ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

158 縄文・古代郷土史のすすめ

2024-06-20 14:44:49 | スサノオ・大国主建国論

 gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」で連載を始めた「スサノオ・大国主建国論」は7で中断したままですが、「2 私の古代史遍歴」(221013)で全国各地の郷土史の問題点について次のように書きました。

 全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ・大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ・大国主系の神社があり、しかもスサノオ・大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ・大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。

元:スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴 - ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート (goo.ne.jp)

 

 第1の問題点は、「未開の縄文、進んだ弥生」という、縄文時代から弥生時代(土器名による時代区分はすでに破綻)へ大転換がおきたとする縄文・弥生断絶史観です。

 1万数千年の母子主導の「採集栽培・漁労縄文社会」を男主導の「狩猟採集社会」としてとらえるとともに、「縄文農耕(芋豆穀実栽培)」から「水利水田稲作」への自立的・内発的な発展を無視していることです。

 瀬戸内海の淡路島やしまなみ海道、山陰の市町村などにまちづくり計画の仕事で通っている時、夕方になると釣竿とバケツ持って女性や高齢男性などが岸壁で釣りをして夕食の魚を釣っている光景をよく見かけ、各地の市町村での座談会では中高年の人たちが「子どもの頃の遊びは、ほとんど食料調達だった」と懐かしそうに話すのをよく聞きました。

 私も小学生低学年の頃は播磨の田舎にいくと又従兄弟と毎朝網をもって小川にでかけ、親戚一同は春には必ず潮干狩りに出かけ、又従兄弟たちと海に泳ぎに行くと貝を足で採り、時には伝馬船を借りて釣りに行き、揖保川ではヤスでアユやウナギを突き、投げ網を教えてもらい、山芋を掘ることもありました。岡山市の自宅では、春には町内会できのこ狩りに行き、近所の青年が空気銃で小鳥を撃つのに連れていってもらったこともありました。

 縄文時代から日本列島は豊かな海と山の幸に恵まれており、採集漁撈は子ども戦力であったのです。

 西洋中心史観は男性中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」であり、日本の多くの歴史家・考古学者も自然条件を無視してその受け売りに終始し、熱帯雨林での「糖質・DHA食」に支えられた人類の頭脳の発達を無視し、母子中心の「採集栽培・漁労進歩史」を認めていません。

 「戦争進歩史観」ですから武器にもなる「石先槍」には興味はあっても、骨製の「銛」や「釣り針」には関心が薄いのです。―縄文ノート「89 1段階進化説から3段階進化説へ」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」参照

 人類は何次にもわたってアフリカからアジア・ヨーロッパへ出ていますが、最も大規模な「出アフリカ」は約7万年前とされており、彼らは熱帯雨林で「銛」で魚やワニ、トカゲ、カエルなどを獲っていた文化を持ってアフリカを出て、多くは同じように食料の豊富な熱帯・亜熱帯に拡散したのです。

 日本文化は1万数千年の縄文社会を基底としているのであり、西欧中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」から離れ、縄文社会をベースにした郷土史を再構築して欲しいものです。

  第2の問題点は、各郷土史が「縄文時代→弥生時代→古代天皇制」の記述になっており、記紀(古事記・日本書紀)や出雲国・播磨国風土記などに書かれたスサノオ・大国主7代の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の建国史を無視し、各地にある神社伝承や祭り、民間伝承、地名などをスサノオ・大国主建国と結びつけて検討していないことです。

 私は「石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代」という分類基準に統一性のないガラパゴス的な時代区分を「イシ・ドキ・ドキ・バカ時代区分」として揶揄し、食生活と採集農耕漁労文化の道具を分類基準として「木骨石器→土器(土器鍋)→鉄器(鉄先鋤)」の時代区分を提案し、「縄文栽培・農耕」(芋豆穀実の焼畑農耕)から沖積平野での「鉄器水利水田稲作」への大転換こそ古代国家形成に関わる時代区分とすべきと考えてきました。

 そして、この後者こそ後漢書、魏書東夷伝倭人条などに登場する紀元1・2世紀の男王の7~80年の「百余国」の「委奴国(ふぃなのくに)」であり、スサノオ・大国主7代の「葦原中国」「豊葦原水穂国」であることを明らかにしてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 かつて古田武彦氏は「多元的古代」説を掲げましたが、縄文1万数千年の歴史を受け継いだ「委奴国」を構成する「多元的」な旧百余国の研究は進んでおらず、代わりに郷土愛から邪馬台国を九州各地、郷土・大和(おおわ)、吉備、出雲、阿波、丹後などに引っ張ってくる邪馬台国説が乱立しているありさまです。

 「スサノオ・大国主建国史無視・抹殺の郷土史」から、記紀・風土記などの記述と全国各地の豊富な遺跡・遺物、古社の祭神と伝承、民間伝承、地名・人名などを総合的に照合した「縄文・古代郷土史」を確立し、「鉄器王」(鉄先鋤王)スサノオ・大国主一族による「葦原中国・豊葦原水穂国」「委奴国」の全体像を解明したいものです。

 スサノオがヤマタノオロチ王を切った剣は「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」で韓の鉄先鋤の刃先を鍛え直した剣であり、大国主が「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」(出雲国風土記)と呼ばれ、御子に阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)がいることからみて、スサノオ・大国主7代は新羅から鉄先鋤を輸入し、寒冷化で収穫量が減った新羅に米を運ぶ「米鉄交易」により、「葦原」の開拓と「水路・水田整備」を進めたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」(2300402)参照

 また、私の妻の実家の裏手にある「高御位山(たかみくらやま)」(播磨富士)の山頂には巨大な磐座(天御柱)があり、その下には石の宝殿の削り石を投げ捨てた「タイジャリ(鯛砂利)」があり、「鯛の形の頭が上を向いていたらここが日本の中心になるはずであった」という伝承(義母談)があり、近くには「大国里」(播磨国風土記)や「天下原(あまがはら:前同)」「天川」などの地名があります。

 高御位山の前の小山には500tの巨石の「石の宝殿」(筆者説は石の方殿)」があり、万葉集には生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經」(大汝(おおなむち)少彦名のいましけむ志都(しづ)の岩屋は幾世経ぬらむ)の歌があります。なおこの「石の宝殿」の大国主・少彦名を祭神とする「生石(おいしこ)神社」は生石村主真人一族の神社であったとみて間違いありません。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 そして、古事記には、少彦名の死後「いかにしてこの国を造ろう」と思い悩んでいた大国主命のところに、「御諸山(三輪山)に坐す神」の大物主大神(スサノオ)が海を光して来て、「よく我が前を治めれば、共に国作りを行おう」「自分を倭の青垣の東の山の上に奉れ」と言い大国主命の協力者となったとしています。さざ波によって海がキラキラと光り、その中から大物主大神の神意を伝える大物主が船で東から現れたという光景は、まさにこの地の瀬戸内海南岸の光景に外なりません(出雲北岸、四国北岸などでは海は光りません)。

 この石の宝殿のある「竜山石」は仁徳天皇をはじめとした畿内の大王や豪族などの石棺に使われ、紫宸殿に四角い台座の上に八角形の屋形を被せた「高御座(たかみくら)」で皇位継承の儀式をおこなうのは、この播磨の高御位山での大国主・大物主連合の建国儀式を継承したと考えます。

 私は縄文遺跡と記紀神話・神社伝承の繋がりについては諏訪の神名火山(神那霊山)信仰や石棒・金精信仰などある程度分析はできましたが、播磨の地で縄文遺跡と播磨国風土記・記紀や神社伝承などのスサノオ・大国主一族の建国との関係をまだ探究できていません。地元でしか解明できない「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の5点セットの縄文・古代史の宝庫は全国各地にまだ眠ったままであり、全国各地の郷土史家の研究に期待したところです。

第3の問題点は、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」や「弥生人大量渡来史観」とともに、「天皇家弥生人説」や「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」が見られることです。

 古事記は薩摩半島南西端の笠沙・阿多のニニギからの阿多天皇家の2代目を「海幸彦(漁師:隼人=はやと)」「山幸彦(猟師:山人=やまと)」兄弟とし、山幸彦・ホオリの妻は龍宮(琉球)の豊玉毘売(とよたまひめ)とし、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)は豊玉毘売の妹の玉依毘売(たまよりひめ)を妻としたと伝えています。そして、その子の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ)が大和(おおわ)に入り初代「神武天皇」(8世紀の諱=忌み名)になったとしていることから明らかなように、縄文人の一族とみなしており稲作民の王とはしていません。―「スサノオ・大国主ノート152 『やまと』は『山人』である」(240516)参照 

 また記紀によれば、高天原は「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」(地名からみて福岡県旧甘木市蜷城(ひなしろ))にあるとしており、高天原を朝鮮半島とする「天皇家弥生人(朝鮮人)説」が成立する余地などありません。天皇家は薩摩半島南西端の縄文山人(やまと)族なのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」も見られますが、記紀によればスサノオ・大国主一族のルーツは壱岐・対馬を拠点とした縄文海人族であり、魏書東夷伝倭人条や『三国史記』新羅本紀、記紀のどの史書からみても壱岐・対馬の海人族朝鮮人説など成立しません。最近、出雲人のDNA分析の結果は、出雲の人たちが縄文系であることが明らかとなっています。

 「万世一系」の天皇中心史観の歴史家たちは、天皇家を稲作文化・文明を担った弥生人の建国王とし、新羅と米鉄交易を行い「鉄器水利水田稲作」を全国に広めた縄文海人(あま)族のスサノオ・大国主一族の「葦原(沖積平野)」の「水穂国」づくを無視していますが、縄文1万数千年の文化・文明こそこの国の基底文化・文明であることを隠し、「弥生社会」像を全面に押し立てて「弥生天皇」像を創作しているのです。

 全国的に縄文遺跡の発掘が進み、民俗学の蓄積のあるわが国には、「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の縄文・古代史の宝庫が全国各地にあるにもかかわらず、バラバラにされて眠ったままなのです。

 「天皇中心史観(新皇国史観)」病にかかっていない若い世代の皆さんにより、1万数千年の縄文時代と紀元1~4世紀のスサノオ・大国主一族の建国史を「食・農耕・倭音倭語・祭り・宗教」などの文化・文明史として繋ぐ新たな縄文・古代郷土史が各地で生まれることを期待したいと思います。

 そしてさらに視野を世界に広げて、この縄文文化・文明こそ侵略神一神教以前にかつて全世界にあった母系制社会の文化・文明であり、縄文・古代郷土史から世界遺産登録に向けた取り組みを各地で開始して欲しいものです。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「160 『日本中央部縄文遺跡群』の世界遺産登録にむけて」「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」「166 日本中央部縄文文明世界遺産登録への研究課題」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」等参照

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)         http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)        https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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157 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

2024-06-12 15:09:29 | スサノオ・大国主建国論

 「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)において、私は次のように書きました。

 祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬・壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。

 

1 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

 岡山空襲で焼け出された父母は、吉備津神社の「温羅」の首を埋めたとされる「御竈殿(おかまでん)」の真横の借家に疎開しており、そこで私は小学生になる前まで御釜殿から回廊(スケーターで下るとスリルがある)にかけてよく遊んでいましたが、播磨の「浦部」と吉備の「温羅」、何か因縁を感じずにはおれません。

 この御釜殿で行われる「鳴釜神事(なるかましんじ)」について、ウィキペディアは「釜の上に蒸篭(せいろ)を置いてその中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。・・・一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する。女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯・湯立等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い」「吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷のの娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという」としています。

 父からこの話を聞いて御釜殿は怖いと思っていましたが、温羅一族は鬼とされ「桃太郎の鬼退治」物語の元となったのです。

 この伝承で重要なのは、岡山市の「黄蕨(きび)の会」代表の丸谷憲二さんから教えられたことで、図1のように妻の阿曽媛の阿蘇地区が古代からの製鉄拠点であったことです。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)参照

 温羅が捕まったとされる鯉喰神社は楯築墳丘墓から700mほどのところにあり、温羅の血で染まったという血吸川・赤浜はこの地が赤土=赤目(あこめ)砂鉄製鉄の拠点であったことを示しており、阿曽地区から血吸川をさらに遡った鬼城山(鬼ノ城は温羅の本拠地)の麓に6世紀中ごろの現在のところ日本最古とされる製鉄遺跡千引カナクロ谷製鉄遺跡(千引=血引であろう)があるのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」(220129)参照

  この「温羅王」について、ウィキペディアは「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、「出自についても出雲・九州・朝鮮半島南部など、文献によって異なる」としています。

 私は大国主を国譲りさせて後継王となった穂日と武日照(たけひなてる:天夷鳥、天日名鳥)親子が出雲祝神社(埼玉県入間市)に祀られていることから、大国主の後継者は「祝(いわい)」と呼ばれていた可能性があり、筑紫鳥耳・大国主王朝の子孫である筑紫君磐井もまた「磐井=祝」であったと考えています。そして、同じように吉備王「温羅」もまた「占=卜」で神事を行っていた王の可能性が高いと考えます。

 

2 阿曽族は製鉄部族

 丸谷憲二さんはこの阿曽一族が行っていた製鉄は「阿蘇リモナイト」(褐鉄鉱、沼鉄鉱)を使った阿蘇の製鉄法が伝来したと考えており、広島大学や愛媛大学でもモナイト製鉄再現実験を行っており、調べてみると図2のように阿曽・麻生地名のあるところで製鉄が行われていることから私も丸谷説を支持しています。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)、「縄文ノート119 諏訪への鉄の道」参照

 母の故郷であるたつの市揖保川町の「浦部」の前の山には鉄糞(かなくそ:鉱滓、スラグ)が出ることを又従兄弟から「古代人の糞が出る」と間違って聞いており、図3のように隣の太子町には阿曽地名があり、その近くにはスサノオと共に新羅に渡った御子の五十猛(いたける)を祀る中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ:いたて=いたける)があります。―「縄文ノート127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」(220318)参照

 また、近くの雛山の麓の4~7世紀の朝臣古墳群の1号墳からは阿蘇ピンク石の舟型石棺蓋が見つかっていますが、図4のように岡山市の5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の舟型石棺は灰色の阿蘇溶結凝灰岩、瀬戸内市長船町の5世紀後半の築山(つきやま)古墳の家型石棺や香川県観音寺市の5世紀中頃~後半の丸山古墳の舟形石棺、5世紀中頃の帆立貝形の青塚古墳の舟形石棺などは阿蘇ピンク石であり、高槻市の6世紀前半の今城塚(いましろづか)古墳(第26代継体天皇の陵墓説)など5~6世紀の大阪・奈良・滋賀の10の古墳にもまた阿蘇ピンク石は使われており、高砂市の竜山石と同じく古代王たちのルーツを示す最高級の石材であった可能性があります。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)

 以上、「温羅」と妻の「阿曽姫」の子孫の「祝(いわい:神主)」の娘の「阿曽姫(襲名)」伝説から、私はこの地の製鉄を行う阿曽族の姫に吉備王の「温羅(占)」が妻問いして夫婦となったと考えます。

 

3 吉備津神社の2つの聖線(レイライン:霊ライン)

 私は公共施設の配置を計画する地域計画や建物の立地を決める建築基本計画の仕事をしてきましたから、吉備津神社の配置が特に気になります。図5~に示すように吉備津神社本殿は神名火山(神那霊山)である「吉備中山」を向いていないのです。

 これに対して、神池(幼児の時、三輪車とともに落ちて溺れそうになったことがあります)の中にある宇賀神社(吉備国最古の稲荷神:スサノオ・神大市比売の娘、大年(大物主)の妹を祀る)から御釜殿(温羅の墓所)、えびす堂(出雲の事代主を祀る)、岩山宮(スサノオの異母弟の吉備児島の建日方別(たけひかたわけ)を祀る)、環状石籬(せきり:列石)などの磐座(いわくら))は、吉備中山へ向かう参拝路となっているのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』(220129)参照

 この事実は、この地はもともとはスサノオ・大国主一族と同族の建日方別とその子孫である吉備王・温羅を祀る神名火山(神那霊山)信仰の祭祀拠点であり、その権力を奪った7代孝霊天皇の御子の彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこのみこと)が温羅を殺して大吉備津彦を名乗り、後にその地に新たに吉備津神社を建てたことを示しています。―図5・6参照

 吉備津神社ホームページ掲載の19世紀の境内図(図6)を見ると、神名火山(神那霊山)である吉備中山に向かう出雲・吉備族の信仰軸と、吉備中山の大吉備津彦の墓所に向かう天皇家の信仰軸の2本の聖線(レイライン:霊線)が見られるのであり、もしも吉備津神社に行かれることがあれば、このスサノオ・大国主建国を示す聖線と天皇家の権力奪取を示す聖線を体感していただきたいと思います。―図6・7参照

 なお、吉備中山の環状石籬(せきり:列石)と楯築墳丘墓上の環状に配置された巨石が縄文時代のストーンサークル・ウッドサークルから続く宗教思想を示すのか、前者はたまたまの自然配置なのか、研究を期待したいところです。

 

4 吉備製鉄の解明を!

 日本書紀によればスサノオは御子の五十猛(イタケル)とともに新羅に渡り、魏書東夷伝辰韓条では「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る」と書かれ、さらに三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだとしていますから、スサノオ(委奴国王)は米鉄官制交易を軌道に乗せ、新羅で製鉄法を秘かに入手して早々に帰国し、鉄鉱石が採れる山陽側の吉備、播磨で製鉄が古代製鉄がおこなわれていた可能性が高いと私は考えています。

 出雲の金屋子神社などの伝承によれば、出雲のたたら製鉄は金屋子神により図8のように「播磨・宍粟→吉備中山→伯耆・日野→出雲・奥日田」へと伝えられたとされています。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)参照

 ヤマタノオロチ王を切ったスサノオの剣を祀る備前国一宮の石上布都魂神社のある赤坂(オロチ王の本拠地であったと私は推理しています)は播磨の宍粟から吉備中山へのルートの途中にあり、赤穂(赤生:筆者説)・明石(赤石)とともに赤鉄鉱のあった場所であり、古代の重要な製鉄拠点であったと考えます。

 そして、この1・2世紀頃の新羅の製鉄技術の後に、阿曽族によるより簡便な縦型円筒炉による製鉄が4世紀頃に導入されたのではないかという仮説を私は考えていますが、いずれ製鉄遺跡発見により解明されることを期待しています。

 なお、図9・表1・2に示すように、私は通説の「製鉄ヒッタイト起源説」「草原の道伝播説・照葉樹林帯伝播説」に対し、「製鉄西アフリカ起源説」「海の道伝播説」ですが、宗教・農耕関係の倭音倭語がドラヴィダ語(タミル語)と類似しているのに対し、製鉄関係の倭音倭語はドラヴィダ語・呉音漢語・漢音漢語にはなく、韓国語を語源とする説もないことから、新羅鉄・阿曽鉄の伝播ルートの解明は今後の研究課題です。―縄文ノート「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)、「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」(230827・0930)参照

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156 始祖神は「天照(あまてる)」か「産霊(むすひ)」夫婦神か?

2024-06-09 18:27:00 | スサノオ・大国主建国論

 アイヌの人たちは自分たちを「カムイ(自然神)」に対して「アイヌ=人間」と呼んでいます。これに対して、倭人は自分たちを霊(ひ)を受け継ぐ「霊人(ひと)」と呼びました。

 古事記序文は「二霊群品の祖」と書き、人々(群品)の始祖神を「産霊(むすひ)夫婦神」とし、出雲大社本殿の正面には「御客座五神」として天之御中主(あめのみなかぬし)と産霊夫婦神は祀られているのです。

 「客座」に祀られていることからみてこの5神は出雲土着の神ではなく、日本書紀一書(第三)がこの3神を「高天原に生まれた神」としていることからみて、そのルーツは壱岐・対馬の「海原(あまのはら)」の海人族と考えます。

 私たちの祖先は、子どもが親や祖父母に似るというDNAの働きを「霊(ひ)」が受け継がれると考え、死者の記憶がいつまでも残り夢にも現れることから、死者の肉体は土に帰ってもその霊(ひ:魂=玉し霊)は残り、自分たちを天から見守ってくれると想像したのです。

 この国の人々の始祖神を「産霊夫婦神」とする神話は、その子どもたちを「産子(むすこ:息子)、産女(むすめ:娘)」「霊子(ひこ:彦、毘古)、霊女(ひめ:姫、媛、比売、毘売)、霊御子(ひみこ:霊巫女、霊皇女)」と呼ぶことから裏付けられます。

 天皇家建国説の皇国史観は、この国の人々の始祖神を「天照大御神」とし、「天照(アマテル)」を「アマテラス」と読ませ、「世界を照らす太陽神」としてアジア侵略の思想的支柱としてきましたが、古事記は人々を産む始祖神を産霊夫婦神とし、日本書紀一書(第三)もまた高天原の始祖神を古事記と同じ3神にしているのです。

 なお、古事記で太安万侶は本文では夫婦2神を「神産日(かみむすひ)・高御産日(たかみむすひ)」と書き、「日神(ひのかみ)」を始祖神として「天照大御神」につなぎ、天皇家を太陽神の一族のように書いていますが、序文では「三神造化の首(三神:天之御中主と産霊夫婦)」「二霊群品の祖」と書き、スサノオ・大国主一族の「霊神(ひのかみ)」一族の歴史をしっかりと書き伝えているのです。

 また別の場所では、太安万侶は醜い石長比売をニニギが選ばなかった呪いにより天皇等の「命不長」と書きながら、阿多天皇家3代目のウガヤフキアエズは「五百八十歳」生きたとし、1~16代の天皇の年齢を倍にしているのですが、このようなミエミエの矛盾した記述は、巧妙に「スサノオ・大国主16代」の真実の歴史を伝え残す高度なテクニックなのです。

 歴史家たちはこのような古事記の矛盾した記述からこれらの神話は信用できないとしましたが、私は史聖・太安万侶は日本で最初の推理小説家・ミステリーライターであり、謎を解く手掛かりはきちんと書き記しており、彼らに任せるのではなく、ミステリー好きの皆さんに太安万侶の暗号の解明に取り組んでいただきたいと考えています。

 推理力などなく、ただただ天皇を太陽神にしたくてたまらない新皇国史観の歴史家などは、その根拠として次の2説を主張しています。

第1は、天皇家の皇位継承の「三種の神器」の鏡を、太陽のシンボルとする主張です。鏡を頭の上に掲げて人々を反射光で照らすイラストが描かれ、今も多くの神社では鏡を正面に祀ってこの説を広めています。

 すでに「154 『アマテラス』から『アマテル』へ」で述べたように、アマテルは「わが御魂」として祀るように命じて鏡を天下りを行うニニギに渡したのであり、鏡はアマテルの「霊(ひ)が宿る神器」なのです。「御魂」が宿る女王愛用の鏡はその死後、壊されて葬られたのです。

 そもそも、肝心の銅鏡、さらには銅鐸、土器などに太陽など描かれておらず、天皇家も太陽を祀る儀式など行っていないのであり、太陽信仰は皇国史観の空想という以外にありません。

 また、アマテルの御霊が宿る鏡を、御間城入彦(ミマキイリヒコ:10代崇神天皇)が皇居に移したところ、民の半数以上がなくなるという恐ろしい祟りを受けたため崇神天皇は鏡を宮中から出し、祀るべき子孫を探して29か所も点々とした後に伊勢神宮に収めたのであり、天皇家はアマテルの子孫ではないことを示しています。

 第2は、アマテルが天岩屋戸に隠れた後、「高天原(たかまがはら)皆暗、葦原中国(あしはらのなかつくに)悉闇」となり、アマテルが岩屋戸から出ると「高天原及葦原中国、自得証明」と書かれていることから、アマテルを太陽神とする主張です。

 この場面を「皆既日食」とし、アマテル=卑弥呼説を唱える人も見られますが、ファンタジーを理解しない困った「タダモノ(唯物)史観」という以外にありません。

 1970年代、鶴田浩二の『傷だらけの人生』が団塊世代に受けましたが、「生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか」のセリフから「何から何まで真っ暗闇よ」の歌が始まります。だからといって、1970年に皆既日食があった、喜界カルデラ噴火や姶良カルデラ噴火のような破局的噴火があったなどと誰が考えるでしょうか? 

