ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

154 「アマテラス」から「アマテル」へ

2024-05-30 20:30:25 | アマテラス

 記紀に書かれた「天照大神」「天照大御神」の「天照」は、これまで「アマテラス」と読まれ、本居宣長は「世界を照らすアマテラス太陽神」とし、それを受け継いだ皇国史観は「アマテラス太陽神」神道をアジア侵略の大東亜戦争の思想的支柱としてきました。

 しかしながら、「天照」を「アマテラス」と読む明確な根拠はありません。

 300万人(1/3は民間人)もの死者をだし、それをはるかに超える死者を中国人・アジア諸国民・米国人などに与えた日中戦争・太平洋戦争の真摯な反省にたつならば、皇国史観の「アマテラス」などを使うべきではなく、私は「アマテル」と書いてきました。

 その第1の根拠は、記紀神話で始祖神とされる神皇産霊(かみむすひ)・高御産霊(たかみむすひ)の産霊(むすひ)夫婦の子孫とされる対馬の天日神命(あめのみたまのみこと)を祀る対馬市美津島町の神社が阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)と称していることです。

 記紀や皇国史観に同調した(せざるをえなかった)神社は、「霊(ひ)」を「日(ひ)」に、「海、海人(あま)」を「天(あま)」字に置き換えてきていますが、阿麻氐留神社は祭神を「天日神命」と漢字で表記しながら「あめのみたまのみこと」の読み名を残し、元々は「天(海)の御霊の巫女人」という女神であったことを秘かに伝えているのです。

 この産霊(むすひ)始祖神ゆかりの神社が阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)=天照神社なのですから、「天照」は始祖神神話と神社伝承に従い、「アマテル」と読むべきなのです。

 第2の根拠は、天火明命(アメノホアカリノミコト)の別名「天照国照彦火明命」を祀る奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が「天照国照」を「アマテルクニテル」と読ませていることです。

 このホアカリ(火明)命は『古事記』『日本書紀(一書第6・第8)』ではアマテルの子の忍穂耳(オシホミミ)の子で、邇邇芸(ニニギ)の兄とし、『日本書紀』の本文などではニニギの子としていますが、播磨国風土記は大国主の子としています。

 ニニギの妻となる薩摩半島南西端の阿多のアタツヒメ(阿多都比売)の別名を、しまなみ海道の愛媛県今治市大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に祀られる大山津見神(大山祇神:イヤナミ・イヤナギの子)の娘の木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)とするなど、天皇家はスサノオ・大国主一族と血縁があるように見せかけており、ホアカリもまた大国主の御子と私は考えています。

 なお、この「天照国照彦火明命」を太陽神とする説が見られますが、その子孫の尾張氏・津守氏・海部(あまべ)氏が海人族であり、海部系の凡海(おおあま)氏に育てられた「大海人皇子(おおあまのおうじ)」が後に「天武(あまたける:てんむ)天皇」を名乗ることからみても、「天=海(あま)」であり「天照=海照(あまてる)」なのです。

 鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmには銅鐸の鋳型などがでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や牛頭天王=スサノオを祀る杵築神社(出雲大社の古名)があり、今里と鍵の集落では蛇巻き神事が行われるなど、この地は海蛇を神使とする大国主の子の火明命一族の「大倭=大和(おおわ)」への進出拠点と考えます。

 第3の根拠は、「天照大神」「天照大御神」の「天照」は尊称であり、日本書紀がその名前を「大日孁貴(おおひるめのむち)」としていることにあります。「ヒルメ」が「日留女」なのか「霊留女」なのかですが、古事記序文で太安万侶が始祖神を「二霊群品の祖」とし、日本書記が「神皇産霊(かみむすひ)・高御産霊(たかみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦としていることからみて、「ヒルメ=霊留女」であり、始祖王の霊(ひ:祖先霊)を受け継いで祭祀を行う女性、霊御子=霊巫女なのです。大日留女は「日神(ひのかみ)」太陽神を祀る巫女ではありません。

 第4の根拠は、古事記の天照大御神(大霊留米:おおひるめ)の天岩屋戸からの復活神事(実際には墳墓の上の石棺での後継女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して後継女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しており、鏡は頭上に飾って人々を照らす太陽のシンボルではないのです。

 ニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと古事記が書いていることからみても、鏡は女王の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。

 なお、「アマテルの御魂」とされる八咫鏡(やたのかがみ:咫(あた)は広げた親指と中指の長さの身体尺)は「三種の神器」として皇位継承のシンボルとされていますが、10代御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)はスサノオ(大物主大神)が持っていたヤマタノオロチ王の大刀と八咫鏡を大物主(代々襲名)から奪い、自らの宮中に移して祀ったところ、民の半数以上がなくなり、百姓は流離し、背く者があったという恐ろしい祟りを受けます。「崇神天皇」は神を崇拝した天皇とされてきましたが、祖先神を偽り「神に祟られた天皇」なのです。

