ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団91 高御位山と石の方殿の大国主・少彦名伝説

2010-06-27 16:33:59 | 歴史小説
伊保山山頂からみた高御位山と大正天皇行幸の石碑


伊保山頂上には、北の高御位山の方を向いて、大正天皇が行幸した記念碑が建てられていた。
「石の宝殿を訪ね、高御位山に昇った可能性のある天皇は聖武天皇と大正天皇だけなのかしら」
ヒメの質問はいつも高木の想定外である。
「昭和天皇も皇太子の時にこの地を訪れています」
ヒナちゃんは、聖武天皇が印南に行幸したことに気付いた時に、他にこの地を訪ねた天皇がいないか、調査したに違いない。高木には真似のできないことであった。
「天皇家には、公表されていない秘密の記録が残されているのかも知れないなあ。ところで、この石碑が、東の大和の方角を向いていないのは面白いね」
古代の神社の方角についてはうるさいカントクならではの目のつけどころだ。
ここは案内役の高木の出番である。ヒナちゃんみたいな発想力には欠けるが、広く浅く情報を集めてデータベース化することは得意である。
「ちょうど東に、ヤマトタケルの母の播磨稲日(いなび)太郎姫(おおいらつめ)の墓とされている日岡山が見えます。ここにはヤマトタケルが生まれた、という伝説が残っています。ちょうど南の加古川の河口近くには、神功皇后が大国主に戦勝を祈念し、新羅からの帰りに建てたとされる高砂神社があります」
「大和の方角はどっちなの?」
マルちゃんも方角や地形にはうるさい。
「ほぼ真東になります」
「そうすると、大正天皇はこの伊保山山頂に立って、天皇家にゆかりの深い東の日岡山と大和、南の高砂神社ではなく、北の高御位山の方角を最上位に置いたことになるね」
カントクは、いつものように、ヒメの説をちゃっかりとフォローしている。
「高御位山についての地元の伝承はどうなの?」
マルちゃんの質問はいつものように抜かりがない。
「南北朝時代の1348年に書かれた『峯相記(みねあいき)』には、『生石子(おおしこ)の神と高御倉(たかみくら)の神が陰と陽の二神として、夫婦となって現れた。この二人の神が天から降りてきて、石で社を造ろうとしたが夜が明けるまでに押し起こすことができなかった。そこで、天に帰ってしまった』と書かれています。
江戸時代の1762年に書かれた「播磨鑑」には、『神代の昔、大己貴命が天の岩船に乗ってこの山に来て高御位大明神と称した。もう一神は小彦名命で、生石子大明神と称した。二神は気持ちを合わせて五十余丈の岩を切り抜き、石屑は一里北の高御位山の峰に投げた。一夜の間に二丈六尺の石の宝殿を造り、二神の尊が鎮座している』と伝えています」
高木は、橋元正彦という人の『兵庫の山々 山頂の岩石』というホームページを孫引きしながら説明した。
「高御位山と生石子は古くからこの地方で信仰されていたことがわかるけど、もともと、高御位神と生石子神は男女の神で、後世になって、大国主と少彦名に置き換えられた、ということになるんじゃあないの?」
マルちゃんはなかなか手強い。
「単に記録の前後関係からだけで判断するのは危険と思います。『峯相記』が書かれた頃、播磨は南朝派、北朝派に分かれて武士達が戦を繰り広げていましたから、尊皇の空気の中で、大国主や少彦名の建国の伝承を憶を消した可能性はないでしょうか? むしろ『播磨鑑』の方が、この地の伝承を伝えている可能性が高いと思います」
ヒナちゃんはすでに検討済みのようだ。
「聖武天皇がこの地を訪れ、大石村主真人が『オオナムチ・少彦名の将座・・・』という歌を捧げていることから見て、『播磨鑑』の方に分配を上げるべきだな」
長老は今日は旗幟鮮明である。
「高御位山での大国主の建国儀式を継承して天皇家が高御座で即位式を行うようになった、という説は確かに面白いけど、その仮説を証明する物証は『石の宝殿』以外にないの?」
マルちゃんが食い下がっている。
「天皇や各地の王の柩(霊継ぎ)づくりに携わった各地の石作連は天火明命を祖先としていますが、播磨国風土記は火明命は大国主の子供で、乱暴なので播磨の地に残された、としています。そして、たつの市龍野町日山には、天照国照彦火明命を祀るの粒坐(イイボニイマス)天照神社がありますが、この神社名の「イイボ」からこ一帯は揖保郡と呼ばれていますが、私達が立っているこの山の名前も伊保山です。このすぐ南に続いている竜山の石で天皇や皇族の棺(霊継ぎ)が造られていることから見て、天火明命一族の石作連は、この竜山を拠点にして各地に進出し、王の石棺製作に携わったと考えられます」
ヒナちゃんの検討は多面的だ。
「『石の宝殿』に『石作連の柩』が加わると、ぐっと重みを増すわね」
確かに、マルちゃんの言うとおり、各地にこの竜山石で製作された柩が運ばれ、天皇や王の墓に使われたということは、葬送儀式の重要部分を火明命の一族が担っていたことになる。
「古事記や播磨国風土記の大国主と少彦名の国づくり、少彦名亡き後の大物主の協力、大国の里の神々ゆかりの地名、石の方殿の形状と立地の場所、石の方殿や高御位山に関する大国主と少彦名の伝承、石の方殿の中途での建設放棄、天皇の霊(ひ)継ぎの即位式に使われる方壇の高御座という名称、この高御位山に大国主が天の岩船に乗って降りたという伝承、石作連による竜山石の柩(霊継ぎ)、神功皇后がこの地で大国主に戦勝祈願を行ったという伝承、聖武天皇のこの地への行幸、万葉集の大石村主真人の歌などを総合的に判断すると、高御位山で大国主が霊(ひ)継ぎの即位式を行った、と考えていいのではないでしょうか」
ヒナちゃんは控えめながら、確信に満ちた口調であった。

