ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主建国論7 イヤナミ・イヤナギの神生み

2023-01-25 16:51:17 | スサノオ・大国主建国論

 古事記はイヤナギ(伊邪那岐)・イヤナミ(伊邪那美)の国生みに続いて、神生みについて述べている。繰り返しになるが、通説の「イザナギ・イザナミ」読みに対し、伊邪那美が松江市東出雲町揖屋の揖屋神社に祀られている以上、「イヤナミ・イザナギ」読みにすべきである。「邪馬台国」を「やまたいこく」と読んでいる方は、「邪」を「や」と読んでいただきたい。

 

⑴ イヤナミ(伊邪那岐)・イヤナギ(伊邪那美)の神生み

 古事記に書かれた神々は次の表のとおりである。

 

 これを読むと、あまりにも多い御子の数、イヤナミの排泄物やカグツチ(火之迦具土)の血・死体、イヤナギの持ち物や黄泉の汚垢から生まれた神々など、実に不合理・不自然な神話といわざるをえない。

 

⑵ 「不合理神話無視」か 「合理的解釈追究」か?

 「聖書・キリスト」を後世の創作としたドイツのヘーゲル左派流の薄っぺらな「近代合理主義的解釈」の影響を受けた「記紀神話天皇家創作説」は、このような記紀神話の不合理・不自然な記述から、記紀神話は8世紀の創作として歴史的価値を認めていない。このような彼らの方法論によれば、逆に不自然・不合理記述のない歴史小説を真実の歴史とみなすことになりかねないのである。「嘘をつくなら上手に、バレないなように書く」ことなど想像もしていないのである。

 これに対して、私の記紀分析の方法論は「矛盾だらけの不合理・不自然な神話をできるだけ合理的に解釈する」というものである。

 一例をあげると、母の介助のために田舎に帰り、暇にまかせて揖保川町史を読んだとき、私の母方の祖先である「西脇太郎右衛門」は西本願寺合戦に参加し、その96年後など何度も名前がでてくるのでびっくりしたことがあった。ここから「町史は信用できない」「西脇太郎右衛門はいなかった」などと結論づけることはできないのである。母に聞くと、代々、長男は太郎右衛門、次男は次郎右衛門を襲名していたというからである。

 イヤナミが17人の御子を生んだというのは、石土毘古・石巣比賣、速秋津日子・速秋津比賣などが夫婦神であったとして14人になり、数からいっても、男女比からいっても明らかに不自然である。しかしながら、母系制社会においてイヤナミが襲名し、何代ものイヤナミの子孫たちが自らの祖先がイヤナミと名乗っていたとすると、イヤナミの子は多くなる。

 このように「襲名」という歴史的習慣を入れて考えるとイヤナミの17人の御子は後世の創作などとは言えなくなる。これに「嘘をつくならバレないようにする」という経験則を加えると、「イヤナミ17人御子後世創作説」は一意的には成立しないことは明らかである。

 

 

⑶ 「神」と「命」の使い分け

 イヤナミ・イヤナギの神生み神話において、イヤナギ筑紫日向(ちくしのひな)橘小門阿波岐原(あわきばる)で滌(みそぎ)をした時に黄泉の汚垢で汚れた水から生まれた、底筒之男(そこつつのお)命・中筒之男命・上筒之男命・月読命(つくよみのみこと)・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の5人は「」(太字表示)と書き、他の神々や月読・須佐之男の姉とされる天照大御神は「神」として書き分けている。

 まず基本的な点として、八百万神信仰ではすべての死者の霊(ひ)は神としてその子孫や人々に祀られるのに対し、「命」は「みこと=御子人」であり、先代王の霊継(ひつぎ)を受けた御子を指していることを押さえておかなければならない。そして、太安万侶はイヤナミ命・イヤナギ命(伊邪那岐命・伊邪那美命)と筒之男3兄弟と月読・スサノオだけをその「御子人(みこと)」として書いているのである。

このような書き分けを厳密に解釈すると、イヤナミが生んだ17神などは、前の世代(襲名の先代イヤナミの子であろう)で亡くなっているので神と書かれ、イヤナミ・イヤナギ・月読・スサノオとは同世代ではない可能性がある。

一方、月読・スサノオと同時に生まれた姉とされる「天照」は「御子=巫女」ではなく「大御神」としているが、これは天皇家の始祖神として「天照(あまてる)」を最高位の「大御神」として祭り上げるための太安万侶の創作と考えられる(その基本的な考えは天武天皇による指示の可能性が高い)。

 

⑷ 「天」族は「天神族」か「海人族」か?

