ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団131 『古事記』が示すスサノオ・大国主建国王朝

2020-03-30 18:23:58 | スサノオ・大国主建国論
 8年前(2012年5月)に書き、縄文の講演会で出合った大学先輩の山岸修氏が編集長をつとめていた『季刊日本主義』16号(120615)に掲載された原稿をもとに、一部、加筆・修正しました。
 「スサノオ・大国主建国論」の全体像をまとめており、古いものですが紹介したいと思います。
 なお、『季刊日本主義』は廃刊になりましたが、古代史について次のような原稿を掲載していただきました。ネットで購入可能です。雛元昌弘

<『季刊日本主義』掲載の古代史小論一覧>
 「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(18号:2012夏)
 「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(26号:2014夏)
 「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(31号:2015秋)
 「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(35号:2016秋)
 「古代ー現代を通底する『和』と『戦』の論理(36号:2016冬)
 「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(43号:2018秋)
 「言語構造から見た日本民族の起源」(42号:2018夏)
 「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(44号:2018冬)
 「漂流日本」から「汎日本主義」へ(45号:2019春)

『古事記』『日本書紀』などが伝えるスサノオ・大国主の建国
 712年作成の『古事記』によれば、「大穴牟遅(おおなむぢ)と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき」と書かれ、この国は大国主(大穴牟遅、な=穴=国)と少彦名によって建国され、少彦名が死んだ後は、大国主と大物主(スサノオの御子の大年:代々襲名)が協力して国作りを行ったとされている。
 720年完成の『日本書紀』一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め、「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えている。733年完成の『出雲国風土記』は、大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とし、その180人の御子の一人の名前は阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)であり、「鉏(鋤)」によって建国した王としている。 
 大国主は「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と妻のスセリヒメが嫉妬して歌ったように、海を巡り、百八十人の御子を各地にもうけたとされている。その範囲は、越から筑紫にまで及んでいる。
 『古事記』にはスサノオ~大国主7代、大国主10代、合計16代の王の系譜が記されているが、この大国主10代の王達は、大国主を国譲りさせて出雲の後継者となったホヒ(天菩比神)・ヒナトリ(建比良鳥命、武日照命・武夷鳥命)親子とは別の、筑紫の大国主一族と考えられる。
 『古事記』『日本書紀』『出雲国風土記』を認めるならば、この国の建国はスサノオ・大国主によって行われたことを承認しなければならない。

大国主・少彦名の「日本の中心になるはずであった」との建国伝承が伝わる高御位山(兵庫県高砂市)
(天皇家の皇位継承は「天津日嗣(ひつぎ)高御座(たかみくら)之業」と言われる)


「皇国史観」対「反皇国史観」の2つのフィクション
 しかしながら、わが国の古代史は、天皇制をめぐる左右のイデオロギーに支配され、「皇国史観(天皇を神とする征服王朝史観)」と「反皇国史観(日本神話は記紀の創作)」という2つの虚構(フィクション)の中をさまよってきた。
 私が50数年前の学生時代に「歴史教科書と思って読め」と友人に勧められた井上光貞氏の『日本国家の起源』(岩波新書)は「日本神話は、国家観念の形成過程を知るためには最も大事な材料ではあるが、国土統一の史的過程をたどるという主旨からいえば、はじめから問題の外においてよいであろう」と日本神話を切り捨てている。
 この2つの史観に共通するのは『古事記』に書かれている「スサノオ・大国主王朝」の建国史の隠蔽、抹殺である。
 一例をあげよう。『古事記』は稗田阿礼が暗唱していた『帝紀(帝皇日継)』(天皇の系譜)と『旧辞(先代旧辞)』(伝承)を太安万侶が書き記したという嘘がいまだにまかり通っている。しかしながら、『古事記』序文を読んでみれば誰にでもわかるが、太安万侶はそのようなことは一言も書いていない。
 稗田阿礼は「目に度(わた)れば口に誦(よ)んだ」のであり、音(音を漢字一字で表す万葉仮名)と訓(漢字を意味で読む)のチャンポンで書かれた『帝紀』と『旧辞』などを読む能力を持った「音訓文解読学者」であった。口承文化の担い手などではなく、遣隋使・遣唐使などの漢文を習った天皇家の学者達には読むことができなかった日本独自の漢字表記の継承者であったのである。私は、稗田阿礼は蘇我氏が編纂した『天皇記』『国記』の作成に関わったれっきとした歴史学者であったと考えている。
 この古事記序文を無視して「稗田阿礼暗唱(丸暗記)説」がなぜ登場したのであろうか?
 それは「皇国史観」「反皇国史観」のどちらもが、『古事記』を最初に書かれた歴史書としては認めたくなく、「『古事記』は口承を記したもので信用できない」としたかったからである。
 「皇国史観」は『古事記』に記されたスサノオ・大国主建国史を無視して「万世一系の天皇による建国」にするためには、天皇家の先祖が薩摩半島南西端の笠沙(かささ)の猟師(山幸彦=山人)ではどう考えても都合が悪い。「反皇国史観」はアマテラス神話は認めたくないから、スサノオ・大国主神話ともども虚構として抹殺したのである。
 戦後、天皇が神から人間に降格されて「皇国史観」が否定されたとき、『古事記』は再検討され、神話とされたスサノオ・大国主やアマテラスなど神々の物語を人間の歴史として再構築しなければならなかったのである。しかしながら、「反皇国史観」は「たらい水(アマテラス神話)」とともに、「赤子(スサノオ・大国主神話)」も流してしまったのである。
 『古事記』は、わが国の最初の歴史学者、太安万侶と稗田阿礼が作成した最古の歴史書である。私たちはこの二人の古代知識人に敬意を払い、「皇国史観」「反皇国史観」という古くさい二つの古代史フレームから離れ、『古事記』の再評価を行う必要がある。

「天皇家建国史観(大和中心史観)」から「スサノオ・大国主建国史観」へ
 私は大学では建築学科で地域計画を専攻し、全国各地の主に市町村の各種の計画づくりに従事していたが、2001年秋に青森県東北町で坂上田村麻呂が書いたとされる「日本中央」の石碑に出会い、この「日本」の解明から古代史の探究に入り、2009年に『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院:日向勤ペンネーム)を上梓した。

『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院:日向勤ペンネーム)


 実は、私の父の実家は岡山の山奥の山村の出身であるが、集落30戸は「ひな」を名乗っており、江戸時代中期からの墓には「日向(ひな)」、提灯には「日南(ひな)」と書き、本家であった実家は明治に入って「日本(ひなもと:おそらく日向本を縮めたのであろう)」の名字を届けたところ、役場から勝手に「雛元」名字に変えられている。「日本中央」の石碑を東北町で見たときに、「日本」を「にほん」「やまと」「ひのもと」ではなく「ひなもと」読みではないか、と私は直感したのである。リタイア後に調べてみようと思っていたのであるが、続いて三沢市か十和田市の仕事をしていた時、八甲田連峰に雛岳があることに気づき、仕事のかたわら調査を始めることになった。
 この『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』は、全国各地の仕事先で出合ったスサノオ・大国主伝承を網羅した粗い仮説的な「スサノオ・大国主王朝建国史」であったため、私が開いている5つの古代史ブログ、「霊の国―スサノオ・大国主命の研究」「霊(ひ)の国の古事記論」「神話探偵団」「邪馬台国探偵団」「帆人の古代史メモ」でその深化を図り、リタイア後に『スサノオ・大国主王朝建国史』『古事記・播磨国風土記から日本神話を解明する』『邪馬壹国を掘ろう』『「委」「倭」「大和」「日本」国名の謎を解く』『霊(ひ)の国の宗教史』『前方後円墳体制論批判』などの本をまとめようと思っていた。
 ところが、その矢先に東日本大震災と福島第1原発事故がおこり、計画は中断せざるをえなくなった。しかし、天皇家以前の神話時代の古代史を解明しようとする私の新たな基本フレームはほぼ出来上がっている。
 現在、「古代史村」の研究者の大勢は「皇国史観」対「反皇国史観」の枠組み(フレーム)から、「新皇国史観(天皇建国史観)」とでもいうべき、左右の「大和中心史観」(邪馬台国大和説・邪馬台国東遷説)と、古田武彦氏らの「九州王朝説」「多元的古代国家説」、安本美典氏らの「九州邪馬台国東遷説」、天皇家の起源を朝鮮や中国に求めるいくつかの説などが対抗しているが、私は「スサノオ・大国主建国説」という新たな古代史パラダイムを提案している。
 この「大和中心史観」対「スサノオ・大国主王朝建国史観」の対立軸は、具体的には「精霊・太陽信仰説」対「霊(ひ)信仰説」、「征服王朝史観」対「霊(ひ)継ぎ王朝史観」、「農耕民族史観」対「航海・通商民族史観」、「天国史観」対「海人(あま)国史観」、「アマテラス神話論」対「スサノオ・大国主神話論」、「スサノオ・大国主・アマテラス同時代説」対「スサノオ・大国主命六代、スサノオ・アマテラス一六代乖離説」、「アマテラス=卑弥呼説」対「アマテラス=卑弥呼モデル説」、「邪馬台国東遷説・畿内説」対「委奴・壱岐・伊都・山壹国九州説」、「倭(わ)国史観」対「委(い、ひ)国史観」、「神武東征・東遷説」対「神武傭兵説」、「天皇家による前方後円墳体制論」対「スサノオ・大国主一族による方墳・前方後方墳・前方後円墳体制論」などである。
 『魏書東夷伝』倭人条、『古事記』、『播磨国風土記』の3歴史書をたんねんに読み解き、人=神を祀る神社伝承や民間伝承、地名、考古学と総合して分析すれば、この国の建国史は合理的に解明することができると考える。

