4 宗教からみた日本人のルーツ
言語論と同じように、宗教から日本人のルーツを探究する場合もまた、世界宗教の仏教、キリスト教、イスラム教以前に世界各地にあった宗教から論じる必要があります。
例えば、わが国においては子宝祈願や安産、誕生後のお宮参り、七五三の子どもの成長祈願、豊作祈願・病気治癒・疫病退散・交通安全などは神道、葬式は仏教、結婚式は神社・教会などと国民の宗教活動・行事は混在しています。
かつて祖父母の家には大黒柱横の長押(なげし)に神棚が置かれ、座敷には仏壇があり、庭には石の祠があって屋敷神・地主神が祀られ、竃にはお札が貼ってありました。地域の神社・寺社という共同宗教施設とともに、各家にも神棚・仏壇や祠の祭壇があったのです。
宗教から日本人のルーツを考えるにあたっては、3大世界宗教以前の各国・地域の宗教から見ていく必要があります。
⑴ 縄文人の霊(ひ:死霊・祖先霊)信仰
仲間が死ぬと動物たちが悲しむ様子を見せる例は多数報告されています。人類もまた同じで、南アフリカのライジングスター洞窟で発見された埋葬と線画の痕跡は絶滅した人類「ホモ・ナレディ」によるもので34〜24万年前頃と推定されており、ホモ・サピエンスの最古の埋葬跡は8万年前頃とされています。
採集・栽培・漁労・狩猟生活を行っていた縄文人の宗教については、自然の恵みを願う自然信仰であったと説明されることが多いのですが、動物と人類の歴史に照らすなら人の生や死に関わる宗教が一番の基本であったと考えられます。
今のところ、人類最古の神殿は12000~8000年前のトルコの「ギョベクリ・テペ」とされていますが、メソポタミアの7000~5000年前頃の「ジッグラト」(日乾煉瓦の巨大な聖塔)とともに、6700~6450年前頃の「阿久尻遺跡方形柱穴列」や6000~5500年前頃の「阿久遺跡の立石・石列」は最古級の祭祀施設であり、「阿久遺跡環状列石」は世界最古の大規模な集団墓地と考えられます。
その宗教がどのようなものであったのかは、古事記が「二霊(ひ)群品の祖」として「高御産巣日(たかみむすひ)神・神産巣日(かみむすひ)神」とし、日本書紀が「高皇産霊(たかみむすひ)神・神皇産霊(かみむすひ)神」としていることからみて、「霊(ひ)を産む神」を信仰していたことから想定することができます。
「人=霊人(ひと)」「彦=比古=霊子(ひこ)」「姫=比売=霊女(ひめ)」「卑弥呼=霊巫女=霊御子(ひみこ)」から見て、「人=霊人(ひと)」は「霊(ひ:祖先霊)を受け継ぐ者=物」であり、遺体を朱で覆い子宮に見立てた「柩・棺=霊継(ひつぎ)」は霊を継ぐ入れ物であり、全ての死者は「八百万神(やおよろずのかみ)」としてその霊を祀られ子孫たちへと「霊継(ひつぎ)」が行われたのです。
私は『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』の原稿を出雲の級友・馬庭昇君に送ったところ、出雲では女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言うと教えられ、さらに調べると「昔の茨城弁集」では死産を「ひがえり、ひがいり」(霊帰り)としているのです。―縄文ノート「10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」(200307)、「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」(190129→200411)、「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」(150630→201227)、「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」(210518)参照
舘野受男(元敬愛大教授)からは「栃木の田舎では、クリトリスのことを『ひなさき』といっていた」と言われ、平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」を調べるとクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」と書いていたのです。「霊(ひ)」が留まる場所の「霊那(ひな)」の先が「ひなさき」だったのです。―「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」(201026)参照
そして、そのルーツを捜すと、沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ぴー、ひー」と、熊本では「ひーな」と呼んでいたのです。―「縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」(181204→210907)参照
