日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

文化財学演習Ⅲスクーリング N先生からお墨付きを・・・

2016-12-25 23:22:39 | 大学通信 スクーリング
1年以上前の9月あたまに受講した奈良大通信スクーリングについて書いておきます。
文化財学演習Ⅲは、4年次の必修科目だったと思います。演習Ⅰを2015年1月、演習Ⅱを2015年2月に受講し、卒論がそろそろ形になって来る頃に受けようかなと考えて、9月の回を選びました。

担当の先生は、奈良大文化財学科でも著名なN先生でした。今年ご退職されたようで、今年度からこの科目の担当の先生は代わっていますね。
著名な先生ですが、全然偉ぶった所がなく、常ににこやかで、温かい雰囲気の先生でした。
文化財の保存科学研究をご専門とされていて、初日の午前中は保存科学研究の概説を座学でうかがいました。
私は、早朝に新幹線で来たので、眠くて、顔を上げたままコックリコックリしていました。先生には申し訳なかったです。

午後には、X線回折分析装置をはじめとするいくつもの分析装置のある部屋へ移動し、それぞれの機器の使い方などの説明を聞きました。
蛍光X線分析装置、電子顕微鏡・電子線分析装置、赤外線分光分析装置、赤外線画像システム、がありました。それぞれの機器を使って研究をされている方々が説明されました。

・・・去年の8月・夏休み中に、実家で、遊びに来ていた妹とたまたま会い、卒論執筆のために遺跡調査などをしているという話をしたら、妹が小学校時代に宝物にしていたという、「縄文土器」の破片をあげる、と言い、実家の2階から持って来て、私にくれました。そうなのです。私達の小学校の裏山のあたりで、当時、縄文土器が出ると子どもたちの間で話題になっていて、妹がそこで拾って、宝物にしていたのです。私も妹から聞いてそういう場所があるのを知っていて、私も当時ひとかけらもらったような記憶があったのですが、それは今はなく・・・

それで、今回妹にもらった土器の破片を、今度9月にスクーリングがあるから、本物かどうか大学の先生に見てもらうよ、と妹に話し、実際に、スクーリングに持参しました。
なんか、図工室の裏あたりで出ていたから、図工の授業で作った器の残骸ではないかとも疑っていたのです。

私は思い切って、N先生にそれを見せて、これは縄文土器でしょうか?と尋ねました。いろいろ分析装置があるから、分析してもらえないかな、という期待もあったのです。そうしたら、N先生は、一見して、
「これは、縄文か弥生かははっきりしませんが、そのあたりの古い時代の土器です。」
とおっしゃいました。本当ですか?と重ねて聞くと、専門家の目で見て、経験で、そうだということはわかります、というようなお答えでした。
「では、N先生のお墨付きということで・・・」
と私も喜びました。
そうか、縄文土器かと思っていたけど、弥生時代の可能性もあるのか・・・と思いながら。
ということは、あのへんは縄文か弥生時代の遺跡が実際にあったのか??一度改めて行ってみようかな?と思いましたが、その後まだ行っていません。もう、○十年経っていますから、現地がどうなっているかわかりません。

そんなこんなで、初日は終わりました。
この演習は、卒論のテーマを基本として、一人ずつ前に出て発表するというのがキモです。
私はてっきり、演習ⅠとⅡがそうであったように、ポスターを作成して発表するのかと思っていたのですが、そうではありませんでした。
先回りして、パワーポイントで作っておいて、それをポスターに貼る形で・・・とも考えていたのですが、実際にはA4の用紙に手書きで研究計画書にまとめるという形でした。

人数も、これまでの演習ⅠやⅡが60~80名であったのに比べてごく少なく、合計30名弱でした。通信教育の学部のスクーリングなのに、この少人数でできるというのは、すばらしい環境ですね。史学の方はもっと少ないのかな。