 壱岐・対馬の海人族の「」(表1で赤字アンダーライン)が付くのは之吹上男神ら7人で、海神の大綿津見神、船神の鳥之石楠船神(鳥船)、綿津見神兄弟、筒之男3兄弟、スサノオを含めて海人(天)族で海洋交易に従事したと考えられる。

 また、水分(みくまり)神・國之水分神久比奢母智(くひざもち)神・國之久比奢母智神狹土(さづち)神・國之狹土神狹霧(さぎり)神・國之狹霧神闇戸(くらど)神・國之闇戸神のように夫婦神で「天(海人)」が付くのは壱岐・対馬の天(海人)族で、「国」が付くのは出雲の母系制社会の王女であり、妻問婚で入り婿となり名前を合わせたと考えられる。イヤナギ・イヤナミについても、元々は「天之イヤナギ」「国之イヤナミ」であった可能性が高く、父系制の天皇家に合わせて書き換えた可能性が高い。

 縄文時代から続く採集・栽培・漁労の妻問夫招婚の母系制社会から、船と交易を支配して富を蓄えた男系社会が誕生したことが読み取れる。

 

⑸ 「迦具土」のイヤナミ殺しとイヤナギの「迦具土」殺しが示す歴史

 イヤナミは火之夜藝速男(ひのやぎはやお)神(火之炫毘古(ひのかがびこ)神、火之(ひの)迦具土(かぐつち)神)を生んだ時に美蕃登(みほと:女性器)を焼かれて病み、その多具理(たぐり)(反吐)・屎(くそ)・尿から金山(かなやま)毘古・金山毘賣、波邇夜須(はにやす)毘古・波邇夜須毘賣、彌都波能賣(みづはのめ)、和久産巣日(わくむすひ)の6神が生まれたとされている。

         

 そして、イヤナギは母を殺したとしてカグツチを十拳剣(とつかつるぎ)で切り、その血から12神、死体から14神が生まれたとしている。

 不合理・不自然な神話的表現となっているが、「火之」が付くカグツチは火の神であり、6神はその名前から見て、それぞれ鉱山の神、粘土の神、水波の神、沸く蒸す霊の神(娘の豐宇氣毘賣(とようけびめ)は豊かな食べ物の姫)であり、縄文時代からの採集・栽培・漁撈に加えて、新たに火を使った新たな鉄・土器・食品づくりに従事した部族が生まれたと考えられる。

 このような死体からの再生神話は、切った種イモを大地に植えると再び生えて来ることから、大地に帰った死体から人が再び黄泉帰ると信じていた地母神信仰があったことが伺われる。

        

 そして、カグツチと襲名イヤナミの姉弟が争い、イヤナミを殺したカグツチをイヤナギが切った、という歴史があり、それを神話的に表現したと私は考えている。母系制社会の母イヤナミとその娘の襲名イヤナミと父系制社会の弟カグツチの後継者を巡る争いが起り、イヤナギがカグツチを切ったという歴史を神話的に表現したと考えられる。これは、後のアマテルとスサノオ、邪馬壹国の卑弥呼死後の女王派(壹与派)と男王派(弟王派)の争いと同じである可能性が高い。

 なお、カグツチの死体から生まれた8神の名前の正鹿山上津見(まさかやまつみ)神、淤縢山津見(おどやまつみ)神など、共通する「山上津見神、山津見神」については神名火山(神那霊山)信仰を示している可能性が考えられるが、まだ解明できていない。

 

⑹ イヤナミの埋葬とイヤナギの黄泉の国訪問

 古事記はイヤナミ神を「出雲国と伯伎国との堺の比婆山に葬った」とし、イヤナギが黄泉の国にイヤナギを訪ねた時の出入口の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」としている。

 この記述は、魂魄(こんぱく)分離の宗教思想により、イヤナミの霊(ひ=魂:玉し霊)は神名火山(神那霊山)である斐伊川・日野川の源流域の比婆山(霊場山)に祀られ、死体が葬られた伊賦夜坂(いふやさか)はイヤナミを祀る揖屋神社のある揖屋に葬られたことを示している。

  

 イヤナギは黄泉のイヤナミから「私を視ないで」と言われたにもかかわらず腐敗した死体を見てしまい、イヤナミは「私に恥を見せた」と黄泉醜女(よもつしこめ)さらには八雷神に千五百の黄泉軍を副えて追わせたが、イヤナギは黄泉比良坂の坂本の桃子3箇を取って待ち撃つと、ことごとく逃げ帰ったとしている。最後にイヤナミは自ら追ってきて、黄泉比良坂を塞いだ千引石をはさんでイヤナミは「汝の国の人草、一日に千頭絞殺しょう」と言い、イヤナギは「吾は一日立に千五百の産屋を立てよう」と言い、ここに一日必ず千人が死に、一日必ず千五百人が生まれるようになり、イヤナミは黄泉大神、道敷大神と呼ばれ、黄泉坂の石は道反大神、黄泉戸大神と呼ばれるようになったとしている。

 この黄泉の国訪問神話は、琉球や奄美諸島で明治時代まで行われていた死者を風葬する殯(もがり)がこの時代に行われており、遺体の腐敗の早い熱帯地方から伝わった海人族の同一文化圏であったことを示している。

 比婆山を安来市伯太町横屋の比婆山久米神社に充てる説が見られるが、山間地であり海洋交易民の海人族イヤナギが拠点としたとは考えにくく、縄文人からの信仰対象の神名火山(神那霊山)も見られない。一方、現在の広島県庄原市の比婆山は島根県・広島県・鳥取県の県境地域にあるきれいな円錐形の山であり、江の川・斐伊川・日野川の源流域であり、縄文時代からの神山天神信仰の神名火山(神那霊山)の3つの条件(重要な川の源流、円錐形火山、信仰対象)を満たしている。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「101 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使」「118 『白山・白神・天白・おしら様』信仰考」参照 