 そこで奪った八咫鏡は宮中から出し、倭の笠縫邑から祀るべきアマテルの子孫を探して丹波、吉備、宇太、伊賀、淡海、近江、美濃、尾張、三河、遠江、桑名など29か所を転々とし、ようやくイヤナミ(伊邪那美)の子の和久産巣日(わくむすび)の子の豊宇気毘売(トヨウケビメ:豊受大神)を祀る一族の伊勢で草薙剣とともに祀られて祀られています。

 この事実は、アマテルの御魂が宿る八咫鏡(やたのかがみ)は血の繋がった子孫に祀られないと祟るのであり、天皇家はアマテルの子孫、スサノオの同族ではないためその後も皇居に祖先の御霊として祀ることができず、明治まで伊勢神宮に参拝することもできなかったのです。この祖先の言い伝えを破り、アマテルの子孫の神として侵略戦争を繰り広げた明治・大正・昭和天皇は、300万人の民を殺すという恐ろしい祟りを招いたのでないでしょうか?(オカルトチックな話で恐縮ですが)

 鏡作坐天照御魂神社神社の案内板は、崇神天皇が「八咫鏡を皇居の内にお祀りするのは畏れ多い」として皇居から出したとしていますが、アマテルが「わが御魂として、吾が前を拝むように、いつき奉れ」と命じたとされる神器の八咫鏡は本来なら皇居の神棚に飾り、毎日、その子孫によって祀らなければならないものなのです。家の中に仏壇と大黒柱(大国柱=心柱)に添っ神棚(仏教が入る前は祖先霊を祀っていました)を置くのと同じように、天皇家は本当にアマテルの子孫なら祖先霊アマテルを祀るべきなのです。

 それが出来なかった天皇家は、この鏡作の地で別の八咫鏡を作らせて宮中に納めさせたのであり、スサノオの韓鋤剣を刃こぼれさせたオロチの鉄の草那藝之大刀(くさなぎのおおたち)の代わりに銅剣の草薙剣(熱田神宮の御神体)に置き換えたのと同じことをしたのです。

 第5の根拠は、新井白石が「人」を「ヒ(霊)のとどまる所」で「霊人(ひと)」とし、角林文雄氏(ニュージーランド・マッセー大学東アジア学科講師)が「人・彦・姫・卑弥呼」は「日人・日子・日女・日御子」ではなく、「霊人・霊子・霊女・霊御子」であるとしたように、この国が産霊夫婦」を始祖神とする、死ねば誰もが神として子孫などに祀られる八百万神の「霊(ひ)信仰の国」であることです。

 そして、この人類のもっとも基本的な信仰である死者・祖先の霊を神(仏教では仏)として祀る宗教がわが国では縄文時代から今にいたるまで続いているのです。

 諏訪の神名火山(神那霊山)の蓼科山の女神は「ヒジン(霊神)様」と呼ばれ、縄文時代の阿久尻遺跡では環状列石の中央広場に置かれた石棒からの2列の石列が蓼科山を向いており、「山の神」=女神がやどる神名火山(神那霊山)信仰は縄文時代から現代に続いており、太陽信仰などどこにも根づいていません。「アマテラス太陽神」など皇国史観の幻であり、その迷信から覚めるべきです。

 なお、私は記紀に登場する「アマテル(天照)」は8世紀の創作ではなく、実在した4人の襲名アマテル(尊称を継承)を合体したものと考えています。記紀・新唐書・魏書東夷伝倭人条を分析すると、アマテル1は出雲生まれのスサノオの筑紫の異母妹、アマテル2はスサノオ7代目の大国主の筑紫妻の鳥耳、アマテル3は筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(大霊留女:霊御子=霊巫女)、アマテル4は壹与(卑弥呼の後継女王)になります。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)     http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)          https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の再加筆修正」の紹介

2024-05-28 15:47:42 | 日本文明

 5月25日アップしました「はてなブログ:縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の最後の部分には、「起承転結」の肝心の「転」の部分が欠けており26日に加筆修正しましたが、「結」の部分も欠けていましたので再加筆修正しました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 急いだ拙い作業で失礼しましたが、以下、加筆部分をそのまま掲載いたします。

 

<5月26日の加筆修正点>

 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトのように太陽神のシンボルとして、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 

<5月28日の加筆修正点>

 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰は縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照

 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。

 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。

 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。

 西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。

 

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、1万数千年の縄文文化・文明の根底にある「死ねば誰もが霊神(ひのかみ)」として祀られる「八百万神信仰」の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝のスサノオ・大国主建国史の解明に続け、一神教以前にかつて全世界にあった霊(ひ)信仰として八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきと考えます。  雛元昌弘

 


「「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の再加筆修正」の紹介

2024-05-28 15:20:15 | 日本文明

 5月25日アップしました「はてなブログ:縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の最後の部分には、「起承転結」の肝心の「転」の部分が欠けており26日に加筆修正しましたが、「結」の部分も欠けていましたので再加筆修正しました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 急いだ拙い作業で失礼しましたが、以下、加筆部分をそのまま掲載いたします。

 

<5月26日の加筆修正点>

 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトのように太陽神のシンボルとして、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 

<5月28日の加筆修正点>

 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰は縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照

