日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

「古墳時代の玉作りと神まつり」シンポジウム(2015.11.15)

2016-04-10 00:15:27 | 古墳時代
半年近く前のイベントの話題で恐縮です。昨年は卒論のために突っ走って来たために、それ以外のことを整理できないでいました。週1回でも過去を整理して、関係資料も片付けたいと思っています。

昨年か一昨年、古墳時代の玉作りについて、関係する14県が共同研究するというニュースを目にして、ちょうど私も玉について興味を持って勉強していたところだったので、あらー、そういう組織で研究してくれるなら、私がやろうとしていることも結論が出てしまうかもな・・・と危惧?していました。

そうしていたところ、その研究を行っていた古代歴史文化協議会と、読売新聞社が主催して、昨年11月15日に「古墳時代の玉作りと神まつり」と題した、第1回 古代歴史文化協議会講演会が開催されました。
応募したら当たったので、行って参りました(於:よみうり大手町ホール)。

14県とは、埼玉県、石川県、福井県、三重県、兵庫県、奈良県、和歌山県、 鳥取県、島根県、岡山県、広島県、福岡県、佐賀県、宮崎県だそうで、当日は、これらの県の観光案内パンフレットなどを各県の担当者が配布しているブースがありました。

玉作りといえば、上記の14県の中では、島根、奈良、埼玉の状況は私も少し勉強していました。一方で、「古墳時代」に限定しているからなのか、それにしても、ヒスイがとれる新潟県や富山県などがここに入っていないのは、どうなんだろうなあ、とちょっと思いました。新潟のヒスイ加工は、古墳時代よりずっと前の縄文時代の頃が中心であったからかもしれませんが、新潟県(広く言えば北陸地方)も入っていたらよかったのにな、と思いました。

さて、この講演会の趣旨について、奈良県のホームページから引用します。
http://www.pref.nara.jp/item/146924.htm

古代歴史文化協議会は、古代歴史文化の調査・研究・啓発に関心のある14県が参加し、共同して調査研究することにより、個々の地域的な研究だけでは見えにくかった日本の大きな古代史の流れを解明することを目的に活動しています。
現在は「古墳時代の玉類」をテーマに、各県が共同して調査研究を進めておりますが、今回、みなさまに古墳時代の「玉」を通して日本の古代史への興味を深めていただけるよう、下記のとおり講演会を開催いたします。
古墳時代の人々にとって貴重であった「玉」はどのようにつくられたのか、古墳時代のまつりの場で「玉」はどのように使われたのか、また「玉」をめぐる古墳時代の地域間の交流はいかなるものであったのかなど、幾世紀もの長い年月を経ても今も輝きを放つ「玉」の魅力を題材に、この研究分野の第一人者による基調講演と、共同調査研究の各県担当者によるパネルディスカッションを行います。


私自身は、朝鮮半島を含めたヒスイ勾玉の動きや、卒論にも取り上げた子持勾玉について興味を持って勉強していました。自分の興味と突き合わせて、今後も参考にし、追究する手がかりともなりそうな、印象に残ったポイントだけを挙げておきたいと思います。
時間が経ってしまったので、記憶が薄れてしまって、ポイントもボケていると思いますが、メモが紛れてどこかにいってしまうよりましかと思い・・・

<パネルディスカッションより>
○4世紀後半に出雲の花仙山で玉作りが盛んになる。しかし、花仙山周辺では玉は副葬されていない。大和に貢納して再分配されているのではないか。
○5世紀後半、出雲の工人が大和に出張していたのではないか。
○6世紀の玉作りについて
 6世紀前半は奈良県曽我遺跡(継体期)。
 6世紀後半(欽明朝)に曽我遺跡がなくなる。
 その後は出雲の花仙山に移り、王権の玉作りは、出雲が一手に引き受けることになる。
○弥生からの玉作りには、いくつか画期がある。政治経済と連動している。
○まだ研究は始まって1年目。科学的成果を出したのは初めて?あと2年。

