ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団139 史聖・太安万侶の古事記からの建国史

2022-07-29 16:12:23 | 太安万侶

 私のスサノオ・大国主建国論は、古事記(ふるのことふみ)を中心に置き、日本書紀・風土記・万葉集、魏書東夷伝倭人条・後漢書・三国史記新羅本紀などの文献、神社伝承や民間伝承、地名、物証(農耕痕跡・石器・玉器・青銅器・墓等)などを総合的に検討してきましたから、古事記の評価が何よりも重要となります。

 これまで「古事記偽書説」「記紀神話8世紀創作説」「太安万侶非実在説」など、シュリーマン以前の19世紀のヘーゲル左派の「キリスト神話説」「キリスト非実在説」に倣った「日本神話否定史観」に対し、私は太安万侶こそが日本の「史聖」であり、古事記こそが「日本最初の根本史書」であると考えています。

            

 「スサノオ・大国主建国論と天皇家建国論の2層構造」の古事記と、「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー3表現」で書き上げた太安万侶の復権と名誉回復を図っておきたいと考えます。

 

① 津田左右吉氏の神話分析は「キリスト神話説」「キリスト非実在説」のコピー

 ウィキペディアは「津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを学術的に解明した点である」「記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした」とし、「津田の説は、戦後の古代史研究における大きな成果であり、津田史観と呼べる見解は今日の歴史学・考古学の主流となっている」と高く持ち上げていますが、一方「日本史の坂本太郎や井上光貞は、津田らの研究が『主観的合理主義』に過ぎないという主旨の批判を行っている」「津田が歴史史料以外を信用せず、考古学や民俗学の知見を無視したことに批判がある」との批判も載せています。

     

 しかしながら、この井上氏も「この日本神話は、津田左右吉氏が見事に分析したように、皇室がどうしてこの国土を統治するのか、その由来を説明しようとした政治的な神話であって、おそらく6世紀の宮廷でできたものであろう」「はじめから神々の世界のこととして意識されていたのであって、人の世の話として伝え、記したのではない」「日本神話は、国家観念の形成過程を知るためには最も大事な材料ではあるが、国土統一の史的過程をたどるという主旨からいえば、はじめから問題の外においてよいであろう」(岩波新書『日本国家の起源』)とヨイショしており、私もこの本を大学時代に教養書として読んで「なるほど」と思い込んでいましたから津田史学の根は深いといえます。

 今、必要なことは、津田氏の「成果」なるものを世界史の中で位置づけてみることです。

 私は津田氏の分析は19世紀のドイツのヘーゲル左派の無神論からの「キリスト神話説」「キリスト非実在説」の方法論のコピーであると見ていますが、シュリーマンが1873年にギリシア神話をもとにトロイア遺跡を発見したことを当然ながら津田氏は知り、「歴史的事実の神話的表現」「神話の中に込められた歴史的事実」についての知識を持ちながら、1919年に『古事記及び日本書紀の新研究』などを書いているのであり、この津田史学は歴史学をシュリーマン以前に後戻りさせた大きな誤りを犯していると私は考えます。

 その後、「キリスト教考古学」「聖書考古学」が生まれ、旧約聖書や新約聖書に書かれている記載の真偽が考古学的に解明されてきているにも関わらず、未だに記紀神話の真偽を確かめる「日本神話考古学」「古事記考古学」が本格的に取り組まれていないことは津田史学の悪弊と考えます。森浩一同志社大名誉教授によって神話が考古学的に検証された本を読んだ記憶がありますが、他にまともな研究はないのではないでしょうか?

 津田氏が戦前に天皇を現人神とする皇国史観と戦った勇気は高く評価し尊敬しますが、記紀神話から真実の歴史を解明する努力をせず、記紀神話の全てを虚偽と決めつけ、「たらい水(記紀神話)とともに赤子(真実の歴史=スサノオ・大国主建国史)」を流してしまい、記紀神話をゴミ箱に掘り込み5世紀以前の日本史をないことにし、太安万侶の尊厳・名誉を汚した責任は大です。

 戦後になっても、わが国の歴史学者たちは、古事記・日本書紀(以下記紀と表記)や魏書東夷伝倭人条などの総合的分析から真実の歴史を探究することを放棄し、中には考古学こそが科学であるという「タダモノ(唯物)史観」に陥り、あるいは日本神話のルーツを朝鮮神話やギリシア神話・東南アジア神話、ユダヤ神話などのコピーとする拝外・卑屈史観まで現れる始末です。翻訳コピー学者が幅を利かしている日本の常識からでしょうが、太安万侶らもまた外国神話をコピーして日本神話を創り上げた、と思い込んだようです。

 このヘーゲル左派流の悪しき伝統は、「太安万侶非実在説」「聖徳太子非実在説」や「金印偽造説」などの亜流を生み出し、19世紀レベルの「あれもおかしい、これもおかしい懐疑主義」の薄っぺらい感想で枯れ木に花を咲かせ、真実の歴史の探究を妨げています。

 太安万侶非実在説の誤りは、1979年に墓と墓誌が発見されたことにより証明されましたが、そのヘーゲル左派流の津田史学の記紀解釈の誤りは未だに正されていません。

       

 考古学は開発でたまたま見つかった遺跡の発掘・整理に追われる「たまたま考古学」に終わっており、とくに悪質なのは発掘遺跡の値打ちをあげるために、記紀や魏書東夷伝倭人条からアマテルや卑弥呼だけをピックアップする「つまみ食い史観」が幅を利かせていることです。記紀神話は信用できないと津田史観に乗っかりながら、ちゃっかりとアマテル神話だけは歴史的事実としてつまみ食いするのですから「ペテン氏学(史学)」という以外にありません。

 アマテル神話を真実として採用するなら、記紀に書かれている大物主(スサノオの御子の大年:代々襲名)一族の美和(三輪)の磯城の歴史、特に大国主と大物主の国づくり連合が成立した時の「大国主が美和山のスサノオ・大物主を祀る」という条件を真実と認め、磯城の「間城(真木)」の向いにある「纏向」の大型建物は大国主一族のスサノオ祭祀拠点として認めるべきなのです。―ライブドアブログ「邪馬台国ノート2 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」(200128)参照 

 シュリーマンを持ち出すまでもなく、わが国ではスサノオ・大国主神話を裏付ける銅矛・銅槍(通説は銅剣)・銅鐸文化を統合した日本最大の青銅器集積地の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡が1983・1996年に発掘された以上、出雲神話を8世紀の創作とした19世紀のヘーゲル左派流の津田史観は全面的に見直されるべきであったにも関わらず、守旧歴史学には全面的見直しの機運は生まれていないようです。

  

② 右派・左派ともに不都合な古事記神話 

 私は2001年に仕事先の青森県東北町で「日本中央」の石碑に出会い、2003年に小川原湖についてキャットボート(小型ヨット)の原稿を書いている時、八甲田連峰に「雛岳」を発見したことから「日=霊(ひ)」の古代史の研究に入りました。

 そして『古事記』に初めて目を通してビックリしたのは、日本神話はスサノオ・大国主の建国を中心に書かれ、高天原の所在地は「筑紫日向橘小門阿波岐原」、ニニギが天下ったのは薩摩半島南西端の「笠沙阿多」(仕事で通いニニギの妻の阿多都比売伝承があることを知っていました)だったことです。九州天皇家3代は阿多を拠点としており、姫路西高校の修学旅行で連れて行かれた宮崎県の鵜戸神宮など縁もゆかりもない後世のでっち上げだったのです。

 修学旅行コースに鵜戸神宮を入れるなら、同時に南さつま市の阿多にも生徒を連れて行き、縄文遺跡や古事記を勉強させるべきでしょう。すぐ近くには丸木舟製作道具の丸ノミ石器や琉球・韓国でも発見されている曽畑式土器の栫ノ原遺跡があり、縄文時代からの海人族の重要な交易拠点であったのです。

 皇国史観は高天原の所在地を天上にして天皇一族を「天津神」「天孫族」とし、スサノオ・大国主一族を「国津神」とし、出雲を地下の「根の国」、笠沙2代目のホオリ(山幸彦=山人(やまと)=猟師)と3代目のウガヤフキアエズの妻となった姉妹の住む「龍宮(琉球)」を海底とする垂直構造に置き換えて日本神話を歪曲しましたが、古事記をちゃんと読めばスサノオ・大国主やアマテル(天照)、ニニギらの神話は「水平構造」で記述されているのです。―ライブドアブログ「邪馬台国ノート:琉球論1~7」(200131~0220)参照

 皇国史観を受け継いだ戦後の天皇中心史観=大和中心史観の一番の弱点は、この「高天原神話・天下り神話」であり、元々のこの国の建国者が大国主であることを「国譲り神話」は示し、天皇一族のルーツは薩摩半島であるとしているのです。そこで右派の天皇建国論の歴史家たちは、スサノオ・大国主一族の建国史である記紀神話は全面的に無視する以外になく、津田史観は好都合であったのです。

 一方、反皇国史観の左派・リベラルの反天皇制の歴史家たちは天皇神話を全面否定したいために、津田史観を金科玉条としてスサノオ・大国主神話と天皇神話をまとめて8世紀の創作にしてしまったのです。日本神話は無視すべきものであり、日本神話から真偽を選り分け、真実の歴史を解明するなどトンデモないことだったのです。

 冤罪事件でよく語られる「腐ったリンゴと毒入りリンゴ」に例えると、記紀神話を「腐ったリンゴ」とみて腐ったところだけ捨てて美味しく食べるか、「毒入りリンゴ、食べたら死ぬで」として全部を捨ててしまうかですが、戦後の右派(天皇中心史観・大和中心史観)は日本神話からアマテル、魏書東夷伝倭人条から卑弥呼だけをつまみ食いし、左派は「神話=腐ったリンゴ」として全て捨ててしまったのです。

 今、必要なことは、記紀神話の「腐った部分(後世の創作)」と「生の部分(真実の伝承)」を仕分けし、「伝言伝承ミス」(襲名など)や「意図した矛盾表現」「真実の神話的表現(カモフラージュ作戦)」などに注意しながら、紀元前1世紀からのスサノオ・大国主建国の歴史を解明することです。