その研究計画書作成準備のために、放課後は、私は個人的に、図書館で文献を探し、17時過ぎまで滞在し、バスで高の原駅に戻りました。
宿は、JR奈良駅近くのサンホテル奈良でした。外国人のお客さんが多かったです。まあまあですね。

2日目は、午前中は文化財保存科学研究の概説(2)、卒論作成のノウハウ、研究計画書の作成方法についてなど。
一応、その時のメモから抜き書きしておきましょう。卒論の書き方について。

「自分の考えを思い切って書く」
「常に自分の目で見る」
「現地・現物主義」

午後は、2班・約15人ずつに分かれて自己紹介と、各自研究計画書の作成。この研究計画書を使って最終日に発表します。N先生としては、「保存科学的研究法の応用を念頭に置いて」研究計画書を作成してもらいたかったようなのですが、必ずしもそうでなくても、自分の卒論の内容でもよいとのことでしたので、ほとんどの人が、卒論の内容でまとめていました。

私は、子持勾玉の出土地について、卒論のテーマにしましたので、この時も、それについて作成しました。後で、その子持勾玉の素材の石を分析して、その石の産地を特定するということを研究計画書に入れて発表すればよかったかなと後で思いました。N先生は、面白ければ本当に分析をやってくださりそうでしたし。
まあ、分析するための石を借りて来るのが大変かなとは思いましたけれども。

2日目の最後に、研究計画書を提出して帰りました。それをコピーしていただいて、全員の分を冊子にまとめて配ってくださるのです。すごいです。

2日目の夜は、もちいどの商店街の中にある、若草カレー本舗というお店に入ってみました。ネットで見たので。
ほうれんそうなどがとけこんでいる、若草カレーをいただきました。おいしかったです。そそくさと出て来てしまいましたが。

3日目は、班に分かれて研究発表と討議でした。
一人10分以内の時間が割り当てられていました。皆さん、研究計画書は力作で、それが1冊にまとめられているのですがすごいボリュームになりました。発表も、皆さん思いがあふれて、時間が足りなくなってしまう方がほとんどでした。私は、普段授業でしゃべり慣れていることもあり(そうでなければ教員としてまずい)、思いがあふれすぎるということもなく、逆に淡白に終わりすぎたかもしれません。初々しくて熱意が表れている方が好感は持てますよね。
一人一人にこれだけの時間を割いてやってくださる奈良大の通信教育・スクーリングは本当にすばらしいです。

そんなこんなで3日目も終わり、帰りに近鉄奈良でおみやげを買ったりしながら、東向き商店街の中にある森のカフェに入ってお茶を飲んだりして、夕食は、新幹線の車中で、柿の葉寿司のたなかというお店の、「五条楽」というなかなかカラフルでおいしいお弁当を食べました。柿の葉寿司以外も入っていて、楽しいお弁当です。
柿の葉寿司のお店もいくつかありますが、私はこの「たなか」のが好きです。

9月でまだ暑い、というのと、約1ヵ月後に迫った卒論草稿〆切に向けて、精神的にも余裕がなく、心身ともに疲れていたため、ほとんど観光的な写真は撮りませんでした。
でも、9月になると朝晩はさすがに真夏よりは涼しく感じられました。東京は熱帯夜が続く頃ですが。

というわけで、この演習Ⅲは、卒論の構想がある程度できてくる時期に受けるといいのかな、という内容でした。私も草稿作成が進みつつある時期でしたので、頭の整理になり、大学で文献を探すこともできたし、ちょうどいい時期でした。

これが、N先生お墨付きの、縄文か弥生時代あたりにつくられた土器の破片です。いつか授業でも披露しましょう。
N先生とお話しできただけでもよい記念です。


糸魚川大火から日本海側文化に思いをはせる

2016-12-25 02:36:55 | 日記
糸魚川の火災は衝撃的でした。確か2010年の夏に、途中下車の旅で糸魚川を訪れたことがあります。当初の予定にはなく、だんながフォッサマグナミュージアムに行ってみようと言い出したので、駅からタクシーに乗って行きました。

