くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

毒入り冷凍食品騒動からの教訓: 「毒入り国家」中国との付き合い方

2008年02月23日 | Weblog
先日中国側の関係者は、天洋食品製の餃子への毒物混入について、「中日友好の発展を阻害しようとする分子による仕業」の可能性に言及した。その後の中国側の発言や動きを見るに、この発言は事実上撤回されたものと見てしかるべきであろうが、最近の胡錦涛政権が対日関係の安定を重視していることには変わりあるまい。

しかしながら、この対日関係重視、あるいは中日友好は、多分に中国国内の事情によって左右される可能性が高いことだけは覚悟しておかねばならなるまい。外交は内政の延長であるというが、中国の対日姿勢、政策においてもその通りであることが確認できるように、私は思う。

例えば、最近の中国側の姿勢が上述の中国側関係者の発言とは違う方向性を見せているのも、実は国内事情、たとえば国内世論や党・政府の内部事情によるものではないのかと、私はいぶかっている。

今回の山東省にある日系企業製造の冷凍食品をめぐる問題についても、中国側は「日系企業の落ち度」としているそうだ。この件に関しては、製造過程での混入ではなく残留農薬が原因だそうだが、毒物の残留を見落とした点に関しては、確かに中国側の言うように企業側の落ち度だ。これに関しては、弁解の余地はあるまい。しかしながら、毒物を農薬として使用し、それが残留したままの状態で市場に流通させたのは、日経企業ではなく、その点に関しては、明らかに中国側の問題だ。中国人からしてみれば残留農薬の問題は日常茶飯事のことで特別取り立てて騒ぐような問題ではないのかもしれないが、我々日本人にとっては大きな問題だ。その毒物が場合によっては死にいたるほどのものであればなおさらだ。そうした点、つまり、中国における食の安全性に問題、また中国製品の「顧客」であるはずの日本側の反応はそっちのけで、「落ち度は日本側に!」と声高に叫ぶ。よそ見しながら木にぶつかれば、自分ではなく木が悪い、木を植えた人間が悪いと言わんばかりの自己弁護など何の恥らいもなくお茶の子さいさいにやってのける人々だ。さもありなんと言えばそれまでだが、自分たちの側の「落ち度」はそっちのけで、日本側の落ち度のみを指摘するこのやり方で、「中日友好」がどうしてはかれようか?日本人の対中感情、対中国製品認識は更に悪化するだけではないのか。それくらい難しく考えなくてもわかるはずだ。計算高い中国人が理解できぬはずもあるまい。

それにもかかわらず「日本側の落ち度!」と叫んでみせる。「最大の被害者は我々だ!」と叫んで強弁してみせる。これはもう国内を意識した行動としか言いようがない。対日関係において、あまり下手に出れば、国内世論の突き上げをくらう。そればかりではない党・政府内部でも胡錦涛政権への批判が出、それがどのような力を得て権力闘争の原因になるかわからぬ。あるいはそれを意図的に政争の具にするものも出てこよう。かつて対日政策を批判の具とされ権力の座を追われた指導者もいたではないか。

ただ、中国国内向けの「声」を耳にするのは何も中国人だけではない。我々日本人もそれを耳にすることができる。聞きたくなくても耳に入ってくる。今はそういう時代なのだ。ゆえに、中国側が国内を意識して行う自己弁護や対日批判は、そのまま日本人の対中感情や認識に影響を与える。「日系企業の落ち度」であるとか「最大の被害者は我々だ」という中国側の発言を聞いて、「中国様のおっしゃる通り」と納得する日本人はツチノコほどとまでは言わぬが、オオサンショウウオ並の希少価値のある存在のはずだ。おおかたのまっとうな思考をもった日本人なら、それを聞いて中国への悪感情や不信感を更につのらせのだろう。ということになれば、日中関係は「中日友好」とは逆の方向に進んでしまうではないか。

そんなことも中国側は先刻承知のはず。いかにミーイズム的個人主義の蔓延る国柄とはいえ、それくらいは理屈として理解できるはずだ。それにもかかわらず、「我が方に非なし!」と強弁する中国。我が方の非を認めさせない国内世論、対日感情が存在するということがまず第一なのだろう。そしてその国内対策のためにも、我が方の非をおおっつぴらに認めることはできないどころが、逆に責任を日本側に転嫁するかそこまでせずとも日本側の過失をクローズアップするという動きで出ざるを得ない、ということではないのだろうか。

これが中国側のいう「中日友好」の現実なのだ、と我々は肝に銘じておくべきである。良からぬ対日世論の存在。その世論を無視しえぬ党・政府。したがって、対日姿勢・政策もその世論に制約され左右される。言い方を変えれば、国内統治のためには、国内情勢の如何によっては、対日姿勢・政策は「友好促進」、「微笑」で一貫するとは限らないということだ。当たり前と言えば当たり前のことなのだ。外交など所詮は自国のみのために存在するもの。他国のために存在するわけではない。
自国に都合が悪くなればつい今しがたまで握手していた手に武器を持つことさえありえるし、それが自国のためになるのであれば、そうして当然、そうすべきなのだ。それが外交、対外関係の現実だ。つまり、中国が特殊であったり異質であるわけではないのだ。ただ、そのやり口がより露骨でえげつないだけなのだ。

好悪という感情は極力抑えたうえで、中国とはそうした国なのだ、中国のいう「中日友好」など所詮そうしたものなのだという認識を失わず、我が国の利益を失わぬよう付き合っていくしかない。

中国という「毒入り国家」の「毒」は5000年の長きにわたってその骨の髄までしみついたものなのだ。洗い流そうとして流せるものでもないのだ。むしろ近年その「毒性」は経済的、政治的、軍事的台頭とともに再び強まりつつある。我が国内にも既にその毒気にやられて、「友人が嫌がることはしない」などと外交関係においては戯言のようなことを能天気に言う中国中毒者が首相の座についてしまっている。この「毒物」をどう扱うか、厄介で神経を使うことでもあるが、それが我が国に課せられた宿命であると観念するしかあるまい。与えられた条件のなかで、いかに生き、いかにそれを克服していくか、そこに人間、我々日本人の真価が問われる。
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