 今さら19世紀のヘーゲル左派の方法論ではありません。

 

③ 「史実の神話的目くらまし表現」の太安万侶のテクニック

 古事記序文の冒頭で太安万侶は「乾坤初分(けんこんはじめてわかれ)參神作造化之首(さんしんぞうけのおびととなり)、陰陽斯開(いんようここにひらけ)二靈為群品之祖(にひぐんぴんのおやとなる)」と書きながら、本文では「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御産巣日(たかみむすひ)神、次神産巣日(かみむすひ)神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也」としています。序文では參神(天之御中主、高御産巣日、神産巣日)のうちの「二靈為群品之祖」として二靈(にひ)を神々を産んだ祖としながら、本文では三柱を「獨神」として異なる説明をしています。また、本文の「二日」を序文は「二靈(ひ)」と表記していますが、日本書紀もこの2神を「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」と明記し、この「産霊(むすひ)2神」を海人族の始祖神としているのです。古事記・日本書紀は、この国の始祖神をアマテルではなく、産霊(むすひ)2神にしているのです。

 この序文と本文の明らかな食い違いから、津田流合理主義的解釈だと「太安万侶はバカ」になるのでしょうが、太安万侶は虚偽の神話(高御産巣日、神産巣日は独身の日を産む神)と、真実の歴史(高皇産霊・神皇産霊は人々(群品)=霊(ひ)を産む夫婦神)を同時に記して読者に判断をゆだね、「天皇中心建国史」を書きながら「スサノオ・大国主建国史」も同時に書き残しているのです。

 同じように、「天地初発時(てんちはじめてひらけたとき)」に「高天原」は天にあったかのように書きながら、高天原は地上の「筑紫日向(ちくしのひな)橘小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわきばる)」にあったとしているのです。

 また、スサノオ~大国主7代の系譜を載せながら、大国主がスサノオの娘の須勢理毘売と結ばれる物語を書き、さらに大国主一族10代の系譜を載せた後に、アマテル(スサノオの姉)が大国主に国譲りさせる話がでてくるのですから、懐疑主義者にとっては太安万侶は混乱したバカにしか見えないのでしょう。

 しかしながら、私の祖母の家が江戸時代、代々「太郎右衛門を」襲名していることからみても、スサノオやアマテルなどは襲名していた可能性が高く、太安万侶の時代にはそれこそが常識であっていちいち説明を付けなかったと考えられます。また、太安万侶は4人の実在アマテル(スサノオの異母妹、大国主の筑紫妻・鳥耳、筑紫大国主王朝11代目の卑弥呼、12代目の壹与(復活アマテル))を一人のアマテルに合体させて天皇中心史とするとともに、スサノオ・大国主16代の歴史も隠すことなく上手くちゃっかりと書き残しているのです。

 なおイヤナミの死後、イヤナギはアマテルやスサノオ「筑紫日向橘小門阿波岐原」で禊をして筒之男3兄弟(博多を拠点とする住吉族)や綿津見3兄弟(志賀島を拠点とする安曇族)、アマテル・月読・スサノオたちを生んだと書く一方で、スサノオは八拳髭が胸にかかるまで母の根の堅州(かたす)国に行きたいと泣いたと書き、イヤナギが出雲の揖屋でイヤナミに妻問いして生まれたスサノオは長兄であり、イヤナミの死後、筑紫の各地でイヤナギが妻問いして生まれた御子たちが異母弟・異母妹であることを隠していないのです。―ライブドアブログ「帆人の古代史メモ:アマテル論1~8(200216~0319)」、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに、太安万侶は笠沙天皇家初代のニニギが阿多都比売を妻とし醜い姉の石長比売(いわながひめ)を親の元に返して呪いをかけられ、「天皇命等之御命不長也(天皇らの御命は長くないなり)」と書く一方で、2代目のホホデミは「伍佰捌拾歲(五百八拾歳)」とし、4代目の大和天皇家の初代・ワカミケヌ(8世紀に神武天皇の忌み名)を137歳とするなど16代の天皇年齢を倍に長くしています。

 このような混乱から太安万侶のレベルは低い、古事記は信用できないとしてきたのがこれまでの歴史家たちですが、神話時代32代(新唐書)のうちの16代を天皇家の正史とし、スサノオ・大国主16代を隠してしまったことのつじつま合わせを太安万侶はきちんと埋め合わせ、真実の歴史解明の手掛かりを後世に残しているのです。―「神話探偵団131 『古事記』が示すスサノオ・大国主王朝史」『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 このように、太安万侶はスサノオ・大国主一族の真実の歴史と、天皇家を中心とした国史の両方をどちらとも読めるように、前者は神話的表現で、後者は矛盾表現と虚偽表現を使い分けながら書き残しているのです。

 

④ 史聖・太安万侶は「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー作家」

 1979年に太安万侶の墓と墓誌が発見され、「太安万侶非実在説」は消え去りましたが、今度は墓誌の「従四位」が中級貴族レベルの位であり、皇族(舎人親王)が関わった正式な史書『日本書紀』と較べてレベルが低い、というような見方がでてきています。「目方で男が 売れるなら こんな苦労もかけまいに」はフーテンの寅さんの『男はつらいよ』の歌詞ですが、「肩書で真実が決まるなら」と考えている歴史家がいるようです。

 「レベルの低い歴史家」「天皇家の権威を高めるために歴史を捻じ曲げて書いた歴史家」というレッテルを張られた太安万侶に対して、私は「太安万侶は天皇家のための歴史書を書きながら、スサノオ・大国主建国の真実を密かに後世に残した偉大な歴史家」であり、天皇家のための「表の歴史書」と、スサノオ・大国主建国の「裏の歴史」「真実の歴史」を伝え残した歴史家、としてその功績をたたえたいと考えます。

 司馬遷の『史記』などを詠んできた歴史家は『古事記』を読んで、「これは歴史書ではない」と頭から決めつけたのも当然かと思います。揖屋でイヤナミ(伊邪那美)が国々や人々を生み、死んだときにはイヤナギ(伊邪那岐)が「黄泉国」を訪ね、「筑紫日向(ちくしのひな)」に行ったイヤナギが禊をして黄泉の汚垢(よごれたあか)」から神々を生んだり、アマテルが死んだ後に天石矢戸(石棺の蓋)から復活したり、スサノオが殺した大気津比売の死体から五穀や蚕が生まれ、大国主が稲羽の白兎を助け、兄弟王子たちに2度殺された大国主が生き返る話や、有名なヤマタノオロチ退治が出雲国風土記には書かれていないなど、記紀神話は到底信用できないと考えるのは無理はありません。

 おそらく歴史家の皆さんは、推理小説(ミステリー)やファンタジーなどのフィクションは大嫌いで、ドキュメンタリーですら歴史書より低く見ていると思いますが、もしも推理小説に関心がある人であれば、いくつもの矛盾した証拠の中に真実の手掛かりを巧妙に伏せ、鋭い読者が「真犯人」にたどり着けるように書く推理小説家の手法や、空想的なウソ話で人間の変わることのない真実(友情や愛情、勇気、正義、人の悲しみなど)を伝えようとするファンタジー小説家の手法に敏感であったはずです。

 太安万侶の古事記には矛盾する話や非現実的な話がいくつもでてきますが、そこにミステリー作家やファンタジー作家の手法があると考えるかどうかが、『プレバト』流にいえば「才能あり」と「才能なし」「凡人」との分かれ目ではないでしょうか?  

 私は太安万侶は世界でも珍しい「歴史ドキュメンタリー・ミステリ―・ファンタジー作家」であり、「史聖・太安万侶」として「歌聖・柿本人麻呂」や後の「俳聖・松尾芭蕉」「画聖・葛飾北斎」に並び称されるべきと考えます。この4聖人の中で太安万侶だけが低い評価を受け、古事記を文学的に分析すことなどなかった「津田史観」の非科学的な歴史学のレベルにはびっくりです。

 太安万侶は「歴史家」であるとともに、「日本初の偉大なドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー作家」であたという視点で古事記は読み解くべきと考えます。ここは歴史家ではなく、素人のミステリー・ファンタジー大好きの皆さんの出番です。

 ここで1つだけ雉鳴女・天若日子連続殺人事件の事例をあげておきたいと思います。ーライブドアブログ「帆人の古代史メモ:アマテル論6 『天若日子殺人事件』と『事代主入水自殺事件』」、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 古事記によれば、アマテル2(筆者説は大国主の筑紫妻・鳥耳)は大国主の下に御子のホヒ(穂日)を派遣しますがホヒが大国主に媚びて3年間報告しなかったので、ワカヒコ(天若日子)に「天魔迦子弓(あめのまかこゆみ)」と「天之波波矢(あめのははや)」を持たせて出雲に派遣します。ところがワカヒコは大国主の娘・下照比売(したてるひめ:母は宗像族の 多紀理毘売)と結ばれて8年間高天原に報告しなかったため、雉鳴女(きじのなきめ)を派遣して命令を伝えたところ、ワカヒコは「天乃波止弓(あめのはとゆみ)」を使い「天之加久矢(あめのかくや)」で鳴女を射殺し、高天原に届けられた矢を犯人へ還矢(かえしや)したところ、ワカヒコの胸に当たったというのです。

 そこで、アマテル2は高天原からホヒの息子のヒナトリ(天日名鳥:天鳥船)に建御雷(たけみかづち)を添えて出雲に派遣し、事代主(ことしろぬし:言代主)を自殺に追い込み、建御名方(たけみなかた)を諏訪湖まで追って降伏させ、大国主を引退(国譲り)させてホヒ・ヒナトリ親子が大国主の後継王となったとしています。

 ここで問題なのは、ワカヒコは「天之波波矢(あまのははや)」を持っていたのに、ナキメとワカヒコは「天之加久矢(あまのかくや=天鹿食矢)」で射殺されていることです。名前からみて前者は海人族(漁師族)のボウフィッシング(弓矢漁)の矢で、後者は山人族(猟師族)の鹿狩り用の重い貫通力のある矢と考えられます。

 古事記はワカヒコがナキメを天之加久矢で殺し、高天原の高木神がその矢を返したところ犯人のワカヒコに当たったとし、高天原の内部争いのように書いていますが、推理小説ファンとしては納得しないのではないでしょうか?

