ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団97 天下は誰のものか?

2010-10-31 08:28:25 | 歴史小説
筆者おわび 97回をアップするのを抜かしていました。前後しますが、ここに掲載します。


高御位山の麓から、東の飯盛山を見る


しかし、高木としてはそうスンナリとは認めるわけにはいかなかった。
「ホームページを見ていると、この『天下原』を記紀神話の『高天原』と結びつけている人がいますね。『天』の地名は、天皇家ゆかりの天孫族が進出した場所、ということにはなりません?」
「正当派のボクちゃんがそうくると思っていたけど、『天下』というと出雲国風土記に繰り返し出てくる『天下造るところの大神』、大国主にちなんだ名前なんだよな」
カントクの待ち伏せに引っかかったが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「日本書紀では神武天皇の敬称を『始馭天下之天皇(天下を始めて馭した天皇)』と書いていますから、天皇家でも使っていますよね」
「古事記で最初に出てくる『天下』は、少彦名が死に、大国主が「独りでどうやって国をつくろうか、いずれの神とこの国を一緒につくろうか」と述べたところででてきます。亡くなった少彦名が『山田のそほ(かがし)』の神になり、『ことごとく天下のことを知っている神』であると紹介されています。神代では、この1か所しか、天下はでてきませんが、その場面は少彦名が亡くなり、その代わりに大物主が登場して国造りを手伝うことを申し出るところなんです。
これを見ても、天下という言葉は、大国主の時代の言葉で、ずっと後に、天皇家が真似をしたことがわかります」
返り討ちにするつもりが、ヒナちゃんに逆襲されてしまった。
「『天』が付くと、天照大御神の孫・ニニギ以下の天孫族に結びつけてしまう、というのは皇国史観の悪しき名残だね。大国主の父親は『天冬衣命』だし、大国主の子孫にも天が付いている。明日見学する予定のたつの市の『天照神社』は大国主の子の火明(ほあかり)命を祀っている。この神は天照国照彦天火明命と言われていることは知っているよね」
長老に止めを刺されてしまった。
「この地は大国主と少彦名の建国の地の可能性が高い、ということは地名からも裏付けられたわね」
こういうことは、ヒメの小説に任したほうがよさそうだ。
「古事記・播磨国風土記・万葉集という同時代の書証、高御位・大国・天下原・神吉などの地名、石の方殿と仁徳天皇などの柩に使われた竜山石という物証、この地が日本の中心となって栄えるはずであったという鯛じゃり伝説、4点セットが見事にそろったけど、他にこの地が大国主・少彦名・大物主の建国の地であったことを示す物証はないの?」
ヒメの小説の骨格はできあがっている。
「これから向かう日岡山には4世紀の古墳群がある。先ほどの天下原一帯には100基ほどの平荘湖古墳群があるが、6~7世紀のものでこちらは新しい。今、加古川を渡っているけど、その先のやや左手の先に西条古墳群がある。ここの西条52号墓は3世紀前半のもので、後漢から三国時代の内行花文鏡が出土している」
こうなると長老の出番だ。「このあたりは神野という地名なんだね。面白い」
カーナビを覗き込んでいたヒメが、驚きの声を発した。
「考古学者の皆さんは、この地をどう考えているのかしら?」
マルちゃんが長老に聞いた。
「一般的には、『大和朝廷の勢力がいかに播磨に及んだか』という、大和中心主義の曇った目でしかみていないね。この地で、新しい発見があると、大和の影響がこの地に及んだ、としか解釈しないね」
長老は手厳しい。
「播磨国風土記に出てくる大国主や少彦名の話、記紀に書かれている少彦名亡き後の大国主と大物主が協力した国造りなどと、考古学を結びつけて考えようとはしないのかしら?」
「彼らの頭の中には、記紀や播磨国風土記の大国主神話は後世の作りごと、播磨にあるものは全て大和からもたらされたもの、という古くさい観念しか詰まっていないんだな。これは、津田左右吉教という宗教だからね、そう簡単には変わらないな」
いつもは穏やかな長老も、この点では論敵を思い出すらしくて、感情がこもってくる。
「播磨の人たちは、そんな大和植民地史観みたいなものを、そのまま受け入れているのかしら。大国主と大物主の同盟により、出雲・播磨から大物主の大和へいろんな物が伝わった、という可能性は考えてもみないのかしら」
マルちゃんの追求は続く。
「災害もなく豊かな播磨の男たちは、よく言えば、穏やかで優しいからね。悪く言えば、腰抜けばかりだからね。長老みたいに一人でも通説と戦うなんて、根性の座った学者なんていないと思うよ」
ヒメも誰かを思い浮かべているらしく、同郷人に手厳しい。
「おいおい、そこまで言うことはないだろう。播磨の男に恨みでもあるの? 若手の中には、少数だけど意欲的な連中もいるからね」