「霊(ひ)信仰」こそが「古事記」を読み解く鍵
 戦後の「反皇国史観」の決定的な誤りは、侵略戦争の精神的な支柱となった「アマテラス神道」を否定するあまり、古代人の「霊(ひ)信仰」「八百万神信仰」から離れて古代史を構築しようとしたことにある。
 私は宗教を「自然崇拝」→「祖先霊崇拝(霊は大地に帰り、黄泉(よみ)帰る)」→「首長霊崇拝(王の霊は昇天し、降地して次王に霊(ひ)継ぎされる)」→「絶対神信仰(世界宗教)」の4段階でとらえ、「首長霊崇拝」こそが初期古代国家の成立と古墳時代の幕開けであり、「世界宗教」である仏教の導入こそが天皇家の古代統一国家の成立を示すと考えている。
 沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ひ」「ひーな」と言い、茨城・栃木ではクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」(『和名抄』から続く)と呼んでいる。また、出雲では女性が妊娠したことを「霊(ひ)が留まらしゃった」といい、茨城では死産のことを「ひがえり(霊帰り)」といっている。
 新井白石は「人」を「ヒ(霊)のあるところ(ト)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で、「姫」「彦」「卑弥呼」などを「霊女」「霊子」「霊巫女」と解釈している。
 『古事記』で天之御中主神に次いで二番目・三番目に登場する神は高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)であるが、『日本書紀』では「高皇産霊神」「神産霊神」と書かれている。「日」=「霊」であり、この2神は古事記序文で「二霊群品の祖」と書かれているように「霊(ひ)」を産んだ夫婦神であり、神産巣日神は大国主の危機を何度も助ける守り神で、「別天神」5神の2・3番目の神として出雲大社正面に祀られている。なお、「別天神」は倉野憲司校注の『古事記』では「ことあまつかみ」とされており、倭音で表せば「別れたあまのつの神」になり、元々「天(海、海人)の津」から分祀した神であり、対馬を中心とした海人族の神である。
 「二霊群品の祖」を祀るこの国は「霊(ひ)の国」であり、アマテラスとスサノオの「宇気比(うけひ)」は「受け霊(ひ)」、王や天皇の王位継承儀式の「日継(ひつぎ)・日嗣(ひつぎ)」は「霊(ひ)継ぎ」、「柩・棺」は「霊(ひ)を継ぐ入れ物」、「神籬(ひもろぎ)」は「霊洩ろ木:後の御柱」である。
 DNAによる遺伝法則を知ることのなかった古代人は、親子が似ているのは、親の霊(ひ)が子孫に受け継がれる、と理解した。「人間はDNAの入れ物」ということを、古代人は「人間は霊(ひ)の入れ物」=「霊(ひ)の器」と考えたのである。
 共同体のリーダーであった首長が、世襲王に代わって国家が生まれた時、その宗教は縄文時代から続く大地からの黄泉帰り宗教から、王の霊(ひ)が天に昇り、降地して次王に山上(神那霊山:かんなびやま)の古墳の上で受け継がれる、という霊(ひ)信仰に変わっている。地神(地母神)・海神信仰から天神信仰への宗教改革である。
 『古事記』に書かれているイザナギが殺したカグツチの血から神々が生まれたという神話や、イザナギの体に付いた黄泉の国の汚垢(けがれたあか)からスサノオやアマテラスなどの神々が生まれたという神話、スサノオが殺したオオゲツ姫の死体から蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆が生まれたという神話は「黄泉帰り宗教」の神話である。甕棺や「柩・棺」に丹(に)が入れられているのは、子宮(ひな=霊那=霊が留まる場所)の血の中から赤子が産まれるという再生思想を示している。
 ところが、大国主が国譲りの条件として「天御巣」「住居」(48mの出雲大社)で日継(霊継)を支配するとした神話は、大地や海(あま)からの「黄泉帰り宗教」ではなく、王の霊は天に昇り、降りて次王へ引き継がれるという天神信仰に基づく「霊(ひ)継ぎ」を伝える王位継承神話である。両者は大きく時代が異なっている。
 この「霊(ひ)の国史観」から、『古事記』解読にあたっては、次の5つの視点が不可欠である。
 霊(ひ)の継承こそが王権の根拠であり、スサノオ・大国主・大物主・天皇家などの系譜は、親子・兄弟の誤りなどの錯誤はあるものの、基本的に大きな改竄はない。
 スサノオ・大物主一族などは、代々、霊(ひ)を受け継ぐことにより、「スサノオ」「大物主」などを襲名していた。記紀の記述を不合理としたのは、この襲名の無理解にある。
 大国主が180人の御子を生んだという記載は、大国主が妻問い婚による「霊(ひ)継ぎ」により百余国に支配を広げた「霊(ひ)継ぎ王朝」であることを示している。
 10代目の御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ:後に崇神天皇と命名)がアマテラスと大物主大神(スサノオ)を宮中に移して祀ったところ、民の半数が死ぬという恐ろしい祟りを受け、宮中から両神を出して大物主大神の子孫の太田田根子を捜して祀らせたところ疫病が収まったとされていることは、霊(ひ)は血の繋がった子孫によって祀られないと祟ると信じられていたことを示している。この記紀の記載は、天皇家がアマテラスと大物主大神(スサノオ)の一族ではないことを表している。実際、明治まで天皇は伊勢神宮に正式に参拝せず、宮中で祀っていない。
 アマテラスが黄泉の国の汚垢(けがれたあか)から生まれ、アマテラスの玉からオシホミミが生まれたという、二代続けての「もの姫・もの太郎神話」は、天皇家が祖先を偽って祟りを受けることを避けるためのフィクションであり、天皇家がアマテラスとオシホミミの子孫ではないことを示している。

「欠史16代」を埋める「スサノオ・大国主16代」
 『古事記』によれば、神話時代の天皇家は、天之御中主(あめのみなかぬしの)から始まる「別天つ神五柱4代」、イザナミ・イザナギを最後とする「神世7代」、アマテラス・忍穂耳(おしほみみ)の「高天原2代」、ニニギ・山幸彦・彦瀲(ひこなぎさ:うがやふきあえず)の「笠沙天皇家3代」の合計16代である。
 ところが、『新唐書』によれば、遣唐使は天皇家の祖先を「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以『尊』爲號(ごう)、居筑紫城」と中国側に自言している。『古事記』には、「32代-16代=16代」の欠史があることになる。