高校日本史的には、糸魚川(姫川流域)でひすいがとれるという話が教科書にも出てきますので、その時にミュージアムショップでひすいの小さな原石と、ひすいを加工したストラップの飾りを買ってきました。授業で回覧するのによく使っています。

フォッサマグナミュージアムの展示も興味深いもので、行ってよかったなと思ったのですが、その数年後、私は非常にひすいとその勾玉に興味を持つようになり、ヌナカワヒメとオオクニヌシの神話とか、さまざまな側面から探求したいと思うようになり、また糸魚川方面に行きたいと思っていました。

私の父親は新潟県の与板町(現在長岡市)出身で、夏休みにはよく新潟に行き、寺泊の海で泳いでいました。日本海側にはとても縁とか郷愁といったものを感じます。ちょっとうら寂しい感じが・・・

新潟は雪が多いので、消雪パイプといって、道路に水がちょろちょろ噴き出るようになっていて、それで雪を解かすのだと父親に子供の頃聞きました。だから、新潟の道路のアスファルトは水の鉄さびで赤くなっていたりすると知りました。また、「がんぎ」といって、東京ならアーケードをイメージすればいいと思いますが、雪よけのために商店街などの通路にひさしのようなものがずっとついているのが新潟の街並みの特徴です。これも父親から聞きました。父親の実家も雪がよく降るので、昔は冬は2階から出入りしていたのだとか。だから、新潟には平屋の家はないんだとか。これも父親から聞きました。

そんなふうに、私の住んでいた白河という所とは全く違って、とても特徴のある街並みをもつ新潟でありまして、雪がしんしんと降る幻想的な地として私は憧憬のような気持ちもあるのですが・・・しかし、父親は雪が嫌いで新潟から出て来たらしいので、雪国出身の人に聞くと、雪は嫌いという人が多いようで、住んでみないと本当のことはわからないものですね。

そして、6年前、そんな新潟の糸魚川にふらっと途中下車しての印象は、かなり古色蒼然とした、ひとけのない、さびしい街だなというものでした。いや、(私のイメージする)新潟らしいなという気がしました。あの街並みが、いっぺんに火に包まれて燃えてしまったのか・・・と、衝撃だったわけです。
ニュースの中で、かなり古い酒造店やお菓子屋さんが燃えてしまったとか、北前船の往来もあったということも紹介されたりして、古くから栄えていた地域であったということがうかがえます。

日本海側は、裏日本などと言われることもありますが、近代以前は、結構栄えていたし、深みのある文化を持っています。私は太平洋側に生まれ育ちましたが、父親が新潟ということで、日本海側への関心がかなり強いです。古代の日本を探求するにも、日本海側は重要な地域です。

フォッサマグナミュージアムの住所をさっき調べたら、「一ノ宮」(糸魚川市一ノ宮1313)というんですね・・・ヌナカワヒメの伝説とひすいについても探求したいし、子持勾玉の出土地も、一の宮と関係が深いし、気になりますね。

そんなわけで、いろいろと縁を感じる新潟・糸魚川、いつか再訪したいと思っています。心の中で強く応援しております。

探してみたら、フォッサマグナミュージアムの中で撮った写真が出てきました。ガラケーで撮ったもの。


直江津でも途中下車しました。当時大河ドラマ・直江兼続で盛り上がっていました。


このコシヒカリモナカは、どこの駅で撮ったのか、もう忘れてしまったのですが、妙高高原かな?
またぜひ新潟に!行きますよ。(秋にお葬式のため日帰りで行ったんですけどね・・・ゆっくり行きたいです)

今日は、昨年9月の奈良大スクーリング文化財学演習Ⅲのことを書く予定で、糸魚川の話は最初にちょっとだけのつもりだったのですが、異常に長くなってしまったので、スクーリングの話は次回とさせていただきます。