 古事記によれば、アマテル3(襲名した3番目のアマテル)が亡くなり、同族たちは集まって金山の鉄をとって鉄鏡を作り、八尺の勾玉と五百玉の首飾りを作るなどし、アメノウズメは石棺の岩屋戸(上蓋)の上で裸体を見せて踊る復活儀式を行い、次の女王アマテル4への霊継(ひつぎ)儀式を行ったのであり、魏書東夷伝倭人条に書かれたように「喪十余日」で、参加した他人は「歌舞飲食」を行っていたのです。

 私は太安万侶は日本最初のファンタジー作家であり、アマテル1(スサノオの異母妹)、アマテル2(大国主の筑紫妻・鳥耳)、アマテル3(大霊留女=霊御子=卑弥呼)、アマテル4(壹与)を合体したアマテルを創作して天皇家の始祖とする高天原ファンタジーを書きながら、歴史家としては真実のスサノオ・大国主16代(出雲7代、筑紫鳥耳・大国主10代)の歴史をしっかりと書き伝えているのです。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(旧:神話探偵団)139  史聖・太安万侶の古事記からの建国史」(220729)参照 

 推理力も想像力も乏しい文献史家や、真っ暗闇を「物理現象」としかとらえない考古学者などに頼ることなく、ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジーとして古事記を分析する若い「産子・産女」「霊人・霊子・霊女」たちの世代に期待したいと思います。

 なお、葬儀に携わる神人、神使の猿や犬を飼う猿飼・犬神人、死者を蘇らせて演じる能楽師・人形浄瑠璃師・歌舞伎役者たちは死者の霊(ひ)を祀る「霊人(ひにん)」として尊敬・畏怖されていましたが、「人(霊人)殺し」を職業としていて皇族・貴族たちから差別されていた武士階級の身代わりとして、皇族・貴族・百姓・町人から「非人(ひにん)」として差別される身分に落とされたと考えています。

 

□参考

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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155 スサノオ・大国主建国論の方法論

2024-06-07 18:35:28 | スサノオ・大国主建国論

 考古学は遺跡・遺物の「物」からの帰納法により古代史を推理し、歴史学は主に「文献」から古代史を解明しますが、私はそれらに加えて現代に継承されている「文化・伝承」から古代史を仮説演繹的に推理してきました。

 前2者は科学的とみなされますが、限られた「発見物」「文献」からの推理という大きな限界があり、「未発見物」への推理を欠くことから、「新発見物」により容易にそれまでの定説がパアになる危険性があります。

 一例をあげると、出雲にめぼしい遺跡がないことから記紀に書かれた出雲神話は8世紀の創作とされてきましたが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡でのかつてない大量の銅器(銅槍・銅矛・銅鐸)の発見により、記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国が物証により裏付けられました。八百万神信仰により「銅槍圏(通説は銅剣圏)・銅矛圏・銅鐸圏の統一」がなされたことが明らかになったのです。

 この「荒神谷・加茂岩倉ショック」により考古学者は自らの方法論の限界を反省し、歴史学者は天皇中心史観の記紀分析をやりなおすべきだったのですが、未だに大勢としては従来の物からの帰納的推理の「ただもの(唯物)史観」がまかり通っています。シュリーマンのように神話から大国主や大霊留女(アマテル;卑弥呼)の墓の発見を目指すような考古学者は現れていません。

 「八百万神」神道のこの国では、死者の霊(ひ)は全て神として子孫や人々に祀られるのであり、「神話=霊話=人話」なのです。記紀神話には天上の「高天原」神話のように一見すると荒唐無稽な内容が見られますが、一方ではその場所を「筑紫日向橘小門阿波岐原」と具体的な地上の地名として書いています。記紀は表面的には天皇家建国の歴史を空想的に書きながら、その裏では巧妙にスサノオ・大国主建国史を書き伝えているのです。

 私が「現代人の生活・文化・DNA」から遡り、「スサノオ・大国主建国史」を演繹的に推理してきた例としては次のようなものがあります。

 私の岡山・兵庫の田舎の両祖父母の家には「大黒柱」があり、柱に添って「神棚」が設けられていました。祖先霊を「仏壇」に「仏」として祀る以前は「神棚」に「神」として祀り、天から大黒柱を通って招き、送り返していた可能性があります。そうすると、そのルーツは出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」の「大国柱」の可能性があり、その「心御柱」のルーツは祖先霊の依り代である「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」に遡り、神名火山(神那霊山)信仰から派生してきた可能性があります。

 さらに、そのルーツは東アフリカの万年雪を抱くルウェンゾリ山やケニヤ山、キリマンジェロから死者の魂が天に上るとした「神山天神信仰」にあり、ナイル川を下って平野部では人工の神山として上が白く下が赤いピラミッドとなり、Y染色体D型人により日本列島に運ばれ、諏訪地方の阿久・阿久尻縄文遺跡の石棒から円錐型(神那霊山型)の蓼科山へ向かう2列の石列や、蓼科山へ向いた19の巨木建築が示す蓼科山の「ヒジン(霊人:女神)」信仰へと繋がり、御柱祭は「天神信仰」の「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」の可能性がでてきます。

 私の祖父母時代に見られた「大黒柱」や「お山信仰」(神名火山(神那霊山)信仰:女神信仰)などは、紀元1・2世紀のスサノオ・大国主時代に遡り、さらにはY染色体D型の縄文人のルーツであるアフリカに遡る可能性があるのです。

 スサノオ・大国主建国は、これまでもっぱら天皇家の建国との関係で論じられてきましたが、7万年前にアフリカを出たY染色体D型の縄文人からの内発的発展としてまずは検討するとともに、スサノオの御子の大年(大物主を襲名)の美和国、少彦名亡き後の大国主・大物主連合による大和国(おおわのくに)、大国主の筑紫妻の鳥耳の御子の穂日・夷鳥(日名鳥)親子が大国主を国譲りさせて継承した出雲王朝、筑紫の鳥耳から10代の筑紫王朝と邪馬壹国の全体的な関係をまず明らかにすべきと考えます。

 そして、一神教による侵略戦争以前に全世界に普遍的に見られた母系制社会の霊(ひ)信仰(八百万神信仰)は、命(霊(ひ)=DNAのリレー)を何よりも大事にする宗教思想として、今こそ世界遺産登録を目指すべきと考えますが、どう思われるでしょうか? 

 1万数千年の「縄文社会」の文化・文明をベースにしたスサノオ・大国主建国史から、たかだか2千年あまりの農耕・工業・戦争の文化文明の行き詰まりの先を展望すべきと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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153 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』の修正点

2024-05-23 14:50:54 | スサノオ・大国主建国論

 2009年3月の日向勤(ひなつとむ)ペンネームの『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) ―霊(ひ)の国の古代史―』の出版後、私は邪馬台国論、縄文社会論とともに、スサノオ・大国主建国論についてブログなどで書き続けてきました。

・YAHOOブログ(廃止)「霊の国:スサノオ・大国主命の研究」

・Gooブログ          「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(神話探偵団から名称変更)」

・ライブドアブログ     「帆人の古代史メモ」(アドレス変更により5月8日から更新できなくなっています)

・FC2ブログ     「霊(ひ)の国の古事記論」

・『季刊日本主義』(廃刊)

 「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(18号2012夏)

 「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(26号2014夏)

 「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号2017冬)

 「言語構造から見た日本民族の起源」(42号2018夏)

 「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(43号2018秋)

 「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(44号 2018冬)

・『季刊山陰』(休刊) 

 「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(2017冬38号)

 「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(39号2018夏)

 「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(40号2018夏)

・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 

 その結果、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』には誤りと不十分な点がでてきましたが、ここに誤りについてのみ修正し、読者のみなさまに報告いたします。

 主な修正点は「邪馬臺国(邪馬台国)から邪馬壹国へ」「ヤマタノオロチの草薙大刀」「大物主大神=スサノオ」「4人の襲名アマテルを合体した記紀の天照大御神」」「卑弥呼の王都・高天原の範囲」「邇岐志国生まれのニニギ」「箸墓=大物主・モモソヒメ夫婦墓」「大国主一族の祭祀拠点・纏向」です。

1.全体 「邪馬臺国」(やまだい国、やまだ国)

→『邪馬臺国』(やまだい、やまだ)ではなく、海(あま:あめ)の「一大国(いのおおくに):天比登都柱(あめのひとはしら:天一柱)=壱岐)」に対し、山の「邪馬壹国(やまのいのくに)」説に変わりました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

2.59頁 「『倭』を『わ』と読むようになったのは、わが国が唐と戦争を行った中大兄皇子の時代以降の事と考えられる」

→紀元前後の硯石が筑紫・出雲で発掘されており、後漢に使者を送った「委奴(ふぃな)国王」は通訳を付けて国書を持参したからこそ破格の金印を与えれたのであり、「委奴国(ふぃなのくに)」「倭国(ふぃのくに)」は自称と考えます。

 そして「委=禾/女」「倭=人+禾/女」であり、霊(ひ:祖先霊)・人に「稲を捧げる女」を表しており、貴字とみるべきです。また「奴=女+又」は中国が春秋戦国時代をへて、母系制社会から男系社会に変わった時に「女奴隷」を表すようになったのであり、元々は卑字ではないと考えます。

 姓(女+生)、始(女+台)、嫁(女+家)、婿(女+疋(足)/月)、娠(女+辰(龍))などの女偏の文字を見ても漢字は母系制社会で生れた字であり、「委」「倭」「奴」は自称であり、漢・魏が付けた卑字ではないと考えます。

3.62頁 「鉄剣製造の見本として韓から伝わった十握剣(一書では韓鋤剣)」

→「南北市糴(してき:糴=入+米+羽+隹))」の米鉄交易によりスサノオは韓(新羅)から木鍬の鉄先を輸入しており、その鉄を鍛えなおした鉄剣です。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート151 鉄刀・鉄剣からみた建国史―アフリカ・インド鉄と新羅鉄・阿曽鉄、草薙大刀・草薙剣・蛇行剣」参照

4.63頁 「草薙剣(銅剣)」

→スサノオの鉄剣がヤマタノオロチの「大刀」に当たって欠けたとされることからみて、熱田神宮に伝わる「銅剣」の草薙剣はヤマタノオロチ王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち:草薙大刀)ではありえません。オロチ王の大刀は吉備の石上布都魂神社から熱田神宮の禁足地に埋められ、発見された大刀と考えます。

5.68頁 「大物主大神は・・・大歳神の別名である」

→古事記にはスサノオを出雲のイヤナミから生まれた大兄(長兄)とする記述がある一方、筑紫日向(ちくしのひな)生まれの異母妹アマテルの弟にするなど、スサノオ隠しを系統的に行い、大物主大神=大国主などが見られますが、大神神社の神名火山(神那霊山)の三輪山祭祀からみて、大物主大神=スサノオ、大物主(代々襲名)=大歳(大年)です。

6.73頁 「後漢との交易・外交に便利な交易・外交拠点の後継王に金印を託して置く、これが妥当な行動であったと考えられる」

→古事記によればスサノオは「汝命は、海原を知らせ」とイヤナギから命じられ、イヤナギが筑紫で妻問いしてもうけた筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、宗像族(多紀理毘売(たきりびめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)をもうける)を統率し、新羅~対馬~壱岐~博多、新羅~対馬~沖ノ島~宗像・長門~出雲の海上ルートで米鉄交易を行っており、志賀島を拠点とする異母弟の綿津見3兄弟に金印を預けたと考えます。

7.116頁 八百八十の神々が航海してきた時の目印とするため」

→三方を山に囲まれた奥まった現在の出雲大社本殿は西の海からは見えません、元の本殿の位置は、現在地より南東の八雲山と琴引山を結ぶ線上にあり、海から見えたと考えます。―スサノオ・大国主ノート「145 岡野眞氏論文と『引橋長一町』『出雲大社故地』(230110)」「149 NHK『出雲大社 八雲たつ神々の里』から古出雲大社復元と世界遺産登録を考える(231216)」参照

8.139・140頁 「卑弥呼=天照大御神説は成立しない」「卑弥呼=天照大御神説が成立しないばかりか、記紀は天照大御神が天皇家の祖先ではなく、創作された神であることを示している」

→スサノオの異母妹の天照大御神(アマテル1)と、スサノオ7代目の大国主に国譲りさせた筑紫妻の鳥耳(アマテル2)、筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(霊御子=大霊留女=アマテル3)、卑弥呼死後に霊継(ひつぎ)儀式により後継女王となった壹与(アマテル4)は、筑紫日向(ちくしのひな)に実在し、尊称を襲名した4人のアマテルを記紀は「スサノオの姉・アマテル」として合体して天皇家の始祖神としています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

9. 143頁 「『高天原』は荷原(いないばる)・美奈宜神社の背後の喰那尾(くいなお)山(栗尾山)一帯の高台であると確信した。・・・現在の地名は『矢野竹(やんたけ)』『美奈宜の杜』といい・・・この地こそが『天城』や『日向城(ひなぎ)』を一望する『高天原』の地名に相応しい場所であり、霊巫女(ひみこ)=卑弥呼の宮殿が置かれ、霊巫女(ひみこ)が鬼道(大国主神の霊を祀る宗教)を行った地であり」 

→アマテル(大霊留女=霊御子=卑弥呼)の死後に神集(かみつどい)が行われ、壹与への霊継(ひつぎ)儀式(アマテルの復活とされた)が行われたのが「天安之河原(あまのやすのかわら)」とされていることからみて、古くは安川と呼ばれた山見川のほとりの現在の安川地区、羽白熊鷲王が殺された荷持田村(日本書紀は「のとり」としているが「仁鳥(にとり)村」であろう)にアマテル(卑弥呼)の墓「天岩屋」はあった可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 卑弥呼の王都(宮室)と墓所は甘木高台の「矢野竹(やんたけ)」からさらに奥に進んだ「安川地区」にかけてであったと考えます。―Seesaaブログ「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」参照

10. 148~150頁 「この前半部分(注:クジフル岳までの天下り)は筑紫でのニニギ命の天降りを伝え、後半の薩摩半島での出来事は、別の人物(仮に、ニニギ命2とする)の伝承を伝えていると考えている」

→日本書紀の「膂宍之空國」の「宍之」を「膂:そ、蘇、襲、曽」の「宍野」と解釈しましたが、通説の「背中の骨のまわりの肉のない国」と解釈し、国のない九州山地を「頓丘(毗陀烏:ひたを)」=「日田丘」から薩摩半島の阿多の笠沙に同一人物のニニギが敗走したと解釈を変更します。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

11. 148~150頁 「笠沙三代の天皇家の祖先の物語は、素朴な漁村の一族の物語である。邪馬臺国の王族の歴史とは繋がらない」 

→古事記によれば、ニニギ(邇邇芸命)はアマテルの子のオシホミミ(天忍穂耳尊)の御子で、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命とされており、その名前からみると「天邇岐志国邇岐志」の生まれの「天津日高日子番」(海人族の津(港)の日高霊子婆)の子の「邇邇芸命」と考えられ、高天原の生まれとは考えられません。

 「邇岐志」=「にきし:瓊岸」であり、この「瓊」は三種の神器の「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」にも登場する赤メノウであり、安曇族の拠点である宗像市の南の福津市の津屋崎海岸で採れ、天邇岐志国邇岐志はこの地を指しています。ニニギは壹与と王位を争って敗北した男王派の宗像族の若者の可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 前述のように、スサノオの異母妹アマテル1、大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)、筑紫大国主・鳥耳王朝11代目・卑弥呼(大霊留女:アマテル3)、12代目壹与(アマテル4)を記紀は合体していますが、鳥耳(アマテル2)と大国主の御子のオシホミミ・ホヒ(菩卑:穂日)兄弟のうち、ホヒが大国主に国譲りさせて後継者となるのに対し、兄のオシホミミの子を薩摩半島南西端の阿多に天降りさせるなどありえません。

 また古事記は天火明命をニニギの兄としていますが、播磨国風土記は大国主の御子とし、その一族は尾張氏・津守氏・海部氏・丹波氏などの始祖神とされており、ニニギはその名前や阿多を拠点とした境遇、時代からみて鳥耳・大国主一族のオシホミミの子ではないことが明らかです。

13. 181~184頁 「箸墓の被葬者は倭(やまと)迹迹日(ととひ)百襲(ももそ)姫か」

→本著の一番大きな誤りであり、箸墓はスサノオ(大物主大神)・大歳(大物主)の後継者である「太田田根子(意富多多泥古:大物主を襲名)と百襲姫(7代孝霊天皇の娘)の夫婦墓」と訂正します。―gooブログ「スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点(221116)」参照

 その第1の理由は、全長278mの箸墓に対し、9代開化天皇陵(春日率川宮陵に比定)は約100m、10代崇神天皇陵(行燈山古墳)は242m、11代垂仁天皇陵(宝来山古墳に比定)は227m、12代景行天皇陵は300mであり、箸墓に葬られた人物はこれらの大王墓よりも上位であり、民の半数以上が死に絶えた疫病を退散させたとされる大田田根子(大物主)と妻のモモソヒメの夫婦墓と考えます。同時代の崇神・垂仁天皇よりも上位の人物であり、モモソヒメではありえず、それは記紀に書かれた太田田根子しか考えられません。

 第2の理由は、箸墓と同時代の崇神天皇陵(アマテルとスサノオの祭祀権を御間城姫の一族から奪い、2神の神霊を宮中に移したため疫病蔓延を招いた祟られた天皇)、纏向(間城向)の大型建物が、穴師山を向いていることです。穴師山には穴師坐兵主神社があり、兵主神(大国主)を祭神としており、大国主一族の大和(おおわ)の神名火山(神那霊山)なのです。

 なお、モモソヒメの母は「意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)」であり、大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神が日本大国魂大神(通説は大国主、筆者説はスサノオ)、八千戈大神(大国主)、御年大神(大歳)であることからみてても、大国主一族と考えます。

 第3の理由は、箸墓はその建造方法から大国主を国譲りさせた天穂日の子孫の野見宿禰がその建造を指揮したことを示しており、垂仁天皇の時、殉死に代わる埴輪を提案して土師氏と呼ばれており、元々は土師墓と呼ばれていたことと符合します。

 その建造にあたっては「大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ」作業を担ったのが生駒の大坂山(逢坂山)の大阪山口神社から馬見山古墳群にかけてを拠点とするスサノオの妻の神大市姫命の一族であったことから、「大市墓」とも呼ばれたと考えます。

 第4の理由は、図8・9に示すように帆立貝形型の発生期の前方後円墳である纏向勝山古墳(3世紀前半)・纏向石塚古墳(同)・纏向矢塚古墳(同中頃)から穴師坐兵主神社へ向かう参道に沿って大型建物、11代垂仁天皇・12代景行天皇の宮、野見宿禰が当麻蹴速と角力(相撲)をとった場所に相撲神社があるように、纏向の地は大国主一族が大物主と交わした約束を守り、三諸山(三輪山)のスサノオ(大物主大神)を祀る祭祀拠点なのです。

 邪馬台国畿内説は纏向で発掘された大型建物を卑弥呼の宮室であり、太陽信仰の神殿としてアマテルと結びつけていますが、記紀や魏書東夷伝倭人条、さらには神名火山(神那霊山)信仰や神社信仰を無視した新皇国史観の空想という以外にありません。

