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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

小田原城

2007-10-04 00:30:15 | 城郭・城下町

(神奈川県小田原市 国指定史跡 日本100名城23番 日本の歴史公園100選85番)
 元々この地には小早川氏が住んでいたという。
その後応永の時代には、上杉禅秀の乱によって小田原は上杉氏臣大森氏の縄張りとなった。然し明応の時代になると、北条早雲のものとなり、惣構えの築造が始まった。
 北条氏康の代の永禄四年(1561)上杉謙信が攻め入り、永禄十二年(1569)には武田信玄が攻め入ったが、その構えもあって回避できたという。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉は近隣早川の笠懸山に石垣山の城を築き、大軍を率いて小田原城を攻めた。そして徳川家康の領土となり、臣大久保忠世が四万五千石で入った。
 忠世の子忠隣のとき改易となり、元和五年(1619)上総大多喜から阿部正次が入った。元和九年(1623)に正次は武蔵岩槻に移り、寛永九年(1632)までの間番城となったが、下野真岡から稲葉正勝が八万五千石で入城となり、城郭改修が開始された。
 貞享三年(1686)には再び大久保氏が入城し、廃藩まで続いた。
廃藩により二の丸平櫓以外の建造物は取り壊され、明治34年(1901)に御用邸が建てられたが、関東大震災によって被害を受け廃止となった。またこのとき、二の丸平櫓も破損し、当時からの建造物は皆無となった。
 昭和2年(1927)小田原町に払い下げられ、昭和9年(1934)隅櫓(旧二の丸平櫓)、昭和35年(1960)天守、昭和46年(1971)常盤木門がそれぞれ再現された。
平成5年(1993)には「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」が打ち出され、平成9年(1997)には枡形石垣を含め銅門が再現された。現在も馬出門の再現工事がされている。
        
                                  (規模が縮小された旧二の丸平櫓)

(関連記事:相州小田原 小田原城平成二十六年

コメント (2)
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