パネルディスカッションは、埼玉、石川、奈良、鳥取、島根の代表者が出ていました。これだけいると、それぞれに割り当てると時間不足でしたね。

パンフレットにも興味深い情報はありましたが省略します。

私が読む論文ではよくお名前をお見かけする椙山林継氏(國學院大學名誉教授)をナマで拝顔でき、お話を聴けたのも、収穫でした。

私が興味を持つ子持勾玉についても、少し触れられましたが、当然ですが中心の話題ではありませんでした。
子持勾玉についていえば、その材料の科学分析をして、どこの石を使って作られたのかを調べられるものならば調べてほしいと思っています。個人ではできませんので。
産地は限られているのか、出土地の近くなのか、そうではないのか、など、知りたいです。

客観的に知らない人が読んで、書いてあることが理解できるものか、疑問ではありますが、このくらいにして、今日は終わりたいと思います。
研究による解明への前進は、一歩、一歩、ですね。たゆまず進まなければならないなと、自戒を込めて。

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七支刀はなぜ教科書の扱いが小さいのか・・・石上神宮訪問記 その1

2015-11-04 23:45:20 | 古墳時代
おとといの記事をアップしてから、アクセスが異常に増えて、驚いています。私、何かまずいことを書いたでしょうか?熱心な宗教関係の方々なのかなと思いますが、ご意見ご感想ももしよければお願いします。キリスト教には内村鑑三の無教会主義というのがあって、教会に行かなくても信仰は持てる、という考え方なのですが、私も天理教の教えには少し関心はあり、教会に行かなくても、どんな本を読むといいのでしょうかね。
それにしても、アクセスが多すぎて気持ち悪いです。私も、このブログをやめた方がいいかなと即断した時には、パッとブログを消滅させますのであしからず。

さて、同じく天理市内にある石上神宮訪問記です。今のPCで、「いそのかみ」とタイプして「石上」と出てこないのがくやしいですね。私は、アマテラスや伊勢神宮の祭祀が定まる以前からいた神様に関心が深いので、この石上神宮についても桜井市の大神神社や出雲の出雲大社などと並んでとても重要な神社として興味を持っていました。

石上神宮がどのような神社であるかは簡単には書き尽くせません。いつか、もう少しここを書き足しておきたいと思いますが、今日は、8月に見てきた印象などを中心に書きたいと思います。

とりあえず、石上神宮の由緒について、ホームページなどを参考にまとめますと、石上神宮は、「日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち」と記載されていて、物部氏と関わりの深い神社であるということがいえます。

『延喜式神名帳』にも載っている式内社です。『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけだそうで、創建が古い神社であることがうかがえます。

祭神についてですが、「韴霊(ふつのみたま)」という神剣(布都御魂剣と書かれたりします)があり、そこに宿っている神様を布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)といいます。
一応ホームページから「布都御魂大神」の解説をそのまま引用させていただきますと、
「韴霊(ふつのみたま)とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣です。
またその後では、神武天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。
神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。」

祭神は他にもいらっしゃって、
「布留御魂大神」(ふるのみたまのおおかみ)については、またホームページを引用させていただきますと、
「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。
天璽十種瑞宝とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟というお力が秘められておりました。
後に饒速日命の御子 宇摩志麻治命がこの神宝を用いられ、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈られました。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになります。その後宮中で韴霊(ふつのみたま)と共にお祀りされていましたが、崇神天皇7年に韴霊と共に現地、石上布留高庭に遷されました。」

「布都斯魂大神」(ふつしみたまのおおかみ)は、これもホームページによると、記紀神話に見える、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するのに用いた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿る神様とのことです。

「当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。」(HPより)