 ワカヒコがナキメを殺すなら、射損じることのない使い慣れた天魔迦子弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を使うでしょうし、ホヒの一族が大国主に気に入られているワカヒコを殺すなら、犯人が猟師族(山人)が使う天之加久矢(あめのかくや)を使うことは考えにくいことです。

 大国主の180人の御子たちの後継者争いで、出雲の言代主、筑紫日向のホヒ、壱岐のワカヒコ、諏訪のタケミナカタ(建御名方)のうち、ワカヒコを殺したのはホヒの一族なのでしょうか?

 太安万侶はちゃんと手がかりを書いています。筑紫日向(ひな)の高天原(海の一大国(いのおおくに)に対し山の壹の国)のアマテル2(鳥耳)はホヒの子のヒナトリ(天日名鳥=天鳥船)と建御雷を出雲に派遣しますが、大国主に談判した時、大国主は「僕者不得白、我子八重言代主神是可白」(僕は白すことができない。我が子、八重言代主神、これ白すべし)と、ワカヒコ殺害の白黒は知らない、言代主(ことしろぬし)に聞けといったとしているのです。

 古事記では剣を後ろの波際にたて、その前に座って建御雷が国譲りの交渉を行ったかのように書かれていますが、「白す」とは「お白州」や「白黒」の表現に見られるように、真実を問う表現であり、国譲りの問答ではなく、ワカヒコ殺害の真相解明をヒナトリたちは大国主に求めたのです。

 その後、ヒナトリにワカヒコ殺害を問い詰められ、言代主が美保の岬で「入水自殺」していることを見ると、「天之加久矢=天鹿食矢」による暗殺は偽装工作で、ワカヒコ殺害の真犯人は言代主だった可能性が浮かび上がります。

 太安万侶は雉鳴女・天若日子連続殺人事件の犯人を「ホヒ説」「事代主説」の両方で書いているのですが、後継者争いに別の5人目の御子がいて犯人であった可能性はないとはいえませんが、大国主の「我が子、八重言代主神、これ白すべし」の発言は大国主が事代主を疑っていた可能性が高いと考えます。

 この事件はこれまでほとんど注目されてきていませんが、ミステリーファンの皆さんは、「連続殺人」「凶器の矛盾」「高天原からの還矢の不自然さ」「関係者の自殺」などから真犯人は誰か、推理を働かせてみて頂きたいと考えます。

 そうすれば、大国主のアマテルへの国譲り神話が天皇家への権力移譲ではなく、大国主が全国各地でもうけた180人の御子たちの後継者争いであり、筑紫日向の高天原のアマテル2(鳥耳)の御子であるホヒが後継王となったという真実の歴史に気付くに違いありません。

 太安万侶は時代の異なる実在した4人の襲名アマテルを合体して1人のアマテルにし、天皇家の祖先として大国主から国譲りされたとしながら、真実の歴史もまた秘かに伝えているのです。

  

 皇国史観・反皇国史観に感染していない若い世代の皆さんには、是非とも古事記・日本書紀神話をミステリー・ファンタジーとして読み直してみていただきたいものです。

 なお、その際には神話時代については、全て倭音倭語で読むべきと考えます。特に、大海人皇子(おおあまのおうじ)が壬申の乱で勝利し、武(あまたける)天皇となったことをみても、古事記(ふるのことふみ)分析においては、海人=天として分析していただきたいものです。

 スサノオ・大国主の葦原中国(委奴国)からの伝統的な部族社会連合から天皇中心の中央集権国家を目指した天武天皇は、「帝皇及び本辞」「帝皇日継及先代舊(旧)辭」を稗田阿礼に誦(よ)み習わし、それを太安万侶が編集したと古事記序文は記していますが、この「本辞=旧辞」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「国記」ではないか、と私は考えています。スサノオ系の蘇我一族(「あいういう」5母音では蘇我=須賀)の聖徳太子・蘇我馬子作成の「国記」には、おそらく32代の神話時代から大和天皇家への歴史が正しく記述されていたと私は推測しています。

 太安万侶は4人の襲名アマテルを1人に合体して天皇家中心の歴史に書き直しますが、同時にスサノオ・大国主16代の系譜を載せるなど、秘かに真実の歴史を隠すことなく秘かに書き残しています。

『プレバト』の夏井いつきさん流に言えば、「太安万侶、すごい」です。

⑤ 「2層構造・3表現」の古事記神話

 以上から、私は古事記は「スサノオ・大国主建国と天皇家建国の2層構造」の歴史を「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー3表現」で太安万侶が書き上げた日本史の根本史料であると考えています。

 近代合理主義の感覚で古事記を歴史書として読んだことがそもそものボタンの掛け違いであり、「歴史家でありドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー作家」であった太安万侶の作品として古事記を読むべきなのです。

 「レベルの低い歴史家」「天皇家の権威を高めるために歴史を捻じ曲げて書いた歴史家」とされた太安万侶の汚名が張らされない限り、日本の歴史学を私は科学として認めることはできません。

 「史聖・太安万侶」の復権を求めたいと思います。

  

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

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「NoWar45 元寇(蒙古襲来)とウクライナ」の紹介

2022-07-24 11:39:16 | 戦争論

 楽天ブログ「NoWar2022」に「45 元寇(蒙古襲来)とウクライナ」をアップしました。https://plaza.rakuten.co.jp/nowar2022/

プーツァーリ・プーターリンのロシア帝国のウクライナ侵攻に対し、「ロシアとウクライナはもともと同一民族」「ウクライナは和平(降伏)を選ぶべきであった」などの意見が見られますが、日本の3つの侵略戦争と元寇(蒙古襲来)の歴史から、モンゴルの攻撃・支配を受けた歴史を持つウクライナの戦争を考えてみましたので紹介します。

本ブログの「スサノオ・大国主建国論」とは直接は関係しませんが、世界史と日本史の繋がりを考える参考にしていだければと思います。 雛元昌弘

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「縄文ノート146 日本人似の外国人」の紹介

2022-07-21 15:49:26 | 日本民族起源論

 はてなブログに「縄文ノー146 日本人似の外国人」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 私の母親ゆずりの丸顔・広額は中国南部系では、ガッシリ短足は縄文系か、母方の祖母・曾祖母・叔父の長身足長体系はドラヴィダ系では、父方の叔父の長身胴長体系は北方騎馬民族系では、高校時代に好きだった同級生や長男の妻は東南アジア系ではなどと夢想していましたが、リタイアして増えたテレビ番組を見ていると、ブータン人にはかなりの割合で日本人に似た顔があり、チベット人やブリヤート人にも似た顔がみられ、中国の雲南省・四川省などのイ族(夷族、烏蛮族、ロロ族など)やミャンマー・タイなどの東南アジア山岳地域の少数民族にも日本人似がかなり見られます。エチオピア人にも日本人似がいてびっくりすることもあります。

 もともとの人類全てのルーツが同じアフリカにあり、多民族遺伝子同士では、互いに似た者同士がいて当然なのですが、日本人同士でも私はよく「あんた〇〇ちゃん」と間違えられたことがあります。

 この機会にHPを検索してみると、「日本人に顔が似ている民族・国家 TOP20」というブログがヒットしましたので、紹介しておきたいと思います。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、対馬・壱岐の海人族がルーツのスサノオ・大国主一族は弥生人(中国人・朝鮮人)なのか、それともドラヴィダ語族系の東インド・ミャンマー山岳地域あたりをルーツとする縄文人なのか、検討を行う参考にしていただければと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

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神話探偵団138 「神武東征」についてー若御毛沼命の河内湖通過時期

2022-07-15 15:05:46 | 建国論

 もともとFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論54 若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について」(2014.10.19)にアップしていたのですが、当時、忙しかったのか図を掲載しないままになっていました。

 この論点は、スサノオ・大国主建国にとっても欠かせないテーマであり、FC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」で再掲するとともに、ここに掲載しておきたいと思います。「スサノオ・大国主建国」「邪馬壹国(やまのいのくに:筆者説は筑紫大国主王朝)」と「天皇家建国」を結ぶ接点の1つである「神武東征」について考えていただければ幸いです。 雛元昌弘

1.「神武東征」か?

 記紀に書かれた五瀬(いつせ)と稲氷(いなひ)、御毛沼(みけぬ)、若御毛沼(わかみけぬ)(後の伊波礼琵古=磐余彦(いわれひこ)、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))ら4兄弟のいわゆる「神武東征」については、①日向(宮崎県)出征説(皇国史観派)、②記紀神話創作説(反皇国史観派)に対し、③邪馬台国東遷・東征説(安本美典氏など)や私の④薩摩半島西岸笠沙阿多の傭兵部隊東進説などがあります。

      

 『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院)や『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)、ブログ「霊の国の古事記論」などで、私は「薩摩半島西南端の笠沙阿多の山幸彦(山人(やまと)=猟師)の4兄弟たち傭兵部隊の仕官を求めての移動説」を展開しており、「若御毛沼実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第4の説です。

 なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめますが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、3人の実在した襲名アマテル(イヤナギの御子のスサノオの異母妹、大国主の筑紫妻・鳥耳、筑紫大国主王朝11代目の卑弥呼=霊(ひ)巫女)、壹与(男王と争った卑弥呼の後継女王)を合体して創作されたアマテル(天照大御神)を除き、ほぼ実在していた人物と考えます。

 

2.神話時代の年代論について

 皇国史観は神武即位を「BC660年」としましたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」としています。

 いずれもAD239~248頃の卑弥呼の時代より前であり、卑弥呼は大和国の女王とし、モモソヒメ説、神功皇后説などに分かれています。

 これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏です(図2参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行っています。

      

 図3に示す30~40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では神武即位は「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持します。

   

 この安本・雛元説だと、「神武東征」は邪馬壹国の卑弥呼死後の争乱後になり、記紀に書かれた卑弥呼の候補者としては、アマテル(天照大御神)になります。なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていませんが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めています。

 詳しくは『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいのですが、古事記によれば天御中主から薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代目の彦瀲(ひこなぎさ)(ウガヤフキアエズ:大和天皇家初代のワカミケヌ=神武の父)までは16代(別天つ神4代+神世7代+高天原2代+笠沙天皇家3代)ですが、『新唐書』によると遣唐使は天皇家の祖先を「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と自言したとされ、16代の欠史がみられるのです。

 そして、その16代の空白を埋めるように、古事記はスサノオ・大国主7代、鳥耳を妻とした大国主10代の合計16代の系統を載せ、大国主のアマテルへの国譲りへと続けているのです。

 この事実は出雲でイヤナギから生まれた長兄スサノオの異母妹の筑紫のアマテル1と、大国主に国譲りさせた6代ほど離れた別の女王アマテル2は別人であり、さらに卑弥呼は筑紫大国主王朝11代目のアマテル3であることを示しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)、「帆人の古代史メモ アマテル論1~8(200213~0326)」参照

    

 古事記記載の王の順番どおりに「別天つ神4代+神世7代+スサノオ6代+大国主10代+高天原2代+笠沙天皇家3代」の合計32代が真実の歴史であり、私はこの大王の順に推計を行いました。―図3・表1参照

 そしてAD57年の「委奴国王」の後漢への遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7~80年支配した王朝」、146~189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の魏への遣使、弟王との後継者争いの後に共立された「壱与」の266年の遣使と古事記・日本書紀との照合性を検討し、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(おみずぬ)、「100余国を7~80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスという結論に達しました。

 

3.「神武東征」の時期について

 このような統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのでしょうか?