 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。

 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。

 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。

 西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。

 

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、1万数千年の縄文文化・文明の根底にある「死ねば誰もが霊神(ひのかみ)」として祀られる「八百万神信仰」の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝のスサノオ・大国主建国史の解明に続け、一神教以前にかつて全世界にあった霊(ひ)信仰として八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきと考えます。  雛元昌弘

 


「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の紹介

2024-05-26 14:44:28 | 女神論

 はてなブログに「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 録画していた5月22日NHK・BSの新日本風土記「十津川村(とつかわむら)」(2019年1月初回放送)を見ましたが、杣師(そまし:きこり)が「けずり花」(男性のシンボル)をつくり、各家や山の大木の近くに宿る「山の神」に供える信仰や、山人(やまびと=やまと)の村の農業・食事・祭りなどたいへん興味深い番組でした。

 私が注目したのは、「山の神」=女神に男性が「男根」に似せた「けずり花」(なんとも奥ゆかしいネーミングです)を供えるという点です。

 この十津川村の「けずり花」を女神「山の神」に捧げる祭りは、単なる自然信仰ではなく、死者の霊(ひ)が山から天にのぼるアフリカ起源で世界に広まった神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰、ピラミッド神殿、神籬(霊洩木)信仰)であり、縄文石棒やイナウ(アイヌ)、けずり花(十津川村)、金精(全国各地)は霊(ひ)の再生を願って男性が母系制社会の女神に捧げる神器であり、女神の依り代でもあったのです。

 

 なお、「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」において、「私は幣帛(へいはく)・御幣(ごへい)とイナウは、御柱や神籬(ひもろぎ)のミニチュア説とともに、その形状(陰毛らしきものが垂れている)からみて、大地に突き立てる石棒(男根)を受け継いだものではないか、という仮説も考えていますが、今後の検討課題です」と書きましたが、幣帛(へいはく:大麻(おおぬさ))と御幣(ごへい)は神が宿る神籬(ひもろぎ:霊洩木)であり、石棒・イナウ・けずり花・金精とは神器としての役割が異なり、修正いたします。

 

 古事記によればアマテル(天照大御神)が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したとしているのであり、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトの太陽神のように、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としており、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、死ねば誰もが霊神(ひのかみ)として祀られる八百万神信仰の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝を縄文文化・文明論に遡って位置づけて世界の神山天神信仰とピラミッド型神殿の解明に役立て、八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきと考えます。 

 また、古事記・日本書紀の神話を荒唐無稽な8世紀の創作と見るのではなく、歴史上の人物で死後に「神」と呼ばれたスサノオ・大国主一族の歴史として分析する若い考古学者の出現を期待したと思います。

 古事記は単なる「歴史書(ドキュメンタリー)」ではなく、虚構の天皇家建国史の裏に真実のスサノオ・大国主一族の建国史を巧妙に書き記した「ミステリー」であり、真実の歴史を空想的な物語として表現した「ファンタジー」の3層構造からなっているのであり、史聖・太安万侶のこの高度に知的な作業に敬意を払うべきです。

 私が学生時代の1960年代中頃には「聖書は後世の創作」「キリストはいなかった」などの説が見られ、それを真似したのか「記紀神話は後世の創作」「スサノオ・大国主・アマテルなどは創作された人物」などの説がまかり通っていましたが、「化石頭」の学者たちに任せず、若いドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー好きの人たちによる分析を期待したいと思います。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


153 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』の修正点

2024-05-23 14:50:54 | スサノオ・大国主建国論

 2009年3月の日向勤(ひなつとむ)ペンネームの『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) ―霊(ひ)の国の古代史―』の出版後、私は邪馬台国論、縄文社会論とともに、スサノオ・大国主建国論についてブログなどで書き続けてきました。

・YAHOOブログ(廃止)「霊の国:スサノオ・大国主命の研究」

・Gooブログ          「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(神話探偵団から名称変更)」

・ライブドアブログ     「帆人の古代史メモ」(アドレス変更により5月8日から更新できなくなっています)

・FC2ブログ     「霊(ひ)の国の古事記論」

・『季刊日本主義』(廃刊)

 「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(18号2012夏)

 「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(26号2014夏)

 「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号2017冬)

 「言語構造から見た日本民族の起源」(42号2018夏)

 「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(43号2018秋)

 「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(44号 2018冬)

・『季刊山陰』(休刊) 

 「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(2017冬38号)

 「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(39号2018夏)

 「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(40号2018夏)

・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 

 その結果、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』には誤りと不十分な点がでてきましたが、ここに誤りについてのみ修正し、読者のみなさまに報告いたします。

 主な修正点は「邪馬臺国(邪馬台国)から邪馬壹国へ」「ヤマタノオロチの草薙大刀」「大物主大神=スサノオ」「4人の襲名アマテルを合体した記紀の天照大御神」」「卑弥呼の王都・高天原の範囲」「邇岐志国生まれのニニギ」「箸墓=大物主・モモソヒメ夫婦墓」「大国主一族の祭祀拠点・纏向」です。

1.全体 「邪馬臺国」(やまだい国、やまだ国)

