ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

「縄文ノート153 倭語論(縄文語論)の整理と課題」の紹介

2022-09-28 15:36:21 | 倭語論

 はてなブログに「縄文ノー153 倭語論(縄文語論)の整理と課題」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 これまで、倭語論(縄文語論)については、糖質・DHA食と女・子どものおしゃべり人類進化論、母系語から父系語への転換論(良字悪字論)、「主語-目的語-動詞」言語伝播論、農耕・宗教語のドラヴィダ語起源論、性器語・宗教語の東南アジアルーツ論、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語3層構造論、琉球弁の北進・東進論、母音・子音の音韻転換論、漢字分解解釈論、掛詞論(同音異義字使用論)などの小論を書いてきました。

 ここで整理して紹介するとともに、記紀や風土記の分析に欠かせない点として、「倭音倭語分析」「母音の音韻転換分析」「子音の音韻転換分析」「山人(やまと)族天皇家の掛詞(ダブルミーニング)分析」「縄文語=倭語ルーツ分析」の必要性をまとめました。

 わが国は「多DNA民族」ですが、島国であり、アフリカ西海岸熱帯地域に残ったY染色体E型と分岐したY染色体D型が多く、このD型は他にはチベット・ビルマ・雲南の山岳地域やミャンマー沖のアンダマン諸島、バイカル湖近くのブリヤート人、樺太と対岸の沿海州にしか多くないことから、「主語-目的語-動詞」言語の分布と重ね合わせると、旧石器時代・土器時代(新石器時代・縄文時代)の日本列島人の移動をたどることができます。

 アフリカの糖質・DHA食による人類誕生地やアフリカの神山天神信仰や母系制社会の地母神信仰、海人族の母族社会文化、アフリカの黒曜石利用文化、山人族の焼畑農耕文化などの拡散ルートをたどることができ、人類史全体の解明に大きな役割を果たせるという利点をもっています。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、縄文社会文化やスサノオ・大国主建国の八百万神信仰などは、世界史解明の鍵となる文明として世界遺産登録の価値があるのかどうか、狭い専門分野と地域主義を越え、研究を進めていただくことを期待したい思います。雛元昌弘

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「縄文ノート147 『ちむどんどん』からの古日本語(縄文語)解明へ」の紹介

2022-08-21 16:54:02 | 倭語論

 はてなブログに「縄文ノー147 『ちむどんどん』からの古日本語(縄文語)解明へ」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 「NHK連続テレビ小説や大河ドラマは視聴率が低い地域を舞台地とする」と誰かが言っていましたが、そもそも忙しくて時間もなくほとんど見ていませんでしたが、まちづくりの仕事で気になるところとか、縁のある土地などを偶然のきっかけでたまに見ることがあります。

 『ちむどんどん』は沖縄言葉や祖先霊信仰が知りたくて録画してみているのですが、「た行とか行の音韻転換」と「あいういう5母音」について、確証がえられました。

 また、ウクライナ戦争から、ライブドアブログ「帆人の古代史メモ114 『和をもって貴し』は『倭をもって貴し』である」では新羅侵攻を進めていた聖徳太子は好戦派か和平派かについてまとめましたが、「委奴国王」「倭国」の「委・倭」は「い」と読むべきであるとの私の持論を雲南省北西部などに住む「イ(夷・倭)族」の漢字表記から補強しましたが、同時にイ族が「すべての音節の末尾が母音で終わる開音節言語」であり、「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音であることに、今回、初めて気づきました。

 出雲国風土記では「神戸(かむべ)・神原(かむはら)」と「神魂神社(かもすじんじゃ)・神魂命(かもすのみこと)」「賀茂神戸(かものかむべ)」など「かむ=かも」の琉球弁5母音が現在も使われています。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、対馬・壱岐の海人族がルーツのスサノオ・大国主一族の出雲弁に沖縄弁(琉球弁)と似たところが見られるのかどうか、さらに検討する必要があると考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「帆人の古代史メモ114」の図修正

2022-08-16 16:27:03 | 倭語論

 ライブドアブログ「帆人の古代史メモ」に「114 『和をもって貴し』は『倭をもって貴し』である」の図7を修正しました。http://blog.livedoor.jp/hohito

倭語論・倭人ルーツ論に関わる重要な論点の図7の古日本語の「あ、い、う、いえ、いお」5母音が、琉球では「あ、い、う、い、う」、本土では「あ、い、う、え、お」になったとした最後の文字などが、コピーの際に欠けていました。ワード図のコピー作業は油断できません。

 これまで、琉球弁は本土弁が変化した方言とされてきましたが、私は共通の古日本語から、琉球弁と本土弁に分かれたと考えてきており、今回、チベット東部からきたとされる雲南省などの「イ(夷・倭)族」が「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音であることに気付き、雲南の「イ(夷・倭)族」と日本列島の「委奴族・倭族」が共通のルーツを持つことに確信を持っています。

<元図>

 

<修正図>

 本ブログのスサノオ・大国主建国論としても、古事記に書かれたスサノオ5代目の淤美豆奴(おみずぬ)は『出雲国風土記』では八束水臣津野(やつかみずおみつの)と書かれ、「奴(ぬ)=野(の)」であり、神魂神社(かもすじんじゃ)神魂命(かもすのみこと:出雲国風土記)神主(かむぬし:記紀)神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ:古事記)などから「神(かみ=かも=かも)」であるなど、古日本語の母音を伝えていることに注目して分析していただきたいと考えます。―はてなブログ「縄文ノート37 『神』についての考察」、本ブログ「倭語論15 古日本語は『3母音』か『5母音』」か?」(200216)参照

 

 

 

 

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ブログ「縄文ノート97 3母音か5母音か?―縄文語考」の紹介

2021-09-22 19:58:08 | 倭語論
 はてなブログに「縄文ノート97 3母音か5母音か?―縄文語考」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 女神調査報告2で「千鹿頭(ちかとう)」や下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社の「三狐神(みけつかみ)」の語源を書きましたが、その前提として2018年に書いた「3母音か5母音か?―古日本語考」を修正して先に紹介しておきたいと思います。
 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)で書き、前に縄文ノート「93 『カタツムリ名』琉球起源説からの母系制論―柳田國男の『方言周圏論』批判」「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」でも少しふれましたが、倭語分析の基本として私は「縄文語からの3母音と5母音の分岐説」を提案します。
 これまで「本土の5母音が琉球で3母音方言に変わった」というのが通説でしたが、「共通の縄文語から琉球の3母音と本土の5母音に分岐した」と私は考えています。
 本ブログのテーマの「スサノオ・大国主建国論」としても、スサノオ・大国主一族の神々や神社名の分析などには、縄文語からの検討が欠かせません。参考にしていただければと思います。雛元昌弘












strong>□参考□
<本>
 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)
<ブログ>
  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/
  邪馬台国探偵団   http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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倭語論18 柿本人麻呂の漢字表記からの古代史分析 

2020-04-02 16:58:42 | 倭語論
 2019年7月に書いたレジュメ「柿本人麻呂の『「漢字2重表意(ダブルミーニング)用法』」をもとに、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の執筆で当時の最大の難問であった「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読むか、「いのの国」「のの国」と読むか、などの論点について再考したものです。
 「のの国」と読んだ方が、魏書東夷伝倭人条に書かれた行程、伊都国から百里の奴国の王都の位置はが「野芥(のけ=のき=の城)」の稲田神社あたりになり、さらに百里先の不彌国の位置は須久岡本遺跡(現在、奴国の王都とされている所。弥生・弥永地名あり)になり、方位と距離、地名が一致するのです。
 この論点については、すでに「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」でもふれましたが、柿本人麻呂の漢字用法から遡り、紀元1~8世紀の漢字表記についての検討を紹介します。雛元昌弘

1.柿本人麻呂の七夕歌(2014)の表裏の2解釈
 ①原文 吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寳比尓徃奈 越方人邇
    (我らが待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも 匂いに行かな 越方人(をちかたひと)に
 ②表解釈 私たちが待っていた秋萩が咲いた。今こそ匂いに行こう、川向こうのあの人に。
 ④裏解釈 私が待っていた若い女の子の、開いた女の又の、今谷の毛を、匂いにいこう(その宝(寳)の間(比)に行こう)、越えてあの人の近くへ。