 その鍵となるのは、記紀に描かれたワカミケヌ(若御毛沼)4兄弟らの行動です。その記述は次の通りです。

 

古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき

②日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります

 

 この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時代を特定する鍵となります。

 

(1) 「速水門」はどこか?

 古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡ですが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も3.4ノットと緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所ではありません。

     

 「速水門」は、幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、6.7ノット(時速12.4㎞)と潮流の早い明石海峡とみて間違いありません。

    

 古田武彦氏は『古代は輝いていたⅡ』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としていますが、これは全くの事実誤認です。

 学生・院生時代に、四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早いのです。海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット(時速19.4㎞)、明石海峡6.7ノット(時速12.4㎞)であり、備讃瀬戸の3.4ノット(時速6.3㎞)、播磨灘の0.4~0.5ノット、大阪湾の0.3~0.5ノットと較べると明石海峡は「速水」なのです。

 一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(5.7ノット)になりますが、豊予海峡は15kmと広く、幅3.5㎞の明石海峡のと較べてみても「門」と言えるような地形ではありません。

 奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊後水道に変えたとしか考えれられません。

 

(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か

 若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのですが、それは史実でしょうか、史実ならいつの時代でしょうか、あるいは8世紀の創作など可能でしょうか? 以下、検討したいと思います。

 長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』と前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』、HP「水都大阪」のデータによると、河内湾・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分されます。

 

 日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としていますが、それはどの時代のことでしょうか?

 まず、河内潟時代(BC1050~50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえません。

 

 次の、河内汽水湖時代(BC50~AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出します。

 想定される当時の「河内汽水湖」よりやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3~4ノット(1.5~2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1㎞ほどの狭い範囲です(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。

 この下げ潮の3~4ノット(1.5~2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができます。カヌーや競技用ボートが高速で8~10ノット(4.0~5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされていることからみて、汽水湖の下げ潮に逆らいながら特に苦労することもなく遡ることが可能です。

 私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられませんでした)をエイト(8人漕ぎの競技用ボート)でよく往復しましたが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでもゆうゆうと流れの速い瀬田川を遡ることができました。

 浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いありません。

 若御毛沼らが10~20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150~350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いありません。

 

 彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高いのです。

 大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてきません。

 

(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?

 「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いのですが、私はそこから2.3㎞ほど下った「枚岡(ひらおか)」を比定します。

 「7」を「しち」「ひち」と発音する「し=ひ」の例などからみて、「しらかた津」は古くは「ひらかた津(枚方津)」であった可能性が高く、「枚=比良」の地の海側が「枚方=枚潟(ひらかた)」、山側が「枚岡」地名であったと考えます。この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚(比良)」の湖岸にあった「枚潟」の港(津)の可能性が高いといえます。

 その時代が生駒山麓の陸地化が進む前の河内淡水湖時代(AD150~350)であることは、この「白肩津」からも裏付けられます。

 完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもありません。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られます。

 以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150~350年の河内湖Ⅰ時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかです。これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けています

 神武即位の「BC660年説」「BC70年説」BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しません。

 

4.「浪速国」の地名由来について

 日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、天皇命名地名の怪しさを示しています。

 古事記が「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せていることからみて、若御毛沼らがこの地に来る以前から「浪速」の地名があったことを示しており、その地名は流速の早い「渡(渡し場)」のある場所に由来していることが明らかです。

 なお、私は安本美典氏の北九州から畿内への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えますが、九州の地名を持ってきた人々は、紀元1~2世紀にこの地で水利水田稲作を普及させたスサノオ・大国主一族であると考えます。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできません。

 若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速の渡」があったことを記した古事記の記載がそれを証明しています。

 

5.「草香邑の白肩津」の由来について

 前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えますが、「ひらかた」というと関西の人は淀川を遡った「枚方」を思い浮かべるでしょう。河内汽水湖時代(BC50~AD150)には、「潟(かた)」はその周辺に広がっていたことを示しています。

 北の「枚方」に対し、西の「草香邑の白肩津」は、「日下(くさか)村」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いありません。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったのです。

 大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日」の子の「天日名鳥、天夷鳥、武日照」が「天比良鳥」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性があります。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示していると考えられるからです。

 記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ:祖先霊)の降り立つ聖地」というような意味になります。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることからみても、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高いと考えます。

 若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)は河内湖の入り口あたりの長洲(上町大地から南に延びる長柄砂州)からこの地を経て生駒山を越えた登美・富雄・鳥見あたりを支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であったと思われます。

 さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っていますが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地は出雲族の居住地であった可能性が高いと考えます。

 枚岡神社は中臣氏の祖の天児屋根命を主祭神としていますが、中臣氏から分かれた藤原氏が春日(か須賀)氏の社地を奪って春日大社を建てていることからみても、出雲族の長髄彦の社地を中臣氏が奪って枚岡神社とした可能性が高いと私は考えています。

 

6.「亀に乗ったサヲネツ彦」の「神話的表現」について

 古事記には、速水門でワカミケヌ兄弟らは「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」という印象的な記述が見られます。

 この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに創作された」というような結論を導き出すことができるでしょうか?

 まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能です。

第1の仮説は、甲板(デッキ)を設けた小型艇の甲板を「亀の甲」と呼んだ可能性です。丸木舟に舷側板を付けた舟(ボート)ではなく、甲板を付けた構造舟です。

第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)」に乗って釣りをしていた漁師の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性です。

第3の仮説は、「桶舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性です。「桶から瓶、瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスです。

 「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければなりません。

 さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)ですが、まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付きません。しかし実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能です。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもあります。

 「サヲネツ彦(槁根津日子)」は浦島太郎伝説のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の甲板舟」に乗った漁師の可能性が高く、それは九州沿岸に見られる板張り丸木舟(沖縄のサバニ、アイヌのイタオマチプ(板綴り舟))ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられます。―帆人の古代史メモ「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』200202」参照

       

 なお「さお」に「竿」「棹」の漢字を当てず、「槁(かれ-る)=木+高」字を当てているのは、「棹を持つ漁師」ではなく、「槁舟=ヨットに乗った漁師」を示していると考えます。

 ワカミケヌ兄弟らは、浦島太郎のような亀に乗った空想的な神話上の人物ではなく、帆船で釣りをしていた漁師に「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当です。

 

7.「神武東遷」まとめ

 以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかであり、真実を伝える「秘密の暴露」がみられます。

① 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖時代(AD150~350)の印象的な体験談を示しています。

② 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作です。

③ 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示しています。

④ 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談を示しています。

 

8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する

 以上の検討により、「神武東征」はなく、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)となり、神武即位年の「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しません。

 この結果は邪馬台国畿内説の崩壊を示しています。

 紀元239年頃に魏に使いを送り、248年頃に死んた卑弥呼は、271~277年頃に即位した神武より8~14代後の倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)とすることはできず、畿内説は全面崩壊です。

 卑弥呼=畿内アマテラス説は崩壊せざるをえません。古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続いていますが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいます。アマテラスは大和とは無縁です。

 なお、言うまでもありませんが、記紀神話創作説や2~9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫、倭姫だけを歴史上の人物として論ずる邪馬台国畿内説はそもそもナンセンスであり、何らの文献的根拠もありません。

 記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす新聞各社・NHKなどのマスコミ人は、この国の知性の崩壊を示しているといわざるをえません。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

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神話探偵団137 建国・国・文明・国家

2022-07-12 12:12:36 | スサノオ・大国主建国論

 スサノオ・大国主建国論をまとめる以上、「建国」や「国」「文明」「国家」の定義について、検討しておく必要があります。

 私はよく「趣味は古代史です」などと言ってきましたが、「古代はいつからなのか」と質問されるとどう答えようか面倒だなと思っていたこともあり、ここで整理しておきたいと考えます。 

⑴ 建国記念の日

 日本では1872年(明治5年)に制定された「紀元節」を復活し、1967年より2月10日を「建国記念の日」としています。

 日本書紀に書かれた若御毛沼(ワカミケヌ:神武天皇名は8世紀の忌み名)が即位したとされる日は1月1日ですがなぜか1月29日を記念日とし、さらに翌1873年には2月11日に変更しているのですが、こんな「建国記念の日」を定めているようでは、日本書紀の紀元前660年建国も公認されたことになりかねません。

 弥生式土器から昔は弥生時代を紀元前4世紀ころとしていましたから、神武天皇は縄文人で縄文時代に建国したことになります。最近では紀元前9世紀頃からの稲作開始からを弥生時代としていますから、弥生時代の建国、古墳時代より前の建国説になります。

