ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団102 前方後円墳のルーツは箸墓?

2010-11-25 16:10:03 | 歴史小説

発生期の前方後円墳や中方双方墳、円墳などのある古墳群のある養久山丘陵(たつの市)

「長老、神話探偵団の範囲から脱線していきません?」
マルちゃんの意見はもっともだが、ヒメには逆効果だ。
「脱線、逸脱、脱走大好きの私には、聞き捨てならない言葉よね。『脱線なくして、真実発見なし』って格言を知らないの?」
いつも勝手に格言をデッチあげるヒメであるが、こうなったら脱線列車で脱走だ。
「一般的には前方後円墳は大和の纏向で発生した、という説が有力です」
とりあえず、高木は情報提供することにした。
「それは、朝日新聞の邪馬台国畿内説一派の提灯記事だな。大新聞が、学会の1仮説だけを大々的に取り上げるなんて、とんでもない話だよ」
九州説のカントクは手厳しい。
「前方後円墳の起源について、他にはどんな説があるの」
ヒメの質問はいつも的確だ。
「吉備起源説、讃岐・阿波起源説があるし、僕は、播磨西部の揖保川流域起源説だけど、加古川流域起源説も出てきている」
「どこが起源か、というのは何で決めるの?」
「建造された時期が問題なんだが、今のところ絶対的に確かな共通の物差しがあるというわけではない。前方部と後方部の形状や葺石、棺や棺を入れる郭の形式や埋蔵品の鏡や玉などの製造時期、埴輪の有無や形式、葬送に使用した土器の形式、葬送の宗教などから総合的に判断することになる」
「最初に大王家=天皇家の巨大な前方後円墳が大和で建造されて、天皇家の支配の拡大とともに、全国にその様式が広まった、って習ったけど」
「それは、皇国史観、大和中心主義のフィクシィンだね。いきなり巨大な前方後円墳ができて、地方でその真似をして小さな前方後円墳ができた、ということは証明されていない。今は、先に小さな前方後円墳が各地にできて、大王家がそれを真似て巨大な前方後円墳を造った、と考えらてきているね」
「技術的な法則から言えば、小さな橋や建物から、次第に大きな橋や建物ができるわよね。それって、ピラミッドや古墳でも同じと思うよ」
建築出身のマルちゃんから見れば、当然かも知れない。
「前方後円墳は大王家の墓制、各地の王は前方後方墳、方墳、円墳などにランク分けされていた、と習ったのはどうなるの」
ヒメの質問は止まらない。
「初代から8代までの大王=天皇の墓は、仮にその比定が正しいとしてだけど、円丘が3つ、山形が5つなんだ。ようやく9代の開化天皇になってから全長約100mの前方後円墳が造られている。これは、前方後円墳が各地で造られた時期よりは確実に遅く、前方後円墳が天皇家の独自の墓制である、ということにはならないね」
「前方後円墳を大王家の墓の形式にするって、記紀に書かれていないの?」
「日本書紀で古墳の造営について具体的に書かれているのは、7代孝霊天皇の娘で、大物主の妻となったヤマトトトヒモモソ媛の全長282mの「箸墓」なんだな。これを見ると、この箸墓の造営は大王家にとっては画期的な事件であったに違いない。父の孝霊天皇の墓が山形墳であることからみても、大物主の妻のヤマトトトヒモモソ媛の巨大な前方後円墳造成は大事件だったに違いない」
「大王家が大物主に王女を差し出して、始めて巨大な箸墓ができた、というわけね」
「御間城入彦=崇神天皇が、御間城姫の入り婿として、磯城の間城、現在の纏(まき)に入り、磯城国の大物主家の政治的な支配権を確立すると同時に、ヤマトトトヒモモソ媛を大物主に差し出し、天皇家の血が入った子孫に大物主の祖先霊を祀らせる宗教支配体制ができたのではないかな」
「しかし、御間城姫って、大彦命の娘だったと思いますが」
高木は一応、チェックをかけておいた。
「記紀は御間城姫を孝元天皇の長男の大彦命の娘としているので、記録上は従姉妹を妻にしたことは動かせない。しかし、『御間城姫』のもとへの『御間城入彦』という名前からみて、逆玉ではなかったか、と考えている」
「ややこしいわよね。逆玉の『御間城入彦』が大物主神=大年の後継王に入り婿として収まったんだったら、大物主にヤマトトトヒモモソ媛を差し出す必要はないんじゃないの?」
「御間城入彦は最初、大物主大神とアマテラスの魂を宮中に祀ったところ、民の半数が死ぬという恐ろしい祟りを受けている。そこで、御間城入彦は大物主大神とアマテラスの魂を宮中から出し、それぞれ子孫を捜し出してきて祀らせたところ、疫病が治まったとしている」
「大物主大神を娘婿が祀ったのでは、ダメということなのね」
「そうなんだ。大物主神の子孫の大田田根子命を探しだして祀らせたところ、疫病は治まったとされている」
「大国主大神、大物主、御間城姫、大田田根子命の関係がよくわからないなあ」
「大神(おおみわ)神社に祀られている大物主大神はスサノオの子の大年神、その子孫の磯城王は代々、大物主命(みこと、御子人)と呼ばれ、御間城姫はその直系の最後の王女だったと考えられる。一方、大田田根子命は大物主王の傍系の男子で、大国主大神を祀る役割を与えられ、ヤマトトトヒモモソ媛を妻にして、天皇家の血の入った子孫に大国主大神を祀らせることにより、御間城入彦は磯城国の政治的な支配権と宗教的な支配権の両方を継承しようとしたのではないかな」
「やっと解ってきたわよ。巨大な箸墓は、大王家の御間城入彦が磯城・大物主家の祭祀権を継承したというシンボルだったのね」
ヒメは納得したようだ。
「そういえば、日本書紀は、箸墓の建造の様子を、『昼は人が作り、夜は神が作る』としているが、昼は大王家、夜は神と呼ばれたスサノオ・大国主の一族が墓づくりを行った、ということなんだな」
カントクも納得したようだ。
「長老の解説だと、巨大な箸墓の出現を卑弥呼と結びつける空想なんて、完全に吹っ飛んでしまうわね」
確かに、マルちゃんの言うとおりかも知れない。
「前方後円墳を何がなんでも天皇家と結びつけたいという、皇国史観のしっぽを付けたままの学者は多いからね。大和中心主義なんて呼ばれているけど、その仮面の下の顔は現代版の皇国史観だからね」

