ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

141 出雲大社の故地を推理する

2022-10-27 20:16:31 | スサノオ・大国主建国論

 私は2007年2月に出雲大社、2013年9月には島根県立古代出雲歴史博物館を見学して、次に記す2つの疑問を持っていました。

 建築史の授業にはほとんど出られなかった建築学生でしたが、仕事ではプランナーとして施設立地や都市計画に携わってきた経験からの疑問です。

<出雲大社建築計画の2つの疑問>

疑問1 出雲大社が神名火山(神那霊山)である八雲山を向いていない。

       

疑問2 長い直階段は横風に対して構造的に弱い。建築時に足場が不要となる内階段(廻り階段)の可能性が高いのでは。

       

 「スサノオ・大国主ノート140(縄文ノート154) 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判」をまとめている作業中に、大国主時代の古出雲大社の位置がほぼ推定できたので、ここに紹介したいと思います。

 大国主の八百万神神道は、縄文時代から続く霊(ひ:祖先霊)信仰を受け継いでおり、世界の母系制社会の氏族・部族社会(母族社会)に共通する普遍的な宗教であると考えてきた私は、出雲大社を中心としたスサノオ・大国主系の古社の世界遺産登録を提案してきました。そのためには紀元2世紀の世界最高の木造建築の可能性が高い48mの古出雲大社の復元を進めるべきと考えており、元建築場所の発掘調査による確定と復元が必要と考えています。

 広く議論していただくための、第1歩となれば幸いです。

 なお、以下の地図のベース図は国土地理院地図です。

 

1.直階段か廻り階段か?

 第2の疑問「直階段か廻り階段か?」については、すでに公表しましたので先に紹介します。

 本ブログでは「古代出雲大社」は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か?」を2020年2月18日にアップし、はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」において再掲しましたが、出雲国造の千家(せんげ)家に代々伝えられてきた「金輪造営図」には神殿の前に「引橋長一町」と書かれた長方形の図について、日本書紀には「大国主が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋および天鳥船を造り供す」と書かれており、出雲大社本殿から大国主神門水海(かんどのみずうみ)にでるため「高橋(桟橋)」と「浮橋(浮き桟橋)」があったのです。

       

 「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」を「一町=109m」の階(きざはし:階段)=直階段と見たのは誤りであり、桟橋(木道)と浮桟橋だったのです。

 発掘を行えば柱の太さから直階段があったのかどうかは簡単に判明するはずであり、試掘調査が求められます。

 この論点は日本建築の歴史解明にとって重要であり、出雲大社が9本柱の巨木建築であることが証明されると、縄文時代の6700~4000年前頃の阿久尻・中ツ原・三内丸山遺跡の巨木建築の伝統を受け継ぎ、3世紀頃の邪馬壹国時代の「楼観」へと連続した神名火山(神那霊山)信仰のための神殿建築文化があったことが証明されます。―「スサノオ・大国主ノート140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判」参照

    

 

2.出雲大社と神名火山(神那霊山)

 第1の疑問「出雲大社が神名火山(神那霊山)である八雲山を向いていない」ことから、図5のように古出雲大社は現在地より東にあったのではないか、と私は考えていました。

     

 1つの可能性は、図1の赤線①のように、現出雲大社の軸に沿って平行に八雲山から伸ばした位置に古出雲大社があった可能性です。

 もう1つは、現在の参道と平行に八雲山から伸ばした赤線②の延長上にあった可能性です。

 この段階では、これ以上の決め手はありませんでした。

 その後、縄文社会研究に入り、諏訪の中ツ原・阿久・阿久尻遺跡が「ヒジン様(霊神(ひじん)様=女神(めのかみ))」を祀る蓼科山を信仰する祭祀施設であることに気付き、三内丸山遺跡の巨木建築もまた神名火山(神那霊山)である八甲田山を向いていることを確かめ、出雲大社はこの縄文時代からの神名火山(神那霊山)信仰を受け継いでいることが確かめられました。―縄文ノート「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 この時は阿久尻遺跡の巨木建築の復元に関心があったのですが、図6のように出雲大社は八雲山よりさらに遠くにある神名火山(神那霊山)の琴引山を向いている可能性が高いことを明らかにしました。

   

 今回、「スサノオ・大国主ノート140(縄文ノート154)」において日本建築論として検討するにあたり、前から抱いていた古出雲大社の建築地についてさらに検討を深めました。

 

3.古出雲大社の立地場所はどこか?

 古出雲大社の立地場所について、私は以下の5点の検討により、現在地より南東約250mの場所であったと考えます。

⑴ 「神名火山(神那霊山)からの直線配置」「二等辺三角形配置」の法則

 ブログ「邪馬台国探偵団」も書き続けていた私は、纏向遺跡の大型建物がアマテル太陽信仰の宮殿との報道が気になり、纏向遺跡は大国主一族の穴師の拠点と考えて分析を行い、大国主一族の施設立地には神名火山(神那霊山)へ向かう「直線配置」と神名火山(コニーデ)型の「二等辺三角形配置」の法則があることに気付きました。

    

 なお、その内容は2019年3月に「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」というレジュメを書いて関係者に配布し、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本第2版:2000年1月)にも入れたのですが、なぜかブログにはアップしておらず、次回に掲載します。

 さらに出雲について調べてみると、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡が大黒山と権現山を神名火山(神那霊山)とする「直線配置」と「二等辺三角形配置」があったのです。

    

 大国主一族の施設配置には「神名火山(神那霊山)からの直線配置」と「二等辺三角形配置」という2つの法則があったのです。

 

⑵ 古出雲大社は八雲山―琴引山ライン上に建てられた可能性が高い

 縄文焼畑農耕において、ソバ栽培があったのではないかとの仮説を立てて調べていくうちに島根県飯石郡頓原町で1万年前の蕎麦の花粉が発見されたというネット記事が見つかり、「縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」で次のように書きました。

 

 1万年前の蕎麦の花粉が発見されたとされる島根県飯石郡頓原町(筆者注:現飯南町)の南には琴引山があり、「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」の図17で取り上げたように出雲大社の南方に位置し、出雲国風土記によれば、「琴引山・・・古老の伝えに云へらく、此の山の峰に窟あり。裏に所造天下大神の御琴あり・・・又、石神あり・・・故、琴引山と云ふ」と書かれ、大国主が琴を弾いて神意を聞いていた重要な神名火山(神那霊山)とされており、神在月に八百万の神々は「琴引山」を目印に集まり、神戸川を下って日本海へ出て稲佐の浜より上陸したとされています。

 このような出雲族の聖山・琴引山のある頓原町から日本最古の1万年のソバの花粉が見つかっており、現在も出雲そばが有名であることからみて、ソバ栽培の起源についてはさらなる研究を期待したいところです。

           

 「事代主」を「言代主」とも書くことから考えると、「琴引山」=「事引山=言引山」であり、神門水海(かんどのみずうみ)から神門川(かんどがわ)の源流域にある琴引山は神山として古くから信仰され、出雲国風土記の記述や伝承から見て、大国主はこの山で神の言葉を聞いていた可能性が高い特別の神名火山(神那霊山)であり、出雲大社は琴引山に向けて建てられた可能性があると考えました。

 しかしながら、現出雲大社本殿と琴引山を結ぶと、出雲大社も参道も正確には琴引山には向いておらず、少しずれています。

      

 やはり、古出雲大社は現出雲大社の位置ではなかった可能性が高いのです。

 そこで八雲山と琴引山を結ぶ線を引いてみました。 

    

 なんと、現在の出雲神社参道の東に、島根県立古代出雲歴史博物館の建物に添う点線の道路状の表示とこの八雲山―琴引山ラインが重なり、さらにその西側にも平行の道路状の表示と道路があるのです。

 伊勢神宮の式年遷宮のように、老朽化した出雲大社を建て替える時には、その傍に新たな社を建設したに違いなく、参道(元は高橋+浮橋)の位置も平行にズレるはずであり、図11の①②の2つの点線の道路状の点線で示したものは、その遺構である可能性があります。

         

 私は古出雲大社は図11の長方形赤色点線の位置に創建された可能性が高いと考えます。

 なお、琴引山は神戸川の源流域であるとともに、斐伊川の支流の三刀屋(みとや)川の上流部にもあたり、出雲国風土記よれば「三刀屋」は大国主の「御門(みと=みかど)」があったとされており、斐伊川と三刀屋川の合流点の木次(きすき)町は八岐大蛇(やまたのおろち)の8つの頭を埋めた場所と伝わり、斐伊神社から武藏國一之宮「大宮氷川神社」(さいたま市大宮区)にスサノオの霊を移したとされています。

 私の住むさいたま市中央区の犬散歩圏内にも多くの氷川神社がありますが、そのルーツはこの出雲国風土記の飯石郡(現雲南町)なのです。

 どうやら、八雲山―琴引山ラインは大国主の霊(ひ:祖先霊)信仰にとって重要な意味を持っていた可能性が高く、古代出雲歴史博物館一帯の発掘調査が求められます。

 

⑶ 八雲山―琴引山―三瓶山を結ぶ二等辺ライン

 三瓶山は出雲西部を車で走ると目につくシンボリックな活火山で、『出雲国風土記』の「国引き神話」では鳥取県の大山と共に国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされ、琴引山とともに古代出雲にとっては神聖な山であったことは確実です。

 そこで前掲の「図6 出雲大社から遠望した方角」では出雲大社と両方の山を結んだ線も引いていますが、出雲大社から琴引山と三瓶山はきれいに左右対称の角度になっています。

 図12は八雲山から三瓶山、琴引山を結んだ全体図ですが、二等辺三角形にはならないものの、左右対称の角度になっています。

    

 大国主一族の施設建設の「二等辺三角形」配置の法則には当たりませんが、大国主が出雲大社の立地点を決めるにあたり、三瓶山と琴引山との位置関係を決め手として八雲山の麓にした可能性は十分に考えられます。

 

⑷ 古出雲大社は真名井神社近くにあった可能性

 図11を見ていただくと、私が想定する古出雲大社の場所のすぐ右上に真名井神社があり、真名井の清水は出雲大社の祭事の中でも特に大事な、神在月の11月23日に古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)に使われており、古出雲大社はそのすぐそば、境内にあった可能性は高いと考えます。

            

 古事記によれば薩摩半島西南端の笠沙天皇家3代の2代目「火遠理=穂穂出見=山幸彦」で「毛のあら物、毛の柔物(にこもの)」を獲る猟師であり、「山人」である縄文系であり、五穀豊穣に感謝して新米をいただく稲作民の「新嘗祭(にいなめさい)」は大和に入ってからのものであり、私は天皇家の新嘗祭は大国主一族の古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)を引き継いだものと考えます。

 なお、出雲大社の新嘗祭では真名井から取り出した小石を使う「歯固めの儀」と儀式があり、百番の舞という神舞が行われています。

 この神社の祭神・彌都波能賈(みづはのめ)(日本書紀では罔象女(みつはのめ))は、揖屋のイヤナミ(伊邪那美=伊耶那美)の尿から誕生したとされる水神であり、大国主にとっては真名井の清水は重要な意味を持っていたことが明らかです。

 

⑸ 大風を避ける3方を囲まれた安全な谷間に出雲大社は移された

 では、なぜ古地から、現在の位置に出雲大社は約20mも西北に移されたのでしょうか?