 スサノオがアシナヅチ・テナヅチの娘を助けてヤマタノオロチを切った場所を古事記は「出雲国の肥の河上の鳥髪」としているが、日本書紀の一書は「安芸国の可愛(え)の川上」(江の川の川上)」としており、比婆山のある出雲・安芸・伯耆(鳥取)・吉備の山域一帯は1つの地域とみなされていたことを示している。

 

⑺ 神名火山(神那霊山)の神山天神信仰と「ひ、ぴー」信仰

 この肉体から霊(ひ=魂=玉し霊)が分離して神名火山(神那霊山)やピラミッド型神殿や神籬(霊洩木)、神塔から天に昇るという宗教思想はアフリカから世界に広がり、日本列島には縄文人から続いている。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57  4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」参照

     

    

 出雲では女性が妊娠すると「霊が留まらしゃった」ということは出雲の同級生・馬庭稔君から教わったが、霊が留まる人・彦・姫は「霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)」である。さらに、霊が留まる女性器を琉球・奄美では古くは「ピー、ヒ―」、天草では「ヒナ」と言い、倭名類聚抄ではクリトリスを「雛尖(ひなさき)」としている。霊(ひ)信仰は女性器信仰に結びつき、男子正装の烏帽子(えばし=カラス帽子)の前には「雛尖」を付けているのである。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」「73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」参照

 この祖先霊の「ひ(琉球弁ではぴー)」信仰は、南インドのドラヴィダ族やチベット・ビルマ・タイ・雲南・台湾などにみられ、匈奴(ヒュンナ・ヒョンナ)・鮮卑も国名からみて霊(ひ)信仰であった可能性が高い。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「128 チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」「149 『委奴国』をどう読むか?」参照

      

 「2 私の古代史遍歴」で述べたように、始祖神の「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦名について、太安万侶は「高御産巣日(たかみむすひ)神、神御産巣日(かみむすひ)神」として太陽神であるかのように書き換えていることに注意する必要がある。同じように霊婆山(霊場山)が比婆山に、霊川が斐伊川に、霊の川が肥の川・日野川に、霊神山が火神山(大山)に、霊留山が蒜山に、沙霊女山が佐比売山(726年に朝廷の命令で三瓶山に名称変更)、鳥神が鳥神に置き換えられた可能性が高いと考える。

 私は「スサノオ=朱砂王・朱沙王=赤目製鉄王」とみており、製鉄遺跡の多い三瓶山周辺の佐毘(比)売山)神社が製鉄に関わる金山姫・埴山姫を祀っていることからみて、佐比売山の「佐(さ)」は「砂=沙(微粒子の砂)=砂鉄」を指すと考えている。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

 スサノオ・大国主建国を論じるにあたっては、アフリカからの人類史を大前提とし、縄文人の生活・宗教・文化に遡って分析する必要がある。また、天皇家によってスサノオ・大国主建国史が隠されるとともに、太安万侶は真実の歴史を巧妙に書き残す工夫を行っていることを見逃してはならない。

 熱帯アフリカで生まれた魂魄分離(魂と死体の分離)宗教と死者の霊(ひ)(魂)が天に昇り降りてくるという天神宗教、さらに活火山や高木から死者の霊(ひ)(魂)が天に昇るという神山・神木信仰、平地部での神山を模した人工ピラミッドや神木(神籬=霊洩木)・神塔信仰、天と地を結ぶ龍神・雷神・水神・神使信仰などの全体構造は次図のとおりである。―ブログ「ヒナフキンの縄文ノート158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」参照

          

 

⑻ アマテル・月読(つくよみ)・スサノオの役割分担

 イヤナミの死後、イヤナギは出雲から「筑紫日向(ちくしのひな)橘小門(たちばなのおど)阿波岐原(あわきばる)」で禊(みそぎ)をして、黄泉の汚垢(おこう:汚れた垢)を洗い落して26の神・命(みこと)を生んだとし、最後に生まれたアマテル・月読・スサノオについて「三貴子を得た」と喜び、天照大御神には「汝は高天原を知らせ」と言い、月読命(つくよみのみこと)には「汝は夜の食国を知らせ」述べ、須佐之男命には「汝は海原を知らせ」と命じたとしたとしている。

 黄泉の国の汚垢から神々を生んだという黄泉帰り宗教としているが、実際には筑紫において各女王国の王女に妻問を行って御子をもうたのである。

 イヤナギは海人族の交易の支配をスサノオに託したのであり、「1 はじめに」で述べたように『三国史記』新羅本紀は4代目新羅国王の倭人の脱解(たれ)が紀元59年に倭国王と国交(筆者説:米鉄交易)を結んだとしているが、日本書紀がスサノオが御子のイタケル(五十猛=委猛)を連れて新羅に渡ったとしていることと符合し、新羅国王と国交を結んだ「委奴(ひな)国王」はスサノオ以外には考えられないのである。

