飛鳥寺横の蘇我入鹿の墓(7月20日撮影)
今日は途中になっていたスクーリングのトピックを一つ完結させたいと思います。
その前に、検索のキーワードなどを見ていますと、やはり奈良大のレポート・試験その他、具体的な対策を知りたいのかなという感じの方がちらほらいらっしゃるようです。細かいことでもお答えできますので、このブログにはメールを送る機能もありますので、ご活用ください。
ちなみに、現況ですが、10月上旬までの卒論の草稿提出に向けて、ちょっとずつ前進を続けているこの頃です。前の大学生時代も、卒論を書くのは楽しかったのですが、それは、卒論だけに専念できる環境があったから。今も、卒論を書くこと自体は楽しいのですが、仕事にも行かなければいけないので、まとまった時間が確保できず、少し厳しいですね。
テキスト科目は、最小限予定していた残り二つのレポート合格して、草稿提出後の10月11月に試験を受けようと思っています。
そういうわけで、9月は卒論に全力投球です。ただし、まず9月上旬にスクーリングに行き、次の週は、卒論のためでもありますが、福島県の沿岸部・被災地に乗り込みます。9月の5連休に行きたかったのですが、もう、今からでは宿が予約できませんでした。皆さん、9月の連休、お出かけの予定もしっかり決めていらっしゃるようですね。まだ震災の爪痕残るであろう被災地においても、宿がいっぱいなのは、喜ばしいことではあります。
さて、7月18~20日の考古学特殊講義スクーリング、「その1」で東大寺にイノシシ出現、の記事を書いたきりになっていました。思えばそこでも結構書いたし、記憶も風化してきたので、絞って書きましょう。
三日目の飛鳥めぐりですが、自分で見たことがなかったものについて書きます。
昔、一人で飛鳥をレンタサイクルで回ったことがあるのですが、その時にも行かなかった、酒船石遺跡。
飛鳥寺から意外と近い所にありました。飛鳥寺から歩いて行けました。すぐ裏、という感じ。
まず見えてきたのは、平成12年の調査で見つかった、亀形石造物と小判形石造物です。これは新しいんですね。レンタサイクルで回ったのは平成4年くらいですので、その時には発見されていなかったのか・・・
確かに亀の足のようなデザインが施されています。周囲に石が敷かれ・また積まれた広々とした空間に、この石造物が設置されています。見学できる場所から30mくらい離れているでしょうか。見下ろすような感じで、広場のような、劇場のような空間になっています。石造物は、水を流す導水施設になっているようで、水が入っていました。
酒船石遺跡は、『日本書紀』斉明天皇2年条に記された「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」「石の山丘」に符合する遺跡であると推定されているとのことです(酒船石遺跡パンフレットより)。
斉明天皇は、「石の女帝」と呼ばれているとか呼ばれていないとか、どこかで見かけましたが、大規模な土木工事を好み、この酒船石遺跡も斉明天皇の時代のものと考えられています。
斉明天皇って、なかなかユニークな天皇だな、と、この頃見直しています。
牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、斉明天皇の墓ではないかと最近話題になっています。この古墳は、石でできた三段構成の八角墳だということです。八角墳については、新教育課程の山川教科書『詳説日本史B』でもわざわざ太字ゴシックで記述されるようになりました。八角形は、天皇家が採用した形との説があり、天武・持統天皇陵や文武天皇陵とされる中尾山古墳も八角墳です。
牽牛子塚古墳とか、最近ニュースになった、ピラミッド型の都塚古墳とか、そういう話題の古墳に連れて行ってくれないんでしょうかね?と、バスでお隣さんになった方と話したりしていました。
奈良大の通信教育を受けるような方々は、結構、年輩だし、もともと奈良が好きで、飛鳥なんかも何度か訪れている方が多いのではないかと思われます。石舞台古墳をはじめとする定番・王道のコースではなくて、マニアックなコースにしてもいいんじゃないかな、なんて思いました。
