(吉祥山城 愛知県豊川市金沢町・新城市八名井)
元亀四年(1573)野田の戦いの際、徳川家康勢三千が陣を敷いたという旗頭山(98m)は、吉祥山(382m)の支丘であり、古墳時代終末期の積石塚といわれる尾根古墳群が存在する山でもある。
その旗頭山も、連なる山と共に古墳群の文化財指定範囲外は年々採石によって縮小していっている。
南朝史学会によると、南朝延元年中(1336-39)一宮町金沢(現豊川市)吉祥山旗頭城が存在したとしている。
また、私が昭和53年から56年にかけて付近を訪れた際に、付近の何人かの住民から「八名井神社、龍雲寺の辺りにお城があったという言い伝えがある」という話しを聞かされた。確かに八名井神社を中心に、西屋敷、下タ屋敷、上地屋敷、豊辺屋敷等の地名が残っている。
(関連記事:川添道八名井 今水寺跡)
元亀四年(1573)野田の戦いの際、徳川家康勢三千が陣を敷いたという旗頭山(98m)は、吉祥山(382m)の支丘であり、古墳時代終末期の積石塚といわれる尾根古墳群が存在する山でもある。
その旗頭山も、連なる山と共に古墳群の文化財指定範囲外は年々採石によって縮小していっている。
南朝史学会によると、南朝延元年中(1336-39)一宮町金沢(現豊川市)吉祥山旗頭城が存在したとしている。
また、私が昭和53年から56年にかけて付近を訪れた際に、付近の何人かの住民から「八名井神社、龍雲寺の辺りにお城があったという言い伝えがある」という話しを聞かされた。確かに八名井神社を中心に、西屋敷、下タ屋敷、上地屋敷、豊辺屋敷等の地名が残っている。
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