半年以上前のことで恐縮ですが、2月の大学スクーリングで京都に1泊した時に見たもののうち、豊臣秀吉にまつわる話題です。
毎年、授業で話をすると、必ず生徒がしーんと静まり返ってしまうエピソードがあります。
それは、豊臣秀吉の「朝鮮侵略」にからむ「耳塚」の話です。
秀吉が文禄・慶長の役(1592・97)によって朝鮮を侵略した際、日本の武士は、慣例として、自分が敵を殺した証拠として首を切って持ち帰ってきますが、海の向こうの朝鮮から持って来るには、首は大きく重いので、代わりに耳を切って持って来ることにしたのですが、耳は二つで一組なので、何人分か証拠になりにくいということで、最終的に鼻を削いで塩漬けにして持って来ることにしたというのです。
そのため、朝鮮には耳や鼻のない人が大量に発生したということです。
朝鮮の人々にそのような残虐なことをしたので、韓国では豊臣秀吉に対する怨恨は深く、2010年に韓国併合100年を振り返る番組がNHKで放映されたとき、韓国の人々が知っている日本人は?という質問の答えは、1位が浅田真央、2位と3位が伊藤博文と豊臣秀吉のそれぞれどちらかでした。
1位は当時フィギュアスケートで金メダルを争うキム・ヨナのライバルであった浅田真央であるのはわかりますが、2位や3位がどうしてそうなるのか、日本人からすると意外に思われるのではないでしょうか。
伊藤博文は、1905年に置かれた統監府の初代統監になりましたが、1909年に、安重根に暗殺されています。安重根は韓国人にとってはヒーローです。
豊臣秀吉の朝鮮侵略は、現代からは遠い時代のことではありますが、知っている日本人の上位に来るということは、その所業が、韓国の人々の記憶に強烈に刻まれ続けてきているということです。
秀吉の朝鮮侵略=文禄・慶長の役で持ち帰って来た朝鮮の人々の耳・鼻を埋めて供養したのが「耳塚」です。これは、秀吉ゆかりの豊国(とよくに)神社・方広寺の近くにあります。方広寺にあると解説している図説などもあります。
2月のスクーリングの際に京都に前泊できることになり、少し時間的余裕ができたので、この耳塚に行ってみたい、しかも方広寺といえば、豊臣家が滅ぼされた大坂の役のきっかけとなった鐘銘も見たいし・・・ということで、行ってみたわけです。
京都・京阪本線七条駅から徒歩6分ほどで三十三間堂があります。その三十三間堂を右手に見ながら道路(七条通り)をはさんだ左手向かい側にある京都国立博物館の敷地の角を左に曲がり、まっすぐ行くと、豊国神社・方広寺・そして耳塚がある一帯に着きます。
耳塚前の案内板から地図をトリミングさせていただきました。
この京都国立博物館を右手に見ながらまっすぐ行くと、豊国神社があります。
豊国神社の鳥居。
豐国神社は、秀吉を祀る神社です。朝鮮侵略で兵たちが残虐なことをしたという歴史はありつつも、織田信長の草履取りから始まって、知恵を働かせて数々の戦いに勝利し、最終的に天下統一を果たす秀吉は、私自身、昔から歴史上好きな人物の一人です。先祖が、関ヶ原の戦いに出ており、西軍・石田三成=豊臣方であったということも、潜在的にあるのかもしれません。
ここの唐門(国宝)は、元は伏見城の遺構であり、二条城から南禅寺の金地院を経て、こちらに移築されたと説明板に書いてありました。
意外と長くなりそうで、夜も更けてまいりましたので、今日はここまでにさせていただきます。
毎年、授業で話をすると、必ず生徒がしーんと静まり返ってしまうエピソードがあります。
それは、豊臣秀吉の「朝鮮侵略」にからむ「耳塚」の話です。
秀吉が文禄・慶長の役(1592・97)によって朝鮮を侵略した際、日本の武士は、慣例として、自分が敵を殺した証拠として首を切って持ち帰ってきますが、海の向こうの朝鮮から持って来るには、首は大きく重いので、代わりに耳を切って持って来ることにしたのですが、耳は二つで一組なので、何人分か証拠になりにくいということで、最終的に鼻を削いで塩漬けにして持って来ることにしたというのです。
そのため、朝鮮には耳や鼻のない人が大量に発生したということです。
朝鮮の人々にそのような残虐なことをしたので、韓国では豊臣秀吉に対する怨恨は深く、2010年に韓国併合100年を振り返る番組がNHKで放映されたとき、韓国の人々が知っている日本人は?という質問の答えは、1位が浅田真央、2位と3位が伊藤博文と豊臣秀吉のそれぞれどちらかでした。
1位は当時フィギュアスケートで金メダルを争うキム・ヨナのライバルであった浅田真央であるのはわかりますが、2位や3位がどうしてそうなるのか、日本人からすると意外に思われるのではないでしょうか。
伊藤博文は、1905年に置かれた統監府の初代統監になりましたが、1909年に、安重根に暗殺されています。安重根は韓国人にとってはヒーローです。