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
      霊の国:スサノオ・大国主命の研究
(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
      霊(ひ)の国の古事記論(http://hinakoku.blog100.fc2.com/)
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神話探偵団101 褶墓(ひれはか)はなぜ円墳から、前方後円墳に変えられたか?

2010-11-17 20:50:57 | 歴史小説

褶墓(ひれはか:日岡陵) 
ウィキペディアより(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%B2%A1%E9%99%B5)

「しかし、孝霊天皇から見て、4代目の崇神天皇が孝霊の子の若建吉備津日子を吉備に派遣したというのは2世代離れていますし、6代目の景行天皇が若建吉備津日子の子の印南別嬢を正妃としたというのは3世代離れています。また、景行天皇と印南別嬢の子のヤマトタケルの曾孫を景行天皇が娶ったというは4世代も離れています。さらに、ヤマトタケルの子(後の仲哀天皇)と、景行天皇とヤマトタケルの曾孫の間に生まれた子の孫の香坂王と忍熊王が後継者争いをするというのも、5世代離れています。この時代の記紀の記載は信用できますかね?」
高木は食い下がった。
「どんなヘボ作家でも、小説を書くなら、逆に、もっと辻褄をあわせるんじゃない。こういう混乱があるということは、記紀は、むしろ伝えられてきた話をそのまま記録した、ということじゃないの」
ヒメは作家だけに、記紀創作説には組みしない。
「安本美典氏の古代天皇の平均在位年数が10年前後という分析からみて、この時代の天皇は記紀に書かれたような親子相続ではなく、兄弟相続であったみるべきじゃないかな。そうすると、年代の矛盾はかなり縮まるな」
カントクはいつもながら女性に組みする。
「当時の結婚年齢が15歳と言われていますから、さらに、年代の矛盾は解消される可能性がありません?」
ヒナちゃんにもやんわりと反論されてしまった。
「記紀作成の頃の政治情勢を考えると、多くの天武天皇の皇子との後継者争いにおいて、持統天皇は孫への皇位継承に執念を燃やしていたから、記紀は親子相続が正当であるように系図を書き換えられている可能性は高いね」
長老にまで言われると、高木は引き下がる他はなかった。
「ボクちゃんの提案は、面白いじゃない。是非、次の機会に『ヤマトタケル探偵団』で追求しましょうよ」
どうやら、ヒメは次の歴史推理小説のテーマを見つけたようだ。一同は、日岡神社から歩いて日岡陵に到着してからも議論を続けていたが、話題を切り替えるいいきっかけであった。
「『播磨国風土記』では、亡くなった印南別嬢を日岡に作った墓に葬るために、遺体を印南川、現在の加古川を渡って運んでいた時に、突風が吹いて遺体が川中に沈んでしまい、見つかった櫛箱と褶(ひれ:肩掛け)を代わりに墓に葬った。それで褶墓(ひれはか)と名付けた、とされています」
高木はざっと説明した。
褶墓は宮内庁指定の陵墓になっており、外からしか見ることはできなかった。日岡山頂上から下って西大塚古墳、南大塚古墳、西車塚古墳を見た。2基は全長74m、90mの前方後円墳で、もう1つは径23mの円墳である。
「こには4基の前方後円墳と23基の円墳があり、褶墓古墳は全長85.5mの前方後円墳とされていますが、明治中期の修復の時に前方部を付け足した、とも伝えられています」
高木は歩きながら解説した。

