歴然とすることだが、橋下徹(大阪維新の会)が「フクシマ」が起こったとき、代替(自然)エネルギーのことなど全く触れないまま、いち早く「脱原発」を唱え(それはそれで正しい。しかし、橋下らは「脱原発」を実行することができるのだろうか。維新の会を構成するメンバーの大部分は、「原発推進」に熱心だった自民党議員だったということを考えれば、橋下の言う「脱原発」も怪しいものだと思わざるを得ない)、これもまた「大衆受けする(人気取り)」パフォーマンスを行ったが、橋下が当選後繰り返し「民意(選挙結果)に従えない市役所職員、教員は即刻辞めてもらう」という発言に見られるような、「バラ色の未来」を振りまきながら、その衣の袖の下から「弱者=反対は切り捨て」という本音を吐く、彼(大阪維新の会)には「40パーセント」以上の反対票が存在したことをどう考えているのか。結果的に「40パーセント」の民意を無視してファシズム的な政治を推し進めていくのだろうが、少数派を尊重するという民主主義のルールを投げ捨ててまで橋下徹が断行しようとしていることを想像すると、末恐ろしいことになる。
おそらく、本には否定しているようだが、橋下の「野望」は、国会で主導権を握るまでに勢力を拡大して「首相」になることだろうと思うが、「橋下徹総理大臣」が行うファシズム的な政治を想像すると、何としてもそのような「野望」は阻止しなければならないのではないか、と痛切に思う。まずは、大阪文・大阪市民、そして次の国政選挙に70人ほど立候補させるつもりだと言われた関西圏の人々の「良識」に頼りたいと思う。
しかし、「憂鬱」な思いは消えない。
僕は、関西(特に大阪)についてはあまり訪れたこともなく、知り合いも少ない(小田実さんが亡くなってからは余計に)ので、多さkの人たちの「ノリ」というのを知りませんが、橋下氏のやり方と考え方は、小泉以来、日本国中を覆っているようで、不気味に思っています。
気が付いたとき(思ったとき)に声を上げないと、取り返しの付かないことになってしまうのではないか、と危惧しています。
鳥越さんも、頑張ってください。
お久しぶりでございます。
11月27日、夜8時、個展を終えて、絵の搬出をして、帰宅した時間に、「維新の会」の圧勝のテロップが早々とTVに流れ、唖然としました。大阪に住んでいないので、選挙権はないのですけれど、もうすこし聡明な結果になるのではないか、と思っていましたので。
小泉政権が圧勝して成立したあと、格差が広がり、苦い経験をしたはずですのに・・・。
当選後の「民意」をふりかざしての橋下氏の強権発言にも、おどろくばかりです。
民主主義というのは、数の圧倒で、少数意見を強圧することでは決してないはずです。
「都構想」というのが、わたしにはよくわからないのですが、教育の場で教師をランク付けする、などというのは、論外で、教育という理念を喪失した、おぞましさを覚えます。
こんな浅薄な考えでは、人間は育ちません。橋下氏は子沢山な方のようですが、人間を育てる
ということが、どういうことか、ほんとうにわかっているのでしょうか。
政治屋たちが又ぞろぞろと、動き出しているようですし、おぞましく、黒古さんの危惧に共感しますので、コメントさせていただきました。
わたしは、ごくごく普通のお婆の一人で、あまり政治むきの人間ではないのですけれど。孫の受けるこれからの教育に危惧を覚えます。