 この後者の私の解釈には、後世の朱子学派やキリスト教などの禁欲主義の人からは反対意見も多いと思いますが、土器(縄文)人のDNAを持った楽天派・快楽派の皆さんには違和感なく納得いただけるものと思います。
 かつて『島根日日新聞』(出雲市)で「奥の奥読み・奥の細道」(2016.3.9~9.21の29回)を連載させていただいたことがありますが、古事記を含めて「表読み・裏読み(表書き・裏書き)」はこの国の文学・歴史表現の伝統と考えています。それは、漢字を表意文字と表音文字として使い分ける、というわが国独特の倭流漢字表記が可能にしたものです。
 
2.柿本人麻呂の漢字表記例
 上記の歌から、柿本人麻呂がどのような漢字表記を行っていたか、整理すると次のようになります。
 
 
柿本人麻呂の漢字表記例



 倭語倭文は単純に漢字漢文を導入するのではなく、上記のような独自の倭流漢字用法を考え、音訓読み、当て字などにより、多様な表現方法を生み出してきました。それは、駄洒落(なぞかけ)大好き、言葉遊び大好きな国民性として、今に生きています。英語が入ってきても「ホテルで火照る」「インテル入ってる」など、その変わらない国民性は万葉集に遡ると考えます。
 私がこのような倭語・倭文の特徴に関心を持つようになったのは、古事記で「群品の祖」(人間のおや)とされた始祖神の「高御産巣日(たかみむすひ)神、神御産巣日(かみむすひ)神」を、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)尊、神高皇産霊(かみむすび)尊」と記し、「日=霊(ひ)」としていたことに気づき、記紀の「日」をすべて「霊(ひ)」の可能性がないか、検討してからです。
 その後、あるきっかけで松尾芭蕉の「奥の細道」を読みましたが、「2重表意漢字表記」だらけであり、江戸時代にもこのような多様な漢字表現は続いていたのです。―詳しくは山陰日日新聞(出雲市)で2016年3~9月に29回に分けて連載した「奥の奥読み・奥の細道」参照
 古事記などを読むときには、上記の6つの漢字用法を念頭において分析する必要がある、ということを、改めて強調しておきたいと考えます。

3.委奴国・奴国の「奴」は漢人の蔑称か、倭人の尊称か?
 これまで、「漢委奴国王」「奴国」は「漢の倭の奴(な)の国王」「奴(な)国」と読まれてきました。さらに、「奴」字は「卑弥呼」と同じように、中国側が付けた卑字であるというのが通説でした。「奴」は「女+右手」で、奴卑・奴隷を表し、「匈奴」などに使われているからです。
 このような判断の前提として、漢字・漢文の導入は天皇家による大和朝廷であり、委奴国や倭国の頃には倭人は文字を知らなかった、という根強い思い込みがあったからです。
 ところが、魏書東夷伝倭人条には卑弥呼は魏皇帝に「上表」したと書かれており、そもそも1世紀に後漢に使いを出した「委奴国王」が国書を持参しなかったことなどありえません。漢が国王と認めた委奴国王に金印を与えたということは、倭人が国書をやりとりできる、ということを前提にしていたことを裏付けています。冊封国と認めたということは、それにふさわしい漢文化の国として認められたということであり、国書のやりとりのために金印が与えられたのです。
 その漢字の伝来は、紀元前3世紀の徐福の頃からの可能性が高いと考えます。
 「委奴国」「奴国」の「奴」は漢音・呉音では「ド」であることも、中国側が付けた国名ではないことが明らかです。というのは、スサノオ2代目の「八嶋士奴美」、3代目「布波能母遲久奴須奴」、5代目「淤美豆奴」や、大国主が妻問い(夜這い)した「奴奈川姫」(奴奈川は現在の糸魚川)、大国主・鳥耳の筑紫王朝4代目の「早甕之多氣佐波夜遲奴美」の名前に「奴」字は使われており、卑字とみなされていなかったことは明らかです。スサノオ・大国主時代の1~2世紀には「奴」は「ぬ」と読んでおり、「匈奴(きょうど)」のような「奴(ど)」読みではないのです。
 一方、3世紀の魏書東夷伝倭人条では、「奴」字は対馬国・壱岐国・奴国・不彌国の副官名の「卑奴母離」名にも使われていますが、「比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守」と書かれることがあることからみて、この時代には「奴」は「な」と読まれていたことが明らかです。従って3世紀の「奴国」もまた「なの国」の倭音読みであり、邪馬壹国側が主体的に付けた国名であることが明らかです。
 しかしながら、8世紀の記紀・万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれており、魏書東夷伝倭人条の3世紀頃だけが「な」読みであったことになります。
 では「奴」を倭人はどのような意味で使っていたのでしょうか?
 大国主が越の奴奈川姫からヒスイを手に入れ、出雲の玉造で加工した玉の王であり、各地で「大国魂」=「大国玉」名で祀られていることから見て、和語では「奴(ぬ)」は玉、ヒスイを表し、スサノオ・大国主一族の王名に使われたと見られます。
 辞書などない時代ですから、倭人は「奴」字を「女+又(股)」=女性性器と考え、霊(ひ)=魂がやどる女性の性器に当てていた可能性が高いと考えます。出雲では今も妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、沖縄の宮古地方では女性器を「ひー」、熊本の天草地方では「ひな」と呼び、栃木・茨城ではクリトリスを「ひなさき」と呼んでいたことからみても、「奴(ぬ)」は「霊(ひ)=魂」が宿る場所であり、魂が宿る石もまた「奴(ぬ)」と呼ばれたと考えます。
 白い「ひすい」は緑の羽の鳥の「翡翠」とは異なり、語源は不明とされていることからみて、和語の「ひすい」が漢に渡って「翡翠」の漢字とされた可能性が高く、倭語の「霊(ひ)吸い」を表した可能性が高く、「奴(ぬ)」=「霊(ひ)吸い」は女性の子宮と同じ神聖なものとして、て王名や国名に付けられたと考えます。
 柿本人麻呂の漢字用法からいえば、5番目の「漢字分解漢字表記」にあたるものであり、和語・和音の「ぬ」に「奴」の漢字を当てた可能性が高いと考えます。
 
4.母系制時代の中国でも「奴」は尊称であった
 「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」で述べたように、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示しているように、元々、孔子が理想と考えていた周王朝は母系制社会であり、「女+又」は霊(ひ)を育む女性性器を表し、尊称であったと考えます。
孔子が理想と考えていた周王朝は「女+臣」の姫氏の国であり、その一族の魏国は「禾+女+鬼」であり、女性が稲を祖先霊に奉げる鬼神信仰(鬼道)の国であったのです。それは「倭国大乱」の時の皇帝が「霊帝」であったことからも明らかです。
 「奴」が「女+又(右手)」とされ、奴隷を表すようになったのは、春秋・戦国時代に母系制社会から父系制社会になり、女奴隷が生まれてからと考えれられます。
 倭人が漢字を覚えた頃には、「女+又」は尊称で、そのままスサノオ・大国主一族に受け継がれた可能性が高いと考えられます。

4.「奴」は「ぬ」か「な」か?
 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の第2版を出すにあたり、一番頭を悩ませたのが「委奴国」を「いなの国(稲の国)」と読むか、「いのの国」と読むかでした。
 2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』の時には、倭国大乱の頃に倭国が「八倭人、九天鄙(あまのひな)」に分裂していたことや、九州の旧名「白日別」「豊日別」「建日向日豊久士比泥別」「建日別」が元の「日国(ひなの国)」から別れた国であること、海の「一大国(いのおおくに)=天一柱(あめのひとつはしら)=壱岐」と山の「邪馬壹(やまのいの)国=邪馬一国」、枕詞の「天離(ざ)かる鄙」「鄙離かる鄙」などから、「委奴国」を「ふぃなの国(いなの国、ひなの国)」としていましたが、あらたに「いのの国」説を考える必要がでてきたのです。
 結論は「倭語論11」で書いたように、「海の『うみ、あま』読み、『原』の『はる、はら』読みの『う=あ』『い=あ』母音併用の例から見て、『委奴国』は倭音では『いぬうあの国』と発音し、『いぬの国』とも『いなの国』ともとれる発音であり、『稲(いな)の国』として『委奴国』の国名を国書に印し、光武帝に上表した」と考えます。
 そして委奴国王の使いは魏で「奴」字が卑字であることを知り、次の倭王師升の時に「委奴国」の「奴」を取り、「委」に「人」を付けて「倭国(いの国)」と称したと考えれられます。
 
