くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

どちらも大人げない: 橋下&NHK

2008年02月12日 | Weblog
言った言わぬの平行線。名探偵コナン流にいえば「真実は一つ」のはずだが、今のところ双方の主張がまったくかみ合わず、真相は知る由もなし。

橋下府知事も過密スケジュールの文字通りの東奔西走でお疲れだったのだろうが、
府知事ともあろう人が、みっともない。若さゆえの過ちといういいわけが通るような年齢、立場ではない。逐一において府知事として、男として、人としての器の軽重が問われることを忘れてはなるまい。加えて、7人の子の親として、子供に見せたくはないむざまである。子供は思慮せずとも作れるが、一旦親になったら、よくよく思慮せねば子供に背中を見せられぬ羽目になる。

本当にスケジュール調整行き違いだったとしたら、府知事のスタッフは何していたんだ?とはいえ、府知事本人がスケジュール調整するわけでもなかろうに。まあ、立場上、「とんだ無能なスタッフを雇っちまったもんだ」とはたとえ胸のうちで思っても口には出せない。それこそ、人の上に立つ者としての器量が問われかねない。

いずれにせよ、橋下府知事、のっけから味噌を付けた。

NHKも言うに事欠いてというやつだ。放送中にのっけから「遅刻ですよ」とやらかせば、それまでの経緯を知らない視聴者は、ことに真相はさておき、府知事が「遅刻した」と思わないわけはないし、そこから批判が出たとしても不思議ではなるまい。大げさかもしれないが、府知事の支持率にも影響を及ぼしかねない。そんなことにも思い至らなかったのだろうか。それでもって、「場をなごませようと思った」との釈明。司会の女子アナのとっさの個人的な判断だったのかもしれないが、その判断は間違いだった。知恵も足りなかった。結果論かもしれないが、結果を問われるのが、大人の世界というものだ。「なごませようと思った」はいいが、結果としてそうはならなかった。

「公器」を手中にするNHK。その影響力の大きさ、怖さを自覚していてしかるべきだ。メディアの報道の仕方ひとつで、人一人の人生なぞ簡単に左右できる。それがたとえ権力者、有名人であろうともだ。その自覚がないからあのような言葉を平気で口にすることができるのではないのか。

どっちもどっちで、大人げないというか、未熟だ。その未熟者が、かたや政治権力を握り、かたや情報伝達手段という武器をもって絶大な社会的な影響力を持つ。これは実におそろしいことである。キチガイに核ボタン、刃物とまでは言うまいが、子供にハンドルを握らせるよりも場合によっては被害は甚大になる可能性はある。
実に怖い世の中である。

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きちがいに刃物、一色紗英にハンドル

2008年02月11日 | Weblog
違反多すぎ。

ハンドル持つと人格変わるタイプなんだろうか。


どうあれ、免許取り上げた方がいいね、こういう類からは。そのうち、とんでもないことしでかすよ。そうなったら、旦那や、子供、巻き込まれた他人様がお気の毒だ。
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恥知らずな女、 一色紗英

2008年02月09日 | Weblog
人間失格とまでは言うまいが、こういう類の人間が世の中でハンドルを握り、それどころか子供の母親とは・・・。

運転中の携帯使用でひっかかり、その言い訳が「かっかってきたから出ただけで自分は悪くない」とか。

かかってきても、運転中なら出るなよ! この一言に尽きるのではないだろうか?どう屁理屈かましても、あなたは悪いよ、一色さん!

三十路にもなって恥ずかしくないかい?

それ以上に、母親として恥ずかしくないかい?

よもや芸能界長いから、世間一般の常識に疎いんですなんて言い訳はしないでしょいうねえ? そんな言い訳がまかり通るのなら、芸人はすべて隔離しておくしかない。

あなたみたいな母親がいるから、女性がどこぞのおまぬけな政治家(せいじや)に「産む機械」呼ばわりされるんだよ。

女性の面汚し、人間の面汚し、日本人の面汚し、そして母親の面汚し、とはあなたのことを言う。

恥を知れ!

そんな了見じゃあ、子供がかわいそうだよ。そんな親に育てられてロクな子に育つわけがない。子供は親を選べないんだよ。それだけ、親の責任は重いんだよ、子供にだけではなく世間様に対しても。

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スーパーチュズデー雑感

2008年02月07日 | Weblog
その一、ハッカビー善戦には驚いた。
これは、特に南部を中心としたマケインへの共和党支持者のうちの所謂保守派と呼ばれる人の反感の強さのあらわれとみるべきなのであろう。マケインが党の指名を受けることはほぼ間違いなかろうが、本選に向けて党内を固めるためには保守派への歩みよりが否応なく求められよう。もっとも、対する民主党の候補はいずれにせよ「女」と「黒人」だ。保守層も本選となれば否応なくマケインを支持せざるを得ないとの見方も可能かもしれないが、選挙運動中に果たして彼らの支援を十分に得られるだろうかという不安は残る。同じく保守派の受けが良くなかったブッシュパパは保守派の「ホープ」と当時は目されていたダン・クエールを副大統領候補にしたが、マケインもそうするしかあるまい。保守派を大統領候補に据えるだけでは不十分で、政策的にも保守派に歩み寄らざるをえまい。
 だが、マケインが「保守」の色を強めれば、有権者の現今の米国を取り巻く状況認識の下では、「変化」を全面に出してくる民主党の候補に対して苦戦を強いられることは必至であろう。元々マケインには「華」がない。芸能人と政治家にはそれが肝心だ。一方、ヒラリーにしろ、オバマにしろ、それがある。マケインのホワイトハウスへの道は、今のところの見通しではかなり厳しいと見るべきであろう。ただ、ヒラリーか、オバマかと言えば、組み安いのはオバマに違いないが。