 それは図9の地形図や図13の図を見て頂ければ明らかですが、現出雲大社は西・北・東風の影響を受けにくい谷間に移されたと考えられます。

       

 出雲大社は、はっきりとした記録では1061年、1108年、1109年、1141年、1172年、1235年の6回、平均で43年で建て替えられていますが、1108年には倒壊しており、この時に安全な谷間に移された可能性が高いと考えます。

 現在の場所は奥まっていて日本海から見えにくい場所にあり、越や筑紫などを船で往来していた大国主がこのような場所を建設地として選んだ可能性は低く、元々の出雲大社は日本海から見える位置であったと考えます。

 

4.調査・検討課題

 以上の検討は私が入手できた資料とネット情報の範囲であり、さらに次のような調査が求められます。地元での調査を期待したいところです。

⑴ 出雲大社移築の伝承の調査

 古出雲大社の社地移転について、伝承が残っていないとは考えにくく、特に出雲大社には何らかの記録が残っている可能性は高いと考えます。

⑵ 古代出雲歴史博物館西側の2本の道路状点線の調査

 私の考察は地図からだけですが、古代出雲歴史博物館建設にあたり、この地に旧参道があったことはすでに確認されている可能性があり、確認が求められます。

⑶ 奉納山などからの琴引山・三瓶山の方位確認

 2009年7月に級友・馬庭稔さんに案内してもらい奉納山にのぼったのですが、当時は問題意識がなく琴引山について聞くこともなく、あいにく曇りで写真もを撮れていませんでした。私の検討は地図上からなのですが、目で見て琴引山がどう確認できるのか、気になっています。

     

⑷ 権現山・大黒山での「神名火山(神那霊山)からの「直線配置」と「二等辺三角形配置」法則の確認

 仕事の帰りに荒神谷遺跡を見に行って以来、なぜこの地が選ばれたのか、さらに加茂岩倉遺跡との位置関係がずっと気になっていたのですが、前述のとおり、纏向遺跡と穴師山・穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社(兵主神=大国主)の関係から2つの立地法則を見つけ出し、大黒山・権現山に当てはめましたが、大黒山(315m)から荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(150m)、さらには神原神社古墳が実際に見えるのかどうか、気になっています。どなたか、山登りの好きな方に確かめて欲しいものです。

  

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スサノオ・大国主ノート140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判

2022-10-24 17:10:39 | 日本建築論

 私がいつも利用しているさいたま市中央区の与野図書館では、毎月、テーマを決めて本を集めたコーナーがあり、帰りにたまたま目についた2冊、玉井哲雄千葉大名誉教授(東大卒)の『日本建築の歴史』(河出書房新社;ふくろうの本)を借りてきました。

                    

 今、スサノオ・大国主建国論のまとめに集中しているのですが、返却期限がきているのでざっと目を通したところ問題が多く、出雲大社論にも関わりますので、玉井氏建築説の批判をメモしておきたいと考えます。

 

1.建築=宗教建築起源説

 最初のイナバウアー(びっくり仰天の大のけぞり)1は、「雨風をしのぐための住宅いうよりは、人間として生きていくためのよりどころとなるような精神的な施設を最初の建築として考えた方がいいかもしれない」という玉井哲雄氏の奇妙な「建築=精神的施設=宗教建築」説です。

 なんと、建築を「寺院>神社>住宅」に3分類し、「建築=精神的な施設=宗教施設」として特別な位置に置き、書院造や茶室、城郭、土蔵などは住宅に分類していたのです。

 

  

 書院や茶室は「精神的な施設」には入らず、領主支配のシンボルとなる「城郭」や穀類などの貴重品を保存する「土蔵」などの建物を「住宅」に入れてしまうのですから、大多数の建築家は怒るのではないでしょうか。

 玉井氏によると「建築家が設計するのは建築であって、建物ではない」となり、寺院・神社の設計者だけが「建築家」で、他の住宅などの建物の設計者は「建物屋・住宅屋」にしてしまうのでしょうか、日本の大多数の建築家はこんな説を認めないでしょう。

 

2.寺院建築起源説

 イナバウアー2は、「日本列島でオリジナルな形で建築が成立したとは想定しにくい。・・・日本建築も大きく見れば中国大陸から、そして場合によったら朝鮮半島から入ってきたと考えるのがよいであろう」という日本建築中国・朝鮮起源説です。

 天皇家が仏教を採用する前に倭国にあった神社建築は「オリジナルな形の建築」として成立していなかったというのです。

 日本語が「主語-目的語-動詞」言語で中国語の「主語―動詞-目的語」言語とは異なり、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であることからみても明らかなように、倭人は中国文化をうまくを取り入れながらも縄文時代からの倭音倭語を現在まで維持し続けているのです。

           

 同じように、寺院建築様式を中国・朝鮮から取り入れたとしても、それは既存の倭建築様式の上に新たな様式を付け加えたに過ぎないはずです。

 玉井氏は「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」に立っているのでしょうか、旧石器人・縄文人から独自に内発的発展を遂げた倭人の歴史など眼中にはないようです。

 

3.寺院建築天武・持統朝確立説

 イナバウアー3は、「天武・持統朝に中国から律令など本格的な制度がもたらされ、・・・都城が建設され寺院も建てられていったのである。この時期の都城、寺院の華やかな建設を横目にみながら、簡素な神社建築の形式が整備されていった」というに至っては、冗談でしょうという以外にありません。 

 そもそも、藤原宮・平城京・平安京に城壁などはなく、中国を真似した「都城」ではありません。城壁で宮殿や街を防御する必要などない、インダス文明型の独自の「都」だったのです。環濠と城柵を設けた邪馬壹国の延長ではないのです。

 さらに、寺院建築について述べるなら、6世紀末に蘇我馬子が建てた法興寺(飛鳥寺、元興寺)や聖徳太子が建てた四天王寺や7世紀初頭の法隆寺から始めるべきでしょう。

           

 「寺院建築を真似て、神社建築が建てられた」に至っては、記紀に書かれた大国主の出雲大社(天御巣・天御舎・天日隅宮・杵築宮)を始めとする神社建築の歴史・伝承を完全に無視しています。

 玉井氏は釈迦の骨を収めたとされる「仏塔」には興味がないようですが、中国の仏塔が「高楼(楼観)型」の塔であるのに対し、日本の仏塔が「心柱(神柱)」を中心にした構造であることなど、玉井氏は「違いがわからない男」のようです。

 玉井氏は「仏教中心史観」(それも仏塔を無視したエセ仏教中心史観)を建築分野から打ち立てたいのでしょうか?

 

4.高床式建物神社建築起源説

 イナバウアー4は、玉井氏が「高床建物が神の象徴性を誇示する必要のある神社建築の原型と考えていいのではないだろうか?」という正当な考えを述べて、自らの混乱を示していることです。

 「高床建物→神社建築」を認めるならば、高床建物は縄文時代からありますから、日本建築史は「中国・朝鮮の寺院建築」からではなく、「日本建築の原型は縄文時代の高床建物」とすべきでしょう。

 学生時代に友人たちとよく寺院巡りを行った時のぼんやりとした記憶ですが、法隆寺や興福寺、唐招提寺、東大寺大仏殿など奈良の寺院は全て土間で竪穴住居系であり、京都の高床式の寺院とは異なっていたように思います。寺院が高床型になるのは神社建築の影響を受けていることが明らかです。わが国の寺院・神社建築の基本的な様式は、「寺院→神社」ではなく「神社→寺院」であることを示しています。

 玉井氏は青森の三内丸山遺跡や諏訪の中ツ原遺跡、阿久尻遺跡などの巨木建築や、三内丸山遺跡や大湯環状列石など縄文遺跡に普通に見られる高床建物の用途をどうとらえているのでしょうか? これらを宗教施設ではなく、住宅だというのでは論理矛盾もいいところです。

    

      

 なお、玉井氏とは関係ありませんが、中ツ原遺跡の長短の巨木再現、三内丸山遺跡の見張り台再現ですが、「建物も屋根を知らない縄文人バカ説」を世界に公表した恥さらしであり、こんな非科学的なものは撤去すべきです。柱穴が見つかっただけで屋根材・床材が発見されていないのだから柱しか建てられないというのであれば、他の全ての復元高床建物なども作るべきではないのです。

 私は後の土器・銅鐸の建物図をもとに、柱の太さにふさわしい高層楼観として復元するか、あるいは何種類かの小さな建物模型を展示するか、どちらかにすべきと考えます。

 

5.奇妙な伊勢神宮論

 イナバウアー5は、神社建築を伊勢神宮から始め、「伊勢神宮社殿の配置形式が整然としており、建築としての細部が洗練されていることは、本来伝統的な高床建築になかったものを仏教建築から学ぶことによってつくりあげたと考えられないか?」としながら、肝心のその証拠を何1つ示していないことです。

 玉井氏は「建築=中国・朝鮮伝来の仏教施設」を神社や住宅などの「建物」とは格別扱いし、伊勢神宮の配置が洗練されているのは仏教建築の影響ではないかというのですが、寺院配置の影響が伊勢神宮の配置のどこに見られるというのでしょうか?

 さらには伊勢神宮が「建築としての細部が洗練されている」というのはいったい伊勢神宮社殿のどの部分なのでしょうか?

 仏塔についていえば、「心柱」を中心にした構造は、出雲大社の形式を仏塔が取り入れているのであり、真逆なのです。仏教では死後に極楽か地獄に行ったきりであるのに対し、盆正月やお彼岸に祖先霊が帰ってくるなどもまた神道を仏教が取り入れているのです。 

 伝統的な神社建築は祖先霊が昇天・降地する神名火山(神那霊山)を遥拝する神殿(拝殿)であり、祖先霊が昇天・降地する神籬(霊洩木)=心柱(神柱:大黒柱=大国柱)を神殿の中心に置いた建築様式が出雲大社から続いているのです。仏塔と仏像を祀る金堂を中心に回廊で囲む寺院建築の影響など神社のどこにもありません。

     

 玉井説は、縄文時代からスサノオ・大国主建国、さらには現代へと続く日本文化・神道を低く見る、中国文化崇拝=仏教崇拝の劣等民族史観のトンデモ説という以外にありません。なお、玉井氏は仏教を精神史の中心に置くというなら、インド建築から論を立てるべきでしょう。

 

6.遊び・交流・芸術軽視史観

 すでに建築の分類でも触れましたが、イナバウアー6は、書院造や茶室、城郭、土蔵などを住宅に分類し「精神的施設=宗教建築」より低く見る奇妙な建築思想です。

 第1に、宗教に関わらない実用的な建物には精神的な働きは見られないと玉井氏は言いたいようですが、住宅の中でも家族が団らんし、会話(おしゃべり)し、学び、歌い遊び、客をもてなす活動などは、立派な精神的活動です。また、華麗な城郭や立派な土蔵は権力や富の象徴とする精神的なシンボル機能を持っているでしょう。 

 第2に、日本ではもともと祖先霊を祀る神棚を住宅内にもうけ、それは仏教導入後の仏壇に受け継がれており、私の祖父母の家では神棚と仏壇の両方がありましたが、神棚を大黒柱(大国柱)のすぐそばの鴨居上に置いており、神棚こそ家の中心に置かれており元々の中心宗教が神道であったことを示しています。子どもの私には両方とも祖先を祀ってあるといわれ、田舎に行くと朝にご飯を神棚と仏壇の両方に供える役割でしたが、いったいご先祖はどちらにいるのか混乱していました。

             

 竪穴住居の中に石棒などを置いた縄文時代からの住宅内で祖先霊を祀る宗教文化は田舎では現代に連続しているのです。中国・朝鮮輸入の寺院だけを宗教施設として特別に扱うことなど倭人にはありえません。

 玉井説は、自分の専門分野の仏教建築を中心に置いて建築論を組み立てるという我田引水のトンデモ説というほかありません。

 

7.縄文起源高床建物無視史観

 イナバウアー7は、玉井氏の本で寺院・神社建築のあとにわずか7頁(127頁中)で「竪穴住居と高床住宅」を述べ、縄文時代からの竪穴住居や高床建築を日本建築の原型としていないことです。自分の専門分野ではないからといって軽く紹介して済まされる問題ではありません。

 どうやら縄文時代=原始・未開時代として低く見て、天皇家が7・8世紀に仏教建築を受け入れてからを建築史としたいようです。

 私が小学生の時は、竪穴式住宅=縄文時代、高床式建物=弥生時代の米倉として習ってきましたが、高床建物は縄文時代からあり、さらに巨木高層建築があったことが今や解明されてきているのです。これらの復元高床建築のある大湯環状列石や三内丸山遺跡は世界遺産に登録されているのですから、高床建築が縄文時代にあったことは広く公認されているのです。

    

 玉井氏は寺院建築の「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」「紀伊山地の霊場と参詣道」「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」だけでなく、縄文建築を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」や、神社建築を含む「厳島神社」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」「山・鉾・屋台行事」が世界遺産登録されていることを無視しています。