豊臣秀吉の朝鮮侵略は、現代からは遠い時代のことではありますが、知っている日本人の上位に来るということは、その所業が、韓国の人々の記憶に強烈に刻まれ続けてきているということです。
秀吉の朝鮮侵略=文禄・慶長の役で持ち帰って来た朝鮮の人々の耳・鼻を埋めて供養したのが「耳塚」です。これは、秀吉ゆかりの豊国(とよくに)神社・方広寺の近くにあります。方広寺にあると解説している図説などもあります。
2月のスクーリングの際に京都に前泊できることになり、少し時間的余裕ができたので、この耳塚に行ってみたい、しかも方広寺といえば、豊臣家が滅ぼされた大坂の役のきっかけとなった鐘銘も見たいし・・・ということで、行ってみたわけです。
京都・京阪本線七条駅から徒歩6分ほどで三十三間堂があります。その三十三間堂を右手に見ながら道路(七条通り)をはさんだ左手向かい側にある京都国立博物館の敷地の角を左に曲がり、まっすぐ行くと、豊国神社・方広寺・そして耳塚がある一帯に着きます。
耳塚前の案内板から地図をトリミングさせていただきました。
この京都国立博物館を右手に見ながらまっすぐ行くと、豊国神社があります。
豊国神社の鳥居。
豐国神社は、秀吉を祀る神社です。朝鮮侵略で兵たちが残虐なことをしたという歴史はありつつも、織田信長の草履取りから始まって、知恵を働かせて数々の戦いに勝利し、最終的に天下統一を果たす秀吉は、私自身、昔から歴史上好きな人物の一人です。先祖が、関ヶ原の戦いに出ており、西軍・石田三成=豊臣方であったということも、潜在的にあるのかもしれません。
ここの唐門(国宝)は、元は伏見城の遺構であり、二条城から南禅寺の金地院を経て、こちらに移築されたと説明板に書いてありました。
意外と長くなりそうで、夜も更けてまいりましたので、今日はここまでにさせていただきます。
奈良大通信に入学すべきかどうか実際に入学されている方のブログを拝見してツツコワケさんのところに辿り着きました。宜しくお願い致します。
はじめてコメントするのに失礼かなとも思いましたが…
毎年授業で「耳塚」の話をされるということですが、学生に一方的に表面的な事実を伝えるのもどうなのかなと感じました。日本人は素直で自虐的ですから秀吉は侵略した。耳をそいで持ち帰った!と聞けばしーんと静まり返ってしまいますね。
当時の善悪、価値観や感性は現代の私達と違うのではないかしら?
「おあん物語」にとった敵の首を女子供が天守に集めて札をつけた。お歯黒首でないものにお歯黒をつけろと言われて、その中で寝たけど怖くなかったと書かれています。
もし現在道端に指や足や首など落ちていたら国中大騒動でしょう。戦国時代はそうではなかったのでは?
また朝鮮の刑罰は(近現代も)どうだったのでしょうか。日本の耳そぎは残酷なものなのでしょうか?
東北に単身赴任していた友人から聞いたのですが♪泣けば山から もこ 来るね♪というフレーズのある子守歌があるそうです。鎌倉時代の元寇のことですね。現代にも伝わっているなんて本当にびっくりしました。対馬で行われた大虐殺は全く韓国では教えられていません。この日本でも元寇という言葉と年号しか教えていないのではないでしょうか?
また中国残留孤児は多くいて帰国できた方もいましたが朝鮮残留孤児はなぜ一人もいないのでしょうか。シベリアや中国に日本人や旧日本軍の墓があっても何故韓国にはないのでしょうか。耳塚として何度か供養されているだけましではないでしょうか。供養されるのが日韓併合前なので色々においますが。
ツツコワケさんは太平洋戦争で米兵が日本兵の遺体に対して行った様々な侮辱をご存知ですか。戦国時代の軍功のためではなく70数年前の出来事ですよ。
秀吉の朝鮮侵略?はそこだけクローズアップされてスペインの植民地政策や東アジア情勢がほとんど学校教育ではスルーされている感じがします。日本の防衛のための戦略であることが日清日露戦争のときと状況が同じであることが抜け落ちていて、ただの悪逆非道の耄碌爺になり果てていることが残念です。
韓国人の反日教育で培われる日本人を残酷だと憎む気持ちと東北の子守歌で歌い継がれている戦争の記憶は全く別物だと思います。
何故秀吉が朝鮮を通り道にして明に攻め入ろうとしたのかヨーロッパの情勢を踏まえた研究が最近増えてきましたので良かったら学生にそのことも伝えて秀吉の愛国心も教えてあげてください。
書いていただいた内容は、知っているものもあり、知らないものもありました。
ちょうどコメントをつけてくださったこの記事の中 にも書いてありますように、私は歴史上の人物の中でも秀吉が好きなのです。
耳や鼻をそいだのは秀吉自らではないし、秀吉が悪いということを強調しているのではなく、
「朝鮮(韓国)の人々が そのことをずっと忘れずに いるということを日本人も知った上で、韓国の人々と付き合う必要がありますね」