『古事記』の欠史16代と16代のスサノオ・大国主王朝


 一方、『古事記』はスサノオ・大国主の16代の系譜を伝えるとともに、初代~16代の天皇の年齢を2倍に水増ししている。また、ニニギが醜い石長比売(イワナガヒメ)を親の元に返したので呪いをかけられ、代々の天皇は短命であるという記述がある一方で、その孫のウガヤフキアエズ(彦瀲)は580歳であったと記している。当時の平均年齢が35歳とすると17代分の水増しである。
 この3つの「16代」の一致や、ウガヤフキアエズ580歳の記述は、単なる偶然とは言えない。『古事記』の作者・太安万侶が後世に残した暗号である。
 別天つ神五柱が出雲大社の正面に祀られていることからみて、この5神はスサノオ・大国主王朝の始祖神である。従って、「別天つ神五柱4代」+「神世7代」に続くのは「スサノオ・大国主16代」+「アマテラス2代(アマテラス・オシホミミ)」の九州王朝の正史であり、これに薩摩半島の笠沙に逃れてきたニニギ、「毛のあら物、毛の柔物」を取る猟師の山幸彦(山人:やまと)、ウガヤフキアエズの3代の歴史を接ぎ木したものが、「天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世」である。
 天皇家はこの真実の歴史を改竄し、アマテラスをスサノオの姉とし、大国主のホヒへの国譲り(180人の御子たちの後継者争い)をアマテラスへの国譲りに変えたのである。

「スサノオ・大国主建国」を示す古代王の即位年推計
 安本美典氏(元産能大学教授)は数理統計的な分析により、古代天皇の平均在位年数を10.88年とする画期的な説をとなえた。

31~50代天皇の即位年の直線回帰による古代の王の即位年の推定
(安本氏のデータをもとにしたエクセルでの推計)


 31~50代天皇について最少二乗法で計算してみると、一代は10.317年になる。古代人の平均年齢が35歳とすると、「25歳+10年」で世代交代が行われるのは、成人が王位継承する合理的な方法であり、この統計的分析が正しいことを示している。
 この推計式を神話時代32代にあてはめると、スサノオ、淤美豆奴(おみずぬ:スサノオ5代目)、大国主(スサノオ7代目)、アマテラス(スサノオ17代目)の即位年は、それぞれ紀元60年、102年、122年、225年になる。
 当然ながら誤差はあるものの、これらは「委奴国王」の金印(57年)、倭国王「師升(すいしょう)」の遣使(107年)、大国主退位後の九州の「倭国の大乱」(146~189年頃)、「卑弥呼」の時代(238年頃)にほぼ対応している。
 『魏書東夷伝倭人条』によれば、卑弥呼(霊御子)は鬼道(鬼神=祖先霊)によって、倭国百余国のうちの北九州の30国を再統一したというのであるが、卑弥呼が祀った30国の王たちの共通の鬼(祖先霊)とはいったい誰であろうか?
 私は大国主以外にありえない、と考えている。
 魏使が上陸した松浦半島の呼子(陸行・水行の起点)からの「正使陸行・副使水行」の行程からみて、邪馬壹国は古事記の高天原神話の舞台である「筑紫の日向(ひな)」、現在の朝倉市(旧甘木市・朝倉町・杷木町)の「蜷城=ひなしろ」にあり、卑弥呼=アマテラスの宮殿はこの地の「天城高台(甘木高台)」=「高天原」にあった、と私は考えている。―詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
 
旧甘木市林田の「蜷城(ひなしろ)」にある美奈宜(みなぎ)神社(みなぎ=ひなぎ=日向城)

 
 後に新羅侵攻の拠点として神功皇后と斉明天皇(女帝)・中大兄皇子がこの地を拠点とし、神功皇后はこの地でスサノオ・大国主を祀る大三輪社(大己貴神社)を立てることによって兵を集めることができたというのは、この地が大国主一族の九州王朝の聖地であったからである。

大神神社の額を飾る大三輪社(大己貴神社※)
※大神=大物主大神=スサノオであるが、神社名と祭神は大己貴(おおなむち)=大国主としている

 記紀はアマテラスの生誕地を「筑紫の日向(ひな)の橘の小門(おど)の阿波岐(あはき)原」とし、日本書紀は神功皇后が討ったこの地の王を「羽白熊鷲(はねしろのくまわし)」としているが、「波岐=杷木=杷城(はき)」=「羽白=羽城(はねしろ)」である。この地こそ高天原神話の(波岐=杷木=羽城=羽白)の舞台であった。
 私は、卑弥呼(大霊留女:オオヒルメ)はこの「筑紫城(天城)」を拠点とした「スサノオ17代目・大国主11代目」の女王であり、この卑弥呼をモデルにして、アマテラスが天皇家の始祖として創作された、と考えている。もし、アマテラスが天皇家の本当の祖先なら、この地で神功皇后と斉明天皇らは、戦勝を祈願してアマテラス=卑弥呼を祀る大々的な儀式を行ったはずであるが、そのような痕跡は『古事記』『日本書紀』には皆無である。
 神(スサノオとアマテラスの霊)の祟りを受けた崇神天皇だけでなく、この地でアマテラスを祀らなかった神功皇后・斉明天皇もまた、天皇家が卑弥呼=アマテラスの血を受け継いでいないことを証明しているのである。

「鬼道」=「霊(ひ)信仰」からの建国史
 「皇国史観(アマテラス一神教)」「反皇国史観」「大和中心主義(天皇建国史観)」は、何の証明もなく、卑弥呼の鬼道を道教やあやしげな新興宗教とし、あるいはアマテラスの太陽信仰としているが、これらは単なる空想に過ぎない。『魏書東夷伝』によれば朝鮮半島の各国では鬼神信仰が行われ、倭国は孔子が憧れた「道」が行われる国であったため、この鬼神信仰を「鬼道」と特筆したのである。
 「魏」の国は漢字分解すれば「委+鬼」=「禾+女+鬼」の国であり、「女性が禾(稲)を鬼(祖先霊)に捧げて祀る国」である。孔子が住みたいと憧れたという「倭(人+禾+女)」から「鬼道」(祖先霊崇拝)で30国(百余国の1/3)を統一した女王の使いがきたことは、三国間で覇権を争い漢王朝の正当な後継者を目指していた魏にとっては大いなる吉兆であった。魏皇帝が破格の扱いで、卑弥呼や壱与に金印や金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(曹操一族の皇帝鏡)を下賜したのは、邪馬壹国(山委国)が「鬼道によって各国を再統一した女王国」であったからである。
 わが国の建国史は、「鬼道=霊(ひ)信仰」から再構築されなければならない。
 『古事記』は誇るべきわが国最古の歴史書であり、文学書である。スサノオや大国主の愛の歌とともに語られるスサノオ・大国主建国神話は、世界に誇るべき、ロマンあふれる英雄物語である。
 太安万侶は天武天皇のための歴史書を書きながら、スサノオ・大国主一族の建国の真実を後世に残そうと、多くの暗号を古事記に残している。日本書紀も「一書(あるふみ)」の形で真実を伝えている。
歴史学を専攻する若い世代の皆さんが、「盥(たらい)水(アマテラス神話)とともに流してしまった赤子(スサノオ・大国主神話)」を取り上げ、立派に育てあげることを期待したい。


筆者が想定する邪馬壹国・卑弥呼の宮殿のあった「高天原」
―旧甘木市荷原の美奈宜(みなぎ)神社背後の山上の台地―


参考資料 倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫)
     坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』(岩波文庫)
     安本美典著『(新版)卑弥呼の謎』(講談社現代新書)
     角林文雄著『アマテラスの原風景』(塙書房)
  王勇著『中国史の中の日本像』(農文協)
  日向勤著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院:)

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「日本列島文明論5 「土器(縄文)文明論」の検討課題」の紹介

2020-03-29 19:55:33 | 日本文明
 Livedoorブログの「帆人の古代史メモ」で「日本列島文明論5 「土器(縄文)文明論」の検討課題」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 「日本列島文明論4 『縄文文明論』考」の前に書いたメモで、縄文社会研究会で提案したものです。 「石器―土器―鉄器」の時代区分は、武器ではなく生活用具・生活文化を時代区分にしたものであり、文明論としても「健康で安定した土器鍋食文化」「芋穀実菜魚介肉食文化」という新たな時代を切り開いたと考えたからです。
 口頭で発表するためのメモであり、分かりにくく、整理もまだまだ不十分ですが、文明論としてどのような論点が考えられるか、「仮説構築」の際に参考にしていただければと考えます。
 スサノオ・大国主建国論としても、世界遺産登録を視野に入れ、世界に何をアピールできるか、文明論・文化論として考えてみていただければと考えます。雛元昌弘
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「邪馬台国ノート4 「神籠石(磐座)」「神籠列石(磐境)」が示す霊(ひ)信仰」の紹介

