(愛知県新城市川路字寺ノ前 1993年7月8日)
設楽原勝楽寺前激戦地の一角に自然石の墓碑がある。武田勝頼に従って出陣した山本勘助晴幸の子信供は、高坂昌澄らと共に長篠城監視隊として寒挟川沿いに布陣した。勝頼から決戦の指示が出されると、竹広に転戦したが、既に武田軍は総崩れとなっており、信供は単騎で徳川家康の本陣を目指すも、徳川軍の渡辺守綱との戦いに敗れて、隣村大海の地で戦死した。その後、守綱は家康に信供の弔いを許され、勝楽寺前のこの地に墓碑が建立された。
(東京都目黒区八雲・中根)
隣の学芸大学同様、大学は移転し当地にはないものの、地域ブランド名として残る地である。八王子に移転した東京都立大学の跡地は「めぐろ区民キャンパス」(めぐろパーシモンホール・八雲中央図書館)となり、地域住民の文化施設となっている。元々の地名は近隣自由が丘同様に衾(ふすま)であったが、村社氷川神社の祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という日本初の和歌を校名由来とした八雲小学校から、町名も八雲と改められた。その氷川神社前の道は、古くからの商店街であり、途中には貞治四年(1365)世田谷城主吉良治家が、十歳で早世した子の祖朝の菩提を弔うために建立した東光寺があり、境内には祖朝、七代城主頼貞、八代城主氏朝娘の宝筐院塔がある。
高度成長時代初期に開業したトリツセンター
八雲商店街と呑川緑道
吉良家墓所のある曹洞宗泰陽山霊徳院東光寺
氷川神社
八雲住宅地
都立大学跡に建つ「めぐろ区民キャンパス」
北野神社と天神坂
(愛知県新城市大宮字南貝津 1993年7月8日)
設楽原柳田激戦地には圃場整備が完工してから初めて訪れたが、分流していた細い連吾川が一本に纏められていた。然し馬防柵が再現されている区間だけは、川の護岸がコンクリートではなく石垣を使用し、新しく架けられた柳田橋も欄干に工夫が施されていた。柳田に隣接する南貝津(断上山)の丘陵は、昭和26年(1951)開墾中に石器や弥生式土器(後期前、寄道式・後期末、欠山式)、炉跡が発見され、昭和33年(1958)市の史跡に指定された。昭和61年(1986)工業用地造成に伴い発掘調査が行われ、旧石器時代から古墳時代前期にかけての遺物や遺構、方形周溝墓等が検出されたが、今は連吾川同様に以前の面影はない。
南貝津
(関連記事:設楽原柳田前 大宮前 竹広 丸山 長篠城 鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 久間山 舟津 大通寺 医王寺山 天神山 バイパス築造地)
(東京都品川区上大崎・目黒区下目黒)
江戸町中より目黒不動を経て池上本門寺に至る目黒道が、大崎の高台から目黒川に向かって下って行く坂を行人坂と呼ぶ。それは、坂の途中に湯殿山の修験者大海によって創建された大圓寺があるからである。然しこの寺は、明和の大火(1772)の火元となり、強風によって白金、神田、湯島、下谷、浅草まで延焼し、更には江戸城の櫓にも飛び火した。その後幕府の再建許可が出なかったが、嘉永元年(1848)に至り、薩摩藩主島津斉興(なりおき)が菩提寺として再建した。境内には、大火によって犠牲となった人たちを供養するために彫られた多くの石仏がある。
勢至堂
坂守天人像
天台宗松林山大圓寺
行人坂
坂下の雅叙園
目黒川
(愛知県宝飯郡御津町豊沢字引釣・大沢 1993年7月1日)
南北朝時代に波多野(森下)忠義が相模国秦野荘(神奈川県秦野市)から御津荘森下村(明治9年茂松村と合併し豊沢村となる)に移り築いた城である。子の行近は御津荘司を務めた。忠義から数え六代目の政家は足利氏族細川氏に仕えた被官であり、同じく足利氏族一色氏の被官であった七代時政(全慶)は、謀反を企て一色城で一色時家を討った。そして明応二年(1493)灰塚野(灰野原:森下隣村の灰野村か、明治9年金割村と合併し金野村となる)の戦いの際、時政(全慶)は牧野成時(古白)に討たれている。
(東京都世田谷区奥沢 旧村社)
奥沢城城代を務めた吉良氏臣大平氏が誉田別命(ほんだわけのみこと)を勧請し、八幡神社を創建したのが始まりという。幕末には社務所で寺子屋が始まり、その後の八幡小学校(玉川田園調布)に繋がっていった。明治42年(1909)村内の子安稲荷神社を合祀し、奥澤神社と改称している。
