ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

「琉球論1 『へのこ』考」のお知らせ

2020-01-31 19:26:30 | スサノオ・大国主建国論
 「琉球=龍宮論」「琉球弁古日本語論」を中心に、古代の「琉球」と本土の関係について2017年より書いてきたものを、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」において、本日「琉球論1 『へのこ』考」をアップしました。性器名称は基本語・基礎語と言えますが、どのような意味で、どう伝わったのか、考察しています。
 海人族の「スサノオ・大国主建国論」とも密接に関係していますので、紹介いたします。http://blog.livedoor.jp/hohito/

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倭語論9  「卑」字について

2020-01-31 18:22:00 | 倭語論
 わが国が最初に国交を結んで後漢の冊封体制に入り、「漢委奴国王」金印を与えられたのは「委奴国王」であり、次に魏から「親魏倭王」として金印を与えられたのは「邪馬壹国」の女王「卑弥呼」です。
 「奴隷、匈奴」などの「奴」、「邪魔、邪道」などの「邪」、「卑賎、卑猥」などの「卑」という卑字が使われていることから、「中華意識」の後漢や魏が倭国をさげすんで「奴、邪、卑」などの卑字を使った、というのがこれまでの解釈でした。
このような「被支配史観・被虐拝外史観」に対し、私は委奴国王と卑弥呼の使者は王の国書を持参し、その中で「委奴国王」「邪馬壹国」「卑弥呼」と書き、それを中国側が金印に印し、記録したと考えています。
 今回は「卑」字について考えてみたいと思います。
 古事記は天照(あまてる)の2番目の子を「天之菩卑(あめのほひ)」、日本書紀は「天穂日」としており、当時の倭人は「卑=日」として倭流漢字として使っていたことを示しています。白村江で唐と戦って大破し、国家意識が高まった時に作られた古事記・日本書紀が「卑」字を使っていることからみて、「天之菩卑(あめのほひ)」名は実際に使われていた漢字とみて間違いありません。
 では「男尊女卑」などに使われる「卑」字はどういう意味の字だったでしょうか。
 「卑」を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+寸」で、「甶(頭蓋骨)」を「手」で支えるという字になり、死者の頭蓋骨を子孫が掲げて祀るという、祖先霊を祀る字になります。

「卑」「鬼」「魂」「魏」字に共通する「甶(頭蓋骨)」字


 前に述べたように、「鬼」字は「甶+人+ム」で、「甶(頭蓋骨)を人が支え、ム(私)」が拝む」というような意味の字ですから、倭人は「卑」字も「鬼」字と同じような字として理解していたと考えれます。「魏」字が「委(禾+女)+鬼」であることからみても、「鬼」字や「卑」字は祖先霊を祀ることを示す「貴字」であったことが明らかです。
 このような例からみて、女系社会において「卑」字は卑しい字でなく、海人(あま)族の女王国の「卑弥呼」は誇らしい字として、鬼道(霊信仰)をとり行う「霊御子=霊巫女」として、魏皇帝の「霊帝」の「霊」字を避けて、「卑」字を使ったと考えられます。
 ここから、私たちは孔子の「男尊女卑」の意味を見直さなければならないと考えます。中国人が大事にする「姓名」の「姓」は「女+生」(女が生まれ、生きる)ですから、もともと中国も周時代には母系性社会であった可能性が高く、祖先霊を祀る役割は女性が担い、それが「女卑」(女が祖先霊を祀る)であったのです。

「姓」字が示す「女が生まれ、生きる」母系制社会


 春秋・戦国時代に奴隷制が始まり、女奴隷にされた女性の地位が低まり、後の儒学者たちは「女卑」を「女は卑しい」と解釈するようになり、やがて祖先霊を祀る役割を男系に変えた、と私は考えます。
 中国においては、「卑」字は春秋・戦国時代から「貴字から卑しいという卑字」へと変わったのですが、孔子が「道の国」とみていた母系制の倭国では周時代の「卑」字の用法が残り、「卑弥呼」名で魏に国書を届けたのです。孔子が憧れた古きよき母系制社会の伝統がこの国には残り、倭流漢字用法とでもいえる独特の漢字文化を保持していたのです。
 超大国の周辺にあり、積極的に交流・交易・外交を行いながら、全てを模倣することなく、独自の道を歩んだ「辺境」を恥じて「卑下」することはないと考えます。

注:2019年10月25日のフェイスブック原稿を加筆・修正したものです。
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倭語論8 道と礼と信の国

2020-01-30 11:50:32 | 倭語論
 紀元前5~6世紀の思想家、孔子は「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」と述べ、3世紀に陳寿(ちんじゅ)は三国志魏書東夷伝の序で「中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、なお信あり」と書いています。紀元前6世紀から紀元3世紀にかけて、倭国(わのくに)は、「道と礼と信」の国とみられていたのです。
孔子画(ウィキペディアより)

 道は「人道・天道・道理」などを、「礼(禮)」は「示+豊」で「示(高坏に物を乗せて示す)+豊(供え物を盛る器)」ですから祖先霊に豊かな供え物をする信仰になります。「信」は「人+言」ですから「人の言うことをしんじる」を表しています。
 朝鮮半島の高句麗・馬韓(後の百済)・弁辰(後の新羅の一部)では「鬼神を祭る」と書かれているのに、邪馬台国の卑弥呼の宗教だけが「鬼道」と書かれているのは、孔子と儒学者の陳寿たちがこの国を「道の国」とみていたことを示しています。
 わが国は、1万年を超える世界に類のない土器時代(土器鍋時代。通説は縄文時代)から続く、紀元前5~6世紀から3世紀の海人(あま)族=海洋交易民の「道と礼と信」の国の原点に立ち返り、世界から尊敬・信用される国をめざし、信長・秀吉や大日本帝国のような武力による領土・支配権確立ではなく、「交流・交易・外交」を基本戦略とすべきと私は考えます。
 55%の貿易額を占めるアジア諸国と「道と礼と信」による交流・交易・外交こそもっとも重要であり、輸出・輸入第1位の中国、輸出第3位・輸入第5位の貿易国、中国・韓国の敵視政策や韓国との貿易戦争などありえへん話です。アメリカの核の傘にたより、トランプ大統領の忠実な手下として、道を踏み外すべきではありません。
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倭語論7 「鬼」の国

