flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

市田片瀬

2016-09-03 00:00:00 | ご近所漫ろ歩き

(愛知県豊川市市田町片瀬 1993年5月6日)
 赤塚山西側、豊川市営墓地周辺が伐採、開発されていた。墓地自体はそのままであるが、横方、裏方が削られ、大きな石の上に乗る石祠が露になっていた。その近くには塚あるいは古墳のような土盛りがあり、裾の一部が今回の開発により削られていた。墓地の下で農作業をしている人にこの開発のことを尋ねてみると、墓地を拡張するために山を削ったようで、現状以上範囲は広げないということであった。また、祠について、昔からあるが詳しいことは分からない。ただ、お稲荷さんであるという人がいると話してくれた。この日は夕方であったため辺りが暗く、日を改めて訪れることにした。そして、改めて訪れ、標高約35mの斜面に最大横270cm,最大縦150cm,露出高80cmの石室の蓋石のような長方形の岩の上に、記銘のない江戸時代とみられる石祠があり、裏方には少し小さな岩が一つ並んでいた。この祠の北東約8mに土盛りがあり、斜面のため下方へ少し垂れているような形していて、南北約15m,東西約12m,高さ約4mであった。また、土盛りの北裾に東西約3m,南北約5mにわたって陥没のような穴が開いていた。近くの霊場巡礼参拝道で一ヶ所陥没しているところがあり、祠の下側の崖も多少ショベルで手を付けただろうが、陥没のような落ち込みに見え、それら陥没地点を一本の線で結ぶことができた。南東1kmには豊川海軍工廠があり、ここに防空壕を掘ったのであろうと思われる。赤土で掘り易いこともあるが、代わりに崩れ易いのでこのような状態になったのであろう。そして、土盛りであるが、古墳と仮定するならば、斜面で変形しているにも関わらず墳高が高く、石祠の敷石を石室の石とすると6世紀頃と推定できる。然し、大小2個の石だけが土盛りから若干離れて、何故それだけが残るのか。この石が出ているということは、内部が既に出されている可能性もある。更に他の石材があってもよい筈であるが、ないということは祠や墓地が造られた江戸時代頃、墓地の土留めに使われた可能性も考えられる。また、石材が抜き取られたとすれば、墳形が崩れ跡形として残る筈だが、された時期が古いことと土砂が下方へ流出し、目立たなくなったとも推定できる。
  
 現場のスケッチ

コメント
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