「これらはいつ頃の墓なの?」
ヒメからの質問はいつもの順番どおりである。
「ホームページで調べた範囲では、古墳時代前期としかわかりませんでした」
「古代史で播磨の影が薄いのは、きっと地元の歴史学者や考古学者がだらしないからね」
ヒメは姫路出身だけに手厳しい。
「それは言い過ぎじゃないかな? 大和中心史観にとらわれていて、大国主やその後継王のことなんて神話の作り話ぐらいにしか考えていないから、独自の郷土史の解明に関心がないだけだと思うよ」
言い過ぎなのは、むしろ、長老の方だ。さらに手厳しい。
「明治政府が、円墳の褶墓を前方後円墳に作り変えた、というのは何故かしら?」
ヒメはどんどん踏み込んでくる。
「それは『前方後円墳中心史観』とでもいうべき信仰があるからだと思うよ。天皇家の墓=前方後円墳で、全国に前方後円墳が広まったのは天皇家の支配圏の広がりを示す、と考える考え方は、今も根強いからね」
長老の世界に入ってきた。
「景行天皇の正妃で、ヤマトタケルの母の墓が円墳では示しがつかない、ということなのね」
「皇国史観に凝り固まった役人達はそう考えたと思うよ」
「戦後の考古学者達もその『前方後円墳中心史観』を引きずっているというのは、よくわからないわね」
「戦後の反皇国史観の考古学者達も、『邪馬台国畿内説』に見られるように、皇国史観の『大和中心史観』を引き継いでいるからね。僕は、『邪馬台国畿内史観・前方後円墳中心史観・三角縁神獣鏡史観』の三位一体史観からなる『大和中心史観』と言っているけどね」
「長老の考え方はどうなの?」
「前方後円墳で言えば、僕は播磨起源説なんだ」

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
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神話探偵団100 ヤマトタケルは大国主の子孫

2010-11-06 09:46:08 | 歴史小説
日岡神社の山門(境内社として、高御位神社、天満神社、恵比須神社など出雲系の神社が祀られている) 
神戸観光壁紙写真集より(http://kobe-mari.maxs.jp/)