2020-03-28 19:32:25 | 邪馬台国
 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート4 「神籠石(磐座)」「神籠列石(磐境)」が示す霊(ひ)信仰」をアップしました。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 この小論は2017年7月に書いたレジュメ「『神籠(こうご)石・神籠列石』が示す霊(ひ)信仰の磐座(いわくら)と磐境(いわさか)」を加筆・修正したものです。
『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院、2009年)においては、邪馬台国甘木高台説にたち、朝倉市杷木町の杷木神籠石(はきこうごいし)や筑後国山門郡(みやま市瀬高町)の女山神籠石(ぞやまこうごいし)など、邪馬壹国を2重に囲む神籠石群を邪馬壹国防衛の山城としていましたが、このレジュメではこの前説を否定し、「神籠石(かみこもりいし)=磐座(いわくら)」「神籠列石(かみこもりれっせき)=磐境(いわさか)」の霊(ひ)宗教施設説に変更しました。
 邪馬壹国の卑弥呼(霊御子・霊巫女)の鬼道については、霊(ひ)信仰=祖先霊信仰としてきましたが、神籠石説で整合性を図っています。
 私は邪馬台国は筑紫大国主・鳥耳王朝と考えていますので、四角の磐境と方墳の関係など、スサノオ・大国主建国論に一環として目を通していただければ幸いです。雛元昌弘

宗像大社の高宮の「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)
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「日本列島文明論4 『縄文文明論』考」の紹介

2020-03-27 19:07:07 | 日本文明
 Livedoorブログの「帆人の古代史メモ」で「日本列島文明論4 『縄文文明論』考」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 1年前の2019年3月の「『縄文文明論』考」に「文明とは」など加筆・修正したものです。まだまだ「縄文文明」「土器(縄文)文明」「日本列島文明」などの用語も迷っている最中ですが、「縄文社会研究会」から外に議論を広げるために公開しました。
 文明の基準をどう考えるか、霊(ひ)信仰・霊継信仰の「八百万神」信仰文明で考えるか、土器鍋による食文化文明で考えるか、母系制社会など海洋交易民文明ととらえるべき、などまだまだ検討段階です。
スサノオ・大国主建国論を含めて、英語に翻訳してみてから再検討する、ということも必要かもしれません。雛元昌弘
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「アマテル論8 アマテル5と二人のニニギ」の紹介

2020-03-26 21:53:36 | アマテラス
 Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「アマテル論8 アマテル5と二人のニニギ」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 邪馬壹国と笠沙天皇家3代の接点にある「ニニギの天降り」の真相はほぼ解明できました。
 「天皇建国史にしたい皇国史観・新皇国史観にとっても、神話を後世の創作として全面否定したい反皇国史観にとっても、太安万侶は「邪魔者」とされてきましたが、推理力にあふれたミステリーファンが彼の暗号に気づき、各地に残る伝承や地名を調べ、彼の名誉回復を図ることを期待したいと思います」というのが私アマテル論1~8の最後のメッセージです。なお、アマテル論1~7には修正点がでてきており、明日中に訂正・修正します。
 スサノオ・大国主建国論においては、太安万侶の古事記からどう真実の歴史を解明するか、という視点で読んでいただければと思います。雛元昌弘

ニニギ2の天降り地図

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神話探偵団130-2 8つの出雲王朝仮説2016

2020-03-22 17:49:49 | スサノオ・大国主建国論

 古いレジュメで恐縮ですが、2016年11月に「梁山泊」の仲間9人(うち地元勢4人)と出雲の旅に行くにあたってまとめたレジュメをもとに、その後に誤りが明白となった点や解明した重要な点などを加筆・訂正し、金屋子神の移動図を加えたものです。
 基礎知識を持っているメンバーに口頭で説明した箇条書きのメモであり、分かりにくいことをご了承ください。
私は「スサノオ・大国主建国論」を追い続け、『スサノオ・大国主の日国―霊(ひ)の国の古代史』(日向勤ペンネーム:梓書院)を出版しました。
 「弥生人征服はあったか?」「この国の建国者はスサノオ・大国主か、神武天皇か?」「邪馬壹國(邪馬壱国、邪馬台国)はどこにあるか?」の古代史3大ミステリー、「古代製鉄はいつ、どこで始まったか?」「スサノオ・大国主の墓はどこか?」「卑弥呼の墓はどこか?」の考古学3大ミステリー、「出雲大社正面に祀られた『別天(ことあまつ)神五柱」はどこの神か?』「『神世7代』の7代目のイヤナギ・イヤナミの国生みの地はどこか?」「スサノオ・アマテラスはどこで生まれたか?」「大国主はスサノオの御子か、6代目か?」「天つ神、国つ神の国はどこか?」「天皇家はなぜアマテラスの『玉』から生まれた神話としたのか?」「なぜ天皇家は宮中でイヤナギ・アマテラス・スサノオを祀らず、明治まで伊勢神宮に参拝しなかったのか?」の神話7大ミステリー(いづれも私の独断による選択です)について、統一的・合理的な仮説・検証作業を続けてきましたが、2年ぶり、4度目の出雲調査でした。
 この旅で、私は「スサノオ・大国主建国王の墓はどこか?」「古代製鉄の拠点はどこか?」を考え続けていましたが、「大国主の墓」については4か所の仮説地から1か所の仮説地にほぼ絞り込むことができ、スサノオの墓と古代製鉄拠点については少し前進、というところです。
 来年には「スサノオ・大国主探偵団」としてまとめたいと思っております。雛元昌弘

1 出雲大社正面に祀られた「別天(ことあまつ)神五柱」は壱岐・対馬の「天(海人)族」
① 始祖5神の天之御中主(あめのみなかぬし)神、高御産巣日(たかみむすび)神(書紀:高皇産霊尊)、神御産巣日(かみむすび)神(同:神皇産霊尊)、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)神、天之常立神のうちの天之御中主は、その名前からみて壱岐市芦辺町中野郷(那珂)の王である。
② 古事記序文で太安万侶は「「乾坤(けんこん)初めて別れて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二霊(ひ)群品の祖となりき」と書き、本文でみると参神(3神)は「天御中主・タカミムスヒ・カミムスヒ」となり、人(群品)を産む「二霊(ひ)」はタカミムスヒ・カミムスヒの夫婦神となり、スサノオ・大国主一族はこれら始祖神の直系の子孫になります。
③ 「壱岐国」は「伊伎島」「天比登都柱(天一柱)」(古)、「一大国」(魏)とも書かれており、「壱=一=伊」の「岐=支=城(き)」であり、「一国(いのくに)」を指している。
④ 「委奴国王」の「委(禾+女)」、「倭国」の「倭(人+委)」は元々は「い」である。「禾(ワ)」は「稲」を指し、「女性が稲を捧げる(祖先霊に対し)」という「いなの国」に合わせた漢字であり、「倭」を「矮(わい)」=チビにあてた「卑字」ではない。
⑤ 芦辺町中野郷は良港の芦辺港に接し、「一支国」王都に比定されている原の辻遺跡(環濠集落)の北約4kmにあり、このあたりに古くは「一大国(いのおおくに)」の王都があった可能性が高い。4番目の始祖神の「阿斬訶備比古」の「アシカビ」は葦の芽で、「芦辺」地名のこの地の王の可能性が高い。
⑥ 天(海人=海神)族は、元々は玄界灘の壱岐(天比登都柱)を中心に、津馬(天狭手依比売)、知訶島(天之忍男:志賀島)、兩兒島(天兩屋:通説は五島列島、古田武彦説は沖ノ島説、筆者説は下関市豊北町双子島)、女島(天一根:通説は大分県姫島、筆者説は北九州市沖の女島か山口県豊浦町沖の女島)、隠岐島(天之忍許呂別)、大倭豊秋津島(天御虚空豊秋津根別:通説は日本全体、古田説は大分県国東市安岐町説、筆者説は安芸の厳島かしまなみ海道の生口島説)にかけて活躍した海洋交易部族である。
⑥ 嵯峨天皇より「日本総社」の称号を贈られた津島神社(愛知県:古くは津島牛頭天王社)はスサノオの「和御魂(にぎみたま)」を対馬から移したとされており、新羅に渡ったスサノオは壱岐・対馬の海人族がルーツと考えられる。