その二、オバマにとっての最大障壁はやはりヒスパニック系有権者。
カリフォルニア州での敗北の要因の一つは、オバマがヒスパニック系のクリントン支持の流れを変えることができなかったためとの見方は正しいのだろう。ヒスパニックは黒人が「嫌い」だ。彼らの利害は対立している。中南米に行けばわかるが、長い混血の歴史を持つ地域であるにもかかわらず、人種意識は存在する。そうした連中が米国にきていきなり意識変革するとは思えない。
 このまま、オバマはヒスパニック対策の決定打を打てないと私は見る。そしてテキサス等のヒスパニックの多い大州をヒラリーにもっていかれるだろう。オバマとしては、オハイオ等のヒスパニックの少ないところで勝利を収めたいところだが、今のところ同州はヒラリー有利と聞く。黒人の人口が全米の割合とほぼ同じ。意外にオハイオでも勝敗が、両者の勝敗を決めるかもしれない・・・。

その三、人種の壁は低くなったのか。私の答えは「Yes」だ。相対的に人種の壁は低くなっている。中西部の白人の少ない州でのオバマの勝利はそれを如実に物語っている。しかし、である。「低く」なったのであって、「消えた」わけではない。ヒラリーが勝利した南部の州はオバマが勝利した同地域の州に比べ、黒人比率の低い州であった。南部におけるハッカビーの善戦と合わせた場合、南部の人種問題に対する保守性はいまだ相対的に高いとみるべきであろう。昨日も述べたが、かりにオバマが民主の大統領候補になり本選に挑んだ場合、言いかえれば黒人がホワイトハウスに史上これまでになく近づいた時、いまだ存在する人種意識がどう作用するか、見物である。
 加えて、人種問題とは白人対黒人の図式のみで存在するわけではない。上記のヒスパニックとの件も、単に彼らと黒人の利害対立だけで理解することに私はくみしない。アジア系もまたオバマかヒラリーかと言えば、後者を選ぶであろう。そしてそれもまた利害的なものだけではなく、人種意識というものも同時に背景にとして存在するとみるべきであろう。
 人種問題という点から考えた場合、民主党としてはオバマよりもヒラリーで戦った方が有利ではないのか。逆に共和党陣営、マケイン陣営としてみれば、オバマの方が組しやすい。オバマが相手なら、ヒスパニックやアジア系の民主党支持を切り崩すことに可能性が見えてくるし、白人の潜在意識に期待することもできる。これがヒラリーとなるとそうはいかない。逆に本来なら共和党に来るべき票も向こうに流れる可能性すらあるのだ。

まだまだ予断は許さない。目前まで何が起こるかわからない。4年前の選挙はその点予測が楽だった。初めから「ブッシュ再選」間違いないとにらんだ通りだった。
FOX等を除くマスメディアの露骨なアンチ・ブッシュぶりと、繰り返された「接戦」報道にも関わらず、「ブッシュ再選」を確信していた。結果は「接戦」ではなくブッシュが勝利した。支持率調査だけではなく、当時米国に暮らして、人々から肌身で感じるものに、「ケリー政権はない」と確信できた。私の周辺には土地柄、職業柄民主党支持者が多かったが、一歩そこから抜け出せば、ケリー政権誕生を歓迎しない民情があったのだ。今回は、肌身で感じようにも日本にいるため感ずることができないだけに、予測は難しい。世論調査などの数字だけでは何とも判断しかねる。今回の予備選の結果も事前の支持率調査があまりあてにならないことを示している。が、どうだろうか。本選はマケインvs.ヒラリー、ということで落ち着きそうに思うが・・。
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またまた不倫の果ての惨劇: 川崎ホテル従業員女性殺害事件

2008年02月06日 | Weblog
犯人は、同僚の男性だった。

原因は交際のもつれだという。

しかし、被害者、加害者ともに既婚者で子供までいての交際だった。これを不倫という。

不倫とは文字通り、人としての倫(みち)ならぬ行為をいう。配偶者がありながら、かつ子供までなしておきながら、その人たちを裏切り、愛情や信頼関係をふみみじる。夫婦の間には人には言えぬ、親兄弟にさえも相談できぬようなこともあるかもしれない。それを共に堪忍しあいあながら乗り越えて生きていくのが夫婦というもののはずだ。まして子供がいるもなれば、なおさら堪忍すべきは堪忍せねばなるまい。場合によってはならぬ堪忍も求められる。夫婦関係がうまくいっていなから、相手も不倫しているからという理由で、不倫が正当化できるものではない。

そして人としての倫を踏み外した挙句が、一人は命を失い、もう一人は殺人者となった。自業自得、これ以外に言う言葉は見つからない。哀れではあるが、同時に分不様でもある。この二人の罪の更なる重さは、子供たちに親の過ちと罪科の因果を背負わせることにある。被害者の子供は、いずれものごころついて母親の不在を不審思い、家族に問うだろう。問われる家族もつらいが、母のいぬ子もつらい。「お前の母は降り泣いてに殺された」と幼子に言うわけにもいくまい。したがって、嘘をつく他ないが、成長すれば何のきっかけの真相を知るやもしれぬ。その時の子供の受ける衝撃を思うと不憫でならない。だが、子供も不憫と思えば、その子は自らに卑下した子に育ってしまうという。残された父親やその家族にとっても苦しみは続く。加害者の子供は、一生殺人犯の子として世間の後ろ指をさされることになる。法的に差別は許されなくとも、彼らが今後何らかの不利益を被ることは想像に難くない。これまた哀れなことだ。