 この科学的な裏付けのない「紀元節」「建国記念の日」「紀元前660年建国説」などを、歴史的な「建国」として私は認めるわけにはいきません。

「神話探偵団135 記紀神話の9つの真偽判断基準」で書いたように、天皇即位年の統計的推計により安本美典氏は神武天皇在位年を270~300年と推定し、私の推定では277年頃になります。

       

 日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。・・・遡流而(しこうして)上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」という表現は大阪湾が汽水湖であった河内湖の入口の様子を示しており、大阪湾と海水で繋がっていた紀元前1050~50年頃の河内潟時代の海面の状況ではなく、紀元前660年より前にワカミケヌたちが河内潟から大和を目指したことを否定しています。「遡流而上り」というのは紀元前50年以降かなりたって河内湖ができた後の河内湖へ入る入口の難波碕(現在の大阪城の北あたり)の様子を示しています(FC2ブログ「霊の国の古事記論54 若御毛沼命の河内湖通過(『神武東征』)時期について」では図の掲載ができていませんしたので、再度、アップしたいと思います)。

 なお、神武東征を8世紀の創作とする説が見られますが、この頃には河内湖は大阪平野となっており、「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というようなリアルな表現は創作しようもありません。なお右派の「神武東征説」、左派の「神武東征8世紀創作説」に対し、私の説は薩摩半島南西端笠沙の阿多の五瀬命ら4兄弟(若御毛沼は末弟)の「傭兵部隊東進説」です。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

     

 以上のように、笠沙天皇家4代目(大和天皇家初代)のワカミケヌが大和に入ったのは3世紀末のことであり、記紀の真偽分析(統計的分析と記述分析)を行うかぎりこの国の建国を天皇家からとすることはできず、後述のよう紀元1世紀の百余国の「委奴国」からとすべきと考えます。

 

⑵ 古代

 一方、世界の歴史区分の「古代」(文明の成立)についてウィキペディアを見ると、「通常、古墳時代もしくは飛鳥時代から平安時代中期または後期まで。始期については古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている」とされています。

 この「七五三論争」というのは何度も読んでよく記憶に残っていますが、日本史を天皇家の権力掌握から始めたい大和中心史観(天皇中心史観)の内輪もめ論争という以外にありません。

 いずれも世界史の中で、わが国の後進性を主張したい「日本劣等史観」という以外にありません。

 

⑶ 文明

 「古代」を文明の成立とする規定だと、「文明」の定義をまず見ておく必要があります。

 英語の文明の「civilization」は「civil=都市」を語源としており、日本の初期都市国家の成立でみると、吉野ヶ里遺跡が始まった紀元前4世紀頃、原の辻遺跡の紀元前2~3世紀頃からを「古代」とみることになります。

 「水田稲作による余剰食料生産からの支配層の出現」でみても、紀元前4世紀頃というのは1つの転換期にはなりますが、私は各地にできたこのような部族共同体の都市国家が連合され、広域交易(米鉄交易)と外交が行われるようになった紀元1世紀の「委奴国」を古代国家成立と考えています。

 なお、「ギリシア・ローマ文明」を原点とする西洋中心史観の文明の定義に対し、私は「生産・生活・精神文化」を総合して文明としてとらえるべきと考えており、部族社会の分業・広域交易段階の「縄文文明」の主張を行っています。―縄文ノート「49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明の世界遺産登録への条件づくり」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」参照 

 

⑷ 国(くに)

 「国」についてウィキペディアは「日本史においては、古くは中国史書『漢書』にあらわれる奴国(なこく)などがある」「『魏志倭人伝』収載の邪馬台国などの地方の『くに』の連合も記されている」「弥生時代に日本列島各地に政治的支配が始まり、その地方政権が支配する領域も『くに』と呼ぶようにもなった。これら地方の『くに』は、地域としてはのちの『郡」相当の広さしかない狭小な地域にすぎなかったが、政体としての独立性を保つ原初的政権であった」「ヤマト王権によって日本列島の統一が進行していった4世紀の古墳時代にあっては、そのような『くに』の地方豪族の首長を『国造(くにつのみやつこ)』に任じた」「これらとは別に、『大地』『土地』『出身地』に近い意味合いもあった。天津神に対する国津神(くにつかみ)の『国』は、天に対する地を意味し、実際、地の漢字が当てられることもあった」などと説明しています。

 この説明には重大な誤魔化しがあり、『後漢書』に紀元57年に「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」と書かれ、それに符合する「漢委奴国王」の金印が志賀島で発見されているという有名な事実を大和中心史観・天皇中心史観の筆者は意図的に省いています。なおこの博多湾の入口の志賀島はスサノオの異母弟・綿津見3兄弟を祀る志賀海神社があり、海人族の安曇族の本拠地であり重要な交易拠点であった可能性が高いと考えます。

          

 光武帝は冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ外臣に与える金印を委奴国王の使人に与えたのであり、当然ながら委奴国王は「どこの馬の骨とも分からない人物」などではなく、委奴国王として皇帝に親書を使者に託す正式な外交的手続きをきちんと行ったからこそ、「漢委奴国王」の金印を与えているのです。

 その2年後の59年には倭人の4代目新羅国王・脱解(たれ)が倭国王と国交を結んだことが『三国史記』新羅本紀に書かれており、日本書紀によればスサノオ・イタケル(五十猛=委武)親子が新羅に渡っているのです。

 さらに魏書東夷伝倭人条には「倭人在帶方東南大海之中・・・舊百餘國・・・今使譯所通三十國」「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國乱相攻伐歴年」と書かれており、紀元1世紀には後漢・新羅と外交を行う百余国からなる国が7~80年存在し、そこから分離独立した30国が邪馬壹国なのです。

 このような3つの史書による限り、この国の建国は紀元1世紀の「委奴国(いなのくに)」「倭国(いのくに)」なのです。それは大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」とした古事記や、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とした『日本書紀』一書(第六)、大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とした『出雲国風土記』の記載や、52代・嵯峨天皇が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社に贈り、66代一条天皇が「天王社」の号を贈っていることと符合しているのです、

 なお、この「委奴国・倭奴国」名について、これを中国側からの卑字「奴」を使った国名とする説が見られますが、私は「委奴国王」が後漢皇帝に上表した文書の中に記した国名であり、「いなの国(稲の国)」を表していると考えています。

 ウィクショナリーによれば、「又」は右手を表し、「右」「友」「有」の原字とされており、「奴=女+又」字は「力を入れる、力を込める」とされ、努(力を入れて仕事につとめる)、怒(心に力を込めていかる)、弩(力を入れて引く強い弓)の用法と意味からみても、「奴隷」を表す卑字と見るべきではないと考えます。

 中国で大事にされる「姓」字は「女+生」であり、「魏=禾+女+鬼」字が「女が禾(黍・栗・麦などのイネ科穀類)を祖先霊(鬼)に捧げる」ことを示していることからみても、中国は狩猟・遊牧民の殷や姫氏周の時代より前は母系制社会であり、「奴」字は女性が農耕を開始し、担っていたことを示しています。「奴」字が卑字・悪字とされたのは、男系社会に代わり、儒教が体制化してからではないか、と私は考えています。

 例えば、「夷」(弓+↑、倭音倭語:えびす、呉音漢語・漢音漢語:イ)は、異民族をさす蔑称として「東夷北狄西戎南蛮」のように蔑称とされていますが、周の9代目は「夷王」であることからみても、後世の歪曲に注意する必要があります。

 

⑸ 国家

 国家についてウィキペディアは、「人類史上最古の国家がいつ成立したか正確には判明していないが、集約的な農耕による集住が進んでいた古代メソポタミアにおいて、紀元前3300年ごろにはウルク市が完全に都市としての実体を備え、都市国家化したと考えられている」とし、都市国家の成立を基準にしています。

 さらにウィキペディアは国家論について、ヘーゲルは「家族、市民社会、国家」に大別して役割を論じ、マルクスは「階級的抑圧・搾取の機関」ととらえ、マックス・ウェーバーは「警察や軍隊などの暴力手段の独占」と「官僚や議員などの統治組織」を強調し、ゲオルク・イェリネックは「国家の三要素(領域、人民、権力)」を持つものとするなどを紹介しています。

 問題は、古代の都市国家論と中世・近代の国家論が整理されていないことで、私は地域によって異なる「家族→氏族共同体→部族共同体→国」の展開や「征服王朝」などについて並列的・重層的・総合的な分析が必要と考えます。

 

⑹ まとめ

 古代国家論では、ギリシア・ローマをモデルとし、キリスト教を思想的ベースにした西欧史学は、マルクスを含めて大きな誤りを犯しており、人々を統合した「古代宗教」の分析が欠かせないと考えています。

 エジプトのファラオの神権政治、メソポタミアの司祭を頂点とした社会構造、インドのバラモン(司祭)を頂点にしたカースト制度、中国・殷の亀卜(きぼく)による神権政治、妻問夫招婚の霊(ひ:祖先霊)信仰による氏族・部族連合のスサノオ・大国主王朝や邪馬台国の卑弥呼(霊御子=霊巫女)を女王とする鬼道(祖先霊信仰)による連合国などを見ても、氏族・部族社会においては宗教の果たす役割が大きく、西欧史学の古代論は全面的な見直しが必要と考えます。

 ユダヤ・キリスト・イスラム教が侵略し、絶滅を図った女神信仰や神山天神信仰、殺戮された「魔女」たちの宗教から、古代国家論を再構築する必要があると考えます。―はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「32 縄文の『女神信仰』考」「34 霊(ひ)継ぎ宗教論」「37) 「神」についての考察」「38 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰」「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「75 世界のビーナス像と女神像」「86) 古代オリンピックとギリシア神話が示す地母神信仰」「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」「116 独仏語女性名詞からの母系制社会説」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」等参照

 日本においても、天皇一族が滅ぼした各地の女王国の分析から始める必要があると考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

     

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「縄文ノート145 『もちづき(望月)』考」の紹介

2022-07-10 20:28:09 | 縄文

 はてなブログに「縄文ノート145 『もちづき(望月)』考」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