5.拝外史観・排外史観から自尊史観へ
 古事記序文で太安万侶は、参考にした「国記」「旧辞(くじ)」は音訓を併用していて、「すでに訓によりて述べたるは、詞(ことば)心におよばず」と漢字に独特の読み方を充てた訓読みや和語に独特の漢字を充てた訓読みが、漢文に長けた太安万侶には理解できなかったと書いています。
 天皇家の大和政権以前に、スサノオ・大国主の時代から独自の音訓和語表記が発達していたことを太安万侶は隠していません。そして蘇我一族によって編纂された「帝皇日継・先代旧辞」を稗田阿礼に「誦(よ)み習わせた」のです。この「旧辞漢字表記」とでもいうべき音訓混じりの漢字表記こそ、スサノオ・大国主の委奴国で使われていた漢字表記であることを示しています。
 大和朝廷の前には文字使用が行われておらず、稗田阿礼が暗唱していた口伝の物語をもとに古事記が作成されたなどという神話こそ、破棄されるべきです。漢字を使用する古代国家建設が天皇家であるとの「皇国神話」の虚構から覚め、スサノオ・大国主の建国を神話から歴史へと回復させるべきでしょう
 また漢字・漢文大好き・大得意の学者・知識人が、「倭国」を「わこく」、邪馬台国を「やまたいこく」、「邪馬壹国」を「やまいこく」と読むような古代史研究は全面的に見直される必要があると考えます。「大和」を「やまと」と倭流の当て字読みを行うなら、「大和国」は「おおわの国」と倭流で読むべきと考えます。音読み・訓読み・当て字読みチャンポンの古代史分析は見直す必要があると考えます。
私は言語学も漢文も和文も素人ですが、倭流漢字使用の研究から、古事記・日本書紀・風土記・万葉集研究は再検討される必要があると考えます。
 邪馬台国論争においては、「魏書東夷伝倭人条は信用できるが、記紀は信用できない」とする拝外主義、「記紀は信用できるが、魏書東夷伝倭人条は信用できない」とする排外主義から離れ、「魏書東夷伝倭人条、記紀ともほとんどは信用できる」とし、漢語漢文と倭語和文(倭流漢字表記)の両方からアプローチした分析が必要と考えます。
 なお、「文化は周辺に残る」ということから考えて、「奴」字のように本来の母系制社会での語源・用法は中国ではなく日本に残っている、という視点が必要と考えます。
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倭語論17  「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」倭語母音論 

2020-03-16 12:42:21 | 倭語論
 この小論は2018年12月に沖縄方言の分析として書いた「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」を拡張し、2019年7月に書いた「古日本語5母音論」をベースにして、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:2019年12月)での「奴(な、ぬ)」「原(はら、はる)」などの分析を追加して書き直したものです。
 最初、琉球方言から「あいうえお」5母音は倭語時代には「あいういう」5母音ともとれる「あいういぇ(ye)うぉ(wo)」であったと考えてきましたが、もっと多様な母音の発音があり、そこから母音併用が起ったのではないかという仮説に達しました。
 そもそも母音が5音で構成されていたのかなど、言語学の分野では素人であり、専門家による本格的な研究を期待して、私の仮説を提案しておきたいと思います。なお、「古日本語」「和語」は「倭語」に統一しています。 雛元昌弘

1 倭語「あいういぇうぉ」5母音説―「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」(181210→190110)より
 琉球弁と倭語の分析から、倭語は「あいういぇうぉ」と発音され、後に「あいういう」3母音と「あいうえお」5母音が併用されていたという結論に達しました(添付資料参照)。「い=え、う=お」です。
 沖縄では「あいういう」3母音が今も残っています。雨(あみ)、酒(さき)、風(かじ)、心(くくる)、声(こい)、夜(ゆる)などです。

琉球弁「3母音化説」(通説)と本土弁「5母音化説」(筆者説)



2 倭語「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音説
 さらに、倭語の分析を進める中で、次表のような母音の併用例が見つかり、もともとの倭語母音は「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」があり、表記される時に「い=あ、え、お」「う=あ、え、お」「お=あ」とされ、現代に引き継がれたと考えます。
 なお、私はスサノオの「委奴国(いなの国)」の5代目の倭国王・師升(すいしょう:淤美豆奴(おみずぬ)の時には「倭国:いのくに」と称していたが、後に後漢側の発音の「倭国:わの国」と呼称を変更し、「美和(三輪)」を拠点としていた大年(大物主:スサノオの子)が「和国(わの国)」と漢字表記を変えたと考えており、縄文時代から続くスサノオ・大国主王朝(記紀では神話時代)の文字表記・発音は「倭語」とします。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」倭語母音の表記例


倭語の「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音表記の変遷(仮説)



3.「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」母音からの古代史の見直し
(1) 「海(うみ=あま)」読みからの「海=海人」族の「天」神話化
 記紀神話の一番大きな歴史の改ざんは、「海・海人(あま)」族のスサノオ・大国主の建国を認めながら、地上の「筑紫日向(ひな)」にあった高天原を天上の国とし、天皇家をその子孫(天孫族)としてその支配に「神権」的な性格を与えたことです。「うあ」母音が後に「う」「あ」に、「いあ」母音が後に「い」「あ」に分かれ、「うみ」と「あま」に発音が併用されたのです。
 壬申の乱(反乱)で弘文天皇(大友皇子)から権力を奪った文武に優れた大海人(おおあま)皇子は、五十猛(いたける=委武、壱武)、熊曾建(くまそたける)、出雲建(いずもたける)、倭建・日本武(やまとたける)らの名前を受け継ぎ、「海人武(あまたける)」と称し、諡号(死号)で「天武:てんむ」と漢字表記されたと考えます。

(2) 「委奴国王」の「奴」の「ぬ、の、な」読み、「城」の「き、け」読み
 紀元1世紀に「委奴国」、紀元3世紀に「奴国」と記録された「奴」はどのように発音されていたのでしょうか? これは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をまとめる時の最大の難問でした。
 「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読んで分析していたのですが、8世紀の記紀や万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれ、スサノオ2代目「八嶋士奴美(やしまじぬみ)」、3代目「布波能母遲久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)」、5代目「淤美豆奴(おみずぬ)」、筑紫大国主4代目「早甕之多氣佐波夜遲奴美(はやみかのたけさはやぢぬみ)」などの王名にも使われています。
 さらに、スサノオ5代目の淤美豆奴(おみずぬ)は『出雲国風土記』では八束水臣津野(やつかみずおみつの)と書かれ、「奴(ぬ)=野(の)」だったのです。
また、宗像大社の近くには5~6世紀の「奴山(ぬやま)古墳群」(『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群に)があり、「奴=ぬ」だったのです。
 さらに魏書東夷伝倭人条の伊都国から奴国、奴国から不彌国のそれぞれ「百里」を短里76・77mで正確に当てはめると、奴国の王都は福岡市早良区の「野芥(のけ)」、不彌国の王都は現在の奴国王都想定地の春日市の「須玖岡本遺跡」になります。
 この「野芥(のけ)」は当時の母音では「野(の)=奴(ぬ)」「芥(け)=城(き)」であり、「奴城(ぬき)」であった可能性があり、奴国の王都はこの地にあった可能性が高いと考えます。この地には野芥櫛田神社があり、吉野ヶ里遺跡近くの佐賀県神埼市の櫛田宮(くしだぐう)の祭神がスサノオ・櫛稲田姫夫婦と日本武であり、福岡市の櫛田神社にもスサノオが祀られていることからみて、この野芥櫛田神社の背後の小山には奴国王の墓がある可能性が高いと考えますが、そうすると「奴国」は「ぬの国・のの国」と呼ばれていた可能性が高いと考えます。
 私はスサノオ時代の「ぬの国・のの国」が後に「なの国」に変わった可能性が高いと考えますが、いずれにしても、倭国の分析には当時の母音での検討が不可欠と考えます。
なお、「奴国論」については『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』で明らかにしましたが、いずれブログで紹介します。

