ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主ノート150 FB邪馬台国探究会「20 「邪馬台国畿内説」は成立するか?」の紹介

2023-12-23 20:40:22 | スサノオ・大国主建国論

231222 雛元昌弘

 フェイスブックの邪馬台国探究会で、「『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」を連載してきましたが、「20 『邪馬台国畿内説』は成立するか?」をアップしました。

 内容は美和における「スサノオ・大国主建国論」でもありますので、参考にしていただければと思います。

 

<構成> 20 「邪馬台国畿内説」は成立するか?

⑴ 畿内説は「里程引き算足し算条件」を満たさない

⑵ 畿内説には「東を南とした90度方位誤記」の証明がない

⑶ 「水行十日」の起点は「不彌国」ではなく「末盧国」の呼子港である

⑷ 魏使は「ガキの使いやあらへんで!」

⑸ 「水行―陸行―水行」の途中下船・乗り継ぎはありえない

⑹ 漢・魏皇帝由来の「皇帝3物証」は畿内からは何も発見されていない

⑺ 鉄器時代は北九州・出雲が中心である

⑻ 卑弥呼をアマテル(天照)とする畿内説の「自爆」「敵塩」

⑼ 箸墓は大物主・モモソヒメ夫婦の墓であり、卑弥呼・アマテルの墓ではない

⑽ 間城(まき)・纏向(間城向)は大国主の拠点であった

 ① 纏向の大型建物は「日御子=アマテラス」の太陽信仰神殿か、大国主一族の穴師山崇拝の拝殿か?

 ② 奈良盆地の開拓・建国者はスサノオ・大国主一族

 ③ 大国主・大物主連合の成立

 ④ 「間城」「纏向(間城向)」は大国主一族の拠点

 ⑤ 銅鐸・銅槍(通説は銅剣)・銅矛祭祀から八百万神の神名火山(神那霊山)信仰へ

 ⑥ 「仮面」と「桃の種」は大国主由来の宗教を示す

 ⑦ 穴師山は穴師=鉱山師の大国主一族の拠点

 ⑧ 播磨の養久山古墳群の「円墳・方墳・前方後円墳」から前方後円墳は生まれた

 ⑨ 「邪馬台国畿内説」「卑弥呼・アマテル・モモソヒメ三位一体説」は新皇国史観(天皇中心・大和中心史観)の空想


149 NHK「出雲大社 八雲たつ神々の里」から古出雲大社復元と世界遺産登録を考える

2023-12-16 16:56:29 | 出雲

 11月20日のNHKBSプレミアムの『出雲大社 八雲たつ神々の里』を録画をやっとみることができました。画像に登場する人々の服装が古いのと登場する森浩一同志社大教授が若いので画面の隅を見ると撮影は1985年となっていました。

 私はこれまで、古出雲大社は神籬(霊洩木)を心御柱として建物で覆ったものであり、八百万神の霊(ひ)を天に送り、迎える「天神信仰神殿」であり、「直階段」ではなく心御柱を廻りながら登る「廻り階段」で、その元々の場所は現在地より南東約200mの、八雲山から琴引山を結ぶ聖線(レイライン)上にあり、大風を避けるために三方を山に囲まれた現在地に鎌倉時代までには移されたとみてきました。

 この出雲大社本殿は縄文時代の神那霊山(神名火山)信仰と巨木神殿を受け継いだものであり、死ねば誰もが神として祀られる「八百万神信仰の世界遺産登録」に向けて、世界最高の古出雲大社神殿の復元を提案しています。

<これまでの関係資料>

⑴ はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」

 33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200801→1226

 50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 190408→200830

 104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿 211025

 105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群 211030

 106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107

⑵ gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」

 141 出雲大社の故地を推理する 221027

 140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判 221024

 143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点 221116

 145 岡野眞氏論文と「引橋長一町」「出雲大社故地」 230110

 146 古代出雲大社復元に取り組んだ馬庭稔君逝く 230323

 147 「八百万神信仰」の世界遺産登録へ  181218→230326

 

1 出雲大社本殿は「直階段」か、心御柱(神籬=霊洩木)を中心とした「廻り階段」か?

 このような私の主張に対し、NHK『出雲大社 八雲たつ神々の里』は48mあったとされる古出雲大社の復元イメージを外直階段ではなく内階段とし、構造的・機能的にみて本来の合理的な建築として再現像を描いています。

 出雲大社の「金輪御造営差図」や「3本組た3本組土中柱」が発見される以前のものと考えられ、9本柱ではなく柱の数を多くしていますが、柱と柱を繋ぐ貫(ぬき)を設けているのは構造的にみて合理的です。

 出雲国造の千家(せんげ)家に代々伝えられてきた「金輪御造営差図」(以下、金輪造営図と略)には神殿の前に「引橋長一町」と書かれた長方形の図が描かれていますが、日本書紀は「大国主が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋および天鳥船を造り供す」と書いていることからみて、この「引橋」は出雲大社本殿から大国主が神門水海(かんどのみずうみ)にでるため「高橋(桟橋)」と「浮橋(浮き桟橋)」だったのです。

 

 

 2 古出雲大社本殿は現在地にあったか?