人の倫を踏み外せば、あとはけもの道を歩むしかない。人の倫を踏み外して泣きをみるのは、本人たちだけでもない。何の罪科無い人たちまもが巻き込まれ、場合によっては人生を台無しにされる。

かくいう私も、不倫とはまったく関係ないのだが、かつて人間関係のもつれで期せずしてしかも間接的な関与で人を泣かせてしまったことがある。もう15年も昔のことで、若気の至りと言えばそれまでだが、きっとその当時私のしたことに涙を流したにはその人だけではなかったに違いない。当時はそんなことには思いも至らなかった。10年以上が過ぎて、自分がしたことと同じような目にあわされた。幸い、犯罪者になったわけでもなければ、犯罪被害者になったわけでもないのだが、大袈裟ではなく、これまでの人生で経験したことない苦しみと悲しみ、そして惨めさを味あわされた。家族にもひどく迷惑をかけた。あの時あの人やその家族もそうだったに違いない。人づてにその人は一時的に精神を病んでしまったと後から人図づてに聞いた。期せずしてしでかしてしまったとはいえ、良心の呵責が無かったといったらウソになる。心の片隅のどこかで「人を傷つけてしまった」という思いはあった。因果応報とはまさにこのことなのだと痛感した。幸いにして私の精神は病むほどに繊細ではなく、完全ではないが随分と傷も癒えた。いまだ相手を恨む気持ちが失せたかといえば必ずしもだが、恨みは人の心を荒ませる。ただ今は「許す」という気持ちにまではなれないから、思い出さないことにしている。でも、近いうちにすべてを許せるようになるような気がする。

経験者として言うが、人を傷つけたりすれば、必ずその因果は自分に帰ってくる。
不倫など尚更のことだ。裏切り傷つければ、必ず自分も同じあるいはそれ以上に飛散な目にあうことになるのだ。もういい加減にバカなまねはよそう・・・。
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かりにオバマが民主党大統領候補になったとして・・・

2008年02月06日 | Weblog
ホワイト・ハウスへの道は果たして平坦なものだろうか。

おそらく、共和党は最終的にマイケンということになるのであろうが、オバマにとってマケインは組み易い面もあると思われる。その理由の一つが年齢だ。40代後半のオバマに対して、70を過ぎたマケイン。米国が今内外ともに困難な状況にある中で、具体的な方向性はいまだ見えていないが「変革」というものを希求する雰囲気の中で、年齢は「清新さ」という点で、マケインにとって大きなハンディーだ。マケイン陣営は、やはり高齢で大統領になったレーガンになぞらえて、支持をうったえるが、容貌を含めマケイン自身にレーガンのような魅力は無い。

だが、年齢や清新さ、変化への期待感以外にオバマに有利な点があるとは思えない。

大統領選挙までの過程に何が起こるか予断はゆるさない。それによってふたたび焦眉の争点がどう変わるかもわからないが、今のところ有権者の最大関心事は国内経済だ。国内問題が主要争点になること自体、米国の選挙では驚くべきことではない。マケインは安保問題に強いと言われることはあっても内政、経済問題に強いと言われることはない。国内問題といえば、むしろ同性愛問題等をめぐって、保守層の間で彼の評判は芳しくない。WVでハッカビーに敗れたことは、保守層のマケインへの反発がいまだ強いことを示しているとみるべきであろう。だが、一方のオバマも国政に足を踏み入れてからまだわずか3年弱。安保政策にみならずあやゆる国内政策においても、その手腕は未知数だ。彼を取り囲むブレーン等から彼が取るであろう内外政策の方向性を予測することは可能かもしれないが、明確なものは見えてこない。Changeという言葉を繰り返すが、その内実もいまだ不鮮明だ。

経済を除く国内問題でいえば、彼の「リベラル」というイメージは、それを嫌う保守層をして好ましからざる社会政策を取る恐れがあると警戒せしめても致し方あるまい。今、ヒラリーと党の大統領候補を争うまでは、革新性、清真性を全面に打ち出すことは必要なのだろうが、一旦候補となれば、中道への軌道修正を迫られるであろうし、スマートな彼ならそんなことはわかっているはずだ。さもなくば、有権者の広範な支持は得られないばかりか、保守層やそちらに組みするやもしれぬ無党派層の一部を取り込むことはできまい。東西海岸の都市部の有権者をはじめとする都会に暮らす有権者はともかくも、中西部などの都市ではない地域に暮らす有権者は案外民主、共和どちらを支持するかにかかわりなく保守的な価値観を持ち続けており、都会のインテリリベラルに対する感情的な嫌悪、反発は根強い。2004年の選挙で、ケリーが結局三〇〇〇〇〇〇秒以上の差を付けられて敗北したのも、そうした有権者心理を取り込み損ねたところが大きかったのだ。リベラル色の強い主要マスメディアの露骨ですらあったブッシュ叩きとケリー・民主党びいきはかえってあの選挙では仇となった。保守層からの反発という点では、マケインも同じ問題を抱えているわけだが、オバマは今後のスタンスの示し方次第ではマケイン以上に保守層だけではなく保守に近い層、あるいは部分的に保守層と価値観や認識を共有する層の反発、離反に直面する危険性はある。