 この海人族の委奴国の天王・スサノオの地位は、52代嵯峨天皇が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として「正一位(しょういちい)」の神階と「日本総社」の称号を尾張の津島神社に贈り、さらに66代一条天皇が「天王社」の号を同じく津島神社に贈っていることにより、天皇家公認の史実として裏付けられるのである。

   

⑼ スサノオは大兄(長兄)

 古事記はアマテル・月読(つくよみ)・スサノオの順に生まれたとしているが、「3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法」で書いたように、スサノオは「僕は妣(はは)の国・根の堅洲国に行きたい」と「八拳須(やつかひげ)、心(むね)の前にいたるまで啼(な)きいさち」「青山は如く枯山に泣き枯らし、河海は悉く泣き乾し」たというのであり、スサノオは出雲でイヤナミから生まれた長兄としているのである。太安万侶はスサノオを「泣き虫」と貶めながら、巧妙に真実の歴史を書き残しているのである。

 イヤナギはイヤナミの死後、スサノオを連れて筑紫日向(ちくしのひな)(旧甘木市の蜷城(ひなしろ))に行き、筑紫の各地の女王・王女と妻問いして26神をもうけ、スサノオは長兄として海人族の志賀島を拠点とする綿津見3兄弟や博多を拠点とする筒之男3兄弟、さらには宗像族の宗像3女神などの海人族を率い、新羅との米鉄交易や後漢との朝貢貿易を進めたのである。

 皇国史観は出雲大社正面に祀られた「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦を始祖神とするのではなく、天照大御神(あまてるおおみかみ)を天皇家の始祖神とするためにスサノオの姉としているが、古事記をきちんと読めばスサノオの異母妹なのである。

 なお、イヤナギの囊(ふくろ)から時量師(ときはかし)神が、右目を洗った時に月読命(つくよみのみこと)が生まれたとしているが、この時量師と月読は月の動きを観察して暦をつくる役割を担っていたと考えられ、イヤナギの「夜の食国(おすくに)を知らせ」という指示は夜に月を観察して暦をつくり稲などの栽培時期を決定する「食国を支配する」役割を月読が担っていたことを伝えている。

 

⑽ 81神の存在証明

 イヤナミ・イヤナギの神生みに登場する81神などの実在性については、壱岐の月読神社(月読を祀る元宮)のようにその神が子孫や部族によって神社に祀られているかどうか、地名由来人名に符合する地名が残っているかどうか、職業由来名が符合するかどうか、さらには祖先・先人の襲名が後世に見られるかどうか、伝承が残っているかどうかなどから裏付けることが可能である。 

           

 今回は81神の全体について個々に検討は行っていないが、以後の分析で関連する神名については分析することとする。興味のある若い方は、是非とも系統的・全体的な考察の挑戦してみていただきたい。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「縄文ノート158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」の紹介

2023-01-19 09:43:14 | ピラミッド

 はてなブログに「縄文ノート158 ピラミッド人工神山説:吉野作治氏のピラミッド太陽塔説批判」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 TBSの12月4日の「ピラミッドの真実!5000年の封印を破る鍵は太陽の船と科学とツタンカーメン」をやっと見ました。

 果敢にエジプトで発掘を続けた吉村作治早大名誉教授は昔から大好きな学者ですが、氏の「ピラミッド王墓説」批判には賛成ですが、氏の「ピラミッド太陽塔説:太陽パワー塔説」「ピラミッド日本伝播説」を批判し、「ピラミッド人工神山説:神山天神信仰説:ピラミッド神名火山(神那霊山)説」「三角文の神山信仰アフリカ起源説」をまとめました。

 神山信仰と人工の神山・ピラミッドの世界への伝播は、熱帯のアフリカで魂魄分離(魂と死体の分離)宗教思想と死者の霊(ひ)(魂)が天に昇り降りてくるという天神宗教が生まれ、さらに万年雪を抱く活火山から死者の霊(ひ)(魂)が天に昇るという神山信仰(神名火山(神那霊山)信仰)となりエジプトやメソポタミア、インダス、中国、さらには日本列島、アメリカ大陸など世界各地に伝わり、さらには天に向かって伸びる人工のピラミッドやジッグラト、神木(神籬=霊洩木)、神塔などが建設され、天と地を結ぶ龍神や雷神・水神・神使信仰が生まれたと私は考えています。

 私は大国主の八百万神信仰の神名火山(神那霊山)崇拝と出雲大社のルーツが縄文時代に遡り、さらにアフリカにルーツを持つと考えており、本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、世界遺産登録を視野に入れながら世界的な視野で検討する参考にしていただければと思います。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンの古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキンの邪馬台国ノート  http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  ヒナフキンの縄文ノート    https://hinafkin.hatenablog.com/

  霊(ひ)の国の古事記論    http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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スサノオ・大国主ノート145 岡野眞氏論文と「引橋長一町」「出雲大社故地」

2023-01-10 20:36:35 | スサノオ・大国主建国論

 縄文社会研究会・東京で事務局長であった山岸修氏がALSを発症し、昨年の8月末、「小生も日日、前向きにガンバル所存です」のメールとともに手持ちの縄文社会研究会の資料を送っていただいたのですが、12月19日治験入院中に感染で亡くなられたという残念な悲しいことがありました。