2 伊耶那伎(イヤナギ)が出雲・揖屋の王女・伊耶那美(イヤナミ)に妻問
① 記紀は「神世7代」最後のイヤナギ・イヤナミが夫婦で天下ったとしているが、海人族の妻問婚から考えて、対馬暖流を海(天)下ったのはイヤナギで、揖屋の王女イヤナミに妻問したとみるべきである。
② イヤナミが葬られた黄泉の国への入口で、イヤナミを祀る揖屋神社がある場所からみて、意宇川流域の沖積地(オノコロ島:自ずから凝る島)にイヤナギは拠点を築いたと考えられる。
③ イヤナミが亡くなりイヤナギが筑紫に去ったのち、イヤナミの一族は、意宇川流域(出雲国庁跡―神魂神社―八重垣神社―熊野大社)に支配を広げた。いずれも「い=壱=伊=揖=委=倭」ゆかりの人名・地名である。

3 「委奴国王」は「壱那(稲)国王・スサノオ」である
① 尾張の津島神社に対し、桓武天皇第2皇子の第一流の文人の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っており、天皇家はスサノオを「皇国の本主」「天王」として認めている。
② スサノオはイヤナギから「海を支配せよ」と命じられ、五十猛(イタケル=射楯=伊武:倭武の名前のルーツ:壱岐の御子)と新羅を訪問したと日本書紀に書かれ、対馬北端の島大國魂(しまおおくにたま)神社にはスサノオの新羅訪問の伝承が残されている。さらに『三国史記』新羅本紀には、新羅国の4代目の王・脱解(たれ)は「倭国の東北一千里のところにある多婆那国」から櫃に入れて流されてたどり着いた「倭種」で、紀元59年5月には「倭国と国交」を結んだとしている。57年に後漢に使いを送った「漢委奴国王」と同時期であり、記紀記述からみて、この委奴国王はスサノオ以外にはありえない。
③ 安本美典氏の即位年の統計的推計をスサノオ・大国主時代に伸ばすと、スサノオの即位年は紀元60年頃となり、後漢・辰韓(後の新羅)と国交を結んだ委奴国王がスサノオであることを裏付けている。。

31~50代天皇の即位年からの最小二乗法によるスサノオ・大国主一族の即位年の推計

 



④ 委奴国は「いなの国=いねの国」を「禾+女+女+又」であらわしたものであり、倭国は「イ+委」字からみて「人に禾(稲)を女が奉げる」国であったことを示している。ちなみに「魏」は「禾+女+鬼(祖先霊)」であり、「鬼」を「人」に変えたのが「倭国(いの国)」である。
⑤ 「倭国」は当初は「倭国=国(いのくに)」と呼んでいた、壱岐(天一柱、一大国)を中心とした海人族の国であった。なお「一・壱・壹」は呉音では「イチ」、漢音では「イツ」、現在は「イ」で、わが国では、「ひ」「ひと」「ひとつ」「いち」と数えることからみて、「一・壱・壹」は「い」「ひ(ふぃ)」の両方の読みがあり、国生み神話で「筑紫国=白日別、豊国=豊日別、肥国=建日向日豊久士比泥(くじひね)別、熊曾国=建日別」としていることをみると、九州全体は「日=霊(ひ)=委の国(那)」であったことを示している。なお、戦前の教科書では「赤い、赤い、朝日は赤い」を「あかひ、あかひ、あさひはあかひ」と「い」を「ひ」と表記していた。
⑥ 倭国大乱の頃、漢霊帝の中常侍(皇帝の身近に仕える権力者)の李巡は、孔子の『爾雅(じが)』(類語・語釈辞典)の注釈において、「夷に九つの種がある。・・・八に倭人、九に天鄙」と記していることからみて、わが国は「百余国」の倭国(いの国=ひの国:大国主・大物主連合)は、筑紫30国(後に卑弥呼のもとで連合)の「倭人」と70余国の「天鄙(あまのひな)」(出雲・美和)に分裂していた。
⑦ 「委奴国」を漢字1字国名に変えたのはスサノオの次に魏に使いを出したスサノオ5代目の淤美豆奴(おみずぬ)、倭王・帥升と考えられる。「倭国」を「いの国」から「わの国」と呼ぶようになったのは、さらに「禾(稲)」を「わ」と呼ぶ呉音によったと考えられる。その時期は不明であるが、大国主と美和の大物主連合ができた時には、「美倭=美和=三輪(みわ)」「大倭=大和(おおわ)」と呼んでいたと思われる。
⑧ いずれにしても、後漢・魏と国交を結ぶ(冊封体制に入る)にあたって、スサノオ・大国主一族が外交文書を持たずに行くことなどありえず、「委奴国」「倭国」とも上表文に書いた国名である。

4 ヤマタノオロチは出雲を支配していた吉備の製鉄王
① オロチの大刀・天叢雲剣=蛇の麁正(おろちのあらまさ)によりスサノオの十拳剣(とつかつるぎ)」・韓鋤剣(からすきのつるぎ:辰韓の鋤の鉄先を鍛えなおした剣)」が欠けたとされていることからみて、辰韓(後の新羅)の農機具用の鉄よりも、オロチはより高度な製鉄技術を持っていた王であった可能性がある。
② オロチの大刀が天皇家の皇位継承の「三種の神器」の1つとされていることからみて、オロチは出雲の外からやってきて出雲を支配していた王であった可能性が高い。
③ 「古志の山俣大蛇」(古)からみて、オロチは「越」の王と考えられてきたが、素盞嗚尊がオロチを斬った十握剣(布都御魂)が岡山県赤磐市赤坂の備前国一宮の石上布都魂神社(後に大和国の石上神宮にうつされる)に祀られていたことからみて、オロチは吉備の王で中国山地を越えて出雲に支配を広げ、毎年、支配地を巡幸していた可能性が高い。
④ たたら集団が祀る全国1200社の金屋子神社の総本山である安来市の金屋子(かなやご)神社は、播磨の宍粟市からきて製鉄技術を教えた金屋子神を祀っており、途中、吉備中山(吉備津神社のある中山)や鳥取県日野町印賀に立ち寄ったという伝承もあることからみて、製鉄は播磨・吉備で始まった可能性が高い。―詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

金屋子神の播磨→吉備→伯耆→出雲への移動



⑤ 「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」名は、オロチ王の大刀が「荒真砂」製鉄で作られたことを示しており、吉備の赤坂(現赤磐市)を拠点としていたことを考えると、オロチ王は赤鉄鉱の「赤目(あこめ)砂鉄」で鉄生産を開始した王の可能性が高い。その技術を継承した「スサノオ」は、「朱砂王(すさのおう)」であった可能性が高い。さらい、大国主の別名の「大穴牟遅(おおなむぢ)」「大穴持(おおあなもち)」の「穴」は、赤目(あこめ)砂鉄や鉄鉱石などを掘削する穴からきている名称と考えられる。
⑥ スサノオはオロチ王を切った剣は赤坂の石上布都魂神社に残し、オロチの大刀は美和(三輪)の大年(大物主)に与えたと考えられる。少彦名の死後、大国主・大物主連合ができた時、大国主は出雲の「玉(勾玉)」を大物主に奉げ、九州の女王国の「鏡」はスサノオの子の宗像3女神から大物主に奉げられ、美和王朝の「三種の神器」であったが、10代崇神天皇が奪い天皇家の皇位継承のシンボルにしたと考える。