(3) 「奴(ぬ)」は「玉」の可能性
 大国主が妻問いした沼河比売は奴奈川姫とも書かれ、ヒスイ(霊吸い)のとれる奴奈川(糸魚川市の姫川)の地名からの名前であり、倭人にとって「奴」は玉であり、奴奈川は「玉の取れる奈(那:場所、国)の川」であったと考えます。
 漢字では「奴(ド)」は「女+又(右手)」で奴隷を表すとされていますが、「姓」が「女+生」、周王朝が姫氏(女+臣)の国、「魏」が「禾(稲)+女+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」であることなどからみて、母系制社会であった周王朝では「奴」字は「女+又」で子孫を産む女性器を表しており、春秋・戦国期に入り男系社会となり奴隷制が生まれるとともに、女奴隷を表す字に変わったと考えています。
 周王朝を理想とした孔子が住みたいと憧れた「道(礼と信)の国」である倭国は母系制社会であり、「奴(女+又)」は霊人(ひと)の霊(ひ)が留まる女性器であり、奴(ぬ)=玉は霊(ひ)=魂が宿ると考え、委奴国(いぬの国、いなの国)名として「委(禾(稲)+女+女+又」の国、「玉=魂に女性が稲を捧げる国」であることをアピールした可能性があります。
 これまで「委奴国」「奴国」の「奴」は匈奴と同じく中華思想の後漢が、四夷の国々に対して「卑」や「奴」などの文字で国名として押しつけたという被虐史観でとらえられていましたが、委奴国側が自ら付けた国名と私は考えています。
 57年のスサノオの遣使は「委奴国」の国書を持参しましたが、「奴(ド)」が奴隷の意味であることを知り、次の107年の淤美豆奴(おみずぬ)王は、「人+委」=「倭(い)」の中国風の1字国名に変えたのではないでしょうか。

(4) 倭語・倭音による文献分析へ
 8世紀の記紀の頃まで日本人は文字を知らなかったとし、呉音・漢音でスサノオ・大国主の「葦原中国」「豊葦原の千秋長五百秋水穂国」が使用していた「倭語・倭音」により中国側文献や記紀などを分析しないと、紀元1~4世紀の古代史の解明はできないと考えます。
 例えば「投馬国」は、呉音だと「ズメコク」、漢音だと「トウバコク・トウマコク」ですが、宮崎県西都市の「妻」「都万」、鹿児島県の「薩摩(さ・つま)」地名から見て和音では「つまのくに」であり、「たちつてと=たちつちつ」5母音から、「つ」音に「投(トウ)」字を、「ま」音に「馬」字をあてたと考えられます。
 「出雲」についても、「まみむめも=まみむみむ」5母音から、「いつむ」発音であった可能性もあり、「委=倭=壱(い)の国」の「頭(お・つむ)」であった可能性があります。
 これまで、私も和語・倭音読みを意識せずに古事記などの分析を行ってきており、気づいたところから修正していきたいと思います。
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倭語論16 「日本語」「倭語」「土器人(縄文人)語」

2020-02-24 19:06:01 | 倭語論
 日本語はどこまで遡って論じることができるのでしょうか? 
 門外漢であり文献を確かめてはいませんが、国語学者にとっては、記紀や風土記、万葉集などの文書分析になるでしょうから、慎重な人だとそれらが書かれた同時代の紀元8世紀からとするでしょう。これらの漢字によって書かれて残され、和音・呉音・漢音で発音した言語を「日本語」とするに違いありません。さらに厳密な人は、わが国独特の「片仮名・平仮名交じり和文」からを日本語というかも知れません。
 しかしながら、文字使用を起点に論じるとなると、紀元1世紀のスサノオ・大国主の「委奴(いな)国」は後漢の冊封体制に入り、国書を上表する際に使用する金印を受け取り、朝貢交易を行っていますから、紀元1世紀には漢字・漢語を外交で使用していたことが明らかです。さらに紀元前1世紀頃の福岡県の三雲南小路遺跡(糸島市)や須玖岡本遺跡(春日市)、東小田峯遺跡(筑前町)から発見されたガラス璧破片は前漢皇帝から爵位を受けていた王がいたことを示しており、漢字使用は紀元前1世紀ごろに遡ります。
 魏書東夷伝倭人条は「旧百余国、漢時に朝見する者あり、今使訳通ずる所、三十国」としており、紀元3世紀には漢語が理解できる使訳=通訳がいた国が30国あったことを示しており、国内の国々の間で公文書(竹簡や木簡)がやりとりされていたことが明らかです。
 一方、記紀のスサノオ・大国主神話には「歌」や「夷曲(ひなうた)」「夷振(ひなぶり=歌舞)」が登場しますから、外交文書や国内の公用書だけでなく、歌や曲なども文字で記録されていた可能性があります。この場合には、倭語の順に和音を漢字表記する「万葉仮名用法」が生み出されたと思われます。
 太安万侶が古事記序文において、「諸家之所賷帝紀及本辭(諸家のもたらしたところの帝紀と本辞)」を稗田阿礼に「誦習(よみならわ)」せ、引用した『旧辞』と『先記』は「因訓述(訓によって述べた)」と「全以音連(すべて音を連ねた)」、「交用音訓(音訓を交えて用いた)」の用法があったとしていることを見ても、漢語漢文ではなく、倭語漢語・倭音呉音漢音をミックスした「倭語(漢字倭文)」が1~2世紀のスサノオ・大国主の建国の頃には成立していた可能性が高いと考えます。

古事記の作成過程


 記紀や魏書東夷伝倭人条の分析においては、このような「倭語(漢語倭文)として分析」する必要があり、「呉音漢音を除いた倭音による分析」が必要であると考えます。そして、その際には、すでに「漢字分解」で述べてきたように、漢字を習い始めた倭人たちが紀元前後1世紀頃の呉語・漢語を習い、漢字の本来の意味をその構成から理解して使っていた「倭流漢字用法」であったとして分析する必要があると考えます。
 「弥生人征服説」「天皇家建国説」の「新皇国史観」の歴史家たちは、「記紀などは呉音・漢音読みで理解すべき」「漢字使用は遣隋使・遣唐使を派遣した天皇家から」と思い込んでいますが、「土器人(縄文人)の内発的自立発展史観」「スサノオ・大国主建国史観」に立つ私は「記紀などは倭音で理解すべき」と考えます。

倭音・呉音・漢音からなる単語


 「日」を「ひ」、「霊」を「ひ」、「天」を「あま、あめ」などと「倭音」で読むところから、記紀等の分析は再構築する必要があります。「日本」は「ニチホン、ニホン、ニッポン」ではなく「ひのもと」「ひなもと」と読むところから、古代史分析はやりなおす必要があると考えます。
 さらに、この「倭語」について私は「土器(縄文時代)時代」1万年の「土器人(縄文人)語」にルーツがあると考えています。

「日本語」の形成過程


 日本人は南方や北方、中国大陸、朝鮮半島から多様なDNAを持った人々が漂着・移住・避難してきたことはDNAの分析などから明らかですが、フィリピンや台湾のような多言語・多文化コミュニティにはなっていません。アイヌを除いて、方言・文化の差はあっても、沖縄から北海道まで同じ言語・文化のコミュニティであると言っていいと思います。