古代人は妊娠や子が親や祖父母に似るDNAの働きを、霊(ひ)が女性器(ピー・ヒー・ヒナ)に宿り受け継がれると考え、王位継承を「霊継(ひつぎ:日継)と称していたのです。倭音倭語が原日本語であることからみて、その起源は縄文人から受け継いだとみられるのです。
⑵ ドラヴィダ族、雲南省イ族、タイ農村部、チベット、ビルマ、卑南・匈奴・鮮卑の「ピー」信仰
この「霊(ピ・ヒ)」信仰がアジアに広く存在する可能性に気付いたのは、大野晋氏の『日本語とタミル語』でタミル語の「pee(ピー)」が「自然力・活力・威力・神々しさ」を表していることからでした。―「縄文ノート38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」(201026)参照
さらに佐々木高明氏(元奈良女大教授)は『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』の中で、「ピー・モ」と「ピー信仰」について大林太良氏の『葬制の起源』を引用し、「死者の霊魂が村を見下ろす山の上や霊山におもむく『山上霊地の思想』がわが国に広く分布する」「この種の山上他界観の文化系統を考える上で目を引くのは、中国西南部の山地焼畑農耕を営む少数民族の人たちである」とし、雲南省のロロ族(夷族・倭族、烏蛮)の「ピー・モ」(巫師)は「なんじ死霊は今からロロ族の故郷である大涼山に到着するまで長い旅立ちをしなければならない」と何度も繰り返し唱えることなどを紹介しています。そして、この死霊(祖霊)が聖なる山に集まるという山上(中)他界の観念や習俗は中国南部から東南アジアの照葉樹林帯の焼畑民の間に広く存在し、水田稲作民に伝えられたとしています。
文化人類学者の岩田慶治氏のタイの農耕民社会に広く見られるピー(先祖、守護神)信仰についても紹介し、「浮動するピー」「去来するピー」「常住するピー」の3段階があり、「常住するピー」は屋敷神として屋敷地の片隅に祀られるというのです。これは両祖父母の家にあった祠とそっくりです。
また、大林太良著『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』によれば、7世紀にチベット高原を支配していた「吐蕃王家」のニャティ・ツェンポ王の父もしくは祖父は「ピャー」と呼ばれ、敦煌資料では一族の神は「ピャーのうちのピャー」と呼ばれていたとされています。―「縄文ノート128 チベットの『ピャー』信仰」(220323)参照
さらに『東南アジア史Ⅰ 大陸部』では、ミャンマーのイラワジ川沿いに「ピュー人」の記載があり、ウィキペディアは「ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されている」としていますが、チベット・ビルマ語系の「ピュー」の語源がオーストロアジア語族のモン語の「Prun:微笑む」であるという説には疑問があり、「ピュー」はチベットの「ピャー(祖先霊)」信仰からきている可能性が高いと考えます。―「縄文ノート132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」参照
台湾に少数民族の「卑南族」(現地ではピューマ、呉音ではヒナ・ヒナン)がいることは「縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の『縄文1万年』」でも紹介しましたが、「匈奴」も「ヒョン・ナ」「フンナ」「フンニ」「ションヌゥ」「ヒュン・ノ」などと発音されており、「あいういぇうぉ」5母音だと「ヒュン=ヒョン」になり、チベットを経由し「ピャー」「ピュー」信仰を伝え、同じ遊牧民の鮮卑(センピ)もまたその国名から「ピー・ヒ」信仰であった可能性があります。―「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」(220905)参照
なお、柳田圀男の実弟の民俗研究者の松岡静雄は『日本古語大辞典』において次のように解説しています。
・「ヒ族:上代ヒという種族名が存したらしい。ヒイ、もしくはイヒとして、地名、神名等に残る」
・「イヒ族:イヒ川、イヒ田、イヒ森などの地名が諸国に存在する。この種族がヒナともヒダとも呼ばれ、或いはシナ、シダと称えられ、エミシ、エビス、エゾとして知られ、この国の至る所に蕃息していた」
・「ヒナ(夷):ヒ(族名)ラ(接尾語)の呼称。この種族はキ(紀)、アマ(海人)よりも先にこの国に渡来し、原住民コシ(高志)を征服したが、自己もまた新来者によって駆逐せられた」
邪馬壹国と同時代の後漢霊帝の中常侍(ちゅうじょうじ)の李巡(りじゅん)は東夷9国を「八倭人、九天鄙(テンヒ:あまのひな)」と書いていることからみて、スサノオ・大国主の「委奴国」は「ふぃな(いな、ひな)のくに」であったと私は考えています。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』、「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」(220905)参照