「縄文ノート142 もち食のルーツは西アフリカ」に追加して、長野県佐久市の望月町などの地名や知人の名字にも見られる「望月」について考えてみたいと思います。

 望月(ぼうげつ、もちづき)は「満月」の異称とされていますが、「望」は呉音・宋音「モウ」・漢音「ボウ」、訓読み「のぞ-む」であり、「もち」と読むことはできませんから、本来は「餅のように丸い餅月」であったと考えます。

 この「もち」語のルーツはどこからかですが、私は「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の日本語の3層構造において、農業語・宗教語などの倭音倭語がドラヴィダ語系であることを大野晋さんの『日本語とタミル語』からまとめましたが、「もち月」についても調べてみると、タミル語の「mat-i(マチ)」は満月を表し、日本語の「möt-i→ moti(もち)」(満月、望の月)に対応し、8世紀には「a→ö」の母音交替があったというのです。中国語は「満月(mǎnyuè)」ですから、「もちづき=望月=満月」はタミル語の「mat-i(マチ)」が「moti(もち)」と発音されるようになった可能性が高く、元々は「丸餅=丸いも餅」がルーツであった可能性があります。

 日本に伝わっているドラヴィダ族の1月15日の「ポンガ」の烏祭りが、1月15日の「mat-i(マチ:満月)」とどのような宗教的な関係があるのか、「もち食」や「もちもち」の感触などと関係があるのかどうか、461の民族、200以上の言語があるとされるインドの「いも食」や「もち食」については今後の調査課題です。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」では、「葦原中国」「水穂国」の建国について書いてきましたが、縄文時代からの豊かなイモ・マメ・雑穀・魚介食の伝統のうち、出雲国風土記の嶋根郡・楯逢郡の「芋(サトイモ)」、意宇郡・嶋根郡・秋鹿郡・楯逢郡・飯石郡・大原郡の「薯蕷(やまのいも)」と“日本三大芋煮”のうちの1つとされる津和野の郷土料理「芋煮」の関係や、「望月」の祭りや「もち食」文化について考えてみていだければ幸いです。 雛元昌弘

             

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

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神話探偵団136 私の方法論―最少矛盾仮説、仮説検証、総合的判断

2022-07-09 12:05:11 | 研究方法論

 私の市町村・都府県・国の各種(総合計画・産業・都市・インフラ・防災・福祉・教育・文化・行財政・施設・住民活動・広域連携など)の計画づくりでの調査・分析・計画の方法論は、ボトムアップ型(積み上げ型・問題解決型)とトップダウン型(分割型・将来像実現型)の両方からのアプローチで最適解を「総合的調査・分析・判断」により見つけるという方法によっています。

 

   

 素粒子学や遺伝子学などのように基本単位・基本原理の解明に向かう研究とともに、他方では宇宙科学や人類学、生態学、都市・地域学、医学、経済学などのように基本単位・原理の複雑な関係の総合的な解明をめざす分野や、工学のように基本原理・法則の解明はできないまま仮説実験で実用的な最適解を求める分野もあります(各分野の科学の知識は乏しく、この私の整理はまだ「仮説段階」です)。

この部分的な原理・法則の解明と全体的・総合的な原理・法則の解明を同時に行い、工学のように仮説検証で総合的な最適解を求める、というのが私の計画づくりの方法でした。

 建国史・縄文社会・人類史の探究での私の方法論は、下に「参考資料」としてピックアップしたように、あまり意識しないままに「各分野の調査・分析・研究の整理・分析・追加調査・再現実験」を行うとともに、「総合的仮説」を構築し、「追加調査・分析・統計的解析・再現実験による仮説検証」を行い、「総合的判断による最少矛盾仮説の採用」というやり方です。

   

 1例をあげると、紀元57年に後漢の光武帝が倭奴国(倭国之極南界)の使者に「漢委奴国王」の金印を与えたという後漢書記載と志賀島から発見された金印について、①金印偽造説、②委奴国・倭奴国=奴国説(委・倭民族の奴国)、③委奴国・倭奴国=伊都国説に対し、私は金印が本物であることをまず文献と物証から検討した上で、「委奴国・倭奴国=いな国説・ひな国説」をとり、委奴国王は金印が発見された志賀島を拠点とした宗像族の「綿津見3兄弟」(志賀海神社の祭神)かその「異母兄スサノオ」という小仮説をたて、スサノオ・大国主建国という大仮説と合わせて、日中韓の文献・米鉄交易などの総合的な検証を行い「倭奴国=卑弥呼王都高天原説」「委奴国王スサノオ説」を証明できたと考えています。

 各専門分野の研究者にとっては、基本単位・基本原理の解明で確実に成果をあげることが求められ、全体的・総合的な原理・法則の解明については大先生の通説に口を出すことなど難しいと思われますが、スサノオ・大国主建国論や邪馬台国論、さらには縄文論においては、是非、異分野との国内外の交流を深め、世界を相手に論文を書いて欲しいものです。

 また、そのような制約のない市民研究者の皆さんの自由な発想での調査・総合的分析・実験の役割はさらに重要と考えます。

 

参考資料>

縄文ノート24 スサノオ・大国主建国からの縄文研究 200913→1212

1.「考古学と文献のデータ限界」を超える仮説検証型の縄文研究へ

① 縄文考古学のデータ限界の克服:多くの発掘は開発に伴う偶然の産物であり、仮説検証型の発掘・分析(微量定性分析・DNA分析等)と再現実験による仮説検証型の縄文研究に転換すべきと考えます。・・・

⑤ 倭人・倭音倭語・倭食からの総合的縄文研究へ:海人(あま)族の海洋交易文化と山人(やまと)族の照葉樹林文化を持った「主語-目的語-動詞」言語族の日本列島への移動と倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造からの縄文社会・文化の解明、イモ豆栗6穀の農耕・食文化の伝播を総合した縄文社会・文化・文明の解明を進めるべきと考えます。

 

縄文ノート26 縄文農耕についての補足 200725→0829→0904・09

② 私は「Y染色体Ⅾ1a2aの分布」「主語―述語―目的語の言語構造」「丸木舟製作道具の丸ノミ石斧と曽畑式土器の琉球から東九州にかけての分布」「鳥浜遺跡や三内丸山遺跡のヒョウタンなど南方系野菜」「イモ・雑穀の焼き畑農業」「熱帯・温帯ジャポニカの2段階流入」「琉球から九州・山陰・近畿への方言分布」「縄文時代の琉球と北海道までの貝とヒスイの交易」を総合的に考えて「南方起源説」です。

 

縄文ノート27 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 200729→0829→0903

② 「縄文農耕」や「土器鍋文化(煮炊蒸し料理や宗教デザイン性)」「和食に繋がる塩・魚介類の道」「母系制社会の女神信仰」「縄文巨木楼観神殿」などと合わせて、総合的な縄文文化論、海人・山人族の海洋交易民文明論としての位置づけが必要と考えます。

 

縄文ノート28  ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論 201119

 3大穀類などイネ科植物の起源、「主語―動詞-目的語」言語族の移動と穀物言語分析、DNA分析による日本列島人起源、日本語起源、イネのDNA分析、食文化、記紀・風土記の農耕記述などの総合的検討から、「ドラヴィダ海人(あまと=あま)・山人(やまと)族による縄文農耕・稲作ルーツ説」「紀元1~2世紀のスサノオ・大国主一族による鉄器水利水田稲作普及による百余国統一」をこれまで主張してきましたが、今回、「稲作段階論」「長江稲作起源説批判」「米中心史観批判」を中心に、ドラヴィダ海人・山人族による縄文農耕起源論をまとめました。・・・

 「和魂漢才」「和魂洋才」といいながら、実際には「漢才・洋才」中心の4大文明史観のもとで異端視されてきた「照葉樹林文化論(中尾佐助・佐々木高明氏ら)」「日本語ドラヴィダ(タミル)語起源説(大野晋氏)」「海の道の日本人南方起源説(柳田圀男氏ら)」「縄文農耕論(藤森栄一氏ら)」などの全面的復権の時です。すべての論点について整合性のとれた「最少矛盾仮説」を採用すべきです。

 

縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論 201130

5.世界遺産登録へ向けて

 旧石器時代からの人類の拡散、「主語―動詞-目的語」言語の拡散、農耕文化の拡散、霊(ひ:ピー:祖先霊)信仰、土器鍋文化など、記紀が伝える紀元1~2世紀のスサノオ・大国主7代の建国神話から遡り、日本列島文明は総合的に明らかにすることができます。

 

縄文ノート51 縄文社会・文化・文明論の経過と課題 200927→21020

1.私の立ち位置

 ⑴ プランナー(計画家)として

  ・薄く広く総合的に検討し、「最少矛盾仮説」の検証による解明を行う。

  ・「縄文社会・文化・文明」を現代・未来に活かす。

   ―自然志向、共同性、食文化、芸術など

   ―体験学習や観光、世界遺産登録

 

縄文ノート52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について

 私がかじった建築学というのは面白い分野で、建築計画となると施設や住宅などの利用方法・人々の生活分析や、伝統的建築や歴史的町並みとなると建築史が必要です。建築デザインとなるとアートのセンスが必要であり、構造計画になると地震学や構造力学などが、設備計画や外構計画(庭園計画や自然・都市景観との調和、環境影響、動線計画など)になると空気力学や植物学・環境工学などが関わります。地域計画や都市計画となると産業活動や都市生活・観光行動などの調査・分析・予測が不可欠ですから社会科学に守備範囲は広がってきます。

 工学系か文科系かという二分法には収まらず、アート系・自然系・環境系・社会科学系などという分類もないと落ち着きません。

 このような背景から、古代史に関心を持つ建築関係者は多いのですが、私を含めて欠点は「浅く広く、生半可」であることと、アート系でもあることから「独創性」にこだわる異説・珍説・異端説が大好きな「おもしろがり」というところでしょうか。

 

縄文ノート62 日本列島人のルーツは「アフリカ高地湖水地方」  210316

 白人中心史観・西洋中心史観ウィルスにより、人類史は大きくゆがめられてきており、それに無自覚な日本の多くの歴史・人類学もまたそのウィルスに感染しています。

 このやっかいなウィルスに感染していない素人の私やみなさんは、先行説にとらわれることなく「私たちはみんなアフリカ生まれの黒人であった」という原点からの見方が可能と考えます。

 私はアフリカには行ったことがなく、アフリカの本の1冊も読んでいない仮説的な考察ですが、「最少矛盾仮説の構築」として自分の頭で考えてきました。あとは各専門分野の若い世代に期待したいと思います。

 

縄文ノート83 縄文研究の7つの壁ー内発的発展か外発的発展か 210703

 私は建築学科出身で、建築計画や地域計画、都市計画、まちづくりなどの仕事をしてきた歴史・考古学の門外漢ですが・・・

 私が学んだ建築というのは、デザイン・構造・設備・造園・環境・街なみ景観・住まい方・地域計画・都市計画・住民運動など、利用者(施主や住民)や利害関係者、行政、事業者など様々な分野の意見を聞き、協力がないと成立しません。考古学や歴史学も同じではないでしょうか?