→『邪馬臺国』(やまだい、やまだ)ではなく、海(あま:あめ)の「一大国(いのおおくに):天比登都柱(あめのひとはしら:天一柱)=壱岐)」に対し、山の「邪馬壹国(やまのいのくに)」説に変わりました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

2.59頁 「『倭』を『わ』と読むようになったのは、わが国が唐と戦争を行った中大兄皇子の時代以降の事と考えられる」

→紀元前後の硯石が筑紫・出雲で発掘されており、後漢に使者を送った「委奴(ふぃな)国王」は通訳を付けて国書を持参したからこそ破格の金印を与えれたのであり、「委奴国(ふぃなのくに)」「倭国(ふぃのくに)」は自称と考えます。

 そして「委=禾/女」「倭=人+禾/女」であり、霊(ひ:祖先霊)・人に「稲を捧げる女」を表しており、貴字とみるべきです。また「奴=女+又」は中国が春秋戦国時代をへて、母系制社会から男系社会に変わった時に「女奴隷」を表すようになったのであり、元々は卑字ではないと考えます。

 姓(女+生)、始(女+台)、嫁(女+家)、婿(女+疋(足)/月)、娠(女+辰(龍))などの女偏の文字を見ても漢字は母系制社会で生れた字であり、「委」「倭」「奴」は自称であり、漢・魏が付けた卑字ではないと考えます。

3.62頁 「鉄剣製造の見本として韓から伝わった十握剣(一書では韓鋤剣)」

→「南北市糴(してき:糴=入+米+羽+隹))」の米鉄交易によりスサノオは韓(新羅)から木鍬の鉄先を輸入しており、その鉄を鍛えなおした鉄剣です。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート151 鉄刀・鉄剣からみた建国史―アフリカ・インド鉄と新羅鉄・阿曽鉄、草薙大刀・草薙剣・蛇行剣」参照

4.63頁 「草薙剣(銅剣)」

→スサノオの鉄剣がヤマタノオロチの「大刀」に当たって欠けたとされることからみて、熱田神宮に伝わる「銅剣」の草薙剣はヤマタノオロチ王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち:草薙大刀)ではありえません。オロチ王の大刀は吉備の石上布都魂神社から熱田神宮の禁足地に埋められ、発見された大刀と考えます。

5.68頁 「大物主大神は・・・大歳神の別名である」

→古事記にはスサノオを出雲のイヤナミから生まれた大兄(長兄)とする記述がある一方、筑紫日向(ちくしのひな)生まれの異母妹アマテルの弟にするなど、スサノオ隠しを系統的に行い、大物主大神=大国主などが見られますが、大神神社の神名火山(神那霊山)の三輪山祭祀からみて、大物主大神=スサノオ、大物主(代々襲名)=大歳(大年)です。

6.73頁 「後漢との交易・外交に便利な交易・外交拠点の後継王に金印を託して置く、これが妥当な行動であったと考えられる」

→古事記によればスサノオは「汝命は、海原を知らせ」とイヤナギから命じられ、イヤナギが筑紫で妻問いしてもうけた筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、宗像族(多紀理毘売(たきりびめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)をもうける)を統率し、新羅~対馬~壱岐~博多、新羅~対馬~沖ノ島~宗像・長門~出雲の海上ルートで米鉄交易を行っており、志賀島を拠点とする異母弟の綿津見3兄弟に金印を預けたと考えます。

7.116頁 八百八十の神々が航海してきた時の目印とするため」

→三方を山に囲まれた奥まった現在の出雲大社本殿は西の海からは見えません、元の本殿の位置は、現在地より南東の八雲山と琴引山を結ぶ線上にあり、海から見えたと考えます。―スサノオ・大国主ノート「145 岡野眞氏論文と『引橋長一町』『出雲大社故地』(230110)」「149 NHK『出雲大社 八雲たつ神々の里』から古出雲大社復元と世界遺産登録を考える(231216)」参照

8.139・140頁 「卑弥呼=天照大御神説は成立しない」「卑弥呼=天照大御神説が成立しないばかりか、記紀は天照大御神が天皇家の祖先ではなく、創作された神であることを示している」

→スサノオの異母妹の天照大御神(アマテル1)と、スサノオ7代目の大国主に国譲りさせた筑紫妻の鳥耳(アマテル2)、筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(霊御子=大霊留女=アマテル3)、卑弥呼死後に霊継(ひつぎ)儀式により後継女王となった壹与(アマテル4)は、筑紫日向(ちくしのひな)に実在し、尊称を襲名した4人のアマテルを記紀は「スサノオの姉・アマテル」として合体して天皇家の始祖神としています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

9. 143頁 「『高天原』は荷原(いないばる)・美奈宜神社の背後の喰那尾(くいなお)山(栗尾山)一帯の高台であると確信した。・・・現在の地名は『矢野竹(やんたけ)』『美奈宜の杜』といい・・・この地こそが『天城』や『日向城(ひなぎ)』を一望する『高天原』の地名に相応しい場所であり、霊巫女(ひみこ)=卑弥呼の宮殿が置かれ、霊巫女(ひみこ)が鬼道(大国主神の霊を祀る宗教)を行った地であり」 