 『出雲大社 八雲たつ神々の里』では現在の本殿の位置で古出雲大社の復元イメージを作成していますが、私は前から古出雲大社の場所はここではないと考えていました。

 現役時代に市町村などの総合計画や都市計画、地域計画で公共施設の配置や建築基本計画の仕事もしてきたことから建物の立地場所と方向には拘りがあり、出雲大社本殿が背後の神名火山(神那霊山)である八雲山を向いて建てられていないことを見て、古出雲大社の立地場所がどこか考え続けていました。

 纏向(間城向)の箸墓や最近発掘された大型建物、崇神天皇陵(崇神=御間城入彦と皇后の御間城姫の墓)が穴師山を向き、「箸墓―ホケノ山古墳―穴師坐兵主神社(祭神兵主大神=大国主)―穴師山」がほぼ聖線(レイライン)上にあることからみても、出雲族は神名火山(神那霊山)に向けて施設配置を行っていたのです。―「スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点」221116参照

 黒田龍二神戸大准教授は正面柱が奇数で屋根を支える棟持柱などから、この纏向の大型建物と出雲大社本殿との類似性を指摘していますが、古事記は、少彦名の死後、御諸山(美和山)に大物主(大物主大神=スサノオ)を祀ることを条件に大国主と大物主(大年)が国を「共に相作」ったとしており、大国主一族はこの地でスサノオを祀る霊継(ひつぎ)祭祀を全国から一族を集めて行うために三輪の間城の北の纏向(間城向)の地に祭祀拠点を置いたのです。

 日本書紀の「日(ひる)は人作り、夜は神作る」は、昼は山人(やまと)族(天皇家:モモソヒメ系)、夜は海人(あま)族(天族=出雲族=大物主・大国主系)によって作られた箸墓は大物主(大年の子孫で襲名)とモモソヒメの夫婦墓なのです。―「スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点」221116参照

 そこで八雲山から現在の社殿とほぼ同じ方角で南に伸ばすと神門川(かんどがわ)源流域に琴引山があり、出雲国風土記によれば、「琴引山・・・古老の伝えに云へらく、此の山の峰に窟あり。裏に所造天下大神の御琴あり・・・又、石神あり・・・故、琴引山と云ふ」と書かれ、大国主が琴を弾いて神意を聞いていたとされ、神在月に八百万の神々は「琴引山」を目印に集まり、神戸川を下って日本海へ出て稲佐の浜より上陸したとされています。

 「事代主」を「言代主」とも書くことから考えると、「琴引山=事引山=言引山」であり、琴引山は大国主一族の神名火山(神那霊山)として古くから信仰され、出雲大社はこの琴引山に向けて建てられた可能性が高いと考えます。

 この八雲山―琴引山聖線(レイライン)上で神事に「真名井」などのある近くに古出雲大社はあり、風を受けての倒壊を防ぐために、3方を山に囲まれた現社地に移されたと考えます。―「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」221027参照

 その後、縄文社会研究会・東京の事務局長の山岸修氏より岡野眞氏(香川大学教授)の論文をいただいたのですが、氏の「8世紀頃の出雲大社の立地環境図」は旧社地の前が「湿地性低地帯」となっており、「大国主が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋および天鳥船を造り供す」(日本書紀)には、「引橋長一町」(一町=109m)の高橋(桟橋:木デッキ)と浮橋(浮き桟橋)が必要であったことが裏付けられました。

 

3 出雲大社本殿は「高床式建物」の延長か、「縄文巨木建築」の伝統か?

 森浩一同志社大教授が「弥生時代」(私は「弥生時代はなかった」説ですが)の高床式建築の延長上に出雲大社本殿を位置付けず、「縄文建築の伝統を引き継いでいる」としているのはさすがです。

 48mの高さの当時としてはおそらく世界最高であった出雲大社本殿は、エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の「石造文明」とは異なる、縄文時代からの巨木「木造文明」の延長上にあり、さらに卑弥呼の邪馬壹国の「楼観」や吉野ヶ里遺跡や原の辻遺跡の「楼観」へと引き継がれ、奈良時代からの仏教寺院の塔や門、金堂、さらには安土桃山時代からの天主閣に引き継がれたと考えています。

 なお、私の子どもの頃は「竪穴式住居=縄文時代」、「高床式住居=弥生時代=渡来人」と習いましたが、縄文遺跡から高床式建物が見つかっており、どちらも縄文時代からの建築様式になります

 

4 縄文からの巨木建築は「雪の重み対策」か、「神名火山(神那霊山)信仰の高層拝殿」か?