14. 187頁 「死者を封じ込める宗教的な力となると、須佐之男大神かその後継者の三輪山に祀られた大物主大神(大歳神)、大国主神の霊力などが考えられる」

→前述のように、「スサノオ=大物主大神=日本大国魂大神」を日本書紀は隠しているために間違ってしまいましたが、「死者を封じ込める宗教的な力となると、祖先霊である須佐之男大神(大物主大神)の霊力が考えられる」に修正します。

15. 201頁 「ヤマトタケル命は、東国行きを命じられ、伊勢神宮で叔母の倭比売から、須佐之男大神がヤマタノオロチを討った時の戦利品の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(後に、草薙剣と言われる)」を受け取り、尾張に向かったとされている」 

→前述のように、古事記によればオロチ王の刀は「都牟刈大刀(つむがり大刀:頭刈大刀)」「草薙大刀」であり、天皇家に伝わる銅剣の「天叢雲剣:草薙剣」はオロチ王の鋭い鉄の大刀ではありません。

16. 203頁 「出雲国風土記によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神の子で、大国主神に国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)の別名である」

→前述のように、記紀や出雲国風土記はスサノオの異母妹アマテル1とスサノオ7代目の大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)を一人に合体しており、「記紀等によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神とされていますが、大国主神に国譲りさせた鳥耳の子の天穂日神であり、その子が天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)である」に修正します。

17. 210頁 「奈良県田原本町の磯城の近くには、大物主大神(大歳神)を祀る三輪山の麓に広がる弥生の巨大な環濠都市、唐古・鍵遺跡があり、銅鐸の鋳型がでるなど銅鐸文化の拠点の一つであり、須佐之男大神の子の大歳神の進出拠点である」 

→「奈良県田原本町の磯城には、天照国照彦火明命を祀る鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmのところに銅鐸の鋳型がでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や杵築神社があり、今里と鍵では蛇巻き神事が行われるなど、大国主の子の火明命一族の進出拠点である」に修正します。

 

 今後、以上の修正点などを盛り込むとともに、縄文社会から連続する霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教である八百万神神道と海人族の海洋交易によるスサノオ・大国主建国の全体像を明らかにし、日本文明を世界史の中に位置づけ、「戦争なき21世紀」へ向けた提案としてまとめたいと考えています。

 

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151 鉄刀・鉄剣からみた建国史―アフリカ・インド鉄と新羅鉄・阿曽鉄、草薙大刀・草薙剣・蛇行剣

2024-03-28 18:24:50 | スサノオ・大国主建国論

 先日、スサノオ・イナダヒメらを祀る「 日本初之宮 (にほんはつのみや)」須我神社のある島根県雲南市大東町出身の起業家・細貝和則氏と歓談する機会があり、TBS「ワールドビジネスサテライト」のトレたま(トレンドたまご)の年間大賞を受賞したライティングシート(画鋲やテープを使用せず静電気で貼りつける持ち運び容易なホワイトボード代わりのシート)などの発明・事業展開・Uターン起業化の話を聞きました。

 私からは「トレたま」で放送されたものの売れなかった世界初の折り畳み式の小型ヨット・ランブラーの事業化の失敗談や、八百万神信仰のスサノオ・大国主建国、出雲大社復元案、たたら製鉄、アフリカ起源製鉄説などを話し、盛り上がりました。

 氏の出身地の大東町がかつては日本のモリブデンの主産地であったという重要な話を聞きましたのでモリブデン鋼製鉄の可能性、ヤマタノオロチの草薙大刀(くさなぎのおおたち)と天皇家の「三種の神器」の草薙剣(くさなぎのつるぎ)の関係、オロチ王を切ったスサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)と石上神宮の約120㎝の大刀・約85㎝の剣の関係、アフリカの製鉄女神とたたら製鉄の女神・金屋子神の関係、吉備の温羅の妻・阿曽姫ゆかりの阿曽地区製鉄と阿蘇リモナイト鉄の関係、八岐大蛇と蛇行剣、インド・東南アジアの7つ頭のナーガ蛇神・八大竜王の関係などについて考えてみました。

 なお、これまで新羅とスサノオ~大国主一族の米鉄交易については『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)に書いていますが、はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」には次のような小文を書いています。

 縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ 201106

 縄文ノート119 諏訪への鉄の道 220122

 縄文ノート121 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ 220205

 縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』 220210

 縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論 220226

 縄文ノート127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考 220318

 縄文ノート136 「銕(てつ)」字からみた「夷=倭」の製鉄起源 220427

 

1 「縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)の抜粋

 シリアのダマスカスで作られていた鋭利な刃物で有名なダマスカス鋼は、古代南インドで紀元前6世紀に開発されたるつぼ鋼のウーツ鋼の別称とされ、その木目状の模様は鋼材に不純物として特にバナジウムが必要であったとされています。そしてウーツ鋼とダマスカス刀剣の生産が近代まで持続しなかった原因をインドでバナジウムを含む鉄鉱石が枯渇したことによると推測しています。

 しかしながら、バナジウム産地が南アフリカにあることからみて、バナジウムが混じったラテライトを使った「南アフリカ鉄」がシリアやイラン、インドに輸出され、イギリスの植民地化により南アフリカの製鉄業が潰滅したことによりダマスカス鋼が消滅したと見るべきでしょう。

 スサノオが酒を飲ませて暗殺したオロチ王の「都牟刈大刀(つむがりのおおたち)」「草薙大刀(くさなぎのおおたち)」は別名を「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」と書かれ、天皇家では「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)」として皇位継承の「三種の神器」の1つとしていますが、私は赤目砂鉄の荒真砂(あらまさ)を製鉄して鍛えた硬い鉄刀で、「天叢雲剣」の名前は日本刀の乱れた「刀紋」か、地肌が「八雲肌」のような大刀であったと考えてきました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照 

 それは鍛造によってできる模様と書きましたが、バナジウムを含む砂(愛媛県大洲市の神南山神南石など)が紛れ込んだのか、あるいは鉄の融点を下げるために投入したカルシウム材の貝殻にバナジウムが含まれていてできたのか、ことによると南インドのウーツ鋼を使った大刀であった可能性も考えられます。いずれにしても、オロチ王→スサノオ→天皇家→ヤマトタケル(播磨の印南の大国主系の王女)と伝わり、王権の武力の象徴とされたことを見るとたいへん珍しい、よく切れる美しい大刀であったことは確実です。

 

2 「縄文ノート127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」(220318)の抜粋 

 播磨国風土記の「鉄生ふ」の記載のある讃容郡(さようぐん:現佐用市)の仲川里には、前から気になっていた次のような奇妙な記述があります。

 近江天皇(天智天皇)の世に、丸部具(わにべのそなふ)が河内国兔寸(うき)村の人が持っていた剣を買った後、家の者すべて滅亡した。その後、苫編(とまみ)部の犬猪(いぬい)がその跡地を耕し、この剣をえた。柄は朽ち失われていたが、刃は錆びず、光、明らけき鏡のようであった。犬猪は怪しんで、家に帰って鍛人(かねち)を招いて、その刃を焼かしめた。その時、この剣が屈申(くっしん)すること蛇のようであった。

 錆びない鉄といえばインドの「デリーの鉄柱」や「ダマスカス鋼(インドのウーツ鋼の別称)」が有名であり、ウィキペディアは「インドで産出される鉄鉱石にはリン(P)が比較的多く含まれ、鉄を精製する際にミミセンナ(リンを含む植物)を加えており、表面がリン酸化合物でコーティングされた」という錆に強い鋼生産説を掲載しています。

 「たたら炉の周囲の柱に死骸を下げると大量に鉄が取れるようになった」という金屋子神伝承からみると、製鉄の過程でリンを加えた可能性があり、「屈申蛇如」からみると炭素の少ない鋼であり、インドの筒形炉で褐鉄鉱(リモナイト)からつくるウーツ鋼(ダマスカス鋼)のような剣であった可能性があります。―「縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」参照

 このウーツ鋼の木目状模様はバナジウムによるとされており、バナジウム産地が南アフリカにあることからみて「南アフリカ鉄」がシリアやイラン、インドに輸出されたと考えられ、日本ではバナジウムはエビやカニなどに含まれ、前述のリンもエビ・カニ類に多く含まれることからみて、ヤマタノオロチ王の八雲肌の「天叢雲大刀」の製鉄にはエビ・カニ類が加えられた可能性もあります。

 

3 モリブデン鋼の可能性

 島根県雲南市大東町出身の細貝和則氏によると、町内には大東鉱山をはじめ4つのモリブデン鉱山があり、日本の主産地であったそうです。

 私はクロモリ鋼(クロムモリブデン鋼)の知識がありましたから、オロチ王の「都牟刈之大刀(つむがりのおおたち):草那芸之大刀(くさなぎのおおたち)」にはモリブデンが入っていたのではと大興奮し、帰ってからすぐに調べました。

 モリブデン鋼は錆びにくく包丁や医療用メスに使われ、ウィキペディアによれば「天叢雲剣が当時の他の剣よりも硬かったのは一因に、モリブデンが含まれているためとの説がある。ひとりのドイツ人が細いのによく切れて頑丈な日本刀に着目し、分析の結果、刀の成分にモリブデンが含まれていることを見つけた。さらに日本神話に登場する『天叢雲剣』に目をつけ、斐伊川上流には何か手がかりがあるのではないかと考え調査したところ、大東町でモリブデン鉱床を発見したとの説もある」と書かれており、とっくに先人たちは気づいていたのでした。

 これまでバナジウムが混じっていて「八雲肌」ができた可能性は考えていましたが、モリブデンはノーマークでした。

 モリブデンはこの大東町の砂鉄に交じっていた可能性がありますが、大豆やえんどうなど豆類にモリブデンは含まれ骨などに蓄積されるため、「たたら炉の周囲の柱に死骸を下げると大量に鉄が取れるようになった」という伝承からみると、ことによると死体の骨を加えてモリブデンとリンを含有させた可能性も考えられます。

 古代製鉄は中国・新羅ルートのたたら製鉄とアフリカ・インドルートの阿蘇黄土(阿蘇リモナイト:褐鉄鉱)製鉄の2タイプがあったという仮説を私は考えていますが、新羅に御子の五十猛(いたける:委武)と渡ったスサノオが新羅との米鉄交易を開始したのに対し、大国主が「大穴持」「大穴牟遅(おおあなむぢ)」「八千矛」の別名を持ち、出雲国風土記が大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と書き、その国名を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」としていることなどからみて、大国主は国内製鉄を軌道に乗せ、鉄先鋤を各国に与えて沖積平野の葦原の開拓を促し、水利水田稲作を全国に普及させた「天下経営王」(日本書紀)であり「造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」(出雲国風土記)であったのです。

 紀元1~2世紀のモリブデン鋼の鉄刀、スサノオ~大国主時代の製鉄遺跡、阿蘇鉄遺跡などはまだ未発見・未解明ですが、いずれ明らかになると私は期待しています。

 

4 製鉄女神・金屋子神信仰のルーツ

 縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』において、木村愛二氏の『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』の影響を受けた私は、「製鉄ヒッタイト起源説」に対し、「製鉄アフリカ起源説」として図のようなまとめを行っています。

 エジプトのピラミッドなどの巨石文明は鉄器なしに不可能であり、エジプトがヒッタイトとの戦争に敗けることがなかったのも彼らが鉄製武器を持っていたからに外なりません。木村氏はスーダンの私はニジェール川支流のブルキナファソの世界文化遺産「ブルファナキャソ古代製鉄遺跡群」(4000~3000年前)こそが製鉄の起源地の可能性が高いと考えています。

 そして『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(第4章 鉄鍛冶師のカースト)から私は次のような引用を行っています。

「アフリカ人は、鍛冶師をカーストの最上位に置いていた。彼らの神話はすべて、神から直接に金属を与えられたということを語っている」

「アフリカの農耕民の社会では、技術者の最上位のカーストは、鉄鍛冶師とされている。ところが、シュレ=カナールの研究によると、ほとんどどこでも、このカーストの女性は陶工、または土器製作者である。・・・

 ところで、明らかに鉄器よりも、土器の方が先に発明されている。ということは、土器をつくっていた女たちが、鉄の製法を発見し、男たちに力仕事、つまり加工作業を手伝わせたとも考えられる。その鍵になるものは、ラテライト、または「古鉄土」のもうひとつの特殊性である。つまり、「古鉄土」は粘土状でも存在する。そして、土器の原料と同じ形で、地表にあった。この条件が決定的なものではなかろうか。・・・

 そして、もちろん、アフリカ人は早くから土器をつくっていた。紀元前6000年のケニア高原の遺跡について、コルヌヴァンは、「とりわけ豊富な土器」という表現さえ使っている。

 では、どういうことをしているうちに、鉄の製法が発見されただろうか。偶然だろうか。わたしは、これも必然的な結果として考えている。・・・

 古鉄土性の粘土が多い地方では、土器製作過程で海綿鉄の塊まりが得られるという可能性は、充分に考えられる。・・・

 長い間、土器をつくっていた女たちは、その上に、実験的訓練を経ていたし、出来上りのよさ、色彩を競いあったにちがいない。女たちの研究心は旺盛であった。奇妙な黒い鉄の塊まりの利用方法に気づくのも、人一倍早かったにちがいない。

 さらに、発見された最初の鉄塊で、何がつくられたか、ということも考えなくてはならない。歴史学者は、刀剣類に重点を置く傾向がある。しかし、石器と同様に、金属器も最初は生産用用具、とくに農耕用具として開発されたと考えるのが、本筋であろう。」

 これまでうかつなことに気付かなかったのですが、播磨から吉備・伯耆を経て出雲にたたら製鉄技術を伝えたとされる金屋子神について、今回、HP「和鋼博物館」をみると、なんと金屋子神もまた女神だったのです。

 製鉄現場に女性が入ることができなかったのは血の「ケガレ」忌避からではなく、製鉄神が女性であり、お山信仰の女人禁制と同じく女神が嫉妬することを避けたからと考えます。

 木村愛二氏によるとアフリカの技術者の最上位カーストの鉄鍛冶師はほとんどどこでも女性であり、陶工や土器製作者もまた女性であったというのですが、日本各地の製鉄神の金屋子神や水銀・朱砂(辰砂)神の丹生都比売もまた女性神であることと符合しています。

 女・子ども中心の採集・漁労活動による糖質・DHA食により人類が誕生した歴史からみて人類はもともと母系制社会であり、その延長に土器や鉄器の発明・利用が女性により行われた歴史をこの製鉄の歴史と製鉄女神信仰は示しています。

 宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」はたたら場を支配している棟梁のエボシ御前を女性としていますが、「さすが宮崎さん」です。

 なお、播磨国風土記には大国主の御子の丹津日子(につひこ)が書かれ、風土記逸文の明石郡(赤石は赤鉄鉱)には爾保都(にほつ)比売(丹生都(にゅうつ)比売)が登場し、神戸市北区(古くは明石郡)の丹生山には丹生神社がありますが、その名前からみて丹生都比売は大国主の御子の可能性が高いと考えます。

 和歌山県伊都郡かつらぎ町にある丹生都比売神社は紀伊国一宮で、主祭神として丹生都比売の他に大食津比売、市杵島比売を祀っていますが、記紀によれば大食津比売(おおげつひめ:大宜都比売)はイヤナギ・イヤナミの御子でスサノオの姉、宗像3女神の市杵島比売はスサノオの御子であり、播磨国風土記では奥津島比売(宗像3女神の長姉を襲名していた後継者)は大国主の妻となり阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)を播磨の託賀郡(多可郡:西脇市など)で産んだとしていることからみても丹生都比売・大食津比売・市杵島比売はスサノオ・大国主一族であり、丹生都比売は大国主の御子であった可能性が高いと考えます。

 

5 「大刀か剣」か?」「鉄刀か銅剣か?」:史聖・太安万侶が書き残した謎解き

 古事記によれば天降りに際してアマテルはニニギに「八尺勾玉(やさかのまがたま)、鏡、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)」を持たせ、鏡については「我御魂として奉れ」と命じたとしています。そして、この「勾玉、鏡、剣」は「三種の神器(みくさのかむたから)」として皇位継承の正当性を示すものとされてきました。

 太安万侶はここでも表(天皇家)の歴史と裏(スサノオ・大国主一族)の歴史を巧妙に伝え残しています。

 スサノオがヤマタノオロチ王(古事記:八俣遠呂智、日本書紀:八岐大蛇)に酒を飲ませて暗殺した時にオロチ王の尾から出てきた大刀を太安万侶は「都牟刈大刀(つむがりのおおたち)」「草薙大刀(くさなぎのおおたち)」と書き、後のニニギの天降りでアマテルが与えたのは「草那芸剣」とし、さらに後に伊勢神宮で叔母の倭比売がヤマトタケルに与えたのは「草薙剣」として書き分けています。

 太安万侶は片刃の「大刀(おおたち)」と両刃の「剣(つるぎ)」の違いもわからない無能な人物としてきたのがこれまでの歴史家ですが、私は「史聖・太安万侶」は「オロチ王→スサノオ一族」の王位継承の神器・都牟刈大刀と、天皇家の神器・草薙剣を書き分け、スサノオ・大国主建国と天皇家建国の両方の歴史を巧妙に後世に伝え残した偉大な歴史家と考えています。

 この古事記に対して、日本書紀はオロチ(大蛇)王の「草薙大刀」を「草薙剣」と言い換え、「ヤマタノオロチ→スサノオ→アマテル(天照)→ニニギ→ワカミケヌ(神武)」と武力を象徴する剣が継承され、大和朝廷の正統性を示してきましたが、虚偽という他ありません。

 そもそも古事記はアマテルとスサノオは「筑紫日向(ちくしのひな)」で生まれた姉弟とする一方、スサノオは「母の国根の堅州国」(出雲)に行きたいと「八拳須(やつかひげ)」が生えた大人になっても泣いたとしており、スサノオは出雲で生まれた大兄(長兄)でアマテルは筑紫で生まれた異母妹としているのです。そして古事記はスサノオ~大国主の7代の系譜を書き、次に大国主の国づくりと筑紫の大国主・鳥耳夫婦の10代の系譜を書き、その次にニニギを登場させているのです。―詳しくは『『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 この古事記の記述はスサノオの義妹のアマテルと、スサノオ7代目の大国主に国譲りさせたアマテル2(筑紫妻の鳥耳)、ニニギを天下りさせた祖母のアマテル3は、襲名した世代が異なる別人であることを示しています。

 天武天皇第2皇子の52代嵯峨天皇(三筆の一人、最澄・空海を優遇、源氏の祖)は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社(対馬からスサノオの神霊を招へい)に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っています。天皇家はスサノオ・大国主一族の建国を公認しているのであり、ここから記紀は解釈されなければならないのです。

 古事記神話は歴史書・ドキュメンタリーとしてみると矛盾や空想的な記述が目につきますが、空想的表現で真実を伝えるファンタジー、相反した矛盾した内容で読者に真実を探究させるミステリーとして分析すると、表の天皇家の建国史の裏のスサノオ・大国主建国史の真実を同時に巧妙に書いていることが浮かび上がります。

 その分析は頭の硬い歴史家に任せるのではなく、若いファンタジー・ミステリー好きの皆さんこそ取り組んでいただきたいと思います。

 

6 「オロチ(大蛇)の大刀」と「スサノオの剣」の行方

 ヤマタノオロチ(八岐大蛇)王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち)、別名・草薙大刀(くさなぎのおおたち)について、古事記は「天照大御神に白し上げた」とし、日本書紀の一書は「昔素戔嗚尊の許にあり」としていますが、スサノオは高天原(筑紫日向:ちくしのひな)から出雲に追放されていることからみて後者が真実を伝えていると考えます。

 私は2008年3月に赤磐市の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)を訪ね、この神社から天理市の石上神宮に第16代仁徳天皇の時に移されたスサノオの十拳剣は、明治に禁足地(神社建設以前の崇拝地)から発掘された全長約120cmの片刃の鉄刀と説明を受け、それをコピーした木刀を社務所で見せてもらいました。

 しかしながら、この大刀はスサノオの十拳剣(約8㎝×10=約80㎝)とは長さも形(剣)も異なります。

 この発掘時には約60cmと約85㎝の両刃の鉄剣も発掘されており、スサノオの十拳剣は約85㎝の両刃の鉄剣であり、この約120cmの片刃の鉄刀こそがオロチ王の大刀の可能性が高いと私は考えます。 

 ちなみに、『出雲国風土記』で「所造天下大神之御財 積置給處也(大国主命の宝が置かれた場所)」とされる大原郡条神原郷にある出雲最古期の方墳で「景初三年」(239年:卑弥呼が魏に使者を送った年)銘の三角縁神獣鏡などが出土した神原神社古墳の刀と剣はおおよそ70㎝(柄の細い部分が欠けている可能性)と80㎝(三角縁神獣鏡の径20㎝よりの比例計算)であり、「十拳刀・十拳剣」が当時の標準であったことが伺われます。現在の木刀の中刀が91㎝、大刀が101.5㎝と決められていることと較べてみても、小柄であった当時の人にとって石上神宮で発見された約120㎝の大刀は格段に大きく、これこそがオロチ王の特異な都牟刈大刀・草薙大刀に相応しいといえます。

 一方、熊野の高倉下(たかくらじ)がイワレヒコ(後に神武天皇)に差し出した横刀(おうとう:太刀の古語)は日本書紀では「韴靈(ふつのみたま)」とされ、宮中に祀られて10代崇神天皇の時に石上神宮に移され禁足地に埋められたとされていますが、これは約60cmの鉄剣ではないかと私は考えています。

 石上神宮は主祭神を約85㎝の布都御魂剣とし、約120cmの鉄刀と約60cmの鉄剣を配神として祀っていますが、スサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)は吉備神部の本宮である石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)にもともと置かれて第16代仁徳天皇の時に石上神宮に移されたのですから、主祭神の約85㎝の布都御魂剣の方こそが名称と大きさ、主祭神であることからみてスサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)とみるべきです。