左めぐろみち 右品川みち 如意輪観音道標
(愛知県豊川市為当町三津市場・仲上 1993年6月28日)
御津町広石との境であるこの地は、音羽川に沿って築造された中世の条里制遺構のある地である。八名郡多米村(豊橋市多米町)と同じく、多米連(ためのむらじ)あるいは、多くの米が獲れる地を意味したと推定できる。因みに写真の木造の橋は閑通寺橋である。
(聖フランシスコ修道院と西岡47号墳 東京都大田区田園調布)
多摩川台に連なる高台に建つ、昭和6年(1931)カナダフランシスコ会の宣教師が創立したカトリック田園調布教会は、アシジの聖フランシスコ(フランシスコ会創設者ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ1182-1226)を保護の聖人としていることから、聖フランシスコ教会とも呼ばれる。 現在の聖堂は昭和30年(1955)に建てられたもので、翌年アシジの広場造成の際に直径30mの円墳、修道院構内古墳(西岡47号墳)の墳丘が改変され、マリア像が立つ現在のような姿となった。
アシジ広場の西岡47号墳
(愛知県宝飯郡一宮町一宮字大ブロ 1993年5月20日)
一宮中部地区区画整理事業が開始され、それまでの道が少なくかつ、細い道の畑が変わりつつあった。築造された町道の傍ら(23-44番地)に集石があり、その中に弥生時代中期とみられる太型蛤刄(はまぐりば)の磨製石斧(柄部欠損、現状長8.8cm,幅5.8cm)があった。道路築造の掘削によって出土したのか、耕作によって出土したのかは不明であるが、この付近にも古代の営みの痕跡が存在した訳である。今回の地点から西150mには、やはり石斧の出土した字大ブロの西部小学校。南250mから磨製石斧が出土した、字宮前のオーエスジー宮前工場。東400mの字西垣内、砥鹿(とが)神社背後(縄文~平安)。字宮前、砥鹿神社前方(縄文~桃山)等の遺跡がある。今回の地点と、西部小学校、オーエスジーの3地点はそれぞれ住居跡が存在したような遺物が出土していない。今後解明されるかもしれないが、現状では後の砥鹿神社付近の河岸段丘端に居住していた人たちが、樹木伐採や開墾等で3地点付近を訪れ、石器が破損したために置き去ったものが現在に至って遺物として残ったものと考えられる。因みに「大ブロ」等、この地方のブロの付く地名は、社叢(神域の森)を意味し、大ブロは砥鹿神社の大きい森を表す。
(東京都大田区田園調布 旧村社)
多摩川を見下ろす多摩川台の浅間神社古墳(前方後円墳,全長60m,円筒埴輪,形象埴輪(人物,鹿,馬)が出土,5世紀末から6世紀初の築造)の後円部上に鎮座する神社である。神社の創始は、治承四年(1180)源頼朝が配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦(神奈川県小田原市)で敗れて一時安房(千葉県)に逃れたが、上総、下総を経て隅田川を渡り、豊島郡滝野川(東京都北区)に陣を敷いた。夫の身を案じた妻の政子は、後を追ってこの多摩川畔まで来たが、草鞋の擦り傷が痛み、やむなくこの地で傷の治療をすることになった。亀甲山(かめのこやま:多摩川台古墳の一つ)へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えた。政子は富士の浅間神社に向かって手を合わせ、夫の武運長久を祈り、自身の念持仏「正観世音像」をこの山に祀った。村人たちはこの像を富士浅間大菩薩として崇め、これが多摩川浅間神社の始まりと伝わる。その後、承応元年(1652)浅間神社表坂の土留め工事をした際、銅製の正観世音の立像が発見された。その像を多摩川で洗うと片足がなかった。そこで不足部分を鋳造して修理し祭礼を行った。以後、神社の祭礼は像が発見された六月に行われているという。
右側の碑は勝海舟直筆彫刻の「食行身禄(富士講行者)之碑」
東横線複々線化によって失われた浅間神社古墳前方部
子産石
小御岳石尊(富士信仰)
(愛知県豊橋市今橋町 1993年5月23日)
豊橋市役所新庁舎建設に伴う吉田城三ノ丸米蔵跡付近の発掘調査が行われ、室町時代末期の今橋城(吉田城の前身)のものと推定される堀や、建物周囲の溝が検出された。