 そこで、遅まきながらその資料を子細に見直すと、私が入会する前に岡野眞氏(香川大学教授)が報告された2010年3月発行の『社叢学研究』の「古代・出雲大社の立地場所をさぐる」という論文の抜き刷りがありました。

 そこには図-3の宝治2年(1229年)造営と図-4の8世紀頃の立地環境図が載せられており、私の「引橋長一町=桟橋・浮橋説」と「出雲大社故地八雲山-琴引山線上説」を裏付けていたので、ここに紹介したいと思います。

 

<参考資料ブログ>

・スサノオ・大国主ノート130 『古代出雲大社』は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か? 190408→200208

・ヒナフキンの縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」 200731→200825→1226

・ヒナフキンの縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203

・ヒナフキンの縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107

・スサノオ・大国主ノート140  縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判 221024

・スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する 221027

 

1.出雲大社の「引橋長一町」は直階段(階:きざはし)ではなく「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」

 縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」において私は次のように、古出雲大社の復元図・模型作成にあたって構造的にも弱く耐久性がなく、建築足場を必要とする直階段と解釈したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」を木デッキ(桟橋)ではなく、直階段(階=きさはし)と誤って解釈した誤りであることを明らかにしました。

        

<縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考>

 48mの中古の出雲大社は外直階段ではなく、神籬である「心御柱」を中心にした廻り階段であり、後の仏塔の「心柱」に受け継がれたと考えます。外階段は横風を受けて構造的に弱く、廻り階段の内階段だと建築用の足場を外側に組む必要がなく合理的です。

 考古学者や建築家たちが長い外階段と錯覚したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」と書かれた長方形の図を直階段と勘違いしたもので、階段なら「きざはし(階)」と書いたはずですし、「登る橋」なら階段になりますが「引く橋」では階段になりません。「引橋長一町」は100m長の海岸から本殿へ続く木デッキであり、全国各地からの神々の舟を引いて係留し、本殿に人々を導いたのです。

 さらに「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」では、日本書紀に「天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれていることに気付き、「引橋長一町」が「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」であることを追加しました。

 

<縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ>

 日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう。又天安河には、打橋を造ろう」と書かれており、天日隅宮(天霊住宮=出雲大社本殿)の前には海に出て鳥船(帆船)で遊ぶための高橋(木デッキ)と浮橋(浮き桟橋)があり、天日隅宮の傍の天安河(素鵞川か吉野川の旧名の可能性)には打橋(木か板を架け渡しただけの取りはずしの自由な橋)があったのです。

 前者の「高橋+浮橋」が「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」であり、条里制の「一町」=109mで計算すると、拝殿前の銅の鳥居(四の鳥居)のあたりが水辺であったと考えられます。

 なお、この時には注目しませんでしたが、図15の「引橋長一町」の下には左右に開いた細く短い両端に〇のついた絵が描かれていますが、これこそが「浮橋(浮き桟橋)」を描いているのであり、図に吹き出しで日本書紀からの説明を付け加えました。

2.「引橋長一町」を必要とする出雲大社の立地条件

 以上の私の主張は、図16の地形図などから出雲大社本殿から「1町=109m」が満潮時や増水時には水没するような地形であったことを想定したものでしたが、岡野氏作成の13世紀、8世紀の出雲大社立地環境図によれば、現在の出雲大社の前面は8世紀に「湿地性低地帯」であったとされています。さらに古い2世紀の出雲大社造営の際には沖積が進んでいなかった可能性が高く、大国主が舟遊びをする「引橋長一町」の「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」が必要であったことが裏付けられました。

 なお大国主時代の杵築大社(きづきのおおやしろ)=出雲大社の創建年を紀元2世紀とする筆者説については、ブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート131 『古事記』が示すスサノオ・大国主王朝史」「ヒナフキンの縄文ノート24 スサノオ・大国主建国からの縄文研究」、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)などを御参照ください。

 

3.出雲大社の旧社地について

 私は地域計画や建築計画のプランナーとして道の駅や物産館、各種公共施設の立地計画にも携わってきましたが、どこに立地させるかについては、その施設の目的と用途に応じて誰もが納得できる場所とする必要があります。

 宗教施設となると神聖な場所としての条件が何よりも重要であり、死者の霊が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りてくるという八百万神の共同祭祀の場所としてふさわしくなければ多大な共同建設作業に住民を動員することなどできません。

 私は3度の出雲大社見学で現在の本殿が八雲山からズレた場所に立地し、しかも東西北を山に囲まれて見えにくい位置にあることに疑問を抱き、「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」で神名火山(神那霊山)である八雲山と琴引山を結ぶ線上の、出雲平野や日本海から見える場所で、真名井から神水をえられる場所こそ大国主が求めた立地点と考え、その場所を現在の本殿の当方で真名井に近い場所と推理しました。

 今回、岡野眞氏も図2のように現在の出雲大社より東の真名井神社あたりまでを旧社地として想定しており、岡野氏指摘のように集中豪雨時の素鵞川・吉野川の洪水・土砂災害を避ける上でも両河川の扇状地を避けた場所の可能性が高いと考えられ、現在の命主社(いのちぬししゃ)と出雲の森・涼殿あたりに大国主の杵築大社があった可能性が高いと考えます。