 石上布都魂神社とその分社である石上神宮はともに物部氏の神社であり、スサノオの神剣を祭神にしている以上、物部氏はスサノオの御子一族であり、「物部」姓は「大物主大神(スサノオ)」と「大物主(美和を拠点とする大年一族)」と同じ「物(神)」族であることを示しています。

 なお、オロチ王を暗殺したスサノオの「十拳剣(とつかのつるぎ)」は別名を「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」ということからみて、スサノオが辰韓(新羅)に行って入手した「韓の鋤」の鉄を鍛えなおした剣であり、オロチ王の大刀に当たって欠けたというのですから銑鉄製であり、これに対してオロチ王の大刀は強度があり腐食に強くモリブデン鋼の可能性も考えれられます。また、熱田神宮に保管されている「三種の神器」の十拳剣は銅剣であり、スサノオの剣ではありません。

 以上の推理仮説は、鉄の専門家による石上布都魂神社の3刀剣と、神原神社古墳の刀剣など同時代の刀剣の蛍光Ⅹ線分析(非破壊分析)などにより証明されることを期待しています。

 

7 天皇家の「鉄隠し」と「鉄を忘れたカナリア」たち

 へそ曲がりの私は小学生の時、「石器→縄文式土器→弥生式土器→古墳」という鉄器時代がない時代区分、米を入れるために「弥生式土器」ができたという説、「大和(おおわ、だいわ)」と書いて「やまと」と読むという教師の説明に疑問を抱き、以後、歴史教科書や教師は信用できないと思いました。

 ビスマルクの「鉄は国家なり」を知ったのは中学生の時だったと思いますが、古代においてもこの言葉は重要なキーワードであったはずです。製鉄は農耕・漁労狩猟・調理・土木・建築・武器などの生産・生活・軍事革命を促す最高のハイテク産業ですが、なぜか記紀には鉄の生産・流通について記載されず、歴史家・考古学者もまた「鉄は錆びて無くなる」という理由をあげた「鉄を忘れたカナリア」のようです。

 すでにみたように、天皇家の皇位継承には「三種の神器」が欠かせないのですが、武力のシンボルであるヤマタノオロチの武器は古事記では「大刀」、日本書紀では「剣」と書かれ、しかも熱田神宮にそれとして伝わっているのは銅剣なのです。

 なぜ、「石器→土器→鉄器」の時代区分が日本で行われないのかについては何度か書いてきましたが、この時代区分にすると記紀神話や播磨国風土記に書かれたスサノオ・大国主一族による鉄先鋤による沖積平野の葦原を開拓しての水利水田稲作の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」の建国を認めることになるからであり、薩摩半島南西端の笠沙・阿多の「山幸彦(猟師:山人)」を先祖とする天皇家の建国史を歴史学者や考古学者は認めたくないからです。

 また、西欧中心史観の「肉食・狩猟・闘争・戦争進歩史観」が大好きな学者にとっては、土器鍋による食革命には興味はなく、古代国家形成の基盤となる農耕・土木の鉄先鋤や建築のための斧やノミ、錐、包丁などの鉄器による生産・生活技術革命には関心が薄いのです。

 今、考古学の分野では縄文土器に付いていた豆や穀類、昆虫などの圧痕をシリコンで転写する熊本大小畑弘己教授らの研究が注目され、柱痕からは竪穴式住居や高床式建物の復元が行われていますが、鉄器はなくなっても製鉄に伴い全国各地で見つかっている「金糞=鉄滓」の成分分析により製鉄史を解明することは可能なはずです(残り物には福がある)。石上布都魂神社でも近くの川には金糞がみられるとのことでした。

 ヤマタノオロチの都牟刈大刀が草薙剣として天皇家の皇位継承の神器とされていることからみても、ヤマタノオロチ王はスサノオ・大国主一族の建国に先立つ偉大な製鉄王であった可能性があり、鉄の歴史とともにオロチ王の解明が求められます。

 なお、三種の神器で最初に登場する勾玉と次に登場する鏡は女性の装飾品と化粧道具であり、しかも「ヒスイ(翡翠)」は中国語に起源のない和語の「霊吸い」の可能性があります。

 魏皇帝からの百枚の鏡は卑弥呼だけでなく北部九州の30国の各女王への贈物として与えられたものであり、古事記では「我御魂」としてアマテルがニニギに与えたとしていることからみて、いずれも祖先霊信仰を担う女性の重要な神器であり、この国が母系制社会であった歴史を示しています。

 勾玉は大国主が越の沼河比売(ぬなかわひめ:奴奈川姫)に妻問いして糸魚川(奴奈)川)のヒスイ入手して出雲の玉造で製造し、八百万神の霊(ひ)信仰の神器として180人の御子人(みこと:命)ら一族に与え、広まったと考えます。

 

8 ヤマタノオロチ(八岐大蛇)王の本拠地は「越国」か「吉備」か?

 ヤマタノオロチの都牟刈大刀が草薙剣として天皇家の皇位継承の神器とされていることからみて、天皇家はこの国の支配の正当性を「オロチ王→スサノオ一族→天皇家」の権力継承として位置付けていることが明らかです。

 ところが記紀に登場するこのオロチ王は出雲国風土記に登場しないという大きな謎があり、オロチを切ったスサノオの十握剣(とつかのつるぎ)が岡山県赤磐市石上にある吉備国一宮であった石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社に祀られ、しかも近くの「血洗いの滝」で十握剣に付いたオロチ王の血を洗ったという伝承が残っているのです。

 古事記にはオロチ王は「高志(こし)の八俣の大蛇(おろち)」とされていることからみて、オロチ王の本拠地は「越国(こしのくに)」(現在の福井・石川・富山・新潟・山形県)にあったので出雲国風土記に書かれなかったとする説がみられますが、越にはオロチ王伝承も製鉄遺跡の裏付けもありません。 

 そこで中国山地を越し(高志)た石上布都魂神社のある吉備の赤坂郡がオロチ王の本拠地であり、オロチ王の大刀の別名が「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」で石上布都魂神社は古くは赤坂郡であったことからみて、オロチ王はこの地の「赤目(あこめ)砂鉄の荒真砂(あらまさ)」の製鉄王であったのではなかったか、と私は考えてきました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 この地にはかつては備前国分寺があり、備前地方最大、岡山県第3位の大きさの両宮山古墳があり、この赤坂や赤穂、明石(赤石)地名はすべて赤目砂鉄の製鉄が行われていた場所ではないか、と私は考えています。

 赤鉄鉱(Fe2O3)は吉備と播磨、近江が産地であり、赤目砂鉄を原料とした製鉄や鉄朱(ベンガラ:Fe2O3)生産地であり、万葉集の「真金(まがね)吹く 丹生(にう)の真朱(まそほ)の 色に出て 言わなくのみぞ 我が恋ふらくは」の「真金吹く」が吉備や丹生にかかる枕詞であることや、播磨国風土記の製鉄記載や金屋子神社伝承からみて、吉備と播磨はスサノオ・大国主一族の製鉄拠点であり、さらにその前にはオロチ王の製鉄拠点であった可能性があります。

 なおスサノオ(須佐之男、素戔嗚)はその漢字からみて神戸川中流の出雲市佐田町の須佐(飯石郡須佐郷)にちなんだ名前とする説がありますが、私は新羅に渡って製鉄法を習いオロチの本拠地の吉備の赤坂(現赤磐市)で製鉄を開始した「朱砂王」ではないかと考えています。

 ただ今回、雲南市大東町がモリブデンの主産地であったことを知り、新たな仮説として、オロチ王の都牟刈之大刀(つむがりのおおたち)はモリブデン鋼の可能性があり、その製鉄拠点は大東町あたりであった可能性もあり、このハイテク鋼の製造拠点を守るために出雲国風土記はオロチ王の存在を隠した可能性もでてきました。大国主の墓所を隠したのと同じ理由です。

 この新たな仮説については、スサノオ朱砂王説とともに地元の皆さんの調査・研究を期待したいとことです。

 

9 製鉄起源地の解明へ

 金属関係の単語は「呉音漢語・漢音漢語」ではない独自の「倭音倭語」であり、中国・朝鮮ルートの製鉄技術伝播説にはそもそも疑問があります。―「縄文ノート136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」参照

 また、宗教・農業・食関係の単語はドラヴィダ語(タミル語)にほぼ対応しているのですが、金属語はドラヴィダ語にも対応していません。

 一方、「桃太郎の鬼退治」の元になった温羅王の妻の「阿曽媛」は、備中の製鉄拠点で現時点では最古の製鉄遺跡の千引カナクロ谷製鉄遺跡のある血吸川の阿曽地区の姫であり、近くの5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の石棺が阿蘇凝灰岩であるという繋がりや、各地の「阿曽」地名が古代製鉄拠点であることからみて、阿蘇リモナイトを使った製鉄起源も検討する必要があります。―縄文ノート「120 吉備津神社と諏訪大社本宮の「七十五神事」「127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」参照

 さらに、前述の播磨国風土記の「鉄生ふ」の記載のある讃容郡(さようぐん:現佐用市)の仲川里の「刃は錆びず、光、明らけき鏡のようであった」「剣が屈申(くっしん)すること蛇のようであった」という蛇行剣の分布は南九州からの製鉄起源を考えさせます。―縄文ノート「120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」「127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」参照

 この蛇行剣はヤマタノオロチ王が古事記で「蛇(おろち)」、日本書紀で「八岐大蛇」と書かれていること繋がりがあり、オロチ王の一族のシンボルである可能性もあります。 

 

 蛇神はエジプトの大蛇アぺプ、女神・ウアジェト(古代エジプトの主権、王権、神性の象徴として蛇型記章を頭部に付ける)があり、さらにインドの半人半蛇のナーガが有名で東南アジアのインド文化圏では頭が7つある姿が多く、ナーガラージャ (インド神話における蛇神の諸王)は仏教では八大竜王(古代インドの天龍八部衆に所属する竜族の八王)として仏法を守護するとされています。 

 ヤマタノオロチが「頭尾各有八岐(頭尾それ八俣あり)」とされているのは、この東南アジアの頭7つのナーガ(蛇神)やインドの八大竜王の伝承を受け継いでいる可能性があります。

 また蛇行剣はインドネシアのクリス剣(鳥居龍蔵氏説)をルーツとする説もあり、インドのるつぼ鋼の木目模様のウーツ鋼(バナジウム鋼)とオロチ王の八雲肌の「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」の類似性も気になります。

 ヤマタノオロチ(八岐大蛇)王と7頭の蛇神ナーガ・八大竜王の類似性、オロチ王の八雲肌の天叢雲剣と蛇行剣と阿曽鉄、木目模様のウーツ鋼(バナジウム鋼)の関係など、単なる偶然とは思えません。

 鉄や金糞などに含まれる鉄以外の微量元素の分析や金糞と一緒に埋められた木片などの炭素年代測定法により、主な鉄生産地と製造年を突き止める総合的なプロジェクトを期待したいところです。新羅鉄か倭鉄か、新羅系か阿曽系かなど、特に1・2世紀のスサノオ・大国主建国の出雲・吉備・筑紫、3世紀の邪馬壹国、4・5世紀の天皇家の大和など、主な鉄産地の解明です。そして「ヤマタノオロチ→スサノオ→天皇家」へと伝わる記紀と神器が示す建国史の解明を期待したいと思います。

 なお、私は紀元1・2世紀に百余国を7~80年にわたり統一した「委奴国王(いなのくに、ひなのくに)王」はスサノオ・大国主7代であり、筑紫王朝は大国主が「筑紫日向(ちくしのひな)」の女王・鳥耳からの10代であり、その後継王が女王・卑弥呼であることを証明しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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スサノオ・大国主ノート150 FB邪馬台国探究会「20 「邪馬台国畿内説」は成立するか?」の紹介

2023-12-23 20:40:22 | スサノオ・大国主建国論

231222 雛元昌弘

 フェイスブックの邪馬台国探究会で、「『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」を連載してきましたが、「20 『邪馬台国畿内説』は成立するか?」をアップしました。

 内容は美和における「スサノオ・大国主建国論」でもありますので、参考にしていただければと思います。

 

<構成> 20 「邪馬台国畿内説」は成立するか?

⑴ 畿内説は「里程引き算足し算条件」を満たさない

⑵ 畿内説には「東を南とした90度方位誤記」の証明がない

⑶ 「水行十日」の起点は「不彌国」ではなく「末盧国」の呼子港である

⑷ 魏使は「ガキの使いやあらへんで!」

⑸ 「水行―陸行―水行」の途中下船・乗り継ぎはありえない

⑹ 漢・魏皇帝由来の「皇帝3物証」は畿内からは何も発見されていない

⑺ 鉄器時代は北九州・出雲が中心である

⑻ 卑弥呼をアマテル(天照)とする畿内説の「自爆」「敵塩」

⑼ 箸墓は大物主・モモソヒメ夫婦の墓であり、卑弥呼・アマテルの墓ではない

⑽ 間城(まき)・纏向(間城向)は大国主の拠点であった

 ① 纏向の大型建物は「日御子=アマテラス」の太陽信仰神殿か、大国主一族の穴師山崇拝の拝殿か?

 ② 奈良盆地の開拓・建国者はスサノオ・大国主一族

 ③ 大国主・大物主連合の成立

 ④ 「間城」「纏向(間城向)」は大国主一族の拠点

 ⑤ 銅鐸・銅槍(通説は銅剣)・銅矛祭祀から八百万神の神名火山(神那霊山)信仰へ

 ⑥ 「仮面」と「桃の種」は大国主由来の宗教を示す

 ⑦ 穴師山は穴師=鉱山師の大国主一族の拠点

 ⑧ 播磨の養久山古墳群の「円墳・方墳・前方後円墳」から前方後円墳は生まれた

 ⑨ 「邪馬台国畿内説」「卑弥呼・アマテル・モモソヒメ三位一体説」は新皇国史観(天皇中心・大和中心史観)の空想

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スサノオ・大国主ノート147 出雲大社を中心とする「八百万神(やおよろずのかみ)信仰」の世界遺産登録へ

2023-03-27 16:35:39 | スサノオ・大国主建国論

 

1.日本の宗教施設の世界文化遺産登録

 わが国の宗教施設の世界文化遺産としては、次のものがあります。

 神道系7、仏教系6,キリスト教系1となっていますが、縄文時代から続くわが国の根本宗教である「霊(ひ)信仰」(神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝など)を受け継いだ「八百万神信仰」の拠点となる出雲大社を中心としたスサノオ・大国主系の神社がすっぽりと抜け落ちています。

 

2.世界遺産の登録基準を満たす「八百万神(やおよろずのかみ)信仰」

 「八百万神信仰」とその宗教施設は世界遺産登録の次の4つの基準を満たします。

 具体的には、施設としては出雲大社(出雲市)・神魂神社(松江市)・熊野大社(松江市)等、宗像大社・志賀海神社・住吉神社・麻氐良布神社・海神神社(和多都美神社)・月読神社等、広峯神社(姫路市)、大神神社(桜井市)、伏見稲荷・八坂神社(京都市)、日吉大社(大津市)、津島神社・熱田神宮、諏訪大社(諏訪市・茅野市等)、氷川神社(さいたま市)などが、施設配置としては神名火山(神那霊山)と神社を結ぶレイラインが、行事としては出雲の神在祭を中心とした「八百万神」の「霊(ひ)信仰」の各種行事(神名備山信仰、お山・山車・神輿神事、御柱祭など)が対象となります。

    

 

3.「八百万神(やおよろずのかみ)文化」の世界遺産登録の意義

「八百万神信仰」の世界遺産登録には次のような意義があります。

① 土器(縄文)時代から続く「霊(ひ:祖先霊)信仰」「神名火山(神那霊山)信仰」を今に伝える宗教であり、「人・彦・姫・卑弥呼」を「霊(ひ)人・霊(ひ)子・霊(ひ)女・霊(ひ)御子」とし、霊(ひ:いのち=DNA)を繋ぐ生命体ととらえる「霊(ひ)継ぎ」を大事にする生命尊重世界の実現に寄与します。

           

② 「八百万神信仰」は猿や犬、鶏、白鳥、鹿、蛇、海蛇などの動物を神の一族とし、霊(ひ)を運ぶ使いとする宗教であり、生類愛をはぐむ伝統宗教として、生類愛の生物多様性社会の実現に寄与します。

③ 縄文時代からの海人族の妻問・夫招婚の母父系社会(家の継承は母系制、水産・交易活動は父系制)から生まれた、霊(ひ)を生む女性を神とする宗教であり、男女平等社会の実現に寄与します。

④ 「死ねば誰もが神となる」という「八百万神信仰」は、一神教の優生思想・選民思想による「宗教戦争・宗教支配」とは無縁であり、全ての死者を「八百万神」の一員として考える、神々の平等と世界平和の実現に寄与するものです。

 

4.「八百万神(やおよろずのかみ)信仰」の世界遺産登録運動の推進

① この「八百万神信仰」の施設・行事の世界登録運動は、一神教以前に世界に普遍的に存在した、死ねば誰もが神になりその霊(ひ)が子孫に祀られ、霊継(ひつぎ=命のリレー)が何よりも大事にされる多神教を世界にアピールする取り組みです。

② これまで、上賀茂神社・下鴨神社、厳島神社、日光二荒神社、熊野本宮大社、浅間大社、宗像大社が個別に世界遺産登録されていますが、その宗教的な意味を明らかにするために、出雲大社を中心に他のスサノオ・大国主系の神社や宗教行事、祭りなどを「八百万神宗教」として登録すべきと考えます。

③ 進め方としては、各神社の理解をえるとともに、出雲市民をはじめ全国の賛同者が世論を盛り上げるべきと考えます。「八百万神研究会」、「八百万神シンポジウム」、「八百万神観光ルート」づくりなどによる世論形成が考えられます。各地のまちづくり団体やアカデミズム、マスコミへの働きかけも重要です。

④ 一定の機運ができてくれば、市町村・府県の「世界遺産登録推進協議会」の結成が課題となります。

⑤ シンボルプロジェクトとしては、縄文巨木建築の伝統を受けついだ48mの古代出雲大社神殿の復元が考えられます。

     

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキンの邪馬台国ノー      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

  ヒナフキンの縄文ノート       https://hinafkin.hatenablog.com/

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スサノオ・大国主ノート146 古代出雲大社復元に取り組んだ馬庭稔君逝く

2023-03-23 12:55:45 | スサノオ・大国主建国論

 同窓会の案内の続きかと思ったメールで、同期生の馬庭稔君が3月16日に急逝されたことを知りました。なんとも悲しく、残念でたまりません。

 2020年春には出雲に行き、スサノオ・大国主建国論や八百万神信仰の世界遺産登録などを話し合いたいと新年に入って約束していたのですがコロナでダメになり、そのままで過ごしてしまったことが悔やまれます。

 馬庭君は建築史を専攻して京都・出雲・東京に設計事務所を開き、住吉大社造を始めとする神社・寺社建築や宗教施設、公共施設などの設計で多くの功績を残し、出雲の古代史では京大建築学科同期生では一番詳しいと自負し、出雲では高齢者福祉施設や保育所を経営する郷土愛にあふれる方でした。

 私が『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』の原稿を書いた時には読んで「間違いない」と出版を後押ししてくれ、屋根などの大改修中の出雲大社や西谷古墳群などを案内していただいたこともありました。その後もスサノオ・大国主建国論の研究を私が続けることになったのは彼のおかげです。

   

 また、馬庭君は福山敏男京大名誉教授と大林組プロジェクトチームによる48mの古代出雲大社復元に取り組むという出雲古代史において大きな成果を残しました(『古代出雲大社の復元―失なわれたかたちを求めて』)。

        

 しかしながら、私は縄文巨木建築と吉野ヶ里・原の辻遺跡の楼観から、出雲大社本殿の金輪御造営差図に書かれた「引橋長一町」は馬庭君が想定した「直階段(階:きざはし)」ではなく日本書紀に書かれた「高橋(桟橋)+浮橋(浮桟橋)」であり、外階段ではなく内階段との結論に達したので、私が書いたものを彼に送り、この4月には議論したかったのですが果たせないままになってしまいました。

 もしあの世があるなら彼と酒を飲みながら議論したいところですが(雛元はしつこいなあ、と言われそうですが)、馬庭君とやりたかった「八百万神信仰」の世界遺産登録へ向けて、48mの古代出雲大社の現地復元を提案し続けたいと思います。

 

<参考ブログ>

①ヒナフキンの縄文ノート(はてなブログ)

 ・33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考(200731・0825・0903→1226)

 ・50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ(210208)

②ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(gooブログ)

・140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判(221024)

・141 出雲大社の故地を推理する(221027)

・145 岡野眞氏論文と『引橋長一町』『出雲大社故地』(230110)

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スサノオ・大国主建国論7 イヤナミ・イヤナギの神生み

2023-01-25 16:51:17 | スサノオ・大国主建国論

 古事記はイヤナギ(伊邪那岐)・イヤナミ(伊邪那美)の国生みに続いて、神生みについて述べている。繰り返しになるが、通説の「イザナギ・イザナミ」読みに対し、伊邪那美が松江市東出雲町揖屋の揖屋神社に祀られている以上、「イヤナミ・イザナギ」読みにすべきである。「邪馬台国」を「やまたいこく」と読んでいる方は、「邪」を「や」と読んでいただきたい。

 

⑴ イヤナミ(伊邪那岐)・イヤナギ(伊邪那美)の神生み

 古事記に書かれた神々は次の表のとおりである。

 

 これを読むと、あまりにも多い御子の数、イヤナミの排泄物やカグツチ(火之迦具土)の血・死体、イヤナギの持ち物や黄泉の汚垢から生まれた神々など、実に不合理・不自然な神話といわざるをえない。

 

⑵ 「不合理神話無視」か 「合理的解釈追究」か?