以上の「霊(ひ)」信仰の考察は全て一部の2次資料による仮説であり、今後、各国の歴史・民俗・宗教の研究による検証を求めたいと思います。
⑶ 「ポンガ」の赤米・カラス行事
大野晋氏の『日本語とタミル語』からは南インドで体験したドラヴィダ族の「ポンガロー、ポンガロー」の行事が青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」の宗教的な繋がりがあることを教えられました。
大野氏は南インドに始めて調査に出かけた時、1月15日の「ポンガル」の祭りを体験しますが、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、沸騰して泡が土鍋からあふれ出ると村人たちは一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、カラスを呼んで与えるというのです。そして、日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのであり、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。私は縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えています。―縄文ノート「29 『吹きこぼれ』と『おこげ』からの縄文農耕論」()、「41 日本語起源論と日本列島人起源」(200918→210112)、「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)参照
この大野氏の本を読んで私は納得したことがあるのですが、村づくりの仕事で通った群馬県片品村で赤飯を地面に投げつける花咲地区の「猿追い・赤飯投げ祭り」と越本地区の赤飯を取り合い地面にこぼす赤飯が多いほど豊作になるという「にぎりっくら」の2つの奇妙な祭りがあり、その意味を考え続けていたのですが、やっと元々の祭りはカラスに赤飯を与える神事だった可能性がでてきたのです。―縄文ノート「9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」(150630)、「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」(150630→201227)参照
さらに、「縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」(210510)で書きましたが、「平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った烏帽子(えぼし)」について、中国の中国唐代の「烏沙(うしゃ)帽」の真似をしたとされているのですが、そもそも名前も形も異なり、何より特徴的なのは前に「雛尖(ひなさき:クリトリス)」「雛形」「雛頭」を付け、女性器信仰を示していることです。
「烏」は住吉大社、熊野大社、厳島神社などスサノオ一族の神社で神使とされているのですから、烏帽子は唐の「烏沙 (うしゃ) 帽」の真似をしたというより、紀元1・2世紀のスサノオ・大国主建国より前から続くカラス信仰をそのルーツとしている可能性が高いと考えます。
土器鍋で赤米を炊いて「ポンガロー、ポンガルー」と吹きこぼれに歓声をあげるというのは、人類がイモや穀類などの糖質食の料理革命に大きなインパクトを受けたことを示しており、吹きこぼれを示す縄文土器の縁飾りも同じです。しかも炊いた赤米を最初にカラスに与えるというのは、カラスが死者の霊(ひ)を高山(神名火山=神那霊山)から天に運ぶという宗教がドラヴィダ族にあり、わが国にも伝わっていた可能性が高いと考えます。
⑷ 「神山天神信仰」
記紀によると伊邪那美(いやなみ)は死後、遠く離れた出雲国と伯伎国の堺の比婆山(ひばのやま)(霊場山)に葬られたとする一方、伊邪那岐(いやなぎ)は揖屋(いや)(松江市の西)の「黄泉の国」に訪ねていって腐敗したイヤナミの死体を見たとしています。この記載は死者は大地に帰るとともに、その霊(ひ:魂=玉し霊)は神名火山(かんなびやま)(神那霊山)から天に昇ったとする魂魄分離(こんぱくぶんり)の宗教思想があったことを示しています。
天之御中主神から始まり、群品の祖である「二霊(産霊夫婦:高御産霊神、神産霊神)」を始め、大国主神や伊邪那伎大神・伊邪那美大神や大物主(おおものぬし)大神・猿田毘古(さるたひこ)大神、天照(あまてる)大御神や迦毛(かも)大御神(阿遲鉏高日子根(あじすきたかひこね)神)など多くの神々が登場する「八百万神」信仰は、全ての死者が神として祀られる宗教を示しています。人々は記憶に残る人がどこか別世界に生きているのではないかと考え、親と子が似るというDNAの働きを霊(ひ)が受け継がれると考えたのです。
ではこの死者の霊(ひ)が神山(神名火山:神那霊山、円錐形のコニーデ式火山)の山上から天に昇るという神山天神思想はいつに遡るのでしょうか?