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)

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神話探偵団90 「高御位山」で即位した大国主

2010-06-20 15:53:49 | 歴史小説
京都御所の紫宸殿に据えられている高御座(ウィキペディアより)

「ヒナちゃんのメモだと、まず、播磨国風土記に国司の上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)が登場し、713~15年に完成の播磨国風土記を国守の大石王が編纂している。その後、726年に聖武天皇が印南に行幸し、藤原4兄弟が死んだ翌年、738年には石村主真人が美濃の少目(しょうさかん)になっている。こう見てみると、この地には代々、大石=生石一族がいたと見てよいね。聖武天皇がこの地を訪ねたのも、生石一族と藤原一族への対抗策を練った可能性が高い」
慎重な長老も、今日はテンションが高い。
「そういえば、見学ルートを調べている時に気付いたんですけど、この山の北側には『神爪』という地名があります。当時はこの伊保山の南は海ですから、街道はこの北側の谷間を通ったと考えられます。そこに神が詰めていた関所があった可能性があります。他にも、この『大国の里』には、『大国』『神吉(かんき)』『神木』『神野』や『横大路』『日岡山』『天川』などの地名があります」
一番慎重な高木も雰囲気に飲まれてしまっていた。
「ボクちゃんも、推理の楽しさが分かってきたようだな。『かんき』は『神城(かみしろ)』だから、ここには環濠に囲まれた『城』がいくつかあった可能性があるな」
長老は、この地に吉野ヶ里のような「城」があったとイメージしているようだ。
「大物主との同盟ができた大国主は、石の方殿を諦めて、どこで建国の儀式を行ったのかしら?」
マルちゃんから、新たな問題が出された。ここは、高木の出番であった。
「古事記によれば、大物主は、『私を御諸山に祀るなら、共に国づくりをしよう』と申し出ています。そうすると、大国主・大物主連合の新たな国づくりの中心は、三輪山ということになりますよね」
愛郷心に燃えて、高木は新説を披露した。
「その可能性もあると思いますが、大国主一族は、代が変わる度に、三輪の大物主の下に使者を送り、王位継承を報告し、大物主を祀る儀式を行い、大物主一族の顔を立てたのではないでしょうか」
高木の単なる思いつきとは違って、ヒナちゃんちゃんは考え抜いていたようだ。
「なるほど。出雲國造神賀詞(かむことほぎのことば)は、その儀式を引き継いだのか。出雲国造だけが、新任の儀式として、天皇の前で神賀詞を述べたことが説明できるね。これは新しい説だね」
長老は学生の説に対しても、正しいと思うものは素直に認めるところは素晴らしい。
「10代崇神天皇、御間城(みまき)入彦の時に、大物主の磯城王朝は、入り婿のイニエ、後の崇神天皇に乗っ取られたと思います。大物主に対して行われていた出雲國造神賀詞の儀式は、その後、天皇家の権力が強力になった時代に天皇家に対して行われるようになったと思います」
ヒナちゃんはそこまで考えているのか、高木は恐ろしくなってきた。
「そうすると、ボクちゃんの三輪山での建国説はアウトね」
わざわざ念押ししなくてもいいのに、マルちゃんも人が悪い。
「大物主が三輪からここまで出向いてきたのだから、大国主―大物主同盟による建国はこの地でなされたに決まっているじゃないか」
カントクの推理の方が筋が通っているのは認めざるをえなかった。郷土愛から高木が発想すると裏目に出てしまうことが多い。
「ここまで来ると、大国主の建国の即位式は高御位(タカミクラ)山で行われた、これ以外の答えないと思うよ」
「播磨富士」と言われる美しい神那霊山を指さしながら、ヒメは断言した。