2020-01-29 16:30:43 | 倭語論
 「鬼」について、ウィキペディアは「一般に、日本の妖怪と考えられている」と全くのピント外れの解釈をしていますが、文芸評論家の馬場あき子氏の次の5種類を紹介しています。
  1 民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
  2 山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
  3 仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
  4 人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
  5 怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。
 この分類は「妖怪説」よりはマシですが、「歴史上の鬼」の分析が欠けています。
馬場説は「元々は死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本に固有で古来の『オニ』と重なって鬼になったという。ここでいう『オニ』は祖霊であり地霊であり、『目一つ』の姿で現されており、隻眼という神の印を帯びた神の眷属と捉える見方や、『一つ目』を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ、一つ目の鬼は死霊というより民族的な神の姿を彷彿とさせる」と説明していますが、「中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本に固有で古来の『オニ』と重なって鬼になった」は明白な間違いです。
 なぜなら、3世紀の魏書東夷伝倭人条に「名曰卑弥呼 事鬼道 能惑衆」(名を卑弥呼といい、鬼道を祀り、よく衆を惑わす)」と書かれ、卑弥呼の「鬼道」が行われていることを無視しているからです。歴史は天皇家の大和朝廷から始まるという大和中心主義の「新皇国史観」の解説と言わざるをえません。

魏書東夷伝倭人条の卑弥呼の「鬼道」


「鬼」字を漢字分解すると「甶+人+ム」で、「人が掲げた甶(頭蓋骨)を、ム(私)が拝む」を意味し、「魂」は「云+鬼」で「云(雲)の上の鬼」=天神になり、「魏」字は「禾(稲)+女+鬼」ですから「鬼=祖先霊を、女が稲を捧げて祀る」という字になります。これらの漢字からみて、中国において「鬼」の本来の意味は「祖先霊」であったことが明らかです。

「鬼」字、「魂」字、「魏」字の漢字分解


 魏書東夷伝では高句麗、馬韓(後の百済)、弁辰(後の新羅)で「鬼神」信仰が行われていると書かれていますから、中国だけでなく、朝鮮半島の諸国・倭国でも古くから鬼信仰=祖先霊信仰であったのです。
 この祖先霊を指していた「鬼」を、悪役の「邪鬼」「人鬼」「怨霊(お化け)」にしたのは、人々の信仰対象を「鬼(神、霊、魂)」から「仏」に変えるための仏教の宗教改革戦略であったことは明らかです。
 それは仏教を国家宗教とし、「鬼」(スサノオ・大国主一族の八百万神)を足元に踏みつけた仏像を作らせた天皇家の戦略でもありました。縄文時代(筆者説は土器鍋時代)から続く、「鬼=神=霊=魂」の祖先霊信仰から、鬼だけを悪者にし、天皇家に従わない王(例えば、吉備津神社に祀られた温羅など)や人々を鬼として民衆から切り離したのです。
 漢字分析で注意しなければならないのは、中国においてもまた、儒教と仏教によって、それまでの母系制社会の祖先霊信仰=霊継(ひつぎ)信仰がゆがめられて伝えられ、漢字解釈が行われている可能性があり、辺境の倭語においてその本来の意味が解明できる可能性があることです。
 古代史の分析においては、大和朝廷の隋・唐留学生の官僚や、江戸時代からの朱子学に染まった官僚・学者による漢字使用には疑いを持ち、大和朝廷以前の歴史の分析においては、倭語・倭音による分析が必要であると考えます。

注:2019年10月25日のFB「古代小話8 「卑」字について」の一部を独立させて書き足しました。 雛元昌弘


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最近の5つの古代史ブログの紹介

2020-01-28 17:19:08 | 倭語論
 古代史のテーマ別に5つのブログを再開・開始しましたが、相互に少なからぬ関連があるので、昨年末から書いてきたブログ全体について紹介しておきます。今後は重複アップはやめ、それぞれのブログで他の新ブログをリンクします。

1 Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」(旧:神話探偵団)https://blog.goo.ne.jp/konanhina
① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0110
② 神話探偵団128 「天王スサノオ」を目指した天主・織田信長を殺した明智光秀 0114
③ 神話探偵団129 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか? 0115
⑤ 古代史ブログを再開します 0123
⑥ 倭語論1 平和について 0123
⑦ 倭語論2 倭流漢字用法の「倭音・呉音・漢音」について 0124
⑧ 倭語論3 「主語-目的語-動詞」言語族のルーツ 0125
⑨ 倭語論4 「倭人」の漢字使用 0126
⑩ 倭語論5 「和魂」について
⑪ 倭語論6 「神」について

2 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」 yamataikokutanteidan.seesaa.net/
① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0110
② 古田説・安本説と私の邪馬台国論 0110
③ 古代史ブログを再開します 0123
④ 纏向の大型建物は「卑弥呼の宮殿」か「大国主一族の建物」か 0128

3 FC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0110
② 「天王スサノオ」を目指した天主・織田信長を殺した明智光秀 0114
③ 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか? 0115