そして、亀形石造物の横の丘を登って行くと、その上に、かの有名な酒船石が、道端にドンと、置いてありました。本当に、無造作な、というのか、唐突に、というのか、なんでこんな所に、という感じで、しかもさわり放題で、みんなさわって摩耗しちゃってるんじゃないかな、という風情で、酒船石はありました。
松本清張の小説『火の路』にも、確かこの酒船石の所で、主人公の女性や関係人物が出会う場面があったと思います。『火の路』は、2,3年前に初めて読みましたが、飛鳥の奇妙な石造物などが、ゾロアスター教と関係があるのではないか、といった推理は、興味をひかれました。そのような意識をもって見ると、仏教だけでなく、ゾロアスター教の片りんも、実際飛鳥時代あたりに入って来ている形跡もあるように思います。
ウィキペディア『火の路』のあらすじから便宜的に引用すると、主人公の女性は、
「東京の国立T大文学部で日本古代史を専攻。身分は助手。高校の非常勤講師を掛け持つ。発想がユニークと評されるが、学閥の慣習を重んじる教授陣からは煙たがられている。」
と記述されています。
松本清張は、改めて読むと、考古学を題材とした小説が多くて驚いています。もっと早くに読んでいればよかった。
他にも、弥生時代の社会に関する新しい説を打ち出し、わが国考古学界の先駆者ともいわれる森本六爾も、松本清張の小説『断牌』のモデルになっているといわれています。学歴が低かったために、考古学界で十分な待遇を得ることもなく、結局早世しましたが、日本の考古学の発展に大きく貢献した人物です。森本六爾については、文化財学講読2というスクーリングの授業で学びました。
また、松本清張『Dの複合』の「解説」の中にも森本六爾が出てきます。
『火の路』も『Dの複合』も、なかなか面白いので、読んでみてください。
松本清張の小説には、このように、学閥などにはばまれて、不遇な扱いを受ける登場人物が出てきます。
私も、ちょっとそういったアカデミズムの壁のようなものをここ数年感じるようになりました。学者の世界も、コネとかごきげんとりとかといったことが必要?で、閉鎖的なんだな、と、今さらながら気付きました。
そういう世界の中で、有力な人ににらまれたら、学者としての将来もなくなってしまう・・・?
もっと、自由に学問を追求できて、純粋に研究成果そのものを評価してくれるものかと思っていましたが、そうではないのかな。
そんなような世界のことを、松本清張の小説を読むと、昔からあったんだなと知ることができます。
しかし、奈良大学の通信教育部は、そんなことはなく、心広く、学ぶ意欲のある人を、老いも若きも受け入れ、応援してくれます。文化財(遺跡)の多い奈良にあるというのも、よい環境にあると思います。先生方も、偉ぶっていないし、たぶん、文献史学と考古学では、同じ歴史学のカテゴリーの中にあっても、タイプが違うんだろうと思います。
頭でっかちに、文献だけを読んで頭の中でだけ考えて完結するのではなく、現地におもむき、自分の目で見て考える、ということも、大切なことだと思うようになりました。これからは、ただ文献だけにあたる文献史学のような学問ではいけないのではないだろうかと、思ったりしています。
横道にだいぶそれましたが、酒船石に戻って、これは、意外と簡単にさわれるもので、溝に葉っぱがつもっていたりして、場所の雰囲気からしても、あまり神秘的なイメージは感じられないな、と、少し拍子抜けしました。大勢で見ていたからかな?
『火の路』の主人公登場の場面の、自分の勝手な想像とは違っていました。
先生のお話では、昔からここにあったのかもわからない、とのことでした。まあ、そうですね。どこかから運んでここに置かれたのかもしれないし。
しかし、何に使ったのか、面白い造形には違いないですね。
見ることができてよかったです。また、暑くない静かな季節にいつか行ってみようと思います。
以上、7月の考古学特殊講義のスクーリングについてはおしまいです。さて、1週間後はまた奈良です。
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