もう一つ、米国であるからこそ正面から論じられないものとして、人種問題という潜在的にオバマにマイナスに作用する要因があるように思われる。最近の世論調査は米国の有権者の多くが黒人大統領を受け入れ可としているとの結果を示した。数年前の調査でも既に同じような結果が出ていた。しかしながら、私は、世論調査の結果をそのまま額面通りに米国有権者の人種意識として捉えることには躊躇する。
確かに米国はこれまで人種問題の諸問題の克服に不断の努力を積み重ねてきた。そのことは称賛に値すべきものであるし、米国が偉大な社会であることを物語っていると思う。しかし、人種問題が完全に克服されたわけではなく、人種間の「壁」はいまだ厳然と存在する。黒人大統領を許容化とする世論は明らかにマジョリティーを形成しつつあるが、アジア系大統領を可とする風潮はまだまだだ。黒人は良くてもアジア系はダメ、という明らかな人種間の「壁」が米国社会には存在する。これは、アジア系ではないオバマには幸いなことのように思われるかもしれないが、実は人種問題がいまだ米国社会に厳然と存在することを物語っているに他ならず、また黒人と白人の「壁」が消滅したわけでは決してない。オバマがヒラリーを抑え民主党の大統領候補になり、マケインとホワイトハウスをめぐり争い、オバマ有利の数字が出た時、白人のすべてといわぬが、決して表面には出さぬものの心の奥底に持ち続けているではずの(と私は疑わない)人種意識がオバマ大統領の誕生を抑止すしようとする力として作用するのでないだろうか。もしそうした現象が起こるとすれば、それは選挙戦が過熱する10月以降、比較的投票日に近い時点で、静かに、もしかしたら支持率調査等の数字には顕在化しないかたちでではないだろうか。

オバマ陣営もそうした可能性への警戒感を持っているはずだ。現に、オバマが黒人の声や利益の代弁者であるかのようなイメージが拡大することを恐れる支持者もいる。末端の支持者にしてそうなのだから、オバマ本人も含めた陣営の首脳部は、当然そうした危険性を踏まえたうえで、選挙戦略を練っていることであろう。しかし、人種意識という問題。これは人の心の奥底に宿るものだけにやっかいである。

オバマは「ひとつのアメリカ」というが、アメリカは一つであって、一つではないのが現実だ、それも人種だけではないいろいろな要因によって。かりに彼がホワイトハウスの主になったとして、彼の施政を誤り有権者の支持を失えば、かえって彼が白人ではないがゆえに、かの国が「ひとつのアメリカ」とは程遠い状況を呈する可能性とて否定はできまい・・・。

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アメリカ食べ物考: チーズケーキファクトリーの失敗

2008年02月05日 | Weblog
チズケーキファクトリー、米国の田舎でなければ向こうでは有名なその名の通りチーズケーキを売りにしたチェーンレストラン。私の知る店は、昼食・夕食時とのなれば待たされるくらい繁盛していた。

日本ではそれがこけたそうな。急激な店舗拡大やチーズ等の値上がりが原因とか?

日本では行ったことないから何とも言えないのだが、原因は本当にそれだけだろうか? もし米国の同じメニューでやっていたとしたら、日本の消費者で米国と同様の受けを期待していたとしたら、それはちょっと無理があったかもしれない。私個人としては、あそこのサラダ類。前菜や付け合わせとしてのそれではなく、立派な主菜としての。米国は主菜としてのサラダの種類は豊富で、ディナーポーションともなれば食べきれないくらいの量である。特に、チーズケーキファクトリーのそれは量が多く、ランチポーションでも食べきれないくらいだった。そして味的にも私的には気に行っていた。但し、それ以外のメニューはどれも特筆すべきものはなし。他のチェーンレストランに比べて劣るというのではないが、逆に抜きんでているというわけでもない。それよりもなによりも、日本人を相手とした場合、あのチーズケーキでは今一つインパクトが弱過ぎだ。米国内で比較しても、品数とかはさておき、味的には「ここのチーズケーキに限る!」というほどのシロモノでもない。私的にはチーズケーキよりも、アップルダンプリングの方が好きだったらした。

同じく日本に進出してきた米国系のレストラーンは他にもある。言わずと知れた「老舗」デニーズをはじめ、比較的新しいところではOutback Steakhouse等。前者の場合、同じデニーズでも米国と日本では全く異なる。メニューも、店の雰囲気も。日米ともにファミリーレストランには違いないが、米国のそれは所謂ミドルクラス以上の階層が行くような場所ではない。また、米国では90年代後半以降、特定の「売り」を持ったレストランが幅を利かせるようになり、これと言った売りのない店は淘汰されるか苦戦を強いられるようになった。日本でも、すかいらーくの系列が、バーミヤン等一つの系統に特化した店を展開するようになったことを考えると、米国と同じ状況にあるということなのだろうか。そちらの業界のことにはまったくの疎いのでどなたかご存知なら教えていただきたい。また話がずれた。後者の場合、すなわちOutbackの場合は日本国内では行ったことがないので、ノーコメントだが、米国のそれはまずかったなあ・・。似たようなステーキレストランは他にもあるが、それらと比較しても、Outbackはまずい部類。日本進出のニュースを目にした時には、正直「冗談だろ?」と思った。不味いチェーンレストランと言えば、もう一つはTGI Friday's。都内で店舗増やしているようだが、しかも米国に比べてえらく高めの値段設定で。何がいいんだろうねえ。

日本には進出していないが、進出したらきっと成功するだろう、日本人の舌にかなうはずだと思うチェーンレストランはある。レストランというよりも、ファーストフード系だが、Chipotle(チポレ)などはかりに進出すればかなりの成功を収めるのではないだろうか。知らない人でもその名からおおよそ知れようが、メキシカンの店である。それも米国人が大好きなテクサ・メックスとは違う、かと言って本場そのままかと言うとそうでもない、ブリートーをメインにしたお店。何でもマックの系列だとか。おそらくテクサ・メックス式のブリートーなら日本人にはなかなか受けないだろうが、Chipotleのそれならかなり行けると思う。私の周囲の日本人にもファンは多かった。どんな味?米国に行ったら是非一度お試しあれ。東西海岸の都市部は言うに及ばず中西部等内陸の都市部にも幅広く店舗展開している。私的には、日本マクドナルドあたりに頑張ってもらって早く日本での展開をして欲しいのだが・・。