4 はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」https://hinafkin.hatenablog.com/
① 1 縄文との出会い 0106
② 2 私の日本民族起源論、縄文論 0107
③ 3 これからの「縄文社会研究」のテーマ(検討中) 0110
④ 4 「ワンチーム」の縄文時代:麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」批判 0115
⑤ 5 古代史ブログを再開します 0123
⑥ 6 「弥生時代」はなかった 0125

5 Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」 blog.livedoor.jp/hohito/
① 帆人106 古代史小論・レジュメ一覧 1221
② 帆人107 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0114
③ 帆人108 「天主・天王」を目指した織田信長を殺した明智光秀 0114
④ 帆人109 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか? 0115
⑤ 帆人110 古代史ブログ再開します 0123
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倭語論6 「神」について

2020-01-28 12:40:55 | 倭語論
 記紀には「八百万神(やおよろずのかみ)」が登場し、多くの「神」の名前が見られ、出雲大社には神無月(出雲では神在月)にこれらの神々が全国から集まるとされています。
 死んだ人はすべて神として子孫に祀られる、という独特の宗教です。唯一絶対神信仰のユダヤ教やそこから派生したキリスト教やイスラム教、仏教の釈迦如来崇拝の真言宗や日蓮宗などとは異なります。山や川、太陽や月や星、動物などを崇拝する自然信仰の中でも、祖先霊信仰に特化した多神教です。
 記紀の神々では、伊邪那伎大神(イヤナギ:通説はイザナギ)、伊邪那美(イヤナミ:黃泉津大神・道敷大神、通説はイサナギ)、道反大神(黃泉戸大神:黄泉への道をふさいだ神)、イヤナギの子の墨江之三前大神(筒之男3兄弟)、伊都久三前大神(スサノオの子の宗像3女神)、天照大神、スサノオ、大国主の8神は「大神」とされ、天照大御神と迦毛大御神(大国主の子のアジスキタカヒコネ)の2神は「大御神」とされ、特別の神とされています。基本的には各家で「ご先祖」として神棚や祠に祀られますが、それを集めて村社、郷社、県社などに祀られるとともに、偉大な王や非業の死を遂げた人物は氏神神社に祀られ、その一族の氏子や多くの人々に祀られます。
 このような日本における「神」にはどのような意味があるのでしょうか?
 「神」字を漢字分解すると「示+申」で、「示」は高坏(たかつき)に供え物を置く形象文字、「申」は「もうす」あるいは「猿」とされています。「高坏+申す」では意味不明ですが、「高坏+猿」だと、「高坏にお供えを載せて猿に捧げる」という字になります。これだと、猿を人間の祖先神としていたことになり、ダーウィンの進化論よりはるか前に、中国人は人類の祖先を猿と同じとみていたことになります。

図1 「神」「鬼」字の漢字分解



 「ありえへん」と思われるでしょうが、わが国においても、日枝大社(祭神は大国主とスサノオの孫の大山喰)や浅間神社(コノハナサクヤヒメ:イヤナギの子の大山津見の娘。記紀では薩摩半島のニ二ギの妻。播磨国風土記では大国主の妻)において、猿は「神使(かみのつかい=しんし)」とされていますから、あながち大外れではありません。
 古事記序文では、太安万侶は「乾坤初めて別れて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となりき」と記し、本文では、天地が開けた時の始祖神を「天御中主」、続いて「高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)」としています。日本書紀この「二霊」を「高皇産霊尊・神皇産霊尊」と書いていますから、この「参(三)神」のうちの「二霊」を正史・日本書紀は「日を産む神」ではなく「霊(ひ)を産む神」としているのです。そして、古事記は性交を「宇気比(ウケヒ=受け霊)」と書き、天皇家の皇位継承儀式を「日継」(霊継)としているのです。死者は再生を期待して「棺・柩(霊継)」の入れて葬られたのです。
 「群品の祖」の「品」=「口+口+口」は人(霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)」などの人々を指していますから、女性神「神産霊(かみむすひ)」と男性神「高御産霊(たかみむすひ)」を人を産む主役の始祖神としたのです。
 この「参神・二霊」は出雲大社正面に祀られていますから、死ねば誰もが神として祀られるという「八百万神(やおよろずかみ)」の「霊(ひ)信仰」「霊継(ひつぎ)信仰」として、大国主一族によって確立され、今に伝えられています。

図2 「参神・2霊」の群品(人々)の始祖神の構造



 この信仰は、1万年にわたる縄文人の妊婦土偶や石棒(男根)にみられる「霊(ひ)信仰」「霊継(ひつぎ)信仰」遡ります。なお、金精様(男根)を山に奉納するのは山を女性神とみなしたからであり、男根崇拝は男性崇拝ではないことを付け加えておきます。

 
縄文時代の石棒(国立市緑川東遺跡)と現代に続く金精信仰(岡山県高梁市成羽町の金精神社)



 その後、天皇家が仏教を国教とし、徳川幕府が葬式を仏式に強制したため、死ぬと仏になるという、神から仏への宗教に変わり、祖先霊は神棚・祠から仏壇に移されて祀られるようになりましたが、私の祖父母の代までは、仏壇とともに神棚や屋敷内の氏神様の祠に祖先霊は祭られていました。この霊(ひ)信仰は、DNAを知らない古代人が、DNAを霊(ひ)とみなし、代々、受け継がれると考えたのであり、現代の遺伝子研究に繋がるものです。

 以上、古代中国人の「神」=「示+申(猿)」の考えは現代の進化論に、古代日本人の「神」=「霊を産む霊人(ひと)」の考えは現代のDNA論に繋がる合理的な理解であった、ということを明らかにしてきました。
 生類の命(霊継)を大事にする「八百万神」信仰の出雲大社などの諸神社の世界遺産登録を進め、神の名において殺し合いをする一神教の対立に一石を投じるべきと考えます。