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
      霊の国:スサノオ・大国主命の研究(http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/)
      霊(ひ)の国の古事記論(http://hinakoku.blog100.fc2.com/)
 帆人の古代史メモ(http://blog.livedoor.jp/hohito/)

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神話探偵団99 日岡山のヤマトタケル伝承

2010-10-30 16:36:42 | 歴史小説

ヤマトタケルが描かれた日岡神社の安産祈願の絵馬 
神戸観光壁紙写真集より(http://kobe-mari.maxs.jp/)

「近くにヤマトタケルの双子の兄弟の産湯に使った、という石の盥があるというけど、ほんとかしらね?」
マルちゃんが聞いてきた。
「神社の創建が天平2年とされていますから、ヤマトタケルの時代の石の盥というのはあり得ないですね。後世の創作でしょう」
高木は無難なところで答えておいた。
「先ほどの説明に書いてあったけど、大帯日子(オオタラシヒコ)命、後の景行天皇の后の最初のお産が難産だったので、2度目のお産の時に天伊佐々彦が祈り続け、双子のヤマトタケル兄弟が無事に生まれた、という伝承はどうなのかしら」
マルちゃんの質問が続く。
「播磨国風土記には、大帯日子命が、印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)、古事記では針間の伊那毘大郎女(いなびのおおいらつめ)を妻問いする話がリアルにでてきますから、印南別嬢がこの地でヤマトタケル兄弟を出産した可能性はあると思います。しかし、記紀や播磨国風土記には、ヤマトタケルがどこで生まれたのかは出てきません」
高木が文献から答えられることは限られていた。
「ヤマトタケルは、後世の数人の英雄の英雄をもとにした架空の人物、という説はどうなの?」
ヤマトタケル伝説がある市や町の仕事をしたことがあり、関心が高いマルちゃんから質問が続いた。
「確かに、古事記にはヤマトタケルの曾孫を、父親の景行天皇が娶ったとも書かれていますから、景行天皇とヤマトタケルの親子関係を疑う学者もいますよ」
高木には優等生的な答えしかできなかった。
「ヤマトタケルの西征と東征の物語が真実かどうか、ということと、ヤマトタケルがいたのかいなかったのかは、別々に検討した方がいいね」
長老が交通整理をかけてきた。
「不思議なことに、日本書紀は正妃である印南別嬢の親の名前を記していません。古事記は崇神天皇が吉備に派遣した若建吉備津日子の娘としており、播磨国風土記は比古汝茅(ひこなむち)と吉備比売の子としていますが、いずれも時代が合いません」
「具体的に説明してくれない」
男と女のドラマにとりわけ関心を持つヒメが乗り出してきた。
「若建吉備津日子は孝霊天皇の子とされています。いくら天皇が短命だ、兄弟相続だからと言っても、孝霊―孝元―開化―崇神―垂仁天皇を経た景行天皇が、孝霊―若建吉備津日子の子の印南別嬢を皇后にするというのは無理なように思います。また、比古汝茅(ひこなむち)は景行の次の成務天皇が派遣したとされていますから、これも時代が合いません」
「いずれにしても、吉備氏と関わりのある姫という伝承があったんじゃない?」
ヒメは何か次のストーリーを考え始めたようだ。
「当時は妻問婚ですから、印南別嬢は吉備の王とこの地の大石命の子孫の王女の間で生まれ、この地で育てられた姫の可能性はあると思います」
どうやら、ヒナちゃんは結論まで考えて発言している感じである。
「若建吉備津日子って誰なの?」
「景行天皇の5代前の孝霊天皇の子どもで、兄の大吉備津日子とともに、針間を道の口として、吉備を言向(ことむ)け和(やわ)した、とされています」
「そうすると、針間や吉備は、景行天皇の5代前の頃から、天皇家の支配下に入っていたのかしら」
「私は、そこはクエッションだと思っています。というのは、播磨国風土記によれば、大帯日子命が印南別嬢を訪ねた際に、摂津国(つのくに)の高瀬の渡しで、今の淀川を渡して欲しいと船頭に頼んだところ、『私は天皇の家来ではない』と断わり、『渡りたければ、船賃を頂きたい』と言ったため、大帯日子命は頭に巻いた光り輝く装身具を渡して渡った、というのですから、摂津国すら支配下に置いていなかったと考えられます」
ヒナちゃんの答えはよどみがない。
「日本書紀によれば、大物主やアマテラスを宮中に祀って祟りを受けた崇神天皇は、3代前の孝霊天皇の子のヤマトトトヒモモソ姫を大物主神に差し出している。これを見ても、この時代の天皇の支配圏というのは、大和内に限られるのではないかな?」
カントクは、祟られた天皇、崇神天皇にこだわる。
「日本書紀の崇神天皇17年のところでは、『船は天下の大切なものだ』と言って、諸国に命じて『始めて船舶を造る』と書かれています。これを見ると、天皇家はこの頃までは内陸の大和にいて、海からは離れていたことがわかります」
ヒナちゃんは答えを用意していた。
「なるほどね。大帯日子命が印南の印南別嬢の元に贈り物を持って妻問いに出かけるのに船をしつらえるどころか、淀川すら渡れず、歩いて印南まで行ったということは、この時代になっても天皇家は海を支配できていないということになるな」
ヨット乗りのカントクにとっては、海の道の方がはるかに楽なのは当然であった。