 玉井氏は最後に「発掘遺構の検討では、高床建物は弥生はもちろんのこと、縄文時代にもすでにあったという見解がかなり力を持ちつつある。もちろん発掘部材などの根拠が示されているのではあるが、研究者の間でも認めない人もおり、見解は分かれている」と付け足して言い訳していますが、そのような知識があるなら世界遺産登録遺跡の復元模型で採用されている多数派説をまず紹介してから、「研究者の間でも認めない人」として少数派の自説を具体的に説明すべきでしょう。

 

8.出雲大社無視史観

 イナバウアー8は、あたかも伊勢神宮から神社建築が始まったかのように伊勢神宮を最初に取り上げ、出雲大社を無視していることです。

 記紀によれば出雲大社(私説は紀元2世紀)が最初の神社であるのに対し、伊勢神宮は10代崇神天皇の頃(私説は紀元4世紀後半)の創建であり、神社建築をとりあげるなら出雲大社から始めるべきです。 

 記紀は出雲大社を大国主の「住所(すみか)、天御巣・天御舎・天日隅宮・杵築宮」としてその建築の様子を具体的に述べており、中古(平安時代)には16丈 (48m) 、上古(神代後)には32丈(およそ96m)であったという伝承がありますが、「中古→上古2倍」伝承が「上古→神代2倍」伝承にも適用された伝承ミスが起こっており、実際には神代32丈 (48m)で世界一の巨大建築であった可能性が高いと考えています。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

                    

 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した15丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所の大極殿をしのいで、出雲神社が日本で最高の高さであったことを伝えています。出雲神社は、10世紀においてもなお国教である仏教や朝廷の正殿(中央に皇位継承儀式に使われる高御座(たかみくら)が置かれた)よりも高い権 威を持っていることを、当時の人々は広 く認めていたのです。―以上『スサノオ・大国 主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』より

        

 玉井氏は天皇中心史観の信者であるからでしょうか、伊勢神宮から神社建築を書き始めていますが、正史「日本書紀」を無視していることと、どう折り合いをつけるのでしょうか?

 

9.竪穴住居土屋根説

 イナバウアー9は、玉井氏の「東アジアの北の地域で今でも建てられ、季節的な建物として用いられている竪穴住居」を例とした「このような形(注:土饅頭型)のほうが、防寒だけでなく、外敵に備えた構えとしても有利なのではないかと想像できる」という竪穴住居土屋根説です。

 どうやら縄文人北方起源説をもとに判断した説と思われますが、暖かな鹿児島県霧島市の上野原遺跡からは9500年前頃の細い部材を使った円形平面住居(注:床を掘り下げていない平地住宅)が見つかっており、積雪のある北に進むにつれて、床を掘り下げ、内部に構造材を入れて補強したと可能性が高いと考えます。

        

 防寒・防御のための土饅頭型竪穴住居説は縄文人北方起源説に基づく単なる「想像」にすぎません。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 なお、私は円形平面住宅のデザインを重視しており、そのルーツはアフリカにあり、東南アジアをへて南方から伝わった可能性が高いと考えています。 

        

     

 なお、石川県金沢市のチカモリ遺跡、石川県能登町の真脇遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡の巨木を半割にした円形の列柱跡は、円形竪穴住居から円形高床建築への移行を示しており、私はこれらは神の住処となる神殿と考えています。

    

 

10.巨木建物物見櫓説

 イナバウアー10は、「弥生遺跡」(私は「弥生時代はなかった」説)の高床建物を「コメなどを収納するクラ」とし、吉野ヶ里の「物見櫓、主祭殿、住宅」も「高床建物」にして「高床建築」としていないことです。「寺院からが建築」「寺院建築の影響を受けた神社は建築」という氏の珍説はここでも首尾一貫しています。

 復元された「主祭殿」を宗教施設と認めないということは、同時代の魏書東夷伝倭人条に書かれた卑弥呼の「鬼道」(祖先霊信仰)を宗教とは認めないということであり、吉野ヶ里遺跡や原の辻遺跡などの巨木建築は「高床建物」に分類しています。

       

 なお、玉井氏は魏書東夷伝倭人条に書かれている「楼観」を物見櫓としていますが、私はこれらは大国主の八百万神信仰・神名火山(神那霊山)信仰の宗教施設である出雲大社本殿の形式を受け継いだ「神殿」と考えています。

 縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」で書きましたが、紀元3世紀の魏書東夷伝倭人条に「楼観」と書かれている大型建築は、その大きさや位置(吉野ヶ里遺跡では木柵の内側の濠のさらに内側に立地、原の辻遺跡では高台に立地)などからみて軍事施設の見張り台や櫓(矢倉)ではなく、多くの人々が昇って神名火山(神那霊山)崇拝を行う国見の展望機能を持った神殿、ランドマークタワーであり、縄文の巨木建築の建築思想・技術を継承していると考えます。

 

11.出雲大社縄文巨木建築起源説

 最期に、私のこれまでの主張、出雲大社縄文巨木建築起源説の紹介をしておきたいと考えます。

 死者の霊(ひ:魂)が神山から天に昇るという神山天神信仰のルーツはアフリカにあり、南・東南アジアをへて日本列島に伝わった。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

        

        

 前掲9のとおり、円形住宅もまたアフリカルーツの可能性が高く、南・東南アジアをへて日本列島に伝わった。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 信濃には縄文時代から神名火山(神那霊山)信仰があった。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

      

 諏訪の「ヒジン様(霊神様)=女神」の住むと伝わる蓼科山を向いた阿久尻遺跡・阿久遺跡・中ツ原遺跡の巨木建築は世界最古級の神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)の神塔神殿である。―縄文ノート「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」参照

 

   

          

          

        

 死者が全て神となり神名火山(神那霊山)から天に昇り、山上の磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)(霊洩木)に降りてくるという霊(ひ)信仰=八百万神信仰の出雲大社は縄文巨木神殿の伝統を受け継いでおり、諏訪大社の御柱祭や姫路の広峯神社(牛頭天王総本宮)の御柱祭などは、神籬(霊洩木)信仰を現代に伝えている。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「118 『白山・白神・天白・おしら様』信仰考」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

    

      

  

 神社建築の「高床」「千木(ちぎ)」「棟持柱(むなもちばしら)」の様式は、東南アジアの住宅建築をルーツとしており、ピー(霊)信仰やトカゲ龍・龍神信仰、イモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカ、とともにわが国に伝わった。―縄文ノート「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」等参照

     

    

 縄文巨木建築や出雲大社は、氏族社会・部族社会(母族社会)の霊(ひ=祖先霊)信仰の共同作業を示す歴史遺産であり、イギリス・アイルランドのストーンサークルなど全世界共通の氏族・部族段階の宗教を示す歴史遺産であり、また、石器文明にはない木器・木造文明などを示す顕著な歴史文化遺産として世界遺産登録を進めることが求められる。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「113 道具からの縄文文化・文明論」参照

 

12.玉井建築論を支えた世界・日本の歴史学・宗教学などの誤り

 日本建築のルーツを中国・朝鮮からの寺院建築とする玉井説の誤りは、そもそもは宗教中心史観、西洋中心史観、西欧流文明史観、天皇中心史観、中国崇拝史観などの誤りからきていると考えます。

 第1は、世界に普遍的に存在した霊(ひ:pee、祖先霊)信仰、死者の霊(ひ)が神山から天に登ると考えた神山天神信仰、死者の霊(ひ)が大地や海から蘇ると考えた地母神信仰や海神・龍宮・黄泉信仰、死者の霊(ひ)を天に運ぶ神使(風神・雷神、蛇神、トカゲ龍、龍神、鳥、猿など)信仰、人々に恩恵や災害をもたらす太陽や大地・海・森などの自然信仰などを原始信仰とし、ローマ帝国の国教となった絶対神信仰のキリスト教からを宗教とみる神学の影響です。仏教は絶対神信仰ではありませんが、世界宗教として玉井氏は特別の価値を置いたようです。

 第2は、人間の精神的活動の中心をキリスト教におく西洋中心史観の影響であり、玉井氏はキリスト教が支配した中世暗黒時代を変え、科学・文化・芸術などの復活を図ろうとしたルネサンスなどは眼中にないようです。玉井氏の建築論は西洋中世の宗教中心社会を建築に当てはめたようです。

 第3は、人類史を野蛮・未開・原始時代と文明時代に分ける西洋中心史観の影響で、玉井氏は縄文文明・文化を認めたくないのであり、縄文建築などないことしたいのです。

 第4は、記紀に書かれたスサノオ・大国主建国伝承を8世紀に創作された「神話」としてきた皇国史観と津田左右吉氏流の反皇国史観の影響です。玉井氏はを天皇制確立を建築史から支えるために寺院建築中心の日本建築史を確立したいようです。

 第5は、暗記・模倣好きの日本人に根強い「和魂」抜きの「和魂漢才」「和魂洋才」秀才に見られる中国・西欧崇拝の拝外主義であり、全編儒教(朱子学)思想の教育勅語好きにも見られるように、玉井氏は縄文時代からスサノオ・大国主建国に連続している倭人の建築文化・伝統など無視し、中国・朝鮮から導入した寺院建築から日本建築史を組み立てたのです。

 このような縄文人・倭人を貶め、卑下する玉井コンプレックス建築史観に対し、必要なことは縄文建築から出雲大社など八百万神神道の神社建築に続く建築文化の伝統を評価し、世界に情報発信することです。

 そのためには、阿久・阿久尻・中ツ原遺跡やチカモリ・真脇・桜町遺跡の円形巨木建築と出雲大社を始めとした八百万神神道の神社の世界遺産登録が求められます。

   

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スサノオ・大国主建国論3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法

2022-10-17 17:12:54 | スサノオ・大国主建国論

 7月5日に「神話探偵団135 記紀神話の9つの真偽判断基準」としてアップしましたが、「スサノオ・大国主建国論」に組み込むために、以下のように加筆・スリム化修正しました。

 

スサノオ・大国主建国論3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法

 刑事裁判での自白の真偽判断の基準は、「客観的証拠との整合性」「経験則からみた合理性」「不自然な変遷のない首尾一貫性」などであり、記紀伝承・神話の真偽判断についても、判定基準から検討する必要がある。

 前著の『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』では、古事記・日本書紀のスサノオ・大国主建国伝承・神話を中心において分析しておらず、今回、記紀を中心にスサノオ・大国主建国の歴史を明らかにするにあたり、次の14の「記紀伝承・神話の真偽判断の方法」を提起しておきたい。

① 「伝承・表裏表現・神話」の3分解分析

 これまで、右派はスサノオ・大国主建国伝承・神話を無視して天皇建国に関わるアマテル(天照)・ニニギ神話の一部だけをつまみ食いし、左派は伝承・神話全部を8世紀の創作とし、「たらい水(天皇建国史)とともに赤子(スサノオ・大国主建国史)を流す」誤りを犯している。

 これに対し、私は「晴れ(伝承)、時々曇り(表裏表現)、ところによりにわか雨(神話)」と記紀伝承・神話を3分解して分析した。

 現代風に言えば、記紀伝承・神話を「ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー」に3分解して解釈するという方法である。

 「表裏表現(ダブルミーニング)」とは、「伝承を荒唐無稽な神話表現にして真実を秘かに伝える」「明らかに矛盾した伝承・神話を盛り込み、読者に真実を推理させる」という太安万侶らの謎かけ表現であり、その分析には読者の高度な推理力が問われる。

 なお、これまで「記紀神話」と書いてきた部分は「記紀伝承・神話」の表記に改めたい。

② 倭音倭語・「主語-目的語-動詞」言語のルーツからの分析

 日本語は倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造となっており、大国主を「おおくにぬし」、「出雲国」を「いずものくに」と読むように、魏書東夷伝倭人条の「一大国」は「いのおおくに」、「邪馬壹国」は「やまのいのくに」と読むなど、呉音漢語・漢音漢語を除き、基本的に倭音倭語による分析とした。