「私は、古事記に書かれた、『大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、針間の氷河の前(さき)に忌忌瓮(いんべ)を居えて、針間を道の口として、吉備を言向(ことむ)け和(やわ)した』という前半の部分が重要と思います」
ヒナちゃんが新たな論点を持ち出してきた。
「『針間の氷河』というと、加古川のことだったよね。『忌瓮(いんべ)を居える』って、どういうことかしら」
相変わらず、ヒメの感度はいい。
「『忌瓮』の『瓮(おう)』は『瓶(かめ)』と同じ字で、『忌瓮』は『斎瓮(いんべ)』とも書かれ、汚れを祓って清めた器を指します」
「ということは、この印南の地で、イサセリヒコ兄弟は、この瓶を据えて何をしたのかしら?」
「瓶を埋めて、吉備の国の境界をこの加古川に定めた、という説だったと思います」
高木としては、基礎的な情報は提供しておきたかった。
「歴史学者の空想力ってとぼけていて面白いよね。播磨国のこの地を吉備国が支配していた、という記録や伝承はないし、『埋める』に『居』の字を当てるかしら」
情報提供のつもりが、ヒメから反撃を受けてしまった。
「瓶に入れた水を吉備への道に撒いて清め、戦勝を祈った、という解釈もあります」
ヒナちゃんの手前、高木は簡単には引き下がりたくはなかった。
「それだと、吉備に入ってからやらなければ意味がないじゃない?」
確かにそうだ。
「斎瓮を据えるといったら、やっぱり酒じゃない。イサセリヒコ兄弟と印南の大石王とが酒を神に捧げて、吉備国を攻める相談をしたのではないかな」
カントクはいつも酒から発想する。
「『言向(ことむ)け和(やわ)した』というのはどういうことなの?」
質問ヒメが割り込んできた。
「天皇の言葉に従うよう申し向けて、従わない場合にはやっつける、ということだと思います」
高木は記紀の常識を説明した。
「軍国主義が染みついた皆さんはそう解釈されますが、『言向け和す』や『言向け和平す』を文字通りに解釈すれば、単に、和平を申し入れた、ということではないでしょうか?」
ヒナちゃんの落としどころが、やっと高木にも見えてきた。
「それは面白い。神武東征やヤマトタケルの東征物語が頭の中に染みついている我々は、天皇家が武力で国土を統一した、と思いこんでいるからなあ」
カントク世代だけでなく、高木もそれは疑ってもみなかった。
「僕は、ヒナちゃんの説を支持するね。神武東征やヤマトタケルの東征物語をよく読むと、征服軍による侵略戦争の場面なんてどこにも出てこないからね」
長老の意見は重い。
「では、ヒナちゃんは斎瓮を据えるというのを、どう解釈するの」
ヒメの質問は続く。
「景行天皇が印南を訪れたのは、印南別嬢への妻問いでした。同じように、この地の大石王が仲人になって、吉備津王と娘をイサセリヒコにここで引き合わせ、イサセリヒコが瓶を据え、神の前で契りの酒を交わしたのではないでしょうか」
ヒナちゃんはよく考え抜いている。
「しかし、吉備津彦が鬼の温羅(うら)を討った有名な桃太郎の鬼退治の伝承が残っていることからみると、イサセリヒコは吉備国を軍事征服したのではないのでしょうか」
高木は食い下がった。
「それはどうかな。吉備国の王族に内紛があって、吉備王・温羅に対立する吉備の津=港を支配する吉備津一族がイサセリヒコを婿に迎え入れ、その力を借りて温羅王を討った、とも考えられるんじゃないかな。温羅の首を吉備津神社の一角に埋めたということは、単なる敵ではなく、温羅が同族の王であったから手厚く葬ったような気がするなあ」
慎重な長老から珍しく反撃を受けた。しかし、簡単にヒナちゃんに降伏するのはしゃくだった。
「播磨国風土記には、景行天皇が息長命を媒(なかひと)として印南別嬢に妻問いした時には、剣の上に玉、下に鏡を掛けた、と書かれています。妻問いで『忌瓮(いんべ)を居える』というやり方があったのでしょうか」
「景行天皇の場合は、印南別嬢を正妃として迎えるわけですから、天皇家の三種の神器である剣と玉と鏡を飾って、結婚を申し込むのは当然と思います。一方、神と共に酒を酌み交わすのは、出雲系の儀式です。崇神天皇に捧げられた『此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒・・・』の歌や、神功皇后が誉田別皇子を迎えた酒宴での歌『此の御酒(みき)は 吾が御酒ならず・・・常世に坐す・・・少御神の・・・奉り来し御酒・・・』のように、大国主や少彦名が作った酒と考えられています。『忌瓮』の酒を共に飲む儀式は、出雲系の針間と吉備津の王に合わせた儀礼だったのではないでしょうか」
ヒナちゃんの推理は用意周到であった。
「『忌瓮』について、境界決定説、戦勝祈願説、妻問い説の3つがでたというところで、これまでにしておきましょう。イサセリヒコ、後の吉備津彦の娘が印南別嬢というのは、時代が合わない、ということだったよね。それはどうなの?」
マルちゃんが整理に入ってきた。
「吉備津王となったイサセリヒコの娘が、印南の大石王のもとに嫁ぎ、そこで生まれた子どもかその孫が印南別嬢ではないでしょうか。伝承では、その間が欠落した可能性があります」
最後まで考えているヒナちゃんの答えにはよどみがなかった。
「印南別嬢が、大国主・少彦名の国造りの拠点であった針間の印南を拠点とする大石王と、吉備津王の一族の間に生まれた王女だとすると、その子のヤマトタケルは大国主の子孫ということになるね」
ヒメの頭の中では、次の推理小説の物語が大きく展開しているはずであった。
「酒瓶説の推理はさすがと思うけど、もう少し裏付けが欲しいな」
カントクのないものねだりであった。
「実は、少し気になることがあります。前に言いましたが、日岡山の神は播磨国風土記では『伊波都比古命』でしたが、延喜式神名帳では『イササヒコ』に変わっています。そして、神社伝承では、印南別嬢のお産の時に『イササヒコ』が祈り続けて無事にヤマトタケル兄弟が生まれた、という伝承が残っていましたよね。このイササヒコの名前は、イサセリヒコと似ていません? 例えば、吉備津のイサセリヒコの娘が『伊波都比古命』のところに嫁いでいたとしたら、その父の名前の一部分をとった名前を付ける可能性があるのではないでしょうか。そして、その娘が印南別嬢だったとしたら、なんて、推測に推測を重ねることになりますが」

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
      霊の国:スサノオ・大国主命の研究(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
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