注:2019年5月7日のFB「『神』と『鬼』と『霊(ひ)』」をもとに、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤名)や『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本第2版)などの内容を付け加え、書き直しました。雛元昌弘
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倭語論5 「和魂」について

2020-01-27 11:27:45 | 倭語論
 「和魂」と書いて何と読むでしょうか? 
 「和魂漢才」「和魂洋才」から「わこん」と読む人が多いと思いますが、戦前の生まれなら「一億総玉砕」の「和魂」=「大和魂」(やまとだましい)と読む人もいるかもしれません。「和」は呉音・漢音とも「ワ、ヰ(ゐ)」、「魂」は呉音「ゴン」、漢音「コナ」ですから「ワコン」と読むと漢音での発音になります。倭語・倭音を忘れて、漢語・漢音で「和魂漢才」と言っているのですから、平安時代から官僚たちは「拝外主義」であったと言えます。
 では「和魂」は倭語・倭音ではどう言っていたのでしょうか? 日本書紀の神功皇后記では「和魂、此云珥岐瀰多摩」と書いていますから、和魂は倭音では「珥岐瀰多摩(にぎみたま)」であり、「み」は敬語の接頭辞ですから、「和魂」は倭語では「にぎたま」と言ったのです。
 前に述べたように「和」は漢字分解すると「禾(稲)+口」になります。古事記でヤマトタケルは東国の荒ぶる神、伏せぬ人を「言向和平(ことむけやわした)」と書いていますから、「荒魂(あらたま)」で武力征服した東征というより、「和魂(にぎたま)」で説き伏せ、「和平(禾+口+平)」した、「和(やわした)」ということになります。
 倭音では、「和」は「にぎる」「やわす」を意味していたと考えられますから、ともに米を食べ、手を握り、心を柔らかくする、という意味になります。「和魂(にぎみたま)」とは相手と「握り合う魂」「柔らかな魂」というような意味になります。
 「和魂洋才」は平安時代の「和魂漢才」からきており、日本独自の精神を持ちながら、西洋の才能・学問を取り入れるという意味で明治以降に使われましたが、「和魂」については本来の「平和・温和な魂」から、日本が帝国主義国を目指す中で劣等感裏返しの偏狭な民族意識、あるいは武士道の「荒魂」と同じような意味で使われ、その挙句に「和魂」=「大和魂」(やまとだましい)」に変質し、兵士・国民を玉砕に駆り立てました。
 今、米中・米朝・米イラン対立、宗教対立、格差社会対立など危機が強まり、トランプ・アメリカ大統領からは日本への貿易・関税・米軍駐留費用負担の圧力が強まってきていますが、この時こそ、海人(あま)族の「和魂(にぎたま)」の「言向和平(ことむけやわす)」の精神の堅持が求められます。
いつまでも日米軍事同盟にしがみつくのではなく、「和魂(にぎたま)」の国づくりへと進み、豊な「禾+口」の世界平和の実現の先頭に立つべきと考えます。 

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倭語論4 「倭人」の漢字使用

2020-01-26 17:46:23 | 倭語論
 「倭人」はいつ頃から漢字を使い、倭音・呉音・漢音で漢字を読むようになったのでしょうか? 
記録上、はっきりしているのは、「三国志魏書東夷伝」に卑弥呼は「使によって上表」と書かれていることです。「上表」とは「意見を書いた文書を、君主に奉ること。また、その文書」とされていますから、3世紀には漢字を使っていたことがはっきりとしています。
 さらに、「舊百餘國・・・今使譯所通三十國」(旧百余国・・・今、使訳通ずる所は三十国)と書かれていますから、元の百余国、今の三十国は漢語・漢字を使える通訳がいたと見られます。この旧百余国というのは、後漢や新羅と国交を結んだ「委奴国」「倭国」になります。後漢から倭国王に金印が与えられていることからみて、委奴国王は正式な国書を持たせ、通訳をつけて使者を皇帝のもとに送り、漢字文化圏の冊封国として金印が与えられたことは明らかです。
 中国南方の呉音が先に伝わり、後に漢音が入っているとみられることからみて、わが国では漢字は南方から先に伝わったことが明らかです。「琉球(龍宮)ルート」からの海人族による伝搬と、秦の始皇帝が紀元前3世紀に東方の三神山、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)に3,000人の童男童女と百工(技術者)を付けて徐福を浙江省(2度目)から派遣したという「徐福ルート」です。佐賀市や京都府伊根町、熊野市など各地に徐福伝説や徐福を祀る神社があることからみて、彼らもまた呉音漢字を伝えたと考えられます。
 それを裏付けるのが吉野ヶ里遺跡など北部九州を中心に松江市などから約40点発見された石硯と研石(墨をすりつぶすための道具)です。これらは紀元前2世紀末から紀元3世紀後半のものですから、わが国での倭音・呉音・漢音による漢字使用は紀元前からと見なければなりません。
 奈良盆地に4世紀に大和天皇家の政権が生まれるずっと前からわが国では海人(あま)族による「倭流漢字文化」が誕生していたのです。古代文化は天皇家から、という大和中心主義の歴史観は根底から見直さなければなりません。そして、和歌や俳句など、表音・表意文字を組み合わせた世界で独特の倭流漢字表記の豊かな文字文化を見直すべきです。
 朱子学の漢語ばかりの教育勅語や軍人勅諭を愛してやまない拝外主義の皇国史観など、くそくらえです。倭語から日本史と日本文化をとらえる必要があります。