その手掛かりは、環状配石の中央に石棒をたてそこから蓼科山に向かって石列のある6000~5500年前頃の阿久遺跡と、その南の19の方形巨木柱列が蓼科山を向いた6700~6450年前頃の阿久尻遺跡、八甲田山を向いた6本柱巨木神殿のある5900-4200年前頃の三内丸山遺跡にあり、神名火山(神那霊山)信仰が縄文時代に遡ることは明らかです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」(200801→1228)、「104 日本最古の祭祀施設」(211025)、「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」(211030)参照
この神山天神信仰のルーツはどこになるのでしょうか? その手掛かりは上2/3が白く下1/3が赤いギザのメンカウラーのピラミッドにありました。ピラミッドは王の墓と考えられてきましたが、表面を白にしたのは万年雪を抱く神山を模したものであり、そのルーツは「母なるナイル」源流の「月の山」ルウェンゾリ山、「神の山」ケニヤ山、「神の家」キリマンジャロにあったのです。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」(210213)、「158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」(230118)参照
「王家の谷」が王墓として選ばれたのは、「母なるナイル」をさかのぼった中流にピラミッド型の山があったからであり、さらにルクソール神殿やホルス神殿、アスシンベル神殿が建てられたのはエジプト人のルーツがナイル上流にあったことを示しています。
さらにエジプト文明だけでなくメソポタミア・インダス・中国文明にも神山信仰があり、メソポタミア文明のジッグラトは「高い所」を意味する聖塔で、自然の山に対する「クル(山)信仰」が起源で基壇上に月神ナンナルの神殿があり、ティグリス・ユーフラテス川源流域のアララト山は「ノアの箱舟」伝説のある聖山なのです。インダス文明にはンダス川・ガンジス河源流に聖山「カイラス山(スメール山:須弥山)」があり、仏教(特にチベット仏教)・バラモン教・ヒンドゥー教などの聖地とされ、中国では泰山など五岳が神格化され、泰山では帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する封禅(ほうぜん)の儀式が行われてきました。―「縄文ノート57 4大文明と神山信仰」(210219)参照
それだけでなくミャンマーやインドネシア、古代マヤ文明、アンデス文明にも神山信仰とピラミッド型神殿が見られ、アフリカを起点とした神山天神信仰が人類大移動とともに世界に拡散したと考えられます。―「縄文ノート61 世界の神山信仰」(210312)参照
西アフリカに隣接する「偉大な山」カメルーン山は頂上が吹き飛ばされる前はきれいなコニーデ火山で万年雪を抱く神名火山(神那霊山)であった可能性があり、西アフリカのY染色体D型人はカメルーン山を信仰していた可能性があるとともに、コンゴ川にそって東アフリカ湖水地方に移動し、ルウェンゾリ山やケニヤ山・キリマンジャロに対して神山天神信仰を抱き、インド・東南アジアを経て日本列島にやってきた可能性が高く、Y染色体E1b1b型人はナイル川を下ってエジプト文明を作ったと考えます。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照
なお、日本には神山を模したピラミッドはありませんが、姫路市の播磨総社(祭神はスサノオの子の五十猛と7代目の大国主)では竹と布と松で全国から神々を呼び寄せる20mの「置山」を作る20年に1回の「三つ山祭」、60年に1回の「一つ山祭」が行われており、そのルーツは古事記に書かれた出雲大社の前に置かれた「青葉山」と考えられます。―縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」(201223)参照
この置山に車を付け、スサノオの霊を京都に運んだのが京都の祇園祭の「山鉾」であり、各地の山車、曳山、山鉾、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)へと引き継がれています。―「縄文ノート80 『ワッショイ』と山車と女神信仰と『雨・雨乞いの神』」(210619)参照
⑸ 「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」信仰
秋田県鹿角市の大湯環状列石遺跡には3本直列×2組の列柱があり、石川県金沢市のチカモリ遺跡、石川県能登町の真脇遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡には円形の巨木列柱跡が、長野県茅野市の中ツ原遺跡には8本の長形巨木柱跡、青森県青森市の三内丸山遺跡には6本の長形巨木柱跡があり、茅野市の阿久尻遺跡には20の方形柱列痕があります。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」(200801→1226)、「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」(201026)、「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」(211107)参照
神社では元々神名火山(神那霊山)を神体とする他、磐座(巨石)や神籬(ひもろぎ=霊洩木)を祖先霊の依り代としており、宗像大社の高宮祭場は神籬を四角の石の方壇で囲っており、平原遺跡や吉野ヶ里遺跡の王墓の前には大柱が立てられていました。
記紀はイヤナギ・イヤナミは「天御柱(あめのみはしら)」を左右に分かれて廻り、セックスして神々を産んだとしており、出雲大社本殿には構造材ではない「心御柱(しんのみはしら)」の廻りに8本柱の建物で覆いをかけた構造となっており、それは伊勢神宮の「心御柱」や仏塔の「心柱(しんばしら)」に受け継がれています。諏訪の神社や祠の四隅には御柱が建てられ諏訪神社では盛大な御柱祭が7年ごとに行われ、日本の伝統住宅では大黒柱(大国柱)横の長押に神棚を置くなど、神籬(霊洩木)から死者の霊(ひ)は天に昇り、降りてくるという宗教思想は現代に受け継がれています。
ではこの神籬(霊洩木)信仰はわが国独自のものなのでしょうか?
事例調査は限られますが、『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』に掲載されたタイの「ピーを祭る小祠」を見ると、木を前に祠が置かれその前の両側には木が立てられており、諏訪大社の神長官守矢家の「神長官邸みさく神境内社叢」の神木・かじのきの前に祠を置き、四隅に御柱が立てているのと似通った構成となっています。またその裏に登ったところの実家の畑に建築家・藤森照信氏が立てた3つの茶室「高過庵(たかすぎあん)」「低過庵(ひくすぎあん)」「空飛ぶ泥舟」の同じ敷地内にはタイの祠と同じような祠が建てられており、同じ宗教思想を伺わせます。―縄文ノート「23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」(200808→1209)、「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」(201026)参照
若月利之島根大名誉教授によれば、ナイジェリアの「イボ人に祖霊信仰(霊(ひ)信仰)があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した『聖なるJujuの森』がある」とのことであり、まだ写真など現地に確認をとっていませんが、祖先霊信仰と神籬(霊洩木)、祠のルーツがアフリカに遡る可能性もあります。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照)
またネパールには「雨を呼ぶ女神」マチェンドラ(観音菩薩)の祭りでは木を蔓で組み上げて青葉で飾って木に模した20mを超える山車を「ワッショイ ワッショイ」の掛け声で引き歩く祭りがありますが、仏教伝来以前からあった神木信仰を伝えている可能性も考えられます。―「縄文ノート80 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」(210619)」参照
時代と場所が異なりますが、西アフリカの奴隷海岸から連れ出された奴隷たち「アフリカン・アメリカン」は儀式を通じて精霊を下す宗教をアメリカに持ち込み、ハイチのヴードゥー教では万物生成の源である、大地と天空を結び付ける聖霊たちの木である「建物の中央の柱(ポトミタン)」を中心に音楽とダンスを伴った招霊の儀式が行われるというのです。―「ブラックミュージックの魂を求めてー環大西洋音楽文化論」(中村隆之、『世界』2023.10)参照
アフリカ西海岸の『聖なるJujuの森』にそのような神木信仰が残っているのかどうか未確認ですが、「中央の柱(ポトミタン)」は出雲大社などの「心御柱」や民家の「大黒柱(大国柱)」、古事記の「天御柱」の記述などのルーツの可能性があると考えます。
⑹ 「龍神」信仰
縄文時代中期(5400~4400年前頃)に信濃川中流域を中心にした「火焔型土器」の縁の上の4つの紋様について、これまで「火焔」説、「鶏頭冠」説、「水面を跳ねる魚」説、「四本脚の動物」説が見られましたが、めらめらと燃え上がる火焔や鶏頭にはどうみても見えません。
「4本足」「頭と背中にギザギザがある」「尻尾をあげている」という3条件からみて、縄文人はカブトトカゲから空想上の「トカゲ龍」をデザインした可能性が高いと考えました。―「縄文ノート 36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」参照
このレジュメを『蘇れ古代出雲よ』などの著者のノンフィクションライターの石飛仁さんに送ったところ、「出雲神楽ではヤマタノオロチは『トカゲ』である」とのメールをいただきました。出雲大社では海蛇を「龍神様」として稲佐浜では神使として神迎神事を行っていますが、元々はトカゲ龍信仰が縄文時代からスサノオ・大国主の鉄器時代に続いている可能性が高くなりました。―「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照
龍といえば中国皇帝のシンボルであり、龍神信仰は中国からきて「琉球(龍宮)」や出雲の龍神・トカゲ龍神楽、各地の龍神信仰に繋がったと考えられ、ウィキペディアも「竜の起源は中国」としていますが、「インドの蛇神であり水神でもあるナーガの類も、仏典が中国に伝わった際、『竜』や『竜王』などと訳された」ともしており、中国起源説とともにインド蛇神起源説もみられます。
2020年のNHK・BSの「古代中国 よみがえる英雄伝説 『伝説の王・禹~最古の王朝の謎~』」などによれば、中国最古の夏王朝(4080~3610年前頃)の王都の二里頭遺跡でトルコ石の龍の杖と龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう:刀型の儀礼用玉器)が発掘されたとし、夏の龍信仰が各地に広まったかのように解説していましたが、ベトナム・四川省の龍の形がリアルであるのに対して二里頭のものはより抽象化されてシンプルになっており、むしろ南方系のトカゲ龍を起源としたデザインであり、長江流域を経て、黄河流域に広まった可能性が高いと考えます。
日本でもトカゲはヤモリ(家守)は害虫を食べる益獣とされていますが、東南アジアにおいてもインドネシアのコモドオオトカゲを除いて人間に害を及ぼすことはなく、ネズミなどを駆除する益獣とされ、天と地、川や海を行き来し、雨を降らせる神として崇拝されており、そこから龍神が生まれたと考えられます。
「龍」は倭音倭語では「たつ」であるのに対し、呉音漢語「リュウ」、漢音漢語「リョウ」であることからみて、縄文土器の「トカゲ龍縁飾り」は中国から伝わったのではなく、東南アジアの天に昇り雨を降らせる水神のトカゲ龍の信仰が伝わり、祖先霊と共食するお粥や煮炊き料理の湯気が天に昇る土器鍋のデザインとした可能性が高いと考えます。
⑺ 妊娠土偶・女神信仰
子どもを産み育て、採集・漁労などの教育行う母親や祖母は、血の繋がりが確実な次世代・次々世代に尊敬されてきました。それは安産を願う縄文時代の妊娠土偶や出産紋土器、女神像、女神山(御山)信仰に現れており、世界各地の石器時代の像にもみられます。―縄文ノート「23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」(200808→1209)、「32 縄文の『女神信仰』考」(200730→1224)、「75 世界のビーナス像と女神像」(210524)、「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」(210930)、「103 母系制社会からの人類進化と未来」(211017)参照
安産のお守りで出産後は壊された乳房や性器を強調した妊娠土偶に対し、女神像は乳房・性器を小さくして仮面をかぶるなど抽象化・シンボル化した形になり、祖先霊祭祀を司る若い女神を表し、信仰の対象として使われたと考えます。
すでに見たように「霊(ひ)信仰」において、女性器を「ひな(霊那:霊の留まるところ)」といい、烏帽子の前に「雛尖(ひなさき)」を付けるわが国の女性器信仰もまた女神信仰を示しています。
このような妊娠女性像と女神像は西欧やロシア各地にみられ、今のところ最古のホーレ・フェルスのヴィーナス(ドイツ:マンモスの牙、6㎝)は3.6万年前頃ですが、日本の粥見井尻土偶(三重県松阪市:土偶、6.8㎝)や相谷熊原土偶(滋賀県東近江市:土偶、3.1)は1.3万年前頃(縄文時代草創期)のものです。―縄文ノート「75 世界のビーナス像と女神像」(210524)、「86 古代オリンピックとギリシア神話が示す地母神信仰」(210718)、「126 『レディ・サピエンス』と『女・子ども進化論』」(22030)
女性・女神信仰のもとで、これらの妊娠女性像や女神像はそれぞれの別の地域で作られるようになったのか、それともアフリカで共通する文化があって受け継いだのか、今のところ後者を裏付ける物証はありません。
⑻ 男性器信仰
縄文時代の石棒は棒状のものと勃起した男根を模したものがあり、別々のものではなくどちらも男性器を表し、石棒を円形石組に立てたものは男根を女性器に挿したものと考えられます。この男根信仰は明治政府に禁止されるまで各地に見られ、いまも所々に残されています。―縄文ノート「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」(190129→200411)、「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」(150630→201227)、「41 日本語起源論と日本列島人起源説 」(200918→210112)、「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」(211003)、「102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神」(211013)参照
この性器信仰について、私は多産・安産の霊継(ひつぎ)を願う男性優位のシンボルと見ていましたが、群馬県片品村の上小川地区では女体山(日光白根山)に木製の「金精(男性性器型)奉納」の登拝行事は男性のみが行っており、男が性器型などのツメッコを作り甘い汁粉に入れて煮て、裏山の十二様(山の神:女神)に供えて帰って食べる針山地区の「十二様祭り」は十二様が嫉妬するので集落の13歳以上の女性は甘酒小屋に集まり参加できないということからみて、金精信仰は女神に男根を捧げる祭りであり、女神の依り代であると考えるようになりました。―「縄文ノート9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」(150630)参照
そうすると、環状集落や環状列石の中心に石棒を立て、家の中では女性が調理する囲炉の角に石棒を立てているのは、祖先霊が宿る神名火山(神那霊山)から石棒(金精:男性器)に女神が降りてくることを願い、女神とともに共食し、霊継(ひつぎ:多産・安産)を願った母系制社会の宗教を示していると考えられます。―「縄文ノート159 縄文1万5千年から戦争のない世界へ」(230203)参照
それは縄文人オリジナルというより、ヒンドゥー教以前からあるインドのリンガ(男根)・ヨニ(女陰)崇拝や、妻問婚の残るブータンの男性器崇拝とルーツを同じくする可能性が高いと考えます。
なお、わが国においては、縄文時代の母系制社会の女神の依り代である石棒崇拝から、男根道祖神、男女性器道祖神、夫婦道祖神へと時代とともに変化してきています。―「縄文ノート102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神」(211013)参照
⑼ 仮面と太鼓
前述の「ブラックミュージックの魂を求めてー環大西洋音楽文化論」では、奴隷たちの抵抗として手放さなかったアフリカ文化として「かぶり物、釣り、ドラミング」の3つを紹介し、「かぶり物の習慣はアフロ・アメリカの全域にわたって見られ・・・かぶり物はきわめてアフリカ的なものである」、「ドラミングはアフリカ由来の精神文化を体現するものです」、「魚釣りの技術の伝来には諸説あります(アフリカ起源、先住民に学んだ、植民者に学んだ)」としています。
まず「かぶり物」ですが、前述のように縄文の「仮面の女神・土偶」は神楽などに受け継がれており、アフリカがルーツの可能性があります。
ドラミングは、ナイジェリア・カメルーン・ガボン・コンゴ共和国に棲むニシゴリラや東部高地湖水地方に棲むヒガシゴリラ(マウンテンゴリラ)の胸を叩くドラミングや、チンパンジーやボノボ(中央部のコンゴ民主共和国)が木の幹が地面近くでスカートのひだのように広がっている「坂根」を足で蹴ったり手で叩いてドドドンドンと太鼓のように音を出し、追跡中にボノボの姿を見失うと現地ガイドは山刀で坂根を叩き「ピャアピャアピャア」と返事をするので居場所がわかる、何度やっても必ず返事をすると古市剛史教授(京大霊長類研究所)は書いており、威嚇やコミュニケーションの手段であったドラミングを、人類は歌や踊りとともに、宗教儀式に取り入れたものと考えられます。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照
西アフリカ原産のヒョウタンを使ったドラムについて、「大きなひょうたんに動物の皮を張って叩いたのが太鼓のはじまり。アフリカ、アジアなど世界中にひょうたん太鼓があります」https://hanabun.press/special/hyotan110/)、「アフリカの文化を代表する植物を一つあげるとしたら、ひょうたんを選ぶ人が多いのではないだろうか。サハラ以南のアフリカのほぼ全域で栽培、加工、使用され、日常の容器から威信財としての容器、宗教儀式に使う容れ物、楽器、時には衣服にいたるまでの幅広い用途で用いられるひょうたんはアフリカの人々の暮らしの中に、信仰の中に深く根付いていて、アフリカ各地の文化の中で非常に重要な役割を果たしている」「ひょうたんを胴にして作ったドラム。さまざまな大きさのものがある。西アフリカに多く見られ、とくに有名なものがブルキナファソでベンドレと呼ばれるひょうたんドラムである」(アザライ「ひょうたん楽器特集Ⅱ」(https://www.azalai-japon.com/mois/instrument-calebasse2-sp.html)とされており、ヒョウタンを持ってきた縄文人が「ヒョウタン太鼓」文化も持ってきて祭りなどに使った可能性はありますが今のところ未発見です。
縄文前期末期から中期終末にかけて長野・山梨県の中央高地から関東地方を中心に東日本各地に分布する有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器には、「種子貯蔵容器説」「酒器説」「土製太鼓説」「酒造具説」が見られますが、胴が膨らんだ樽型のものは「ヒョウタン太鼓」を模した可能性があります。
縄文時代の土笛や石笛、琴が見つかっている以上、アフリカをルーツとする太鼓文化はY染色体D型人により伝わった可能性が極めて高く、ヒョウタンや木製品を含めて発見される可能性はあると考えます。
そして、これらは「アフリカン・アメリカン(アメリカス)文化(ネオ・アメリカ文化)」と同じように、「アフリカン縄文文化・宗教」と言うべきと考えます。
⑽ 霊(ひ)信仰から自然信仰・神使信仰・精霊信仰へ
死者を偲び、死後の世界を考えた人類は、肉体は大地に帰っても死者の霊(ひ)は残り、神山から天に昇ると考え、宗教施設として神山型(ピラミッド型)の神殿を建て、あるいは高木を神籬(霊洩木)として霊(ひ)の依り代とし、水蒸気や湯気が天に昇り雨となって降りてくることから龍神信仰や水神信仰を考え、雷が天から降ってきて火をもたらすことから雷神信仰を考えたと思われます。
神山や神木、雨や雷、天や太陽・月、蛇やトカゲ・鳥・狼・猿・鹿などの信仰を「自然信仰」とみなす説もありますが、図43・44に示すように、全て「霊(ひ)信仰」が基本となっており、天と地、山と里、海と里を繋ぐ動物たちは「神使」として崇拝されたと考えます。同時に、この霊(ひ)信仰は全ての生物や自然にも霊(ひ)があると考える「自然信仰」「精霊信仰」へと繋がりました。
そして、この宗教思想はY染色体D・O型人がアフリカから中央・南・東南アジアを経て、日本列島に持ってきたと考えます。