 森浩一氏は縄文建築の伝統が出雲大社に引き継がれているという正しい判断を行う一方、それらの巨木建築の理由を「雪の重み」に耐えうるためとしているのは意できません。

 1993年に茅野市の阿久尻遺跡で蓼科山(女神山)を向いた縄文時代前期前半の19の方形柱穴列(巨木建築)が発掘され、1994年には青森市の三内丸山遺跡の6本柱巨木建築がみつかり、2000年には茅野市の中ッ原遺跡から8本柱巨木建築と仮面の女神像(国宝)が発見される以前であるという時代的制約から仕方ないともいえますが、出雲大社が縄文時代からの神名火山(神那霊山)信仰)や巨木信仰(神籬(霊洩木)を受け継いだ巨木神殿であることを森さんが見抜いていないのはなぜでしょうか?

 伐採から運搬、軸組加工、建設と膨大な人力を擁する巨木建築の建造となると、その部族民に共通の信仰がないと共同作業は不可能です。征服宗教である旧約聖書教(ユダヤ教・キリスト教福音派)やマルクス主義の影響を受けた西洋中心史観は、神名火山(神那霊山)を模した神山であるピラミッドやジグラットなどの巨大神殿を「古代奴隷制」による強制労働で建設されたとしてきましたが、部族社会の共同祭祀施設と見るべきであり、ピラミッド建設が奴隷労働によるものではないことは証明されています。

 戦前の天皇を神とした皇国史観への反省から、戦後の反皇国史観は宗教分析を排除するという傾向が見られますが、そのような中で考古学から日本神話の真偽を判断しようとした『日本神話の考古学』などの著書のある尊敬する森浩一さんが「雪の重み対策の巨木建築」説としたのは実に残念です。

 

5  八百万神信仰は「海神信仰」か、「地神信仰」か、「天神信仰」か?

 『出雲大社 八雲たつ神々の里』では出雲大社の西にある稲佐の浜で、海から竜蛇神があがり、八百万神が神籬(ひもろぎ:霊洩木)に乗り移り、本殿の西と東に並ぶ十九社と呼ばれる社に祀られ、1週間泊まって神事を行うと紹介されています。

 この神事はスサノオ・大国主一族の子孫たちが全国からこの地に集まり、八百万神の祖先霊を海の彼方の海底から迎える儀式であり、出雲族の死者の霊(ひ)は海人族の祖先の海に帰り、また戻ってくるという海神信仰を示しています。

 図11~15のように、出雲の海人(あま)族は、対馬暖流に乗って東北・北海道まで貝輪・ヒスイ・黒曜石の交易を広げた縄文海人族の子孫であり、「龍宮(琉球:始祖はアマミキヨ)→奄美→天草→甘木(天城)→天久保→天ヶ原(壱岐)→出雲」と移動し、さらに、近年、DNA分析でも出雲人が縄文系であることが証明されています。―「縄文ノート161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」(230226)参照

 この出雲の稲佐の浜での「神迎え祭」や神々を見送る「神等去出(からさで)祭」は、長崎市や各地の海辺の市町村などで死者の霊(ひ)を精霊船に乗せて海に送り、お盆には各家に「精霊迎え」を行い、「精霊流し」で送り返すという神事のルーツの可能性があり、内陸部では川での「灯篭流し」やひな祭りの元である「雛流し」として行われています。

 一方、古事記は天御柱(後の出雲大社本殿の心御柱:神籬(霊洩木))を廻ってイヤナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)が結ばれ、イヤナミの死後、イヤナギ(伊邪那岐)はイヤナミの霊(ひ)を出雲国と伯耆国の境の比婆山(霊場山)に葬ったとする天神信仰とともに、伊賦夜坂(揖屋)の黄泉比良坂(よもつひらさか)から地中の「黄泉国(よみにくに)」に訪ねたとする地神信仰も示しています。なお、黄泉=夜海であり、地底は暗い夜の海に繋がっていると考えていたと思われます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 スサノオ・大国主一族の八百万神信仰が、海蛇を「龍蛇神」として祀り稲佐の浜で海から八百万神(祖先霊)を迎える海神信仰なのか、それとも、天御柱を廻っての結婚やイヤナミの霊(ひ)が神名火山(神那霊山)である比婆山(霊場山)に祀られる天神信仰なのか、あるいはイヤナギの「黄泉の国」訪問神話に見られる地神信仰なのか、どう整理できるかずっと考え悩んできました。