同じ島国でありながら異なる「言語・文化コミュニティ」の国の成立


 ほとんどの単語に倭音・呉音・漢音の発音があるにも関わらず、中国語の「主語―動詞―目的語」の言語構造を受け入れず、「主語―目的語―動詞」の言語構造を維持しています。朝鮮語とは同じ「主目動言語」ですが、倭音・呉音・漢音・朝鮮音という単語は見当たらず、数詞や人体語などの基本語が一致していません。弥生人(中国人・朝鮮人)征服説は、倭語―日本語からは成立する余地はありません。
 1万年の間、南からの黒潮と北西からの季節風によって、仮に主に男性の10人が母系制社会の海人族の日本列島に漂着・移住・避難してきたら、10万人のDNAが土器人(縄文人)には混じっていることになり、言語構造や基礎単語を変えることなく、多DNA・同言語民族になったと思います。数万人が民族移動を起こし、原住民である土器人(縄文人)を征服して稲作国家を建設した、などありえないのです。
 それに加えて、海人族は琉球から北海道までアクセサリーになる貝を運び、ヒスイや黒曜石なども環日本海沿岸で交易を行っていました。母系制の妻問夫招婚社会では、言語・文化の交流が進み、豊かな1万年の土器鍋食の産業・生活・文化社会を作り上げたのです。
 なお、骨や歯の形質、血液型、DNAなどの分析、縄文遺跡の分布、人口推計などから、西日本に多数の弥生人が渡来して縄文人は東日本に追いやられたという説がみられますが、これは7300年の喜界カルデラ噴火による西日本の縄文社会の壊滅や、特に現代人のDNA比較の場合には、4世紀後半の崇神天皇の時に「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、すぐに大半に)」とされる疫病の影響を考える必要があります。
 言語や宗教、海人族の交易活動、母系制社会、土器・青銅器文化、鉄器稲作の拡大など、あらゆる点からみて「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」から卒業すべき時期です。

喜界カルデラ噴火の影響

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倭語論15  古日本語は「3母音」か「5母音」か?

2020-02-18 05:55:45 | 倭語論
 2017年4月にさいたま市中央区のカフェギャラリー南風(オーナーは沖縄出身の山田ちづ子さん)で比嘉正詔さん(沖縄平和祈念堂の前所長)の講演会があり、前置きで「沖縄弁は母音が『あいう』の3つで『え』は『い』に『お』は『う』になる」「日本の古語が沖縄弁に残っている」という話しを聞き、11月には「ウンジュよ」(あなたよ)の朗読会で原作者の元高校国語教師・宮里政充さんからいろいろと教わり、母音法則から日本民族起源を考えはじめました。
 系統的に言語学や国語学の勉強をしたことがない私の仮説ですが、この小論は翌2018年12月に書いたレジュメ「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」をほぼそもまま再掲します。なお、5母音論については、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)でさらに展開しており、本稿の修正を含めていずれ紹介いいたします。
 なお、本稿はLivedoorブログ「帆人の古代史メモ」においても「琉球論6」として掲載しています。

1 「3母音」と「5母音」のどちらが先か
 琉球弁が「3母音」、本土弁が「5母音」であるのに対し、通説では「5母音であった古日本語が、琉球で3母音方言に変わった」としているようです。
 私は言語学の専門家ではなく基礎知識もありませんが、伊波普猷著「琉球語の母音組織と口蓋化の法則」(外間守善『沖縄文化論叢5』言語編)、石崎博志著『しまくとぅばの課外授業』、亀井孝論文集2『日本語系討論のみち』にざっと目を通した限りでは、「琉球弁3母音化説」には、納得できる説明は見られませんでした。「琉球弁は古日本語の5母音より3母音化した」のか、「3母音の古日本語より、本土弁が5母音化した」のか、本格的な議論が必要と思います。
 私は古日本語(旧石器人語・縄文人語)は5母音「あいういぇうぉ」であり、1700年前頃(安本美典説)の邪馬台国・卑弥呼の時代後に、古事記に書かれたように、龍宮(琉球)をルーツとする薩摩半島の隼人(ハヤト=ハイト=ハエト=南風人:海幸彦)が、龍宮から妻を迎えた山幸彦(ヤマト=山人の笠沙天皇家2代目)と対立し、その支配下に置かれたことにより、琉球と本土の交流は途絶え、琉球では「あいういう」の3母音化し、本土では5母音の「あいうえお」に変わったと考えています。
 なお、笠沙天皇家2・3代目の妻が龍宮(琉球)の姉妹であるということは、笠沙天皇家4代目で大和天皇の初代大王のワカミケヌ(後に神武天皇と命名)の祖母・母が龍宮人であるということであり、「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ-記紀の記述から『龍宮』=『琉球説』を掘り下げる」(季刊日本主義43号)に詳しく論証しています。

琉球弁「3母音化説」(通説)と本土弁「5母音化説」(筆者説)


2 チェンバレンの「琉球語=古代日本語説」
 日本研究家のバジル・ホール・チェンバレン(東京帝大名誉教授。1850~1935年)は、「現今の日本語が古代の日本語を代表せるよりも、却って琉球語が日本の古語を代表せること往々 是れあり」(チェンバーレン『琉球語典及字書』:『伊波普猷全集』第11卷より)としています。
 単語からこのような結論が得られるとすると、「母音」についても、琉球語の「3母音」が日本の古語を代表しているという説が考えられます。

3 「方言周圏論」(柳田國男)と「方言北上・東進説」(筆者)からの検討
 柳田國男の「方言周圏論」(図参照)は、京都を中心にして言語は地方に拡散し、地方に古い方言が残るというのですから、古日本語の「3母音」は、遠く離れた辺境の琉球に「3母音」が残り、都では「5母音」になったということになります。

柳田國男のカタツムリ方言の「方言集圏論」


 『しまくとぅばの課外授業』で石崎博志氏はこの「方言周圏論」を援用しながら、沖縄ではもともと5母音であったのが3母音に変化したとしているのですから、逆になっています。「方言周圏論」を採用するなら、古日本語の3母音が沖縄に残ったとすべきでしょう。
 一方、「カタツムリ」名と「女性器」名から、私は柳田の「方言周圏論」を批判し、「方言北上・東進説」を証明しています。詳しくは「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(2018年12月:『季刊日本主義』44号参照)に書き、さらにLivedoorブログ『帆人の古代史メモ』の「琉球論4 「かたつむり名」琉球起源説」「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」で紹介しました。
 この「方言南方起源説」「方言北上・東進説」により、私はもともと「3母音」であった古日本語が琉球に残り、本土では「5母音」に変化した、と最初は考えていました。
 しかしながら、現代の琉球弁は「あいういう」の3母音5音節であることから考えると、古日本語の「あいういぇうぉ」5母音が、琉球では「あいういう」の3母音5音節になり、本土では「あいうえお」5母音になった、と考えます。

4 安本美典氏の「古日本語北方説」の検討
 安本美典氏は、日本基語・朝鮮基語・アイヌ基語からなる「古極東アジア語」から、ビルマ系言語の影響を受けて「古日本語」が成立したという「古日本語北方起源説」ですが、別に「インドネシア系言語」が南九州から本土太平洋岸にかけて分布したとしています。
 一方、アマミキヨ始祖伝説については1700年前ころに邪馬台国のアマテラス(卑弥呼)から沖縄に伝わったという説を唱えています。
 彼の説では琉球は「インドネシア系言語」でも「古日本語系言語」でもないことになりますが、1700年前ころに琉球弁と本土弁が分離したとしていますから、その言語は「主語―目的語―動詞」構造の古日本語で、「主語―動詞―目的語」構造のインドネシア系言語やベトナム系言語ではないとしていることになります。
 安本氏の図に私は太い点線で追加しましたが、古日本語は「主語―動詞―目的語」構造のビルマ系の海人(あま)族が琉球(龍宮)を起点として北上したと私は考えています。