 

     

 岡野眞氏(香川大学教授)は「河川・地盤の立地環境」と「磐座・神木・神水祭祀」から出雲大社の故地について推定し、私は「神名火山(神那霊山)信仰」と「引橋(桟橋と浮橋)を必要とする地形」、「真名井の神水」から古出雲大社の場所を推定しましたが、北島家・千家家、真名井神社などに伝わる伝承などによりその位置は確定できるのではないか、と考えます。

 霊(ひ)と霊継(ひつぎ)(DNA=命のリレー)を大事にし、全ての死者が神として祀られる大国主の八百万神信仰は、旧約聖書一神教以前の全世界の人類共通の宗教であり、戦争・殺戮のない世界の実現に向けてその歴史をアピールすべきであり、そのためにも出雲大社故地からの巨木3本柱の柱痕の発見・発掘と、縄文巨木建築の伝統を受け継いだ世界最高の48mの出雲大社の復元、さらには世界遺産登録運動を進めることを期待したいと思います。

 

4.杵築大社の名称について

 古事記は出雲大社について「僕住所」「天之御巢」「天之御舍」「天之新巢」と書いており、大国主の住まいを天の巣のような高層建築として描き、出雲国風土記が「天下造所大神之宮」を「杵築」としていることからみて、元々は「杵築大社(きづきのおおやしろ:延喜式)」と呼ばれていたと考えられます。

 「杵築」について荻原千鶴訳注の『出雲国風土記』は「地面を突き固め」としていますが、斐伊川上流に「木次」の地名があることから考えると、「杵築」「木次」ともに後世の当て字であり、「きづき」は「木継き」で、3本柱の先に1本の柱を継ぎ足して48mの巨木建築とした可能性があると私は考えます。古代人にとってびっくり仰天の高層神殿の特徴を「木継で作った社」と表現したのではないでしょうか。

    

 日本一高い峰定寺の神木の「花脊(はなせ)の三本杉」のうち1本が62.3mであるものの、自然状態の縄文杉が最高45mであることから考えて、3本柱をただ束ねて48mの高層神殿とした可能性も否定はできませんが、運搬や建築の容易さから考え、上部の建物部分のところで3本柱の真ん中に柱を挟んで1本柱に置き換えたものを神殿とした可能性が高いと私は考えます。3本の木を束ねた無骨な柱は想定できません。

 上部の神殿部分はまずデッキをこしらえ、あらかじめ地上でおおまかに木組み全体を加工しておいた部材を心御柱を中心にした内部階段でこのデッキに運び上げ、調整しながら組み立てたと考えられます。内部階段の塔にすれば、建築用足場を周りに組むこともなく、容易に建築は可能です。

 なお、出雲大社の9本柱の中央の「心御柱」は、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)かれ天に昇り、降りて来てさらに里に下りた際の依り代である神籬(霊洩木)であり、縄文時代から続く霊(ひ)信仰を示しているという筆者の主張は縄文ノート「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」をご参照下さい。

 

5.木柱の謎の4角穴

 次の写真左のように、出雲大社の埋もれていた3本組木柱に四角い穴(貫通している貫(ぬき)なのかどうかは不明ですが)が2つ、交差して掘られていることは構造上の重要な点です。

 この穴については、右写真の諏訪の「御柱祭」でみられる「桟穴(えつり穴)」の可能性があり、同一の建築技術を示しており、運搬用の材の可能性があります。

 しかしながら、御柱祭ではこのような直角の桟(さん)をもうけず単に柱に穴を開けて引っ張るものもあり、運搬のためには必要のないものであり、それは出雲大社の柱についても同じです。

 そこで私が考えた仮説は、横棒を通して埋めて引き抜き力に抗し、48mもの塔状の神殿が強風などに対して倒壊するのを防いでいた構造材であるというものです。横風を受けると風上側の柱には引き抜き力が加わり、風下側の柱には押し込み力が加わるのですが、この引き抜き力に抗するために横に桟をつけたというものです。杉が直根だけでなく横に伸びた側根で倒壊を防いでいるのと同じ構造を出雲大社では人工的に作り、周りを石で埋めた構造としていた可能性です。

 杉が防風林として使われるように倒壊しにくいことを知っていた古代人はその根が横に張る構造を人工的に作り出し、48mもの高層楼観を作り出したのではないでしょうか?

