小説「新・人間革命」
【「聖教新聞」 2012年 (平成24年)5月23日(水)より転載】
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人材城37(5/23)
牧口常三郎は、一八九九年(明治三十二年)七月、北海道師範学校の附属小学校で主事事務取扱(校長代理)となり、さらに、翌年一月、師範学校の舎監となる。二十八歳の時である。
しかも牧口は、地理学の研究を重ね、原稿も書きためてきた。この原稿を携え、東京に渡った。一九〇三年(同三十六年)十月、彼は『人生地理学』を出版する。それは、「地理学は地と人生との関係を説明する科学なり」との観点から、風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探究した書であった。
学者としては無名の牧口の著作であったが、後に京都帝国大学教授となる地理学者の小川琢治は、高く評価した。
社会学者・田辺寿利も、「この書の出現によってわが国の地理学がその外貌を一変した」と感嘆している。
牧口は『人生地理学』出版の直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院(後に宏文学院)の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。
日本は日清戦争に勝利していたことから、蔑視の眼で中国人を見る日本人もいた。
牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。
また、牧口は、高等女学校に進みたくとも、経済的な事情などから進学することができない子女の教育の場として、通信教育を行う大日本高等女学会を創立している。
人間が円満な社会生活を送っていくためには、教育は不可欠である。ゆえに、“学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい”というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。
彼の胸中に燃え盛っていたのは、眼前の一人の児童、生徒、学生に、“なんとしても幸福な人生を生き抜いてもらいたい”と願う、慈愛の情熱の炎であった。
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しかも牧口は、地理学の研究を重ね、原稿も書きためてきた。この原稿を携え、東京に渡った。一九〇三年(同三十六年)十月、彼は『人生地理学』を出版する。それは、「地理学は地と人生との関係を説明する科学なり」との観点から、風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探究した書であった。
学者としては無名の牧口の著作であったが、後に京都帝国大学教授となる地理学者の小川琢治は、高く評価した。
社会学者・田辺寿利も、「この書の出現によってわが国の地理学がその外貌を一変した」と感嘆している。
牧口は『人生地理学』出版の直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院(後に宏文学院)の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。
日本は日清戦争に勝利していたことから、蔑視の眼で中国人を見る日本人もいた。
牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。
また、牧口は、高等女学校に進みたくとも、経済的な事情などから進学することができない子女の教育の場として、通信教育を行う大日本高等女学会を創立している。
人間が円満な社会生活を送っていくためには、教育は不可欠である。ゆえに、“学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい”というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。
彼の胸中に燃え盛っていたのは、眼前の一人の児童、生徒、学生に、“なんとしても幸福な人生を生き抜いてもらいたい”と願う、慈愛の情熱の炎であった。
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