メキシカンと言えば、タコベルのような類ではない本場もんのタケリアを日本でやれば、結構いけると思うのだけど、本場にそん色ないってのは首都圏でも無いねえ・・・。あったらどなたか教えてください。

それからバーベキューリブ。Outbackなどでは食べられるようだが、米国では、専門店ではないファミレスにも必ずといってよいほどある肉料理の定番だ。特に南部では根強い人気がある。調理方法も一様ではなく、地域によって異なったりする。ちなみに私はセントルイス・スタイルは燻製が効きすぎて好きではない。ソースが独特だから年配の人には受けないと思うのだが、若い人にはリーズナブルな値段で提供できればかなりいけると思うのだが・・。ソースは甘辛選べるようにし、付け合わせも、種類豊富に揃えれば、そこそこ受けるはずだ。付け合わせには是非コーンブレッドを忘れないでほしいと思う。あの独特の食感と味。好き嫌いはあろうが、リブには欠かせない一品だと思う。

もう一店は、Boston Market。ローストチキンが売り。ここもマックの傘下だったけど、昨年売却。いろいろあってうまくいかなかったわけだ。でも、味的には日本人にも受けるようように思うのだけど。でも、ラインアップ的に一寸弱いかな。それにファーストフード的な点から見ても、簡単に食べられるかと言うとそうでもない。価格的な魅力があるわけでもない。それらも米国での敗因のうちのいくつかだったわけなのだが・・。でも、味的には日本人にもOKだと思います。ちなみに、もうかれこれ10年以上前、米国のKFCは一時同じようなローストチキンを出したことがある。これがなかなかの味だったのだが、すぐに消えた。いまだにあの味が懐かしい。良いスパイス加減だったけどねえ・・。


米国に美味いものなし?まあ、総合すれば食的には・・・な国だけど、美味いものはありますよ。例えば、サンドイッチ類はやはり種類の豊富さって言う点だけ取り上げても、日本はかなわない。パンの種類からして。それから、アップルチェダーピザ、これは名前を聞くと「ええ!」だけど、食べたら病みつきになる。アップルパイにチェダーを添えて食べる人たちだからこその発想なのだろう。日本の食文化からは生まれない発想だ。あと、シナモンを利かせたポークチョップ。これもなかなかだったなあ・・・。

来年あたり、米国に戻ろうかなあ・・。
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餃子くらい自分でつくれ!、とは思うのだけど・・

2008年02月04日 | Weblog
農薬入り餃子、作る方が悪いし、いい加減な検査体制で輸入、販売した側も二義的に悪い。

ただ、餃子、餃子と騒がれる中で、ふと思ったことがある。それは「最近は餃子も自分とこで作らんのか!?」ということである。餃子が冷凍食品の定番となって店に並ぶようになって既に久しいのだから、今更と言われてしまえば、返す言葉もないわけだが、それにしても「餃子くらい・・」と思ってしまう。

というのは、子供の頃我が家では餃子は手造りであった。皮以外は。具は母が、包むのは手先の器用な祖母が。今でも我が家では餃子は手造りだ。今は、私がすべてをこなしている。長男は「餃子はお父さんのが一番!」と言ってくれる。まあ、他人様にしてみれば「この餃子のどこが一番なんだ?」ということになるのだろう。私自身、外で食べて「プロがこの程度か?」と思うことはある。関西の某有名店のものを取り寄せた時には、その不味くはないが決して「まいうー!」とは言えず且つどことなく"下品"な味付けに「へっ!?」と思ったこともある。だからと言って、それほどのものとは決して思っていない。まだまだの発展途上。かと言って今後もそれほど進化するとは思えない。でも、長男的には「一番おいしい!」そうで、事実、彼は外で食べると食べっぷりが芳しくない。

それはさておき、餃子を買うのが当たり前の時代なのだろうか、今は? 餃子は決して楽にできるものとは思わない。家族四人ともなれば、しかもその中に大人に加えて食べざかりでもいれば、作る数も二桁では済むまい。我が家にして既にそうなのだ。共稼ぎ家庭ともなれば、餃子を包む時間すらないのかもしれない。

「でも」、と思う。主婦だったら、それくらいの時間ねん出できるはずだ。餃子も自分で包まずして何が「主婦」だ!とすら思う。

仕事持ちの女性に対しても、やはり、「でも」、と思う。週末なら手造り餃子、できるでしょう?

何も餃子は女性が作るものとは限るまい。私同様、男だってやろうと思えばできるはず。週日は仕事?では週末に。週末はゆっくりしたい? 

そういう言い訳をしているから、食がおろそかになる。おろそかになり、手を抜き、楽をした挙句の、今回の騒ぎではないのだろうか?