 ただ、出雲大社の土中柱の写真では2つの四角穴が建物とどういう角度となっているのか判然とせず、またその横桟の木材が土中に残っていないのがこの仮説の難点であり、今後の研究課題です。

 

おわりに

 今回、故・山岸修さんから託された資料から、岡野眞氏の『社叢学研究』の論文「古代・出雲大社の立地場所をさぐる」に出合うことができ、私の出雲大社故地の仮説が立地環境からも裏付けられたことは想定しなかった喜びです。縄文社会研究会を主宰された上田篤先生と講演された岡野眞氏、故・山岸修氏に感謝したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキンの邪馬台国ノー      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

  ヒナフキンの縄文ノート       https://hinafkin.hatenablog.com/

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「縄文ノート157 中ツ原遺跡の8本柱巨木拝殿は天狗岳を向いている」の紹介

2023-01-08 17:08:49 | 縄文文明

 はてなブログに「縄文ノート157 中ツ原遺跡の8本柱巨木拝殿は天狗岳を向いている」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 これまで茅野市の中ツ原遺跡の巨木8本柱痕の建物を神山天神信仰の巨木拝殿(楼観)とし、信仰対象の神名火山(神那霊山)を蓼科山として書いてきましたが間違っており、八ヶ岳連峰の天狗岳に変更したいと思います。

 この8つの柱痕からの建物の復元について、縄文人は現代人と同程度の判断力を持っていたと考える私は、①柱の太さから当時の森林の樹高を超える高さの建物であり、②その大きさ、③柱の数、④戦争社会ではないこと、④「御柱祭」のような多大な共同作業を必要とすること、⑤集落中央の高台の800基以上の土坑群の中心に立地していること、⑥傍から「仮面の女神」の土偶が見つかっていることから、単なる倉庫や見張り台(2本柱・3本柱で足りる)ではなく、神山天神信仰の神名火山(神那霊山)崇拝の拝殿(楼観神殿)であると考えてきました。

 2019、2020年に中ツ原遺跡を見学した時には磁石を持たなかったためその方位について正確に把握できておらず、おおまかに蓼科山を神名火山(神那霊山)とした拝殿(楼観)ではないかと考えていたのですが、今回、2003年の茅野市教育委員会の「中ツ原遺跡」の緊急発掘調査概要報告書をネットで見つけ、短軸方向が蓼科山ではなく、八ヶ岳の特徴的な神名火山(神那霊山)である天狗岳に向いている可能性が高いことが判明しました。

 この中ツ原遺跡については、国宝「仮面の女神」やヒスイ玉やヒスイ垂飾り、石棒を配置した祭祀の煮炊きを行うかまど(筆者説:石棒は女神に捧げる祭具)、多様なデザインの多くの縄文土器(筆者説:絵文字土器―AIを使った解明が期待される)などもあり、巨木高層拝殿の復元とともに、現地での展示施設整備を進め、世界史の中に位置付けた展示(世界の女神信仰・性器信仰、世界の神山天神信仰、世界の巨木文化、世界の焼畑農業、世界のイモ・雑穀食、世界の土器鍋食文化など)と世界遺産登録運動が求められます。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、縄文人の母系制社会の神名火山(神那霊山)信仰と縄文巨木建築が、スサノオ・大国主一族の妻問夫招婚による建国や八百万神の神名火山(神那霊山)信仰と48mの出雲大社に引き継がれている点など、縄文社会・文化・宗教とスサノオ・大国主建国の連続性を検討する参考にしていただければと思います。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキンの邪馬台国ノート  http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

          

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「縄文ノート156 山岸修さん(縄文社会研究会・東京 事務局長)逝く」の紹介

2023-01-06 19:42:21 | 縄文

 はてなブログに「縄文ノート156 山岸修さん(縄文社会研究会・東京 事務局長)逝く」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 昨年の12月19日、縄文社会研究会・東京の事務局長の山岸修さんがALSの治験入院中に肺病で亡くなりました。

 2011年、ネットで検索して国際縄文学協会共催の「原発問題を考える」の今井一氏の「国民投票」の講演を聞きに行ったのですが、なんと、京大工学部建築学科西山研究室の大先輩の上田篤氏(当時、助教授)の講演が同時に行われたのです。そこで石飛仁氏(出雲古代史研究家・劇作家・演出家)の講演チラシ「縄文出雲古代序説―オオクニヌシは縄文最後の大王だった」を受けとって聞きにいき、かつて『現代の眼』編集長であった山岸修さんに40年ぶりに出会い、2013年から私は上田さん主宰の縄文社会研究会に共に参加するようになりました。

 山岸さんは『京大新聞』→『現代の眼』→『季刊日本主義』と編集に携わっており、私は『現代の眼』からの出会いであり、『季刊日本主義』に主にスサノオ・大国主建国論と縄文論(霊信仰、起源論)について書かせていただきました。

 信州出身の山岸さんとは日本中央縄文文化(長野・新潟・群馬・山梨など)の世界遺産登録運動を進めることを相談していたのですが、諏訪と関りの深い尾島俊雄顧問を中心に残されたメンバーで引き継いでいきたいと思います。

 本ブログの「スサノオ・大国主論」としても、縄文巨木建築や神名火山(神那霊山)信仰など、縄文社会・文化・文明とスサノオ・大国主建国の連続性や、大国主の八百万神信仰の世界遺産登録の検討にあたって縄文社会研究会・東京の取り組みについて今後とも注目いただければ幸いです。雛元昌弘

        

           

   

           

 

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2023年 賀春

2023-01-03 16:06:13 | 日本民族起源論

 明けましておめでとうございます。

       

 戦争と気候大変動、新興感染症、巨大地震、バブル崩壊、格差拡大・固定化などの時代を迎え、どう新たな世界を切り開くのか、スサノオ・大国主建国論、縄文社会論、さらには人類起源論から考え続けています。