 「聖書・キリスト」を後世の創作としたドイツのヘーゲル左派流の薄っぺらな「近代合理主義的解釈」の影響を受けた「記紀神話天皇家創作説」は、このような記紀神話の不合理・不自然な記述から、記紀神話は8世紀の創作として歴史的価値を認めていない。このような彼らの方法論によれば、逆に不自然・不合理記述のない歴史小説を真実の歴史とみなすことになりかねないのである。「嘘をつくなら上手に、バレないなように書く」ことなど想像もしていないのである。

 これに対して、私の記紀分析の方法論は「矛盾だらけの不合理・不自然な神話をできるだけ合理的に解釈する」というものである。

 一例をあげると、母の介助のために田舎に帰り、暇にまかせて揖保川町史を読んだとき、私の母方の祖先である「西脇太郎右衛門」は西本願寺合戦に参加し、その96年後など何度も名前がでてくるのでびっくりしたことがあった。ここから「町史は信用できない」「西脇太郎右衛門はいなかった」などと結論づけることはできないのである。母に聞くと、代々、長男は太郎右衛門、次男は次郎右衛門を襲名していたというからである。

 イヤナミが17人の御子を生んだというのは、石土毘古・石巣比賣、速秋津日子・速秋津比賣などが夫婦神であったとして14人になり、数からいっても、男女比からいっても明らかに不自然である。しかしながら、母系制社会においてイヤナミが襲名し、何代ものイヤナミの子孫たちが自らの祖先がイヤナミと名乗っていたとすると、イヤナミの子は多くなる。

 このように「襲名」という歴史的習慣を入れて考えるとイヤナミの17人の御子は後世の創作などとは言えなくなる。これに「嘘をつくならバレないようにする」という経験則を加えると、「イヤナミ17人御子後世創作説」は一意的には成立しないことは明らかである。

 

 

⑶ 「神」と「命」の使い分け

 イヤナミ・イヤナギの神生み神話において、イヤナギ筑紫日向(ちくしのひな)橘小門阿波岐原(あわきばる)で滌(みそぎ)をした時に黄泉の汚垢で汚れた水から生まれた、底筒之男(そこつつのお)命・中筒之男命・上筒之男命・月読命(つくよみのみこと)・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の5人は「」(太字表示)と書き、他の神々や月読・須佐之男の姉とされる天照大御神は「神」として書き分けている。

 まず基本的な点として、八百万神信仰ではすべての死者の霊(ひ)は神としてその子孫や人々に祀られるのに対し、「命」は「みこと=御子人」であり、先代王の霊継(ひつぎ)を受けた御子を指していることを押さえておかなければならない。そして、太安万侶はイヤナミ命・イヤナギ命(伊邪那岐命・伊邪那美命)と筒之男3兄弟と月読・スサノオだけをその「御子人(みこと)」として書いているのである。

このような書き分けを厳密に解釈すると、イヤナミが生んだ17神などは、前の世代(襲名の先代イヤナミの子であろう)で亡くなっているので神と書かれ、イヤナミ・イヤナギ・月読・スサノオとは同世代ではない可能性がある。

一方、月読・スサノオと同時に生まれた姉とされる「天照」は「御子=巫女」ではなく「大御神」としているが、これは天皇家の始祖神として「天照(あまてる)」を最高位の「大御神」として祭り上げるための太安万侶の創作と考えられる(その基本的な考えは天武天皇による指示の可能性が高い)。

 

⑷ 「天」族は「天神族」か「海人族」か?

 壱岐・対馬の海人族の「」(表1で赤字アンダーライン)が付くのは之吹上男神ら7人で、海神の大綿津見神、船神の鳥之石楠船神(鳥船)、綿津見神兄弟、筒之男3兄弟、スサノオを含めて海人(天)族で海洋交易に従事したと考えられる。

 また、水分(みくまり)神・國之水分神久比奢母智(くひざもち)神・國之久比奢母智神狹土(さづち)神・國之狹土神狹霧(さぎり)神・國之狹霧神闇戸(くらど)神・國之闇戸神のように夫婦神で「天(海人)」が付くのは壱岐・対馬の天(海人)族で、「国」が付くのは出雲の母系制社会の王女であり、妻問婚で入り婿となり名前を合わせたと考えられる。イヤナギ・イヤナミについても、元々は「天之イヤナギ」「国之イヤナミ」であった可能性が高く、父系制の天皇家に合わせて書き換えた可能性が高い。

 縄文時代から続く採集・栽培・漁労の妻問夫招婚の母系制社会から、船と交易を支配して富を蓄えた男系社会が誕生したことが読み取れる。

 

⑸ 「迦具土」のイヤナミ殺しとイヤナギの「迦具土」殺しが示す歴史

 イヤナミは火之夜藝速男(ひのやぎはやお)神(火之炫毘古(ひのかがびこ)神、火之(ひの)迦具土(かぐつち)神)を生んだ時に美蕃登(みほと:女性器)を焼かれて病み、その多具理(たぐり)(反吐)・屎(くそ)・尿から金山(かなやま)毘古・金山毘賣、波邇夜須(はにやす)毘古・波邇夜須毘賣、彌都波能賣(みづはのめ)、和久産巣日(わくむすひ)の6神が生まれたとされている。

         

 そして、イヤナギは母を殺したとしてカグツチを十拳剣(とつかつるぎ)で切り、その血から12神、死体から14神が生まれたとしている。

 不合理・不自然な神話的表現となっているが、「火之」が付くカグツチは火の神であり、6神はその名前から見て、それぞれ鉱山の神、粘土の神、水波の神、沸く蒸す霊の神(娘の豐宇氣毘賣(とようけびめ)は豊かな食べ物の姫)であり、縄文時代からの採集・栽培・漁撈に加えて、新たに火を使った新たな鉄・土器・食品づくりに従事した部族が生まれたと考えられる。

 このような死体からの再生神話は、切った種イモを大地に植えると再び生えて来ることから、大地に帰った死体から人が再び黄泉帰ると信じていた地母神信仰があったことが伺われる。

        

 そして、カグツチと襲名イヤナミの姉弟が争い、イヤナミを殺したカグツチをイヤナギが切った、という歴史があり、それを神話的に表現したと私は考えている。母系制社会の母イヤナミとその娘の襲名イヤナミと父系制社会の弟カグツチの後継者を巡る争いが起り、イヤナギがカグツチを切ったという歴史を神話的に表現したと考えられる。これは、後のアマテルとスサノオ、邪馬壹国の卑弥呼死後の女王派(壹与派)と男王派(弟王派)の争いと同じである可能性が高い。

 なお、カグツチの死体から生まれた8神の名前の正鹿山上津見(まさかやまつみ)神、淤縢山津見(おどやまつみ)神など、共通する「山上津見神、山津見神」については神名火山(神那霊山)信仰を示している可能性が考えられるが、まだ解明できていない。

 

⑹ イヤナミの埋葬とイヤナギの黄泉の国訪問

 古事記はイヤナミ神を「出雲国と伯伎国との堺の比婆山に葬った」とし、イヤナギが黄泉の国にイヤナギを訪ねた時の出入口の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」としている。

 この記述は、魂魄(こんぱく)分離の宗教思想により、イヤナミの霊(ひ=魂:玉し霊)は神名火山(神那霊山)である斐伊川・日野川の源流域の比婆山(霊場山)に祀られ、死体が葬られた伊賦夜坂(いふやさか)はイヤナミを祀る揖屋神社のある揖屋に葬られたことを示している。

  

 イヤナギは黄泉のイヤナミから「私を視ないで」と言われたにもかかわらず腐敗した死体を見てしまい、イヤナミは「私に恥を見せた」と黄泉醜女(よもつしこめ)さらには八雷神に千五百の黄泉軍を副えて追わせたが、イヤナギは黄泉比良坂の坂本の桃子3箇を取って待ち撃つと、ことごとく逃げ帰ったとしている。最後にイヤナミは自ら追ってきて、黄泉比良坂を塞いだ千引石をはさんでイヤナミは「汝の国の人草、一日に千頭絞殺しょう」と言い、イヤナギは「吾は一日立に千五百の産屋を立てよう」と言い、ここに一日必ず千人が死に、一日必ず千五百人が生まれるようになり、イヤナミは黄泉大神、道敷大神と呼ばれ、黄泉坂の石は道反大神、黄泉戸大神と呼ばれるようになったとしている。

 この黄泉の国訪問神話は、琉球や奄美諸島で明治時代まで行われていた死者を風葬する殯(もがり)がこの時代に行われており、遺体の腐敗の早い熱帯地方から伝わった海人族の同一文化圏であったことを示している。

 比婆山を安来市伯太町横屋の比婆山久米神社に充てる説が見られるが、山間地であり海洋交易民の海人族イヤナギが拠点としたとは考えにくく、縄文人からの信仰対象の神名火山(神那霊山)も見られない。一方、現在の広島県庄原市の比婆山は島根県・広島県・鳥取県の県境地域にあるきれいな円錐形の山であり、江の川・斐伊川・日野川の源流域であり、縄文時代からの神山天神信仰の神名火山(神那霊山)の3つの条件(重要な川の源流、円錐形火山、信仰対象)を満たしている。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「101 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使」「118 『白山・白神・天白・おしら様』信仰考」参照 

 スサノオがアシナヅチ・テナヅチの娘を助けてヤマタノオロチを切った場所を古事記は「出雲国の肥の河上の鳥髪」としているが、日本書紀の一書は「安芸国の可愛(え)の川上」(江の川の川上)」としており、比婆山のある出雲・安芸・伯耆(鳥取)・吉備の山域一帯は1つの地域とみなされていたことを示している。

 

⑺ 神名火山(神那霊山)の神山天神信仰と「ひ、ぴー」信仰

 この肉体から霊(ひ=魂=玉し霊)が分離して神名火山(神那霊山)やピラミッド型神殿や神籬(霊洩木)、神塔から天に昇るという宗教思想はアフリカから世界に広がり、日本列島には縄文人から続いている。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57  4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」参照

     

    

 出雲では女性が妊娠すると「霊が留まらしゃった」ということは出雲の同級生・馬庭稔君から教わったが、霊が留まる人・彦・姫は「霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)」である。さらに、霊が留まる女性器を琉球・奄美では古くは「ピー、ヒ―」、天草では「ヒナ」と言い、倭名類聚抄ではクリトリスを「雛尖(ひなさき)」としている。霊(ひ)信仰は女性器信仰に結びつき、男子正装の烏帽子(えばし=カラス帽子)の前には「雛尖」を付けているのである。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」「73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」参照

 この祖先霊の「ひ(琉球弁ではぴー)」信仰は、南インドのドラヴィダ族やチベット・ビルマ・タイ・雲南・台湾などにみられ、匈奴(ヒュンナ・ヒョンナ)・鮮卑も国名からみて霊(ひ)信仰であった可能性が高い。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「128 チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」「149 『委奴国』をどう読むか?」参照

      

 「2 私の古代史遍歴」で述べたように、始祖神の「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦名について、太安万侶は「高御産巣日(たかみむすひ)神、神御産巣日(かみむすひ)神」として太陽神であるかのように書き換えていることに注意する必要がある。同じように霊婆山(霊場山)が比婆山に、霊川が斐伊川に、霊の川が肥の川・日野川に、霊神山が火神山(大山)に、霊留山が蒜山に、沙霊女山が佐比売山(726年に朝廷の命令で三瓶山に名称変更)、鳥神が鳥神に置き換えられた可能性が高いと考える。

 私は「スサノオ=朱砂王・朱沙王=赤目製鉄王」とみており、製鉄遺跡の多い三瓶山周辺の佐毘(比)売山)神社が製鉄に関わる金山姫・埴山姫を祀っていることからみて、佐比売山の「佐(さ)」は「砂=沙(微粒子の砂)=砂鉄」を指すと考えている。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

 スサノオ・大国主建国を論じるにあたっては、アフリカからの人類史を大前提とし、縄文人の生活・宗教・文化に遡って分析する必要がある。また、天皇家によってスサノオ・大国主建国史が隠されるとともに、太安万侶は真実の歴史を巧妙に書き残す工夫を行っていることを見逃してはならない。

 熱帯アフリカで生まれた魂魄分離(魂と死体の分離)宗教と死者の霊(ひ)(魂)が天に昇り降りてくるという天神宗教、さらに活火山や高木から死者の霊(ひ)(魂)が天に昇るという神山・神木信仰、平地部での神山を模した人工ピラミッドや神木(神籬=霊洩木)・神塔信仰、天と地を結ぶ龍神・雷神・水神・神使信仰などの全体構造は次図のとおりである。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」参照

          

 

⑻ アマテル・月読(つくよみ)・スサノオの役割分担

 イヤナミの死後、イヤナギは出雲から「筑紫日向(ちくしのひな)橘小門(たちばなのおど)阿波岐原(あわきばる)」で禊(みそぎ)をして、黄泉の汚垢(おこう:汚れた垢)を洗い落して26の神・命(みこと)を生んだとし、最後に生まれたアマテル・月読・スサノオについて「三貴子を得た」と喜び、天照大御神には「汝は高天原を知らせ」と言い、月読命(つくよみのみこと)には「汝は夜の食国を知らせ」述べ、須佐之男命には「汝は海原を知らせ」と命じたとしたとしている。

 黄泉の国の汚垢から神々を生んだという黄泉帰り宗教としているが、実際には筑紫において各女王国の王女に妻問を行って御子をもうたのである。

 イヤナギは海人族の交易の支配をスサノオに託したのであり、「1 はじめに」で述べたように『三国史記』新羅本紀は4代目新羅国王の倭人の脱解(たれ)が紀元59年に倭国王と国交(筆者説:米鉄交易)を結んだとしているが、日本書紀がスサノオが御子のイタケル(五十猛=委猛)を連れて新羅に渡ったとしていることと符合し、新羅国王と国交を結んだ「委奴(ひな)国王」はスサノオ以外には考えられないのである。

 この海人族の委奴国の天王・スサノオの地位は、52代嵯峨天皇が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として「正一位(しょういちい)」の神階と「日本総社」の称号を尾張の津島神社に贈り、さらに66代一条天皇が「天王社」の号を同じく津島神社に贈っていることにより、天皇家公認の史実として裏付けられるのである。

   

⑼ スサノオは大兄(長兄)

 古事記はアマテル・月読(つくよみ)・スサノオの順に生まれたとしているが、「3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法」で書いたように、スサノオは「僕は妣(はは)の国・根の堅洲国に行きたい」と「八拳須(やつかひげ)、心(むね)の前にいたるまで啼(な)きいさち」「青山は如く枯山に泣き枯らし、河海は悉く泣き乾し」たというのであり、スサノオは出雲でイヤナミから生まれた長兄としているのである。太安万侶はスサノオを「泣き虫」と貶めながら、巧妙に真実の歴史を書き残しているのである。

 イヤナギはイヤナミの死後、スサノオを連れて筑紫日向(ちくしのひな)(旧甘木市の蜷城(ひなしろ))に行き、筑紫の各地の女王・王女と妻問いして26神をもうけ、スサノオは長兄として海人族の志賀島を拠点とする綿津見3兄弟や博多を拠点とする筒之男3兄弟、さらには宗像族の宗像3女神などの海人族を率い、新羅との米鉄交易や後漢との朝貢貿易を進めたのである。

 皇国史観は出雲大社正面に祀られた「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦を始祖神とするのではなく、天照大御神(あまてるおおみかみ)を天皇家の始祖神とするためにスサノオの姉としているが、古事記をきちんと読めばスサノオの異母妹なのである。

 なお、イヤナギの囊(ふくろ)から時量師(ときはかし)神が、右目を洗った時に月読命(つくよみのみこと)が生まれたとしているが、この時量師と月読は月の動きを観察して暦をつくる役割を担っていたと考えられ、イヤナギの「夜の食国(おすくに)を知らせ」という指示は夜に月を観察して暦をつくり稲などの栽培時期を決定する「食国を支配する」役割を月読が担っていたことを伝えている。

 

⑽ 81神の存在証明

 イヤナミ・イヤナギの神生みに登場する81神などの実在性については、壱岐の月読神社(月読を祀る元宮)のようにその神が子孫や部族によって神社に祀られているかどうか、地名由来人名に符合する地名が残っているかどうか、職業由来名が符合するかどうか、さらには祖先・先人の襲名が後世に見られるかどうか、伝承が残っているかどうかなどから裏付けることが可能である。 

           

 今回は81神の全体について個々に検討は行っていないが、以後の分析で関連する神名については分析することとする。興味のある若い方は、是非とも系統的・全体的な考察の挑戦してみていただきたい。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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スサノオ・大国主ノート145 岡野眞氏論文と「引橋長一町」「出雲大社故地」

2023-01-10 20:36:35 | スサノオ・大国主建国論

 縄文社会研究会・東京で事務局長であった山岸修氏がALSを発症し、昨年の8月末、「小生も日日、前向きにガンバル所存です」のメールとともに手持ちの縄文社会研究会の資料を送っていただいたのですが、12月19日治験入院中に感染で亡くなられたという残念な悲しいことがありました。

 そこで、遅まきながらその資料を子細に見直すと、私が入会する前に岡野眞氏(香川大学教授)が報告された2010年3月発行の『社叢学研究』の「古代・出雲大社の立地場所をさぐる」という論文の抜き刷りがありました。

 そこには図-3の宝治2年(1229年)造営と図-4の8世紀頃の立地環境図が載せられており、私の「引橋長一町=桟橋・浮橋説」と「出雲大社故地八雲山-琴引山線上説」を裏付けていたので、ここに紹介したいと思います。

 

<参考資料ブログ>

・スサノオ・大国主ノート130 『古代出雲大社』は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か? 190408→200208

・ヒナフキンの縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」 200731→200825→1226

・ヒナフキンの縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203

・ヒナフキンの縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107

・スサノオ・大国主ノート140  縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判 221024

・スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する 221027

 

1.出雲大社の「引橋長一町」は直階段(階:きざはし)ではなく「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」

 縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」において私は次のように、古出雲大社の復元図・模型作成にあたって構造的にも弱く耐久性がなく、建築足場を必要とする直階段と解釈したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」を木デッキ(桟橋)ではなく、直階段(階=きさはし)と誤って解釈した誤りであることを明らかにしました。

        

<縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考>

 48mの中古の出雲大社は外直階段ではなく、神籬である「心御柱」を中心にした廻り階段であり、後の仏塔の「心柱」に受け継がれたと考えます。外階段は横風を受けて構造的に弱く、廻り階段の内階段だと建築用の足場を外側に組む必要がなく合理的です。

 考古学者や建築家たちが長い外階段と錯覚したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」と書かれた長方形の図を直階段と勘違いしたもので、階段なら「きざはし(階)」と書いたはずですし、「登る橋」なら階段になりますが「引く橋」では階段になりません。「引橋長一町」は100m長の海岸から本殿へ続く木デッキであり、全国各地からの神々の舟を引いて係留し、本殿に人々を導いたのです。

 さらに「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」では、日本書紀に「天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれていることに気付き、「引橋長一町」が「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」であることを追加しました。

 

<縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ>

 日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう。又天安河には、打橋を造ろう」と書かれており、天日隅宮(天霊住宮=出雲大社本殿)の前には海に出て鳥船(帆船)で遊ぶための高橋(木デッキ)と浮橋(浮き桟橋)があり、天日隅宮の傍の天安河(素鵞川か吉野川の旧名の可能性)には打橋(木か板を架け渡しただけの取りはずしの自由な橋)があったのです。

 前者の「高橋+浮橋」が「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」であり、条里制の「一町」=109mで計算すると、拝殿前の銅の鳥居(四の鳥居)のあたりが水辺であったと考えられます。

 なお、この時には注目しませんでしたが、図15の「引橋長一町」の下には左右に開いた細く短い両端に〇のついた絵が描かれていますが、これこそが「浮橋(浮き桟橋)」を描いているのであり、図に吹き出しで日本書紀からの説明を付け加えました。

2.「引橋長一町」を必要とする出雲大社の立地条件

 以上の私の主張は、図16の地形図などから出雲大社本殿から「1町=109m」が満潮時や増水時には水没するような地形であったことを想定したものでしたが、岡野氏作成の13世紀、8世紀の出雲大社立地環境図によれば、現在の出雲大社の前面は8世紀に「湿地性低地帯」であったとされています。さらに古い2世紀の出雲大社造営の際には沖積が進んでいなかった可能性が高く、大国主が舟遊びをする「引橋長一町」の「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」が必要であったことが裏付けられました。

 なお大国主時代の杵築大社(きづきのおおやしろ)=出雲大社の創建年を紀元2世紀とする筆者説については、ブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート131 『古事記』が示すスサノオ・大国主王朝史」「ヒナフキンの縄文ノート24 スサノオ・大国主建国からの縄文研究」、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)などを御参照ください。

 

3.出雲大社の旧社地について

 私は地域計画や建築計画のプランナーとして道の駅や物産館、各種公共施設の立地計画にも携わってきましたが、どこに立地させるかについては、その施設の目的と用途に応じて誰もが納得できる場所とする必要があります。

 宗教施設となると神聖な場所としての条件が何よりも重要であり、死者の霊が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りてくるという八百万神の共同祭祀の場所としてふさわしくなければ多大な共同建設作業に住民を動員することなどできません。

 私は3度の出雲大社見学で現在の本殿が八雲山からズレた場所に立地し、しかも東西北を山に囲まれて見えにくい位置にあることに疑問を抱き、「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」で神名火山(神那霊山)である八雲山と琴引山を結ぶ線上の、出雲平野や日本海から見える場所で、真名井から神水をえられる場所こそ大国主が求めた立地点と考え、その場所を現在の本殿の当方で真名井に近い場所と推理しました。