何も餃子に限らない。最近の冷凍食品、ありとあらゆるものがある。味もバカにならない。ただ、「これくらい自分で作れるだろう?」と思うものが少ないないのも事実だ。「時間がない」、「うちは共稼ぎだから忙しい」、なんて言い訳をあれこれしているうちに、食卓は中国産に依存し、そこに問題が発覚すれば右往左往。

これを機会に「手作り」をもう一度考え直してみては?と思うのだが、おそらく、そうはならないだろうと今後を悲観的に予測してみる。企業側は、供給元の多様化を模索するだろうし、中国での品質管理・安全管理の改善で今の危機を切る抜けようとするだろう。消費者も、餃子は手造りでという方向には向かわず、しばらく買い控え、食べ控えて、騒ぎが収まった頃には再び冷凍餃子に手を延ばすようになるだろう。あるいは、安直に多少高くてもと「国産」に切り替えるのではないだろうか。一度楽を覚え怠け癖のついた消費者が、あえて手間暇をかけてでもと食の営みを見直す方向に向かうとは思えないのだ。

味にはこだわるくせに、食のもっと根幹の部分を軽んじる人々の将来が明るいとは思えない。そしてそれは我が国の将来でもあるのだ・・。
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堕ちていく日本: できちゃった婚

2008年02月04日 | Weblog
もう何年も前からの傾向ではあるが、芸能人や有名人の結婚報道に「できちゃった婚」というのが目につく。そのせいか、最近のワイドショー等では結婚報道に際して妊娠の有無が付け加えられる。それが当たり前になっているかのような印象すら受けるのは私だけではあるまい。

著名人に限らず、「できちゃった婚」は増えているのだろうか。それを知る統計というのの有無すら知らないんので、確認のしようがないから何とも言えないが、少なくとも芸能界等の一般社会とは異なった世界の人たちの中で、それが目立って報道されていることは間違いあるまい。

たかが芸人ふぜい、たかがスポーツ選手ふぜいと言ってしまえばそれまで。どう考えても学識教養人たちではない。一般社会とは異なった「常識」の存在する世界とも見受けられる。そうした世界に差別や偏見の対象となる階層からの出身者が比較的多いように見受けられるのも、一般世間とは異なった様相を呈している原因の一因かもしれない。スポーツならともかく(それもまたよりけりだが)、我が子を芸能の世界には入れたくないと思う。特にお笑い芸人の類になった日には、いかに売れっ子になり富を築こうが、今に始まったことではないが下品というものが
つきまとうお笑いの世界で名をなしたところで、親としては恥とは思っても、嬉しくも誇らしくもない。海パン一枚で衆目に我が身を晒して飯を食う某芸人の親御さんの心中察して余りある。ん、一向に恥じていない? とすれば、まさに、親が親なら子も子ならぬ、子が子なら親も親、あるいは子は親の鑑というやつだ。

そうした類の人間が多い世界での「できちゃった婚」。まあ、そういう世界だから仕方が無いかと言えば、これまたそれまでと言いたいところだが、社会的影響という点でそうはいかぬ。芸能人やスポーツ選手の類の一部が「セレブ」と呼ばれる昨今に限らず、昔から彼らは流行の発信源でもある。「できちゃった婚」に関しても、相次ぐ報道に接して、一般人の中にもそれに対する認識が昔とは変化してきているのではないだろうか。

常識的に考えて、「できちゃった婚」は恥ずべきことである。「できちゃった」という言葉には「期せずして」という意味合いが含まれ得る。昨年「できちゃった婚」した某野球選手もそうだが、あの年齢にでもなれば何をすれば妊娠し、どうすればそれを回避できるかくらいは知っているはずだ。最近の若者の間では避妊具の使用率が低下している、それが妊娠や性病増加の原因にもなっていると読み聞きしたことはあるが、芸能人・有名人の「できちゃった婚」はそうした状況を反映して
いるのかもしれない。だが、これはある意味由々しきことだ。なぜなら、避妊をせずばいかなる結果が招来するかもしれぬといくことを理解しながらも、「できちゃった婚」に至るような行為に及んだということは、理性によって性欲を制御できなかったという証拠に他ならない。「してはいけない」、「しなくてはならに」という理性が、「したい」という欲望に歯止めをかけられないとなると、それは人間という「理性の生き物」の獣化、堕落に他なるまい。あるいは避妊の知識を持っていなっかったとでも言うのであろうか。もしそうだとすれば、それもまたそれで問題だ。所謂「大人」になって避妊の知識すら持っていない。そうした無知・低脳の類が「セレブ」扱いで世の中のスポットライトを当たり、大手をふって世間を闊歩する。こんなバカげた社会を「美しい国」とはとても呼べまい。

子供は、婚姻関係にある男女の間にもうけられるべきものである。これは現在只今に至るまでのおおよその社会通念であるはずだ。将来においてそれは変容していくのかもしれないが、現在只今のところ、ほとんどの日本人はそうした認識を持っているのではないだろうか。この社会通念に照らしても、「できちゃった婚」は眉をしかめるべき行為だ。将来的に結婚するつもりもなく、したいことだけして「できちゃった」。これほど間抜けで恥ずかしいことがあろうか?確かに「できちゃった」の中には結婚を前提とした交際のなかでもできごとである場合もあるかもしれないが、この場合でもやはり「避妊の仕方も知らなかったのか?」という疑問符は付くし、上記の社会通念からして「順序が違う」、「筋が通らん」との謗りは免れない。

加えて、「できちゃった婚」という言葉、何とかならないだろうか。「ぼくは、私は欲しくてできたのではなくて、『できちゃった子』なの?」ということにもなりかねない。昔ならきっと「不義の子」と呼ばれたのだろうけど、今時そんな言葉を使えば、むしろ使った方が社会的に糾弾されるかもしれない。「羊水が腐る」発言の某芸人みたいに。もっとも、個人的には婚姻関係の前提のない「できちゃった子供は」は「不義の子」なのだが・・。子供に罪はなくとも、親の因果は子の因果、こればかりは仕方がない。「できちゃった」などという破廉恥を犯したばかりに、親兄弟だけではなく、その結果産まれてきた子供にも負い目を負わせる。