(関連記事:吉田城)
(川崎市中原区木月)
昨年初めて訪れたモトスミは、東横沿線の他の駅前商店街に比べ、格段に商店数が多く活気が感じられた。
東急元住吉車庫
オズ通り綱島街道入口
元住吉駅から武蔵小杉方面を望む
(関連記事:元住吉平成二十七年)
(愛知県豊川市市田町片瀬 1993年5月6日)
赤塚山西側、豊川市営墓地周辺が伐採、開発されていた。墓地自体はそのままであるが、横方、裏方が削られ、大きな石の上に乗る石祠が露になっていた。その近くには塚あるいは古墳のような土盛りがあり、裾の一部が今回の開発により削られていた。墓地の下で農作業をしている人にこの開発のことを尋ねてみると、墓地を拡張するために山を削ったようで、現状以上範囲は広げないということであった。また、祠について、昔からあるが詳しいことは分からない。ただ、お稲荷さんであるという人がいると話してくれた。この日は夕方であったため辺りが暗く、日を改めて訪れることにした。そして、改めて訪れ、標高約35mの斜面に最大横270cm,最大縦150cm,露出高80cmの石室の蓋石のような長方形の岩の上に、記銘のない江戸時代とみられる石祠があり、裏方には少し小さな岩が一つ並んでいた。この祠の北東約8mに土盛りがあり、斜面のため下方へ少し垂れているような形していて、南北約15m,東西約12m,高さ約4mであった。また、土盛りの北裾に東西約3m,南北約5mにわたって陥没のような穴が開いていた。近くの霊場巡礼参拝道で一ヶ所陥没しているところがあり、祠の下側の崖も多少ショベルで手を付けただろうが、陥没のような落ち込みに見え、それら陥没地点を一本の線で結ぶことができた。南東1kmには豊川海軍工廠があり、ここに防空壕を掘ったのであろうと思われる。赤土で掘り易いこともあるが、代わりに崩れ易いのでこのような状態になったのであろう。そして、土盛りであるが、古墳と仮定するならば、斜面で変形しているにも関わらず墳高が高く、石祠の敷石を石室の石とすると6世紀頃と推定できる。然し、大小2個の石だけが土盛りから若干離れて、何故それだけが残るのか。この石が出ているということは、内部が既に出されている可能性もある。更に他の石材があってもよい筈であるが、ないということは祠や墓地が造られた江戸時代頃、墓地の土留めに使われた可能性も考えられる。また、石材が抜き取られたとすれば、墳形が崩れ跡形として残る筈だが、された時期が古いことと土砂が下方へ流出し、目立たなくなったとも推定できる。
現場のスケッチ
(綱島街道 横浜市港北区綱島)
鶴見川と早渕川によって形成された中洲(砂島)の地である。故にかつては氾濫が多く、それを鎮めるべく石造の信仰対象物や祠等が比較的多い。江戸時代は東海道神奈川宿から綱島を経て、丸子(川崎市中原区)、溝口(川崎市高津区)に至る綱島街道(稲毛道)が往来し栄えた。近代に入り、大正時代になると冷泉が湧出した。大正15年(1926)には綱島温泉駅(1944-綱島駅)開業して、「綱島温泉」として最盛期には旅館等80軒もの一大温泉地となったが、次第に衰退し現在宿泊施設はなく、変わって駅前商店街となっている。綱島駅の東方には、相鉄線と東急線が相互乗り入れする神奈川東部方面線新綱島駅が予定され、それに伴う開発が行われている。
鶴見川
厳島神社(弁財天)
自然石の道祖神
平内稲荷
綱島街道
パナソニック綱島事業所跡で開発が進むTsunashimaサスティナブル・スマートタウン(綱島SST)
(愛知県宝飯郡一宮町豊津 1993年3月23日)
一宮中部地区圃場整備事業により辺りは一変した。それまでの不規則な区割りの耕地から碁盤状に改修され、旧松原用水も現在の流量に沿った幅へと改修されつつあった。旧松原用水は、明治2年(1869)豊川への河口の付け替えが行われた宝川の流路跡を利用して、松原用水の前身である大村井水の取水口がそれまでの日下部(草ヶ部)村から松原村に変更されてから、昭和43年(1968)牟呂松原用水頭首工に統合され、照山分水工井嶋サイフォン経由となるまで、松原・豊津地区を流れていた旧水路である。工事によって削られた用水の護岸を見ると、初期の石積みや、陶磁器の破片等が散見していた。
元々は三枚の板を渡しただけであった見板橋(三板橋)