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倭語論3 「主語-目的語-動詞」言語族のルーツ

2020-01-25 12:32:57 | 倭語論
 「私はあなたを愛す」と「私は愛すあなたを」「愛す私はあなたを」の語順の違いから日本文化を考えてみたいと思います。日本語は「主語-目的語-動詞」ですが、中国語や英語は「主語-動詞-目的語」、スコットランド・ウェールズ・アイルランド語「動詞-主語-目的語」です。
日本人は倭語(倭音)と漢字・漢語(呉音、漢音)を併用しながら、「主・目・動(SOV)」の語順を変えていません。しかも、基礎言語(身体語や数詞など)が南方系であるにも関わらず中国と南アジア諸国の「主・動・目(SVO)」は継承していません。
 考えられるのは、アフリカの角(ソマリアやエチオピア)の「主・目・動」族が南インド~ミャンマーを経て、わが国に3~4万年前頃に竹筏で「海の道」をやってきた可能性と、アフリカの角から中央アジアに進み、マンモスなどの大型動物を追い、シベリアから北海道に「マンモスの道」を通ってやってきたケースです。
 さらに、3500年前に中央アジアで騎馬による放牧が行われるようになると、「草原の道」を通り、同じ「主・目・動」言語のウイグルやモンゴルなどの諸部族が東進し、満州の扶余族が南下して朝鮮半島に侵入したのは紀元前2世紀頃です。海人族の旧石器3万年・縄文1万年の文化に朝鮮半島の騎馬民族文化の影響はありえません。さらに、倭語と朝鮮語は基礎言語(数詞や身体語など)が大きく異なっており、漢語(呉音・漢音)のような影響は全くありません。朝鮮族がわが国に多く流入したとしても、ほとんどは集団単位ではなく、バラバラと絶え間なく男性が流入し、母系制社会に言語・文化的に同化していったものと見られます。中国系・朝鮮系の弥生人征服など、痕跡はどこにも見られません。
 中国・東南アジア諸国の「主・動・目」言語とは異なるわが国の「主・目・動」言語の文化はどのような特徴があるでしょうか? 自分の次に他者を思い浮かべ、動詞を選ぶという、相手をおもんばかった文化の可能性です。よく言えば他者の「尊重・配慮」、悪く言えば「迎合・忖度・付和雷同」でしょうか。
 今の日朝・日韓対立についていえば、「日鮮同祖論」や「騎馬民族征服説」などに惑わされることなく、互いに異なる歴史・文化を認めあい、「尊重・配慮」を基本に置いた友好関係を築くべきと考えます。同時に、騎馬民族に征服される前の朝鮮半島の海人(あま)族と倭国の海人(あま)族の歴史の解明が求められます。
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倭語論2  倭流漢字用法の「倭音・呉音・漢音」について

2020-01-24 19:36:30 | 倭語論
 「日」は倭音では「ひ」、呉音では「ニチ」、漢音では「ジツ」で、「本」は倭音では「もと」、呉音・漢音では「ホン」です。「JAPAN」は漢音の「ジツホン」からきていると考えられ、「ニッポン!ニッポン!」は呉音での応援になります。
 平安時代には「ひのもと」と発音されていましたが、さらに古い倭音では「ひなもと」と発音されていた可能性があることは、「な=ぬ=の」の用例から、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元昌弘著者名)、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)などで詳しく説明しています。
 また、「一(壱、壹)」は倭音「ひと、ひ」、呉音では「イチ」、漢音では「イツ」です。邪馬壹国か邪馬臺(台)国か、という論争がありますが、邪馬壹国は呉音で「やまいちこく」ではなく、倭音で「やまのひのくに」「やまのいのくに」(ふぃ=ひ、い)と読むべきというのが私の説です。古事記・日本書紀などは呉音・漢音ではなく倭音で分析すべきであると私は考えています(詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』)。
 私たちは倭音・呉音・漢音を特に意識することなく毎日使っていますが、日本語が中国や東南アジアの「主語-動詞-目的語」言語ではなく、「主語-目的語-動詞」言語を維持し続けたことから考えると、旧石器3万年・縄文1万年の歴史を受け継ぐ倭語・倭音が最も古く、その上に呉音、最後に漢音が入ってきたと考えられます。
 ここから日本民族のいくつかの特徴が浮かび上がります。
 第1は、旧石器時代から多くの民族を日本列島は受け入れながら、台湾やフィリピン、インドネシアのように、多DNA・多言語・多文化国にならず、活発に交流・交易・婚姻を行い、1万年の縄文時代から多DNAの単一言語・文化国になっていた可能性が高いことです。はやりの言葉で使えば、「縄文社会はダイバーシティた」(縄文社会は多様性社会)、多民族の「ワンチーム」だったのです。
 第2は、漢字をはじめとする中国文化の影響を受けながら、「主-目-動」言語構造を変えることなく、倭音・呉音・漢音を併用し、万葉仮名・片仮名・平仮名にみられる倭流漢字用法を確立して、豊かな表現力(言葉遊びを含む)を持った独自の言語文化、詩歌文化を作ってきたことです。「二二」と書いて「し」と読ませた古代人は、「39」とかいて「サンキュウ」と読ませる現代人の言葉遣いに生きています。独自性と受容性、創造性という文化的な特質です。
 第3は、「主-目-動」言語構造の維持と倭音・呉音・漢音の併用からみて、弥生人による縄文人征服説が成立しないことです。もしも中国大陸長江流域からからの弥生人征服があったなら、イギリスのようにケルト語(アイルランド語やウェールズ語、スコットランド語など「動詞―主語―目的語」言語構造)とゲルマン民族のイングランド語の「主語―動詞―目的語」言語構造の関係のように、わが国でも主要な言語は「主語―動詞―目的語」に変わったに違いありません。
 軍国主義・拝外主義の「外発的発展史観」「被征服史観」から、内発的自立発展史観への見直しが必要と考えます。
 国際社会においてわが国が尊敬を勝ち取ろうと考えるなら、アメリカや中国のように「経済的・軍事的超大国」を目指すのではなく、縄文1万年の歴史から続く「多様性、独自性、受容性、創造性、内発的発展性」の文化こそ伸ばすべきと考えます。
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倭語論1 平和について