安本氏の「古日本語北方起源説」と私の「古日本語南方起源説」


 安本説だと1700年前ころに琉球を邪馬台国・アマテラスが支配し、アマテル始祖伝説が伝えられ、アマミキヨ伝説となったことになりますが、同時代に琉球弁と本土弁が分離したとする説と矛盾しています。それよりなにより、アマミキヨ伝説は海の彼方のニライカナイよりアマミキヨがやってきたというのであり、安本氏の筑紫の甘木朝倉にいたという卑弥呼=アマテラス説とは異なります。琉球の伝説はニライカナイが邪馬台国あるいは「ヤマト(山人)」とはしていません。
 海人(あま)族のアマミキヨ伝説からのアマテラス名、奄美 → 天草 →甘木→海士・海部(隠岐)→天川・天下原(あまがはら)(播磨)→天城(伊豆)などの地名の移動、丸木船を作る南方系の丸ノミ石器の分布、曽畑式土器の分布、性器名の変遷・分布などを総合的に検討すれば、「古日本語南方起源説」「古日本語北上・東進説」にならざるをえません。

「あま(天・奄・甘・海士・海部)」地名の分布


5 宮良信詳氏の「姉妹語説」
 私は通説の「琉球弁は5母音から3母音に方言化した」という説に対し、「古日本語の3母音が琉球では残り、本土では5母音化した」と最初は考えていましたが、次には、古日本語は「あいういぇうぉ=あいうゐを」5母音であり、琉球は「あいういう」3母音になり、本土は「あいうえお」5母音に変化した、と考えるようになりました。
 言語学の母音研究でそのような説があるのかどうかについては、まだ確かめられていませんが、パトリック・ハインリッヒと松尾慎の編著『東アジアにおける言語復興 中国・台湾・沖縄を焦点に』の宮良信詳氏の「沖縄語講師の養成について」に、言語系統図として次の図があることに気付きました。語彙論であり母音論ではありませんが、同じ結論と思います。

宮良信詳氏の言語系統図

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倭語論14 「アマテラス」か「アマテル」か

2020-02-17 16:37:03 | 倭語論
 大学1年生の時、夏休みに工務店でアルバイトした時のことですが、職人の間で「玉から生まれたアマテラス」や「万世一系」なんか嘘だろうなど、天皇崇拝を皮肉る話がよく飛びかっていました。中には「天照大御神」のことを「テンテル」としか言わない若い腕のいい大工がいました。
 古代史をブログで書き、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出したときも、「天照」を「アマテラス」と書いたり「アマテル」と書いたりしてきましたが、昨年末の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版)からは引用など以外では「アマテル」を使うようになりました。
 最近、「モモソヒメ=卑弥呼=アマテラス」という「新皇国史観」があたかも歴史であるかのような邪馬台国畿内説の主張が目に付きだし、「アマテラス」か「アマテル」か、はっきりさせる必要があると考えるようになりました。
Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」での「アマテル論」に関連して、「倭語論」として整理しました。

始祖神は誰か
 戦前の皇国史観は、天皇家が始祖・天照大御神の孫で高天原から天降ったニニギを先祖とし、大日本帝国憲法の天皇による「万世一系かつ神聖不可侵の統治」に根拠を与えました。(注:以下、大御神、神、命・尊(みこと)などの尊称を省略します)
 しかしながら、記紀にはそんなことはどこにも書かれていません。古事記では始祖神を「参神二霊」の天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)と神御産巣日(かみむすひ)とし、さらに「産巣日(むすひ)」2神を「二霊群品の祖となりき」としています。日本書記がこの「二霊」に高皇産霊(たかみむすひ)、神高皇産霊(かみむすび)の漢字を宛てていることをみると、日=霊(ひ)であり、「人(霊人)」「彦(霊子)」「姫(霊女)」など「群品」を産んだ始祖夫婦神はこの2神になるはずです。
この「参神」は他の2神とともに出雲大社正面に「別天神」(天から別れてきた神)として祀られているのですが、皇国史観はこれを無視し、古事記だと天御中主から数えて12代目にあたる天照を始祖神であるかのようにすり替えているのです。
 一方、日本書紀本文は始祖神を「国常立(くにのとこたち)」「国狭鎚(くにのさつち)」「豐斟渟(とよくむぬ)」などとしていますが(注:一書第1~第6で微妙に異なる)、やはり天照を始祖神にはしていません。
 天皇家が天照を含めて、これらの神々を始祖神として宮中に祀っておらず、明治まで天皇が天照を祀る伊勢神宮に参拝していないことは、そもそも天皇家をこの国のシンボルとすることに疑問を投げかけています。
 皇国史観も戦後の反皇国史観もこの「不都合な事実」から目を逸らしています。

天照をどう読むか
 今、「新皇国史観(大和中心史観)」は、纏向のモモソヒメ=卑弥呼=アマテラスという新しい「平成神話」を歴史にしようとやっきになっていますが、そもそも「天照」を「アマテラス」とすることについて何の検討も説明もしないままに戦前の皇国史観を継承しています。
 古事記の天照大御神、日本書紀の天照大神の「天照」について、通説は本居宣長の「世界を照らす太陽神・アマテラス」説を採用して「アマテラス」と読ませていますが、歴史学として合理的説明がつくでしょうか? 私は次のように考えます。
 第1に、「アマテラス」読みは、天照=太陽神とすることからきていますが、記紀に太陽信仰はどこにも書かれておらず、出雲大社も天皇家も太陽信仰を継承していません。また、エジプトやマヤ・アスティカ文明に見られるような太陽神を示すシンボルは、土器・銅鐸などどこにも残っていません。
 第2に、「大海人皇子」が「天武天皇」と称されたように、「海人=天」であり、「天照」は「海人照」とみるべきであり、「天から世界を照らす太陽」と解釈すべき余地はありません。スサノオの子の「五十猛(いたける)」や、穂日(ほひ)の子の「武日照(たけひなてる=武夷鳥=日名鳥)」「熊蘇武(くまそたける)」「日本武(やまとたける)」「出雲建(いずもたける)」などの名前を踏襲した「天武(あまてる)天皇」名からみても、「委(壱=一)」「日=日向(ひな)」、「熊蘇」、日本」「出雲」などの国の勇者の名前なのです。
 第3に、記紀に天照の子として登場する「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明(あめのほあかり)」を祀る各地の天照神社はたつの市の1社を除き全て「あまてる神社」と称し、天火明を主祭神とする丹後の籠神社(このじんじゃ:元伊勢と呼ばれています)で「アマテル」と呼ばれていることからみても「天照」は「アマテル」と読むべきと考えます。なお、天照国照彦天火明は播磨国風土記では大国主の子と書かれているのに対し、記紀ではアマテルの玉から生まれたと書かれていることからみて、播磨国風土記の信ぴょう性が高いと考えます。

対馬市美津島町小船越の阿麻氐留(あまてる)神社
―祭神は高御魂(たかみむすひ)とされるが、元々は「天火明」が祭神であったとする説を支持―




たつの市龍野町日山の天神山の粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社
―祭神は天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)―



 第4に、アマテルが天岩屋に隠れた時、アマテルが天岩屋から出てきたとき天地は「照明自得」と書いてあることから天照を太陽とみなす解釈がありますが、その期間は金山から鉄を取って鏡をつくるなどの長い期間として古事記には描かれており、1日単位の太陽の運行と較べようもありません。朝鮮神話に見られるような王を太陽神とする直接的な記述ではなく、単なる比喩的表現と見るべきです。また、この現象を日食として太陽信仰とみなす説がありますが、わずか数分の日食と記紀の記述はおよそ合いません。
 第5に、倭人の「好物」(魏書東夷伝倭人条)として卑弥呼に与えられた銅鏡を太陽を照らす宗教儀式の祭具とみなし、天照を太陽神とする解釈が見られますが、古事記によれば鏡は「わが御魂」としてアマテルがニニギに与えたものであり、祖先霊がやどる神器であり、太陽のシンボルではありません。アマテルの岩屋神話でも、神籬(ひもろぎ;私説は霊(ひ)漏ろ木)には一番上に勾玉の首飾り、次に鏡、その下に白布を垂らしたのであり、頭に珠、胸に鏡、白布を腰に位置としていることからみても、鏡を頭上に輝く太陽と解釈することはできません。
 以上、「天照」を「アマテラス」とする本居宣長説を採用する合理的な根拠はどこにもありません。

「アマテル」読みの古代史へ
 あの「大東亜戦争」の反省と裕仁天皇の「人間宣言」に照らせば、本居宣長の「世界を照らす太陽神アマテラス」の解釈は否定されるべきです。いまだに歴史学者やマスコミが本居宣長解釈の「アマテラス」読みにしがみついているのは驚くべき時代錯誤というほかありません
 天皇制支持者あるいは反天皇制論者にせよ、「天照」を「アマテラス」と言い続けることは止めるべき時期ではないでしょうか?
 