これを読むだけではわかりにくいですが、明治時代に、神宝が埋められているという言い伝えのとおりに、禁足地を掘ってみたら、本当に出てきたというのです。

石上神宮には、有名な国宝の「七支刀」があります。これについても語れば長いし、急いでいて引用元が正確に示せないので、概略だけにします。
一応このブログは「日本史学習の拾遺」ですので日本史学習とからめて書きますと、手元の『日本史B用語集』(山川出版社)には、「369年百済王が倭王のためにつくったといわれる61字の銘文は最古の金石文。」とあります。「最古」とあるけれども山川の教科書『詳説日本史B』では、本文にはこの七支刀は登場せず、巻頭のカラーの口絵に出てくるだけです。

教科書的には、5世紀頃に漢字使用が始まった例として、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣や江田船山古墳の鉄刀に「ワカタケル大王」の文字が見えるという話題が出てきて、試験にもよく出ます。しかし、石上神宮の七支刀は、教科書にも説明が出て来ないので、授業で私も触れて来ませんでした。時代が4世紀と古いのと、日本でつくられたのではなく百済でつくられたという点で稲荷山の鉄剣などとは性格が異なりますから教科書の流れの中では仕方ないのかもしれませんが。

しかし、高校日本史的には「謎の4世紀」といわれることの多い時代の、希少な文化財であるこの七支刀が教科書などで扱いが小さいのは、以前から納得が行っていませんでした。そこに記されている銘文は今回は引用しませんが、そこに書いてあることを認めていないのだろうかと勘繰ったり、物部系の神社の神宝だからとりあげないのか(?)と思ったりしてきました。ふと思ったのは、『日本書紀』に「七枝刀」を百済の使者が持ってきたという記事があるのですが、それは神功皇后の時代(神功52年)で、神功皇后の時代の事蹟については、韓国等との関係もあるし、事実かどうかも難しいので、教科書では書きにくいのかなと思いました。
このあたりの時代は歯にものがはさまったような記述が見受けられます。加耶諸国と「密接な関係」『詳説日本史B 』(p.26)というのも・・・

ちなみに、七支刀の記述のある『日本書紀』神功52年は、いろいろ調整すると372年に該当すると一般に解釈されており、そうであれば、369年に百済王の太子が製作させた七支刀が3年後に百済の使節によって日本にもたらされたということになります。

こういう話は、教科書にはありません。高句麗好太王碑文は391年の出来事を記しているということは教科書に出てきますけれども。
まだ教科書に書けるほど、外交関係などが学術的にも定まっていないということなのでしょうか。

受験勉強の知識の中では取り上げにくいけれども、授業ではもっと取り上げるようにしましょうかね。私も今の学校では日本史Aしかなく、古代の授業はやっていないので、その時が来たら・・・ですね

また長くなってしまいました。8月10日当日のレポートに戻らなければ・・・そういうわけで、前回の続きですが、天理教の本部を後にして、さらに東の山の方へ向かって自転車を走らせていきました。途中、どこから曲がったらいいのか、表示がわかりにくくてちょっとだけ迷いました。ここに来る観光客って少ないのかなあ?と思うくらいのわかりにくさでした。

猛暑の平日だったせいもあるのか、観光客はまばらで、いたとしても私のように自転車で来るのではなくて、自動車の人がちょっといたくらい。かなり急な坂道を登ります。とても静かで、のどかで、観光地として俗化していない所はいいなあと思いました。

今日はもうすでに長くなってしまったので、石上神宮の入口到達の写真までにとどめておきましょう。


古社の趣が感じられる石柱。


「布都御魂大神」の文字が見える鳥居。

ニワトリさんはまだです。また次回。

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起源は古い・・・武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その2

2015-06-27 23:58:02 | 古墳時代
小野神社の近くに、落川遺跡という4世紀末から14世紀にかけての遺跡(集落跡)があり、そこも見る予定でした。小野神社に先に行くつもりだったのですが、道をちょっと間違えて、多摩川の土手で少し放浪したりしながら、先に落川遺跡を見ることにしました。