 さらに、日本語は東南アジア語・中国語の「主語―動詞-目的語」(SVO)言語構造ではなく、「主語-目的語-動詞」(SOⅤ)言語構造であることや「あ、い、う、いえ、うお」5母音、Y染色体D型などからみて、スサノオ・大国主一族の倭語・社会・文化の解明には南アジアやアフリカから見ていく必要があり、特に霊(ひ)崇拝の神名火山(神那霊山)信仰の解明には南インド・ドラヴィダ族の「pee」信仰、チベットの「ピャー」信仰、ビルマ(ミャンマー)のピュー人などからルーツを検討する必要がある。

 スサノオ・大国主建国の歴史の解明には、日本列島人起源論・縄文人論から考えなければならないと考える。

③ 5母音転換・子音転換に注意した分析

 琉球弁の「あいういう」、本土弁の「あいうえお」5母音からみて、倭語は「あ・い・う・いえ・うお」5母音の可能性が高く、他にも「神(か、か、か、かこお)」「雨・天(あ、あ)」「火()」「海(うみあま)」「魚(お、お)」「赤(あ、あ)」のような母音転換がみられる。

 また「寂しい(さしい、さしい)」「内裏(いり、いり)」「ばりよー、ばれよ」のような「ま行は行」「た行な行」「た行か行」の子音転換がみられる。

 記紀や魏書東夷伝倭人条などの分析にあたっては、母音転換・子音転換の可能性について注意深く見ていく必要がある。例えば、魏書東夷伝倭人条の「投馬国(とうまのくに)」の「と」は「たちつちつ=たちつてと」5からみると、「つうまの国→つまの国」となり、「薩摩=狭妻」より広い「妻(今の鹿児島・宮崎県)」を指している可能性が高いのである。

 「出雲(いづも)」は「いつむ(委頭)」の可能性があり、大黒山(だいこくさん)(元々は大国山であろう)の麓の神庭の権現山中腹にある神代(かむしろ)神社(元は神城の可能性)の主祭神の「宇夜都弁命(うやつべのみこと)」は「つ=と」で分析すると「うやとべ」になり、若御沼毛(わかみけぬ)(後の神武天皇)により紀国で誅殺された「名草戸畔(なくさとべ)・丹敷戸畔(にしきとべ)」と同じく女王国(女神国)があったことを示している。

④ 漢字は全て倭音倭語への当て字

 古事記は「二霊群品の祖」の産霊(むすひ)夫婦神として高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)をあげているが、日本書紀では高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)とし、「ひ」に「日、霊」の二種類の当て字が使われている。前者の産巣日(むすひ)夫婦だと太陽を産む神となり「世界を照らすアマテル太陽神信仰」の皇国史観には都合がいいが、後者の産霊(むすひ)夫婦神だと、人々(群品)を生んだ神となり、八百万神信仰のスサノオ・大国主一族の伝承の可能性が高い。

 古事記によれば若御毛沼(わかみけぬ)(8世紀に付けられた忌み名は神武天皇)の祖父の火遠理(ほをり)は「山幸彦」と呼ばれる猟師、その兄の火照(ほでり)は「海幸彦」と呼ばれる漁師(日本書紀では「隼人(はやと)」族)であることからみると、「山幸彦」の一族は「山人(やまと)」の可能性が高い。「大和」は倭音では「おおわ」としか読めず、大国主・大物主一族の「大和国(おおわのくに)」を乗っ取った天皇家が「大和」を自らの部族名の「やまと」と呼ばせたとしか考えれられない。

 このように「漢字は全て当て字」(国語学者の大野晋氏)として、その倭音から別の当て字を検討し、本来の意味を探り当てる必要がある。

⑤ 客観的物証との整合性

 記紀記載などと客観的物証との整合性という真偽判断基準については、何人も異存はないであろう。

 問題はこの基準を誤解し、この国の歴史学は「考古学的裏付けのない神話は虚偽」と決めつけてきた論理的誤りがみられることである。かつて「出雲にはめぼしい考古学的発見がないから、スサノオ・大国主神話は8世紀の創作である」という主張を大和中心史観の歴史家たちはあたかも定説であるかのように主張していたが、論理的には「スサノオ・大国主神話には、現在のところ考古学的な裏付けがないが、記紀記載や出雲大社からみて真実の可能性が高い」としか言えなかったはずである。

 案の定、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡での国内最大の大量の青銅器(銅矛・銅剣・銅鐸)の発見により、スサノオ・大国主神話は強力な物証による裏付けをえた。古事記に書かれている出雲を中心とした大国主一族と美和(三輪)を中心とした大物主一族の連合の成立が、銅矛・銅剣(筆者説:銅槍)・銅鐸圏の統一として荒神谷・加茂岩倉両遺跡により証明された。

   

 この反省に立つならば、「物証で裏付けられた神話は歴史的史実」「物証の裏付けがないからといってその伝承・神話を虚偽と決めつけることはできない」という大原則をまず確立すべきである。

⑥ 内外文献の整合性

 『古事記』は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」と書き、『日本書紀』一書(第六)もまた、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定めて「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えている。

 さらに『出雲国風土記』は大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とし、『播磨国風土記』は「大水神・・・『吾は宍(しし)の血を以て佃(たをつく)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子(につひこ)、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と大国主親子が大国主が鉄先鋤より水利水田稲作を普及させた天下経営王であることを伝えている。

 また、『日本書紀』はスサノオが御子の五十猛(いたける)(委武(いたける))と新羅に渡ったとしているが、『後漢書』は「倭奴国奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」と書き、その「漢委奴国(い(ひ)なのくに)王」の金印はスサノオ義弟の綿津見(わたつみ)3兄弟の拠点である志賀島で江戸時代に発見され、59年には倭人の4代目新羅国王・脱解(たれ)が倭国王と国交を結んだと『三国史記』新羅本紀は書いている。

 天皇中心史観の予断にとらわれないなら、新羅に渡ったスサノオこそ新羅国王・脱解と国交を結んだ倭国王(い(ひ)のくにのおう)であり、その2年前に漢皇帝から金印を与えられた委奴(いな・ひな)国王もまた、イヤナギから「知海原(海原を知らせ=支配せよ)」と命じられたスサノオとみるべきである。

 記紀の記載が他の国内資料や中朝文献との整合、さらには現在まで受け継がれている伝承、毎年の神在月の行事、出雲大社や青銅器の集積という物証などは、真偽判断に欠かせない重要な真偽判断基準である。

⑦ 後世史実との整合性

 安定した平安時代の基礎を築いた52代・嵯峨天皇(桓武天皇第2皇子)は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っている。

              

 記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国は、嵯峨天皇がスサノオを「皇国の本主」とし、一条天皇が「天王」として認めているのである。スサノオは「天王(てんのう)さん」として民衆から広く支持されており、天皇家は追認したのである。

 このように、後世伝承との整合性は記紀の真偽判断には欠かせない。

⑧ 地名・人名との対応

 皇国史観は天照(あまてる)(本居宣長・皇国史観説はアマテラス)の宮殿のある高天原(たかまがはら)を天上の国としたが、古事記はその場所を「安河(やすのかわ)・天安河(あまのやすのかわ)」のある「筑紫日向(つくしのひな)橘小門(たちばなのおど)阿波岐原(あわきばる)」とし、「○○県△△市□□町××」のように正確に地名を書いている。

 調べてみると、福岡県の旧「甘木市」(甘木=天城)には「夜須(やす)川(安川・山見川)や「蜷城(ひなしろ)」「美奈宜(みなぎ)・三奈木(みなぎ)(みなぎ=ひなぎ=蜷城(ひなしろ))」「荷原(いないばる)(いないばる=ひないばる)」があり、そのすぐ東には 女帝・斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が百済救援の朝倉橘広庭宮を置いた「橘」や「杷木(はき)」地名があり「阿波岐原(あわきばる)=あ杷木原」もある。地名からみて高天原(天原の高台)はこの地の可能性が高い。

 この高天原からのニニギの天下りについても、前に述べたように高天原→猿田(佐田)→浮橋(浮羽)→丘(日田)→久士布流岳(久重山)→高千穂峰(々)→阿多・吾田(阿多)、竹屋(同)、長屋(同)、笠沙(同)と記紀記載の地名がそのまま現代に残っている。

 さらに出雲の揖屋(いや)のイヤナミ・イヤナギ(伊邪那美・伊邪那岐)名のように、古代人は地名ゆかりの名前をつけることが多いことからみて、アマテルの子・孫で大国主に国譲りさせたホヒ(菩比:穂日)とヒナトリ(建比良鳥(たけひらとり)、武夷鳥(たけひなとり)・天夷鳥(あまのひなとり)、武日照(たけひなてる)、日名鳥(ひなとり))親子の、ヒナトリ(ヒラトリ)は「蜷城(ひなしろ)」「比良松(ひらまつ)」地名のあるこの地で生まれた可能性が高い。

 記紀の真偽判断にあたっては、現代にまで継承性の高い地名がその地ゆかりの名前の人物として伝承されているかどうかの検証が真偽判断には欠かせない。

⑨ 統計的検証との整合性

 記紀をもとに31~50代の天皇の平均在位年数について初めて統計的検証を行い、約10年であることを明らかにしたのは『卑弥呼の謎』(講談社新書)など多数の著書のある安本美典元産能大教授である。

 そこから安本氏は天照大御神(筆者:アマテルと表記)の即位年を220~250年頃、神武天皇在位年を270~300年頃と推定しているが、私はさらに古事記をもとに始祖神・天御中主まで遡り検討した。

 古事記では天御中主から薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代目の彦瀲(ひこなぎさ)(ウガヤフキアエズ:大和天皇家初代のワカミケヌ=神武天皇の父)までは16代(天つ神4代+神世7代+高天原2代+笠沙天皇家3代)としているが、『新唐書』は「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊(みこと)」爲號(ごう)、居筑紫城。彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と伝えた(自言)とし、16代の欠史がみられる。一方、その16代の空白を埋めるかのように、古事記はスサノオ・大国主7代、鳥耳を妻とした大国主10代の合計16代の系統を載せており、大国主の国譲りへと続けている。

 この事実は出雲でイヤナギから生まれた大兄(だおおえ)(長兄)のスサノオの異母妹の筑紫のアマテル1と大国主に国譲りさせたアマテル2は実際には6代ほど離れ、記紀に登場するスサノオやアマテル、大物主、武内宿禰などは襲名して何度も登場した可能性が高いことを示している。

 古事記に登場するこの32代の王名順に、31~50代天皇の即位年から最小二乗法で推計すると、天御中主は紀元前53年頃、スサノオは紀元60年頃、大国主は122年頃、卑弥呼(アマテル3)は225年頃、ワカミケヌ(神武天皇)は277年頃、10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)は370年頃の即位となる。

 古代の王の年齢や在位年数の統計的分析は、後世の歪曲や創作の入りにくい予測値として重要視されるべきである。

⑩ 「現代人的不合理解釈」から「古代人的合理的解釈」へ

 大和天皇家の初代神武天皇の年齢を古事記は137歳(日本書紀127歳)、10代崇神天皇を168歳(120歳)とするなど、初代から16代の天皇の年齢は異常に長くなっている。

 この点から「記紀神話は信用できない、後世の創作である」とする説が見られるが、小説と同じで、創作するなら桁外れた長寿にするという理由は考えれない。

 一方「当時は1年を春秋2年としていた」という説が見られるが、後漢と朝貢交易を行い、スサノオの異母弟の「月読」という名前や、毎年の神在月(神無月)の出雲での神集いの行事などからみて、スサノオ・大国主王朝には中国に倣った暦があったと見るべきである。さらに遣隋使・遣唐使などで中国文化に精通していた記紀作者たちが、敢えて「春秋2倍年」を使い後進性をさらけ出すなど考えられない。倭人を「暦もない未開人」にしたいという劣等感の強い拝外主義の歴史家の妄想である。

 私は太安万侶や日本書紀編集者たちは、16代のスサノオ・大国主一族の建国の歴史を隠すとともに、後世にその事実を秘かに伝え残すために、敢えて穂穂出見(ほほでみ)(彦瀲(ひこなぎさ))を580歳あまりとし、16代の天皇の年齢を倍にするという不自然な「ネタバレ」の記載を行ったのである。