という点を話のまとめに毎回言っております。
また、この話をするのは福沢諭吉の「脱亜論」の時で、いくら朝鮮の人々に親切にしてあげても、日本人に対する見方が変わらなくて福沢諭吉もさじを投げた、という話題の時です。
耳をそぎ、鼻をそぎ、の話の時に、シーンとなってしまうことについては、私が自分の印象を付け加えてしまったのが悪かったかもしれません。
生徒は、例えば、生徒と会食中に、学校に幽霊が出る、と先輩の先生から聞いた、などと小さい声で言っただけで、どーっと周りに群がって きて興味津々だったことがありました。恐い話には食いつきがいいのかもしれません。
生徒は、授業時間の間、ずっと集中できるわけではなく、ざわざわしている時も多いのです。そういう中で、この話の時になると、ピタッと静まるというのは、耳や鼻がないという、グロテスクな話題であるからという要素もあるかもしれません。
秀吉については、基本的に好きですから、秀吉のよい面も 紹介しています。
スペインの植民地政策についてガーベラさんも触れていらっしゃいましたが、教科書ではサン・フェリペ号事件の解説でほんの少しだけ書かれています。おそらく 高校日本史の先生の多くは、そのあたりは説明を付け加えていると思われます。
韓国の教科書を日本語に訳したものも読んだことがあり、その書き方、考え方にがっかりしたこともあります。
韓国の人々の、秀吉に対する認識なども、正しくないものだとしても、それをこちらからただすのは、かなり難しいことです。
正しいかどうかはともかく、あちらではそのように考えているということだけでも知っておいた方がよいと思います。
お互いに、共通の歴史認識を 持つことはかなり難しいことだと思いますが、時間がかかっても、韓国の人々と親しい友人となって、こちらの思うところを少しずつでも話してみたいと 夢想したりもしています。そのため、韓国語を少し勉強していたときもありました。
長くなってしまいますのでこのあたりでとめます。
ガーベラさんのコメントはごもっともと思うところが多く、私も秀吉を耄碌じじいのようにドラマなどで描かれているのを見るのは悔しいと思っているほうです。
好きな人物でもいいところばかりではありえません。バランスよく、限られた時間の中で、最善の授業をしていきたいと改めて思いました。ありがとうございました。
10月30日(日)、家を早朝6時出発。西の高野山と呼ばれる、浜田市三隅町・大麻(たいま)山に8時過ぎ(山頂へ)到着。展望台に登る。海岸線は萩沖から大田沖まで見渡せるが、三隅城(南)側は樹木の背が高過ぎて見えない。頂上を1時間駈けずり回るも映写ポイントなし。室谷の大麻口へ下りるも、こんどは「水来(みずき)山に視開を阻まれる・・・。室町時代始め石見国の所領を得た大内義弘が高城と出城(砦)の狼煙リレーを見て「三角」を「三隅」と改めた。「隅」の字を大陸から輸入した。南朝、(太平記・三角入道こと)兼連の生き様も「隅」の字。「隅々まで・・・」のいつ話も生んだ。
日本書紀にも「隅」の字が廿八巻(段)に出現する。これは、義弘が室町時代始め京都の天皇家所蔵の書に筆を加えたことになる。廿八巻から最後まで偽書。熊襲や隼人は嘘。
浜田市三隅町西河内 字「八曾(やそ)」地名考
古代三社と曾(祖)との因果関係。
*鬼刀禰族(おおとねぞく):たたらで鎌や斧、剣をつくる。
*春日和邇族(かすがわにぞく):大和の春日に住んでいた渡来人。古代社 金(刀)比羅・こん(と)ぴら社、インドの神「大黒天」や「ワニ」信仰。
*春日小野族(かすがおのぞく):大和の春日より入植。
*牟婁物部族(むろもののべぞく):元は紀伊半島から土佐・室戸岬~阿波・吉野川域~大三島~大麻山(室谷)に入植。
*阿波忌部族(あわいんべぞく):物部族と共に入植。
*スサノヲ:古代社。彌榮(いやさかえ)社。
*高おかみ:字「谷」に鎮座の古代社。貴布禰(きぶね)社。
*柿本人麻呂:綾部氏と共に7歳で大和の春日より。
九州の「王」=「鬼」おお。文字の変化。鬼→大(おお)
日本書紀の「大王」の読みは「おお」
今、やっていること、「古事類苑 神祇部一~五」をデジタル化している。
参考・引用文献。
浜田市立中央図書館蔵書の「井野村の歴史」。
浜田市立三隅図書館蔵書の「三隅町誌」P1158~1163.
柿本人麻呂神社・戸田の古文書
島根の方の話題ですね。ちょっと難しそうですが。
古事類苑のデジタル化をされているのですか?すごいですね。大学時代に参照しましたが、それ以来見ていないです。新撰姓氏録なども学生時代以来ご無沙汰で、ああいったものを自分で所蔵できたら、本当に学者らしいのだろうなと思うのですが。どこかでデジタル化されているのでしょうか?デジタル化されている文献をいろいろ知りたいです。
出勤途上の車中にて