→アマテル(大霊留女=霊御子=卑弥呼)の死後に神集(かみつどい)が行われ、壹与への霊継(ひつぎ)儀式(アマテルの復活とされた)が行われたのが「天安之河原(あまのやすのかわら)」とされていることからみて、古くは安川と呼ばれた山見川のほとりの現在の安川地区、羽白熊鷲王が殺された荷持田村(日本書紀は「のとり」としているが「仁鳥(にとり)村」であろう)にアマテル(卑弥呼)の墓「天岩屋」はあった可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 卑弥呼の王都(宮室)と墓所は甘木高台の「矢野竹(やんたけ)」からさらに奥に進んだ「安川地区」にかけてであったと考えます。―Seesaaブログ「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」参照

10. 148~150頁 「この前半部分(注:クジフル岳までの天下り)は筑紫でのニニギ命の天降りを伝え、後半の薩摩半島での出来事は、別の人物(仮に、ニニギ命2とする)の伝承を伝えていると考えている」

→日本書紀の「膂宍之空國」の「宍之」を「膂:そ、蘇、襲、曽」の「宍野」と解釈しましたが、通説の「背中の骨のまわりの肉のない国」と解釈し、国のない九州山地を「頓丘(毗陀烏:ひたを)」=「日田丘」から薩摩半島の阿多の笠沙に同一人物のニニギが敗走したと解釈を変更します。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

11. 148~150頁 「笠沙三代の天皇家の祖先の物語は、素朴な漁村の一族の物語である。邪馬臺国の王族の歴史とは繋がらない」 

→古事記によれば、ニニギ(邇邇芸命)はアマテルの子のオシホミミ(天忍穂耳尊)の御子で、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命とされており、その名前からみると「天邇岐志国邇岐志」の生まれの「天津日高日子番」(海人族の津(港)の日高霊子婆)の子の「邇邇芸命」と考えられ、高天原の生まれとは考えられません。

 「邇岐志」=「にきし:瓊岸」であり、この「瓊」は三種の神器の「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」にも登場する赤メノウであり、安曇族の拠点である宗像市の南の福津市の津屋崎海岸で採れ、天邇岐志国邇岐志はこの地を指しています。ニニギは壹与と王位を争って敗北した男王派の宗像族の若者の可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 前述のように、スサノオの異母妹アマテル1、大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)、筑紫大国主・鳥耳王朝11代目・卑弥呼(大霊留女:アマテル3)、12代目壹与(アマテル4)を記紀は合体していますが、鳥耳(アマテル2)と大国主の御子のオシホミミ・ホヒ(菩卑:穂日)兄弟のうち、ホヒが大国主に国譲りさせて後継者となるのに対し、兄のオシホミミの子を薩摩半島南西端の阿多に天降りさせるなどありえません。

 また古事記は天火明命をニニギの兄としていますが、播磨国風土記は大国主の御子とし、その一族は尾張氏・津守氏・海部氏・丹波氏などの始祖神とされており、ニニギはその名前や阿多を拠点とした境遇、時代からみて鳥耳・大国主一族のオシホミミの子ではないことが明らかです。

13. 181~184頁 「箸墓の被葬者は倭(やまと)迹迹日(ととひ)百襲(ももそ)姫か」

→本著の一番大きな誤りであり、箸墓はスサノオ(大物主大神)・大歳(大物主)の後継者である「太田田根子(意富多多泥古:大物主を襲名)と百襲姫(7代孝霊天皇の娘)の夫婦墓」と訂正します。―gooブログ「スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点(221116)」参照

 その第1の理由は、全長278mの箸墓に対し、9代開化天皇陵(春日率川宮陵に比定)は約100m、10代崇神天皇陵(行燈山古墳)は242m、11代垂仁天皇陵(宝来山古墳に比定)は227m、12代景行天皇陵は300mであり、箸墓に葬られた人物はこれらの大王墓よりも上位であり、民の半数以上が死に絶えた疫病を退散させたとされる大田田根子(大物主)と妻のモモソヒメの夫婦墓と考えます。同時代の崇神・垂仁天皇よりも上位の人物であり、モモソヒメではありえず、それは記紀に書かれた太田田根子しか考えられません。

 第2の理由は、箸墓と同時代の崇神天皇陵(アマテルとスサノオの祭祀権を御間城姫の一族から奪い、2神の神霊を宮中に移したため疫病蔓延を招いた祟られた天皇)、纏向(間城向)の大型建物が、穴師山を向いていることです。穴師山には穴師坐兵主神社があり、兵主神(大国主)を祭神としており、大国主一族の大和(おおわ)の神名火山(神那霊山)なのです。

 なお、モモソヒメの母は「意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)」であり、大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神が日本大国魂大神(通説は大国主、筆者説はスサノオ)、八千戈大神(大国主)、御年大神(大歳)であることからみてても、大国主一族と考えます。