 「不自然不合理神話」から真実を読み取る推理力・分析力を欠き、記紀編集者の無能性を説くなど、日本の後進性・非文明性から説明するという「拝外卑下史観」から卒業し、「不自然不合理神話の古代人的合理的解釈」のまず徹底的に試してみるべきである。

⑪ 「古代人の宗教思想」からの推理

 古事記には、イザナギが殺したカグツチの血から神々が生まれたという神話や、イザナギの体に付いた黄泉の国の汚垢(けがれたあか)からスサノオやアマテル(天照)、ツキヨム(月読)が生まれたという神話、スサノオが殺したオオゲツヒメ(大気都比売・大宜都比売:イヤナギ・イヤナミの御子、オオキツヒメ=きつねひめ=お稲荷さん)の死体から蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆が生まれたという神話が見られる。

 これらは典型的な荒唐無稽な神話のように見られてきたが、甕棺や柩(ひつぎ)・棺(ひつぎ)(霊継(ひつぎ))の内側が丹(に)(朱)で塗られていることからみて、子宮(ひな=霊那=霊が留まる場所)の血の中から赤子が産まれるという「黄泉帰り」の再生思想があったことからみて、死体からの生誕神話はイヤナギが出雲と筑紫の各地で妻問して御子をもうけた伝承を伝え、オオゲツヒメの死体らの穀類や豆類、蚕などの誕生は、母系制社会において女王がそれらの生産を担っていたことを神話的表現で伝えているのである。

     

 播磨国風土記に「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」や「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った」という記載からみても、出産と同じく、血の中から稲が生えるという思想があったことが明らかである。

 現代人の考えではなく、古代人の黄泉帰り思想から同時代的に解釈すべきであり、カグツチを産んでイヤナミが亡くなりその子孫栄えたことやオオゲツヒメが養蚕や五穀栽培を開始したことを、古代人はカグツチの血やオオゲツヒメの死体からそれらが生まれたとする神話的表現で示したのである。

 これらは8世紀の記紀編集者たちの荒唐無稽な創作というより、古代人の黄泉がえりの宗教思想を伝えるとともに、母系制社会のイヤナギ・スサノオ・大国主一族の農耕の伝承を伝えていると考える。

⑫ 天皇家不名誉記述からの真実

 高天原から天下りした笠沙天皇家3代の「ニニギ―ホオリ(山幸彦)―ホホデミ(ウガヤフキアエズ・彦瀲(ひこなぎさ)」について、古事記は初代のニニギが美しい阿多都比売(あたつひめ)を妻とし醜い石長比売(いわながひめ)を親の元に返したので呪いをかけられ、「天皇命等之御命不長也(天皇らの御命は長くないなり)」としている。

 また、河内湖岸でのナガスネヒコ・トミビコとの戦いでの敗北、南に敗走しての紀国での名草戸畔(なくさとべ)・丹敷戸畔(にしきとべ)(女王)の誅殺と略奪、大和に入ってからの宴席に招いての土雲八十建(やそたける)らの暗殺などは堂々たる軍の戦とは言い難い。

 さらに吾田(あた)の阿比良比売(あひらひめ)(吾平津媛(あひらつひめ))との間に当芸志美美(たぎしみみ)らをもうけた若御毛沼(わかみけぬ)(イワレビコ:神武天皇)は、大和(おおわ)に入ると伊須気余理比売(いすけよりひめ)を后とし3人の御子をもうけるが、神武の死後、タギシミミは義母のイスケヨリヒメを妻とし、その3人の子に殺されたという話を載せている。その後の天皇家内部の権力争いやだまし討ちの暗殺の数々なども含めて、これらの天皇家にとって名誉とはいえない伝承は真実を伝えている可能性が高いと私は考える。

 太安万侶は天武天皇に「諸家のもたる旧辞及び本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加う。・・・偽りを削り實(実)を定め、後葉に流(つた)えんと欲す」と命じられ、「旧辞・本辞」と「帝紀」(天皇の系譜)を稗田阿礼(ひえだのあれ)に「誦(よ)み習わし」て古事記を編纂したのである。天皇家にとって不名誉・不利な伝承をわざわざ書くこともなく、威風堂々たる輝かしい正史を工夫して創作すればいいのであるが、多くの天皇家不名誉記載を載せているのは、それらが「旧辞・本辞」「帝紀」に書かれた真実の伝承であるからである可能性が高い。

 この「本辞・旧辞」は、『日本書紀』に記された620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「国記」と考えられ、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺の際に「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」と記されている「国記」以外には考えれられず、それらに書かれている伝承なら「天皇家不名誉・不利記載」といえども、太安万侶が罰せられることはないからである。

 スサノオ系の「大海人(おおあま)皇子=大天皇子=天武(あまたける)天皇」は、太(多・意富)氏を始めスサノオ・大国主系の豪族の助けをえて壬申の乱で勝利し、天武朝では乱後にスサノオ・大国主系を重用して天皇中心の集権体制を築いており、太安万侶はその期待に応え、スサノオ・大国主建国史を抹殺することなくその系譜や水利水田稲作の功績などを伝え、真実の歴史を伝える手掛かり(16代天皇2倍年、ウガヤフキアエズ580歳)を残しながら、天皇中心史へと「国記(本辞・旧辞)」を書き換えたと考えられる。

 その他、大和天皇家の初代ワカミケヌを「若御毛沼」と「毛むくじゃらの毛人」を思わせる漢字を当て、その大和の皇后・伊須気余理比売(いすけよりひめ)の別名の「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)(ホトは女性器、多多良は真っ赤なタタラ製鉄炉)」を載せるなど、古事記には天皇家の名誉とならないような記述が多く見られ、これらは全て真実の歴史を伝えている可能性が高いと考える。

⑬ スサノオ・大国主一族有利記述からの真実

 古事記の高天原伝承・神話では、出雲で生まれた大兄(長兄)のスサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と命じられながら、母の根の堅州国に行きたい」と「八拳須(やつかひげ)、心(むね)の前にいたるまで啼(な)きいさちき」と書き、アマテルとの後継者争いでは「営田の畔を離ち、溝を埋め」「殿に尿をまり散らし」「忌服屋(いみはたや)に斑馬を逆剥ぎにして堕とし入れ」、さらにはオオゲツヒメを殺すなど、泣き虫・乱暴者・殺人者として描かれているが、出雲では櫛名田比売(くしなだひめ)を助けてヤマタノオロチ王を討った英雄として描かれ、スサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」の歌は古事記に登場する最初の歌であり、紀貫之は古今和歌集で「和歌の始祖」としてスサノオと下照比売(したてるひめ)(大国主の娘で暗殺された天若日子の妻で夷振(ひなぶり)の歌を詠む)の名を挙げている。

        

 前述の大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)水穂国」としたという記載を始め、スサノオ・大国主一族を讃えた記載は、基本的に真実を伝えているとみてよいと考える。

 なお、スサノオを貶(おとし)めた「八拳須(やつかひげ)、心(むね)の前にいたるまで啼(な)きいさちき」という記述はスサノオが出雲でイヤナミから生まれた長兄であることを示しており、イヤナミの死後に筑紫にやってきたイヤナギが筑紫日向(ちくしのひな)でもうけた筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、アマテル・ツキヨミ(月読神社は壱岐に本社)より年長の長兄であることを示している。

 太安万侶はアマテルを姉、スサノオを弟と記載しながら、秘かに「母の根の堅州国に行きたい」とスサノオが「青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き干し」たという神話的表現で煙幕を張りながら、スサノオが長兄であることを秘かに伝えているのである。

 このようにスサノオ・大国主一族に対し、相反する記述があるときは、一族に有利な記述こそ真実の歴史としてその背景を検討すべきである。

⑭ 最少矛盾仮説の採用

 工学分野では「仮説検証法」はありふれた手法であり、仮説実験を繰り返して「最適解」を求めるのであるが、古代史の分野においても、記紀伝承が真実かどうか、いくつもの仮説をたて、最少矛盾仮説を採用し、発掘や再現実験を行い検証するという方法が採られるべきと考える。

 現在の考古学は、開発によりたまたま見つかった遺跡の緊急発掘を行うという「たまたま考古学」に多大なエネルギーが割かれているように思えるが、この国の歴史の根幹にかかわるようなテーマ、例えば高天原や大国主の墓などについては、シュリーマン方式の発掘が求められる。

 百余国を7~80年支配した「委奴国王」「倭国王」について、私は「①奴国王」「②金印が発見された志賀島を拠点とした綿津見一族の王」「③スサノオ~大国主7代」の3つの仮説をたて、最初は②で検討したが、③を思い切って選ぶと検証作業は進み、最少矛盾仮説として③を採用したがそれが現段階の真実と考えている。

 

 以上、記紀伝承・神話の真偽判断方法として、14の指標を示したが、次のような主張についても当然ながら検討した。

 「物証の裏付けのない神話は後世の架空の創作」「ヤマタノオロチ退治のように古事記にしか書かれていない記述は虚偽」「矛盾し混乱した記載は疑わしい」「神話にでてくる地名は小説などと同じで後世の細工」「統計的推計よりは具体的記述分析こそ重要」「不自然・不合理記述は創作の証拠」「神話的表現は神聖性を高めるため」「天皇家不名誉記述やスサノオ・大国主一族有利記述は後世の脚色の証拠」などのこれまでの説と対比しながらご判断いただければ幸いである。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴

2022-10-13 17:57:13 | スサノオ・大国主建国論

 「スサノオ・大国主建国論」の全体を俯瞰するために、私がこれまでいろんな人や本との出会いで考えてきた縄文社会から続くスサノオ・大国主建国論の全体像を紹介しておきたい。詳しくは、以後の本論で述べたい。

① 「日本中央」からの開始

 門外漢の私が古代史に取り組むようになったきっかけは、きわめて特異な偶然と必然からである。たまたま仕事先の青森県東北町で2002年に「日本中央」と彫られた石碑に出会い、大きな衝撃を受けたからである。

             

 この石碑は「石文集落」近くで見つかり、坂上田村麻呂が矢の矢尻で文字を書いたとされる「つぼのいしぶみ」の可能性が高いことは、津軽十三湊を拠点とした安藤水軍の安藤氏が「日之本将軍」と称していたこととも符合する。

 この石碑にショックを受けたのは、私の父方の先祖は岡山県井原市の30戸の山村で、もともと全戸が「ひな」を名乗っており、江戸中期からの墓には「日向(ひな)」、提灯には「日南(ひな)」と書き、明治になって本家であったことから「日本(ひなもと)」(日向本(ひなもと)を縮めたのであろう)を名字として届け出たところ、役所が「雛元」漢字に勝手に変え、一族は憤慨していると父から聞いていたからである。他には、日向・雛川・高雛の名字もあったという。

 青森県の小川原湖のほとりの東北町に「日本」があり、岡山県井原市芳井町の山村に戦国時代から「ひな」を名乗り、明治になって「日本(ひなもと)」を名字にしようとした変な一族がいたのである。

 ミステリー大好きの私としては、この「日本」が「ひのもと」ではなく「ひなもと」の可能性もあると考え、日本国名の謎を解かないわけにはいかなかった。

 なお、「赤」を「あか」「あこ(赤穂(あこう)、赤馬(あこうま)、赤海(あこうみ)、赤尾(あこう)、赤水(あこず)、赤田(あこだ)、赤生田(あこうだ)など)」読みがあり、戦国時代の石工・石垣職人の「穴太衆(あのうしゅう)」の「穴=あな=あの」からみても、「ao(あお)」母音からの「あ=お」母音併用があり、「日本=ひなもと=ひのもと」「奴国=なのくに=ののくに」であり、後者の王城の地は福岡市早良区の櫛田神社のある「野芥=のけ=のき=ぬき=奴城」(あいういう5母音では「け=き」)であると私は現在は考えている。

② 「ひな」地名からの調査

 当時、私は折り畳み式のキャットボート(1枚帆の小型ヨット)を開発して全ての湖をセーリングしようと企てており、ホームページで三沢市の仕事でよく通った小川原湖の原稿を書いていて、近くの観光名所の八甲田山を紹介しようと地図をみると神名火山(神那霊山)型の「雛岳」を見つけた。さらに範囲を広げて地図をにらむと、五所川原市には「雛田」地名があり、この地は古くは「ひな」と呼ばれていた可能性がでてきた。