2020-01-23 16:59:07 | 倭語論
 2019年10月11日から12月24日にかけて11回、フェイスブック(FB)で「古代小話」として書いてきたものを、加筆・再整理して「倭語論-倭流漢字用法からみた古代史」として連載を開始したいと思います。

倭語論1 平和について
 倭流漢字表記として、「漢字分解」にはまっています。因数分解はきれいに忘れましたが・・・
 平和は「平+禾+口」で、「禾」は稲を表し、「わ」と発音します。「平等に稲を口にする」のが平和なのです。
 ちなみに、「倭」は「人+禾+女」ですから、「人に女が稲をささげる」という字で、曹操の「魏」は「禾+女+鬼」で、女が稲を鬼にささげるという意味になります。「鬼」は「甶(頭蓋骨)∔人∔ム」で頭蓋骨を人が捧げ、ム(私)が祈るという字で、祖先霊を示しています。
鬼に稲を捧げる魏の国は、鬼神信仰の道が行われる鬼道の卑弥呼(霊巫女)の国と同じ宗教であったことを示しています。
 「和食」は「禾+口+人+良」ですから、「稲を口にすれば人がよくなる」で、平和は「平等に稲を口にできる」という意味になります。
 これはアフガニスタンで中村哲医師が実践してきたことに繋がります。平和へのヒントが見えてきませんか?
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古代史ブログを再開します

2020-01-23 13:00:54 | 建国論
 2008~10年から古代史について5つのテーマでブログを書き始めました。思想・権力・権威・学閥・郷土愛・通説などにとらわれない、仮説構築作業を優先し、それぞれ独立してテーマごとに開始しましたが、2011年の福島第1原発事故を受け、2012年春頃より長らく休止していました。
 休止した時、訪問者はGoo「神話探偵団」6.5万人、Livedoor「帆人の古代史メモ」2.2万人、Yahoo「霊(ひ)の国:スサノオ・大国主命の研究」1.2万人、Seesaa「邪馬台国探偵団」1.0万人、FC2「霊(ひ)の国の古事記論」0.2万人でしたが、本日、Goo「神話探偵団」を見ると訪問者は17.4万人「帆人の古代史メモ」4.0万人、FC2「霊(ひ)の国の古事記論」0.5万人でした。7年間の休止にも関わらず、訪問してくださる方がいたことには驚きであり、感謝に堪えません。
 その後は縁あって『季刊日本主義』『季刊山陰』に断続的に小論を書き、参加していました梁山泊、縄文社会研究会、希望社会研究会などで発表してきましたが、昨年から「新皇国史観」とでも言うべきマスコミの論調に危機感を覚え、古代史ブログを再開したいと思います。
 これまで書いてきたブログについては、多くの訂正・修正がでてきていますが、仮説構築の錯誤の経験としてそのまま残しながら、書き溜めてきたものを順次、公開したいと思います。

1 Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」:「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」については、2020年中にキンドル本としてまとめる予定なので、名称を「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更して継続。
2 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」:『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』についてはアマゾンキンドル本(パソコン・タブレット・スマホ対応)として2020年1月に第2版(著者:雛元版)を発行したため、名称を「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に変更して継続。
3 FC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」:古事記論について継続。
4 はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」:日本民族起源論、縄文社会・文化論、縄文語論、縄文宗教論などを新たに開始。
5 Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」:古代史全般について継続。
6 YAHOOブログ「霊の国:スサノオ・大国主命の研究」:ブログ廃止に伴い終了。『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:2009年)として出版。

「いいとこどり」の「真実一路」の仮説検証の冒険、ご笑覧いただければと思います。 雛元昌弘
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神話探偵団129 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか?