落川遺跡は、都営アパート?に隣接した公園として整備されていて、子どもが二人ほど、サッカーをして遊んでいました。

ちなみにここは日野市。小野神社は多摩市。多摩川の向こうは府中市、という各市の境界の地にあります。





その平らな公園の地表に、ここにどういう住居があった、という小さな表示板が埋め込まれていました。また来る必要があるだろう、と考え、とりあえず写真だけ撮って、先を急ぐことにしました。このあたりで出たどんな考古遺物を調べたいのかは、やはり内緒にしておきましょう。

ここから300mくらいで、小野神社です。

南向きと西向きの入り口(鳥居)だったと思います。


西向きの方が、大きく立派な石柱に「武蔵一之宮 小野神社」の文字。



こちらが南向きの小さめの鳥居で、横の石柱には「延喜式内 小野神社」の文字。

どちらの鳥居にも菊の花びら16枚の紋が鳥居に入っていました。






西側が正面ぽいのですが、西側から入ると、境内は広くて奥行きがありました。がらんとした空間。


祭神は、ホームページによると、

•天ノ下春命
•瀬織津姫命

しか書いていないのですが、境内にある掲示板を見ると、他にもたくさん書いてあるんです。
上の二つの神様の次に、

伊弉冉(イザナミ)尊
素戔嗚(スサノオ)尊
大己貴(オオナムチ)大神  つまり オオクニヌシ
瓊々杵(ニニギ)尊
彦火火出見(ヒコホホデミ)尊
倉稲魂(ウカノミタマ)命  ・・・女神でありいわゆるお稲荷さんのようです。

これらの神様の名前が列挙されていました。
私としては、スサノオやオオナムチが入っているのが興味深いです。それ以前に、上にある天ノ下春命や瀬織津姫命も興味ありますけど・・・

ウィキペディアの丸写しで恐縮ですが、天ノ下春命について、
「ウワハル・シタハル(天表春命・天下春命)」とウィキペディアにはまとめて記述があり、

『先代旧事本紀』(「天神本紀」)によると、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神のうちの2柱。
天表春命(あめのうわはるのみこと)は信乃阿智祝部(しなののあちのほうりべ)等の先祖とされ、天下春命は天表春命の弟神と見られ、知々夫(ちちぶ)国造の先祖とされる。また大伴部氏の祖ともいわれる。

また、「天下春命は開墾の神として祀られる事が多い」とのこと。なるほど。

ここでもがらんとした空間で子どもが遊んでいましたが、拝殿前には参拝客はいませんでした。
建物に特徴はありませんでしたが、これだけの広々とした空間がとられているのは珍しいと思いました。恐らく、武蔵国一之宮とはいっても、あまり知られていないと思われるので参拝客が殺到するようには思えず、ちょっとさびしい感じもしました。

スポーティーな自転車に乗った二人組が、ツーリングの途中の経路として小野神社を目標としていたのか、「ここが一の宮なのか?」と拍子抜けしたようなニュアンスで話しながら外の道を走り抜けて行きました。そう感じるのも無理はないです。ちょっと残念ですけどね。

私は、奈良の飛鳥にもロマンを感じるように、ここにもロマンに似たような、さまざまな思いをかきたてられるような感覚を得ていました。それは、さる考古遺物が近くから出ていることもあって、例えば明治に造られた靖国神社などとは違って、ここはとてつもなく古くからの祭祀が行われていたということが考えられるからです。もちろん、多摩川の氾濫があったでしょうから、この神社の位置が昔からここだったというのではないかもしれませんが、このあたりであったでしょう。


境内にたたずんでいると、ねこさんが悠然と登場。
結構フレンドリーな雰囲気も醸していました。


私の目の前でユーモラスに爪とぎを始めたり、なでても拒むこともなく、のんびりしていました。
よい場所なんでしょうね。






神社の横に水路がありました。子供が水路で魚とりじゃないでしょうけど、遊んでたような・・・冬でしたが、他の場所との勘違いだったか、いずれにせよ、確かに遊んでいる場所がありました。
私が自分の調べ物で訪れる場所には近くに川やこうした水路がある所が多いです。