 第3の理由は、箸墓はその建造方法から大国主を国譲りさせた天穂日の子孫の野見宿禰がその建造を指揮したことを示しており、垂仁天皇の時、殉死に代わる埴輪を提案して土師氏と呼ばれており、元々は土師墓と呼ばれていたことと符合します。

 その建造にあたっては「大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ」作業を担ったのが生駒の大坂山(逢坂山)の大阪山口神社から馬見山古墳群にかけてを拠点とするスサノオの妻の神大市姫命の一族であったことから、「大市墓」とも呼ばれたと考えます。

 第4の理由は、図8・9に示すように帆立貝形型の発生期の前方後円墳である纏向勝山古墳(3世紀前半)・纏向石塚古墳(同)・纏向矢塚古墳(同中頃)から穴師坐兵主神社へ向かう参道に沿って大型建物、11代垂仁天皇・12代景行天皇の宮、野見宿禰が当麻蹴速と角力(相撲)をとった場所に相撲神社があるように、纏向の地は大国主一族が大物主と交わした約束を守り、三諸山(三輪山)のスサノオ(大物主大神)を祀る祭祀拠点なのです。

 邪馬台国畿内説は纏向で発掘された大型建物を卑弥呼の宮室であり、太陽信仰の神殿としてアマテルと結びつけていますが、記紀や魏書東夷伝倭人条、さらには神名火山(神那霊山)信仰や神社信仰を無視した新皇国史観の空想という以外にありません。

14. 187頁 「死者を封じ込める宗教的な力となると、須佐之男大神かその後継者の三輪山に祀られた大物主大神(大歳神)、大国主神の霊力などが考えられる」

→前述のように、「スサノオ=大物主大神=日本大国魂大神」を日本書紀は隠しているために間違ってしまいましたが、「死者を封じ込める宗教的な力となると、祖先霊である須佐之男大神(大物主大神)の霊力が考えられる」に修正します。

15. 201頁 「ヤマトタケル命は、東国行きを命じられ、伊勢神宮で叔母の倭比売から、須佐之男大神がヤマタノオロチを討った時の戦利品の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(後に、草薙剣と言われる)」を受け取り、尾張に向かったとされている」 

→前述のように、古事記によればオロチ王の刀は「都牟刈大刀(つむがり大刀:頭刈大刀)」「草薙大刀」であり、天皇家に伝わる銅剣の「天叢雲剣:草薙剣」はオロチ王の鋭い鉄の大刀ではありません。

16. 203頁 「出雲国風土記によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神の子で、大国主神に国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)の別名である」

→前述のように、記紀や出雲国風土記はスサノオの異母妹アマテル1とスサノオ7代目の大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)を一人に合体しており、「記紀等によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神とされていますが、大国主神に国譲りさせた鳥耳の子の天穂日神であり、その子が天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)である」に修正します。

17. 210頁 「奈良県田原本町の磯城の近くには、大物主大神(大歳神)を祀る三輪山の麓に広がる弥生の巨大な環濠都市、唐古・鍵遺跡があり、銅鐸の鋳型がでるなど銅鐸文化の拠点の一つであり、須佐之男大神の子の大歳神の進出拠点である」 

→「奈良県田原本町の磯城には、天照国照彦火明命を祀る鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmのところに銅鐸の鋳型がでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や杵築神社があり、今里と鍵では蛇巻き神事が行われるなど、大国主の子の火明命一族の進出拠点である」に修正します。

 

 今後、以上の修正点などを盛り込むとともに、縄文社会から連続する霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教である八百万神神道と海人族の海洋交易によるスサノオ・大国主建国の全体像を明らかにし、日本文明を世界史の中に位置づけ、「戦争なき21世紀」へ向けた提案としてまとめたいと考えています。

 


151 「やまと」は「山人」である

2024-05-16 10:51:06 | 日本文明

 海人族(天族)であるスサノオ・大国主建国論からスタートした私は、縄文人の貝やヒスイ・黒曜石などの海洋広域交易から縄文海人(あま)族から縄文社会分析を進め、さらに日本列島人起源論においても「海の道」の分析を進めてきましたが、長野県や福島県の黒曜石産地での神名火山(神那霊山)信仰や温帯ジャポニカ・芋もちソバ食などの照葉樹林帯文化から縄文山人(やまと)族の分析に進み、海人族と山人族が共同して日本列島にやってきたとの視点が必要と考えるようになり、縄文ノート186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」(240301)をまとめるに至っています。

 この縄文時代から続く海人族・山人族の文化は、スサノオ・大国主建国をへて、海の「一大国(いのおおくに:天一柱:壱岐(一城)」と筑後川上流の甘木(天城)高台(高天原)の「邪馬壹国(やまのいのくに)」、さらには天皇家のルーツである薩摩半島西南端の「山幸彦」と兄の「海幸彦」に引き継がれ、その後「大和(おおわ)」を「やまと」と読むことに繋がったことについて考えてみたいと思います。

 ずいぶん前にFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論35 『ヤマト』は『山人』」(100505)を書きましたが、いくつか補足します。http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-date-201005-2.html参照