 リタイア後に取り組むつもりであったが、忙しい仕事の合間に「ひな」地名の探求を開始した。

 日本地図のロードマップ2冊と国土地理院の検索データで「ひな」地名を調べると、「日南・日名・日向・日夏・日撫・日那・日奈・比奈・火那・陽・雛・夷・蜷」と書く「ひな」地名が吉備(岡山と広島東部)を中心に全国にあり、東日本に多い「ひなた=日向=ひな田」など「ひな」と「田、山、谷、原、川、沢、入、迫、窪、瀬、代、場、戸」などの地形や「畑、城(しろ)、守、倉」などと組み合わせた名称も各地に見られた。

 最初はこれらの地名は「ひな=日那=日のあたる場所」からきたと考えていたが、地図をみると日当たりのよくない場所にも「ひな」地名がある。

 「『飯の山』の秘密~古代測量とイワクラの役割について~」(『イワクラ 古代巨石文明の謎に迫る』イワクラ学会編・著)で「飯の山」について書いた岩田朱実さんとネットで知り合い、神奈備山(かみなびやま)型(富士山型)の全国約三百の「飯盛山、日盛山」は「ヒナモリ山」で「ヒナ族」の拠点であり、「ひな」地名は日あたりのいい場所とは限らないと教えられた。

             

 「ひな」地名は太陽由来の名称ではなく、部族名の可能性がでてきた。

 

③ 古事記・日本書紀の「ひ(霊)」「ひな(日、委、日名)」と委奴(い(ひな)国王」 

 そこで初めて古事記・日本書紀を読みはじめて「ひな」を探すと、なんと、出雲大社正面に祀られ、神々を産んだ始祖神を古事記は「高御産巣日(たかみむすひ)・神御産巣日(かみむすひ)」、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)」と書いており、「ひ=霊」の可能性がでてきた。

 古事記序文が「二霊群品(にひぐんぴん)の祖」と書いているように、この国の人々(群品)の始祖神は「産霊(むすひ)」夫婦であったのである。天皇家の皇位継承儀式の「日継(ひつぎ)」は「太陽を継ぐ」のではなく、「霊(ひ)(祖先霊)を継ぐ」儀式であった。

 角林文雄氏の『アマテラスの原風景』は、「人・彦・姫・聖・卑弥呼」は「霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)・霊知(ひじり)・霊御子(ひみこ)(霊巫女(ひみこ))」であると書いていたが、死者を葬る石棺などを「柩(ひつぎ)・棺(ひつぎ)」というのは、「霊継(ひつぎ)」からきていたのである。

               

 古代人は親から子へと引き継がれるDNAの働きを、死者の霊(魂:玉し霊)が受け継がれる「霊継(ひつぎ)」と理解していたのであった。この国は「太陽信仰」ではなく「霊(ひ:祖先霊)信仰」の国であり、記紀の全ての「日」は「霊(ひ)」として検討し直す必要がでてきた。

 次の大きな発見は、大国主を国譲りさせたアマテルの子の穂日(ほひ)の子に「武日照(たけひなてる)」(武夷鳥(たけひなとり)=天日名鳥(あまのひなとり))がおり、「日」一字を「ひな」と読ませた例を見つけたことである。「日本」を「ひなもと」と呼んでもいい例が日本書紀に書かれていたのである。そして、大国主と鳥耳(とりみみ)の子の鳥鳴海(とりなるみ)の妻が「日名照(ひなてる)額田毘道男伊許知邇(ぬかたびちおいこちに)」、5代目の甕主日子(みかぬしひこ)の妻が「比那良志毘賣(ひならしひめ)」であるであることから、「ひな」名は大国主一族ゆかりの名称であり、「武日照(たけひなてる)」もまた大国主一族の名前の可能性がでてきた。

 さらにネットを検索すると、漢・光武帝が与えた金印「漢委奴国王」の国名を「委奴(ひな)国」と読むkittyという方の投稿が見つかった。委奴国王は「ふぃ(ひ、い)な国王」の可能性がでてきた。

 「新唐書」は天皇家について「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と遣唐使が伝えたと書いているが、古事記には天皇家の系譜として16代しか書かれていない。しかし、その「欠史16代」を補うかのようにスサノオ・大国主一族の16代の王の系譜が載っているのである。

 そこで天皇家16代(実際の天皇家はニニギからの笠沙3代)とスサノオ・大国主16代を連続した32代とし、安本美典産業能率大教授の古代王の即位年の推計方法を援用して回帰計算を行ったところ、スサノオの即位年は紀元60年と推定され、57年に後漢皇帝に使いを送った委奴国王と重なったのである。

 魏書東夷伝倭人条と後漢書に書かれた「旧百余国」「男子王」「住七八十年」の委奴国王がスサノオ・大国主7代(古代王の1代は約10年)であるという結論は動かしがたい。

  

 さらに王勇教授(浙江大学日本文化研究所所長)の『中国史の中の日本像』を読むと、中国の周の時代に儒教を興した孔子(紀元前551~479年)は、乱れた国を嘆き、「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願ったという。そして、中国の字書『爾雅(じが)』を注釈した李巡(漢霊帝のとき、中常侍となった人物)が「夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙」と記しているという。

            

 スサノオ・大国主7代の「百余国」の「委奴国」が漢霊帝の頃の「倭国乱」により、「相攻伐」した後に邪馬台国の卑弥呼を共立してまとまった「倭人」30国と、その先の「天鄙(てんひ)」70余国に分かれていた、というのである。「天鄙(てんひ)」は倭音倭語では「あまのひな」であり、スサノオ・大国主の後継者の国は「ひな(霊那)の国=委奴国」であったことが明らかとなった。

        

 全国の市町村の計画づくりに携わ っていた私は、各地でスサノオ・大国主一族を祀る神社や祭り、伝承に出合うことが多く、スサノオ・大国主一族による「百余国」の建国は納得でき、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)にまとめた。

               

 その原稿を出雲神社の門前に住み京都に事務所を構え、神社建築が得意な建築学科同級生の馬庭稔君に見てもらったところ、出雲では女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言うという重要な裏付けもえられた。そして原稿に誤りはないと後押しされて出版した。

 

④ 卑弥呼の王都と「筑紫日向(つくしのひな)」の高天原

 『邪馬台国はなかった』など多くの著書がある古田武彦氏が親鸞の筆跡研究を行っていたことを知り、狭山事件の筆跡鑑定について自宅を訪ねて相談したことがあり、その縁で播磨の「石の宝殿」を案内するなどして氏の古代史探究の緻密な文献調査には教えられたが、同じ九州説でありながら論敵であった安本美典氏の邪馬台国甘木朝倉説も理科系という親近感と地名分析から読んでおり、スサノオ・大国主建国と邪馬壹国の解明においては、両説の優れた点を活かしたいと私は考えた。

          

 魏書東夷伝倭人条は、対馬・壱岐(一大国(いのおおくに))・奴国・不弥国に副官の「卑奴母離(ひなもり)」が置かれていたと書いており、通説は「鄙守=夷守」を「夷(田舎、辺境)を守る武官」としていたが、当時、これらの国々は中国に近い先進国であり、その王城を守る武将を自ら「夷守」など命名するわけはなく、大和中心史観の偏見であると考えた。

 古事記が九州の4つの国と吉備児島の別名を「日別」「日方別」としているのは「日=霊(ひ)」から別れた(独立した)国であることを表しており、元は「日(ひな)=霊那(ひな)=委奴(ひ(い)な)」という統一国であったことを示している。「アカヒ アカヒ アサヒハアカヒ」のように、戦前の教科書では「あかい=アカヒ」であったのであり、「委奴国」は「ひなのくに=いなのくに」であった。

 さらに「日向=ひな」と読む私は、記紀に書かれた高天原の所在地「筑紫日向橘小門阿波岐原(ちくしのひなのたちばなのおどのあわきはら)」の「日向(ひな)」地名が魏書東夷伝倭人条に書かれた30国のどこかにあに違いないと探したところ、筑後川沿いの旧甘木(あまぎ)市(元は天城(あまぎ)であろう)に「蜷城(ひなしろ)」の地名を見つけた。その背後の高台(天城の高台)こそが高天原であり、卑弥呼の邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の王城があったことを突き止め、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)にまとめた。

            

 この地は、安本美典氏の邪馬台国甘木朝倉説の地であり、神功皇后がこの高台の荷持(のとり)田(筆者注:のとり=にとり=仁鳥)で羽白熊鷲(はしろくまわし)(羽城=杷木=波岐)を討ち、スサノオを祀る大三輪社(おおみわのやしろ)を立てて新羅侵攻の兵を集め、斉明天皇・中大兄皇子もまた橘の地に百済救援の朝倉橘広庭宮を置いたことからみて、1~7世紀にかけてはまぎれもなく九州の中心地であった。新唐書に「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以『尊』爲號(ごう)、居筑紫城」と書かれた「筑紫城」はこの地以外にはありえないのである。

 後漢の金印(志賀島)と魏の金銀朱龍紋鉄鏡(日田)を結ぶラインとガラス壁、環濠城の3つが重なる場所であり、「正使陸行・副使水行」の魏書東夷伝倭人条の行程が陸行・水行とも完全に合致する唯一の場所である。この地こそが邪馬壹国の王都であり、高天原であることが、後漢・魏皇帝ゆかりの金印・金銀朱龍紋鉄鏡・ガラス壁の3物証と日中文献から完全に裏付けられた。

       

 「委奴国=ふぃ(い・ひ)なのくに」の中に、海の「一大国=い(ひ)のおおくに」と「邪馬壹国=やまのい(ひ)のくに」があったのである。

 私は古田説の「邪馬壹国説」「九州王朝説」と、安本美典氏の「古代王の即位年推計」「邪馬台国甘木説」「邪馬台国王都=高天原説」を大筋において引き継いでいるが、古田氏の「行程説」「邪馬壹国福岡市説」「高天原=沖ノ島説」、安本氏の「邪馬台国=やまだ国説」「卑弥呼王都=旧甘木市馬田説」「邪馬台国東遷説」は支持していない。

 

⑤ 「4人のアマテル」説と「国譲り=大国主御子の後継者争い」説

 古田氏は白村江の戦いの敗北まで邪馬壹国は倭国・九州王朝として存続したとし、安本美典氏は夜須郡まわりの地名と大和郷まわりの地名が一致していることから邪馬台国が東遷して大和朝廷となったとしている。しかしながら、いずれも記紀伝説の大部分を占めるスサノオ・大国主一族との関係を整理して示していない。

 スサノオ・大国主一族の「百余国」の委奴国から分かれた30国の邪馬壹国は筑紫大国主王朝として存続し、筑紫日向生まれのアマテルは出雲で生まれたスサノオの異母姉ではなく異母妹であり、スサノオ7代目の大国主を国譲りさせたとされるアマテルは、大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテルを襲名)であり、国譲り神話は鳥耳の子の穂日(ほひ)と孫の日照(ひなてる)(夷鳥(ひなとり)=日名鳥)親子対出雲の事代主、越の建御名方との後継者争いと私は考える。

                     

 古田・安本氏とも「アマテル一人説」であるが、私の祖母方の一族が代々襲名していたことなどからみても、記紀に時代を越えて登場する始祖神の神産霊(かみむすひ)やスサノオ、アマテル、大物主、建内宿禰(たけうちのすくね)(蘇我氏などの始祖)は全て襲名していたとみるべきである。後世の創作なら、時代を越えて同じ人物を登場させるようなヘマをするわけがないのである。

 出雲で生まれたスサノオの筑紫日向(つくしのひな)の異母妹と、スサノオ7代目の大国主の筑紫妻の鳥耳、さらに30国の「相攻伐歴年」後に共立された卑弥呼(大霊留女(おおひるめ))、その後継者の壹与(ひとよ)は代々アマテルを襲名しており、記紀はこの4人のアマテルを合体してアマテル神話としたのである。

 

⑥ 母系制社会の「ひな(女性器)」信仰

 その後、栃木方言では「ひなさき」がクリトリス(陰核)のことであると「希望社会研究会」で出会った哲学者の故・舘野受男さんより教えられ、調べると平安時代中期の辞書・和妙類聚抄は「雛尖:ひなさき」を陰核としており、方言では栃木・茨城に「ひなさき」があり、琉球の宮古地方では女性器を「ぴー、ひー」、熊本の天草では「ひな」と呼んでいた。

 前述のように、出雲で女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」ということや、男子の正装である烏帽子(えぼし)(カラス帽子)の前に「雛尖(ひなさき)」を付けることからみても、古代から霊(ひ)を産む女性器信仰が続いたことが明らかである。

 建設省・水産庁の漁村集落環境改善調査で全国各地の漁村集落を調査した時、危険な漁に出る漁民の家では家計は女性が握っていると教わり、群馬県片品村の仕事では金精(男性器)を男たちが山の神(女神)に捧げる祭りを知り、さらに各地に明治政府が禁じた金精信仰や縄文の石棒が残っているのを見てきた私は、縄文時代から海人族は妻問夫招婚の母系制社会で女性器「ひな」信仰が行われ、大国主が古事記に書かれたように「島の埼々、磯ごとの若草の妻」を持ち180人の御子をもうけたのは母系制社会であたからこそ可能であったと確信した。

 さらに狭山事件脅迫状筆記能力の鑑定を行った大野晋さんの『日本語とタミル語』から、この「霊(ひ)信仰」のルーツがインド原住民のドラヴィダ族からビルマ(ミャンマー)、東南アジア・雲南高地の「ピー、ピャー、ピュー、ピー」信仰にあるという思いがけない結論に達している。

             

 「ひなちゃん」と呼ばれたこともあった私は「×××ちゃん」と言われていたのであり、思いもかけないルーツ探究の結末であった。

 

⑦ スサノオ・大国主一族は縄文人か、弥生人か?