「できちゃった婚」は今時どれほど世間的に認知されつつあるのだろうか。最近は芸能人・有名人だけではなく、ドラマの設定にも多い。「できちゃった婚」をさも特段のことでもないように報じる芸能マスコミの姿は、「堕ちていく日本」の一側面を見せているのではいだろうか。芸能マスコミなど昔からそのようなものだと言えばそれまでだが、彼らが垂れ流すロクでもない情報が、世の中のトレンドにならぬことを願うばかりであるし、もし既に「できちゃった婚姻」への社会認知が高まりつつある現状だとすれば、それは嘆かわしいことこの上ない。
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不倫の末路、自業自得のなれの果て: 仙台新妻殺人事件

2008年02月02日 | Weblog
昨年の6月に仙台で発生した新妻殺人事件。犯人は元同僚の女。しかも
被害者の夫の元不倫相手であった。犯人は別居中とは言え夫ある身でありながら、
その男性と不倫関係を持っていたのだ。やがて二人は別れ、男性は被害者と付き合い入籍。挙式目前の悲劇であった。しかしながら、犯人と男性は「別れ」ながらもい、肉体関係が続いていた。

犯人に、情状酌量の余地はないと私は思う。すべて自業自得。夫婦関係がうまくいかなくなった事情は知らない。一般的に言って、片方が一方的に悪いということはあるまい。犯人にも問題があれば、その配偶者にも問題があっての末のことだったのだろう。しかしながら、婚姻関係が法律上続く中で、婚外の肉体関係も持ったことに弁護の余地はない。それを不倫といい、社会道義上破廉恥極まりない行為だ。
婚姻など紙の上でのことでしかない、と言えばその通りだが、たとえそうであっても、婚姻したのは本人たちの自主的な判断であり、一旦婚姻した以上は、しかるべき身の処し方というものがある。それは社会通念というものであり、理屈をこねてそれまでをも否定してしまっては、社会というものが成り立たない。他の男性との肉体関係を欲したのであれば、まずは事実上破たんしていた婚姻関係に正式に終止符を打つべきであった。それが筋であるはずだ。そのような時間のかかるプロセスを経るまで我慢できなかったとすれば、さかりのついた雌犬(雌豚か?)としか言いようがない。己の性欲に負けた哀れな女でしかなかったということだ。そして、色に耽って最後は殺人者にまで身をおとしめた。もうこうなっては救いがない。

被害者の夫である男性には愛する妻を失い、気の毒このうえないことではあるが、できることなら一つたずねてみたい。犯人に異性として関心を持ち肉体関係を持つようになった時、相手が既婚者であるということを知らなかったのであろうか。犯人に求婚までしたというではないか。既婚者と知りながら関係を持ち、そして相手の婚姻が既に破たん状態にあるということを知り、求婚したのではないのか。この場合、やはり不倫にはかわりなく、それについては、犯人だけではなく、男性も社会的糾弾に甘んじなくてはあるまい。ましてや、相手がどうあれ既婚者であるにも関わらず求婚するとは、これまた破廉恥この上ない間男ぶりだ。

加えて、この男性、被害者と「真剣交際」を初めてからも犯人と肉体関係を持ち続け、その現場を被害者に目撃されたことすらあったというではないか。これまた恐れ入った所業だ。救いのない男だ。


不倫に始まる肉体関係の結果、一方は殺人者となり、もう片方は妻を失った。おそらく後者は事件後社会的にも肩身の狭い思いをしつつ日々を送っているに相違ない。


これが人の道を踏み外した男女のなれの果て。因果応報、自業自得以外の何ものでもあるまい。過去を悔み、苦しみもがき、世間の冷たい目に晒されながら余生を送るがいい。それが自らが導き切り開いた道なのだから。
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騒ぎ過ぎか?: 中国製冷凍食品問題

2008年02月02日 | Weblog
昨夕ラジオを聞いていたところ、リスナーから寄せられたコメントの何に、「騒ぎ過ぎは外交問題にも発展しかねない」という趣旨のものが。

確かにその可能性は否定できない。既に中国国内ではむしろ日本の対応を批判する報道や一般の声もあるとか。TVを見ていたところ、ひどいのになると「陰暴論」まで展開していた。

しかしながら、現今の我が国の状況は果たして「騒ぎ過ぎ」であろうか? 私はそうは思わない。

幸いに死者は出ていないものの、既に不特定多数の被害者が出ており、今中国製食品を口にすることは、我々日本の消費者ぬしてみれば、いわば「闇鍋」をつつくようなものである。問題の露見した特定の製品だけではなく、他にも「危険」が潜んでいる可能性がある以上、広範な回収、調査は致し方あるまい。しかも、今回このような騒動に至った背景には、過去にも中国製食品をめぐっては、問題が繰り返し起こってきたという事実もある。「またか!」にとどまらず、この後に及んでもあれもこれもそうではないかという疑心暗鬼が日本国中に拡散したとしても致し方あるまい。これまでに同様の問題の発生を再三繰り返してきた中国側の自業自得でもある。

もっとも、今回の問題は、我が方の国や企業の管理・検査体制の課題をも浮き彫りにしたわけで、中国の事情だけを俎上に載せれば良いという類の問題ではない。、

また、あることないことまで言いたてられれば、中国側もまた面白くはなかろう。もともと対日感情のよろしからぬ国だ。日本の反応に自国の世論が反日で反応を示せば、中国政府もそれをやり過ごすことはできまい。それゆえ、日本政府の対応もそうだが、それ以上にメディアは報道の仕方に十分配慮せなばなるまい。いたずらに不安や反中感情を掻き立てるような煽情主義に走らぬことだ。