5 大国主一族が鉄先鋤で広めた水利水田稲作
① 古事記は、大国主は少彦名と「国を作り堅め」、少彦名の死後には大和の大物主と「共に相作り」と書き、その国の名前を「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)長五百秋(ながいほあき)の水穂国」「葦原中国(あしはらのなかつくに)」とし、日本書紀も大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、出雲国風土記は「造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と書いている。
播磨国風土記の稲作指導や水路開削の記述をみても、大国主一族こそが水利水田稲作を百余国に広めた王朝であることが明らかである。
② 「五百つ鉏々猶所取り取らして天の下所造らしし大穴持命」(出雲国風土記)という大国主の尊称とその子の阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)の名前、播磨国風土記の記述からみて、大国主が「鋤(鉏)」による水田・水利開発を全国に広めた王であることを示している。

木鋤(こすき)の先に鉄先鋤



③ 大国主の妻の宗像3女神の奥津島比売(襲名)は播磨で「阿遅鉏高日子根神(阿遅鋤高日子根神)」を産んでおり、その名前の由来は鉄先鋤の生産・流通に由来していた可能性が高い。
④ 万葉集で「真金(まがね)吹く 丹生(にう)の真朱(まそほ)の 色に出て 言わなくのみぞ 我が恋ふらくは」と歌われ「真金吹く」が丹生や吉備にかかる枕詞であることからみて、赤鉄鉱(Fe2O3)の赤目砂鉄を原料として鉄とともに鉄朱(ベンガラ)が作られていたことを示している。大国主の播磨の御子の丹津日子神・丹生都比売はその名前からみて朱生産に関わっており、大国主が播磨で鉄生産を行っていたことを示している。神戸市北区の丹生山には丹生(にぶ)神社があり、この地は古くは明石郡に含まれ、「明石」は「赤石」であったとされていることからみても、大国主の建国が鉄生産によることを示している。
⑤ 赤目砂鉄製鉄について考古学的な裏付けはまだないが、「文献分析に基づく考古学」が望まれる。

6 大国主・大物主連合による大倭(おおわ)国の建国
① 古事記によれば、少彦名命の死後、大国主のもとに「海を光らして依り来る神」があり、御諸山(美和山)の上に自分を祀ることを条件に国づくりに協力を申し入れたとされる。それは日本海側や太平洋岸、瀬戸内海南岸ではなく、波の穏やかな瀬戸内海北岸にいた大国主のもとに淡路方面から逆光がキラキラ光る中を大物主が船でやってきた光景である。

「海を光らして依り来る神」の船がやってきた瀬戸内海のさざ波の逆光風景



② 高砂市の「石の宝殿」のある伊保山の背後の「高御位山」には、「もしも山頂の下の鯛砂利(岩)が上を向いていれば、ここが日本の中心になった」という伝承が残されている。天皇家の即位儀式の「天津日嗣(ひつぎ)高御座(たかみくら)之業」は、「高御位山」で大国主・大物主連合が成立し、スサノオ・大国主一族の先祖の霊(ひ)を受け継ぐ「霊(ひ)継ぎ」儀式を行った歴史を継承したものであり、「高御位山」の麓にある「石の宝殿」は四方を支配する大国主と大物主の「方殿」の玉座であった。

「石の宝殿」のある伊保山から北に見た「高御位山」(大国主・大物主連合成立の神那霊山)



③ この大国主・大物主連合は、大物主の銅鐸圏と大国主の銅矛圏(銅剣ではない)の統一をもたらし、縄文時代の黄泉がえりの「地母神信仰」から、死者の霊が天に昇り、降りてくるという「昇天降地信仰」に変え、山上に方墳や前方後円墳を設けるようになった。

7 「国譲り神話」は大国主の御子たちの後継者争い(筑紫対出雲・越)
① 「天穂日命」とその子の「天日名鳥命(武日照命)」親子の子孫が大国主らの祖先霊の祀りを行い、霊(ひ)継神事を行ってきていることからみて、ホヒ・ヒナトリは大国主が「山一国(邪馬壹国:やまのいの国)=高天原」で鳥耳との間でもうけた御子である。
② ホヒ・ヒナトリ親子や天若日子と事代主や越の建御名方との後継者争いでが大国主の「国譲り」の真実の歴史である。その歴史を、大和朝廷はアマテル一族を天つ神、大国主一族を国つ神とする征服神話に変え、真実の歴史を隠蔽した。
③ 7~80年続いたスサノオ・大国主7代の「百余国」は大国主の国譲り後に九州への支配力が弱まり、米鉄交易を支配を巡って筑紫の30国が分離・独立したのが「倭国の大乱」である。その後、30国は交易権を巡って「相攻伐」した後、卑弥呼のスサノオ・大国主の霊(ひ=鬼)を祀る共通の祖先霊信仰(鬼道)のもとに邪馬壹国連合を形成し、新羅―対馬―壱岐―筑紫の鉄米交易ルートの確保を図った。
④ この女王国(筑紫大国主・鳥耳王朝)の卑弥呼(霊御子、霊巫女)は11代目の筑紫王朝の女王であり、彼女の弟王との後継車争いをモデルにして、弟王をスサノオに置き換え、アマテラス神話が作成された。

8 「山・鉾・屋台神事」のルーツは出雲の「青葉山」と播磨国総社の「1ツ山・3ツ山」神事
① 縄文時代の地神(地母神)信仰と海神信仰を、大国主は死者の霊(ひ)は死体から離れて天に昇り、降りてくるという、八百万神の天神信仰に変えた宗教改革者でもあった。
② 祖先霊を天から神奈備山(雛元説=神那霊山)や高木に迎え、さらに天に送り返すという行事を、出雲大社に人工の「青葉山」(古事記)を設けて行うという神事は、「1ツ山・3ツ山祭」「山あげ祭」「大置山」「築山」「お山行事」「風流物」や「山車、曳山」「山鉾」、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)として全国に広がった。
③ ユネスコの補助機関は「山・鉾・屋台行事」(18県33件)の祭を世界無形文化遺産として登録するよう勧告(現在は承認済み)することを決めたが、この機会に、死ねば誰もが神になり、この世とあの世を行き来するという「八百万神」の宗教思想を、一神教の行き詰まりを解決する「共通価値観」として提案したい。また、和食の世界遺産登録に合わせて、土器(縄文)文化全体についても同じ方法での登録を目指したい。

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「日本列島文明論2 「『日本列島文明論』のフレーム」の紹介

2020-03-21 12:45:25 | 日本文明
 Livedoorブログで「日本列島文明論2 「『日本列島文明論』のフレーム」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 縄文社会論(土器社会論)から「石器―土器―金属器」時代区分を提案し、一神教同士の宗教戦争に対して霊(ひ)信仰の「八百万神信仰」を世界にアピールしたいと考え、「日本列島文明」の全体フレームをまず紹介します。2019年12月末改訂の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の「日本文明論」をもとに修正したものです。
 スサノオ・大国主建国論としても、世界文明のフレームの中で考えていただければと考えます。雛元昌弘

「日本列島文明論」の全体フレーム

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「アマテル論7 筑紫王朝の女王たち」の紹介

2020-03-19 16:04:24 | アマテラス
 Livedoorブログに「アマテル論7 筑紫王朝の女王たち」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 これまで「筑紫大国主王朝」として書いてきましたが、正確には「筑紫鳥耳王朝」として女王国であることを強調すべきなのですが、唐突なので本文では「筑紫大国主・鳥耳王朝」、タイトルなどでは「筑紫王朝」とシンプルに書きました。
 古田武彦氏の九州王朝説、安本美典氏らの邪馬台国東遷論とも関係するテーマであり、スサノオ・大国主建国と邪馬壹国の関係について考えていただければと考えます。
次回は、アマテルが高天原から薩摩半島西南他の笠沙に天降らせたとするアマテル5とニニギの正体に迫り、猟師の「山幸彦=山人(やまと)」の笠沙天皇家3代の解明を行いたいと考えます。
 太陽神から人間となった敗戦後の「人間天皇家」の歴史の解明は、象徴天皇制や女系天皇論にとって重要なテーマと考えています。雛元昌弘
 
「筑紫王朝」「邪馬壹国」「笠沙天皇家」の歴史と中国史書の関係


イヤナギ・スサノオ・大国主一族の筑紫古社ゾーン
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「日本文明論1 『農耕民文明・狩猟牧畜民文明』から『海洋交易民文明』へ」の紹介