 そもそもの出発点は「ヒョウタンから縄文人」でした。若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)や青森の三内丸山遺跡(約6000~4000年前)から発見されたヒョウタンの原産地が、次女が青年海外協力隊員として赴任していたアフリカ西部のニジェール川流域であることから、私の人類史の探究は始まりました。

 Y染色体C型から分岐したD・E型人のうちのD型縄文人に近いE型人がニジェール川・コンゴ川流域に住み、「主語-目的語-動詞」言語族が西アフリカ―エチオピア―インド・ミャンマー―日本に分布し、イモやコメ・ムギ・トウモロコシ・ヒエ・アワなどのイネ科の「マザー・イネ」のルーツが分裂前のパンゲア大陸の熱帯である可能性が高いと考え、2014~2017年にかけて縄文人のルーツ西アフリカであることを確信しました。

 さらにボノボ・チンパンジー・ゴリラの生息域がアフリカ西部の熱帯雨林であることやボノボ・チンパンジーの食生活の研究から、西欧中心史観の東アフリカ・サバンナでの男の狩猟活動による人類誕生説(言語・二足歩行・脱毛)を批判し、西アフリカ熱帯雨林の海岸・小川・沼地地域での女・子どものイモ類の採集・栽培と半身浴漁撈による「糖質・DHA・タンパク食」と「おしゃべり」による1~3歳の頭脳発達と言語の誕生、「半身浴漁労」(足での貝の採集と銛での魚類・爬虫類捕獲)による直立歩行と道具使用、脱毛による人類誕生説に到達しています。「狩猟・採集」ではなく、「採集・栽培・漁労・調理」により人類は誕生したのです。

 イモ・穀類食は磨石(すりいし:石臼)と石釜・土釜(竃)・土器鍋による加工・加熱で可能になったのであり、それらの道具づくりは男ではなく女が行っていたのです。それはアフリカ製鉄を女性の陶工・土器製作者が担っていたことからも裏付けられます。ー「ヒナフキンの縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』参照

 日本列島にはアフリカ-インドーミャンマー経由のY染色体Ⅾ型人を中心にシベリアからC型人、東南アジア・中国からO型人など多様な人々が集まり、台湾・フィリピン・インドネシアのような多民族の島国とは異なり、同じ文化・言語の平和な縄文1万数千年の社会を作り上げたのです。

 それは、海を利用した活発な海人(あま=天)族の交易・交流による母系制社会の妻問夫招婚によるものであり、この縄文人からの母族社会は1~2世紀のスサノオ・大国主の百余国の「委奴(いな=ひな)国」を生みだし、3世紀の卑弥呼の女王国に引き継がれ、さらには家計を妻に任せる漁民や専業主婦時代のサラリーマンにまで引き継がれているのです。

 中国においても、「姓=女+生」「地=土+也(女性器)」「男尊女卑(孔子:祖先の頭蓋骨を掲げる女に、男は酒樽を捧げる)」「魏=禾(稲)+女+鬼:祖先霊に女が稲を捧げる」などからみて、春秋戦国時代以前の農耕社会は地母神信仰、祖先霊信仰の母系制社会であったのです。

 マルクスは「原始共産社会」を理想と考えましたが、ユダヤ・キリスト教の男性中心史観の制約を免れていません。アフリカをルーツとするエジプト・メソポタミア・インダス・中国・ギリシア文明などは元々は母系制社会の地母神信仰・女神信仰であったのであり、それらの農耕国を征服し「男は殺し、女・子どもは奴隷とする」ことを神の命令として征服戦争を主導したのが狩猟・遊牧民族の男中心の旧約聖書教なのです。

 その影響下にある「肉食・戦争こそが人類を発展させた」という西欧中心文明史観(含む:マルクス主義)から卒業しない限り、プーツァーリ・プーターリンのウクライナ侵略をみても明らかなように人類は破滅への道を進む以外にないように思います。

 大国主が確立したすべての死者の霊(ひ=魂)を神として祀る八百万神信仰は、DNAの働きを「霊継(ひつぎ)」として考え、霊(ひ)を受け継ぐ「霊人(ひと)・霊子(ひこ=彦)・霊女(ひめ=姫)」たちは「霊継(ひつぎ=棺・柩)」を「DNAのリレー」として何よりも大事にし、この霊(ひ)の働きは全ての生類に共通すると考えたのです。

 この生類の「霊継(ひつぎ=DNAのリレー)」を神聖視する「女・子ども中心文明史観」の回復こそが今こそ必要であり、女性研究者が中心となった考古学・歴史学・人類学の革命が必要と考えます。

 広島・長崎に原爆投下し世界を支配しようとしたアメリカやそれを真似た原爆依存症のロシア・北朝鮮などが世界を滅ぼしかねない2023年に、以上のような生類の「霊継」を大事にする新しい世界づくりを「夢想(Imagine)」しています。

  

『Imagine』

Imagine there's no countries 想像してごらん 国なんて無いことを

It isn't hard to do      そんなに難しくないでしょう?

Nothing to kill or die for  殺したり死ぬことも無い 

And no religion too      そして宗教も無い

Imagine all the people    想像してごらん みんなが

Living life in peace     平和に生きていると

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