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倭語論11 「委奴国」名は誰が書いたか?

2020-02-05 05:37:57 | 倭語論
 この国の国名が最初に記録されたのは、紀元57年に百余国の「委奴国王」が使いを後漢に送り、「漢委奴国王」の金印を与えられた時です。
 この後漢・光武帝時代の「委奴国」、後漢・霊帝時代の倭国大乱の頃の「倭人国・天鄙国」、魏書東夷伝倭人条の「邪馬壹国(邪馬台国)」の国名が中国の記録から浮かび上がりますが、これらの国名は漢・魏国側が付けたのか、それとも倭人側が国書で上表した国名なのか、今回は最初に歴史上に登場する国名「委奴国」について考えてみたいと思います。

中国の記録に現れた国名



 後漢書(5世紀)には紀元57年に光武帝が倭国の使者に金印を与えたと書かれ、志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見され、通説は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読んで福岡県の那珂郡(福岡市の一部と春日市など)にあてています。
 これに対して、「倭」を「委」字に省略することがありえないことから、奴を「いど国」と読んで「伊都国」にあてる説や、この金印は江戸時代に捏造されたという説も見られます。
 しかしながら、漢王朝が周辺民族の中の一小国に印綬を与えた例が見当たらないことや、卑弥呼に対して「親魏倭王」の金印を与えていることからみて、倭人の百余国の中の1国に過ぎない奴国や伊都国に対して金印を与えることなど考えられません。なお、金印偽造説がありえないことは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)に分析しています。
 この「委奴国」は、どう発音していたのでしょうか? 「委」は倭音・呉音・漢音とも「い」、「奴」は倭音・呉音「ぬ」、漢音は「ど」ですから、委奴国は「いぬの国」または「いどの国」として国書を使者に持たせた一応は考えらます。そもそも、委奴国王が国書も通訳も持たせず使者を後漢に送り、光武帝に面会などできません。ましてや漢語を理解しない野蛮国の誰とも分からない使者に後漢が金印を与え、国書(冊)や金印を渡すことなどありえません。
 紀元前2~1世紀の硯が唐津市、糸島市、福岡市、筑前町、松江市から、紀元1~2世紀の硯が吉野ヶ里町から見つかっており、紀元3世紀の倭人条には卑弥呼は「使により上表」し、「使訳通ずる所、三十国」と書かれています。末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、邪馬壹国(筆者説:吉野ヶ里町・筑前町・朝倉市など)など卑弥呼を共立した倭国の30国には漢語を理解し、漢文を読み書きできる通訳がいたのです。発見された硯からみて紀元前2~1世紀にはこれらの国々では漢字を使用していたことが明らかです。
 では漢字を理解していた倭人が、「奴隷」「匈奴」などに使われる「奴」字を国名に使用したでしょうか?「奴」字は「女+又(右手)」で、手を縛られた女奴隷を表す字とされています。
 この難問には数か月、悩みましたが、私の結論は「奴」字は、中国が母系制社会であった周の時代には「女+又(股)」で、子供が生まれる女性器を指していたのではないか、それが倭国に伝わってそのまま残っていたのではないか、という解釈です。「奴」が女奴隷を表すようになったのは、春秋戦国の戦乱によって奴隷が生まれてから、と考えられるのです。
 というのは、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示していることは前に述べましたが、孔子が理想と考えていた「女+臣」の姫氏の周王朝の時代は母系制社会であった可能性が高いのです。
 孔子が住みたいとあこがれた「道」(天道・人道)の倭人国にはこの母系制が残っており、「奴」は尊字・貴字として使われていたと見られます。それは、八嶋士奴美(やしまじぬみ)などスサノオ2・3・5代目の王名や大国主の越の妻の奴奈川姫(ぬなかわひめ)の名前などに「奴(ぬ)」字が使われていたことから明らかです。「奴(ぬ)」は霊(ひ)=魂が宿る女性器(女+又)であり、魂が宿る「玉」(ヒスイの勾玉)を表していたと考えます。
 海の「うみ、あま」読み、「原」の「はる、はら」読みの「い=あ」「う=あ」母音併用の例から見て、「委奴国」は倭音では「いぬうあの国」と発音し、「いぬの国」とも「いなの国」ともとれる発音であり、「稲(いな)の国」として「委奴国」の国名を国書に印し、光武帝に上表した可能性が高いと考えます。
 「海人族の倭人は紀元前から海を渡って国際交易交を行っていた」「倭人は紀元前から漢字を使用していた」「倭人は倭音の倭流漢字を使っていた」「倭音の母音は『あ=い=う』ととれる発音であった」「倭人は母系制社会であり、周時代の漢字用法が残っていた」という大前提で古代史を見直す必要があると考えます。
 この国は中国文明を積極的に取り入れながら、「主語―目的語―動詞」の言語構造を変えずに漢字を使い、倭音を捨てることなく呉音・漢音を使っていたのです。安定した禾=倭(稲)の国、積極的に交易を行う国であり、霊(ひ)継ぎを大事にする母系制の国であったのです。
 この長い歴史を踏まえるならば、食料を外国に頼り、貿易戦争を隣国に仕掛け、敵地攻撃能力を誇る軍国主義国への道を歩んではならないと考えます。

注:2019年12月17日のフェイスブックの原稿に加筆・修正しました。雛元昌弘


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「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」の紹介

2020-02-04 17:52:38 | 倭語論
 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」をアップしました。柳田圀男の『蝸牛孝』の「方言周圏論」(天皇中心史観の方言版)批判に続き、性器方言の起源が琉球からの「方言北進・東進」であることを解明しています。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 古代史で根強い日本民族形成の「二重構造説」や「弥生人による縄文人征服説」、古代人口の「西低東高説」、縄文社会の「東日本中心説」(サケ・マス文化論)などに対し、私は「海人族南方起源説」にたち、「方言北進・東進説」を展開しています。なお、これらの説は7300年前の「喜界カルデラ噴火」や「崇神期大疫病」などの破局的災害を無視したものであり、いずれ、その批判をまとめる予定です。
 海人(あま)族のスサノオ・大国主一族のルーツが南方系であることを方言論から解明しています。 雛元昌弘


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倭語論10  「男尊女卑」について

2020-02-03 18:32:20 | 倭語論
 前回「倭語論9 『卑』字について」において、孔子の「男尊女卑」につい書きましたが、補足します。
私はわが国の古代史は呉音や漢音でなく、倭音で読み、倭流の漢字用法で解釈する必要があると考え、「漢字分解」により倭人がどのように漢字を使ってきたか、にこだわってきました。
 その発端は、狭山事件の脅迫状に見られた極めて珍しい「万葉仮名的漢字と片仮名表記」の両方が、なんと松尾芭蕉の『奥の細道』の「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」と与謝野晶子の詩集の表紙『ミだ礼髪』にみられたことに気づいたからです。
 そこで、「奥の細道」の分析を始め、梁山泊で知りあった菊池孝介氏により「奥の奥読み奥の細道」を『島根日日新聞』に連載させていただきましたが、さらに、芭蕉の「栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや」に出会い、「漢字分解」による意味解釈に進むようになりました。
 芭蕉と同じように紀元前に漢字を覚え始めた倭人は、漢字分解によって漢字の意味を理解してきたに違いないと考えたからです。念のために近くの埼玉大学の中国人留学生に聞いてみましたが、彼女は中国人は漢字の構成からその意味を読み取る、と述べていました。
 ここで孔子の「男尊女卑」についてさらに漢字分解を進めてみたいと思いますが、「尊」字は「酋(酒樽)+寸」で、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」です。「尊」は酒樽を、「卑」は祖先霊が宿る頭蓋骨を「寸(手)」で支えるのです。