2020-01-15 11:33:43 | 古代史
 1月13日の麻生太郎副総理の「2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって一つの王朝が続いている国はここしかない」と発言し、アイヌ民族を「先住民族」とした「アイヌ施策推進法」と矛盾するとマスコミで批判されたのに対し、14日、「1つの民族」については「政府の方針を否定するつもりは全くありません」との訂正発言を行いました。
 しかしながら、「126代の長きにわたって一つの王朝が続いている」という天皇制発言に対し、歴史学者やマスコミが何ら反応していないことに対し、「新皇国史観」(天皇を神とする戦前の皇国史観に対し、人間天皇の万世一系支配を主張する史観)を批判してきた私としては、この点にこそ反論したいと思います。
 そもそも後漢・新羅や魏と国交を交わした紀元1世紀の百余国の「委奴国」、3世紀の30国の「邪馬台国」は天皇家とは関係ありません。
 712年に作成された古事記は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(後の大和(おおわ))の大物主と「共に相作り成」したとはっきりと書き、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としています。水穂¬=水稲の国づくりは大国主が行ったとしているのです。日本書紀もまた、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営し、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め、「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。
 出雲国風土記は大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」としており、「鉏(鋤、鍬)」を配って水田稲作を普及させ、「天下造所」したとして記紀を裏付けています。この「鉏(鋤、鍬)」は「金」偏ですから、縄文時代からの「木鋤(こすき)」の刃先に鉄を付けたものであり、この鉄先スコップで大国主一族は原野を開拓し、水路を整備した水田を全国に広めたのです。わが国の鉄器時代への移行と農業革命は武器ではなく、農機具を普及させた大国主によって成し遂げられたのです。
 さらに桓武天皇第2皇子の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」として「正一位の神階」と「日本総社の称号」をスサノオの和魂(にぎたま)を祀る津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っています。「天王さん」と呼ばれて庶民から親しまれ、全国約3千の津島神社・天王社に祀られているスサノオを、天皇家はこの国の「本主」「天王」として公認しているのです。
 詳しくは『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤名)、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)やブログを参照いただきたいのですが、私は委奴国王はスサノオ、鬼(委奴国王から続く祖先霊)を祀った卑弥呼(霊(ひ)御子=霊(ひ)巫女)は筑紫大国主王朝の11代目であることを明らかにしています。
記紀と風土記、52代・61代天皇はこの国の建国者をスサノオ・大国主としているのであり、麻生太郎副総理の「一つの天皇という王朝」はそもそもこの国の建国史から成立しません。さらに、21代雄略天皇、26代継体天皇など王朝交代説があり、平安時代は「藤原王朝」といってもいい貴族支配時代であり、鎌倉・室町・江戸時代は「武家支配」の時代です。
このような歴史を無視した「新皇国史観」に対し、歴史学者やマスコミが沈黙を保っていることは、実に危機的な時代となったと感じます。
 なお、多国籍のラグビー日本チームの「ワンチーム」をいうなら、麻生氏は1万5千年の縄文時代こそ話題にすべきです。わが国はDNA多民族であり、南方・北方・西方から多くの民族が集まり、対馬暖流(私は琉球暖流と呼ぶべき)に乗った海人(あま=天)族が活発に交流‣交易・移住を行い、世界に先駆けて芋穀・魚介肉の健康で豊かな土器鍋食の文化をつくり、それは「和食」として世界に広まっているのです。
 「ワンチーム」を「単一国チーム」と曲解し、この国の歴史を捻じ曲げる人物が副総理となっているというこの異常さに「ボー」としているマスコミに操られたこの国はどこへいくのでしょうか?

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神話探偵団128  「天王スサノオ」を目指した天主・織田信長を殺した明智光秀

2020-01-14 18:26:31 | 出雲
 神話探偵団29~37の繰り返しになりますが、スサノオを戦国時代から見てみたいと思います。
 長引く風邪に不整脈が加わり、テレビをこんなにダラダラ見たのは人生で初めてです。ビデオデッキ2台(私と妻)とハードディスクに保存したものを減らそうと、見ては消去しました。
 大河ドラマで明智光秀の「麒麟が来る」が始まることもあり、多くの本能寺の変の番組をコピーしましたが、「麒麟が来る」の歴史考証を担当した小和田哲男静岡大名誉教授を除き、どの説も私とは異なり、織田信長と明智光秀のどちらもが矮小化されていると感じました。
 私の母方の先祖は石山本願寺合戦で播磨衆として織田軍と戦い、顕如宗主から法名を与えられており、白土三平氏の『忍者武芸帖』を愛読していたこともあり、私は織田信長が好きではありませんが、歴史は私情抜きに冷徹に判断しなければならない、と思っています。
 1世紀からのスサノオ・大国主建国に対し、「やまと(山人)族」の天皇家が美和(三輪)の大物主(スサノオの子の大年の後継王:代々襲名)の大和(おおわ)国の権力を奪ったのは4世紀の御間城入彦(後に崇神天皇と命名)という記紀に書かれた歴史を追及してきた私は、信長はスサノオ天王の後継者として「天主・天王の絶対王政を目指し、明智光秀はこれを阻止した」と2009年の3~5月に次のブログで書いてきました。
・帆人の古代史メモ(livedoor)16「天主・織田信長は『天王スサノオ』の後継者たらんとした」(090328)
・神話探偵団(goo)29~37「津島神社の天王と天皇」「安土城の5階八角、6階四角の謎」「天主天王体制と天皇仏教体制」等(090404~0427)
・霊(ひ)の国の古事記論(FC2)1「古事記から古代史は再現できる」(090501)

