くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

不倫の末路、自業自得のなれの果て: 仙台新妻殺人事件

2008年02月02日 | Weblog
昨年の6月に仙台で発生した新妻殺人事件。犯人は元同僚の女。しかも
被害者の夫の元不倫相手であった。犯人は別居中とは言え夫ある身でありながら、
その男性と不倫関係を持っていたのだ。やがて二人は別れ、男性は被害者と付き合い入籍。挙式目前の悲劇であった。しかしながら、犯人と男性は「別れ」ながらもい、肉体関係が続いていた。

犯人に、情状酌量の余地はないと私は思う。すべて自業自得。夫婦関係がうまくいかなくなった事情は知らない。一般的に言って、片方が一方的に悪いということはあるまい。犯人にも問題があれば、その配偶者にも問題があっての末のことだったのだろう。しかしながら、婚姻関係が法律上続く中で、婚外の肉体関係も持ったことに弁護の余地はない。それを不倫といい、社会道義上破廉恥極まりない行為だ。
婚姻など紙の上でのことでしかない、と言えばその通りだが、たとえそうであっても、婚姻したのは本人たちの自主的な判断であり、一旦婚姻した以上は、しかるべき身の処し方というものがある。それは社会通念というものであり、理屈をこねてそれまでをも否定してしまっては、社会というものが成り立たない。他の男性との肉体関係を欲したのであれば、まずは事実上破たんしていた婚姻関係に正式に終止符を打つべきであった。それが筋であるはずだ。そのような時間のかかるプロセスを経るまで我慢できなかったとすれば、さかりのついた雌犬(雌豚か?)としか言いようがない。己の性欲に負けた哀れな女でしかなかったということだ。そして、色に耽って最後は殺人者にまで身をおとしめた。もうこうなっては救いがない。

被害者の夫である男性には愛する妻を失い、気の毒このうえないことではあるが、できることなら一つたずねてみたい。犯人に異性として関心を持ち肉体関係を持つようになった時、相手が既婚者であるということを知らなかったのであろうか。犯人に求婚までしたというではないか。既婚者と知りながら関係を持ち、そして相手の婚姻が既に破たん状態にあるということを知り、求婚したのではないのか。この場合、やはり不倫にはかわりなく、それについては、犯人だけではなく、男性も社会的糾弾に甘んじなくてはあるまい。ましてや、相手がどうあれ既婚者であるにも関わらず求婚するとは、これまた破廉恥この上ない間男ぶりだ。

加えて、この男性、被害者と「真剣交際」を初めてからも犯人と肉体関係を持ち続け、その現場を被害者に目撃されたことすらあったというではないか。これまた恐れ入った所業だ。救いのない男だ。


不倫に始まる肉体関係の結果、一方は殺人者となり、もう片方は妻を失った。おそらく後者は事件後社会的にも肩身の狭い思いをしつつ日々を送っているに相違ない。


これが人の道を踏み外した男女のなれの果て。因果応報、自業自得以外の何ものでもあるまい。過去を悔み、苦しみもがき、世間の冷たい目に晒されながら余生を送るがいい。それが自らが導き切り開いた道なのだから。
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騒ぎ過ぎか?: 中国製冷凍食品問題

2008年02月02日 | Weblog
昨夕ラジオを聞いていたところ、リスナーから寄せられたコメントの何に、「騒ぎ過ぎは外交問題にも発展しかねない」という趣旨のものが。

確かにその可能性は否定できない。既に中国国内ではむしろ日本の対応を批判する報道や一般の声もあるとか。TVを見ていたところ、ひどいのになると「陰暴論」まで展開していた。

しかしながら、現今の我が国の状況は果たして「騒ぎ過ぎ」であろうか? 私はそうは思わない。

幸いに死者は出ていないものの、既に不特定多数の被害者が出ており、今中国製食品を口にすることは、我々日本の消費者ぬしてみれば、いわば「闇鍋」をつつくようなものである。問題の露見した特定の製品だけではなく、他にも「危険」が潜んでいる可能性がある以上、広範な回収、調査は致し方あるまい。しかも、今回このような騒動に至った背景には、過去にも中国製食品をめぐっては、問題が繰り返し起こってきたという事実もある。「またか!」にとどまらず、この後に及んでもあれもこれもそうではないかという疑心暗鬼が日本国中に拡散したとしても致し方あるまい。これまでに同様の問題の発生を再三繰り返してきた中国側の自業自得でもある。

もっとも、今回の問題は、我が方の国や企業の管理・検査体制の課題をも浮き彫りにしたわけで、中国の事情だけを俎上に載せれば良いという類の問題ではない。、

また、あることないことまで言いたてられれば、中国側もまた面白くはなかろう。もともと対日感情のよろしからぬ国だ。日本の反応に自国の世論が反日で反応を示せば、中国政府もそれをやり過ごすことはできまい。それゆえ、日本政府の対応もそうだが、それ以上にメディアは報道の仕方に十分配慮せなばなるまい。いたずらに不安や反中感情を掻き立てるような煽情主義に走らぬことだ。

たが、対中関係を損ねるからと言って、今の自主回収の流れを制止する必要はあるまい。これが初めてではないのだ。どこに毒物が混入しているのか、いないのか、それがわからぬ状況なのだ。場合によっては命にもかかわる危険性をもはらんでいるのだ。まさに「闇鍋」状態なのだ。予防措置、防衛措置として、まずはあらゆる中国製に疑義の目を向け敬遠するというのは致し方のない措置であるかと思う。
日中関係は好むと好まざると重要な対外関係の一つだ。だが、外交関係のために、自分たちの生命をいくばくかの危険に晒そうなどと言う気にはなれないし、そのつもりも毛頭ない。