 今回、岡野眞氏も図2のように現在の出雲大社より東の真名井神社あたりまでを旧社地として想定しており、岡野氏指摘のように集中豪雨時の素鵞川・吉野川の洪水・土砂災害を避ける上でも両河川の扇状地を避けた場所の可能性が高いと考えられ、現在の命主社(いのちぬししゃ)と出雲の森・涼殿あたりに大国主の杵築大社があった可能性が高いと考えます。

 

     

 岡野眞氏(香川大学教授)は「河川・地盤の立地環境」と「磐座・神木・神水祭祀」から出雲大社の故地について推定し、私は「神名火山(神那霊山)信仰」と「引橋(桟橋と浮橋)を必要とする地形」、「真名井の神水」から古出雲大社の場所を推定しましたが、北島家・千家家、真名井神社などに伝わる伝承などによりその位置は確定できるのではないか、と考えます。

 霊(ひ)と霊継(ひつぎ)(DNA=命のリレー)を大事にし、全ての死者が神として祀られる大国主の八百万神信仰は、旧約聖書一神教以前の全世界の人類共通の宗教であり、戦争・殺戮のない世界の実現に向けてその歴史をアピールすべきであり、そのためにも出雲大社故地からの巨木3本柱の柱痕の発見・発掘と、縄文巨木建築の伝統を受け継いだ世界最高の48mの出雲大社の復元、さらには世界遺産登録運動を進めることを期待したいと思います。

 

4.杵築大社の名称について

 古事記は出雲大社について「僕住所」「天之御巢」「天之御舍」「天之新巢」と書いており、大国主の住まいを天の巣のような高層建築として描き、出雲国風土記が「天下造所大神之宮」を「杵築」としていることからみて、元々は「杵築大社(きづきのおおやしろ:延喜式)」と呼ばれていたと考えられます。

 「杵築」について荻原千鶴訳注の『出雲国風土記』は「地面を突き固め」としていますが、斐伊川上流に「木次」の地名があることから考えると、「杵築」「木次」ともに後世の当て字であり、「きづき」は「木継き」で、3本柱の先に1本の柱を継ぎ足して48mの巨木建築とした可能性があると私は考えます。古代人にとってびっくり仰天の高層神殿の特徴を「木継で作った社」と表現したのではないでしょうか。

    

 日本一高い峰定寺の神木の「花脊(はなせ)の三本杉」のうち1本が62.3mであるものの、自然状態の縄文杉が最高45mであることから考えて、3本柱をただ束ねて48mの高層神殿とした可能性も否定はできませんが、運搬や建築の容易さから考え、上部の建物部分のところで3本柱の真ん中に柱を挟んで1本柱に置き換えたものを神殿とした可能性が高いと私は考えます。3本の木を束ねた無骨な柱は想定できません。

 上部の神殿部分はまずデッキをこしらえ、あらかじめ地上でおおまかに木組み全体を加工しておいた部材を心御柱を中心にした内部階段でこのデッキに運び上げ、調整しながら組み立てたと考えられます。内部階段の塔にすれば、建築用足場を周りに組むこともなく、容易に建築は可能です。

 なお、出雲大社の9本柱の中央の「心御柱」は、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)かれ天に昇り、降りて来てさらに里に下りた際の依り代である神籬(霊洩木)であり、縄文時代から続く霊(ひ)信仰を示しているという筆者の主張は縄文ノート「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」をご参照下さい。

 

5.木柱の謎の4角穴

 次の写真左のように、出雲大社の埋もれていた3本組木柱に四角い穴(貫通している貫(ぬき)なのかどうかは不明ですが)が2つ、交差して掘られていることは構造上の重要な点です。

 この穴については、右写真の諏訪の「御柱祭」でみられる「桟穴(えつり穴)」の可能性があり、同一の建築技術を示しており、運搬用の材の可能性があります。

 しかしながら、御柱祭ではこのような直角の桟(さん)をもうけず単に柱に穴を開けて引っ張るものもあり、運搬のためには必要のないものであり、それは出雲大社の柱についても同じです。

 そこで私が考えた仮説は、横棒を通して埋めて引き抜き力に抗し、48mもの塔状の神殿が強風などに対して倒壊するのを防いでいた構造材であるというものです。横風を受けると風上側の柱には引き抜き力が加わり、風下側の柱には押し込み力が加わるのですが、この引き抜き力に抗するために横に桟をつけたというものです。杉が直根だけでなく横に伸びた側根で倒壊を防いでいるのと同じ構造を出雲大社では人工的に作り、周りを石で埋めた構造としていた可能性です。

 杉が防風林として使われるように倒壊しにくいことを知っていた古代人はその根が横に張る構造を人工的に作り出し、48mもの高層楼観を作り出したのではないでしょうか?

 ただ、出雲大社の土中柱の写真では2つの四角穴が建物とどういう角度となっているのか判然とせず、またその横桟の木材が土中に残っていないのがこの仮説の難点であり、今後の研究課題です。

 

おわりに

 今回、故・山岸修さんから託された資料から、岡野眞氏の『社叢学研究』の論文「古代・出雲大社の立地場所をさぐる」に出合うことができ、私の出雲大社故地の仮説が立地環境からも裏付けられたことは想定しなかった喜びです。縄文社会研究会を主宰された上田篤先生と講演された岡野眞氏、故・山岸修氏に感謝したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

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スサノオ・大国主建国論6 壱岐・対馬の海人族の国生み神話

2022-12-22 17:12:33 | スサノオ・大国主建国論

 前回の「別天神(ことあまつかみ)五柱」「神世七代」に続き、その最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)(以下、イヤナギ・イヤナミと表記)のオノゴロ島への「天降り」、「14の島生み」について分析を進めたい。

 

⑴ 「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」意宇川河口の揖屋

 天神(あまつかみ)たちは「この漂へる国を修理し固め成せ」と言って、イヤナギ・イヤナミを天の浮橋に立たせて「天の沼矛」を指し下して塩をこおろこおろにかきまぜ、矛の先よりしたたり落ちた塩が積もって「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」ができたとし、倉野・古事記注は「天の浮橋」を「神が下界へ降りる時に天空に浮いてかかる橋」とし、「オノゴロ島」は「自然に凝って出来た島の意。所在不明」としている。

 この「オノゴロ島」については、淡路島北岸の淡路市「絵島説」(本居宣長)、淡路島南の南あわじ市「沼島説」、淡路島東の和歌山市「友ケ島(沖ノ島)説」、福岡市の「能古島説」(古田武彦)などがみられるが、私は「オノゴロ」という島名の意味、イヤナミの名前と墓所、イヤナミを祀る揖屋神社からみて、出雲の意宇川河口の東出雲町の「揖屋説」を提案してきた。

    

 まず「オノゴロ島」は「塩が積もって自ずから凝(こ)った島」とされていることからみて、河口の葦原の沖積地(現揖屋平野)の可能性が高い。古事記はイヤナミが葬られた黄泉の国の入口の黄泉比良坂を出雲国の「伊賦屋坂」とし、イヤナミを祀る揖屋神社があることや、イヤナミの霊(ひ)が葬られたのが意宇川上流の比婆山(霊場山)であることからみて、「オノゴロ島揖屋説」しかありえないと考える。

 淡路島の周辺の絵島説・沼島説・友ケ島説は後述の国生み神話が淡路島から始まっていることと大和中心史観に影響されたものであり、能古島説は「のこ島」と「オノゴロ島」の「能古=能碁」の類似と邪馬台国九州説から考えられたものであるが、出雲のイヤナミの揖屋とは程遠い場所であり、葦が生えるような汽水域のある島ではなく、明確な根拠はない。

 本居宣長の淡路島の「絵島説」であるが、絵島の岩屋には学生時代によく通ったが小さな岩礁であり、そこに天御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)など建てられるはずもなく、この点だけからみても本居宣長は皇国史観の空想家にすぎず、天照大御神を「あまてる」でなく「あまてらす」と読ませるなど信用していない。

        

 なお、倉野・古事記注は「天の浮橋」を「天空の橋」としているが、「イヤナギ・イヤナミを天の浮橋に立たせて」という記述は壱岐の海人族の王(天神(あまつかみ))たちが浮橋(浮き桟橋)からイヤナギたちを出航させて(=立たせて)対馬暖流を下らせたことを表現しているにすぎない。

 また「淤能碁呂嶋(おのごろじま)」は「自ずと凝って出来た島」とされているが、「オのゴロ島」で、「意宇川(おう郡のおう川)」の「ゴロ島」を指していた可能性もある。意宇川上流にはスサノオを祀る熊野大社、中流にはイヤナギ・イヤナミを祀る神魂(かもす)神社(醸す=産む)やスサノオと稲田姫を祀る八重垣神社があり、後にこの地には出雲国庁や出雲国分寺が置かれた東出雲の中心地の歴史的に重要な地域であり、海人族はその意宇川の河口の中州(ゴロ島)を「オのゴロ島」と称した可能性もある。

 

⑵ 天下りしたのは海人(あま)族のナギ

 古事記によるとイヤナギ・イヤナミは一緒に揖屋に天下り、そこには天御柱(あめのみはしら)と八尋殿(やひろどの)があり、イヤナミが「あれまあ、いい男」と先に言って天御柱を廻ってセックスしたところ、水蛭子(ひるこ)が生まれたので葦船に入れて流し、次に淡島を生んだとされている。

 しかしながら、男は海に出て女は家を守る母系制の海人族の伝統は現在の漁家にまで伝わっており、それは男は戦にでる武家や専業主婦時代のサラリーマンにまで引き継がれている。このような母族社会においてイヤナミが男たちに交じって航海にでたとは考えにくく、ナギ(凪)だけが出雲の「揖屋」に交易にきたとしか考えられない。そこには天御柱(あめのみはしら)を神籬(ひもろぎ=霊洩ろ木:依り代)とし八尋殿を拝殿とする部族がいたのであり、その女王あるいは王女の「揖屋ナミ」にナギは妻問いし、「揖屋ナギ」と名乗るようになった可能性が高い。

 亀岡市にある丹波国一宮の出雲大神宮では大国主は「三穂津彦大神・三穂津姫」の夫婦名で祀られ、妻の「三穂津姫」の名前に合わせて「三穂津彦」と名乗っている。同じように海人族のナギは妻の「揖屋ナミ」に妻問いして入り婿となり「揖屋ナギ」を名乗るようになったのである。播磨国一宮の伊和神社に祀られている大国主が「伊和大神」と呼ばれているのも、この地の「伊和媛」(播磨国風土記に登場する石比売(いわひめ))に妻問いしたとみられる。

 古事記の「意富斗能地(おほとのぢ)・妹大斗之辨(いもおほとのべ)」や播磨国風土記の「伊和大神」の子の「阿賀比古(あがひこ)・阿賀比売(あがひめ)」「伊勢都(いせつ)比古・伊勢都比売」「石龍(いわたつ)比古・石龍比売」「玉足(たまたらし)日子・玉足比売」など多くのヒコ・ヒメ名の夫婦神は、妻問夫招婚により「○○姫の婿の○○彦」と名乗ったことを示している。

 なお、「天御柱」は平原遺跡や吉野ヶ里遺跡の「大柱」や、壱岐の古名の「天一柱(あめのひとつばしら)」、さらには出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」、仏塔の「心柱(しんばしら)」、住宅の「大黒柱」、諏訪や播磨の広峯神社の「御柱」と同じく、祖先霊の依り代(よりしろ)である「神籬(ひもろぎ)(霊洩木)」を示しており、そのルーツは縄文時代の木柱や巨木柱列に遡る。―はてなブログ・縄文ノート「33  『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 ここで注目したいのは八尋殿(やひろどの)で、「八尋(やひろ)」は両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍で14.4mになり、青森市の三内丸山遺跡の大型建物の短辺の長さが長さが15m、出雲大社の正面幅13.4mとほぼ合致しており、縄文時代からイヤナミ、大国主の時まで同一スケールの建築技術が続いていたことを示している。―はてなブログ「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

     

 古事記はイヤナミが先に誘ってセックスしたところ骨のないヒルのような水蛭子(ひるこ)が生まれて海に流したというショッキングな流産話を載せているが、尊称「アマテル(天照)」の名前が「オオヒルメ(大日孁、大日女)」(筆者説:大霊留女)であることや「ヒミコ(卑弥呼=霊御子=霊巫女)」からみて、母系制社会の「ヒルメ・ヒルコ」の「女主導の婚姻・セックス」による「日留子(ひるこ)(霊留子)」誕生の話を「水蛭子(ひるこ)」誕生話に置き換えて否定し、父系制社会の「男主導の婚姻・セックス」に置き換えたものと考えられる。

 

⑶ 国生み神話

 「イヤナギ・イヤナミ」夫婦は水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだのちに、今度は天御柱を分かれて廻りイヤナギが先に「あれまあ、いい乙女」と、次にイヤナミが「あれまあ、いい男」と言ってセックスし、図2・3、表1のような順に国土を生んだとしている。

 行きに「(1)淡道之穂之狭別島、(2)伊予之二名島、(3) 隠伎之三子島、(4)筑紫島、(5)伊岐島、(6)津島、⑺)佐渡島、(8)大倭豊秋津島」を、還りに「①吉備児島、②小豆島、③大島、④女島、⑤知訶島、⑥両児島」を生んたというのである。

 神話的表現となっているが、「乗船南北市糴(してき)」(市糴(してき)=市+入+米+羽+隹(とり))の鳥船(帆船)による米鉄交易を行っていた壱岐・対馬の海人族が鉄先鋤を持って米の生産・交易圏を広げていった歴史を示しており、その範囲は対馬暖流と瀬戸内海であったと考えられる。すべての国が「島」と呼ばれていることであり、これは海人族が交易を通して拠点を広げたことを示している。

 問題は、「伊予之二名島」は「伊豫国、讚岐国、粟国、土左国」から、「筑紫島」は「筑紫国、豊国、肥国、熊曾国」から構成されているとしているが、他の島からみてもこの時代には陸地の面的な支配には及んでおらず、太安万侶は「表裏表現」(天皇家支配の権威を高めながら真実の歴史を示す)として、「島」の中に「国」を置くという表現を意図的に行ったと考える。

 「大倭豊秋津島」も倉野憲司注は「大和を中心とした畿内地域の名」としているが、「大倭」を除くと「豊秋津島」であり、古田武彦説の国東半島の大分空港のあるあたりの「安岐町」の安岐川河口の中州を指しているか、あるいは「豊」の勢力が進出した「安芸」の「津島(厳島など)」の可能性が高い。

 「伊予之二名島」は宇和島市に「二名(ふたな)」地名があることからみて「二名島」(比定地不明)が瀬戸内海にあった可能性があり、「筑紫島」も「筑紫の島」(陸地続きになる前の糸島など)の可能性が高いと考える。

 また「知訶島、両児島」は倉野注では長崎県の「五島列島、男女群島」に比定しているが、別名の「(あめ)之忍男(のおしお)(あめ)両屋(ふたや)」に「天」が付いていることからみて、博多湾沖の志賀島(近島伝承)、山口県の双子島の可能性が高いと考える。「女島」については、倉野注では大分県国東半島の北にある「姫島」の可能性が高いが別名の「(あめ)一根(ひとつね)」からみると山口県の「女島」の可能性も考えられるが、瀬戸内海への進出拠点として「姫島」と比定した。

 筆者説の図3をみていただくと、壱岐・対馬の海人族が玄界灘・響灘から対馬暖流に乗って沖ノ島・佐渡島へ、瀬戸内海を厳島、大島、児島、小豆島、淡路島へと米鉄交易圏・稲作圏を広げていたことが浮かびあがる。

 図4のように玄界灘を中心にした古名「天(あめ=あま)」の付いた島々が壱岐・対馬から海人族が第1段階として交易拠点を広げた島々であり、さらに第2段階として筑紫島や佐渡島、伊予の二名島から淡路島へと拠点を広げ、第3段階として筑紫の沿岸・内陸部や出雲などに稲作拠点を広げたのである。

   

 古事記は行きに東から西へと「淡路島→隠岐島→筑紫島→壱岐→対馬→佐渡島→豊秋津島」と国づくりを進め、還りに「吉備児島→小豆島→大島→女島→知訶島→両児島」と国づくりを進めたとしているが、還りもまた東から西へと西進しており、明らかに矛盾している。

 太安万侶のこのような矛盾した表記こそまさに古事記を貫く「表裏表記」であり、天皇家中心史を書きながら、同時に「行きは東進、還りは西進」という真実の歴史を手掛かりとして残したのである。「ありがとう」と言わざるをえない。

 ニニギについて大山津見の呪いで「天皇命(すめらみこと)等の御命長くまさざるなり」と書きながら、その孫のホホデミについて580歳(スサノオ・大国主16代の歴史を秘かに伝えるための調整)と書いているのと同じ巧妙な真実を伝える手法である。

 太安万侶を馬鹿にした薄っぺらな近代合理主義の反皇国史観から離れ、中国の司馬遷に匹敵する「史聖・太安万侶」として見直すべきと考える。ただ司馬遷は直球であるが、太安万侶は変化球であり、推理力を働かせ、複眼的に読まないと真実の歴史は見えてこないのであるが。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原」の修正

2022-12-04 18:25:56 | スサノオ・大国主建国論

 「スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原」の次の表2を修正し、図1を追加しました。

 情報が多すぎてわかりにくい図ですが、高天原卑弥呼王都説、邪馬壹国(邪馬台国)甘木高台説の要となる図ですので追加しました。 雛元昌弘

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スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原

2022-12-02 10:40:17 | スサノオ・大国主建国論

 古事記は「高天原(たかまがはら)」での「別天神(ことあまつかみ)五柱」「神世七代」から始まり、その最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)(以下、イヤナギ・イヤナミと表記)の「天降り」「14の島生み」「35の神生み」に続く。

 「高天原(たかまがはら)」については、天上の国とする本居宣長らの皇国史観(天皇神の国史観)、「高天原」を8世紀の創作神話とする反皇国史観、高天原を地上の場所とする3つの歴史観に分かれ、高天原の「天津神(あまつかみ)=天皇家」、地上の葦原中国の「国津神(くにつかみ)=スサノオ・大国主一族」と区分する皇国史観亜流(天皇の国史観)の歴史家が未だにみられるが、古事記のまっとうな解釈から反論したい。

 高天原地上説では古くは奈良県御所市高天説(金剛山=高天原山)、茨城県説(常陸国多賀郡:新井白石)、宮崎県高原町説(高千穂峰の麓)、宮崎県高千穂町説(高千穂神社等)などの他、朝鮮半島説、壱岐説(古田武彦氏)、甘木説(高天原=邪馬台国王都説:安本美典氏)などがみられるが、私は古事記・日本書紀の王名・地名分析から2つの高天原(壱岐説・甘木説)があったと考えている。

 なお、古事記の読み下し文は倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫:以下倉野・古事記と略)をもとに、一部、現代化して示した。

 

⑴ 2つの高天原

 古事記は「天地初発時」から始まり、太安万侶は序文で「根元すでに凝(こ)りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰かその形を知らむ」と解説し、天地はもともとあったとしている。人類誕生からの事実に即しており、神が天地や人を作ったという旧約聖書のような空想の神話ではない。

 そして、「高天原」に天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)(日本書紀:高皇産霊(たかみむすひ))、神御産巣日(かみむすひ)(同:神皇産霊(かみむすひ))(以下、タカミムスヒ・カミムスヒと表記)、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)、天之常立(あめのとこたち)の別天神(ことあまつかみ)五柱が現れたとしている。

 『新唐書』が「天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡(およそ)三十二世・・・居筑紫城」と遣唐使が述べたと書いていることからみても、この高天原が地上の筑紫にあったことは古代人には常識であった。そして、この5神(死者には神をつける)は出雲大社正面に「御客座五神」として祀られていることからみて、スサノオ・大国主一族の始祖神であり、5神が活躍した場所は出雲ではないこと明らかである。「別天神(ことあまつかみ)五柱」と古事記が記しているのは、出雲大社客座に祀られた5柱が他の地域から別れて分祀されたことを示しており、太安万侶はちゃんと真実を伝えているのである。

 古事記は大国主が八十神に殺されたとき、大国主の母は天に参上してカミムスビに助けを求めたところ、赤貝比売と蛤貝比売を派遣して「母の乳汁」を塗って蘇生させたとし、子の少彦名を送って大国主の国づくりを助けたとしていることもまた、対馬暖流をさかのぼって海人(あま)(天)族の拠点の壱岐(天一柱)のカミムスヒ(代々襲名)に治療法を求め、農業や酒造り・医薬の技術者である少彦名の派遣を求めたという伝承を示している。

 この別天神(ことあまつかみ)五柱がいた国は、「天御中主(あめのみなかぬし)」の名前由来の壱岐の「那賀・中野郷」地名や、津馬(対馬)の古名の天狭手依比売(あめのさでよりひめ)、壱岐島の古名の天比登都柱(あめのひとつはしら)などから見て、海人(あま)(天)族の拠点である壱岐以外にありえないが、詳しくは国生みのところで詳述したい。

 なお、八百万神信仰の古代人は人は死ぬと肉体から霊(ひ)が分離して天に昇り、神になると考えており、亡くなった歴史上の人物を語る時には「神」を付けている。倭人にとっての神はユダヤ・キリスト・イスラム教の天地人創造した空想のゴッドとは異なり、霊(ひ)=スピリットの意味である。

 中国人にとっては「神=示(高杯にものを乗せる)+申(稲妻の象形文字)」「霊=雨+巫」「魂=云(雲・湯気)+鬼」「鬼=甶(頭蓋骨)+人+ム(跪く姿)」であり、いずれも天に昇った祖先霊が雷・雨・雲となることを指している。

 第2の「高天原」はイヤナギが筑紫日向橘小門阿波岐原(ちくしのひなのたちばなのおどのあわきばる)の安河で禊ぎを行い、天照大御神(以下アマテルと表記)らを生んだ地上の「天原(あまばる)」の高台である。記紀に書かれたこの高天原に関係する地名は筑後川上流の旧甘木市(天城由来の地名)にワンセット残っており、「5W1H」を満たした地上に実在した高天原の伝承である。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照 