2020-03-17 17:54:46 | 日本文明
 Livedoorブログに「日本文明論1 『農耕民文明・狩猟牧畜民文明』から『海洋交易民文明』へ」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 これまで、縄文時代は狩猟漁労・採取の未開時代、弥生時代から水稲栽培による文明社会、あるいは天皇家による古墳時代からが文明社会とされてきましたが、6つの視点(※)から日本文明の独自性・普遍性について解明・検討し、これからの日本・世界文明のあり方を展望したいと思います。
 皇国史観・反皇国史観のどちらからも、スサノオ・大国主の建国は抹殺されてきましたが、日本文明論、日本民族形成論、土器(縄文)社会論のフレーム全体の中で、見直されるべきと考えます。 雛元昌弘

 ※「グローカリズム(汎地域主義)の内発・外交文明」「多様なDNA民族の共通言語・文化文明」「交流・交易・外交の重視の海洋交易民文明」「霊継(ひつぎ: 命・DNAのリレー)の宗教文明」「妻問・夫招婚の母系制社会文明」「土器鍋による健康・長寿食文明」
 

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倭語論17  「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」倭語母音論 

2020-03-16 12:42:21 | 倭語論
 この小論は2018年12月に沖縄方言の分析として書いた「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」を拡張し、2019年7月に書いた「古日本語5母音論」をベースにして、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:2019年12月)での「奴(な、ぬ)」「原(はら、はる)」などの分析を追加して書き直したものです。
 最初、琉球方言から「あいうえお」5母音は倭語時代には「あいういう」5母音ともとれる「あいういぇ(ye)うぉ(wo)」であったと考えてきましたが、もっと多様な母音の発音があり、そこから母音併用が起ったのではないかという仮説に達しました。
 そもそも母音が5音で構成されていたのかなど、言語学の分野では素人であり、専門家による本格的な研究を期待して、私の仮説を提案しておきたいと思います。なお、「古日本語」「和語」は「倭語」に統一しています。 雛元昌弘

1 倭語「あいういぇうぉ」5母音説―「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」(181210→190110)より
 琉球弁と倭語の分析から、倭語は「あいういぇうぉ」と発音され、後に「あいういう」3母音と「あいうえお」5母音が併用されていたという結論に達しました(添付資料参照)。「い=え、う=お」です。
 沖縄では「あいういう」3母音が今も残っています。雨(あみ)、酒(さき)、風(かじ)、心(くくる)、声(こい)、夜(ゆる)などです。

琉球弁「3母音化説」(通説)と本土弁「5母音化説」(筆者説)



2 倭語「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音説
 さらに、倭語の分析を進める中で、次表のような母音の併用例が見つかり、もともとの倭語母音は「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」があり、表記される時に「い=あ、え、お」「う=あ、え、お」「お=あ」とされ、現代に引き継がれたと考えます。
 なお、私はスサノオの「委奴国(いなの国)」の5代目の倭国王・師升(すいしょう:淤美豆奴(おみずぬ)の時には「倭国:いのくに」と称していたが、後に後漢側の発音の「倭国:わの国」と呼称を変更し、「美和(三輪)」を拠点としていた大年(大物主:スサノオの子)が「和国(わの国)」と漢字表記を変えたと考えており、縄文時代から続くスサノオ・大国主王朝(記紀では神話時代)の文字表記・発音は「倭語」とします。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」倭語母音の表記例


倭語の「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音表記の変遷(仮説)



3.「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音からの古代史の見直し
(1) 「海(うみ=あま)」読みからの「海=海人」族の「天」神話化
 記紀神話の一番大きな歴史の改ざんは、「海・海人(あま)」族のスサノオ・大国主の建国を認めながら、地上の「筑紫日向(ひな)」にあった高天原を天上の国とし、天皇家をその子孫(天孫族)としてその支配に「神権」的な性格を与えたことです。「うあ」母音が後に「う」「あ」に、「いあ」母音が後に「い」「あ」に分かれ、「うみ」と「あま」に発音が併用されたのです。
 壬申の乱(反乱)で弘文天皇(大友皇子)から権力を奪った文武に優れた大海人(おおあま)皇子は、五十猛(いたける=委武、壱武)、熊曾建(くまそたける)、出雲建(いずもたける)、倭建・日本武(やまとたける)らの名前を受け継ぎ、「海人武(あまたける)」と称し、諡号(死号)で「天武:てんむ」と漢字表記されたと考えます。

(2) 「委奴国王」の「奴」の「ぬ、の、な」読み、「城」の「き、け」読み
 紀元1世紀に「委奴国」、紀元3世紀に「奴国」と記録された「奴」はどのように発音されていたのでしょうか? これは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をまとめる時の最大の難問でした。
 「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読んで分析していたのですが、8世紀の記紀や万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれ、スサノオ2代目「八嶋士奴美(やしまじぬみ)」、3代目「布波能母遲久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)」、5代目「淤美豆奴(おみずぬ)」、筑紫大国主4代目「早甕之多氣佐波夜遲奴美(はやみかのたけさはやぢぬみ)」などの王名にも使われています。
 さらに、スサノオ5代目の淤美豆奴(おみずぬ)は『出雲国風土記』では八束水臣津野(やつかみずおみつの)と書かれ、「奴(ぬ)=野(の)」だったのです。
また、宗像大社の近くには5~6世紀の「奴山(ぬやま)古墳群」(『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群に)があり、「奴=ぬ」だったのです。
 さらに魏書東夷伝倭人条の伊都国から奴国、奴国から不彌国のそれぞれ「百里」を短里76・77mで正確に当てはめると、奴国の王都は福岡市早良区の「野芥(のけ)」、不彌国の王都は現在の奴国王都想定地の春日市の「須玖岡本遺跡」になります。
 この「野芥(のけ)」は当時の母音では「野(の)=奴(ぬ)」「芥(け)=城(き)」であり、「奴城(ぬき)」であった可能性があり、奴国の王都はこの地にあった可能性が高いと考えます。この地には野芥櫛田神社があり、吉野ヶ里遺跡近くの佐賀県神埼市の櫛田宮(くしだぐう)の祭神がスサノオ・櫛稲田姫夫婦と日本武であり、福岡市の櫛田神社にもスサノオが祀られていることからみて、この野芥櫛田神社の背後の小山には奴国王の墓がある可能性が高いと考えますが、そうすると「奴国」は「ぬの国・のの国」と呼ばれていた可能性が高いと考えます。
 私はスサノオ時代の「ぬの国・のの国」が後に「なの国」に変わった可能性が高いと考えますが、いずれにしても、倭国の分析には当時の母音での検討が不可欠と考えます。
なお、「奴国論」については『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』で明らかにしましたが、いずれブログで紹介します。

(3) 「奴(ぬ)」は「玉」の可能性
 大国主が妻問いした沼河比売は奴奈川姫とも書かれ、ヒスイ(霊吸い)のとれる奴奈川(糸魚川市の姫川)の地名からの名前であり、倭人にとって「奴」は玉であり、奴奈川は「玉の取れる奈(那:場所、国)の川」であったと考えます。
 漢字では「奴(ド)」は「女+又(右手)」で奴隷を表すとされていますが、「姓」が「女+生」、周王朝が姫氏(女+臣)の国、「魏」が「禾(稲)+女+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」であることなどからみて、母系制社会であった周王朝では「奴」字は「女+又」で子孫を産む女性器を表しており、春秋・戦国期に入り男系社会となり奴隷制が生まれるとともに、女奴隷を表す字に変わったと考えています。
 周王朝を理想とした孔子が住みたいと憧れた「道(礼と信)の国」である倭国は母系制社会であり、「奴(女+又)」は霊人(ひと)の霊(ひ)が留まる女性器であり、奴(ぬ)=玉は霊(ひ)=魂が宿ると考え、委奴国(いぬの国、いなの国)名として「委(禾(稲)+女+女+又」の国、「玉=魂に女性が稲を捧げる国」であることをアピールした可能性があります。
 これまで「委奴国」「奴国」の「奴」は匈奴と同じく中華思想の後漢が、四夷の国々に対して「卑」や「奴」などの文字で国名として押しつけたという被虐史観でとらえられていましたが、委奴国側が自ら付けた国名と私は考えています。
 57年のスサノオの遣使は「委奴国」の国書を持参しましたが、「奴(ド)」が奴隷の意味であることを知り、次の107年の淤美豆奴(おみずぬ)王は、「人+委」=「倭(い)」の中国風の1字国名に変えたのではないでしょうか。