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
参考ブログ:邪馬台国探偵団(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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神話探偵団98 日岡山に祀られたイワツヒコ神

2010-10-17 08:33:33 | 歴史小説
日岡神社 


車は加古川を渡って右に回り、ヤマトタケル生誕伝説のある日岡山へ着いた。標高数10メートルの小高い丘である。車は日岡神社の駐車場に停め、日岡神社へ登りながら、いつものように高木が説明を行った。
「まず、日岡の地名ですが、播磨国風土記の賀古郡(かこのこおり)の冒頭に、この丘を見ると『鹿児』のようだと言って『賀古郡』と名付け、狩りをした時にこの丘に鹿が登って『ひひ』と鳴いたので『日岡』と名付けた、と書かれています」
高木の説明を遮って、予想通り「なぜなぜヒメ」が質問してきた。
「この丘を見たり、この丘で鹿が鳴いたのを聞いた、という主人公はいったい誰なの」
「賀古郡と日岡の地名の説明の後に『この岡に比礼墓あり』と続いて、この墓が大帯日子(おおたらしひこ)命、後の景行天皇の妻で、ヤマトタケルを産んだ印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)の褶(ひれ:肩掛け)を納めた墓という説明がありますから、主語は景行天皇というのが通説です」
「必ずしも、そうとは言えないと思います」
やっぱり、ヒナちゃんが反論してきた。
「播磨国風土記は国の概要と冒頭の明石郡、最後の赤穂郡を欠き、10の郡(こおり)からなっています。不明の賀古郡を除く9つの郡名の由来について主語を見ると、応神天皇が2、仲哀天皇が1、履中天皇が1、伊和大神が1、伊和大神の子の建石敷命が1、大神が1、大人が1、大三間津神日子が1となっています。私は書かれている内容から見て、伊和大神と大神、大人は大国主と思います。そうすると、天皇が4、大国主関係が4、不明の神が1となります。従って、加古郡の地名説話の主語も天皇ではなく、大国主に由来する可能性があります」
こうなると、カントクが必ずフォローする。
「もともと、大国主一族による地名説話があって、その半数近くが天皇に置き換えられて播磨国風土記が作られた、という可能性が高いな。大国主の時代から、仲哀天皇の時代まで、少なく見ても約300年だから、その間に各郡の地名がなかった、ということはありえないからな」
「鹿が『ひひ』と鳴いたので『日岡』と名付けた、というのはいかにも苦しいこじつけじゃない?」
ヒメは素直には信じない。
「僕は、日向勤氏の『霊(ひ)の国』説に立って、日岡山は『霊岡山』だと考えるな」
カントクは最近、日向説の引用が多い。
「日岡山が、神那霊山だという証拠があるの?」
マルちゃんは慎重だ。
「出雲の比婆山を源流とする斐伊川は氷川とも呼ばれ、本来の意味は『霊場山』『霊川』だったと考えられる。この加古川も古くは『氷川』と呼ばれていたことからみて、「霊川」のそばにある山が「霊岡山」であった可能性は高いんじゃないかな」
カントクは地名説が得意だ。