私なりに、収穫を感じながら帰途に就きました。
延喜式内社であることから平安時代にあったことは確実ですが、神社の名前がどうであったかとかそういうことは別にして、このあたりで4~6世紀頃から祭祀が行われていたことも考えられるのではないかという考えをあたため中です。
そういうわけで、このブログはタグが一つしかつけられないので、前の記事は「平安時代」のタグですが、自分の覚え用としても、「古墳時代」のタグとして整理しておきます。
それでは今日はこのへんで。

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なぜ埼玉・反町遺跡で水晶勾玉が製作されたのか?(ほるたま考古学セミナーにて その3)

2015-05-02 20:12:57 | 古墳時代
2月1日のほるたま考古学セミナーの報告の中から、今日紹介するのは、「玉つくり」です。以下、レジュメや講演の内容から「私にとって」必要な情報をまとめます。

埼玉・反町遺跡は、日本で一番古い水晶勾玉製作地(古墳時代としては?かな やや説明が不足していると思いました)なのだそうです。古墳時代前期のことです。
住居跡で水晶製の遺物が大量に発見されたのですが、水晶製勾玉の完成品は発見されませんでした。完成品は使用する者の手に渡ったからです。



使用された水晶は、「草入り水晶」という特徴的な夾雑物が入っていて、原産地は山梨県の竹森である可能性が高いとのことです。良質な水晶の原産地は埼玉県内から見つかっていないので、そのことからも原産地は山梨県であると考えられるとのことです。



反町遺跡と同時期以前の水晶を加工した遺跡は、水晶が産出する丹後半島に近い弥生時代の京都府奈具岡遺跡があり、反町遺跡ともう一つの水晶勾玉製作跡のある前原遺跡に来た製作者は、その周辺から来た可能性が高いとのこと。

残された遺物の観察によって、製作者はごく短期間の滞在で、ある程度完成品ができあがった時点で、未製品をすべて残して退去していたことがわかるようです。

要するに、まとめると、玉つくり工人には自由はなく、ヤマト政権が山梨から材料を支給し、連れてきた玉つくり工人にその材料で勾玉を作らせ、一定の期間の後に退去させたということのようです。

玉つくり工人は出雲と北陸に二極化していたと考えられます。ですから、前回、土器の出土状況から、反町遺跡には山陰や北陸からも人が来ていたという話題を書きましたが、その土器を持って来た人達の中に、玉つくり工人がいたのかもしれません。



この玉つくり遺跡から類推できるヤマト政権の国家戦略について、上野氏の発表・レジュメにまとめられていましたが、何となく私は腑に落ちない感じがしましたので、ここには特に紹介しません。

どうして反町遺跡で水晶勾玉が製作されたのか、については、みんなそれぞれで考えてみましょう。反町遺跡の性格や立地についてもっと知る必要があるでしょうか。



ホールの外には、反町遺跡で発掘された水晶の他、土器などが展示してありました。

現在の私自身の興味は、「水晶の勾玉」にあるわけではないのですが、玉つくり全般と、現在の埼玉・群馬県のあたりが古墳時代にはヤマト政権のもとでどのような位置づけにあったのかについては興味があります。
群馬県も埼玉県も、特に群馬県には、結構大きい古墳がたくさんあるんですよね。それがどういう意味なのかは、私も深く考えたり調べたりしてこなかったので、まだまだこれからだなという感じです。