 2011年の福島第1原発事故を受け、私は『「原発」国民投票』著者の今井一氏の講演を聞きたいとネットで探し、国際縄文学協会での講演会を見つけて参加したところ、なんと、建築学科先輩の助教授であった上田篤さんの講演「縄文の家と社会を考える」との幸運な出会いがあり、氏の縄文社会研究会に参加し、スサノオ・大国主建国の前史として縄文社会との関係を追究することとなった。

 私の縄文への関心は、大阪万博の「太陽の塔」製作の岡本太郎氏が紹介した火焔型縄文土器に衝撃を受けたのが最初で、縄文野焼きの芸術家・猪風来さんと出会って縄文野焼きのイベントを沖縄の彫刻家・金城実さんを招いて行うなど、直感的に二人には縄文アートが受け継がれていると考えた。

     

 さらに全国各地の仕事では、北海道の森町や群馬県の旧赤城村(現渋川市)の環状列石(ストーンサークル)や各地の石棒、群馬県片品村の男性が金精を山の神(女神)に捧げる祭りなどから母系制社会の性器信仰を考えていた。

 私の主な関心は、スサノオ・大国主の霊(ひ)信仰や海人族としての活発な交易・交流、母系制の妻問夫招婚などのルーツが縄文人から連続しているのではないかということにあったが、優れたプランナー(計画家)として多面的に活躍された上田さんからは縄文社会の文化が現代に多く引き継がれており、これからのまちづくりに活かしていくという視点を教わった。

 

⑧ スサノオ・大国主一族は海人族か、山人族か、農耕民か、騎馬民族か?

 私は瀬戸内海に面した吉備・播磨で育ち、時に艪で漕ぐ伝馬船や竿で進む田舟(肥桶(こえたご)舟)で遊び、海辺では行くといつも遠くに見える小豆島や四国に舟で渡りたいと考えていた。母方の祖母の代まで代々住吉大社から御座船で迎えに来て娘たちは住吉大社に仕えていたと聞き、父方の叔母が嫁いだ飛島の一杯船主の伯父の豪快な話を楽しみにしていた私は海人(あま)族系なのか、それとも岡山の山村出身の先祖からの山人(やまと)族系なのか、あるいは南北朝争乱で落城・帰農した母方の農耕民系なのか、さらには井上靖の『敦煌』や『蒼き狼』で心ときめかした騎馬民族系なのか、などと夢想していた変な子供であった。

 日本建築学生会議で 講演を頼んだ先輩の片寄俊彦さん(ブワナ・トシ)からはアフリカの類人猿調査のことを、山岳部・ワンダーフォーゲル部の伊藤君・平野君たちからは日本人と容貌・生活・文化がよく似ているブータンのことを、青年海外協力隊員としてニジェールに派遣された次女からはニジェール川流域原産のヒョウタンやアフリカ米のことを、さらにナイジェリアで日本式稲作の普及の援助をしてきた若月利之さん(島根大学名誉教授)からはアフリカ稲のことを聞き、アフリカでの猿からの人類誕生と日本列島にどのようなルートでどのような作物・宗教・文化を持って縄文人がやってきたのか、日本列島人起源論は解明しないわけにはいかないテーマであった。

   

 また、スサノオ・大国主研究から連絡した梅原猛さんの「森の文明」「縄文文明」論も気になっており、縄文社会を文明以前の「未開・野蛮社会」に押し込めるのではなく、1つの文明段階として位置づける必要を感じていた。

 出雲出身の石飛仁さんの縄文講演会では先輩の『現代の眼』元編集長で『季刊日本主義』の編集長の山岸修さんに出会い、同誌に書かせてもらうことになり、弾みがついた。さらに白陽社社長で島根日日新聞社の社主菊池幸介さんが主催する毎月1回の「梁山泊」でも報告する機会をえて、『季刊 山陰』にも書かせていただき、ブログで書き散らかしてきたスサノオ・大国主建国論や縄文論をまとめる機会をえた。

        

 思想信条・郷土愛・学閥などにとらわれず真実を追究したいと考えていた私にとって、この左右の論客が集まる「梁山泊」と『季刊日本主義』は実に刺激的で有益な場であった。

 また、縄文社会研究会の赤城合宿、梁山泊メンバーの出雲調査や大湯環状列石や三内丸山などの縄文遺跡調査などを通して、縄文からスサノオ・大国主建国が連続しているという確信を得た。これらの活動で一緒であった石飛仁さんは「スサノオ・大国主は縄文最後の王」説で、私は「スサノオ・大国主一族は鉄器水利水田稲作の普及者」「縄文とスサノオ・大国主建国は連続しており、弥生人征服はなかった」に力点を置くという違いはあったが、土台は共通の縄文認識であった。

 世界最高レベルの縄文(新石器時代、土器時代)研究は、残念ながら「弥生人征服説」と「天皇建国説」によって分断され、中国・西洋文化崇拝の排外主義の歴史学者たちにより縄文時代は「原始時代」「未開時代」に押し込まれ、その文化・文明が現代に引き継がれているという視点は忘れられてきたことに対し、「縄文社会研究会」は民族、歴史、生活・文化、宗教、言語、生類意識などの連続性について縄文社会から現代人への連続性について分析を深めた。

 縄文時代からスサノオ・大国主建国、さらには日本人の現代生活まで連続した内発的発展とみると、人類史全体に大きなインパクトを与えることができる。日本の優れた縄文研究は世界人類史全体の解明に大きな役割を果すべきであり、世界史の中での「縄文文化論」「縄文社会論」「縄文文明論」の確立を図り、「霊継(ひつぎ)=命のリレー」を大事にする生類共生社会への展望を示すべきと考える。

 

⑨ 琉球(龍宮(りゅうきゅう))からの海人(あま)族(天(あま)族)

 縄文時代から海人族は琉球から南九州、さらには青森・北海道まで、貝とヒスイ・黒曜石などの交易を活発に行っており、大国主が越の沼河比売を訪ねて婚(よば)いした時の歌が古事記に記載されていることからみても、対馬暖流交易・交流は縄文時代から大国主の時代まで連続していると見るべきであろう。

 壱岐の那賀(なか)を拠点とした天御中主(あめのみなかぬし)と産霊(むすひ)夫婦を始祖神とする壱岐・対馬の海人(あま)族(天(あま)族)のルーツは「アマミキヨ」を始祖とする琉球であり、奄美大島→天草・甘木→天久保→天ケ原(壱岐)へと海人(あま)族の移動と活発な交流・交易があったことを示している。

 さらに、琉球弁が「あいういう」5母音であることを、地元のさいたま市中央区の沖縄出身の山田ちづ子さんの「カフェギャラリー南風」のイベントで出会った元高校国語教師の宮里政充さんに教わり、「あいういう」から「あいうえお」5母音への変遷を考慮に入れながら記紀・地名・方言分析を行う必要を感じた。

 そして、柳田國男氏の『蝸牛考』や松本修氏の『全国マン・チン分布考』の方言が大和・京都から地方へ広がったとする「方言集圏論」を批判し、カタツムリ・女性器方言の北進・東進論としてまとめた。

          

 この方言北進・東進論は、丸ノミ石斧・曽畑式土器の琉球から南・東九州への分布、薩摩半島笠沙・阿多の笠沙天皇家2代目の山幸彦の龍宮(琉球)訪問と綿津見(わたつみ)神の娘の豊玉毘売(とよたまひめ)との婚姻、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)(彦瀲(ひこなぎさ))と妹の玉依毘売(たまよりひめ)の婚姻とも符合し、縄文時代からスサノオ・大国主建国、笠沙天皇家までの海人族の対馬暖流移動・交易を裏付けた。

 

⑩ 縄文巨木列柱から出雲大社への連続性

 「弥生人(朝鮮人・中国人)征服史観」「天族天皇家弥生人(朝鮮人・中国人)史観」の「縄文・弥生断絶史観」に立っているわが国の歴史家たちは、紀元2世紀当時は世界一の高さであった可能性の高い48mの出雲大社本殿について、何らの歴史的な位置づけもできていない。

 ところが、縄文社会の自立的・内発的発展としてのスサノオ・大国主建国説に立つと、青森の三内丸山遺跡(5900~4200年前頃)の八甲田大岳とその手前の鉢森山の2つの二等辺三角形の神那霊山を向いた6本柱巨木建築や、諏訪の女神山である蓼科山を向いた阿久尻遺跡(6700~6450年前頃)の19の方形柱列建物と中ツ原遺跡(5000~4000年前頃)の8本柱巨木建築の技術・文化を引き継いだ高層楼観の宗教施設(神殿)として出雲大社は位置づけられるのである。

 なお、私が大学で学んだ福山敏男さんらによる出雲大社復元では、出雲大社に伝わる金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」を「きざはし(階)=階段」と誤って解釈したものであり、日本書紀に「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれているとおりに、本殿から海岸へ続く100m長の木デッキ(高橋)と浮桟橋(浮橋)とするべきであり、縄文巨木建築から後の壱岐・原の辻遺跡や吉野ヶ里遺跡、邪馬壹国の楼観にまで引き継がれる「巨木神殿文明」を示している。

  

⑪ 信州でみた縄文からのスサノオ・大国主建国

 全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ・大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ・大国主系の神社があり、しかもスサノオ・大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ・大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。

 群馬県吉岡町には天皇家より古い八方墳(八角墳)があり、群馬・栃木には方墳が多く出雲の四隅突出型方墳の影響が伺われるが、地域の神社伝承や地名などとの関係は検討されていない。

 そのような中で、縄文遺跡が濃厚に残り縄文の地域研究が最も進み、記紀に大国主の御子の建御名方が書かれ、建御名方を祀る諏訪大社と諏訪神社が濃厚に分布する長野県で、地域社会研究会、農学部OB会、縄文社会研究会(顧問の尾島敏雄早大名誉教授の尾島山荘で実施)の3つの合宿の機会に調査することができ、女神信仰の母系制社会、神名火山(神那霊山)信仰、巨木神殿(拝殿)建築、縄文農耕、出雲地名など、縄文社会から連続したスサノオ・大国主建国に多くの確証をえた。

         

 以上、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)』の執筆から、その後の縄文社会研究を含めてスサノオ・大国主建国論への私の取り組みの経過をざっとまとめた。

 いろんな人や本との幸運な偶然の出会いにより、スサノオ・大国主建国を「建国前史」の日本列島人起源論、縄文宗教・文化・文明論や、更には「建国後史」の邪馬台国論、笠沙3代からの天皇家の歴史まで明らかにできた。