そうこうしているうちに、一同は日岡神社の社殿に着いた。案内板を見ながら、ヒナちゃんが解説した。
「私は日岡神社の祭神が重要と考えます。ここに書かれているように、この日岡神社は、9世紀の延喜式神名帳では『日岡坐天伊佐佐比古神社』と呼ばれています。霊岡山は『イササヒコ』を祀る一族の神那霊山として信仰されていたと思います」
ヒナちゃんは宗教から攻めるのが得意だ。
「天伊佐佐比古神って、どういう神なの?」
いつも次の推理小説を書くことを考えているヒメは、謎解きのための質問を外さない。
「延喜式神名帳よりも200年ほど前に書かれた播磨国風土記では、日岡に祀られた神は『大御津歯命の子の伊波都比古命』と書かれています。『天伊佐佐比古神』は、『伊波都比古命』の子孫と考えられます」
ヒナちゃんはよく調べている。
「『イワツヒコ』ってどういう神なの?」
「『伊和大神』とも呼ばれた大国主の子孫と思います。播磨国風土記では、伊和大神の御子として『建石敷命』や『石龍比古命・石龍売命』の名前が見えますし、大神の子の玉足日子(たまたらしひこ)・玉足比売(たまたらしひめ)命の子を『大石命』としています。これらの『石(いわ)』の付く名前から見て、『イワツヒコ』は大国主一族の可能性が高いと思います」
ヒナちゃんの調査は抜かりがない。
「前に、石の方殿のある伊保山と揖保川の名前が一緒という話があったけど、揖保川の河口の御津には3世紀の古墳がある。『大御津歯命』というのは、この御津と関わりがあるかもしれないね」
長老が今日は思い切った発言を続けている。
「前にもどるけど、万葉集に出てくる生石村主真人(おいしのすぐりまひと)や国司の上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)はさっきの『大石命』とは関係ないのかしら」
マルちゃんの記憶力はたいしたものだ。
「播磨国風土記では、石の方殿のことを、『名号を大石という』としていますから、古くは大石と言っていたのを、後に生石と言うようになったと思います」
ヒナちゃんはそこまで調べていながら、石の方殿に行った時には種明かしをしないでここまでとっておいたことになる。改めて高木はヒナちゃんの慎重さに驚かざるをえなかった。
「それと重要なことは、播磨国風土記が作成された当時の国司に、『大石王』の名前があります。また、雄略天皇に父を殺され、この地の北の賀毛郡に密かに逃れてきていた意祁(おけ)命・袁祁(おけ)命兄弟の弟、後の顕宗天皇の別名は『大石尊』です」
すごいことになってきた。
「古い順に見ていくと、大石尊、上生石大夫、大石王、生石村主真人は、全て大国主の孫の『大石命』をルーツにしている可能性がある、ということになるのね。下手な推理小説より面白いわねえ」
ヒメの頭の中では『高御位殺人事件』のストーリーは大転換を迎えているに違いなかった。

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
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      霊の国:スサノオ・大国主命の研究
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