犯人は、同僚の男性だった。
原因は交際のもつれだという。
しかし、被害者、加害者ともに既婚者で子供までいての交際だった。これを不倫という。
不倫とは文字通り、人としての倫(みち)ならぬ行為をいう。配偶者がありながら、かつ子供までなしておきながら、その人たちを裏切り、愛情や信頼関係をふみみじる。夫婦の間には人には言えぬ、親兄弟にさえも相談できぬようなこともあるかもしれない。それを共に堪忍しあいあながら乗り越えて生きていくのが夫婦というもののはずだ。まして子供がいるもなれば、なおさら堪忍すべきは堪忍せねばなるまい。場合によってはならぬ堪忍も求められる。夫婦関係がうまくいっていなから、相手も不倫しているからという理由で、不倫が正当化できるものではない。
そして人としての倫を踏み外した挙句が、一人は命を失い、もう一人は殺人者となった。自業自得、これ以外に言う言葉は見つからない。哀れではあるが、同時に分不様でもある。この二人の罪の更なる重さは、子供たちに親の過ちと罪科の因果を背負わせることにある。被害者の子供は、いずれものごころついて母親の不在を不審思い、家族に問うだろう。問われる家族もつらいが、母のいぬ子もつらい。「お前の母は降り泣いてに殺された」と幼子に言うわけにもいくまい。したがって、嘘をつく他ないが、成長すれば何のきっかけの真相を知るやもしれぬ。その時の子供の受ける衝撃を思うと不憫でならない。だが、子供も不憫と思えば、その子は自らに卑下した子に育ってしまうという。残された父親やその家族にとっても苦しみは続く。加害者の子供は、一生殺人犯の子として世間の後ろ指をさされることになる。法的に差別は許されなくとも、彼らが今後何らかの不利益を被ることは想像に難くない。これまた哀れなことだ。
人の倫を踏み外せば、あとはけもの道を歩むしかない。人の倫を踏み外して泣きをみるのは、本人たちだけでもない。何の罪科無い人たちまもが巻き込まれ、場合によっては人生を台無しにされる。
かくいう私も、不倫とはまったく関係ないのだが、かつて人間関係のもつれで期せずしてしかも間接的な関与で人を泣かせてしまったことがある。もう15年も昔のことで、若気の至りと言えばそれまでだが、きっとその当時私のしたことに涙を流したにはその人だけではなかったに違いない。当時はそんなことには思いも至らなかった。10年以上が過ぎて、自分がしたことと同じような目にあわされた。幸い、犯罪者になったわけでもなければ、犯罪被害者になったわけでもないのだが、大袈裟ではなく、これまでの人生で経験したことない苦しみと悲しみ、そして惨めさを味あわされた。家族にもひどく迷惑をかけた。あの時あの人やその家族もそうだったに違いない。人づてにその人は一時的に精神を病んでしまったと後から人図づてに聞いた。期せずしてしでかしてしまったとはいえ、良心の呵責が無かったといったらウソになる。心の片隅のどこかで「人を傷つけてしまった」という思いはあった。因果応報とはまさにこのことなのだと痛感した。幸いにして私の精神は病むほどに繊細ではなく、完全ではないが随分と傷も癒えた。いまだ相手を恨む気持ちが失せたかといえば必ずしもだが、恨みは人の心を荒ませる。ただ今は「許す」という気持ちにまではなれないから、思い出さないことにしている。でも、近いうちにすべてを許せるようになるような気がする。
経験者として言うが、人を傷つけたりすれば、必ずその因果は自分に帰ってくる。
不倫など尚更のことだ。裏切り傷つければ、必ず自分も同じあるいはそれ以上に飛散な目にあうことになるのだ。もういい加減にバカなまねはよそう・・・。
原因は交際のもつれだという。
しかし、被害者、加害者ともに既婚者で子供までいての交際だった。これを不倫という。
不倫とは文字通り、人としての倫(みち)ならぬ行為をいう。配偶者がありながら、かつ子供までなしておきながら、その人たちを裏切り、愛情や信頼関係をふみみじる。夫婦の間には人には言えぬ、親兄弟にさえも相談できぬようなこともあるかもしれない。それを共に堪忍しあいあながら乗り越えて生きていくのが夫婦というもののはずだ。まして子供がいるもなれば、なおさら堪忍すべきは堪忍せねばなるまい。場合によってはならぬ堪忍も求められる。夫婦関係がうまくいっていなから、相手も不倫しているからという理由で、不倫が正当化できるものではない。
そして人としての倫を踏み外した挙句が、一人は命を失い、もう一人は殺人者となった。自業自得、これ以外に言う言葉は見つからない。哀れではあるが、同時に分不様でもある。この二人の罪の更なる重さは、子供たちに親の過ちと罪科の因果を背負わせることにある。被害者の子供は、いずれものごころついて母親の不在を不審思い、家族に問うだろう。問われる家族もつらいが、母のいぬ子もつらい。「お前の母は降り泣いてに殺された」と幼子に言うわけにもいくまい。したがって、嘘をつく他ないが、成長すれば何のきっかけの真相を知るやもしれぬ。その時の子供の受ける衝撃を思うと不憫でならない。だが、子供も不憫と思えば、その子は自らに卑下した子に育ってしまうという。残された父親やその家族にとっても苦しみは続く。加害者の子供は、一生殺人犯の子として世間の後ろ指をさされることになる。法的に差別は許されなくとも、彼らが今後何らかの不利益を被ることは想像に難くない。これまた哀れなことだ。
人の倫を踏み外せば、あとはけもの道を歩むしかない。人の倫を踏み外して泣きをみるのは、本人たちだけでもない。何の罪科無い人たちまもが巻き込まれ、場合によっては人生を台無しにされる。
かくいう私も、不倫とはまったく関係ないのだが、かつて人間関係のもつれで期せずしてしかも間接的な関与で人を泣かせてしまったことがある。もう15年も昔のことで、若気の至りと言えばそれまでだが、きっとその当時私のしたことに涙を流したにはその人だけではなかったに違いない。当時はそんなことには思いも至らなかった。10年以上が過ぎて、自分がしたことと同じような目にあわされた。幸い、犯罪者になったわけでもなければ、犯罪被害者になったわけでもないのだが、大袈裟ではなく、これまでの人生で経験したことない苦しみと悲しみ、そして惨めさを味あわされた。家族にもひどく迷惑をかけた。あの時あの人やその家族もそうだったに違いない。人づてにその人は一時的に精神を病んでしまったと後から人図づてに聞いた。期せずしてしでかしてしまったとはいえ、良心の呵責が無かったといったらウソになる。心の片隅のどこかで「人を傷つけてしまった」という思いはあった。因果応報とはまさにこのことなのだと痛感した。幸いにして私の精神は病むほどに繊細ではなく、完全ではないが随分と傷も癒えた。いまだ相手を恨む気持ちが失せたかといえば必ずしもだが、恨みは人の心を荒ませる。ただ今は「許す」という気持ちにまではなれないから、思い出さないことにしている。でも、近いうちにすべてを許せるようになるような気がする。
経験者として言うが、人を傷つけたりすれば、必ずその因果は自分に帰ってくる。
不倫など尚更のことだ。裏切り傷つければ、必ず自分も同じあるいはそれ以上に飛散な目にあうことになるのだ。もういい加減にバカなまねはよそう・・・。