「天皇家の霊(ひ)継ぎの即位式が高御座(タカミクラ)で行われるようになったのは、大国主の高御位山での霊(ひ)継ぎの即位儀式を真似したのだと思います。天皇家の即位儀式の玉座の名前を、勝手に山の名前にしたりすると、首が飛んだと思います」
ヒナちゃんはとっくに正解に到達していたに違いない。高木は思いつきの推理を口に出してしまっことを後悔した。
「天皇家が高御座(タカミクラ)で即位式を行うようになったのはいつ頃なのかしら? それと、出雲国造が神賀詞(かむよごと)を奏上するようになった時期も知りたいわね」
ヒメの好奇心は留まるところを知らない。
「高御座は平城京の大極殿(たいごくでん)には据えられています。日本最初の大極殿は、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかみよみがはら)宮にあったとする説と藤原京にあったとする説がありますから、天武天皇の時代にはあった可能性があります」
ヒナちゃんはよどみがない。
「大極殿は中国の道教では、天皇大帝の居所を言ったはずで、天皇大帝は北極星、北辰を指していたはずだったね。中国で「天皇」と称したのは唐の第3代皇帝の高宗で、天武天皇が天皇を号を使用し始めたのは、高宗に習ったのではなかったかな?」
さすがに、長老は詳しい。
「天武天皇の死後の贈り名は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇で、真人は道教では仙人の別称とされ、八色の姓(やくさのかばね)の筆頭が『真人』です。従って、大極殿という道教的な名称は、天武天皇に始まるのではないでしょうか」
ヒナちゃんは実に幅広く調べている。
「とすると、大極殿と一緒に高御座もまた、天武天皇に始まる可能性が高くなるわよね。では、出雲國造の神賀詞はどうなの?」
マルちゃんが質問した。
「記録上は、716年、天武天皇の孫の元正天皇の時に最初に出てきます。712年に古事記ができますからその3年後、720年に完成した日本書紀ができる4年前になります」
ヒナちゃんはよどみがない。
「元にもどるけど、古事記や日本書紀には高御座や出雲國造神賀詞はでてくるの?」
高木がヒナちゃんに聞こうと思っていたことを、マルちゃんが先に質問した。
「古事記には高御座は出てきません。日本書紀では『タカミクラ』は、神武天皇のところで『宝位(タカミクラ)に臨みて』、孝徳天皇のところで『壇(タカミクラ)に昇りて即(あまつひつぎ)しろしめす』が出てきますが、天武天皇の即位では『壇場(タカミクラ)を設けて、飛鳥浄御原宮に即天位(あまつひつぎしろしめ)す』と書かれています。
この記述からみると、古事記の最後に登場する推古天皇までは、天皇家が高御座で「霊(ひ)継ぎ」の即位儀式を行うことはなかったと思われます。「霊(ひ)継ぎ」の儀式は古墳の上で行っていたのではないでしょうか。大極殿に高御座を設けるようになったのは、天武天皇からという可能性が高いと思います」
「出雲國造神賀詞は?」
「出雲國造神賀詞は古事記にも日本書紀にも出てきません。『続日本紀』に初めてでてきます」
スマートフォンを片手に、ヒナちゃんの説明にはよどみがない。調べ尽くしているようだ。
「ヒナちゃんの考えをまとめてみよう。
天武天皇は大海皇子と呼ばれ、火明命の子孫の尾張氏に繋がる大海氏に養育されていたと考えられる、播磨国風土記によれば、火明命は大国主の子で、この地に残されたとされている。スサノオ~大国主の一族の後押しを受けて権力を奪った天武天皇は、大国主のように高御座の上で即位儀式を行うとともに、大国主一族が大物主一族に対して行っていた神賀詞を、天皇家に対して行うように変更させ、出雲勢力と天皇家一族の融合を図った、ということになるかな」
長老から、いつもの指導教官口調の先輩風は完全に消えていた。
「ヒナちゃんお見事。100余国を支配した大国主に匹敵するスケールの人物は、天武天皇ということになるね」
カントクもすっかり納得の様子であった。

