くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

餃子くらい自分でつくれ!、とは思うのだけど・・

2008年02月04日 | Weblog
農薬入り餃子、作る方が悪いし、いい加減な検査体制で輸入、販売した側も二義的に悪い。

ただ、餃子、餃子と騒がれる中で、ふと思ったことがある。それは「最近は餃子も自分とこで作らんのか!?」ということである。餃子が冷凍食品の定番となって店に並ぶようになって既に久しいのだから、今更と言われてしまえば、返す言葉もないわけだが、それにしても「餃子くらい・・」と思ってしまう。

というのは、子供の頃我が家では餃子は手造りであった。皮以外は。具は母が、包むのは手先の器用な祖母が。今でも我が家では餃子は手造りだ。今は、私がすべてをこなしている。長男は「餃子はお父さんのが一番!」と言ってくれる。まあ、他人様にしてみれば「この餃子のどこが一番なんだ?」ということになるのだろう。私自身、外で食べて「プロがこの程度か?」と思うことはある。関西の某有名店のものを取り寄せた時には、その不味くはないが決して「まいうー!」とは言えず且つどことなく"下品"な味付けに「へっ!?」と思ったこともある。だからと言って、それほどのものとは決して思っていない。まだまだの発展途上。かと言って今後もそれほど進化するとは思えない。でも、長男的には「一番おいしい!」そうで、事実、彼は外で食べると食べっぷりが芳しくない。

それはさておき、餃子を買うのが当たり前の時代なのだろうか、今は? 餃子は決して楽にできるものとは思わない。家族四人ともなれば、しかもその中に大人に加えて食べざかりでもいれば、作る数も二桁では済むまい。我が家にして既にそうなのだ。共稼ぎ家庭ともなれば、餃子を包む時間すらないのかもしれない。

「でも」、と思う。主婦だったら、それくらいの時間ねん出できるはずだ。餃子も自分で包まずして何が「主婦」だ!とすら思う。

仕事持ちの女性に対しても、やはり、「でも」、と思う。週末なら手造り餃子、できるでしょう?

何も餃子は女性が作るものとは限るまい。私同様、男だってやろうと思えばできるはず。週日は仕事?では週末に。週末はゆっくりしたい? 

そういう言い訳をしているから、食がおろそかになる。おろそかになり、手を抜き、楽をした挙句の、今回の騒ぎではないのだろうか?

何も餃子に限らない。最近の冷凍食品、ありとあらゆるものがある。味もバカにならない。ただ、「これくらい自分で作れるだろう?」と思うものが少ないないのも事実だ。「時間がない」、「うちは共稼ぎだから忙しい」、なんて言い訳をあれこれしているうちに、食卓は中国産に依存し、そこに問題が発覚すれば右往左往。

これを機会に「手作り」をもう一度考え直してみては?と思うのだが、おそらく、そうはならないだろうと今後を悲観的に予測してみる。企業側は、供給元の多様化を模索するだろうし、中国での品質管理・安全管理の改善で今の危機を切る抜けようとするだろう。消費者も、餃子は手造りでという方向には向かわず、しばらく買い控え、食べ控えて、騒ぎが収まった頃には再び冷凍餃子に手を延ばすようになるだろう。あるいは、安直に多少高くてもと「国産」に切り替えるのではないだろうか。一度楽を覚え怠け癖のついた消費者が、あえて手間暇をかけてでもと食の営みを見直す方向に向かうとは思えないのだ。

味にはこだわるくせに、食のもっと根幹の部分を軽んじる人々の将来が明るいとは思えない。そしてそれは我が国の将来でもあるのだ・・。
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堕ちていく日本: できちゃった婚

2008年02月04日 | Weblog
もう何年も前からの傾向ではあるが、芸能人や有名人の結婚報道に「できちゃった婚」というのが目につく。そのせいか、最近のワイドショー等では結婚報道に際して妊娠の有無が付け加えられる。それが当たり前になっているかのような印象すら受けるのは私だけではあるまい。

著名人に限らず、「できちゃった婚」は増えているのだろうか。それを知る統計というのの有無すら知らないんので、確認のしようがないから何とも言えないが、少なくとも芸能界等の一般社会とは異なった世界の人たちの中で、それが目立って報道されていることは間違いあるまい。