 若い歴史・考古学の関係者の皆さんはセクショナリズムに陥ることなく、どんどん他の芸術・国語学・民俗学・民族学・食物学・生物学・農学・遺伝子学などの分野と交流し、縄文研究を土器や遺物などの「モノ研究」に閉じ込めることなく、縄文文化・文明としてその全体の解明に乗り出し、世界に情報発信し、世界の旧石器・新石器時代の解明に貢献して欲しいと考えています。

 

縄文ノート117 縄文社会論の通説対筆者説

 試行錯誤しながら縄文社会についてあらゆる角度から書いてきましたが、さらに各論を書き進める前に、現段階で全体を俯瞰しておきたいと考えます。「最少矛盾仮説」として統合する前の予備作業です。

 

縄文ノート131 「仮説ハンター」からの考古学・歴史学 220401

 私の仕事であったまちづくりの分野では、5年後・10年後の市町村計画や、具体的な戦略プロジェクト・事業計画をたてるために、ヒアリング調査・グループインタビュー調査、アンケート調査を必ず行いますが、その時「何かありませんか」と御用聞き調査を行ったのでは5年後・10年後の住民ニーズはつかめません。質問されて初めて意識した、考えた、質問されたから答えた、という人が多いからです。

 いろいろと将来像や問題解決案などについて仮説をたて、質問し、アンケート項目をたてる必要があるのです。その際、仮説的質問が間違って誘導的であったり、不十分であったりすれば、きちんとした調査にはなりません。検証は5年、10年の時間が立たないとできないのですが、仕事がリピートすれば、「仮説→調査→予測→計画」が正しかったということが認められたことになります。

 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』では、「委奴国王=スサノオ」とするか金印が発見された志賀島を本拠地としていた「委奴国王=綿津見3兄弟」とするか迷いましたが、前者仮説を立てて調べを進めると、総合的な「最少矛盾仮説」としてまとめることができました。最終的な検証はスサノオ・大国主の墓を見つけ、発掘する必要があります。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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神話探偵団135 記紀神話の9つの真偽判断基準

2022-07-05 08:59:12 | スサノオ・大国主建国論

2-1⑶ 記紀神話の9つの真偽判断基準

 刑事裁判での供述の真偽判断の基準は、手元に司法研究所などの資料がないのでおぼろげな記憶によりますが、「客観的証拠との整合性」「経験則からみた合理性」「不自然な変遷のない首尾一貫性」などが、事例分析や行動心理学などをもとに挙げられていました。

 歴史学においても、文献の真偽判断に判定基準を設けていると思いますが、私なりに「記紀神話8世紀創作説」への批判として「神話の真偽判断基準」について9つの基準を考えてみました。

① 客観的物証との整合性

 この客観的物証との整合性という真偽判断基準については、何人も異存はないと思います。

 問題はこの基準を誤解し、「考古学的裏付けのない神話は虚偽」と決めつける論理的誤りがみられることです。かつて「出雲にはめぼしい考古学的発見がないから、スサノオ・大国主神話は後世の創作である」という主張を大和中心史観の歴史家たちがあたかも定説であるかのように主張していましたが、論理的には「スサノオ・大国主神話には、現在のところ考古学的な裏付けがない」としか当時は言えなかったはずなのです。

 案の定、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡での国内最大の大量の青銅器(銅矛・銅剣・銅鐸)の発見により、スサノオ・大国主神話は強力な物証による裏付けをえました。古事記に書かれている出雲と大和の大国主・大物主連合の成立が、銅矛・銅剣(筆者説:銅槍)・銅鐸圏の統一として荒神谷・加茂岩倉両遺跡により証明されました。 

 

 「物証で裏付けられた神話は歴史的史実」「物証の裏付けがないからといってその神話を虚偽とすることはできない」という原則をまず確認すべきと考えます。

 

② 他文献との整合性

 『古事記』には、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としており、『日本書紀』一書(第六)もまた、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定めて「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。

 さらに『出雲国風土記』は大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とし、『播磨国風土記』は「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と大国主親子が大国主が鉄先鋤より水利水田稲作を普及させた天下経営王であることを伝えています。そして、今に至るまで米俵の上に乗った大国主像は崇拝されているのです。

 また、『日本書紀』はスサノオが御子の五十猛(いたける=委武)と新羅に渡ったとしていますが、『後漢書』は「倭奴国奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」と書きその「漢委奴国王」の金印は志賀島で江戸時代に発見され、さらに59年には倭人の4代目新羅国王・脱解(たれ)が倭国王と国交を結んだことが『三国史記』新羅本紀に書かれています。

      

 天皇中心史観の予断にとらわれないなら、新羅に渡ったスサノオこそ新羅国王・脱解と国交を結んだ倭(い)国王であり、その2年前に漢皇帝から金印を与えられた委奴(いな)国王もまた、イヤナギから「知海原(海原を知らせ=支配せよ)」と命じられたスサノオとみるべきなのです。なお、後述のように古事記記載や天皇の即位の統計的分析からスサノオの即位年は紀元60年頃となるなど、スサノオが委奴国王(いなのくにのおう)であることは、拙著『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』で証明しています。

 記紀の記載が他の国内資料や今に受け継がれている伝承、外国文献と整合しているかどうかは、真偽判断に欠かせない重要な基準となります。

 

③ 後世史実との整合性

 安定した平安時代の基礎を築き、空海・橘逸勢とともに日本三筆とされた第一流の文人であった52代・嵯峨天皇(桓武天皇第2皇子)は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っています。

           

 記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国に対し、嵯峨天皇はスサノオを「皇国の本主」とし、一条天皇は「天王」として認めているのです。7世紀からの「天皇」呼称の前に、スサノオには「天王(あまの王:てんのう)」と呼ばれており、「てんのうさん」として民衆から支持されていた通称名を天皇家が追認したと考えられます。

 このように、後世の資料・伝承などとの整合性は記紀の真偽判断には欠かせません。

 

④ 地名・人名との対応

 皇国史観は天照(アマテル:本居宣長説はアマテラス)の宮殿のある高天原(たかまがはら)を天上の国としましたが、古事記はその場所を「安河(やすのかわ)・天安河(あまのやすのかわ)」のある「筑紫(ちくし)日向(ひな)橘小門(たちばなのおど)阿波岐原(あわきばる)」とし、「○○県△△市□□町大字××」のように具体的に地名を記しています。

 調べてみると、福岡県の「旧甘木市」(古くは天城の可能性大)には「夜須(やす)川(安川・山見川)や「蜷城(ひなしろ)」「美奈宜・三奈木(みなぎ=ひなぎ)」「荷原(いないばる=ひないばる)」があり、そのすぐ東には 女帝・斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が百済救援の朝倉橘広庭宮を置いた「橘」があり、さらにその東には「杷木」地名があり「阿波岐原=あ杷木原」と符合しており、地名からみて高天原(天原の高台)はこの地の可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照 

 この高天原からのニニギの天下りについても、高天原→猿田(佐田)→浮橋(浮羽)→丘(日田)→久士布流岳(久重山)→高千穂峰(々)→阿多・吾田(阿多)、竹屋(同)、長屋(同)、笠沙(同)と記紀記載の地名がそのまま現代に残っているのです。

      

 さらに、古事記はアマテルの子・孫で大国主に国譲りさせたホヒ(菩比:穂日)・ヒナトリ(建比良鳥、武夷鳥・天夷鳥、武日照、日名鳥)親子の名前がでてきますが、出雲の揖屋(いや)のイヤナミ・イヤナギ(伊邪那美・伊邪那岐)名のように古代人は地名ゆかりの名前をつけることが多いことからみて、ヒナトリは「蜷城(ひなしろ)」「比良松」地名のあるこの地で生まれた御子の可能性が高いと考えます。

 記紀の真偽判断にあたっては、現代にまで継承性の高い地名やその地ゆかりの名前の人物の伝承などと符合するかどうかの検討が真偽判断には欠かせません。

 

⑤ 統計的検証との整合性

 記紀をもとに古代の天皇の在位年について初めて統計的検証を行い、約10年であることを明らかにしたのは安本美典元産能大教授です。―『卑弥呼の謎』(講談社新書)など多数

 安本氏は天照大御神(筆者:アマテルと表記)の即位年を220~250年、神武天皇在位年を270~300年と推定していますが、私はさらに古事記をもとに始祖神・天御中主まで遡り検討しました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 古事記では天御中主から薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代目の彦瀲彦瀲(ひこなぎさ)(ウガヤフキアエズ:大和天皇家初代のワカミケヌ=神武の父)までは16代(別天つ神4代+神世7代+高天原2代+笠沙天皇家3代)ですが、『新唐書』によると遣唐使は天皇家の祖先を「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と伝えた(自言)とされ、16代の欠史がみられるのです。そして、その16代の空白を埋めるように、古事記はスサノオ・大国主7代、鳥耳を妻とした大国主10代の合計16代の系統を載せ、大国主の国譲りへと続けているのです。

 この事実は出雲でイヤナギから生まれたスサノオの異母妹の筑紫のアマテル1と大国主に国譲りさせたアマテル2は襲名した6代ほど離れた別の人物である可能性が高いことを示しています。私の母方の祖母の一族では代々「太郎右衛門」を襲名していることをみても、襲名の伝統は古くからあり、記紀などに異なる時代に登場するスサノオやアマテル、大物主、武内宿禰なども、襲名していた可能性は高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 古事記に登場する王名順に、はっきりとしている31~50代天皇の即位年をもとに最小二乗法で推計すると、天御中主は紀元前53年頃、スサノオは紀元60年頃、大国主は122年頃、卑弥呼(アマテル2)は225年頃、ワカミケヌ(神武天皇)は277年頃、10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)は370年頃の即位となります。

 王の確実な年齢や在位年数からより古い時代の王の年齢や在位年数の統計的分析は、後世の錯誤や創作の入りにくい予測値として重要視されるべきです。

 

⑥ 不自然・不合理記述の合理的解釈

 大和初代天皇の年齢を古事記137歳(日本書紀127歳)、10代崇神天皇168歳(120歳)とするなど、初代から16代の天皇の年齢は異常に長くなっています。

 この記載から、「記紀神話は信用できない、後世の創作である」という説や、「春秋2倍年であった」などの解釈が見られますが、合理的な推理でしょうか?