 縄文社会から連続した海人族のスサノオ・大国主建国は、狩猟・遊牧民の侵略戦争型建国とは異なる歴史を示しており、人類史全体の解明に貢献することができると考える。戦争=人(霊人(ひと))殺しのない、生類の命を大事にする母系制社会の1万年の歴史から、生類共生社会の実現に向けて提案するとともに、その拠点として出雲大社を始めとするスサノオ・大国主一族の八百万神信仰の世界遺産登録を提案したいと考える。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スサノオ・大国主建国論1 はじめに

2022-10-04 20:29:45 | スサノオ・大国主建国論

 これまで書いてきた「スサノオ・大国主建国論」を年内目標にまとめるにあたり、下書きを連載していきたいと思います。これまで書いてきたことと重複が多いのはご容赦下さい。いずれ、アマゾンキンドル本としてまとめるとともに、スリム化して出版したいと思います。 雛元昌弘

 

スサノオ・大国主建国論1 はじめに

 この国の古代史は、私のような建築学科卒(大学院離籍)で、まちづくりの調査・計画・助言を主な仕事としてきた門外漢には実に不可解な世界である。

  古事記・日本書紀・出雲国風土記(以下、記紀と略)などはスサノオ・大国主一族の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)長五百秋(ながいほあき)の水穂国」の建国をはっきりと書き、古事記は大国主は少彦名と「国を作り堅め」、少彦名の死後には美和の大物主と「共に相作り」と書き、日本書紀も大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とし、出雲国風土記は大国主を「造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と書いている。

            

 しかしながら、ほとんどの歴史学者たちは古事記に書かれたスサノオ~大国主7代、大国主~遠津山岬多良斯(とほつやまさきたらし)10代の合計16代の建国史を本格的に研究せず、スサノオ・大国主の墓を捜そうともしていない。記紀神話は8世紀の創作として研究対象外におき、アマテル(天照大御神)だけをつまみ食いし、天皇中心史観・大和中心史観に安住している。

 魏書東夷伝倭人条に書かれた「三十国」の「邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)」の女王・卑弥呼(ひみこ)が誰か、その墓がどこにあるかについては研究者・民間人を問わず夢中であるにも関わらず、分裂前のこの国の建国者であり、後漢光武帝より「漢委奴国王」の金印を与えられた「旧(もと)百余国」「住七八十年」の「男子王」の「委奴国王(ひ(い)なのくにのおう)」については無関心で、それが誰であるか、その墓がどこにあるか、確かめようともしていない。

       

 「旧(もと)百余国」の委奴国に反乱して独立した30国が共立した邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の卑弥呼(ひみこ)(霊御子=霊巫女)の「鬼道」(神道=霊(ひ)(祖先霊)信仰)が祀った共通の祖先王は委奴国王以外にありえないと私は考えているが、歴史学者たちは委奴国王とスサノオ・大国主一族の関係を探究しようともしていない。日本の歴史学者たちは記紀も魏書東夷伝倭人条のどちらも無視し、天皇中心史観の虚偽の建国史をねつ造しているのである。

 私はこの「旧百余国」の「住七八十年」の「男子王」の国こそ記紀に書かれた「スサノオ~大国主7代」の統一王朝と考え、「委奴国王」はスサノオであることを確信し、2009年に『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) 霊(ひ)の国の古代史』(梓書院:ペンネーム甲斐仁志)を上梓した。

        

 ただこの時は「記紀神話」全体の分析も不十分で、その後、「ポスト葦原中国」論として、大国主の筑紫日向(つくしのひな)の筑紫妻・鳥耳からの10代の分析を進め、それこそが筑紫大国主王朝=邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)であり、その王都が旧甘木市(朝倉市)の高台にあった「高天原」であるとして『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:2014年第1版、2020年第2版)をまとめた。

 その後も探究を進め、『季刊日本主義』『季刊山陰』や「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(旧:神話探偵団)」「帆人の古代史メモ」など4つの古代史ブログに書いてきており、ここに「スサノオ・大国主建国論」としてまとめておきたい。

 その全体像は次のとおりである。なお、記紀や風土記に書かれた神々の名称の「~神・大御神」「~命」「~尊」「神~」「天~」「建~」などの尊称は煩雑になる場合には省いて表記し、建速須佐之男命・須佐乃袁尊・素戔男尊・素戔嗚尊・神須佐能袁命・須佐能乎命の名前は「スサノオ」に、大国主神・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・八千矛神・葦原色許男神は「大国主」、天照大御神・大日孁貴は「アマテル」などと簡易表記した。

① 皇国史観・反皇国史観により、これまで「記紀神話」とされてきたものは、「大部分伝承+神話化伝承+神話」の3層構造であり、荒唐無稽とされてきた「神話」の多くはスサノオ・大国主一族の建国伝承を巧妙にカモフラージュして伝え残した「神話化伝承」である。

    

 記紀神話を「ドキュメンタリー+ミステリー+ファンタジー」として分析すればスサノオ・大国主建国の真実の歴史を解明することができる。

② 紀元57年に光武帝より与えられた金印に掘られた「委奴国」は「ひ(い)なのくに」であり、「委・倭・奴・邪・鬼・卑」字などは後漢皇帝が押し付けた悪字ではなく、母系制時代の甲骨文字では良字である。「委奴国」「邪馬壹国」「鬼道」「卑弥呼」などは国書に倭人が記したものである。

③ 『三国史記』新羅本紀は、4代目新羅国王の倭人の脱解(たれ)が紀元59年に倭国王と国交(米鉄交易)を結んだとしている。一方、古事記ではイヤナギはスサノオに「海の支配」を命じており、日本書紀はスサノオが御子のイタケル(五十猛=委猛)を連れて新羅に渡ったとしており、新羅国王と国交を結んだ倭国王はスサノオ以外には考えられない。

④ 桓武天皇第2皇子であり、空海・橘逸勢とともに「日本三筆」に挙げられた第一流の文人である52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として「正一位(しょういちい)」の神階と「日本総社」の称号を、66代一条天皇は「天王社」の号を尾張の津島神社に贈っており、この「本主スサノオ」「スサノオ天王」伝承は天皇家公認の史実である。

 なお、織田信長は越前町織田のスサノオを祀る越前二の宮の剣神社の神官の末裔で津島神社の領主であり、天皇を越える「天主」として「4階正八角・5階正方形」の安土桃山城天主を建てている。天皇家を象徴する「八角円堂(夢殿)」「八角墳」に対し、スサノオ・大国主一族の「方墳」「石の宝殿(方殿)」に見られる「方殿」を上位に置いているのである。

       

⑤ 記紀・風土記・魏書東夷伝倭人条・新羅本紀の記述、ドラヴィダ(タミル)語起源の農耕・食・宗教語、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造、神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)や神籬(霊洩木)信仰、巨木建築文化、海人族の妻問夫招婚の母系制社会、コメとヒトのDNAなどからみて、「委奴国・倭国」は弥生人(中国人・朝鮮人)による征服王朝などではなく、縄文人の母族社会からの内発的発展による建国である。

⑥ 古事記によれば、スサノオは伊邪那岐(いやなぎ)が出雲の揖屋(いや)の伊邪那美を妻としてもうけた大兄(おおえ)(長兄)であり、伊邪那美(いやなみ)の死後、伊邪那岐(いやなぎ)が筑紫日向で妻問いしてもうけたアマテル・月読(つきよみ)(壱岐)、綿津見(わたつみ)3兄弟(底津・中津・上津:金印が発見された志賀島)、筒之男(つつのお)3兄弟(底・中・表:博多・住吉)はスサノオの異母妹・異母弟である。

      

⑦ スサノオ・五十猛(いたける)(委武)親子は新羅と米鉄官制交易により鉄先鋤の普及を図るとともに、十束剣(韓鋤剣(からすきのつるぎ))で八岐大蛇(やまたのおろち)王の草那藝之大刀(くさなぎのおおたち)を奪い、その本拠地の吉備の赤坂(現赤磐市)の鉄生産を支配し、葦原の沖積地での鉄器水利水田稲作を全国に普及した。

⑧ 大国主は大穴牟遅(おおな(あな)むち)(大穴持(おおあなもち)神・八千矛(やちほこ)神・五百鉏鋤(いおつすきすき)王などと呼ばれ、播磨の御子の阿治志貴高日子根(あじすきたかひこね) (迦毛大御神)や丹津(につ)日子・爾保都比売(にほつひめ)(丹生都比売(にゅうつひめ))を御子とし、播磨で鉄と丹(水銀朱・鉄朱)生産を行った製鉄王・水田稲作王である。また、丹を遺体に塗って地母神の子宮に見立てた石棺・甕棺・石室に入れて霊(ひ)の再生を願う八百万神(やおよろずのかみ)信仰の祭祀者出雲神道を確立した。

⑨ しまなみ海道の大三島の大山津見(おおやまつみ)(大山祇)の娘の大市比売(おおいちひめ)とスサノオとの間に生まれた大年(おおとし)(大歳:大物主を代々襲名)は美和(三輪)、妹の宇迦之御魂(うかのみたま)は伏見を拠点とした。出雲のスサノオ7代目の大国主は鉄先鋤による水利水田稲作の国づくりを共に進めた少彦名の死後、美和の大物主(代々襲名)と連合し、銅矛圏(九州大国主王朝)・銅槍圏(通説は銅剣説:大国主勢力圏)・銅鐸圏(美和大物主王朝)を統一し、大倭国(おおわのくに)と称した。

⑩ 大国主は筑紫日向(ひな)で鳥耳(天照(あまてる)を襲名)に妻問いし、その御子・孫の穂日(ほひ)・天夷鳥(あまのひなとり)(武日照(たけひなてる)・天比良鳥(あまのひらとり))親子は大国主の後継者争いで出雲の事代主(ことしろぬし)(言代主)、沼河(ぬなかわ)(糸魚川)の建御名方(たけみなかた)に勝ち大倭国(おおわのくに)の後継者となった。記紀の「国譲り神話」は大国主の後継者争いを、アマテル=天皇家の出雲征服に置き換えたものである。

⑪ その後、筑紫大国主王朝の30国は新羅鉄の入手を巡って出雲王朝に対して反乱・自立し、その11代目の王位を巡って相攻伐し、共通のスサノオ・大国主の祖先霊を祀る祭祀(鬼道)を行う邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の卑弥呼(ひみこ)(霊御子=霊巫女:天照(あまてる)を襲名)を共立して統一を果たした。さらにその死後、男王派と女王派の争乱がおき、女王派壹与(ひと(い)よ)(霊豊)が擁立された。天岩屋戸(竪穴式石棺)でのアマテル再生神話は、卑弥呼から壹与(ひとよ)への霊継(ひつぎ)儀式を神話化したものである。

⑫ 記紀はスサノオの異母妹アマテルと、7代目大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテルを襲名)、さらに11代目の卑弥呼(オオヒルメ:大日孁=大霊留女)、12代目壹与(ひと(い)よ)を合体して一人のアマテルとし、1~3世紀のスサノオ・大国主一族の歴史を隠しながら、真実の歴史を巧妙に伝え残した。

⑬ 敗れた男王派のニニギは筑紫日向(ひな)の高天原(甘木=天城の高台)から佐田→浮羽→日田→九重→高千穂→阿多と、女王派の平野部の国々を避けて険しい九州山地を投馬(とうま)(さ・つま)に逃亡した。そして、ニニギ2代目の山幸彦(ほおり:山人=猟師)・海幸彦(ほでり:隼人=漁師)兄弟は争い、山幸彦(山人)は龍宮(琉球)の豊玉毘売(とよたまひめ)を妻とし、産まれたウガヤフキアエズは、妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられて妻とし、その子の若御毛沼(わかみけぬ)(8世紀に神武天皇と命名)ら4兄弟は傭兵として16年の間、宇佐→筑紫→安芸→吉備と点々とし、最後に大和国(おおわのくに)に入り、10代かけて美和(三輪)王朝を乗っ取った。

 以上が、「スサノオ・大国主建国」の前史・後史を含む全体構成である。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする