(岐阜県恵那市)
中山道大井宿本陣の東には、内城稲荷神社が建っている。
稲荷神社に隣接する城ヶ丘保育園から大井小学校にかけて、横町川に沿うようにかつては城が存在したという。また、地名にも内城、城畑がある。
明治初年頃まで城跡には加子母神社が存在し、その後大井町内の武並神社に合祀された。
その武並神社に伝わる「御縁起」によると、承久二年(1220)新田四郎左衛門義清とその子、加子母城主淡路守義綱が、鎌倉三将軍の廟に詣でて、廟の周囲に生えていた杉の子株三本を持ち帰るとある。
平成8年の大井小学校校舎建設に伴う発掘調査で、旧城地とみられる範囲は近世の地形改変によって撹乱しているものの、校舎と運動場の間付近で中世の堀切跡が検出された。
また、ここから北約400m大井町城の欠にも、大井城とも称する土岐氏の鷹撃谷城が存在する。
中山道大井宿本陣の東には、内城稲荷神社が建っている。
稲荷神社に隣接する城ヶ丘保育園から大井小学校にかけて、横町川に沿うようにかつては城が存在したという。また、地名にも内城、城畑がある。
明治初年頃まで城跡には加子母神社が存在し、その後大井町内の武並神社に合祀された。
その武並神社に伝わる「御縁起」によると、承久二年(1220)新田四郎左衛門義清とその子、加子母城主淡路守義綱が、鎌倉三将軍の廟に詣でて、廟の周囲に生えていた杉の子株三本を持ち帰るとある。
平成8年の大井小学校校舎建設に伴う発掘調査で、旧城地とみられる範囲は近世の地形改変によって撹乱しているものの、校舎と運動場の間付近で中世の堀切跡が検出された。
また、ここから北約400m大井町城の欠にも、大井城とも称する土岐氏の鷹撃谷城が存在する。