ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

5 スサノオはどこにいたの?

2008-11-20 10:03:23 | Weblog
●ホビット 080910 10:50(こちらは、080909 22:40)

 今、アンデスのエルドラド(黄金郷)からメールしています。深夜、一人で調査結果をまとめている最中です。
 急な呼び出しがかかり、出雲の打ち上げに行けなくて失礼しました。

 私は、論より証拠、論より現地派です。
 5W1H(いつ、どこで、誰が、どうした、何のために、どのようにして)のうち、一番大事なのは、どこで、と考えています。最終的には、遺跡の裏付けが必要であり、そのためには、「どこで」が一番重要となります。
 スサノオを論じるなら、スサノオが生まれ、結婚し、即位し、死んだ場所こそが決め手と考えます。その記録や伝承が残っている土地で痕跡を捜すことが、課題と思います。
 考古学というと、たまたま工事現場からでてきた遺跡を発掘するという仕事に追われていますが、本来は、一定の歴史仮説を立て、そこから遺跡の所在を推定し、発掘して仮説を裏付ける、というのが歴史科学のあり方ではないか、というのが私の持論です。
 邪馬台国論争が、いつまでシュリーマン以前のように、机上の論争に終始しているのは理解に苦しみますね。
 
 私は、スサノオについても、「どこ」にこだわりたいなあ。

●マル 080910 12:50

 どうやらアンカーは私のようですね。
 今、仕事で倉敷市にきています。柳並木を見ながら、喫茶店、エル・グレコで食後のコーヒーを味わっています。

 しかし、まだアイデア出しの段階なので、今回は、私も提案者になります。
 前に福山市の仕事をした時に、素盞嗚神社に行ったことがありましたが、ここには「備後国風土記」逸文に載せられている有名なスサノオの茅の輪(ちのわ)伝説、蘇民将来伝説があります。
 スサノオが南海の王女を訪ねた帰り道、ここで宿を求めたところ、金持ちの弟は断り、貧しい兄の蘇民将来はスサノオを泊めてもてなしたところ、帰る際に茅の輪をさずけて、疫病が流行った時に、腰に付けて家を出ないよう、言い残したといいます。そして、その後、疫病が流行った時、蘇民将来の一家は助かり、弟の一家は亡くなったと伝わっています。
 今も、各地の神社で茅の輪をくぐったり、蘇民将来のお札を求めて貼るのは、この言い伝えにもとづいているといわれています。
 京都の祇園の八坂神社が姫路の広峰神社から分祠されるなど、疫病が流行ると素戔嗚大神が頼りにされたようです。

 私など、全国各地で仕事をしていると、いろんな伝承に出会います。古事記・日本書紀や風土記などの文献からだけでなく、各地にスサノオを祀る神社があり、伝説が残っていることからのアプローチが必要と思います。これらの伝承には後世の創作も多く混じっているでしょうが、全てが創作である、と決めつける証拠はないように思います。
 貧しい、親切な民衆を助けるというスサノオの言い伝えが各地に残っているということは、古代の英雄・スサノオの実在性を示しているのではないでしょうか? (日南虎男)

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