「男尊女卑」の「尊」「卑」字の漢字分解



 孔子の「男尊女卑」は対句で、「女は頭蓋骨を掲げ、それに男は酒を捧げる」という宗教上の役割分担を表した意味になります。死者の頭蓋骨を女が奉げて祀り、男はそれに酒を供えるのです。「姓」=「女+生」からみても、祖先の祀りは女が担うのであり、宗教上の役割は女が主、男が従になります。
 「男尊女卑」を「男は尊い、女は卑しい」と解釈するようになったのは、女奴隷が生まれて女性の地位が下がってからであり、後世の儒家による歪曲です。孔子が高弟の子貢を評して「女は器なり」と述べ、「畳の上で死ねそうもない」とした高弟の子路を「樽」としたのは、甲乙つけがたい両者を対等に「男は樽、女は器」と祖先を祀る祭祀の役割分担を例えて述べたのです。子路を尊び、子貢を卑しいとしたのではありません。
 私は真崎守の漫画でしか『老子』を知りませんが、老子は料理人の女性を弟子にしているのに対し、これに対して孔子は「男尊女卑」と誤解していて魅力を感じませんでしたが、思想家としての孔子を見誤っていたと思います。もっとも「論語よみの論語しらず」ならぬ、「論語よまずの論語しらず」ですが・・・
 魏皇帝が「卑弥呼」に破格の「親魏倭王」の金印と曹操一族にしか持てない「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてつきょう)」(龍は皇帝を象徴)を与えたのは、孔子の本来の意味の「男尊女卑」に基づ、「鬼道」を行う卑弥呼に格段の「親近感」を覚えたからだと考えます。私は「霊(ひ)御子」「霊(ひ)巫女」として私はこれまで書いてきましたが、その確信を深めました。(詳しくはアマゾンキンドル本の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』参照)
 この国は「男女の格差」を示すジェンダーギャップ指数(2019年)で、世界153か国中110位、経済の分野では115位、政治は144位、中等教育就学率128位と、最貧国・後進国であることを世界中に暴露していますが、かつてこの国が女王国であった歴史を思い出し、未来を展望すべきと考えます。
 魏皇帝が女性向けの銅鏡百枚や多くの絹織物、真珠、鉛丹(口紅用か)を卑弥呼に贈り、男性用としてはわずかに刀が2本であったことをみると、邪馬台国を構成する30国の多くは女性が祖先霊の祭祀を行う女王国であったのです。

注:2019年10月27日のFBに掲載したものに加筆・修正しました。 雛元昌弘

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「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』」「琉球論4 『カタツムリ名』琉球起源説」の紹介

2020-02-03 13:02:17 | 倭語論
 昨日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』」をアップしました。記紀神話に登場する「龍宮」への舟と航海はどのようなものだったのを荒尾南遺跡の帆舟土器線画やアイヌのイタオマチプ(板綴り舟)から考察し、龍宮神話が架空の創作ではなく、真実の伝承であることを明らかにしています。http://blog.livedoor.jp/hohito/



 本日は「琉球論4 『カタツムリ名』琉球起源説」をアップし、柳田圀男の『蝸牛孝』から、カタツムリ方言の起源が琉球であることを考察しています


 海人(あま)族のスサノオ・大国主一族のルーツが南方系であることを帆かけ舟と方言論から解明しています。 雛元昌弘
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「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった」の紹介

2020-02-02 10:05:27 | 倭語論
 昨日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」において「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった」をアップしました。
 記紀神話に登場する「龍宮」は、海の底の架空の話とされてきましたが、龍宮=りゅうぐう=りゅうきゅう=琉球であると私は考えます。2018年5月に書き、『季刊日本主義』(43号2018秋)に掲載した原稿「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」をもとに加筆・修正したものを、2回にわけて紹介します。
 卑弥呼(襲名アマテル4)を筑紫大国主王朝11代目であり、卑弥呼の後継者争いで破れて薩摩半島生南端の笠沙に逃げ延びたニニギ(偽名の可能性がある)の子が山幸彦(山人:やまと)であるとする私の説については、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)を参照下さい。スサノオ・大国主建国論と邪馬壹国、大和朝廷の関係を解明しています。 雛元昌弘
http://blog.livedoor.jp/hohito/


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倭語論9  「卑」字について

2020-01-31 18:22:00 | 倭語論
 わが国が最初に国交を結んで後漢の冊封体制に入り、「漢委奴国王」金印を与えられたのは「委奴国王」であり、次に魏から「親魏倭王」として金印を与えられたのは「邪馬壹国」の女王「卑弥呼」です。
 「奴隷、匈奴」などの「奴」、「邪魔、邪道」などの「邪」、「卑賎、卑猥」などの「卑」という卑字が使われていることから、「中華意識」の後漢や魏が倭国をさげすんで「奴、邪、卑」などの卑字を使った、というのがこれまでの解釈でした。
このような「被支配史観・被虐拝外史観」に対し、私は委奴国王と卑弥呼の使者は王の国書を持参し、その中で「委奴国王」「邪馬壹国」「卑弥呼」と書き、それを中国側が金印に印し、記録したと考えています。
 今回は「卑」字について考えてみたいと思います。
 古事記は天照(あまてる)の2番目の子を「天之菩卑(あめのほひ)」、日本書紀は「天穂日」としており、当時の倭人は「卑=日」として倭流漢字として使っていたことを示しています。白村江で唐と戦って大破し、国家意識が高まった時に作られた古事記・日本書紀が「卑」字を使っていることからみて、「天之菩卑(あめのほひ)」名は実際に使われていた漢字とみて間違いありません。
 では「男尊女卑」などに使われる「卑」字はどういう意味の字だったでしょうか。
 「卑」を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+寸」で、「甶(頭蓋骨)」を「手」で支えるという字になり、死者の頭蓋骨を子孫が掲げて祀るという、祖先霊を祀る字になります。

「卑」「鬼」「魂」「魏」字に共通する「甶(頭蓋骨)」字


 前に述べたように、「鬼」字は「甶+人+ム」で、「甶(頭蓋骨)を人が支え、ム(私)」が拝む」というような意味の字ですから、倭人は「卑」字も「鬼」字と同じような字として理解していたと考えれます。「魏」字が「委(禾+女)+鬼」であることからみても、「鬼」字や「卑」字は祖先霊を祀ることを示す「貴字」であったことが明らかです。
 このような例からみて、女系社会において「卑」字は卑しい字でなく、海人(あま)族の女王国の「卑弥呼」は誇らしい字として、鬼道(霊信仰)をとり行う「霊御子=霊巫女」として、魏皇帝の「霊帝」の「霊」字を避けて、「卑」字を使ったと考えられます。
 ここから、私たちは孔子の「男尊女卑」の意味を見直さなければならないと考えます。中国人が大事にする「姓名」の「姓」は「女+生」(女が生まれ、生きる)ですから、もともと中国も周時代には母系性社会であった可能性が高く、祖先霊を祀る役割は女性が担い、それが「女卑」(女が祖先霊を祀る)であったのです。

「姓」字が示す「女が生まれ、生きる」母系制社会


 春秋・戦国時代に奴隷制が始まり、女奴隷にされた女性の地位が低まり、後の儒学者たちは「女卑」を「女は卑しい」と解釈するようになり、やがて祖先霊を祀る役割を男系に変えた、と私は考えます。
 中国においては、「卑」字は春秋・戦国時代から「貴字から卑しいという卑字」へと変わったのですが、孔子が「道の国」とみていた母系制の倭国では周時代の「卑」字の用法が残り、「卑弥呼」名で魏に国書を届けたのです。孔子が憧れた古きよき母系制社会の伝統がこの国には残り、倭流漢字用法とでもいえる独特の漢字文化を保持していたのです。
 超大国の周辺にあり、積極的に交流・交易・外交を行いながら、全てを模倣することなく、独自の道を歩んだ「辺境」を恥じて「卑下」することはないと考えます。

注:2019年10月25日のフェイスブック原稿を加筆・修正したものです。
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