 ただ、安本美典氏は「邪馬台国」を「やまだ国」と読み、平地の馬田を卑弥呼=アマテルの王都としているが、甘木(天城)の平野部の馬田なら「天原(あまばる)」になるはずである。「高天原(たかあまばる→あたかまがはら)」は「筑紫日向(ちくしのひな)」の地名を現代に残す甘木(天城)の「蜷城(ひなしろ)」の背後の高台を指していると見なければならない。

 スサノオが高天原に参上したときに「山川悉動、国土皆震」としているのは、軍勢が足音を立てて坂を登った様子をリアルに表現しており、スサノオ・大国主建国論4で述べたようにこの伝承は邪馬台国・卑弥呼姉弟の後継者争いの伝承を16代遡らせてスサノオと義妹アマテルの神話に置き換えたものである。

 以上、古事記をまともに読めば、天上の「高天原神話」は皇国史観(天皇神国史観)の空想であり、地上の高天原は壱岐と甘木に実在したのである。

 

⑵ 「参神造化之首」「二霊群品之祖」とは

 古事記序文で太安万侶は「乾坤初めて分かれて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて二霊群品の祖となりき」と書いている。

 倉野注は「参神」を天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)、神御産巣日(かみむすひ)とし、「二霊」をイヤナギ・イヤナミとしているが、タカミムスヒ・カミムスヒを日本書紀が高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)と書いていることからみて、「二霊」は霊(ひ)を産む「産霊(むすひ)夫婦」以外にありえない。

 太安万侶は本文では別天神(ことあまつかみ)五柱を「独神(ひとりがみ)」としながら、序文では「二霊群品の祖」としてタカミムスヒ・カミムスヒを人々を生んだ神として真実を伝えている。太安万侶の巧妙な表裏二重表現である。

 始祖神のアメノミナカヌシについて、倉野・古事記の注は「高天の原の中心の主宰神」としているが、博徒・香具師の「手前生国と発しまするは○○にござんす」と述べる初対面の仁義や戦国武将の「やあやあ我こそは△△の住人、〇〇なり」の名乗りと同じで、古代人にも「地名+名前」の命名が多いことから解釈すべきである。

 アメノミナカヌシは前述のように海人(あま)族の壱岐の「那賀・中野郷」の王であり、この中野郷には壱岐国分寺があり、未発見であるが国府が置かれていた可能性も高く、近くには鬼の岩屋古墳があり、壱岐の中心地であった。

    

⑶ 宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)と天之常立(あめのとこたち)

 ムスヒ夫婦の次の宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)と天之常立(あめのとこたち)については、倉野・古事記の注は「葦の芽を神格化して成長力を現わしたもの」「天の根元神」として空想上の神と解釈している。

 しかしながら「うましあしかびひこぢ」は「美味い葦の若芽の霊子児(ひこじ)」であり、葦原が広がる国を名前にしており、壱岐の「芦辺」地名の地域の王と考えられる。

 「あめのとこたち」は壱岐の別名が「天比登柱(あめにひとつばしら)」であることからみて、縄文時代からの立石(石棒)にちなんだ地名由来の王名の可能性が高く、壱岐の「立石」の王と考えられる。

 諏訪の阿久遺跡の環状列石の中央に置かれた神名火山(神那霊山)の蓼科山に向かう「立石・列石」のような縄文遺跡は壱岐ではまだ見つかっていないが、壱岐には郷ノ浦町の名切遺跡など縄文遺跡が23か所も確認されており、「立石」の地名からみていずれ同様の遺跡が見つかる可能性は高いのではなかろうか。

      

 なお、天下原遺跡からは「セジョウ神」と呼ばれている石の祠の下から中広型銅矛3本が発掘されているが、天ケ原(海人原か)地名の起源がどこまで遡るのかは確認できていない。何らかの伝承が残ってはいないのであろうか?

          

⑷ 神世七代

 別天神(ことあまつかみ)柱に続く神世七代は、国之常立(くにのとこたち)神と豊雲野(とよくもの)神は独神であるが、角杙(つのぐひ)神・妹活杙(いもいきぐひ)神、宇比地邇(うひぢに)神・妹須比智邇(いもすひぢに)神、意富斗能地(おほとのぢ)神・妹大斗之辨(いもおほとのべ)神、於母陀流(おもだる)神・妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)神、伊邪那岐(いやなぎ)神・妹伊邪那美(いもいやなみ)神は夫婦神となり、母系制社会の祭祀を司る女王と漁撈・交易に従事する男王の共同統治の時代に入り、部族から選出されたリーダーとしての王から、世襲王への転換が起きていた可能性がある。

 表1に整理したように、王名も「国之常立(くにのとこたち)(立石地名からか)」や「宇比地邇(うひぢに)・須比智邇(すひぢに)(霊地地名からか)」などの地名由来名から、「豊雲野(とよくもの)=豊の久米(くも=くめ)」のような地名部族名や「角杙(つのぐひ)・活杙(いきぐひ)」の「城柵の杙づくりの技術者名」、「意富斗能地(おほとのぢ)・大斗之辨(おほとのべ)」の「大殿」という尊称名、「於母陀流(おもだる)・阿夜訶志古泥(あやかしこね)」のような「面足(整った顔)・あや賢児根(ああ賢い児)」という形容個人名に変わってきている。

 なお最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)であるが、日本書紀は伊弉諾・伊弉諾と表記し、通説は「イザナギ・イザナがミ」と読ませているが、邪馬台国を「ざまたいこく」ではなく「やまたいこく」と読みたい人は「イヤナギ・イヤナミ」とよむべきであろう。延喜式神名帳に登場する「伊耶那岐神社」など各地に「伊耶那岐神社」「伊耶那美神社」や「揖夜神社」があることからみても「イヤナギ・イヤナミ」と呼ばれていたのである。

 古事記はイヤナミを埋葬した黄泉国からイヤナギが地上に出てきた場所を黄泉比良坂(よもつひらさか)とし、その場所を出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と書き、東出雲町揖屋町にはイヤナミを祀る揖夜神社(古くは伊布夜社)があることからみても、イヤナミは「揖屋のナミ」という名前であったのである。ここでも太安万侶は表裏二重表現(ダブルミーニング)により、真実の歴史を巧妙に伝え残しているのである。

 このイヤナギの時代から、壱岐から離れた海人族の活動が始まった可能性が高く、次回に「6 海人族の『国生み神話』」として分析したい。

 

⑸ 「天津神・国津神」が示す母系制社会

 古事記はなぜか天之常立(あめのとこたち)神を「別天神(ことあまつかみ)五神」とし、「国之常立(くにのとこたち)神」からを「神世七代」と書き分けている。連続して「天之常立神・国之常立神」と書けば夫婦神であったに違いないのであるが、奇妙である。

 皇国史観とその亜流の歴史家たちは、高天原のアマテル系を「天津神」として天皇家の祖先とし、アマテルに国譲りしたスサノオ・大国主の「豊葦原中国」系を「国津神」として分類しているが、そもそも古事記・日本書紀には天津神の表記はみられない。国津神にしても、日本書紀でずっと後の日本武尊のところに「蝦夷」として書かれているだけである。

 スサノオ・大国主一族の始祖神が「天御中主(あめのみなかぬし)」で、スサノオ6代目は「天之冬衣(あめのふゆぎぬ)」でその子が大国主であり、さらに筑紫大国主9代目は「天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)」であることからみても、スサノオ・大国主一族は天神族なのである。

 この皇国史観・亜流の批判はさておき、「天津神・国津神」(「の」=「つ」)、「天神(あまつかみ)・国神(くにつかみ)」の表記は、この「天之常立神・国之常立神」が最初で唯一なのである。

 ここからは、太安万侶が残した暗号についての私の推理である。

 大海人皇子(おおあまのみこ)が「天武天皇(てんむ=あまたける)」と呼ばれたように、「天=海人」であることからみて、天之常立神は漁撈・交易に従事する海人族である。一方、国之常立神は定住して農耕に従事する一族であり、母系制社会の女神であったと私は推理している。

 漁村集落では危険な海にでる男に対し、女性が家計や子育てを担い、市で魚を売り、加工販売していた。古代においても同様で、大国主が「島の埼埼、磯の埼ごと」に「若草の妻」を持180人の御子をもうけることができたのは、妻問夫招婚の母系制社会であったことを示している。卑弥呼(霊御子)をはじめ、各地に女王がいたことが記紀に書かれていることからみても、「天之常立神・国之常立神」は夫婦神であり、国之常立神のもとに海人族の天之常立神が妻問いしていたと考えられる。

 太安万侶が「天之常立神・国之常立神」を連続して書いて夫婦神としなかったのは、その名前から母系制社会であることを隠したのではないか、と私は推理している。

 魏書東夷伝倭人条には対馬国について「良田なく、海物を食べて自活し、乗船して南北市糴(してき)す」とし、「壱岐国(一大国(いのおおくに): 天比登柱(あめにひとつばしら))については「やや田地あるも、田を耕すなお食べるに不足し、また南北市糴(してき)す」と書かれており、「糴=入+米+羽+隹(鳥)」字は「鳥船(帆が鳥の羽の形状)に乗って米を市に入れる」交易を示しており、壱岐の海人族の男たちは朝鮮半島と米鉄交易を行い、女たちは海物を獲り、少ない田を耕して一族を守っていたと考えられる。漁撈・交易は父系制、家族制度は母系制の母族社会であったのである。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 図2にみられるように12代景行天皇が滅ぼすまで九州には多くの女王がいたのである。そして図3のように現在も女王たちは祭神として多くの神社に祀られており、母族社会の伝統は引き継がれているのである。この図には載せていないが、スサノオの御子の宇迦之御魂(うかのみたま)を祀る稲荷神社は各地にみられる。

     

 

 壱岐から縄文土偶や貝輪、さらには1~3世紀の「好物(魏書東夷伝倭人条)」の鏡や絹織物・真珠・鉛丹を副葬品とし、「天比登柱(あめにひとつばしら)」に対応した立柱をともなう女王墓が発見されることを期待したい。

 

⑹ 壱岐・対馬の海人族のルーツ

 この壱岐・対馬の海人族のルーツについては、稲作の起源を長江流域や朝鮮半島に求める弥生人(中国人・朝鮮人)とする説がみられるが、私は海の道を通った南方起源であることを総合的に明らかにしてきた。―はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」、Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」参照

 アフリカ西海岸ニジェール川原産のヒョウタンや中東原産のウリの縄文遺跡での発見、アフリカ西海岸のY染色体E型人(コンゴイド)と別れたY染色体D型の縄文人、イモやジャポニカ米・ソバ・モチ食の起源、宗教語・農耕語のドラヴィダ語起源、アフリカからの神山天神信仰伝播、南インド・東南アジアのピー信仰伝播、琉球(龍宮)の「あいういぇうぉ」5母音や性器語「ピー・ヒー→ヒナ」の伝播、ドラヴィダ族のカラス信仰とポンガの祭りの伝播、東南アジアの龍神(トカゲ龍)信仰の伝播、貝輪・ヒスイ・黒曜石の交易などから、縄文人は海の道をとおり、琉球から対馬暖流にのって壱岐・対馬を拠点とし、さらに各地へ交易・交流を進めたのである。

 壱岐・対馬を拠点とした海人(あま)族は、琉球開びゃくの祖が「アマミキヨ」であり、琉球列島に「天城町」や「奄美大島」が、九州には「天草」「甘木」「天瀬」「天久保」「天ケ原」があり、さらに隠岐には「海士(あま)(古くは海部)」などの地名があることからみて、「対馬暖流海道」を行き来していたことを示している。―図4参照

    

 この海の道の交易・交流が旧石器時代から縄文時代に遡ることは、図5~7に示すように、イモガイやヒスイ・黒曜石、丸木舟づくりに使う丸ノミ石斧、曽畑式土器などによって裏付けられている。

        

 魏書東夷伝倭人条によれば、邪馬壹国と狗奴国との争いで卑弥呼・壱与を助けるために、247年に帯方郡から張政らが派遣され、260年まで13年間も滞在し、その報告をもとに魏書東夷伝倭人条が書かれていることが明らかであるが、そこには弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服や言語・文化・墓制などの類似性は一切書かれていない。邪馬台国を論じる以上、この事実を無視してはならない。

 海人族(天族)は、天上から降りてきたのでも、中国・朝鮮半島からきたのでもないことは、古事記や魏書東夷伝倭人条の記載からだけでも明白であり、それは縄文時代からの物証や遺伝子・言語・宗教などにより裏付けられている。

 高天原を天上の国としたり、朝鮮半島や金剛山・高千穂峰とする説などの空想から覚め、海人族(天族)の地上の国づくりから考えなければならない。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点

2022-11-17 10:20:32 | スサノオ・大国主建国論

 「141 出雲大社の故地を推理する」(221027)で、「2019年3月に「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」というレジュメを書いて関係者に配布し、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本第2版:2000年1月)にも入れたのですが、なぜかブログにはアップしておらず、次回に掲載します」と書きましたが間違いでした。

 2000年1月28日、Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」として掲載していましたので、訂正いたします。―邪馬台国ノート2 纏向の大型建物は「卑弥呼の宮殿」か「大国主一族の建物」か: ヒナフキンの邪馬台国ノート (seesaa.net)

 スサノオ・大国主ノート141では、出雲大社が八雲山と琴引山を結んだ線上に立地している可能性に気付きましたので、纏向遺跡についてさらに分析を進め、なぜ古代人が「直線配置」「神名火山(神那霊山)配置」にこだわるのかについて検討しました。

 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」と合わせてみていただければ幸いです。

 

1.纏向遺跡の「直線配置」と「神那霊山型配置」

 邪馬台国ノート44の図を再掲しますが、この図1から纏向の古代の施設配置についてどのような法則性が読み取れるでしょうか?

    

 「アマテル太陽教」信者の大和中心史観・天皇中心史観の皆さんは、纏向で見つかった大型建物が日の出の方向を向いた神殿としていますが、肝心の「卑弥呼=アマテル=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)」説の箸墓や、同時代の崇神天皇陵・景行天皇陵は日の出の一定の方向を向いているでしょうか?

 図1に明らかなように、「纏向の大型建物」「箸墓」「10代崇神天皇陵」は穴師山を向いており、この地が穴師山を神名火山(神那霊山)とする出雲族の八百万神信仰の聖地であることを示しています。マスコミがもてはやす太陽神信仰の地ではありません。

       

 それだけではなく、「矢塚古墳―石塚古墳―大型建物―珠城山古墳」「箸墓古墳―ホケノ山古墳―穴師坐兵主神社(祭神:兵主神=大国主)」もまた穴師山を向いてほぼ直線状に配置されているのです。

 さらに、箸墓は三輪山と穴師山を底辺とした二等辺三角形の頂点にほぼ位置し、3世紀の石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・ホケノ山古墳の5基の帆立貝形式の前方後円墳には、「勝山古墳(3世紀前半)―矢塚古墳(同中頃)・石塚古墳(同初頭)」、「大型建物(同前半)―東田大塚古墳(同後半)・とホケノ山古墳(同中頃)」、「大型建物―ホケノ山古墳・珠城山(たまきやま)古墳(6世紀)」がそれぞれほぼ二等辺三角形をしています。

 この4つの「二等辺三角形配置」は、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りてくるという神那霊山(かんなびやま)信仰を地上に投影した「神那霊山型施設配置」と考えています。

 

2.神名火山(神那霊山)の神山天神信仰はアフリカをルーツとし、縄文時代から続く

 この富士山形の美しい「神那霊山」は「神名火山・神奈備山・甘南備山」などと書かれていますが、山上の神籬(ひもろぎ)(霊(ひ)(ひ)洩木)・磐座(いわくら))を神体としていることからみて、「神那霊山」(神の国(那)の霊(ひ)の山)から死者の霊が天に昇り降りてくるという神山天神信仰であると私は考えています。

 そして、そのルーツはアフリカであり、縄文時代から続いていると考えています。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57  4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」参照

    

    

   

3.穴師山を向いた「箸墓」「崇神天皇陵」と龍王山を向いた「黒塚古墳」

 今回、さらに調べると築造が4世紀初頭~前半とされ、三角縁神獣鏡33面とさらに古い画文帯神獣鏡1面が発見された黒塚古墳が龍王山を向いていることがわかりました。

     

 「3世紀中頃説」「4世紀前半説」のホケノ山古墳、4世紀前半の10代崇神天皇陵からみても、この地で神名火山(神那霊山)信仰のもとに古墳が配置されていたことが明らかです。

 なお12代景行天皇陵は少し軸がズレていますが、龍王山を向いているといえなくもありません。

4.狭井神社→ホケノ山古墳→崇神天皇陵の関係

 前方後円墳の前段階のホタテ貝型の前方後円墳のホケノ山古墳は不思議な古墳で、古墳の主軸が北西を向いているのに対し、遺体を収めた「石囲い木槨」は北北東を向いているのです。

   

 そこでホケノ山古墳の2つの軸を延長してみると、古墳軸は大神神社摂社の笹井神社(狭井坐大神荒魂(ささいにいますおおかみあらたま)神社)に、木槨軸は崇神天皇陵の後円部に向かっているのです。

 狭井神社は大神荒魂神を主神とし、大物主、媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)、勢夜多々良姫(せやたたらひめ)、事代主を配祀していますが、「大神」となるとスサノオ(大物主大神)しか考えれられず、大神神社より上の三輪山登拝口にある笹井神社は古くは大神神社の元宮であった可能性が高いと考えます。

      

 ホケノ山古墳はスサノオの子の大年(代々大物主を襲名)一族の王墓であり、狭井神社からの軸上に配置しているのは計算された配置とみて間違いありません。

それより後に築造され、穴師山を向いた前方後円墳の崇神天皇陵の後円部にホケノ山古墳の木槨軸が向いているのは、どう考えるべきでしょうか?

 ①形状や出土遺物から築造年代は3世紀中頃、②前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬、③木槨木材の炭素年代測定結果は4世紀前半も含む、④主体部西側に6世紀末頃の横穴式石室、という4点から考えると、美和(三輪)大物主王朝の間城を乗っ取った傭兵隊長の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)(諱=忌み名は崇神天皇)の一族が、3世紀中頃の大物主王墓を利用して4世紀前半に崇神天皇陵の石棺へ向けて木槨を配置して埋めた可能性が考えられます。

 「北向き配置にしょうとしたが少し東にズレてしまった」という説も考えられますが、北極星を知らなかったとしても、地面に棒を1本立てて太陽でできる影を記録すれば正確に北方位は割り出せますから、北向きがズレることなど考えにくいといえます。

 

5.石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳

 紀元3世紀の纏向型古墳5基の神那霊山との関係を見ると、図8のように矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳はほぼ龍王山方向、石塚古墳は三輪山、ホケノ山古墳は笹井神社を向いています。

 前述の穴師山を向いた箸墓と崇神天皇陵、を含めると、この地には三輪山、穴師山、龍王山の3つの神那霊山があったことが明らかです。

 ただ、次の3点は未解明です。

第1は、「矢塚古墳―石塚古墳―大型建物―珠城山古墳」「箸墓古墳―ホケノ山古墳―穴師坐兵主神社(祭神:兵主神=大国主)」が穴師山を向いてほぼ直線配置されている一方、それらの古墳が三輪山や龍王山を向いていることです。

第2は、箸墓や崇神天皇陵、八塚古墳や東田(ひがいだ)大塚古墳は後円部が神那霊山を向いているのに対し、勝山古墳・石塚古墳・ホケノ山古墳は前方部が神那霊山を向いていることです。

第3は、ホケノ山古墳が墓と槨の方向が異なっていることです(他の古墳については未調査)。

 これらの疑問点については、今後の調査・検討課題です。 

    

 

6.大坂(逢坂)・二上山と穴師山を結ぶ2本の「聖線」

 Gooブログ「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」では出雲大社が八雲山と琴引山を結んだ線上に立地していることを解明しましたが、大和にもまた穴師山と大坂(逢坂)・二上山を結んだ「聖線」がありました。

   

 図8の「二上山―穴師山」ライン、「大坂山口神社―穴師山」ラインを纏向あたりで拡大したのが図9ですが、大型建物と紀元3世紀のホタテ貝型前方後円墳の石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳の4基の帆立貝形前方後円墳がほぼこの2つのライン内に収まるのです。

     

 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』で私は次のように書いており、注を加えて再掲します。

 

 この墓づくりについて、日本書紀は次のように伝えている。

 日(ひる)は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。

 このリレー式に手で石を運ぶ様子は、すでに見た野見宿禰の竜野の墓の造成と同じである。この野見宿禰は、11代垂仁天皇の時、殉死の風習(魏志倭人伝によれば卑弥呼の墓では殉死が行われていた)を止めさせ、出雲から技術者を招き、代わりに埴輪を造って古墳に立てた、とされる土師(はじ)氏(注1)の祖先であり、この二つの墓づくりの話は、前方後円墳の造営が出雲の宗教=墓制に基づき、出雲族の土師氏によって行われたことを示している。箸墓は「土師(はじ)墓」からきているという森説を私は支持したい。

 ここで、15㎞も離れた奈良と大阪の間にある生駒山脈の「大坂山(逢坂山)の石」を遠くからリレーして運んだ(注2)という記述に注目したい。古墳の葺石は単なる構造物ではなく、神が宿る神聖な大坂山の磐座(いわくら)の石を運ぶ、という特別の宗教観があった可能性がある。

 この生駒山の大坂の地には伊勢街道を挟んで南北に二つの大坂山口神社(注3)があり、前者には「大山祇命、須佐之男命、神大市姫命(又は稻倉魂命)」が祀られている。大山祇命は神大市姫命の父、稻倉魂命=稲荷大神は須佐之男命と神大市姫命の子であることから、この大坂の地は須佐之男大神と神大市姫命が奈良盆地に入り、最初に拠点を構えた聖地であったと考えられる。この大坂の磐座から神の宿る石を運んで「大市墓(箸墓)」が造られていることからみて、大市墓は神大市姫命の子の大歳神(大物主神)の子孫の磯城王の王女の墓(注4)である可能性が高い。