 ここに、「信長は天主・天王絶対王政を目指していた」という私の主張を要約して再掲しておきたいと思います。
① 織田家は福井県越前町織田にある劔神社(越前二の宮:主祭神は劔大神スサノオ)の神官であった。
② 織田家は海人族の拠点である尾張に移って後、津島神社(主祭神はスサノオ大神=牛頭天王、相殿:大国主)のある商都・津島の領主であった。
③ 52代嵯峨天皇はスサノオを「皇国の本主」として「神階正一位」と「日本総社」、66代一条天皇は「天王」の号を津島神社に贈っており、記紀のとおりに天皇家はスサノオこそ建国の「本主」であり「天王」として認めている。信長は自らをこのスサノオを継ぐ「本主」「天王」であった。
④ 信長は、天下統一のシンボルとして安土城を築いたが、その「天主閣(天守閣)」の5階は正八角形、6階は正方形であった。聖徳太子の夢殿、舒明・斉明・天智・天武・持統・文武天皇の八角墳に見られるように八角形は「四方八方」を支配する天皇家のシンボルであり、「四方の支配者」を示す四角は出雲の方墳や前方後方墳、神籬(霊漏木)の四角の方壇などに見られるようにスサノオ・大国主のシンボルであり、安土城天主閣は絶対王として信長が天皇家の上に立つことを示している。
⑤ 最上階の6階の壁には中国の3皇5帝、老子・孔子・七賢人が描かれており、その中央に玉座を置いた信長は明国を支配して天主となることを考えていたことを示している。
⑥ 桶狭間の戦いにおいて、スサノオの剣を祀る熱田神宮に兵を集め、戦勝祈願をおこない、今川義元を討ち取ったことにより、信長は「スサノオ天王」の神意を受け継ぐ「天主」と信じたに違いない。
⑦ 比叡山は元々は「日枝山(ひえのやま)」であり、大津の日吉大社の神奈火山(神那霊山)で、スサノオの子の大歳(大物主)とその子の大山咋(おおやまくい)を祀っていた。反信長勢力の拠点である比叡山延暦寺を焼き討ちしたとされているが、信長は日吉大社の聖地を奪って建てられた比叡山延暦寺に反感を持っていた可能性がある。なお、日吉大社の神使は猿であり、日吉丸と呼ばれた秀吉を「さる」と呼んで信長が目をかけたのは、その実力をかうとともに信長が日吉丸を神使の猿に模していた可能性がある。
⑧ 平安京・御所の鬼門を守り、スサノオを祀る日吉大社や京都・八坂神社を神仏混合で支配していた延暦寺を焼き討ちしたことは、信長が京都・畿内の支配者として仏教を国教とした天皇家の上位にあることを人々に示したと考えられる。
⑨ 信長は「天主スサノオ」の霊(ひ)を受け継ぐ神権王として絶対王政の国づくりを進めるために光秀に「出雲・岩見の切り取り」を命じ、最高の神官の位置に光秀を置き、常備軍のトップに秀吉を置こうとしたという政権構想を持っていたと私は考えるが、光秀が理想とした「武家・天皇家、仏教・神道両立体制」の政権構想とは齟齬が生じたことが信長殺害の主原因であると私は考えます。
⑩ 信長殺害は光秀の私憤や誰かの教唆・陰謀などによるものではなく、国の将来をどうするか、という2人の構想の違いによるものである、という当時の最高の政治家の衝突というのが私の考えです。そのことを理解できたのは信長と光秀しかおらず、信長が光秀の襲撃を聞いて「是非に及ばず」と家来に発言したのは、自らと光秀の政権構想の「是非」は歴史に問おう、という意味であったと私は考えます。
⑪ かつてNHKの大河ドラマの「天地人」は、「天主=キリスト」の連想から、信長の部屋をキリスト教徒の部屋であるかのように描いているが、全くの間違いである。中国文化圏においては、「天主=周王」である。

信長殺害により、わが国は「重農主義・封建制度」から「重商主義・絶対王政」段階への移行を阻まれ、秀吉・家康によって300年にわたって歴史を停滞させられ、鎖国制度と重農制度、身分制度の固定化を迎えます。
もしも信長の絶対王政が成立していたなら、光秀は天主・信長天王の司祭者になるとともに官僚制度のトップに立ち、百姓出身の秀吉は鉄砲で武装した常備軍のトップに立ったと考えられます。信長が出雲と岩見の支配を命じたのは左遷ではなく、信長を天主天王とするためであった、と私は考えています。
 この織田家絶対王政が誕生していれば、ブルジョアの誕生と百姓兵による市民革命へとつながったと考えられますが、光秀の信長殺害による反動化により、光秀が理想とした「武家・天皇家、仏教・神道両立体制」は徳川家康に引き継がれた、と私は考えます。信長殺害により、わが国は市民革命を経ることなく、明治維新の天皇絶対主義の帝国主義の道を歩むことになった、と考えています。
 もっとも、信長は宣教師にそそのかされ、明国征服を計画していましたから、それを真似した秀吉の朝鮮出兵よりも格段に大きな被害を朝鮮・中国と日本の人民に与えた可能性があり、光秀の信長殺害はその惨禍を防いだとも言えます。
 「天皇を超えようとした信長=鬼を退治した光秀」という指摘が小和田哲男氏だけということは、この国の歴史学者たちが天皇制と信長の関係について判断を回避する「皇国史観」にいまだとらわれていることを如実に示しています。残念ながら、小和田氏も「天皇を超えようとした信長」を「鬼」にし、信長の政権構想の革命性について判断を示していません。
 他の歴史家たちは、光秀が信長を討った理由として、怨恨説、四国説(長曾我部元親討伐への反対)、構造改革反発説、暴走阻止説、黒幕説(秀吉・家康・朝廷・イエズス会等)などを主張していますが、それらは一因であったとしても、根本は重商主義・絶対王政を目指して天皇を超えようとした信長とその革命に反対した光秀との政権構想の戦いであった、という主因を抜きにしては、この2人の偉大な政治家についての評価を誤っていると言わざるをえません。

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『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内

2020-01-10 18:32:30 | 出雲
 長らく古代史ブログを休止していましたが、再開したいと思います。
 1年かけてアマゾンキンドル本『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』第2版(著者名を雛元昌弘に変更)をやっと仕上げました。第1版では技術的に未熟でご迷惑をおかけしましたが、この第2版はパソコン・タブレット・スマホで見ることができます。
 今回は卑弥呼の宮殿と墓の位置を突き止めるだけでなく、日本民族形成からスサノオ・大国主建国、そして邪馬台国の成立、天皇家の権力奪取までの通史となっています。12万字から22万字になり、図表・写真も大幅に増やしています。
 邪馬台国の卑弥呼の城(き)と墓の位置は、甘木高台(高天原)の約4km×500mほどの範囲に絞り込むことができました。10歳若く、耳と心臓が元気で、他の執筆テーマがなければ発掘プロジェクトを立ち上げるのですが、発見者の役割は現地の方々に任せたいと考えています。

追伸
 第1版を読むことができなかった方には、贈呈させていただきますので、ご連絡ください。
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