 小学生の時ですが、「大和」を「やまと」と読むと教わり、「嘘だろう!『だいわ』『おおわ』ではないか」と思い、稲作が始まって「米を入れるために軽い弥生式土器が生まれた」という説明には「米は米俵や木の米櫃に入れるもんだ」と反発するなど、私は教師を信用しないへそ曲りの子供でした。

 その後、若いころの私の高知の友人に「山戸」君がいましたが、彼の名字は「やまと」読みでした

 諏訪湖畔には「大和(おわ)」地名があります。連続母音の省略で「おおわ」から「おわ」になったのです。―ヒナフキンの縄文ノート「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照

 また大和(だいわ)書房の社長で多数の古代史本を執筆された有名な大和岩雄(おおわ いわお)氏は高遠町(現伊那市)出身です。

 さらに信州出身者に連れられて飲んだ新橋駅南の新橋駅前ビル1号館2Fの「正味亭 尾和」は東大卒で電通から転職した尾和正登さんの店で、上田出身の氏の名字の「おわ=尾和」は元々は「大和(おおわ)」だったと思います。

 「やまと」については、「山戸、山門、山都」「夜麻登、山跡」など地名由来の名前とする説が見られますが、そもそも奈良盆地には「やまと」地名がありません。

 記紀の記述によれば、薩摩半島西南端の阿多に天下りしたニニギが阿多都比売に妻問いしてもうけた「ホデリ:海幸彦(漁師)」が「隼人(はやと)」と呼ばれたことからみて、その弟の「ホオリ:山幸彦(猟師)」は「山人(やまと)」なのです。

 広辞苑によれば「山人」は「①(関西・四国地方で)山で働く人。きこり。②(九州地方で)狩人」とされており、まさに古事記に書かれた「毛のあら物、毛の柔(にこ)物」を取る猟師なのです。「御子人(みこと=命、尊)」「旅人(たびと)」「商人(あきんど)」「素人(しろうと)」「玄人(くろうと)」「助(すけ)っ人(と)」「盗人(ぬすっと)」など、「ひと」を「と」と読む例からみても、「山人」=「やまと」であり、「海人(あま)」は「あまと」の「と」が略されたと考えます。

 これを裏付ける傍証があります。それは、沖縄では自分達(沖縄人)を「ウチナンチュウ」と呼び、本土の日本人を「ヤマトンチュウ」と呼んでいるのですが、沖縄には「ヤマト」は侵攻しておらず、沖縄を支配下に入れたのはハヤト(薩摩隼人)なのです。

 ここで思いだされるのは、ヤマト朝廷による720年の「隼人の乱」の鎮圧であり、この時、阿多の栫ノ原遺跡(丸ノミ石斧・曽畑式土器出土)などを拠点とした隼人(ハヤト:南風人)を縄文時代から深い交流があった琉球の海人(ウミンチュウ)は応援したと考えられます。この対立の記憶は現代まで残り、「ウチナンチュウ」対「ヤマトンチュウ(山人)」の対言葉となって続いた可能性が高いと考えます。

 阿多天皇家2代目の山幸彦・ホオリは琉球(龍宮)に渡り、海神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ、古事記では鰐、日本書紀では龍)を妻として帰り、海辺の産小屋でトヨタマヒメは鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を産みます。このウガヤフキアエズは、トヨタマヒメの妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられて妻とし、このタマヨリヒメは若御毛沼(わかみけぬ:後に神武天皇の忌み名)ら4兄弟を産んでいます。大和天皇家の初代神武天皇の祖母と母は琉球(龍宮)人なのです。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(2018秋 季刊日本主義43号)参照 

 若御毛沼らは、傭兵隊として宮崎県北部の美々津、豊国の宇佐に立ち寄り、筑紫国に1年、安芸国に7年、吉備国に8年滞在し、生駒山脈の麓の白肩津(日下)で敗退し、南に下って熊野をへて奈良盆地の大物主(スサノオの子の大年一族)とスサノオ7代目の大国主一族が支配する「美和(みわ:三輪)→大和(おおわ)」の国に入り、天皇家10代目の御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)の時にその権力を奪い、「大和(おおわ)国」を「やまとの国」と読み変えさせたと考えます。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 天皇家のルーツを朝鮮半島の高天原からやってきた弥生人にしたい皆さんや、邪馬臺国を「やまだこく」と読み「大和国(やまとのくに)」に当てはめたい邪馬台国畿内説のみなさん、女山(ぞやま)のある「山門郡」(福岡県みやま市瀬高町)にあてたい九州説のみなさんにはショックかも知れませんが、縄文時代からの「海人族(隼人族)」と「山人族」の歴史を古事記はきちんと伝え、天皇家の母方ルーツが薩摩半島の縄文山人族と龍宮(琉球)の海人族であることを隠していなのです。

 昭和天皇は記紀に書かれたこの先祖の歴史を無視し、琉球の民衆に多くの犠牲を強いた玉砕戦を容認し、敗北後には沖縄を基地としてマッカーサーに差し出したのです。私は憲法9条の戦争放棄の発案は統帥権を持った昭和天皇以外にありえないと分析しましたが、琉球をその枠外に置いたのです。―「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(2016秋『季刊 日本主義』35号)参照