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
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神話探偵団89 「大国の里」は大国主・少彦名の「大国」建国の地

2010-06-12 15:46:30 | 歴史小説
石の方殿後方からみた加古川・高砂平野


「古事記には、少彦名がなくなり、『われ一人で、どうしてこの国をえて造ることができようか』と落胆する大国主の様子が描かれています。ここには、盟友を失い、落胆する英雄・大国主の姿がリアルに描かれているように思います」
ヒナちゃんのストーリーに、高木は引き込まれてしまいそうであった。
「この地が大国主と少彦名の建国の地だということが、記紀にも出ているの?」
ぼんやりとヒナちゃんの説に同調していた高木と比べて、ヒメの嗅覚は鋭い。
「この地が、大国主の建国の地だと書いたものありません。
しかし、古事記には、大国主が『いずれの神と一緒に、よくこの国を造れるだろうか』と言った時に、海を光らして、大物主が現れたとしています。
私が注目したのは、『大物主が海を光らして現れた』という表現です。私の故郷の出雲から日本海をみても海は輝いていません。琴平から瀬戸内海を見ても、博多から玄界灘をみても同じです。海がキラキラと光るのは、波が静かでさざ波が太陽を反射する瀬戸内海を北岸から見る場所に限られます。
そして瀬戸内海北岸で、大国主の建国伝説が残っているのは、唯一、この場所に限られます」
高木は伊保山山頂から加古川平野を眺め、海であった時代を想像してみたが、まさにヒナちゃんの言うとおりであった。
「大物主が東から船で午前中に現れたとすると、キラキラ光る海の中から現れた、という表現はぴったりね」
ヒメの推理小説に、ブログに投稿された俳句から被害者の足取りを追うというのがあったが、ヒナちゃんの推理もなかなかのものだ。
「前に突き止めたが、大物主はスサノオの子の大歳だから、大国主の国づくりに協力した大物主というのは、大物主5世前後ということになるのかな」
カントクが補足した。
「私の祖母の家は、町史を見ていると、秀吉の時代から、明治・昭和になっても、同じ太郎右衛門の名前が何度も出てくるのよね。代々、名前を受け継ぐ、という例は多いんじゃない」
ヒメの言うとおりで、記紀で大国主がスサノオの子とされたり、6世の孫と書かれているのは、そう考えると理解できる。
「スサノオだけでなく、大物主や大山祇神、伊和大神など、登場する時代が合わない王達は、初代なのか何代目なのか、考えてみる必要があるわよね」
マルちゃんが補足した。
「播磨国風土記によれば、大国主は姫路に子どもの火明命を残したという有名な話があります。
それだけでなく、古事記には大国主が宗像の奥津宮の多紀理毘売を妻とし、アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)を産んだとされていますが、播磨国風土記によれば、多紀理毘売は印南の北の賀毛郡(かものこおり)のすぐ北の託賀郡(たかのこおり)、今の西脇市で子どもを産んだとし、そのすぐ西の神前郡(かむさきのこおり)、アジスキタカヒコネは神宮を置いたとされています。この迦毛大御神は葛城の高鴨神社、京都の賀茂大社(上賀茂神社・下賀茂神社)に祭られていますが、元々、この地の神であったことを伝えています」
葛城市生まれの高木にとって、これは思いもかけない話であった。高鴨神社はすぐ南の御所市にあるが、全国の賀茂神社の総本社である。高木も、この播磨が大国主の建国の地であったと思えるようになってきた。
「播磨国風土記の成立は713~715年の間、古事記は712年。ほぼ同時期に作成されている。ここで、宗像と播磨、葛城が繋がるとは考えてもみなかったよ。気付かなかったなあ」
長老から先輩風は完全に消えていた。
「まだちゃんと調べられていないんですけど、播磨国風土記は、国守の巨勢邑治・大石王・石川君子が編纂のトップとされています。この大石王は皇族と思われますが、播磨国風土記に出てくる国司の上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)との関係が気になります」
ヒナちゃんの推理はどこまで進むのか、高木には想像もできなかった。