 私は、元々は死者を海に流す海人族の「海神信仰」であったものが、出雲に定着して死者を地中に葬るようになり「地神信仰」が生まれ、中国から道教の魂魄(魂と体)分離の宗教思想が伝わり「天神信仰」が生まれたと考えていましたが、縄文社会研究会で縄文社会研究から縄文人起源論へと進み、アフリカ東部湖水地方のルウェンゾリ山・ケニヤ山・キリマンジャロをルーツとする神山天神信仰をルーツとしてエジプトのピラミッドやメソポタミアのジグラット、インド・東南アジアなどの仏塔が生まれたと結論づけるに至りました。―ヒナフキンの縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」(200825)、「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」(210213)、「57  4大文明と神山信仰」(210219)、「61 世界の神山信仰」(210312)参照

 さらにエジプト神話の始祖神ヌン(水の神:両性神)と天の女神ヌト、大地の神アトゥム(地母神)、メソポタミア神話の始祖神ナンム(海の女神)と天空神アン(アヌ)と大地の女神キの神話からみて、「海神信仰」「地神信仰」「天神信仰」はワンセットで東アフリカ湖水地方で生まれ、エジプトやメソポタミア、日本列島へと伝わったと考えています。―ヒナフキンの縄文ノート「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」(210822)、「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」(210924)、「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」(210930)参照

 

6  まとめ

 以上、NHKBSプレミアム『出雲大社 八雲たつ神々の里』を見たことをきっかけに、これまで書いてきたものを「出雲大社本殿は『直階段』か、心御柱(神籬=霊洩木)を中心とした『廻り階段』か?」「古出雲大社本殿は現在地にあったか?」「出雲大社本殿は『高床式建物』の延長か、『縄文巨木建築』の伝統か?」「縄文からの巨木建築は『雪の重み対策』か、『神名火山(神那霊山)信仰の高層拝殿』か?」「八百万神信仰は『海神信仰』か、『地神信仰』か、『天神信仰』か?」の5つの論点で整理しました。

 豊かで平和であったカナン(現在のパレスチナ)の侵略・虐殺・女性奴隷化・略奪を神の命令として正当化するために考え出された一神教の旧約聖書教(ユダヤ教とその影響下のキリスト教右派)が、母系制社会から父系制社会への転換をもたらし、ヨーロッパ・中東では宗教戦争を招き、アジア・アフリカ・アメリカの植民地化と奴隷貿易を思想的に支え、日本やベトナムなどの原爆・空爆ジェノサイドを正当化し、さらに現在、パレスチナを侵略したユダヤ人シオニストがガザ・ゼェノサイドを進めているのをみると、1万数千年前からの縄文人の平和な「全ての死者が神として祀られる八百万神」信仰が新たな輝きを増してくると考えざるをえません。

 私は縄文時代から続く「八百万神信仰の世界遺産登録」と、2世紀には世界最高であったと考えられる48mの「出雲大社本殿の復元」を提案してきましたが、『出雲大社 八雲たつ神々の里』から再度、整理を行いました。出雲を中心に各分野で議論いただければ幸いです。


「縄文ノート182 人類進化を支えた食べもの」の紹介

2023-12-04 18:07:27 | 人類進化

 はてなブログに「縄文ノート182 人類進化を支えた食べもの」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 この間、人類進化について図書館で本を借りて読んでおり、まずは西田利貞氏の『新・動物の「食」に学ぶ』(2000.8)から、人類進化に果たした食物の役割について私の説を確かめてきました。

 西田氏のアフリカでのチンパンジーと狩猟民の調査からは多くを教えられ、本書は大型動物と小型動物の食性分析や大型霊長類が果食性から葉食性、雑食性へと分岐する分析などたいへん面白かったのですが、類人猿から人が生まれたことに食がどう関係しているのかの分析については疑問が残りました。

 私は女・子どもの採集・栽培・漁労活動による「糖質・DHA食」が鍵であると考え、「肉食進化説」「狩猟・戦争進化説」「オス主導進化説」の西洋史観を批判してきましたが、西田氏が「イモ食」に注目されたのは私と一致しますが、西洋史観から脱却できていないのは残念です。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、西アフリカから南・東南アジア高地を経て日本列島にまでやってきた縄文人のスサノオ・大国主一族の「八百万神信仰」の建国史の解明にあたり、縄文からの焼畑そば食について研究がさらに進むことを願っています。

 「縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」(211121)では島根県飯石郡頓原町から1万年前の蕎麦の花粉が発見され、しかもその南には琴引山(言引山の可能性)があり、本ブログのスサノオ・大国主ノート「141 出雲大社の故地を推理する」(221027)、「145 岡野眞氏論文と『引橋長一町』『出雲大社故地』」(230110)では古出雲大社の本殿が琴引山を向いていることを明らかにしましたが、出雲ソバのルーツが縄文時代から続いていることを解明したいものです。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/