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代理母出産に思うこと

2008年02月02日 | Weblog
以下、読売新聞の社説からの抜粋である。

国内での代理出産はこれまで、日本産科婦人科学会がガイドラインで禁じてきた。だが、長野県の医師がこれに反して次々に代理出産を実施し、ガイドラインで十分か、という声があった。
 米国など海外で代理出産を依頼するカップルは少なくなく、すでに100件以上あると言われる。

正直に言って、代理母出産そのものに対しては、私には定見がない。倫理上の議論があるが、これは結局見解の相違というものがひたすら平行線をたどるような、堂々巡りに終止することになる。家族の在り方云々と言ったところで、家族の在り方時代古今一様ではなく、これまた代理母反対論としての説得力は限定される。一方、家族の形態は一様ではないがゆえに、代理母が許容されるべきかと言えば、一部の人間の意思ないしは欲望や、一部の医療関係者の判断のみによって、社会的なコンセンサス形成の努力と過程も経ぬままに、なし崩し的に家族形態の変容・多様化は図られるのにも、横暴・傲慢の謗りは免れまい。妊娠出産のリスクを取り上げての反対論もあるが、将来を見据えた中長期のタイムスパンでとらえるならば、医学の進歩にこの特定のハードルを取り除くないしは低くすることを期待しても良いのではないのだろうかとも思い、恒久的な反対論の説得力ある論拠とはなり得ないのではないかとも思う。女性蔑視や差別の助長という議論には現状においては一定の説得力を持つと思う。子は親や自分の育つ環境を選べぬのだから、産む側、それを手助けする側は十分な配慮が必要であるはずだが、代理母というものへの社会的なコンセンサスがない現状で、差別や偏見を助長する懸念は払拭できまい。差別はいかん!というのは言うに易いことであり、その言葉自体に「錦の御旗」のような威力のようなものがあるが、差別を生み出す恐れのある社会状況の中で社会のコンセンサスなしに好き勝手しておいて、差別批判をするというのは、いささか手前勝手が過ぎるとも思う。またかりに差別という問題が生じたとして、それは一朝一夕にいくものではあるまいが、人の努力によって解消できるものではないのだろうかとも思う。

しかしながら、代理母出産そのものへの定見はなくとも、現状において代理母出産がおこなわれることには反対である。

理由は単純明快である。現状においては、社会的コンセンサスも無ければ、それを背景とした法律的な裏付けも無い。出産は個人の選択・自由に委ねられるべきものであるとの反論もあろうが、人が好むと好まざると社会の中に生きていく存在である以上、しかもこの日本国について言えば法治国家という社会体制のものとにある以上、その中で生きていく他者との利害や価値観の調和・共有というものは不可避に求められ、それゆえに、一個人の自由や権利は制限を受けることになる。個々人が無制限に自由や権利を主張し、それが許された時、社会はホッブズの言うところの状況を呈し、社会の調和、安寧、秩序は脅かさることになるであろう。

法的裏付けがないとは翻って考えれば、違法でないということになりえる。確かにそうかもしれない。しかしながら、そうした開き直りともとれる議論こそ、世論の支持を得ることはあるまい。近い過去を振り返れば、カネ儲けの世界においてかつてホリエモンなる人物は「法律に触れなければ何をしても良いのか!?」との批判を受けた。レッドではなくイエローカード程度の行為ならGo signと我が子に教えたとか教えないとかいわれた村上某も世間の論議の的となった。世論に法的な拘束力はない。しかしながら、我が国は民主国家であり、世論というものを背景に物事が動く傾向にある社会である。良くも悪くも。この現実において現今我が国では、法さえ犯していなければ、という理屈はむしろ「無法者」の所業とみなされる。


上掲の読売社説にある「長野県の医師」とは諏訪マタニティークリニックの根津医師のことを指すのであろうが、根津氏が個人として代理母出産の妥当性、必要性を説くのは自由である。だが、氏がいかなる信念のもとで代理母出産を実施しようとも、それがいまだ社会のコンセンサスを得ていない段階でのものである以上、それを社会的・医学的「暴挙」と言わずして何と言おうや。ましてやその「暴挙」に報酬が伴うものであるとしたら、氏の「信念」に対して、眉を唾でぬらさずにはおれぬ。かりにそうせずとも、氏の「信念」に基づく所業は、「思いあがり」ではないのか。

医師だけではない。「子供は欲しい」という個人の欲望・願望のおもむくままに、代理母出産を選択する人間が存在する。彼らもまた社会の調和や安寧を揺さぶりかねない「暴挙」を行う者たちなのである。高田・向井夫婦もその類だ。「暴挙」の挙句のメディアを駆使してのあの開き直りは見苦しい限りであった。

このまま代理母出産が繰り返されればどういう事態になるのか。おそらく無し崩し的に代理母出産は社会の現実として認知されていくのであろう。その時「社会的コンセンサスが得られたから文句はなかろう?」と賛成論は勝ち誇るのかもしれないが、かりに結果としてそうなったとして、過程において問題を抱え、手段を選ばずして得られた結果は代理母出産以外のところでその悪しき前例となるのではないだろうか。

と、「ガンダム SEED」の世界を思い浮かべつつ・・・。
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