 王の「ひつぎ(棺=霊継)」が、竜山石や阿蘇石など、その出身部族から「霊を運ぶ」霊継の道具として運ばれたように、大坂山の石(注5)が運ばれた可能性がある。なお、「日(ひる)は人作り、夜は神作る」という記載は、王の遺骸を「ひつぎ(柩、棺)」に納めて天に送り、天上から王の霊を次代の王が方壇(高御座=高御位)で受け継ぐという重要な「霊継(ひつぎ)」の埋葬儀式の一端を示している。ここでいう「神」とは、古事記によれば、伊邪那伎大神や須佐之男大神、大国主神の一族など、出雲の王族のことであり、「夜は神が作る」(注6)は、出雲の王族により死んだ王を埋葬する古墳の核心部が作られ、「日(ひる)は人が作り」(注6)とは、霊継の儀式を行う方壇部分(前方部分)が昼に後継王の一族によって作られたことを示している。そして、夜間に王の遺体を「棺」に収めて埋葬する儀式が行われ、夜が明けて、次代の王が、その死んだ王(天王)の霊を方壇で受け継ぐ、という儀式が行われたことをリアルに伝えていると考えられる。

 注1:大国主を国譲りさせた菩卑(穂日)の始祖神である。

 注2:大坂山より墓までリレー式に運んだというのは伝承ミスで、大阪(逢坂)から葛下川~大和川(初瀬川)~纏向川へと舟で運び、そこから墓までリレー式に運んだ可能性が高い。

 注3:大坂山口神社は近鉄大阪線の南の穴虫地区(二上山近く。祭神:大山祇・須佐之男・天児屋根)と北側の逢坂地区(祭神:大山祇・須佐之男・神大市比売)にあり、スサノオ一族の拠点であり、中臣・藤原氏の祖神の天児屋根は後世に習合されたと考えられる。

 注4:「箸墓」を「磯城王の王女墓」としたのは誤りで、「磯城王・大物主(太田田根子(おおたたねこ):意富多多泥古)と妻の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓」に訂正したい。

 注5:二上山凝灰岩は粗い白色の素地に黒い大粒の角礫が混ざっており、軽量軟質で加工・運搬が容易で大和の政治的・宗教的施設の造営に好んで使われた。一方、大国主・少彦名の「石の宝殿(筆者説:方殿)」のある高砂市の竜山でとれる青緑色ないしはクリーム色の流紋岩質凝灰岩は硬質で、天皇墓などの石棺に使用されている(奈文研ブログより要約)。

              

 注6:「日(ひる)は人作り、夜は神作る」は、昼は山人(やまと)族(天皇家:モモソヒメ系)、夜は海人(あま)族(天族=出雲族=大物主・大国主系)によって作られた、に停訂正したい。

 

 なお大坂はスサノオ(大物主大神)と神大市姫が御子の大歳(大物主)・宇迦之御魂(うかのみたま:倉稲魂)とともに奈良盆地に入った聖地であり、二上山山頂の葛木二上神社は大国魂(大国主)と豊布都霊(とよふつのみたま)(記紀からみて後世の合祀)を祀っており、大坂山(逢坂山)は二上山の麓の採石地でもある小山で、逢坂地名のあたりと考えられますが、古地図等で確認はできていません。

 箸墓に二上山凝灰岩が使われているのかどうか、古事記記載が史実かどうか、考古学者は確かめているのでしょうか?

 また、桜井市パンフの「纏向遺跡のイメージ図」は二上山が描かれており、二上山の方向を意識して書いていますが、大型建物が穴師山を向いているイメージ図も載せるべきでしょう。

        

 

7.大型建物と垂仁天皇宮跡・珠城山古墳群・景行天皇宮跡・穴師坐兵主神社・穴師山ライン

 邪馬台国畿内説論の学者とマスコミ支持者たちは、纏向の大型建物を卑弥呼=アマテルの宮殿としたり、中にはアマテル太陽神信仰の神殿とするなど大騒ぎしていますが、歴史学・考古学が非科学的な「古代ロマン」のレベルであることを証明してしまいました。

          

 大型建物の立地点をその地の遺跡や神社などと記紀に照らして即地的・文献的に検討するという基本的な検討を行うことなく空想の世界に遊んでいます。

 図12のように、大型建物の立地点は穴師坐兵主神社への鳥居の130mほどの西南西にあり、鳥居から穴師坐兵主神社までの直線距離で1.5㎞ほどの間には、11代垂仁天皇纏向珠城宮跡と珠城山古墳群(6世紀前・中・後期の3基の前方後円墳)、12代景行天皇纏向日代宮跡があるのです。大型建物は穴師山を神那霊山とする穴師坐兵主神社への参道の入口に位置しているのです。

   

 紀元2~3世紀頃の大型建物はスサノオ・大国主一族の神那霊山・穴師山を遥拝する神殿であり、その参道にそって4世紀に10代御間城入彦(崇神天皇)が妻問いした御間城姫の元で育った11代垂仁天皇の宮が置かれ、さらに12代景行天皇の宮も置かれたのです。なお、箸墓に葬られたとされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は第7代孝霊天皇の娘で大物主(大田田根子が襲名)の妻です。垂仁天皇陵は遠く離れた奈良市西方の宝来山古墳とされていますがその根拠はなく、珠城山古墳1号墳こそが垂仁天皇陵であると私は考えています。

 大和中心史観=天皇中心史観の大和邪馬台国畿内説論者は、「古事記」「日本書紀」をまともには読んではいないらしく、太陽神アマテル教徒なのか仏教教徒あるいは無宗教なのか、この国の霊(ひ:祖先霊)信仰=神那霊山信仰の八百万神神道を否定し、大型建物を垂仁天皇宮跡・珠城山古墳群・景行天皇宮跡・穴師坐兵主神社・穴師山などとは切り離し、卑弥呼やアマテルと結びつけています。スサノオ・大国主建国だけでなく記紀に書かれた古代天皇制との関係もまた全面無視です。

 右派は「アマテルつまみ食い病」に、左派は「反天皇制こじらせ病」の「スサノオ・大国主建国なかった病」にかかり、どちらももはや瀕死の重症のご臨終を迎えています。

 

8.纒向遺跡出土の桃の種は135~230年頃

 2018年5月、放射性炭素年代測定により纒向遺跡から出土した桃の種は西暦135~230年と推定され、卑弥呼の時代とされましたが、記紀によればスサノオの子の大年(大歳)がこの美和(三輪)の地に入り、その一族が拠点を築いた時代でもあるのです。大和中心史観の考古学者・歴史学者たちは紀元2~3世紀には桃が好きな人物は「卑弥 呼」しかいなかったとみているようで、大物主・大国主一族など眼中にはないようです。

           

 古事記は、少彦名の死後、御諸山(美和山)に大物主(大物主大神=スサノオ)を祀ることを条件に、大国主と大物主は国を「共に相作」としています。大国主一族はこの地で大物主とともにスサノオを祀る霊継(ひつぎ)祭祀を全国ら一族を集めて行うとともに、三輪の北に隣接した纏向(間城向)の地に祭祀拠点を置いたのです。

 図11の「垂仁天皇纏向珠城宮跡」のすぐ下に「巻野内」の地名があることからみて、「纏向=巻向」はこの「巻野」にあった王都を向いていた地域を指しているのです。

 またこの地が「穴師」であることも見逃せません。穴師は鉱山師をさし、大国主の別名が「大穴牟遅(おおなむぢ)・「大穴持(おおあなもち)」であることや、播磨国風土記では穴師比売に妻問いしてフラれた話しがあること、御子の丹津日子の妻(あるいは姉・妹)の丹生都比売(にゅうつひめ)が辰砂(硫化水銀)、鉄朱(ベンガラ)採掘に携わった丹生氏の始祖神であることから、この地は鉱山師の穴師=大国主一族の製鉄拠点であったと考えられます。

 桃の種は食用ではなく、呪術に使われていたものとされ、卑弥呼と結びつけられていますが、まるで「桃から生まれた卑弥呼」のおとぎ話のようです。魏書東夷伝倭人条に書かれた魏王朝からの贈物の金印やガラス壁、銅鏡、鉛丹、絹織物や、卑弥呼の「宮室・楼観・城柵・鉄鏃・槨なし棺」などがワンセット発見されるなら認めますが、桃の種を卑弥呼と結び付けることなどできません。

 邪馬台国畿内説は、前には「全国各地からの搬入土器」「木製仮面」を邪馬台国の証拠として大騒ぎし、今度は「桃の種」ですが、これらは全て「メイド・イン・ジャパン」であり、「メイド・イン・ギ」は何も見つかっておらず、魏書東夷伝倭人条にも登場しません。 

 仮面なら卑弥呼といきなり結びつける前に、縄文の「仮面の女神」(茅野市中ツ原遺跡)や出雲神楽との関連について、まず述べるべきでしょう。

        

 さらに古事記によれば桃子(もものみ)で黄泉の雷神を追い払い「汝(注:桃子)、吾を助けたように、葦原中国のあらゆる現しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患い悩む時、助けるべし」と言ったというイヤナギの物語は出雲の揖屋の黄泉比良坂でのことであり、出雲族との関係をまず検討すべきです。学者・新聞・テレビの「木製仮面・桃の種・古代ロマン」を邪馬台国に結び付ける大騒ぎは「旧石器捏造事件」よりもはるかに悪質な「邪馬台国畿内説捏造事件」というべきでしょう。

 古代王の年代に初めて科学的な推計を行ったのは安本美典氏ですが、氏の推計方法を参考にして神話(伝承)時代32代に遡って最小二乗法による推計を行った結果が図12です。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』など参照

         

 纏向大型建物の「桃の実」の推計年135~230年は、225年のアマテル即位推計年や卑弥呼の239年の遣使、247年の死ともが時代が合いますが、スサノオ・大国主一族が美和山でスサノオ(大物主大神)を祀る祭祀を行っていた時代でもあるのです。桃の種は薩摩半島西南端笠沙の山人(やまと)族の若御毛沼(わかみけぬ)(忌み名:神武天皇)が奈良盆地に入る277年頃より前の時代のものであり、10代崇神天皇即位の370年頃からはざっと140~235年以上も前の時代になり、同時代のモモソヒメ(卑弥呼説)とは無関係です。 

 即地的・即物的・文献的・宗教的にみて、「纏向大型建物卑弥呼神殿説」はなに1つ根拠がなく、大国主一族の神那霊山信仰の神殿であることが裏付けられます。

 なお、記紀の記述だけによってみても、若御毛沼(わかみけぬ)が奈良盆地に入ったのはアマテルの5代目であり、そこからさらに9代後の崇神天皇の時代のモモソヒメの箸墓(筆者説は大物主・モモソヒメ夫婦墓)はアマテル、卑弥呼、桃の種のどれとも年代が合いません。

 

9.纏向の建物は出雲大社と類似

 黒田龍二神戸大准教授は正面の柱が奇数であることや屋根を支える棟持柱などから、記録上では最古の神殿である出雲大社本殿との類似性を指摘しており、私も氏の説を支持します。

      

 付け加えると、本殿(神殿)の前に拝殿をもうける神社建築の様式がいつからできたのかは分かりませんが、古出雲大社の本殿前に「引橋長一町」があり、日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれていることに注目する必要があります。

 本殿には「一町」=109mの直階段が付けられていたのではなく、「引橋=高橋+浮橋=桟橋」が付けられていたのであり、大国主が海に遊ぶだけでなく、この浮橋(浮き桟橋)は神殿を訪れる人たちが舟を付け、神殿に供え物を運ぶのにも使われたはずです。この「桟橋=桟道」はその後、地上の「桟道=参道」として現在も神域の鳥居から神殿を結び、さらに神那霊山に向かう直線として生きていると考えます。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

     

 大国主を国譲りさせて後継王となった天穂日の子孫の野見宿禰(のみのすくね)は垂仁天皇の時、当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)して勝ち、殉死に代わる埴輪を提案した土師氏の始祖ですが、前述の箸墓づくりなど古墳づくりを一族が指導したことが明らかであり、同時に出雲大社をルーツとする神殿建築もまた大国主一族が伝えたことは確実です。(注:前方後円墳の原型が野見宿禰が亡くなった播磨のたつの市であることは『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照)

 

10.「直線型」「神那霊山型」施設配置のルーツは縄文時代の神那霊山(神名火山)信仰

 縄文時代の竪穴式住宅が円形平面であり、広場を中心に円形に配置され、集団墓地もまた環状列石(ストーンサークル)かであるのはなぜか、そのルーツをアフリカに求めて、はてなブログ「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」(210415)を書きました。さらに「神那霊山(神名火山)」信仰についてもアフリカの「コニーデ式火山」からのであることを「縄文ノート56、57、61」などで明らかにしました。

 縄文時代の円形住宅や環状列石の集団墓地は、「地=土+也(女性器)」字が示すように母系制社会(母族社会)では死者は大地の人が生まれる丸い女性器に帰り、黄泉帰るという地母神信仰を示しています。―はてなブログ「縄文ノート148 「地・姓・委・奴・卑」字からの中国母系社会論」参照

 同時に、前述のように長野県茅野市の中ツ原遺跡や阿久・阿久尻遺跡の巨木建築や立石石列などからみて、死者の霊(ひ)が天に伸びる神山や高木から天に昇り、降りてくるという神那霊山(神名火山)信仰も行われていたことが明らかです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」参照

 宗教施設の神那霊山へ向かう「直線配置」とコニーデ型の火山(神那霊山)を模した「神那霊山型配置」は縄文時代の神那霊山(神名火山)信仰から生まれ、大国主の出雲大社神殿に引き継がれ、さらに纏向の施設配置に繋がったのです。―「縄文ノート154  縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判」参照

 

11.箸墓は大物主・モモソヒメの夫婦墓

 Seesaaブログ「邪馬台国ノート44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一の建物』か」の一部再掲ですが、これまでモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)の墓とされてきた箸墓は、夫の大物主(大田田根子)とモモソヒメの夫婦墓と私は考えます。

        

 それは全長278mの箸墓に対し、9代開化天皇陵(春日率川宮陵に比定)は約100m、10代崇神天皇陵(行燈山古墳)は242m、11代垂仁天皇陵(宝来山古墳に比定:筆者説は53mの珠城山古墳)は227m、12代景行天皇陵は300mであり、箸墓に葬られた人物は同時代の崇神・垂仁天皇よりも上位の人物であり、モモソヒメではありえず、それは記紀に書かれた大物主(大田田根子が襲名)しか考えられません。

 「役病多起し、人民死に盡(つ)きむとし」(古事記)た時、崇神天皇は河内のスサノオ一族の大田田根子を探し出して大物主大神(スサノオ)を祀らせたところ疫病がおさまったとされることから、大田田根子は人民から感謝され「大阪山かの石を運びて造る。即ち山より墓に至るまでに、人民相踵(つ)ぎて、手逓伝にして運ぶ」という巨大墓建造が可能となったと考えます。

 なお、備後国風土記逸文には「茅の輪をつけて家をでるな」と助言して蘇民将来一家を助けたというスサノオ伝承があり、京都で疫病が流行った時には、姫路の広峯神社(牛頭天王総本宮)からスサノオの霊を移し、京都の八坂神社(祇園社)に移して疫病退散の祇園祭を行うようになったとされています。古事記は大物主大神が活玉依比売のもとに通ってきて、鍵穴から去った時、「麻の三勾(みわ)」を残して美和山(御諸山:三輪山)に去り、産まれた子どもがオオタタネコだとしていますが、オオタタネコはスサノオの疫病退散の「茅の輪」にちなみ、「麻の三勾」を人々に広めて疫病退散を果たしたという史実が、大物主大神=蛇伝説に置きかわった可能性が高いと私は考えています。

 疫病が流行った時に外出を自粛して感染拡大を防ぐためにスサノオは「茅の輪」を活用し、それが美和の大物主=蛇の「麻の三勾(みわ)」神話となった、というのが「古事記ミステリー」の私の謎解きです。

 

12.邪馬台国畿内説の全面崩壊

 邪馬台国論争は、「魏書東夷伝倭人条、記紀、物証」の3証拠から論じられてきましたが、物証論では九州説の漢・魏皇帝由来の「漢委奴国王」の金印、龍文鉄鏡、ガラス壁の「漢・魏皇帝3物証」に対し、畿内説の纏向の「和製土器・仮面・桃の種3物証」では勝負にもなりません。また邪馬台国の墓が「有棺無槨」であり、筑紫などには甕棺を直接埋めているのに対し、同時代の纏古墳群は「有棺有槨」であり、箸墓には竪穴式石室があったとみられています。

 文献論では、魏書東夷伝倭人条の卑弥呼を記紀のモモソヒメに充てる畿内説は、そもそも百余国を「鬼道(祖先霊信仰)」で統一し、魏に使者を送り、狗奴国と戦った独身の「女王・卑弥呼」と大物主の妻となった「皇女・モモソヒメ」という人物像は合致せず、さらにモモソヒメは同時代の崇神天皇が通説では3世紀後半から4世紀前半(筆者説:4世紀後半)であり、3世紀前半の卑弥呼とは時代が異なります。 

 魏書東夷伝倭人条に記された行程からは、畿内説は「陸行水行直線読み説」、九州説は伊都国を起点とした「陸行水行放射状読み説」ですが、そもそ12000余里の総行程から不彌国までの11400里を引くと600余里しか残らず、畿内まで達することはできず、畿内説は成立しません。

  

 「伊都国に至る。・・・郡使の往来に常に駐(とど)まる所なり」「郡の倭國に使するや、皆、津に臨みて捜露(そうろ)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣で、差錯(ささく)するを得ず」「詔書・印綬を奉じて倭國に詣(いた)らせ、倭王に拝仮し、併せて詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を賜う」からみて、正使は陸行して伊都国に留まり、副使は水行して倭王に「拝仮」したことが明らかであり、陸行は不彌国(筆者説:須久岡本遺跡)から600余里、水行は大型船を長期停泊できる末盧国の呼子を起点とし、「末盧国より南水行十日(徒歩換算・陸行一月」の両条件を満たす邪馬壹国の位置は、地名からみても、有明海から筑後川を遡った甘木(天城)の高台(高天原)以外にはありえません。

       

 魏書東夷伝倭人条は末盧国から「正使陸行」は距離、「副使水行」は日数で書き分けられているのであり、「陸行水行チャンポン読み」の「直線読み説」「射状読み説」のどちらも誤りと言わざるをえません。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 奈良に一時期住んでいて愛着のある私としては邪馬台国畿内説をひいきにしたいのはやまやまですが、どこから見ても邪馬台国畿内説を支持できる根拠は見つかりません。纏向などを掘れば掘るほどスサノオ・大国主建国説の裏付けが増える一方です。

 「ここ掘れわんわん」の仮説検証型で発掘はどんどん進めて頂きたいと思いますが、「纏向卑弥呼王都仮説」は捨て、「纏向大国主一族拠点仮説」に変えるべき時です。

 また、邪馬台国九州説は「相攻伐歴年」にいつまでも安住している場合ではなく、文献から邪馬壹国を絞り込み、仮説検証型の発掘調査を行うべきです。

 そして、畿内説・九州説などの「コップの中のチマチマとした争い」ではなく、縄文時代からスサノオ・大国主建国へと続く古代史全体の中に位置付け、世界の新石器時代(土器鍋煮炊き食時代)からの母系制社会の解明に貢献を果たすべきと考えます。地域史から世界史への飛躍が求められ、『サイエンス』や『ナショナルジオグラフィック』などにどんどん発表し、世界的に活躍する若い世代の登場に期待しています。

 「発掘大国歴史貧国」に若い研究者はいつまでも甘んじているべきではありません。

 

13.文献学・物証学・伝承学などの統合へ

 纏向発掘で明らかになったのは、スサノオ・大国主一族による美和・纏向での国づくりであり、記紀に書かれた「大国主・大物主連合」の成立や御間城入彦(忌み名:崇神天皇)による権力奪取などが史実であることが裏付けられてきていることです。記紀神話などを8世紀の創作としてきた通説は全面的崩壊を迎えており、見直されるべき時です。

 門外漢から古代史を見ていると、日本の文献学はシュリーマン以前の「キリストはいなかった」レベルの「ヘーゲル左派」亜流か皇国史観修正学、考古学は開発の後追いの「たまたま発掘学」であり、それぞれ「タコつぼ学」「重箱の隅学」になり、民俗学や地名学、言語学、宗教学、文化人類学、遺伝学との総合的な連携ができていないように思えます。

 方法論は考古学は「唯物(ただもの)主義」の「演繹法」、文献学は皇国史観流の「アマテルつまみぐい史観」やヘーゲル左派流の記紀神話創作説の「帰納法」であり、仮説検証法による統合はまだまだできていにように思います。

 無人の荒野にどんどん若い人は挑戦し、スサノオ・大国主の墓、卑弥呼の墓の発見に若い考古学徒は挑んで欲しいものです。

 また、「世界を照らすアマテル太陽神」の後継者として現人神に祭り上げられて軍部に協力し、日中戦争・太平洋戦争でアジア諸国・アメリカ・日本人民に多くの被害を与えた天皇家の責任は消えることはなく、「人間宣言」を行った天皇家は薩摩半島南西端の笠沙出身で龍宮(琉球)から2代にわたり妻を迎えた人間天皇家の歴史を自ら明らかにすべきであり、天皇陵の科学的な調査を認めるべきと考えます。

 「人間宣言」を本物とし、日中戦争・太平洋戦争の死者たちへ責任を果たすべき時ではないでしょうか?

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

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