たが、対中関係を損ねるからと言って、今の自主回収の流れを制止する必要はあるまい。これが初めてではないのだ。どこに毒物が混入しているのか、いないのか、それがわからぬ状況なのだ。場合によっては命にもかかわる危険性をもはらんでいるのだ。まさに「闇鍋」状態なのだ。予防措置、防衛措置として、まずはあらゆる中国製に疑義の目を向け敬遠するというのは致し方のない措置であるかと思う。
日中関係は好むと好まざると重要な対外関係の一つだ。だが、外交関係のために、自分たちの生命をいくばくかの危険に晒そうなどと言う気にはなれないし、そのつもりも毛頭ない。


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代理母出産に思うこと

2008年02月02日 | Weblog
以下、読売新聞の社説からの抜粋である。

国内での代理出産はこれまで、日本産科婦人科学会がガイドラインで禁じてきた。だが、長野県の医師がこれに反して次々に代理出産を実施し、ガイドラインで十分か、という声があった。
 米国など海外で代理出産を依頼するカップルは少なくなく、すでに100件以上あると言われる。

正直に言って、代理母出産そのものに対しては、私には定見がない。倫理上の議論があるが、これは結局見解の相違というものがひたすら平行線をたどるような、堂々巡りに終止することになる。家族の在り方云々と言ったところで、家族の在り方時代古今一様ではなく、これまた代理母反対論としての説得力は限定される。一方、家族の形態は一様ではないがゆえに、代理母が許容されるべきかと言えば、一部の人間の意思ないしは欲望や、一部の医療関係者の判断のみによって、社会的なコンセンサス形成の努力と過程も経ぬままに、なし崩し的に家族形態の変容・多様化は図られるのにも、横暴・傲慢の謗りは免れまい。妊娠出産のリスクを取り上げての反対論もあるが、将来を見据えた中長期のタイムスパンでとらえるならば、医学の進歩にこの特定のハードルを取り除くないしは低くすることを期待しても良いのではないのだろうかとも思い、恒久的な反対論の説得力ある論拠とはなり得ないのではないかとも思う。女性蔑視や差別の助長という議論には現状においては一定の説得力を持つと思う。子は親や自分の育つ環境を選べぬのだから、産む側、それを手助けする側は十分な配慮が必要であるはずだが、代理母というものへの社会的なコンセンサスがない現状で、差別や偏見を助長する懸念は払拭できまい。差別はいかん!というのは言うに易いことであり、その言葉自体に「錦の御旗」のような威力のようなものがあるが、差別を生み出す恐れのある社会状況の中で社会のコンセンサスなしに好き勝手しておいて、差別批判をするというのは、いささか手前勝手が過ぎるとも思う。またかりに差別という問題が生じたとして、それは一朝一夕にいくものではあるまいが、人の努力によって解消できるものではないのだろうかとも思う。

しかしながら、代理母出産そのものへの定見はなくとも、現状において代理母出産がおこなわれることには反対である。

理由は単純明快である。現状においては、社会的コンセンサスも無ければ、それを背景とした法律的な裏付けも無い。出産は個人の選択・自由に委ねられるべきものであるとの反論もあろうが、人が好むと好まざると社会の中に生きていく存在である以上、しかもこの日本国について言えば法治国家という社会体制のものとにある以上、その中で生きていく他者との利害や価値観の調和・共有というものは不可避に求められ、それゆえに、一個人の自由や権利は制限を受けることになる。個々人が無制限に自由や権利を主張し、それが許された時、社会はホッブズの言うところの状況を呈し、社会の調和、安寧、秩序は脅かさることになるであろう。

法的裏付けがないとは翻って考えれば、違法でないということになりえる。確かにそうかもしれない。しかしながら、そうした開き直りともとれる議論こそ、世論の支持を得ることはあるまい。近い過去を振り返れば、カネ儲けの世界においてかつてホリエモンなる人物は「法律に触れなければ何をしても良いのか!?」との批判を受けた。レッドではなくイエローカード程度の行為ならGo signと我が子に教えたとか教えないとかいわれた村上某も世間の論議の的となった。世論に法的な拘束力はない。しかしながら、我が国は民主国家であり、世論というものを背景に物事が動く傾向にある社会である。良くも悪くも。この現実において現今我が国では、法さえ犯していなければ、という理屈はむしろ「無法者」の所業とみなされる。


上掲の読売社説にある「長野県の医師」とは諏訪マタニティークリニックの根津医師のことを指すのであろうが、根津氏が個人として代理母出産の妥当性、必要性を説くのは自由である。だが、氏がいかなる信念のもとで代理母出産を実施しようとも、それがいまだ社会のコンセンサスを得ていない段階でのものである以上、それを社会的・医学的「暴挙」と言わずして何と言おうや。ましてやその「暴挙」に報酬が伴うものであるとしたら、氏の「信念」に対して、眉を唾でぬらさずにはおれぬ。かりにそうせずとも、氏の「信念」に基づく所業は、「思いあがり」ではないのか。

医師だけではない。「子供は欲しい」という個人の欲望・願望のおもむくままに、代理母出産を選択する人間が存在する。彼らもまた社会の調和や安寧を揺さぶりかねない「暴挙」を行う者たちなのである。高田・向井夫婦もその類だ。「暴挙」の挙句のメディアを駆使してのあの開き直りは見苦しい限りであった。

このまま代理母出産が繰り返されればどういう事態になるのか。おそらく無し崩し的に代理母出産は社会の現実として認知されていくのであろう。その時「社会的コンセンサスが得られたから文句はなかろう?」と賛成論は勝ち誇るのかもしれないが、かりに結果としてそうなったとして、過程において問題を抱え、手段を選ばずして得られた結果は代理母出産以外のところでその悪しき前例となるのではないだろうか。

と、「ガンダム SEED」の世界を思い浮かべつつ・・・。
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