 まず、小説から考えてみていただきたいのですが、創作するなら本当らしく装うはずであり、わざわざ誇張して桁外れた長寿にするという創作理由がみあたりません。

 次の「春秋2倍年説」ですが、そもそも漢の時代から朝貢交易を行い、スサノオの異母弟の月読の名前や神無月・神在月の出雲での神集いの行事からみてスサノオ・大国主建国には中国に倣った暦があったと見るべきであり、さらに遣隋使・遣唐使などで中国文化に精通していた記紀作者たちが、敢えて「春秋2倍年」を使い後進性を中国・韓国にアピールすることなど考えられません。

 私は16代のスサノオ・大国主一族の建国の歴史を隠すとともに、後世にその事実を秘かに伝え残すために、敢えて16代の天皇の年齢を倍にするという不自然な記載を太安万侶らは行ったと推理しています。

 「不自然不合理神話」を記紀作者の無能性や空想性、他神話からの模倣性など、日本の後進性・非文明性から説明するという「拝外卑下史観」から卒業し、「不自然不合理神話の合理的解釈」の可能性をまず徹底的に考えるべきです。

 

⑦ 神話的表現による史実記載

 古事記には、イザナギが殺したカグツチの血から神々が生まれたという神話や、イザナギの体に付いた黄泉の国の汚垢(けがれたあか)からスサノオやアマテル(天照)、ツキヨム(月読)が生まれたという神話、スサノオが殺したオオゲツヒメ(大気都比売・大宜都比売:イヤナギ・イヤナミの御子、筆者説はオオキツヒメ)の死体から蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆が生まれたという神話が見られます。

 典型的な神話的表現のように見られていますが、甕棺や「柩・棺(ひつぎ=霊継ぎ)」の内側が丹(に)で塗られていることからみて、子宮(ひな=霊那=霊が留まる場所)の血の中から赤子が産まれるという「黄泉帰り」の再生思想があったことが明らかです。

 また播磨国風土記には「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」や「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った」という記載があります。

 現代人の考えではなく、古代人の黄泉帰り思想から同時代的に解釈すべきであり、カグツチを産んでイヤナミが亡くなりその子孫栄えたことやオオゲツヒメが養蚕や五穀栽培を開始したことを、古代人はカグツチの血やオオゲツヒメの死体からそれらが生まれたとする伝承神話的な表現が生まれたと考えられます。

 スサノオ・大国主神話の解釈は、現代的な合理性判断基準ではなく、古代人の宗教・思想から判断し、神話的表現で書かれた真実の歴史の探究を行うべきです。

 

⑧ 天皇家不名誉記述は真実への入口

 高天原から天下りした笠沙天皇家3代の「ニニギ―ホオリ(山幸彦)―ホホデミ(ウガヤフキアエズ・彦瀲)」について、古事記は初代のニニギが美しい阿多都比売(あたつひめ)を妻とし醜い石長比売(いわながひめ)を親の元に返したので呪いをかけられ、「天皇命等之御命不長也(天皇らの御命は長くないなり)」とする一方で、孫のホホデミは「伍佰捌拾歲(五百八拾歳)」としており、その子の大和天皇家の初代・ワカミケヌ(8世紀に神武天皇の忌み名)の137歳よりも桁外れた長寿としています。

 この580歳というのは神話によく見られる誇張とも言えますが、天皇らの「御命不長也」と不敬にあたる表現で書きながらホホデミを「五百八拾歳」と太安万侶が書いたことをみると、単なる神話的誇張表現とみるわけにはいきません。

 太安万侶は天武天皇に「諸家のもたる旧辞及び本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加う。・・・偽りを削り實(実)を定め、後葉に流(つた)えんと欲す」と命じられ、「旧辞・本辞」と「帝紀」(天皇の系譜)を稗田阿礼に「誦(よ)み習わし」て古事記を編纂したのであり、百歳を越える長寿の天皇を記載しながら、「天皇命等之御命不長也」と書くのは首が飛びかねない大問題であったはずです。

           

 可能性としては、太安万侶が参考にした「本辞・旧辞」が天皇短命説・長命説のどちらで書かれ、太安万侶がどう調整したか、です。

 この「本辞・旧辞」とは、『日本書紀』に記された620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「国記」と考えられ、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺の際に「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」と記されている「国記」以外には考えれられません。

 その蘇我氏作成の「国記」には、前述のように天御中主からウガヤフキアエズ(彦瀲)まで32代の王の系譜が書かれていたのに対し、天武天皇は「スサノオ・大国主16代の建国を目立たなくし、天皇家中心の建国史に書き換えよ」と命じた可能性が高く、そこで苦慮した太安万侶は襲名したアマテル3人(スサノオの異母妹、大国主の筑紫妻の鳥耳、卑弥呼)を合体してスサノオ・大国主16代分を省き、代わりに16代の大和天皇の年齢を倍にする細工を行うとともに、笠沙天皇家のウガヤフキアエズを580歳(36歳×16代)と不自然に水増しして、スサノオ・大国主16代分を省いた構成としたと私は考えます。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 スサノオ系の「大海人(おおあま)皇子=大天皇子=天武(あまたける)天皇」は、太(多・意富)氏を始めスサノオ・大国主系の豪族の助けをえて壬申の乱で勝利しており、天武朝では乱後にスサノオ・大国主系を重用しながら天皇中心の集権体制を築く必要があり、太安万侶はその期待に応え、スサノオ・大国主建国史を抹殺することなく系譜や水利水田稲作の功績などを伝え、真実の歴史を伝える手掛かり(16代天皇2倍年、ウガヤフキアエズ580歳)を残しながら、天皇中心史へと「国記(本辞・旧辞)」を書き換えたものと考えます。

         

 その他、大和天皇家の初代ワカミケヌ(後世の忌み名:神武天皇)を「若御気怒」などと書くのではなく「若御毛沼」と「毛むくじゃらの毛人」を思わせる漢字を当て、その大和の皇后・ホトタタライスズキヒメ(富登多多良伊須須岐比売:ホトは女性器、多多良は真っ赤なタタラ製鉄炉)をワカミケヌの死後、薩摩半島阿多で生まれた長男・タギシミミ(多芸志美美、手研耳)が妻とし、ホトタタライスズキヒメの子のカムヌナカワミミ(神沼河耳)たちが殺すなど、古事記には天皇家の名誉とならないような記述が多く見られ、これらは全て真実の歴史を伝えている可能性が高いと考えます。

 

⑨ スサノオ・大国主一族有利記述の解釈

 古事記の高天原神話では、出雲で生まれた長兄のスサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と命じられながら、母の根の堅州国に行きたい」と「八拳須(やつかひげ)(むね)の前にいたるまで啼きいさちき」、アマテルとの後継者争いでは「営田の畔を離ち、溝を埋め」「殿に尿をまり散らし」「忌服屋に斑馬を逆剥ぎにして堕とし入れ」、さらにはオオゲツヒメを殺すなど、泣き虫乱暴者・殺人者として描かれていますが、出雲ではクシナダヒメ(櫛名田比売)を助け、ヤマタノオロチ王を討った英雄として描かれ、スサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」の歌は古事記に登場する最初の歌であり、紀貫之は古今和歌集で「和歌の始祖」としてスサノオとシタテルヒメ(下照比売:大国主の娘で暗殺された天若日子の妻。「夷振(ひなぶり)」の歌を詠む)の名を挙げています。

  

 前述の大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としたという記載を始め、スサノオ・大国主一族を讃えた記載は、基本的に真実を伝えているとみてよいと考えます。

 なお、スサノオを貶めた「母の根の堅州国に行きたいと八拳須(やつかひげ)(むね)の前にいたるまで啼きいさちき」という記述はスサノオが出雲でイヤナミから生まれた長兄であることを示しており、イヤナミの死後に筑紫にやってきたイヤナギが筑紫日向(ちくしのひな)でもうけた筒之男3兄弟(住吉族)や綿津見3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、アマテル・ツキヨミ(月読:壱岐)より年長の長兄であることを示しています。イヤナギはイヤナミ亡き後に筑紫で妻問いしてスサノオの異母弟・異母妹をもうけたのです。

 太安万侶はアマテルを姉、スサノオを弟と記載しながら、秘かに「母の根の堅州国に行きたい」とスサノオが「青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き干し」たという神話的表現で煙幕を張りながら、スサノオが長兄であることを秘かに伝えているのです。

 このようにスサノオ・大国主一族に対し、相反する記述があるときは、一族に有利な記述こそ真実の歴史としてその背景を検討すべきです。

 

 以上、記紀神話の真実性の判断基準として、9つの指標を示しましたが、以下の分析ではさらに具体的に検討していきたいと考えます。

 なお、「物証の裏付けのない神話は後世の架空の創作」「ヤマタノオロチ退治のように古事記にしか書かれていない記述は虚偽」「矛盾した記載は疑わしい」「神話にでてくる地名は小説などと同じで後世の細工」「統計的推計よりは具体的記述こそ重要」「不自然・不合理記述は創作の証拠」「神話的表現は神聖性を高めるため」「天皇家不名誉記述やスサノオ・大国主一族有利記述は後世の脚色の証拠」などのこれまでの神話真偽判断基準と対比しながら判断いただければ幸いです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

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  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

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