水晶の玉といえば、出雲も有名です。正倉院文書の中に、『出雲国計会帳』という、奈良の政府に提出された文書が残っていて、そこに、出雲から 「進上水精玉壹佰伍拾顆事」、つまり、水晶の玉を150個進上したことなどが記されています。天平5年(733年)ですので奈良時代のことです。
古墳はもう造られなくなり、勾玉の副葬品がいらなくなった時代にも、出雲では水晶の玉が作られ続けていたのです。

私はまだ出雲の玉造温泉にも行ったことがなく、その周辺の玉造り遺跡にも行ったことがないので、早めに行っておきたいと思っています。

ほるたま考古学セミナーからの記事は以上でおしまいとします。

では、今日はこのへんで。よいゴールデンウィークを。私は今日は昼間外出、夜はこれから大学のレポート書きかな、というところです。
できれば、ここにアップが遅れているいくつかの記事をゴールデンウィーク中に書き上げたいです。

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山陰や北陸の人も来ていた埼玉・反町遺跡(ほるたま考古学セミナーにて その2)

2015-04-27 00:06:14 | 古墳時代
ほるたま考古学セミナーの、大塚初重先生の特別講演以外の、埼玉埋蔵文化財調査事業団職員の研究報告から、私の中にひっかかってきたものについていくつか紹介します。

このセミナーは、平成17~20年に発掘調査した埼玉県東松山市反町(そりまち)遺跡についての研究報告でした。この遺跡は、古墳時代前期の集落遺跡として県内最大級であり、全国的にも最古といえる水晶を用いた玉つくり工房などが発見されているとのことです。私はこの玉の話が特に聞きたかったのです。

いかんせん、時間が経過してしまって、詳細は忘れかけています。自分の覚え用として、必要と思ったものだけ記録にしておきたいと思います。

まず、反町遺跡はどのへんかという地図をパンフレットから。古墳も多いです。



反町遺跡からは、外来系土器、すなわち、東海、北陸、畿内、中国地方などに系譜が求められる土器が出土しているそうです。どこから来た土器なのかは、形状などに特徴があることからわかります。
下の図が外来系土器の出土遺跡分布図です。



東海西部・東部、畿内、山陰、北陸と分けてみると、すべての地域の土器が出土しているのは反町遺跡だけで、埼玉県内では他にないとのことです。

私は個人的に出雲が好きですから「山陰」という文字には反応しますし、勾玉にも興味があって、ヌナカワヒメ伝説とともにひすいにも興味があり、私も父親が新潟出身なので「山陰」とあわせて「北陸」にも反応します。
「北陸系土器が多いのは、玉つくり工人が来たのでは」とパンフレットメモが残っていますが、これは私の考えというのではなく、発表者がそう言ったのだろうと思うのですが、もう記憶が定かでありません。いずれにせよ山陰・北陸から反町遺跡に人が来ていたということは、それは玉つくりの工人であった可能性は大いにあるでしょう。こうした形跡があるというのは私には興味深く感じました。

「反町遺跡は都幾川(ときがわ)による広範な交流関係をもった地域の核となる遺跡なのです」とパンフレットの文。そうですね、私もいくつかの古墳時代の遺跡を見ましたが、川が近くにあるのが印象に残ったものもありました。古墳時代において、川は重要な交通手段であり、生活に欠かせないものだったのでしょう。

「計画的な大集落である反町遺跡は、玉つくり、土器、木製品の政策において地域の中核となる集落です。合わせて、外来系土器からは多くの地域の人々の往来が考えられます。」
反町遺跡はこの地域の最大の集落遺跡であり、「古墳造営に必要な土木技術、各種工業生産の中心です。河川を通して、頻々と他地域とも交流が行われていました。遺跡周辺に造られた埼玉県を代表する出現期の古墳群を支えた集落は、反町遺跡であったと考えられます。」
(以上の「」部分は、パンフレットのレジュメ 福田聖氏「集落と土器」より)

勾玉の話も一緒にまとめるつもりだったのですが、疲れたので今日はここで切ります。

また1週間がんばっていきましょう。もう少しで大型連休ですね!

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