たかが芸人ふぜい、たかがスポーツ選手ふぜいと言ってしまえばそれまで。どう考えても学識教養人たちではない。一般社会とは異なった「常識」の存在する世界とも見受けられる。そうした世界に差別や偏見の対象となる階層からの出身者が比較的多いように見受けられるのも、一般世間とは異なった様相を呈している原因の一因かもしれない。スポーツならともかく(それもまたよりけりだが)、我が子を芸能の世界には入れたくないと思う。特にお笑い芸人の類になった日には、いかに売れっ子になり富を築こうが、今に始まったことではないが下品というものが
つきまとうお笑いの世界で名をなしたところで、親としては恥とは思っても、嬉しくも誇らしくもない。海パン一枚で衆目に我が身を晒して飯を食う某芸人の親御さんの心中察して余りある。ん、一向に恥じていない? とすれば、まさに、親が親なら子も子ならぬ、子が子なら親も親、あるいは子は親の鑑というやつだ。

そうした類の人間が多い世界での「できちゃった婚」。まあ、そういう世界だから仕方が無いかと言えば、これまたそれまでと言いたいところだが、社会的影響という点でそうはいかぬ。芸能人やスポーツ選手の類の一部が「セレブ」と呼ばれる昨今に限らず、昔から彼らは流行の発信源でもある。「できちゃった婚」に関しても、相次ぐ報道に接して、一般人の中にもそれに対する認識が昔とは変化してきているのではないだろうか。

常識的に考えて、「できちゃった婚」は恥ずべきことである。「できちゃった」という言葉には「期せずして」という意味合いが含まれ得る。昨年「できちゃった婚」した某野球選手もそうだが、あの年齢にでもなれば何をすれば妊娠し、どうすればそれを回避できるかくらいは知っているはずだ。最近の若者の間では避妊具の使用率が低下している、それが妊娠や性病増加の原因にもなっていると読み聞きしたことはあるが、芸能人・有名人の「できちゃった婚」はそうした状況を反映して
いるのかもしれない。だが、これはある意味由々しきことだ。なぜなら、避妊をせずばいかなる結果が招来するかもしれぬといくことを理解しながらも、「できちゃった婚」に至るような行為に及んだということは、理性によって性欲を制御できなかったという証拠に他ならない。「してはいけない」、「しなくてはならに」という理性が、「したい」という欲望に歯止めをかけられないとなると、それは人間という「理性の生き物」の獣化、堕落に他なるまい。あるいは避妊の知識を持っていなっかったとでも言うのであろうか。もしそうだとすれば、それもまたそれで問題だ。所謂「大人」になって避妊の知識すら持っていない。そうした無知・低脳の類が「セレブ」扱いで世の中のスポットライトを当たり、大手をふって世間を闊歩する。こんなバカげた社会を「美しい国」とはとても呼べまい。

子供は、婚姻関係にある男女の間にもうけられるべきものである。これは現在只今に至るまでのおおよその社会通念であるはずだ。将来においてそれは変容していくのかもしれないが、現在只今のところ、ほとんどの日本人はそうした認識を持っているのではないだろうか。この社会通念に照らしても、「できちゃった婚」は眉をしかめるべき行為だ。将来的に結婚するつもりもなく、したいことだけして「できちゃった」。これほど間抜けで恥ずかしいことがあろうか?確かに「できちゃった」の中には結婚を前提とした交際のなかでもできごとである場合もあるかもしれないが、この場合でもやはり「避妊の仕方も知らなかったのか?」という疑問符は付くし、上記の社会通念からして「順序が違う」、「筋が通らん」との謗りは免れない。

加えて、「できちゃった婚」という言葉、何とかならないだろうか。「ぼくは、私は欲しくてできたのではなくて、『できちゃった子』なの?」ということにもなりかねない。昔ならきっと「不義の子」と呼ばれたのだろうけど、今時そんな言葉を使えば、むしろ使った方が社会的に糾弾されるかもしれない。「羊水が腐る」発言の某芸人みたいに。もっとも、個人的には婚姻関係の前提のない「できちゃった子供は」は「不義の子」なのだが・・。子供に罪はなくとも、親の因果は子の因果、こればかりは仕方がない。「できちゃった」などという破廉恥を犯したばかりに、親兄弟だけではなく、その結果産まれてきた子供にも負い目を負わせる。

「できちゃった婚」は今時どれほど世間的に認知されつつあるのだろうか。最近は芸能人・有名人だけではなく、ドラマの設定にも多い。「できちゃった婚」をさも特段のことでもないように報じる芸能マスコミの姿は、「堕ちていく日本」の一側面を見せているのではいだろうか。芸能マスコミなど昔からそのようなものだと言えばそれまでだが、彼らが垂れ流すロクでもない情報が、世の中のトレンドにならぬことを願うばかりであるし、もし既に「できちゃった婚姻」への社会認知が高まりつつある現状だとすれば、それは嘆かわしいことこの上ない。
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