(4) 倭語・倭音による文献分析へ
 8世紀の記紀の頃まで日本人は文字を知らなかったとし、呉音・漢音でスサノオ・大国主の「葦原中国」「豊葦原の千秋長五百秋水穂国」が使用していた「倭語・倭音」により中国側文献や記紀などを分析しないと、紀元1~4世紀の古代史の解明はできないと考えます。
 例えば「投馬国」は、呉音だと「ズメコク」、漢音だと「トウバコク・トウマコク」ですが、宮崎県西都市の「妻」「都万」、鹿児島県の「薩摩(さ・つま)」地名から見て和音では「つまのくに」であり、「たちつてと=たちつちつ」5母音から、「つ」音に「投(トウ)」字を、「ま」音に「馬」字をあてたと考えられます。
 「出雲」についても、「まみむめも=まみむみむ」5母音から、「いつむ」発音であった可能性もあり、「委=倭=壱(い)の国」の「頭(お・つむ)」であった可能性があります。
 これまで、私も和語・倭音読みを意識せずに古事記などの分析を行ってきており、気づいたところから修正していきたいと思います。
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「縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える」の紹介

2020-03-14 21:14:42 | 縄文
 はてなブログに「縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 2017年6月に書いたレジュメ「『縄文と沖縄』~戦争なき1万年」は、大幅に加筆して「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」として『季刊日本主義』40号(171225)に掲載しましたが、この小論は元のレジュメのタイトルを変え、海人族の分布、Y染色体亜型の分布、「稲作伝搬図」と「主語・目的語・動詞・言語部族の移動図」などを加えたものです。
 日本民族南方起源説からの海人族による土器(縄文)時代論です。
「スサノオ・大国主一族は縄文人か、弥生人(中国人・朝鮮人)か」という議論がありますが、私は南方系の海人族、土器(縄文)人の末裔と考えています。日本民族起源論、琉球の「アマミキヨ」からスサノオ・大国主建国を考えていただければと思います。 雛元昌弘

   あま(天、甘、海士)地名の分布


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「縄文ノート11 『日本中央部土器(縄文)文化』の世界遺産登録をめざして」の紹介

2020-03-08 17:29:54 | 縄文
 はてなブログに「縄文ノート11 『日本中央部土器(縄文)文化』の世界遺産登録をめざして」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 この原稿は2015年6月の「金精信仰と神使(しんし:みさき)文化を世界遺産に」、7月の「大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰―北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録への提案」をまとめ、9月に「群馬・新潟・富山・長野縄文文化世界遺産登録運動」として提案したものです。
和食が無形文化遺産として世界に広まってきていますが、そのルーツは豊かで健康的な「土器鍋食」文化にあり、土器(縄文)時代に遡ります。その意味からいっても、武器ではない、生活・生産用具を基準とした「石器―土器―鉄器」の時代区分を世界に提案するとともに、土器(縄文)時代からの霊(ひ)信仰、霊(ひ)継信仰の「霊人(ひと)」の「八百万神信仰」の歴史を世界にアピールすべきと考えています。
 世界でも類のないこの「土器(縄文)文化・文明」をベースにして、スサノオ・大国主建国史に繋ぎ、国際観光の推進を図りたいものです。不均等発展と地球環境破壊により格差社会化がより厳しくなる中で、一神教が世界支配の宗教戦争につき進むことが懸念されます。死ねば誰もが神となる「八百万神」信仰(命=DNA継承)の文化・文明を対置したいと考えます。
 スサノオ・大国主建国論としては、出雲大社を中心とした「霊(ひ)信仰」「霊(ひ)継信仰」の世界遺産登録運動と合わせて検討していただければと思います。 雛元昌弘

1万5~6千年前のオコゲの付いた大平山元1遺跡(青森県外ヶ浜町)の世界最古の土器
(名古屋大学宇宙地球環境研究所年代測定研究部HPより)



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「縄文ノート10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」の紹介

2020-03-07 19:44:45 | 縄文
 はてなブログに「縄文ノート10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」をアップしました。
 この原稿は2015年7月にまとめたレジュメ「大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰―北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録への提案」を『季刊日本主義31号150925』の原稿としたものを修正したものです。
 「ストーンヘンジを手本に縄文時代を見るのではなく、縄文の歴史・文化からストーンヘンジの解明への手掛かりを提案すべき」「『優れた中国・西欧、遅れた日本』という視点からしか歴史を見ることができない、拝外主義的な歴史観から脱却し、霊(ひ)信仰の健康的で豊かな海人族の母系制社会の『土器(縄文)時代』を世界史の発展段階に位置づける機会として、私は『北海道・北東北の縄文遺跡群』の世界遺産登録を願う」と提案しています。
 スサノオ・大国主一族は1~2世紀に「鉄器時代」(鉄器水田稲作)への転換を行って建国したと私は考えていますが、それは縄文時代からの霊(ひ)信仰を受け継ぎながら、地神・海神信仰から天神信仰の「八百万神信仰」への転換期の歴史であったと考えています。土器(縄文)時代からの連続性で建国史をとらえる新たな試みとして読んでいただければと思います。 雛元昌弘

    大湯環状列石の円形石組・立棒

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「アマテル論6 『天若日子殺人事件』と『事代主入水自殺事件』」の紹介

2020-03-06 18:15:41 | アマテラス
 Livedoorブログに「アマテル論5 アマテル4は筑紫日向の鳥耳」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
今回はいささか苦労し、3日間かけて大国主の国譲りの真相を解明しました。『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)で仕上げたつもりでしたが、大国主の国譲りの際の雉鳴女・天若日子連続殺人事件の2種類の凶器の「天魔迦子弓・天之波波矢」と「天之波止弓・天之加久矢」の分析など、新たな発見があり、いずれ修正しなければと考えております。
 スサノオ・大国主建国論と天皇家建国論の関係にとって、「大国主の国譲り」の解明は欠かせません。古事記に太安万侶が残した真実の歴史の解明に多くの方が取り組んでいただければと願っております。次回は筑紫大国主王朝の謎に迫り、さらにニニギの天降りへと進みたいと思います。 雛元昌弘
 
国譲りに関わる大国主の5人の御子の母と妻


天若日子の弓矢と雉鳴女・天若日子の殺害に使われた弓矢の違い
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「縄文ノート9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」の紹介

2020-03-02 18:09:19 | 宗教論
 はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」に「9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 群馬県片品村(尾瀬の村)には全国で他にない古代からの古い祖先霊信仰を伝える5つの珍しい祭りが今も残っています。明治維新までに日本いたるところで行われていた性器信仰は、土器(縄文)時代の石棒と円形石組みによる地母神信仰(地神信仰)を引き継いだものであり、母系制の海人族の祖先霊信仰の伝統文化として未来に残すべきと考えます。
 この「八百万神」の祖先霊信仰は、世界宗教として「禁欲宗教」のユダヤ・キリスト・イスラム・仏教が成立する前に、ギリシア・ローマ文明などとともに世界に見られた普遍的な宗教であり、それが今も残されていることにを世界にアピールし、世界遺産登録運動を行うことを片品村に提案しましたが、まだ時期尚早であったようです。
今後、縄文社会研究会などをとおして、「日本中央(群馬・新潟・富山・長野・山梨)縄文文化遺跡群」の世界文化遺産を訴えていきたいと考えています。
 スサノオ・大国主建国論としては、この片品村のように、その痕跡が全国の神社の祭祀として残っているのではないかと私は考えています。古事記の垂仁紀に書かれた出雲大社の前に作られた「青葉山」が私が中高時代を過ごした姫路の総社に「一ツ山大祭」「三ツ山大祭」として残り、「置山・飾り山・山車・山鉾」が全国の祭りに残っているように、この片品村だけでなく各地でその痕跡を捜してみていただきたいものです。 雛元昌弘

御幣をかかげた猿役を村人が山に追い返す「猿追い祭り」:「片品村観光協会」HPより
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