資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
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神話探偵団88 方殿はなぜ後ろに倒した状態で造られたか

2010-06-04 09:09:51 | 歴史小説
石の方殿を立て起こす方法


「素晴らしい。第1の謎は解けた。では、後ろに倒した形で造ってから起こす、ということはどう推理するかな」
カントクは、若者を褒める時には、つけ込んでくる。
「この伊保山全体がこの地域の人々の祖先霊が宿る磐座(イワクラ)だとすると、そこから方殿を切り出してそのまま使うということは、死者の霊(ひ)と方殿が繋がることになります。
生きている大国主と少彦名が、この磐座の一部を分けて頂き、地上の王として即位する方殿を造り上げるためには、巨石を磐座から切り離す必要があったと思います」
ヒナちゃんの推理は完璧であった。
「最初から立てた状態で造れなかったのかな」
「立てたままで方殿を底の部分で切り離すことは難しいと思います。後ろに倒した状態で加工し、最後に前に起こす、という方法にしたのではないでしょうか?」
「なるほど、筋が通った説明だな」
「それと、益田岩船のように、あらかじめ、上部に2つ部屋をくり抜いていないのも、前に倒すことを想定している証拠と思います。益田岩船の場合は、固い花崗岩なので、予め2室をくり抜いていても、倒す時に岩が割れる心配がなく、かえって、重量が軽減されるので起こしやすくなります。
ところが、石の方殿の方は、火山灰が固まった柔らかい凝灰岩なので、あらかじめ2室を設けておくと、起こした時の衝撃で割れる可能性があります。そこで、立てた後に、前面に2室を彫る予定であったと思います」
ヒナちゃんはすでに論文を書いているのかも知れない。結論まで、見通しているようであった。
「先ほど生石神社で頂いた社伝には、『神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとした』と書かれているけど、この言い伝えは、当時から伝わった可能性が高いわね。私達は、益田岩船を知っているから、前に2室を設ける予定であったことが推理できたけど、昔の人は益田岩船に2室が彫られていた、ということなんて知らないものね」
マルちゃんは、石の宝殿=益田岩船説にすっかりはまっている。
「方殿の下部に材木をかませて後ろに倒れるのを防ぎ、前に掘り進み、最後にクサビを打って岩盤から切り離し、太い綱で前方に引っ張り、方殿全体を前に90度回転させて建てるつもりだったようだな」
セットづくりがお手のもののカントクの中では、工事をしている人々の絵コンテが出来上がったようだ。
「方殿の両側の岩盤を残したのは、足場を組む代わりだったのかもね」
建築学科を出ているマルちゃんが助け船を出した。
「今でも迫力があるんだから、もし完成していたら、すごいモニュメントになったに違いないわね。人々は、どうして造ったのか、度肝を抜かれたんじゃない。」
ヒメは小説の場面を頭の中で描いているようであった。
「岩を加工するとなると、ノミやハンマー、楔などの鉄器を持った集団ということになる。それは、鉄の産地の新羅に交易にでかけたというスサノオに続く出雲勢力しか考えられないなあ。鉄器を支配し、多くの人々を動員して神々の霊(ひ)の宿る竜山から巨石を切り出し、人々の力で立ち上げて前に倒して起こす、というのは、建国の儀式としては見事な演出だ」
慎重な長老が断定的に言うのは、よほどのことである。
「地上の四方を支配する建国王が、天から天之御中主神から続く祖先の霊(ひ)を受け継ぐ『受け霊(ひ)』の建国儀式を行おうとしたんだな」
カントク得意の宗教論だ。
「そんな力を持った大国主と少彦名が、途中で建造を中止することってあるかしら?」
ヒメの質問は当然だ。
「伝承では、阿賀の神が反乱したため、大国主達が建造を諦めた、となっています。
そのような可能性も考えられますが、ちょっと弱いと思います。私は国づくりの同志であった少彦名が亡くなったため、大国主は建造を止めた、と考えています」
ヒナちゃんの説明にはよどみがない。最後まで、ストーリーは出来上がっているようだ。
「そうだね。播磨の人々の一部が反乱したからと言って、大国主と少彦名が怯んだ、というのは両神を矮小化しているね」
カントクはやはり女性にはやさしい。


資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
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