 人間天皇家は、記紀に書かれた「阿多」「龍宮(琉球)」の山人族のルーツを公表し、「大和(おおわ)」を「やまと」と呼ばせるようになった経緯を明らかにすべきです。

 スサノオ・大国主建国論では、縄文文化・文明の延長上に八百万神崇拝の神名火山(神那霊山)信仰や48mの出雲大社があり、さらにはそのルーツがアジア・アフリカに遡るなど、歴史軸・空間軸を広げて検討し、世界遺産登録をめざすことを考えていただければ幸いです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「縄文ノート192 ピラミッドは神山天神信仰の人工神山」の紹介

2024-05-08 16:37:44 | ピラミッド

 はてなブログに「縄文ノート192 ピラミッドは神山天神信仰の人工神山」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 昨年の12月14日のTBSの「ピラミッドの真実!5000年の封印を破る鍵は太陽の船と科学とツタンカーメン」を見て、私は「縄文ノート158 ピラミッド人工神山説:吉村作治氏のピラミッド太陽塔説批判」(230118)を書き、「果敢にエジプトで発掘を続けた吉村作治早大名誉教授は昔から大好きな学者ですが、氏のピラミッド説には『半分賛成、半分批判』」と書きました。

 賛成なのは「ピラミッドは王の墓ではない」「ナイル川中流の『王家の谷』は、ピラミッドに近いような富士山型の山があり、人工のピラミッドを作る力がなくなった王家が集団墓地として選んだ」という点であり、批判点は「ピラミッドが太陽のエネルギーを集め、周辺の墓を守る役割をしていた」という太陽信仰説、ピラミッドパワー説です。

 私は白いクフ王のピラミッドや上が白く下が赤いメンカウラ―王のピラミッドは「母なるナイル」の源流域の万年雪を抱く「月の山」ルウェンゾリ山や「神の山」ケニヤ山、「神の家」キリマンジャロを模した人工の山と考えていたからです。

 今回、連休に4月10日の「NHK:古代王国バラエティー なんだフル!? ピラミッドとミステリーサークル」を見ましたが、吉村さんはピラミッドが王の墓ではないことを再度、詳しく解説しています(NHKオンデマンドで見ることが可能)。

 ただ、「ピラミッド・パワー塔」から「ピラミッドが寺院の五重塔のような宗教施設」との説に変えている点は、「半分賛成、半分異議あり」です。

 わが国には天皇家が仏教を国教とする以前に、スサノオ・大国主一族の全ての死者の霊(ひ)を祀る「八百万神信仰」があり、死者の霊(ひ)は神名火山(神那霊山)や神籬(霊洩木)、神社や住宅の心御柱(心柱:大黒柱=大国柱)から天に昇り、降りてくるという宗教思想が縄文時代からあり、ピラミッド=神名火山(神那霊山)説をまず考えるべきではないでしょうか?

 4600年前頃のクフ王のピラミッドより古い4700~3600年前頃の長野県原村の阿久遺跡の環状列石の中心部の立石からの2列の石列はコニーデ火山の蓼科山を向いており、隣りのさらに古い6000~5500年前頃の茅野市の阿久尻遺跡の巨木方形柱列の建物もまた蓼科山を向いています。この縄文時代からの神名火山(神那霊山)信仰は紀元1・2世紀に百余国を統合したスサノオ・大国主の葦原中国(あしはらのなかつくに:筆者説「委奴国:ふぃなのくに」)に引き継がれ、現代に続いているのです。

 この阿久・阿久尻遺跡にみられる神山天神信仰はエジプトだけでなく、全世界の古代文明に共通しており、ピラミッドはこの神山を人工の神山として築いたのです。

 そして重要な点は、この神山天神信仰はアフリカ東部湖水地方の母なるナイルの源流域にある万年雪を抱く「月の山」ルウェンゾリ山・「神の山」ケニヤ山・「神の家」キリマンジャロをルーツとしているのです。エジプト文明に水と肥沃な土壌をもたらした「母なるナイル」はこれらの神山を水源としているだけでなく、彼らの祖先霊が宿る神山から流れ下っていたのです。

 古代の全世界の神山天神信仰と神山を模したピラミッドは「東アフリカ湖水地方の神山天神信仰」をルーツとしていたのです。縄文文化・文明研究から「神山天神信仰・ピラミッド東アフリカ湖水地方起源説」を世界に向けて明らかにすべきと考えます。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、八百万神の霊(ひ)信仰の神名火山(神那霊山)崇拝を縄文文化・文明論に遡って位置づけるととも、世界の神山天神信仰とピラミッド信仰の解明に役立て、八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきではないでしょうか? 

 また、若い考古学者にはクフ王墓の発掘に情熱を燃やす吉村作治氏に習い、スサノオ・大国主一族の王墓の発見・発掘を進めることを期待したいと思います。私はスサノオ王墓の場所は解明できませんでしたが、大国主王墓は文献と遺跡からその場所をほぼ絞り込むことができたと自負しています。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/