ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

新型コロナのため、しばらく休止します。

2020-04-26 17:09:46 | 古代史
みなさまへ
 私は新型コロナウィルスによる戒厳令的な「外出・営業抑制」に対し、3月下旬の海外旅行者・帰国就業者留学生の感染の発症のピークは4月11日をピークに約6日周期で減少しており、緊急事態宣言など必要なく、「クール」で賢い日本型の対策でいい、と主張してフェイスブックを書き続けてきました。
 そんなわけで、古代史ブログはしばらく休止させていただきます。
 なお、もしその原稿をご希望であれば、フェイスブックのメッセンジャーか、あるいは、このブログでご連絡下さい。 雛元昌弘


神話探偵団133 「大国主王墓」を捜す 

2020-04-16 06:02:02 | スサノオ・大国主建国論
 2016年11月に、出雲市在住・ゆかりの菊池孝介・石飛仁氏ら4氏に御案内いただき、「梁山泊」の合計9名が2泊3日の「出雲神在月忘年旅行」に行ったときに「『大国主王墓』想定地メモ」を作成しましたが、その表を分解してこのメモとしました。 
 「邪馬台国はどこか」「卑弥呼の墓はどこか」については多くの人の関心が深く、天皇陵についても発掘を求める声が考古学者から出ているにも関わらず、不思議なことに、古事記が記した豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国の「大国主の墓はどこか」や、桓武天皇第2皇子の第一流の文人の52代嵯峨天皇が「皇国の本主」とし、ヤマタノオロチ退治で有名な「スサノオの墓がどこか」については誰も追究しようとはしていません。「皇国の本主」の建国王の解明を恐れ、神話として空想の世界に閉じ込めてきたのです。日本の考古学は150年近く前の1873~7年のシュリーマンのトロイア以前の水準といえます。
 スサノオ・大国主建国論をテーマにしている私にとっては、避けて通ることのない課題です。
 私はこの「出雲神在月忘年旅行」では、以前、京大建築学科同級生の馬庭稔さんに案内していただいた時から考え続けてきた「スサノオ・大国主の墓はどこか?」をさらに追究したいと考えました。
 現地を訪ね大国主の墓地については一定の結論に到達することができましたので、紹介いたします。
 今後は地元、出雲の皆さんによって、「八百万神信仰」の世界遺産登録を目標に置きながら、スサノオ・大国主建国の証拠を見つけ出していただきたいと期待しています。
 世界に出かける日本人が「無宗教・自然宗教の未開人・野蛮人」として軽蔑されないためには、スサノオ・大国主建国と大国主の「霊(ひ)信仰・霊継(ひつぎ)信仰」(すべての命を大事にする八百万神信仰)を世界にアピールする必要があると考えます。雛元昌弘

大国主王墓候補地A 日御碕沖の水底
<想定の根拠>
① 出雲大社の神使は「海蛇」であり、海人(あま)族の霊(ひ)の国は海底にあると見られる。
② 出雲大社建設では海底の赤土や海布をとって祀りを行うなど海人族の儀式が行われている。
③ 大国主の子の事代主が「天の逆手を打ち成らして隠れた」先の「青柴垣」は海中である。
④ 柿本人麿の妻・依羅娘子(よさみのおとめ)の歌「今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも」は、出雲族の霊(ひ)が水底に帰ることを示している。
⑤ 鳥取・用瀬などの流し雛(雛流し)、長崎・熊本等の精霊流し、各地の灯籠流しは、霊(ひ)を海に帰す儀式である。
<結論>
 日御碕神社の神の宮はスサノオを祀り、隠ヶ丘もスサノオ伝説であり、大国主伝承がなく、可能性は低い。

大国主王墓候補地B 出雲大社背後の禁足地
<想定の根拠>
① 大国主は「天御巣=天の御舎」(出雲大社)を建てて住所とし、その子の百八十神は毎年、神在月に集まって大国主を祀ったのであるから、スサノオ時代の「地神(地母神)信仰」から「天神信仰」への宗教改革を行っており、出雲大社の後背地の神奈火山(神那霊山)に葬られ、その霊(ひ)はそこから天に昇った可能性が高い。
② 少彦名の死後、大物主との国づくりの条件が大物主大神を御諸山(美和山)の上に拝し奉ることであり、天神信仰は新宗教として確立していたと考えられる。
③ 高砂市の石の宝殿・高御位山の「大国主の建国・日本中心伝説」と、天皇王位継承が「高御座(たかみくら)」での「日継ぎ」(霊継ぎ)であることからみて、大国主は「天神信仰」の開始者である。
<結論>
 出雲大社背後の八雲山は禁足地となっており、大国主応募の可能性はある。しかしながら、縁結びなどの神議り(かみはかり)の後に、王達が別れの「直会:なおらい(神との共食)」を斐伊川上流の万九千(まくせ)神社で行っていることからみて、大国主王墓はその近くの可能性がより高い。

大国主王墓候補地C 西谷墳墓群付近
<想定の根拠>
① 出雲大社から上流の斐伊川左岸(西岸)の西谷墳墓群(西谷=祭谷)には2世紀末~3世紀の大国主一族の墓地がある。
② 王達が別れの「直会」を斐伊川右岸(東岸)の万九千神社で行っていることからみて、斐伊川対岸の西谷の丘陵地にある祖先墓に詣って別れを告げた可能性がある。大国主の墓のありかを隠すために、対岸に万九千神社を置いたと考えられる。
③ 1世紀の大国主の時代にはまだ大きな四隅突出型古墳を作る段階ではなく、西谷丘陵地のどこかにより小さな墓として築かれた可能性がある。
<結論>
 供え物を神と共にいただく直会で、万九千神社が斐伊川左岸(西岸)に西谷にないのは疑問であり、可能性は低い。

大国主王墓候補地D 神庭の地
<想定の根拠>
① 万九千神社が斐伊川の右岸(東岸)にあることからみて、大国主王墓は右岸側にあった可能性が高い。
② 『出雲国風土記』の「神代(かむしろ)社」が、「万九千社」にあたると伝えられていることからみて、元は神庭の神代神社の場所にあった可能性がある。
③ 大国主時代の出雲の中心は稲作と政治・軍事の中心は斐伊川右岸の可能性が高い。
④ 神庭の神代神社は「神庭荒神谷遺跡(神庭西谷)」の東、「大黒山」の北麓にあり、この山を越えた南側に「加茂岩倉遺跡(神財郷=神原郷)」があることからみて、大国主の政治的な本拠地はこのあたりにあった可能性が高い。
⑤ 東15~20kmにはスサノオを祀る「須賀神社」「熊野大社」がある。
<結論>
 出雲大社から斐伊川の万九千神社の現在の位置、万九千神社での直会儀式、元の「神代(かむしろ)社」の位置、神庭の地名、大黒山(大国山)の山名、神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡への銅槍・銅鉾・銅鐸の集積、大国主が神財を置いたという神原郷の伝承から見て、大国主王墓の最有力候補地である。

神話探偵団132-2 播磨国風土記からみたスサノオ・大国主の国づくり―槍と鋤、丹と鉄の国づくり

2020-04-13 14:56:45 | スサノオ・大国主建国論

 2015年9月に書いた「播磨国風土記からみたスサノオ・大国主の国づくり―矛(槍)と鋤、丹と鉄の国づくり」をもとに、一部、加筆修正しました。
 私は古事記・日本書紀・播磨国風土記・出雲国風土記を4点セットで分析し、それに魏書東夷伝倭人条・後漢書・新唐書・三国史記新羅本紀を合わせて分析すれば、紀元1~4世紀の古代史は完全に解明できる、と考えています。
 「播磨国風土記を読まずして、出雲を語るなかれ」「播磨国風土記を読まずして、古事記・出雲国風土記を語るなかれ」というのが本稿です。雛元昌弘
 
はじめに:神と人、合理と不合理、部分と全体
 昔話で恐縮であるが、学生時代に井上光貞氏の『日本国家の起源』(岩波新書)を友達から「歴史の教養書」と勧められて読んだが、裏表紙のメモでは1967年のことである。



 そこには「この日本神話は、津田左右吉氏が見事に分析したように、皇室がどうしてこの国土を統治するのか、その由来を説明しようとした政治的な神話であって、おそらく6世紀の宮廷でできたものであろう」「はじめから神々の世界のこととして意識されていたのであって、人の世の話として伝え、記したのではない。したがって日本神話は、国家観念の形成過程を知るためには最も大事な材料ではあるが、国土統一の史的過程をたどるという主旨からいえば、はじめから問題の外においてよいであろう」(アンダーラインは当時)と書かれていた。古事記を読むまでは、私はこの主張を信じ込んでいた。
 津田氏は「神代史研究の方法論」において、「神代の種々の物語には我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多い」「神は神であって人ではなく、神代は神代であって人の代ではない」(岩波書店『』)と述べ、「神」=「神代」(神々の世界)=「不合理的な話」=創作、「人」=「人の代」(人の世)=「合理的な話」=史実という単純な二分法で古代を見ていることが明らかである。
 このような判断基準は、真実追究の方法として正しいであろうか? 今の私は「否」である。
 そもそも、この国では死ぬと誰もが神(鬼)となり、その子孫によって祀られ、偉大な王は、「大神」として多くの人々に祀られた。仏教が国教とされて広まると、死ぬと仏になることになったが、神になるという宗教思想が消えたわけでない。神=仏であったのである。
 私が幼児の頃であるが、真面目な真宗門徒の祖母に手を引かれてお盆にお墓参りに連れていかれ、続いてご先祖が建てたという加茂神社に連れて行かれたことがある。ここに祖先が祀ってあると言われて拝まされて、幼い私は混乱をきたしてしまった。「ご先祖はお墓にいるのか、神社にいるのか、どっちにいるのか」と祖母に質問し、それはしばらくの間、実家で語りぐさになった。大人達は幼児の疑問を解く答えを与えることができなかった。整理して考えたこともなかったのである。
 家には2つの祭壇(神棚と仏壇)があり、各集落にも「神社とお寺」という2つの神殿があった。人は死ぬと神や仏になり、人が産まれると神社に報告に行き、死ぬとお寺のお世話になった。最近では、結婚式はキリスト教に任せ、教会で行う人も増えている。七福神信仰では、インドのヒンドゥー教や中国の道教や仏教の神々もみんな信仰の対象として平気で拝んでしまうのである。
 この現代にまで続く「多神」「多仏」教の民族的伝統に照らせば、「神は神であって人ではない」というユダヤ・キリスト・イスラム教的な一神教の「神」概念で古事記を見ることがそもそも間違っている。我が国では、人は死ぬと神・仏になるのであり、人と神・仏の間には断絶がない。この宗教思想と宗教言語からみれば、古事記に登場する神々は生きて活躍している時には全て人であり、人の歴史が書かれているのである。
 また、もし中国で学んだ学者達が6世紀に日本神話を創作したのなら、中国の歴史書を手本にして、「合理的」で矛盾のない物語として古事記を創作したであろう。非合理な話が書かれていたとするなら、それは不合理な伝承を事実としてそのまま記したか、敢えて、後世の人々へのメッセージとして残したとみなければならない。真実を書くと危険な時には、荒唐無稽と思われる物語として残せば疑われることも削除される心配もないのである。「合理的」=真実、「非合理的」=虚偽とするのはあまりにも古代知識人を見くびった見方であろう。
 例えば、キリストや中世の弘法大師の奇跡の数々の伝承が非合理であるからと言って、「キリストや弘法大師はいなかった」「キリストや弘法大師は神話上の人物」などと言う人がいるであろうか。荒唐無稽と思われたギリシア神話からシュリーマンが「トロイア遺跡」を発見していることに学ぶならば、奇跡談や神話的表現(宗教思想)の中から真実の発見を試みるべきであろう。
 さらに「日本神話には××などの空想が見られる。そのような神話全体は信用できない」という「毒ジュース論」はいかがなものであろうか? 神話に空想的な部分があるからといって、神話全体が空想である、という証明は出来ていない。毒の混じったリンゴジュースは全部捨てなければならないが、一部が腐ったリンゴならその部分だけを切って捨てればよい。
 私は、アマテラス神話や国譲り神話のうちのごくごく一部分を除き、古事記神話の大部分は真実の歴史を伝えている、と考えている。
 そして、一見すると不合理に見える部分にこそ、古代知識人が後世に伝えたいと願った真実を説く鍵(暗号)が潜まされていると考える。腐っていると思われた非合理的な部分こそが、実は、もっとも熟した美味しい部分の可能性があり、食べてみるべきなのである。盥水(不合理記述)とともに、赤子(真実)を流してはならない。

1.「つまみ食い史観」から科学的・総合的な真偽判断へ
 最近の大和中心主義者の主張を見ると、古事記分析について、井上光貞氏や津田左右吉氏が目をまわしそうな奇っ怪な方法論が目に付く。
 それは、「記紀の神代編全体は創作であるが、ところどころに真実が含まれている」という方法論である。「全体は毒ジュースだが、ほんの一部分だけは飲める」というのである。
 例えば、9代までの天皇の実在性を否定しながら、その皇女のヤマトトトヒモモソ媛は実在し、箸墓に葬られているとしている。おまけに、ヤマトトトヒモモソ媛を卑弥呼とし、さらにはアマテラスに比定する空想までみられる。このあっぱれなオウンゴールには大喝采を送らざるをえない。「アマテラス=ヤマトトトヒモモソ媛=卑弥呼」と主張するなら、これらの考古学者・歴史学者全員は古事記の神代編と9代までの天皇の記述は全て真実であり、ほとんどの登場人物は実在の歴史上の人物と公認しなければならないからである。
 スサノオ・大国主による建国神話やアマテラスへの国譲りなど全体を歴史的な出来事とし、古代史全体を再構築しなければならない。
 そのような全体的・根本的な作業を行わず、「ヤマトトトヒモモソ媛とアマテラスだけのつまみ食い」を行うようでは、真実に到達することなど到底できない。
 では、真実と虚偽が入り交じった史書から、どのような基準で、真実と虚偽の部分をより分け、分離することができるのであろうか?
 裁判における真実性の判断基準を参考にすると、最低、次のような方法での検討が求められる。
 ① 古事記と他の文献(日本書紀や風土記、万葉集、魏書東夷伝倭人条など)、神社伝承などの合致
 ② 古事記と遺跡・遺物の合致
 ③ 古事記の登場人物の行動動機の合理性
 ④ 登場人物の行動が経験則(物理的、行動心理的)に合致
 ⑤ 細部描写の具体性や体験者でないと表現できない記述(「秘密の暴露」)
 ⑥ 天皇家にとっての不利益事実の記載
 ⑦ 不合理説話についての合理的な解釈
 ⑧ 後世創作の可能性についての合理的な説明
 ⑨ 全体的・総合的な整合性
 「アマテラス=ヤマトトトヒモモソ媛=卑弥呼」とするなら、古事記や出雲国風土記などの全体について、このような明確な方法論に基づく、科学的な「全体的・合理的」な分析が求められる。

2.「古事記」と青銅器が伝えるスサノオ・大国主の国づくり
 古事記で一番肝心な「イヤナギ・イヤナミ(伊邪那伎・伊邪那美)の国生み神話・神生み神話」が出雲国風土記に出てこないことや、出雲に目立った遺跡・遺物がなかったことから、これまで、出雲国風土記が真実で、古事記に書かれた出雲神話は8世紀の創作であるとする説がまかり通ってきた。
 ところが1983年に荒神谷遺跡から358本の銅剣(筆者説は銅槍)と銅矛16本、銅鐸6個が発見され、さらに1996年に3.4km離れた加茂岩倉遺跡から銅鐸39個がいずれも農道工事中に偶然に発見されたことは、このような出雲観を根本から覆すものであった。358本の銅槍はそれ以前に発見された全銅槍300本を上回り、銅鐸39個は1か所では日本一であり、全銅鐸の7.3%を占めていた。九州から中四国、近畿、北陸、東海にかけての銅矛・銅槍圏と銅鐸圏の中心が出雲で統合されていたことが証明されたのである。
 古事記によれば、この国は、イヤナギが「鉾」で海をかき混ぜ、滴り落ちた塩が固まってできたとされ、大国主神の別名は「八千鉾神」である。鉾(槍)から国が生まれ、その国の支配者となった大国主は多くの「矛(槍)」を持つ王という名前を持った。金属器による建国神話であるが、その中心が大和ではなく出雲であることがはっきりと物証で裏付けられたのである。
 さらに古事記は、大国主は少彦名とともに国づくりを進めたが、少彦名が亡くなったあと、大和の美和(三輪)の大物主命(スサノオの子の大年の一族)と協力して国造りを行ったという2段階の建国を伝えている。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、大国主・少彦名の銅槍・銅矛圏(これまで考古学者達は銅槍を銅剣と見誤ってきた)と大物主一族の銅鐸圏が統一されたことを示しており、この古事記の記述を裏付けている。

大国主・大物主連合による銅槍・銅鐸圏の統一



 私は『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院)において、この「スサノオ~大国主」7代こそが魏書東夷伝倭人条に書かれた「旧百余国」「その国、もとまた男王をもって王となし、住(とど)まること七八十年」の国王であることを、古事記・新唐書の記載と歴代天皇の在位年の最小二乗法による統計的解析(1代は約10年)から明らかにした。

「神話時代32代」からの古代王の即位年の推計



 スサノオは『後漢書』に「建武中元二年(注:紀元57年)倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」と記された「印綬」(金印)を与えられた「漢倭奴(いな、ひな)國王」であり、107年に後漢に使いを出した倭国王「師升(すいしょう)」は、スサノオ5代目の「淤美豆奴(おみずぬ)神(出雲国風土記では八束水臣津野(やつかみずおみずの)命)」であり、7代目の大国主が退位した後、桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)に「倭国の大乱」(後漢書)になり、「相攻伐すること暦年」の後、238年頃に筑紫の30国を卑弥呼(大国主11代目の筑紫の女王)が統一した、ということを私は初めて明らかにした。
 その詳しい証明はここでは省略するが、①古事記に書かれたスサノオ・大国主一族の建国伝承、②魏書東夷伝倭人条の記載、③後漢書の記載、④天皇の在位年数の統計的分析、⑤古事記記載の始祖神「別天神」が出雲大社正面に祀られていること、⑥母系制の縄文時代から続く妻問い婚と古事記の「島の崎崎」「磯の崎」に「若草の妻」を持ち、180人の御子をもうけたという大国主の記述、⑦現代にまで続く霊(ひ:祖先霊)信仰、⑧銅槍・銅鐸の分布、⑨出雲大社での縁結びの伝承、⑩スサノオ・大国主一族の神々が全国各地の神社に祀られていること、などで裏付けられるのである。
 その建国は、「武力統一史観」「征服王朝史観」ではとうてい理解できないものであり、縄文の母系制社会の妻問い婚の伝統と、海洋交易民の海人族の米鉄交易による新たな生産・流通体制の支配という、スサノオ・大国主一族の独創的な古代国家建国モデルへの想像力と総合的な解析力が必要である。

3.「古事記」対「出雲国風土記」―どちらが真実を伝えているか?
 古事記のスサノオ・大国主による建国史を認めたくない大和中心史観=邪馬台国畿内説の歴史学者たちは、スサノオ・大国主の国づくりは出雲国の範囲内に限られ、その伝承を国土全体に広げて8世紀に古事記の建国神話が創作された、という奇怪なフィクションをつくりだした。「出雲国風土記=真実、古事記神話=創作」として、出雲の範囲外のスサノオ・大国主の建国神話は全て無視したのである。
 邪馬台国畿内説に固執し、天皇家建国説に立つ大和中心史観にとって、「大和神話」のかけらも登場しない古事記神話は後世の創作として抹殺する以外にないのである。スサノオ・大国主の建国神話も、それを大前提とした大国主の国譲り神話も認めるわけにはいかない。国譲り神話を認めるとスサノオ・大国主建国神話を認めなければならないから、「国譲り神話は出雲国の東西勢力の対立」とし、それをもとに大国主のアマテラスへの国譲り神話が創作された、という新たなフィクションを作り上げた。
残念なことに、出雲の地においても、この大和中心史観の信奉者は多いようである。
 この偏狭な「出雲国風土記は真実、古事記の出雲神話は創作」とする大和中心史観を根底から覆すのが、播磨国風土記である。
私は『季刊 日本主義』26号(140625)の「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観の虚構』」において、スサノオ・大国主一族が海洋交易を行う「海人(あま)族」であり、米鉄交易を通して鉄器稲作革命を進め、黄泉がえり宗教から昇天降地宗教への宗教革命を行ったことを明らかにした。「播磨国風土記を読まずして、出雲を語るなかれ」「播磨国風土記を読まずして、古事記・出雲国風土記を語るなかれ」である。
 この播磨国風土記が出雲国風土記よりも資料的価値が高いのは、古事記が712年に献上された後、播磨国風土記は713年に編纂が命じられて715年頃に完成しており、720年成立の日本書紀や733年完成の出雲国風土記よりも成立が古いからである。天皇家において古事記が隠されて日本書紀が正史とされ、三条西家に伝えられた播磨国風土記が江戸時代後期の1796年まで日の目を見なかったことは、古事記・播磨国風土記こそが、この国の本来の歴史を正確に伝える一級資料の可能性が高いことを示している。
 出雲国風土記は正史である日本書紀を参考にしながら作成されていることが明らかであり、大和朝廷の意向をより強く受けた2次資料とみなければならない。
 一例をあげよう。イヤナギ(伊邪那伎)が亡くなったイヤナミ(伊邪那美)を黄泉の国に訪ね、逃げ帰ったという場所を古事記は「黄泉比良坂」とし、「今、出雲国の伊賦夜坂という」としているが、出雲国風土記には「揖屋神社」は登場するものの、肝心の古事記に書かれたイヤナギ・イヤナミの国生み神話や神生み神話や、黄泉の国訪問と逃げ帰り神話を載せていない。
 なぜであろうか? 1つの解釈は、古事記の創作説である。しかしながら、もし古事記作者が創作したのなら、この重要な国生み神話・神生み神話の舞台を出雲にする必要はない。創作するなら、大和を舞台にし、朝鮮神話を倣って天皇家の始祖は天から天香具山に降臨した、という国生み神話にしたであろう。
 さらに古事記は、イヤナギは黄泉の国の汚垢(よごれたあか)をはらうために「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊ぎを行い、その汚垢からアマテラスと月読命とスサノオが生まれたとしているが、スサノオが死の国の汚れを付けたまま出雲から筑紫まで行き、禊ぎを行ったというのはそもそも日本人の宗教観からみてありえない。魏書東夷伝倭人条には「葬れば、家を挙げて水中に詣でて澡浴し」と書かれ、今も葬式から帰ると家の前で塩をまく。清めはすぐに行い、日常生活にケガレが及ばないようにしなければならないからである。
 スサノオが「僕は妣(ひ=はは)の国、根の堅州国にまからむと欲ふ」「僕は妣(ひ=はは)の国に往かむと欲いて哭(な)くなり」と述べたと2度も古事記に書かれていることからみると、スサノオは出雲の母方の一族のもとで生まれ育ったことが明らかであり、イヤナギが禊ぎを行い、スサノオが生まれた神話のもともとの場所は揖屋神社の前を流れていた意宇川(今は流れが変えられている)としか考えられない。
 その場所が遠い筑紫に移動させられたのは、出雲のイヤナギ・イヤナミ・スサノオ伝承と、筑紫のアマテラス伝承を合体させ、異母兄のスサノオを異母妹アマテラスの弟とするためであったと私は考える。
 もし、古事記が8世紀の創作なら、イヤナギが禊ぎを行い、スサノオ・アマテラスが誕生した場所は大和か出雲にしたであろう。そうせずに、出雲からイヤナギを筑紫にワープさせたのは、古事記の作者が出雲のスサノオ伝承と筑紫のアマテラス伝承を合体させたことを後世に伝えたいと考え、真実にたどり着く手がかり(暗号)を残した、と私は考える。
 古事記が大国主をスサノオ7代とし、7代の王の名前と婚姻相手を載せながら、一方では、スサノオの娘と結婚したとしているのは、スサノオの名前が代々襲名されていたことを示すとともに、アマテラスをスサノオの姉とした部分が創作であり、アマテラスと大国主が同時代の人物ではないことを敢えて書き残したとしか考えられない。
 これら一見すると不合理な記述をとらえて古事記は創作である、と決めつけるのは、古代知識人をあなどった迷推理と言わざるをえない。古代知識人に尊敬心を持てなくて、古事記を読み解くことなどできるであろうか?

4.「葦原中国」は全国に及ぶ
 古事記は、大国主が自ら支配する「葦原中国」をアマテラスの子のホヒ・ヒナトリ親子に国譲りしたとしている。
 この「葦原中国」を、大和中心主義者は出雲1国としているが、古事記の記載は全国に及んでいる。
古事記を読めば、大国主一族の活動範囲が、出雲、越、筑紫、津島、伯耆、美濃、信濃、遠江、武蔵、下総などに及ぶことは誰しもが認めざるをえないであろう。また、大国主は大物主(スサノオの子の大年一族:記紀によれば、代々、大物主を名乗っていたことが明らかである)と協力して国づくりを行ったというのであるから、大物主の勢力圏の大和・吉備・讃岐・紀伊・東海もその勢力圏に入る。さらに、「葦原中国」に天下ったニニギは、筑紫から薩摩半島の笠沙にかけての「葦原中国」を南下している。アマテラスとスサノオの「ウケヒ」(受け霊)によって生まれたとされる3女神は「葦原中国の宇佐嶋に天降り居さしむ。今、海の北道の中に在す」のであるから、宇佐(豊前)から筑紫国の宗像、沖の島、対馬、朝鮮半島に続く「海の北道」もまた「葦原中国」に含まれる。
 さらに、播磨国風土記や伊予国風土記逸文、土佐国風土記逸文にも大国主の伝承が見られるから、播磨や伊予、土佐も「葦原中国」に入る。
 このように古事記や各国の風土記をそのまま読めば、九州から中四国・近畿・東海・北陸・関東にかけての全体が「葦原中国」である。そして、これを裏付けるように、各地に方墳や前方後方墳が点在し、スサノオ・大国主一族の祖先霊を祀る由緒ある神社が一宮あるいは二宮などとしてこれらの各地に存在する。
 スサノオ・大国主一族の国づくりを出雲一国内に封じ込めようとする大和中心史観には何らの根拠がない。大和中心主義者たちによる、「第2の国譲り」(スサノオ・大国主建国史の抹殺)を私は認めるわけにはいかない。

5.「石器―土器―金属器」の時代区分を世界へ
 これまで、稲作は朝鮮半島あるいは中国の江南地方からきた弥生人が広め、縄文人を支配していったという「弥生人稲作説」の「弥生人征服史観」が通用してきた。
 しかしながら、諸説が入り交じっているものの、岡山市の朝寝鼻貝塚からは約6000年前の地層からはイネのプラントオパールがみつかり、彦崎貝塚からは約6000年前の地層から大量のイネやキビ、ヒエ、小麦などのプラントオパールが見つかっている。さらに、南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかり、熊本県本渡市の大矢遺跡からは約5~4000年前の土器に稲もみの圧痕が確認されている。そして佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは約2600年前の水田跡が発見されており、陸稲・雑穀栽培から水稲栽培への展開がこの頃に始まったことを示している。
 「弥生人」「弥生式土器」「稲作」は時代的にみてそもそも相関関係がなく、ましてや、「稲作が弥生式土器を生み出した」「弥生式土器の発明が稲作を普及させた」というような因果関係は証明されていない。

岡山市津島の朝寝鼻貝塚
―約6000年前の地層から稲の細胞化石・プラントオパールが検出―



 縄文時代―弥生時代―古墳時代というガラパゴス的な「ドキドキバカ」時代区分が無意味になったことは、合理的精神の持ち主には明確であろう。そして「遅れた縄文人、進んだ弥生人(中国人や朝鮮人)」などという拝外主義史観がもはや通用しないこともまた明らかである。
 では、西欧世界で通用している石器時代―鉄器時代という文明区分が正しいかというと、日本の縄文文化の研究が進んだ現在、これまたもう1つの拝外主義史観、という以外にない。
 私は『季刊 日本主義』26号において、「槍」や「弓矢」などの武器の分析から石器―金属器の文明区分を論じたが、この段階では縄文文化についての考察が不十分であった。今は、石器―土器―金属器という文明発展説を世界に提案したいと考えている(『季刊 日本主義』31号「北東北縄文遺跡群に見る地母神信仰と霊信仰―大湯環状列石と三内丸山遺跡を訪ねて」参照)。

3つの時代区分



 石器―金属器の文明区分は、猿が人になり、国を作るまでの発展を、武器を尺度にした、狩りと征服戦争の道具で時代区分を行う「肉食史観」「征服史観」の文明発展モデルである。これに対して、私は縄文人が「土器で穀実・野菜・魚貝類を煮て食べた文明」を持っていたことに注目し、石器―土器―金属器(武器ではなく鋤)の文明発展史観にたどり着いた。
 猿が人間になったのは槍を手にし、肉食で頭脳が発達し、野獣や他の類人猿、ヒト族との生存競争に勝ったという「肉食史観」「征服史観」や、これにさらに悪のりした「縄文人マンモスハンター説」まで見られるが、それらは古い1つの仮説でしかない。肉食恐竜やヒト族が「死肉あさり(スカベンジャー)」であり、ネアンデルタール人が穀類を食べていたことが明らかにされ、ネアンデルタール人は撲滅されたのではなく遅れてきたヨーロッパに来た多数の人々との婚姻により消えてしまった、という説が出されている現在、「肉食進化論」「征服史観」は見直されなければならない。
 猿から類人猿、ヒト族、縄文人の食生活の連続性を考えると、「土器の発明による芋豆穀実・野菜・魚貝類の煮炊き文明」こそが、食料の安定化と衛生面での健康長寿化をもたらし、祖父母・父母から子どもへのコミュニケーション・教育時間や創作活動時間の増大をもたらし、頭脳の発達を促したと私は考える。あの見事な芸術的な縄文土器や硬玉の曲玉などの装飾品の創作は、豊かな食料の確保による余剰時間がないと作れない。不安定で危険な狩りや死肉あさりによる肉食では実現できず、豊かで安定した芋豆穀実・野菜・魚貝類食の煮炊き文化で実現できたものである。腐った肉食による食中毒や脂肪過多の成人病、焦げた肉によるがん死などのリスクと比べて、今、和食が世界中で健康食と認められていることを見ても、芋豆穀実・野菜・魚貝類の煮炊き文化こそが健康長寿化による人類の知能発展を促したことは明白である。
 また、芋豆穀実栽培は、季節・気象・栽培法・道具などの知識・技術の伝承が必要であり、言語コミュニケーションを活発にし、頭脳の発達を促したに違いない。
肉を食べて猿から人になった、などという珍説は、肉食の動物の方が頭がいい、ということを証明しなければ成立しない。頭脳の働きには糖質が不可欠なのである。

記紀・琉球伝承・中国歴史書に見られる五穀



 旧石器から新石器への移行は、必要に駆られての道具の進化というより、土器の発明による食料の安定化による余剰時間の増大によって石器加工の技術レベルがあがった、とみるべきである。石器から金属器への転換は、狩りや戦争のための道具の改善というより、穀類生産のための鋤(土木と農耕の道具)と舟・住宅を作る木工具の発明によって、生産力と広域交易、定住環境の飛躍的な改善を促し、大河のほとりに4大文明(揚子江流域などを含めるとさらに増える)を生み出し、ギリシアや日本など、その周辺に自立した海洋交易文明を生み出した、と私は考える。
 中国・欧米文化の導入者であり、拝外主義的傾向の強いわが国の知識人は、海洋交易民族であるわが国の独自の自立的発展など想像もできず、「弥生人による遅れた縄文人征服説」や「中国・朝鮮の騎馬民族征服説」などの被征服史観に陥ってきたが、あこがれの中国・欧米モデルの歴史の輸入・当てはめに汲々とするのではなく、この国の自律的・自主的・主体的な歴史に注目しなければならない。
 私は土器時代(縄文時代)から金属器時代への転換は、大国主の「五百つ鉏(すき)々なお所取らして天の下所造らしし大穴持命」(出雲国風土記)という呼称や「八千矛神」(古事記)の別称、その子の「阿遅鉏(すき)高日子根神」(古事記)の名前などからみて、スサノオ・大国主一族が鉄を刃先に付けた「鋤(すき)革命」を行い、水利稲作革命を主導し、さらには付加価値の高い絹織物やヒスイ加工品の生産と国際交易を通し、豊かな経済基盤を作り出した、という全体像を見るべきと考える。
 なお、大和中心史観が金属器時代を認めず、旧石器-縄文-弥生-古墳時代という「石・土時代区分」に固執する理由ははっきりしている。金属器を時代区分に用いると、筑紫や出雲が先進地となり、大和中心史観は成立しないからである。
 「土器(縄文)文化」を低く見、金属器時代を隠蔽する「ドキドキバカ」ガラパゴス史観から脱却し、「石器―土器―金属器」の時代区分を世界へ提案したい。なお、わが国では青銅器は神器・威信財、実用は鉄器であり、「石器―土器―鉄器」の時代区分として提案したい。
 単なる生活用品の弥生土器と比べて、縄文土器の方がはるかに芸術的に素晴らしいのはなぜだろう、和食文化はいつから始まったのだろう、日本人の腸はなぜ欧米人より2.2mも長いのだろうなど、豊かで総合的な関心と感性が考古学や歴史学には求められる。

6.「鋤(鉏)」により稲作を広めた大国主一族
 私は『季刊 日本主義』26号の「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」において、播磨において鉄器稲作(水利水田耕作)を広めたのが大国主一族であると次のように書いた。

 「私は縄文時代の終焉は、石器稲作(縄文式稲作)から鉄器稲作(開墾・水利耕作)への稲作技術革命に置くべきと考えている。
 播磨国風土記の讃容郡には「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」という記載があり、賀毛郡雲潤(うるみ)里には「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と書かれている。この記述によれば、鹿や猪の血で籾を発芽させ、成長させるという、黄泉帰り思想の縄文式稲作に対して、大国主一族は、暦を作って苗づくりの時期を定め、田植え時期を遅らせてウンカの害を防ぎ、鉄器で原野を開拓し、大がかりな灌漑土木工事を行って水田面積を拡大した鉄器型稲作革命の推進者であった。」

 しかしながら、「米鉄交易による鉄器稲作論」を展開しながら、ここでは鉄器稲作(開墾・水利耕作)が鉄製の穂先を持った「鋤(鉏)革命」であった、という点を書き落としていた。
 私の子どもの頃には、父の実家に行くと木製の平鍬(くわ)の先端部だけに数㎝の鉄の刃先を付けた鍬があったが、古代の鋤(すき)も同じように先端だけに鉄製の刃を付けたものであった。現代のスコップ(シャベル)のように刃全体が鉄製ではなく、木の刃先だけに鉄の刃が付いた構造は、鉄の消費量が少なくてすみ、しかも軽くて扱いやすい。「鋤」字は「金+助」で、木製の刃先に金属を付けて鋭く大地を切り開き、強度を増して土木作業や農作業を助けたものであり、古代の「鋤」の機能を正確に表している。

6世紀初頭の鋤(群馬県埋蔵文化財調査センター)



 もう1つの書き落としは、大国主の国を古事記が「豊葦原の千秋長五百秋水穂国」と記していることに触れなかったことである。この「千秋長五百秋」は、単に「1000回500回、秋に水稲を収穫した」という大げさな神話的表現と思い込んでいたが、近年になって、水田稲作の開始が紀元前1000年頃、600年頃などという遺跡が発掘されるに及び、にわかに現実的な意味を帯びてきた。
 古事記は500~1000年前からの縄文水稲稲作の歴史を正確に伝え、大国主の国を「水穂国」と表現した可能性がある。この表現は、長い陸稲の縄文稲作を、大国主が鉄の刃先の鋤の利用により水田稲作(水穂)に発展させたことを言い伝えている。私の母は700年近く前の南北朝時代の先祖の落城を見てきたかのようによく語っていたし、埼玉の古い農家の人達からはその家が鎌倉時代にさかのぼる、ということを何度も聞いた。これらの例を見ても、500~1000年前のことが伝わる可能性は十分にある。大国主が米俵の上に乗っているおなじみの置物や絵もまた、大国主が鉄器水利稲作で水田耕作を普及させた古い記憶を伝えているのかも知れない。
 この原野開拓と水利工事、畦づくり、土おこしなどを飛躍させたのが「鋤」であったことを示すのが、大国主の「五百つ鉏(すき)々なお所取らして天の下所造らしし大穴持命」(出雲国風土記)という呼称であり、播磨国風土記で賀毛郡の袁布山(西脇市)で生まれたとされる大国主の御子の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の名前に付けられた「鉏=鋤」である。
 魏書東夷伝倭人条などに欠片も見えない「弥生人朝鮮人説」「スサノオ朝鮮人説」など、「中国・朝鮮からきた弥生人による稲作普及」という思い込みは終わりにしなければならない。

7.大国主一族による建国を示す地名転移
 大国主の御子のアヂスキタカヒコネは古事記では「迦毛大御神」とも書かれ、地名から人名が付けられる古代の命名法からみて、播磨の賀毛郡で育った王子とみてよい。彼はその北の託賀郡の袁布(おふ)山において「宗像大神奥津島比売命」が産んだとし、その西の神埼郡では「新次社に在して、神宮を此の野に造りたまいし」と播磨国風土記に書かれていることからみて、播磨の東北部一帯を支配する実在の王であった。
 なお、袁布(おふ)山があったとされる西脇市黒田庄町の式内社・古奈為神社では、祭神を木花咲耶(コノハナサクヤ)比売(大三島の大山祇の娘)としており、播磨国風土記ではコノハナサクヤ比売を大国主の妻としていることからみて、神奥津島比売命とコノハナサクヤ比売が入れ替わった可能性があるが、今後の検討課題である。

式内社・古奈為神社



 さらに、出雲国風土記の意宇郡賀茂の神戸では、アヂスキタカヒコネが「葛城の賀茂の社に坐す。この神の神戸なり。故、鴨という。神亀3年、字を賀茂と改める」と書かれており、「賀毛」地名が大和の葛城の「賀茂」から、さらに出雲の鴨(賀茂)へと転移したことを示している。賀茂(加茂、鴨)地名は、他にも福岡市や広島県世羅町、京都市、愛知県、静岡県南伊豆、千葉県鴨川市、埼玉県桶川市などにもみられるが、それらは全て、同じようにアジスキタカヒコネ一族が移住した場所やゆかりの場所である可能性が高い。
 播磨国風土記の揖保郡では「山の峯に在す神は、伊和大神(注:大国主)の子、伊勢都比古命・伊勢都比売命なり。・・・伊勢と号す」とされ、伊勢国風土記逸文には「伊勢と云うは、伊賀の穴志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、 又の名は伊勢都彦の神、又の名を櫛玉命」と書かれていることからみて、播磨の地名の「伊勢」が伊勢都彦とともに、三重に移ったと考えられる。
 このように、地名から人名が付けられ、さらにその人物や一族の移動とともに各地に地名が転移し、スサノオ・大国主一族ゆかりの地名が全国各地に転移したとみてよい。
私は邪馬台国九州説の安本美典氏の古代天皇在位の統計的分析の方法論を使い、スサノオ・大国主王朝の建国時期を明らかにし、邪馬壹国の位置を突き止めたが、安本氏の九州の地名がワンセット大和盆地に転移していることを、邪馬台国の東遷(神武東征)によるものとする説は間違っていると考える。
九州の地名がワンセットで大和に転移したのは「神武東征」よりもはるかに古く、紀元1世紀のスサノオの子の大年(大歳)や紀元2世紀の大国主命の子のアジスキタカヒコネなどの移住によるものであることは、出雲や播磨、筑紫から大和へ多くの地名が転移した例を見れば明らかである。
 以上、地名の転移から見ても、古事記と播磨国風土記・出雲国風土記からスサノオ・大国主一族が鉄器稲作を普及し、全国各地に国づくりを広げていったことが証明される。
これと比べて、「古事記神話は出雲国の範囲内の出来事」などというフィクションには何の証明もない。 

8.丹生産を担った大国主一族
 前掲の賀毛郡雲潤(うるみ)里の『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言ったという大水神と、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べたという丹津日子神の伝承はいったい何を示しているのであろうか? 
 1つは、大水神が「宍の血」で田を作るという、縄文の黄泉帰り宗教思想による呪術的な稲作に固執したのに対し、この地に水路を通して灌漑し、安定した水利を確保して効率的な水田耕作を行おうとした丹津日子との争いを伝えている。
 賀毛郡とその北の託賀郡は丹波国に接しているが、もともと「丹のうみ」と呼ばれていた亀岡盆地を、大国主が京都への水路を切り開いて干拓した、という伝説が残っている。丹津日子が河を掘って水路を雲潤(うるみ)に流そうとしたという播磨国風土記の記述はこの伝承と同じように、丹津日子が水路工事を進めことを示している。
 第2の重要な点は、「丹津日子神」の名前の「丹」である。阿遅鉏高日子根神の名前に「鋤(鉏)」が付いていることや、「伊和大神の子石龍比古命と妹石龍比売命」「大神妹妋(いもせ)2柱、・・・妹玉津日女命」「大神の子、玉足(たまたらし)日子・玉足比売命」「伊和大神の子建石敷命」「大汝命(おおなむち:大国主)の子、火明命」などの名前をみると、この地の大国主の子ども達には、「鋤」「伊和(岩:磐)」「石」「玉」「火」など、物の名前が付けられている例が多い。
 丹津日子神は「神」とされていることからみて、阿遅鉏高日子根神と同格の大国主の御子と考えられるが、それを裏付けるのが「播磨国風土記逸文」に、息長帯日女(神功皇后)が新羅へ侵攻しようとした時に、国を堅めた大神の子の爾保都(にほつ)比売が、国造の石坂比売に乗り移って赤土を差し出し、『私を祀り、赤土を矛に塗って船首に建て、船や軍衣を染めて戦えば、丹波(になみ)でもって平定できるであろう』という神託を下した、という記載である。ここに登場する爾保都比売は大国主の御子で、神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社に祀られた丹生都比売のことで、後に紀伊国(かつらぎ町天野村の丹生都比売神社)に移され、全国88社の丹生神社、108社の丹生都比売大神を祀る神社の始祖神として祀られている。そして、この丹生神社は「丹(に)」の鉱脈のある場所にあることが明らかにされている。

丹生都比売を祀る丹生(にぶ)神社(ブログ『自然と文化のお話し』(NORI)より)



 丹津日子神と丹生都比売はいずれも大国主の子どもで、兄妹か夫婦の可能性が高いが、どちらも「丹(に)」(赤色のベンガラ=鉄丹、朱辰砂=硫化水銀朱、鉛丹)の発掘・生産に関わりのある神である。ベンガラは縄文時代から使われ、朱は吉野ヶ里遺跡を始め、北九州から山陰にかけての弥生遺跡で使われ、魏書東夷伝倭人条には『その山に丹あり』と記録され、魏皇帝は鉛丹五十斤を卑弥呼に賜っている。
 この丹は単なる染料ではなく、血をあらわし、血で満たされた子宮に模した甕棺や石棺などに赤く染めた死者を入れ、母なる大地に葬り、再生を願う重要な葬送の神具であった。大水神が「吾は宍の血を以て佃(田を作る)る」と言ったのと同じように、人も稲も血の中から黄泉帰ると信じられていたのである。

吉野ヶ里遺跡の甕棺の復元模型(死者は丹で赤く染められている)



 息長帯日女の軍勢が、矛や船、服に丹を塗ったというのは、再生の力のある血を塗った不死身の軍として士気を高めたのであろう。あるいは、死者(鬼)の軍として、敵を威嚇したのかも知れない。
 なお、播磨国風土記逸文が「丹波(になみ)」という表現を伝えていることを見ると、「丹のうみ」→「丹波(になみ)」→「丹波(たんば)」の和語読みから漢語読みへの地名変遷があったと考えられる。また、丹生(にぶ)神社のある丹生山は古代には、神戸市(摂津国)ではなく明石郡であった可能性があり、「明石」が古くは「赤石」と書かれ、明石川の上流域に丹生山があることからみて、「赤石=朱辰砂」に由来する地名であった可能性がある。
 大国主の一族は、「丹(に)」(ベンガラ、朱辰砂、鉛丹)の発掘・生産を担い、死者の再生を願う宗教儀式を主催した、宗教的な支配者であったことが明らかである。

9.鉄生産を進めたスサノオ・大国主一族
 アヂスキタカヒコネが「鋤」の名前を持ち、丹津日子が水路土木事業を行い、丹津日子と丹生都比売が丹=水銀朱の採掘・生産に関わり、丹生都比売を祀る一族が全国の丹の鉱脈で採掘を行っていたことを考えると、大国主の一族は銅や鉄の採掘・生産にも関わっていた可能性が高い。
 大国主の名前を「大穴牟遅(おおなむち)」(古事記)、「大穴持」(出雲国風土記)と「穴」字で表記している例は、大国主が穴を掘って金属の採掘を行った王として認められていたことを示している。
それを裏付けるのが播磨国風土記である。
 讃容郡(今の佐用)では、大国主の「妹妋(いもせ)」の妹玉津日女命(賛用都比売命)が鹿を放った「山の四面に十二の谷あり。皆、鉄生ふること有り」「佐用都比売命、この山に金の鞍を得たまひき」と書かれ、宍禾(しそう)郡(今の宍粟)では、「鉄生う」「その川(穴師川)は、穴師比売神に因りて名とす。伊和大神(注:大国主の別名)、娶誂(つまどい)せむとしたまいき。その時に、この神固く辞して聴かず」「鉄生ふるは金内と称ふ」という記述を見ると、大国主の時代に「鉄生ふる」土地がいくつかあり、「穴師(鉱山師)」がいて鉄生産が行われていたことが明らかである。
 『季刊 日本主義』26号(20140625)で述べたように、魏書東夷伝倭人条の「乗船南北市糴(してき)」の「糴(入+米+翟)」字の使用と、魏書東夷伝辰韓(弁辰)条の「国、鉄を出す、韓・濊・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し」の記載からみると、倭人は市で米を鉄と交換して手に入れるとともに、米と交換に許可をえて鉄鉱石を採掘し現地で精錬を行い、銑鉄を国内に持ち帰っていた可能性が高いと考える。民間交易と管制交易である。
 12世紀に書かれた『三国史記』第1巻の新羅本紀によれば、新羅の第4代の王、脱解(タレ)は多婆那国の生まれで、その国は倭国の東北1千里(朝鮮里1里=400mとし、日本海を筑紫から400㎞進むと出雲あたりになる)にあり、紀元前19年に朝鮮半島に漂着し、57年に即位し、80年に死んだという。私の最小二乗法による統計的推定ではスサノオの即位年は60年であるから二人はほぼ同時代の人物である。
 日本書紀の一書第四では、スサノオは子の五十猛(イタケル)神を師いて、新羅国に降到り、ソシモリ(首都)に居たが「この地に吾は居たくない」と言って出雲に帰り、五十猛神は初め、多くの樹種を持って下ったが、韓地に植えずに持ち帰り、筑紫より始めて大八洲国の内に植えて青山にした、と伝えている。

五十猛(イタケル)を祀るたつの市の中臣印達(ナカトミイダテ)神社
―播磨国総社(射楯兵主神社)では射楯大神(イタケル)と兵主神(大国主)を祀っている―



 この記述をありのままに認めると、スサノオと五十猛は脱解王を訪ね、樹種を持って行き、製鉄ではげ山になった山に植林して製鉄を行おうとしたが果たせず、製鉄技術を入手して帰国した可能性があると考える。
 壱岐のカラカミ遺跡から、紀元1~3世紀の鉄生産用の地上炉が複数見つかり、韓国南部の遺跡などに見られる精錬炉跡に似ているとされる(2013年12月20日壱岐新聞)ことから考えると、この遺跡はスサノオと五十猛(イタケル)神の製鉄拠点の1つであった可能性がある。加羅は古くは弁韓(弁辰)と呼ばれており、この地ゆかりの「加羅神」というと、記紀に登場する神々ではスサノオと五十猛(イタケル)神の可能性がある。彼らは帰国する時に製鉄技術者を連れ帰り、国内でも製鉄を始めた可能性があり、さらなる発掘・鉄分析が求められる。
 なお、私は金印に彫られた「漢委奴国王」は「漢のいな(ふぃな:ひな)国王」であり、この「い」国は、壱岐から「邪馬壹国(山一国)」にかけての国であったと考えている。壱岐(元々は一城)は、古事記の「伊伎島(またの名を天比登都柱)、魏書東夷伝倭人条の「一大国」の表記からみて「一(い)国」であり、ここから分かれた一族が筑後の日向(甘木の蜷(ひな)城)に「邪馬壹国(山一国)」を作ったと考えているが、地名から名前を取る命名法からみると、五十猛(イタケル)神は「一武(イタケル)」であり、「一(い)国」の勇敢な王という意味になる。
 スサノオを祀る愛知県津島市の津島神社は、嵯峨天皇より「正一位」の神階と「日本総社」の称号を、一条天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる全国の天王社の総本社であるが、対馬からスサノオの和魂を移したとされている。また、スサノオの兄とされる月読命を祀る壱岐の月読神社(式内社)は全国の月読神社の本社であり、「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、全国の綿津見神社、海神社の総本社であることからみて、「乗船南北市糴(してき)」した対馬・壱岐の海(天)族こそが「倭=委=い」那(国)の建国者であり、イヤナギが出雲の揖屋でイヤナミに妻問いして生まれたスサノオは、対馬・壱岐をルーツとする「海(天:あま)族」の後継王としてイヤナギから「海原を知らせ(支配せよ)」と命じられ、米鉄交易を支配するとともに、鉄生産の国内への導入を図った可能性が高い。
 漢に使者を送り、「漢委奴国王」の金印を与えられた「百余国」を支配した王は、古事記によれば「海原」を支配したというスサノオ以外には考えられない。山に囲まれた大和の王などではありえない。
 出雲国風土記意宇郡の有名な国引き神話に、八束水臣津野命(スサノオ5代目のオミヅヌ)が『志羅紀(シラキ)の三崎を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り』と述べ、「童女(オトメ)の胸鉏(ムナスキ)取らして・・・国来々々(クニコクニコ)と引き来縫へる国は、去豆折絶(コズノオリタエ)より、八穂尓支豆支(ヤホニキヅキ)の御碕なり」と書かれていることからみても、スサノオ一族の新羅との繋がりは深く、「鋤(鉏)」が国引きの重要な道具であったことを示している。
現在のところ、「去豆(コズ)」(出雲市小津町)から「支豆支(キヅキ)の御碕」(日御碕)までの島根半島西側の北海岸から古い製鉄遺跡は見つかっていないが、スサノオと八束水臣津野命は新羅で製鉄に従事していた倭人や新羅人などを迎え、この地で鉄生産を行っていた可能性が高い。いずれ、壱岐のカラカミ遺跡のような鉄精錬の遺跡が発見される可能性が高いと私は信じている。
 播磨国風土記・古事記・出雲国風土記と魏書東夷伝倭人条、『三国史記』新羅本紀の日中朝の3国の記録が符合し、さらに壱岐のカラカミ製鉄遺跡や各地の神社伝承がこれを補強していることから見て、わが国の金属器時代を切り開き、水利稲作を全国に普及させ、中国との国交を開始したのがスサノオ・大国主一族であることは明白である。

おわりに
 スサノオ・大国主一族は、軍事(矛=槍)、宗教(丹を使った霊(ひ)の再生信仰)、血縁(妻問い婚と縁結び)、暦制作(月読命による)と神在月の集い、産業(鉄生産、水利工事、稲作普及、交易)、国際交易(米鉄交易、玉・真珠・絹織物輸出)、外交(漢・魏・新羅など)などを支配した、わが国初の統一王朝である。
 我が国の建国はスサノオ・大国主の7代に始まる、としなければならない。


参考資料:『古事記』(倉野憲司校注:岩波文庫)、『出雲国風土記』(荻原千鶴全訳注:講談社学術文庫)、『播磨国風土記』(沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著:山川出版社)、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院)、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(雛元昌弘:アマゾンキンドル本)


「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」の紹介

2020-04-11 16:50:20 | 縄文
 はてなブログに「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 2019年1月に縄文社会研究会で発表したものに加筆修正したものです。他で書いたものと重複が多くて恐縮ですが、宗教論としてまとめています。
 昔、次女に「アフリカでは日本の宗教をどう説明しているの?」と聞いたところ、「自然宗教と言っている」というので、びっくりしたことがあります。一神教の人たちは「日本人は未開人・野蛮人」と思うに違いありませんから。
 みなさんはどう答えますか?
 「仏教かなあ。しかし葬式しか付き合いはないし、お経の意味も教義も知らないなあ」「お宮には正月や七五三などで行くけど、単なる願掛けかな」「祭りにいくけど、宗教と意識してはいないね」「お墓詣りはするけど、宗教といえるのかなあ」「自然崇拝といっても、朝日や山を拝んだりする習慣はないよね」「神様と仏様の違いなんて考えたこともない」「結婚式は牧師さんにやってもらったけど、教会には行っていないなあ」「死後の世界なんてあるの?」「無宗教じゃあない」というような答えが多くの人から返ってきそうです。
 せめて歴史がどうだったのか、考えてみたいと思います。
 スサノオ・大国主建国論の宗教論でもありますので、「宗教論2」として、本ブログでもアップしたいと思います。雛元昌弘

「日本の中心になるはずであった」との伝承が残る高御位山(兵庫県高砂市)

神話探偵団132 古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構

2020-04-08 21:08:14 | スサノオ・大国主建国論
 2014年6月の原稿「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊 日本主義』26号(20140625)に掲載:ネットで購入可能)に加筆・修正したものです。
 2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)とその後のブログ「神話探偵団」「邪馬台国探偵団」「帆人の古代史メモ」「霊(ひ)の国の古事記論」などをまとめたものです。
 一部、三国史記新羅本紀や『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の図などを追加するとともに、写真はパワーポイント「古代国家形成から見た縄文時代」で作成したものに差し替えています。 雛元昌弘

はじめに
 全国各地で仕事をするうちにスサノオや大国主の伝承に出会い、この国はスサノオ・大国主一族により建国されたという仮説を立て、古事記を読むようになった。
2009年に『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を書き、そのあらましは、『季刊 日本主義』18号(2012夏)に「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝」として紹介させていただいた。
 古事記に書かれた神話時代の天皇家は16代であるのに対し、遣唐使は32代が筑紫城にいたと伝え、空白の「欠史16代」がある。一方、古事記にはスサノオ・大国主の16代の王が書かれ、初代から16代の天皇の年齢が二倍に水増しされている。
 そこから、私は「別天神4代(5神:出雲大社神殿の正面に配祀)」+「神世7代」+「スサノオ・大国主7代」の王朝があり、「筑紫の日向(ヒナ)」(福岡県旧甘木市の蜷城:ヒナシロ、ヒナギ)には「大国主子孫九代+卑弥呼(オオヒルメ)+オシホミミ+ニニギ」が続き、それに薩摩半島の天皇家の祖先である笠沙2代が接ぎ木され、合計32代という建国フレームを考えた。
 そして安本美典元産業能率大教授の天皇の即位年を統計的に分析する手法に従い、最少二乗法で計算し、スサノオが紀元60年頃、オミズヌが102年頃、大国主が122年頃、卑弥呼が225年頃と統計的に推測した。そしてこれらの推測結果は「委奴国王」「師升(すいしょう)」「大国主後継者争いの倭国の大乱」「卑弥呼」の記録年とほぼ重なることを明らかにした。
 今回は、さらに、私の関心の高い船・武器・稲作・宗教の四つから、スサノオ・大国主の建国史を明らかにしたい。

1 縄文人は「狩人(山幸彦)」か「漁民(海幸彦)」か?
 千歳空港でアイヌのイタオマチプ(板綴り船)を製作・展示していた秋辺得平氏(元北海道アイヌ協会副理事長)に偶然に話を聞くことができたが、彼は「アイヌは漁民である」と断言していた。アイヌが「熊ハンター」でないとしたら、「縄文人マンモス・ナウマン象ハンター論」は怪しくなる。
 私は、秋にはサケが群れなす北海道や東北の川を見たことがあり、四万十川では「昔はアユの上を歩いて渡ることができた」と漁師から聞いた。私が仕事をした瀬戸内海の各地では、住民は夕方になるとバケツと釣り竿を持ち、岸壁に出かけて夕食のおかずを釣っていた。この国では、危険を冒して大型動物を狩らずとも、海の幸は豊富であった。各地の貝塚を見れば、縄文人は「海人(あま)」=「海幸彦」であったと認めなければならない。



 若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前、縄文時代草創期~前期)では、丸木船や漆製品とともに、南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属や、北方系のゴボウ・アサ・アブラナ類(カラシナ・カブ・ナタネ・ツケナ)が発見され、栽培農業が行われたことを示している。
 特に注目したいのはヒョウタンで、その原生地は西アフリカのニジェール川流域である。ヒョウタンは軽くて運びやすく、水や食料の容器になる。ひょうたんに水を入れ、南の海の道を舟できた縄文人の一族がいたことを示している。



 さらに、バイカル湖のカヌーとアイヌのヤラチプ、カナディアンカヌーが同じ構造の樹皮カヌーであり、丸木船の舷側に板を継ぎ足した古代船と、現代の沖縄のサバニとアイヌのイタオマチプが同じ構造であることにも注目したい。北からの縄文人もまた、舟を使って移住してきた可能性がある。北方野菜は真冬に凍結した海の上を歩いて縄文人が持ってきたというより、暖かい季節に舟で運ばれたと考えるべきであろう。
 古田武彦氏は魏書東夷伝倭人条の「船旅1年」の裸国や黒歯国はアメリカ大陸の国という説を唱えたが(1977年『倭人も太平洋を渡った―コロンブス以前のアメリカ発見』:編著者C・L・ライリー 他、訳著者 古田武彦)、縄文土器と類似したエクアドルのバルディビア土器(約5500年前)やメラネシアのバヌアツ共和国の土器、米国各地の9000年前の頭蓋骨が日本の縄文人やアイヌ人、ポリネシア人の特徴を持っているとの研究、エクアドルに程近いアンデスのインディオ達のATLウイルス(世界で500万人のうち日本人が約100万人)が遺伝子配列から日本人と共通の祖先から枝分かれしたとの研究、アマゾンの約3500年前のインディアのミイラ体内から発見された寄生虫「ズビニ鉤虫」の卵が5℃以下で2年間暮らすと体内で死滅することからモンゴロイドが氷河期に凍りついたベーリング海峡を歩いて移住していないことなど、次々と縄文人太平洋横断説が裏付けられてきている。
 愛媛県の八幡浜では、移民のために打瀬船で明治45(1912)年に5人の漁民が76日かけて太平洋を渡り、翌年には15名が58日かけて渡るなど、渡米は合計5回に及んでいる。岡山の日生の漁民は明治時代から打瀬船で朝鮮半島近海まで出漁し、舟の杉材は宮崎から運んできた。「米と味噌と水さえあれば漁民はどこまででも行く」と日生の郷土史家は話していた。
 川合彦充氏は『日本人漂流記』で、江戸時代の日本船の太平洋での遠洋遭難記録は数百件あり、南北アメリカ大陸への漂着は八件と分析している。東日本大震災のがれきは一年でアメリカ東海岸に漂着した。
 さらに「縄文人は海洋民族」の直接的な証拠は、黒曜石(神津島)や翡翠(氷見)、天然アスファルト(秋田・新潟)、イモガイ(沖縄)の全国各地への分布からも裏付けられる。
 古事記には、イヤナギ(伊邪那岐=揖屋那岐)が黄泉の国の汚垢を濯ぎ流した時に、左目からアマテラス、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれ、それぞれ高天原・夜・海原の統治を委任したとしている。スサノオは海原を支配し、月読命は「夜に月や星座の動きを読み、方位から海洋航海を指揮し、太陰暦を定めた王」の可能性が高い。中国の12か月を、季節に合わせて皐月=早月=5月(播磨国風土記)と言い換え、神事(国家行事)に合わせて神無月と命名したのは、外洋航海術と太陰暦を支配したスサノオ・大国主一族の可能性が高い。
 昭和30年代になっても私の祖母は旧暦(太陰太陽暦)を使い、旧盆・旧正月などの行事を行い、田植えの時期を判断していた。潮の干満をよむ漁師にもまた、旧暦が根強く残っている。女性の生理が28日周期で、28日計算の「十月十日」、満月と新月の夜に出産が多いことからみても、縄文人や古代人は「星読み人」であった可能性は高い。
 縄文人は巨獣ハンター、古代人は農民、という思いこみを捨て、漁民であり海洋交易民であった縄文人像・古代人像からこの国の歴史を見直す必要があると考える。

2 チャンバラ時代はなかった(武器論からみた縄文と青銅器・鉄器時代)
 前から疑問に思っていたのは、日本の考古学が「石器→青銅器→鉄器」「漁労・狩猟・採取→農耕・牧畜」「非定住→定住」「部族社会→部族国家(都市国家)→古代国家」「母系制社会→父系制社会」「地母神信仰→祖先霊信仰(部族宗教)→絶対神信仰(世界宗教)」などの世界標準の時代区分モデルを使わずに、「旧石器→縄文→弥生→古墳」と時代区分する「石器―土器―土器―墓」のガラパゴス的モデルを使っていることである。
 この「ドキドキハカ区分」ではなく「ドキン区分」にすべき、と私が考えたきっかけは武器論からである。アレクサンダー大王やシーザー、モンゴルの大遠征、信長の天下統一をみても、征服戦争には武器と戦法の大きな変革がある。もし、わが国に「遼寧式(満州式銅剣)銅剣時代」があったというなら、それに相応しい民族移動による征服戦争があったと見なければならないが、そのような痕跡は見られない。
 これまで、わが国では、石器時代・縄文時代は弓矢と槍が主な武器で、弥生から古代には槍がなくなって銅剣チャンバラ時代になり、鎌倉時代から戦国時代にかけて、再度、槍が主要な武器になったとされてきた。各地の博物館の展示説明を見てびっくりするのは、弥生から古代にかけて、武器としての槍がほとんど展示されていないことである。
 可能性としては、弥生から古代・平安にかけて「銅剣」を持った異民族がこの国を支配して石槍文化を滅ぼした、あるいは、これまで「石剣・銅剣・鉄剣」とされていたものほとんどは「石槍・銅槍・鉄槍」であった、かのどちらかである。
 これまで「銅剣」とされてきたものは「中国の遼寧式(満州式)銅剣」を真似して作られたと説明されてきたが、写真を見ても判るとおり、1~2㎝の短い茎(なかご)に木製の柄を付けて武器にすることなどできない。こんな「へなちょこ剣」では、素振りすらできない。



 「遼寧式銅剣」とされてきた穂先の途中には剣には不要なくびれがあることからみても、これは槍の穂先であり、写真のように、木あるいは竹の柄にくくりつけて使用したものである。刀を槍にする例は、短刀を槍にして戦った南北朝時代の「菊池槍」があり、現代も使われているマタギ刀がある。
 わが国で見つかった「銅製武器」を「遼寧式銅剣」と見誤ったのは、わが国にはすぐれた技術・文化などあるはずがない、全て中国の模倣と思い込んだ「拝外主義」の「チャンバラ映画大好き」の考古学者・歴史学者の錯覚という以外にない。
 あくまでこの「銅製武器」を「遼寧式銅剣」と言い張るなら、考古学者達は、実験考古学の手法により「銅剣」と「銅槍」を作成し、実戦的に模擬戦闘を行って証明すべきである。さらに、使い慣れた「遼寧式銅剣」を使って中四国地方を征服した王国があったことを、他の考古物や記録から証明して見せなければならない。
 証拠がないというなら、日本人は「銅柄銅剣」を真似しないで、使い物にならない「柄なし銅剣」を真似たという「猿まね日本人説」を他の事例から論証して見せなければならない。そのような説には、私は「改良名人日本人説」で反撃したい。私たちの祖先は、重くて製造しにくい、円筒状の差し込み口に柄を入れる銅矛ではなく、木や竹の柄に穂先を差し込む軽くて使いやすい銅槍を製造したに違いないからである。
 旧石器ねつ造事件どころではない。「柄なし銅剣説」は直ちに捨てなければならない。そうすれば、全く新しい歴史観が開けてくる。
 第1は、縄文時代から金属器時代への移行を時代区分とする歴史観の確立である。弥生時代は不要である。
 第2は、縄文時代からわが国では武器革命が起きておらず、遼東半島からきた「弥生人征服王朝」などなかったということである。「柄なし銅剣」とともに、「弥生人による縄文人征服説」は幻となる。
 第3は、拝外主義の模倣歴史観、「猿まね日本人説」を根本から改めることである。独自の銅槍を創造しただけでなく、日本語読み漢字文(柿本人麿の簡略体)や万葉仮名を生み出したように、「独自の技術・文化を創造する日本人観」への転換である。
 第4は、わが国における、「金属器稲作時代」の時代区分を認めることである。これは次節で述べたい。
 第5は、長槍が野外集団戦に適した武器であることを認め、「チャンバラ歴史観」を改めることである。剣や刀は屋内戦に適した携行性に優れた防御あるいは暗殺用の武器であり、記紀の多くのチャンバラ物語は「だまし討ちの暗殺物語」であると認めなければならない。「チャンバラ征服王朝史観」がなければ、日露・太平洋戦争でのチャンバラ白兵戦主義=近接戦主義による多大な犠牲は防げたはずである。



 天皇家の皇位継承のシンボルである「三種の神器」の一つが、スサノオがヤマタノオロチ王を暗殺して奪った銅剣であるという、暗殺剣による政権奪取という負の歴史を直視すべきである。
 第6は、「八千矛神」の別名を持つ大国主こそ、銅槍・鉄槍時代の建国のリーダーであり、大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)の別名は、文字どおり鉱山所有者の名前の可能性があることである。荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が、加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が出土したことは、大国主が銅槍・銅鐸圏(大国主と大物主の国)を統合したことを示している。
 第7は、弓矢と槍が殺人武器である前に、狩猟道具であったことを認めることである。縄文時代から栽培農業には、鳥獣害対策に弓矢と槍は欠かせない道具であった。今でも、山村や農村では、猪や鹿、野鳥を防ぎ、狩りをしない限り、栽培農業は困難である。



 天皇家の直接の祖先は「毛のあら物、毛の柔物を取る」山幸彦=猟師とされ、播磨国風土記によれば、品太天皇(応神天皇)は播磨各地で狩りを行っている。兵士のルーツは狩人であり、古事記は山幸彦の孫の若御毛沼命(後に神武天皇と称される)の一族が武装兵(傭兵)として、豊・筑紫・安芸・吉備・大和の各地で王に仕え、その10代目が大和の磯城王(大物主の子孫)の権力を奪ったという歴史を正確に伝えていると私は考えている。
 以上、武器論から見る限り、縄文時代の次は金属器時代であり、その金属器時代を切り開いたのはスサノオ・大国主一族である。

3 水田稲作革命はスサノオ・大国主一族が鉄先鋤で広めた
 「稲作とともに弥生式土器が始まった」という言い方は、稲作開始が5~7千年前頃の岡山県のいくつかの縄文遺跡で発見されていることから、もはや成立しない。稲作とは無関係にずっと遅れて弥生式土器(覆い焼きという技術革新)は生まれている。
私は縄文時代の終焉は、石器稲作(縄文式稲作)から鉄器稲作(開墾・水利耕作)への稲作技術革命に置くべきと考えている。
 播磨国風土記の讃容郡には「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」という記載があり、賀毛郡雲潤(うるみ)里には「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と書かれている。
 これらの記述によれば、鹿や猪の血で籾を発芽させ、成長させるという、地神(地母神)宗教の黄泉帰り思想の縄文式稲作に対して、大国主一族は、暦を作って苗づくりの時期を定め、田植え時期を遅らせてウンカの害を防ぎ、鉄先鋤で原野を開拓し、大がかりな灌漑土木工事を行って水田面積を拡大した鉄器稲作革命の推進者であった。
 大国主は出雲国風土記では「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれ、その180人の御子の一人は阿遅鉏高日子根(アジスキタカヒコネ)で「鉏(すき)」の名前を付けています。彼らは鉄先鋤(スコップ)を全国に広め、水路や新田開発を指導したからこそ、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、その国を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」と呼んだのである。
 大国主の妻の宗形大神奥津島比売命が迦毛大御神(アジスキタカヒコネ)を生んだとされる託賀郡に隣接する丹波は、もともと「丹のうみ」と呼ばれていたが、大国主が京都への水路を切り開いて開拓したと伝えられている。
 新羅(当時は辰韓又は弁辰。後の加羅)で鉄を求めたスサノオ・大国主一族は、米と鉄を交易し、鉄器農具を普及して水利水田耕作の拡大を各地で促し、飛躍的に生産量が増えた米を輸出し、さらに鉄器の輸入を増やすという循環的な拡大再生産構造を支配し、古代統一国家を建設したと私は考えている。
 寒冷期に入った当時、朝鮮半島では食料事情が悪化し、三国史記新羅本紀によれば紀元59年に4代の新羅王には倭人の脱解(タレ)がなり、倭国と国交を結んだのは、倭国の米を必要としていたことによることが明らかである。その時の倭国王がスサノオであることは、イヤナギから「海を支配せよ」と命じられ、日本書紀の一書(第四)には新羅に渡ったと書かれ、対馬などにその伝承が残るとともに、古代王の即位年の推計によりスサノオの即位年が紀元60年であることからみて、スサノオ以外には考えられない。
 なお新羅との国交の2年前の紀元57年に後漢光武帝に使いを送り、「漢委奴国王」の金印を与えれた委奴国王もまたスサノオとみて間違いないと考える。
 この米鉄交易は、対海国(対馬)と一大国(壱岐)の人々が「乗船南北市糴(してき:交易)」したと魏書東夷伝倭人条に書かれていることからも裏付けられる。「糴(てき)」は、「入+米+翟」で、「翟(てき)」は雉(「羽+隹」)で、「隹(すい)」は鳥を表している。



 「糴(てき)」は「鳥をシンボルとする異民族(てき)から米が入る」という漢字であり、魏書東夷伝辰韓(弁辰)条の「国、鉄を出す、韓・シ歳・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いる」という記述を受けて書かれたものである。3世紀になると「従いてこれを採る」という国同士の管理貿易と、「市買う」の市場取引の2ルート(前者は出雲・美和連合の70余国、後者は筑紫30国)で鉄の交易が行われていたことを示している。
 辰韓(弁辰)条などの「市買」や、倭人条の「市」「交易」という表現を使わず、わざわざ「市糴」の漢字を当てたのは、実際に米交易が行われていた証拠である。
日本書紀には、スサノオは子の五十猛神(イタケル神:倭武=ヤマトタケルの名前は彼から取ったと考えられる)と新羅に下り、ソシモリに居たが、「この国にはいたくない」と言って土(鎚)で船を作って帰り、五十猛神は多くの樹種を持って行ったが、韓地に植えずに持ち帰り、筑紫から各地に植えて青山にしたと書かれている。この記述は、製鉄燃料のために木々を伐採して韓地の山が荒れ、洪水によってたびたび米不足に陥っていた可能性とともに、スサノオは製鉄技術を手に入れ、韓地に留まる必要がなくなった可能性も考えられる。
 百余国の部族国家(初期都市国家=城=き)を統一したのは大国主であり、それは米・鉄貿易による米作技術革命による立国であった。それは、日本書紀の一書(第六)で、大国主と少彦名が力を合わせて天下を経営し、鳥獣・昆虫害を払い、百姓から今も恩頼りにされているとした記述からも裏付けられる。大国主が米俵に乗った像は、後世の創作ではない。「八千矛神」の別名は、彼らが青銅と鉄の槍と鏃で、鳥獣を一斉に駆除する一族でもあったことを伝えている。



 古事記によれば大国主は「島の埼埼 磯の埼」に多くの「若草の妻」を持つと歌われ、「出雲、因幡、越、宗像、播磨、丹波」など百余国に妻を持ち、180人(日本書紀は181人)の御子をもうけたとされている。これは武力征服による略奪婚ではなく、縄文から続く母系制社会の妻問夫招婚であることは、播磨国風土記の妹玉津日女命の記述からも裏付けられる。
 武力征服戦争ではなく、鉄器と暦普及による米作革命(水利耕作と害虫対策、鳥獣駆除)と妻問夫招婚によってスサノオ・大国主命一族が古代統一国家を形成できたのは、縄文から続く母系制社会のもとですでに各地に部族国家(都市国家=環壕に囲まれた城)が成立し、イモや豆、雑穀や陸稲の栽培農業が行われていたからに他ならない。
 大国主は、毎年、神在月に出雲に御子達とその王子・王女を集め、「火継ぎ(霊継ぎ)」の祖先霊信仰(御霊=御魂信仰)を行うとともに「縁結び」で同族の結束を深め、古代統一国家を形成した。漢に学び月を読んで共通の暦を定めないかぎり、そのような統一行動ができないことは言うまでもない。
 この古代国家統一は、対馬・壱岐の「海人(天:あま)族」=交易部族が、「土地山険、多深林」の対馬の弓槍の名手である「狩人」と協力して鉄・米交易によって行ったものである。後の記紀神話の「山幸彦」が「海幸彦」を屈服させる物語は、このスサノオ・大国主王朝の後に薩摩半島の笠沙では「海人(あま:海幸彦、隼人)と「山人(やまと:山幸彦)の対立があった、と私は考えている。
 縄文人=被征服者、弥生人=征服者=稲作・弥生土器普及者という「征服史観」はフィクションであり、弥生式土器で時代を区分する「弥生時代」はもはや不要である。
 縄文から弥生への「渡来人征服史観」から、縄文人を主体とした「鉄米交易立国史観・鉄器稲作史観・妻問史観」への転換が求められる。「遅れた日本:進んだ中国・アメリカ」という図式から一貫して抜けきれない拝外主義の「外発的発展論」=「グローバライゼーション」から、自立交易主義の「内発的発展論」への歴史観の変革が行われなければならない。

4 黄泉帰りの「地神(地母神)信仰」「海神信仰」から「天神信仰」への宗教改革
 昭和21年生まれの私は、田舎に行くと、まず仏壇のご先祖に挨拶させられ、朝には仏壇と神棚のご先祖に炊き立ての御飯を供え、お盆・正月には墓詣に行って提灯の火に御先祖の霊を移して仏壇まで持って帰り、賀茂神社ではご先祖を祀っていると拝まされた。仏教も神道も縄文時代からの祖先霊信仰のまんまであった。これでは、唯一絶対神を信仰する世界宗教はこの国では根付きようがなかったといえよう。
 縄文人は、植物が枯れて大地に戻り再生するのと同じように、人も大地(黄泉の国)に帰り、再生すると考える「地母神」「地神」信仰であり、死者の霊(ひ)が宿るとされた土偶や鏡は、破壊されて大地に帰され、黄泉帰ることが期待された。「初期胎児形」をした勾玉もまた霊(ひ)が宿ると考えられ、再生のためにそのまま埋められた。死んだ幼児が壺に入れられ、竪穴式住居の入口に埋められたのは、子供の霊(ひ)が大地の壺(子宮と考えられていた)に戻され、その上をまたぐ母親の胎内に再生すると信じられていたことを示している。
 この国が「霊(ひ)の国」であったことは、『季刊 日本主義』18号で紹介したように、記紀で「霊(ひ)を産む」夫婦神、「二霊群品の祖」として「高御産巣日=高皇産霊(タカミムスヒ)」「神産巣日神=神皇産霊尊(カミムスヒ)」として登場することや、「霊人(人)」「霊女(姫)」「霊子(彦)」「卑弥呼(霊御子=霊巫女)」「大霊留女」「霊継ぎ(棺・柩)」「霊知り(聖)」「霊人()」の名称、スサノオ・アマテルの「ウケヒ(受け霊)」による後継者争い、性器を「ひー」「ひーな」「吉舌・雛尖・雛先(ひなさき)」と呼び、妊娠を出雲では「霊(ひ)が留まらしゃった」、流産を茨城では「ひがえり」と呼び、「神奈備山=神名火山=神那霊(かんなび)山」や「神籬(ひもろぎ)=霊(ひ)漏ろ木」から天に昇り、再び降臨すると、古代から現代まで引き継がれていることから裏付けられる。
 さらに、甕棺や木棺、石棺の遺体を丹(水銀朱、ベンガラ)で赤く染めたのは、子宮の血の中で遺体が再生すると考えていたからである。そして、播磨国風土記逸文によれば、爾保都(にほつ)比売=丹生都比売は大国主の子供とされており、神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社を始め、丹生産に携わる一族によって全国の約180社に祀られている。魏志東夷伝倭人条にも登場する水銀朱の生産を支配したのは大国主一族であった。



 前述の、鹿や猪の血で稲の発芽や生長を促すという稲作の方法は、子宮の血の中で霊(ひ)が再生するという同じ黄泉帰り思想を示している。
 イヤナミ・イヤナギ(伊邪那岐神・伊邪那美神)神話では、イヤナギは「黄泉国」のイヤナミを追ってゆき、黄泉醜女と黄泉軍に追われて黄泉比良坂(出雲国の伊賦夜坂:東出雲町揖屋町の伊布夜社=揖夜神社)から地上に逃げたとされているのは、黄泉帰り宗教を示している。



 イヤナギがカグツチを殺した時、その血から八神、死体から8神が生まれ、スサノオが大気津比売神を殺した時に死体から5穀(稲・粟・小豆・麦・大豆)と蚕が生まれ、イヤナギが川で禊ぎを行い、左目を洗ってアマテラスが、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれたというのもまた、黄泉国の汚垢から神が生まれるという黄泉帰り思想であった。
 ところが、スサノオ7代目の大国主は、国譲り(大国主の180人の御子の後継者争い)において、「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」を建て、「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」ことを条件としており、古代には48mの高さの出雲大社が建設され、年に1度、十月十日の神在月(他の国では神無月)に八百万神が集まり、180人の御子やその一族の縁結びを行ったとされており、この頃に王の墓が小高い小山の上に築かれ、霊継(ひつぎ)の神事によって王位継承が行われるようになっており、中国から魂魄の分離思想がつたわり、死体(魄)は墓に葬られ、死者の魂(霊:ひ)は神那霊山(神奈火山、甘南備山)から天に昇るとする「天神宗教」が生まれている。



 吉野ヶ里遺跡の鳥居や屋根の上に鳥の置物が置かれているのは、死者の霊(ひ)を天上に運ぶのは鳥と考えられていたことを示している。大国主を国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命:大国主命の筑紫でもうけた天穂日神の子)や、大国主命の子の鳥耳神、大雀命(後の仁徳天皇)などの名前は、霊(ひ)を運ぶ鳥信仰を示している。
 675年、天武天皇が農耕期間の4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食べることを禁止したのもまた、犬、サル、鶏は、霊(ひ)を運ぶ神聖な動物と考えていたことを示している。狼を「オオカミ=大神」と言い、石上神宮で鶏を、日吉大社で猿を神の使いとしていることが、それを裏付けている。さらに桃太郎伝説は、鬼(他部族の祖先霊)と戦うために、犬、サル、鶏に祖先霊を運ばせて戦ったことを伝えている。
 魏書東夷伝は、馬韓国(後の百済)や弁辰国(弁韓、後の任那・加羅)では「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」という鬼神信仰が行われ、倭国では鬼道が行われていたとしている。わが国だけ「鬼道」としたのは、この国が、孔子が「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願った「道」の国であったからに他ならない(王勇著『中国史の中の日本像』)。
 この「魏」は「委+鬼」であり、「鬼」は頭蓋骨や仮面をかぶった人とされている。「委」は「禾(のぎ:稲)+女」で女性が稲を掲げた様子を表しており、「魏」は女性が鬼(祖先霊)に稲を捧げることを表した漢字である。
 「卑弥呼(霊巫女)」が祖先霊(大国主)を祀り、もと百余国であった倭国の1/3の北九州の30国を再統一して使いをよこした(臣下になった)ということは、三国で覇権を争っていた魏の曹操の一族にとっては、これとない吉兆であったに違いない。
 その魏皇帝が卑弥呼に百本の鉄刀ではなく百枚の鏡や絹織物、口紅用の鉛丹を与えたのは、30国が男王国ではなく女王国であったことを示している。
 鏡は化粧道具として、さらには持ち主の霊(ひ)を宿す神器として、「鬼道」の霊(ひ)の国の支配秩序を強化するために付与したものであり、全部が同じ鏡ということは絶対にありえない。卑弥呼には鉄鏡、30国の女王と官・副官に対しては銅鏡と4ランクに分けた鏡を付与したに違いない。100枚全てを同じ三角縁神獣鏡とする説は「平等幻想説」という以外にない。
 皇帝を表す龍を彫った鉄鏡は玉(印や壁)と以上の曹操一族のシンボルであったが、その「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が日田市(甘木=天城のすぐ隣り)から発見されている。この鉄鏡は、邪馬壱国の位置を決める決定打である。



 アマテラス(大霊留女)神話に鉄鏡製作がでてくることは、この卑弥呼の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を真似て、その死後に鉄鏡が作られたという史実があったと見て間違いない。この記紀神話の鉄鏡は、卑弥呼の鉄鏡伝承を元にアマテラス神話が作られたことを示している。
 漢皇帝の金印とガラス璧、「漢委奴国王」と魏皇帝の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を結ぶ皇帝ライン上に邪馬壹国はあり、それは記紀が示す高天原の所在地「筑紫の日向(ひな)の橘の小門の阿波岐原」の「甘木の蜷城(ひなしろ)」に邪馬壹国があったことを示している。



 卑弥呼はスサノオから16代目、大国主から10代目の邪馬壹国の王であり、鬼道、即ちスサノオ・大国主信仰により、大国主の百余国のうちの「倭国の大乱」で分裂した北部九州の30国を再統一したものである。これは周王朝の後継者として漢の再統一を図ろうとした曹操一族の姿とピッタリと重なる。
 一方、天皇家に伝わる「三種の神器」の鏡は銅鏡であり、天皇家が明治まで伊勢神宮に詣でず、皇居にアマテラスを祀っていないことは、天皇家はアマテラスの霊(ひ)を受け継いだ子孫ではないことを証明している。記紀神話のアマテラス(天照大御神)は、大国主の御子の「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)」の名前から「天照」を、「阿遲鉏高日子根(あじすきたかひこね)」の別名の「迦毛大御神」から「大御神」をとり、「卑弥呼=大日留女命=大霊留女」の尊称名とし、実在した4人の女王を合体して創作された神である。
 縄文からスサノオ・大国主時代へと続く祖先霊信仰は、仏教に引き継がれて、盆や正月などには迎え火・送り火の行事となり、灯籠流しや精霊流し、流し雛、おけら参り、大文字焼きなどの宗教行事として、今も各地で継承されている。



 山車(だし)や屋台や御輿に家々の神棚や仏壇の祖先霊を乗せて神社に運び、祭神の霊とともに山上や海岸の御旅所に運び、祖先霊を天に送り、パワーアップした神を再び迎え、山車(だし)や御輿に移して再び社に迎え、さらに各集落の各家の神棚・仏壇に移す儀式もまた、霊(ひ)の再生儀式である。
 この山車(だし)のルーツは、スサノオの御子の射楯神=五十猛(倭武)神と大国主を祀る姫路の総社に伝わる20年の一度の「三ツ山大祭」、60年に一度の「一ツ山大祭」の置き山にあり、この祭りは播磨国一宮の伊和神社から伝わり、さらにその前身は出雲大社の「青葉山(古事記のホムチワケが言葉を話せるようになった物語に登場)」であると私は考えている。



 この祭では、全国の神々を巨大な「山」(竹で作り、布を巻いたもの)に迎え、総社に移して祀り、再び「山」から送り返す。栃木県那須烏山市の八雲神社の「山あげ祭」や仙北市角館町の「大置山」、高岡市二上射水神社などの「築山」も同じものである。篠山市の波々伯部(ほうかべ)神社で3年ごとに行われる「お山行事」の「キウリヤマ」は、姫路・総社の動かぬ「山」を台車の上に組んで曳くもので、山車や曳山、山鉾の原型であり、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)はさらにその発展型である。
 なお、私の両祖父母の家では、田の字型の間取りで、神棚は入ったところのおもて(居間)にあり、仏壇はその奥の座敷(客間)にあった。出雲大社神殿もまた同じ田の字型で、座敷にあたる正面に祖先神の「別天津神5柱:(天之御中主、高御産巣日、神産巣日、宇摩志阿斯訶備比古遅、天之常立)」を祀っている。この古事記に最初に登場する「別天津神5柱」が出雲大社に祀られていることは、この国の建国神話がスサノオ・大国主一族の伝承であることを示している。
 この神(祖先霊)と同居する宗教思想は、出雲大社を原型とし、仏壇と神棚を家の中に置き、現代まで多くの家で引き継がれている。この祖先霊信仰は、縄文時代の大地からの黄泉帰り思想から、大国主の時代に魂魄分離の昇天降地思想に変わるものの、一方では、大国主一族は丹生産を支配して丹を使う葬送儀式を継続しており、両宗教思想を折衷している。

5 まとめ
 以上、船(交易)、武器(軍事)、稲作(生産)、宗教(政:まつりごと)の4つから、縄文社会から断絶なしにスサノオ・大国主による古代国家建設に繋がることを明らかにしてきた。「弥生時代」や「弥生人征服史観」は考古学者・歴史学者が作り上げた幻想である。
 これまで、4大古代文明が大河のほとりで大規模灌漑農業により成立したと考えられてきたが、もう1つの古代文明モデルとして、私たちは四大文明の周辺で発生し、西洋文明(民主主義)のルーツとなったギリシア文明を評価しなければならない。
 わが国は、海洋交易小国のギリシアと同じように、海洋交易部族の対馬・壱岐の海人(天)族のスサノオ・大国主が、「米鉄交易」により「鉄器稲作革命」を指導して建国した「自立交易国家」であった。その建国神話は天皇家によって作り替えられ、戦後は架空の創作とされてきたが、ギリシア神話と同様に、史実を伝えているものとして、復権されなければならない。
 「反韓・反中国」の排外主義が煽られている今こそ、アジア各地から様々な民族を受け入れて自立した発展を遂げた縄文社会と、そこから生まれた「海洋交易国」の古代国家建国史が見直されなければならない。最大貿易国のアメリカと戦い(それも天皇家の暗殺史を見習った奇襲作戦で)、いままた、再び、最大貿易国の中国との対立が煽られているが、これはこの国の歴史への裏切りである。
 「拝外主義」の「模倣史観」と「排外主義」の「チャンバラ征服史観」、この2つがこの国の縄文から古代国家建設の歴史解釈をゆがめてきた。
 中国文明の周辺にありながら、わが国独自の文化・技術・生産体制・宗教思想を発展させてきたギリシア文明型の海洋交易民の「自立交易史観」の確立が求められる。

「縄文ノート14 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」の紹介

2020-04-07 20:48:54 | 縄文
 はてなブログに「縄文ノート14 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 2018年12月の縄文社会研究会へのレジュメ「大阪万博のシンボル『太陽』『お祭り広場』『原発』から次へ」をもとに加筆しました。
 「科学技術大国」「経済大国」の夢破れ、この20年でIT分野では韓国・中国に追い抜かれてしまった「失われた20年」に対し、2020年東京オリンピック、2025年大阪万博で元気になろう、イベント観光と大型公共投資で活路を見出そう、国民の誇りを取り戻そう、というのですが、私には1960年代の古くさい手法に思えてなりません。新産業創出による雇用創造などできるのでしょうか?
 再掲にあたっては、岡本太郎さんの「太陽の塔(生命の樹)」などを宗教論や倭語論で補充するとともに、「3つの『太陽の顔』のメッセージ」を追加しています。
スサノオ・大国主建国論においても、今後、世界的なアピールを考え、岡本太郎さんの縄文論との関係について考えてみていただきたいと考えます。雛元昌弘

太陽の塔(生命の樹)の3つの顔:万博記念公園HPより

「日本列島文明論6 日本列島文明論メモ:サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』より」の紹介

2020-04-03 18:36:47 | 日本文明
 Livedoorブログの「帆人の古代史メモ」で「日本列島文明論6 日本列島文明論メモ:サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』より」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 私が文明論について始めて書いたのは2018年8月の「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」です。11月に修正し、『季刊日本主義』44号(181225)に「海洋交易の民として東アジアに向き合う」として掲載されました。
 その後、2019年4月に縄文社会研究会に向けて書いたのがこの小論です。
 不均等発展による南北格差、都市農村格差、民族・宗教・階級対立をいかに乗り越えられるか、人類は共通の価値観を共有できるか、という観点から、土器(縄文)文化、八百万神信仰などの世界遺産登録運動などを通して、「縄文文明」「日本文明」「日本列島文明」を世界にアピールしたい、と考えています。
 スサノオ・大国主建国論としても、出雲対大和、出雲の東西対立などの範囲でなく、世界にアピールできるものがあるかどうか、文明論・文化論として考えてみていただければと思います。雛元昌弘


倭語論18 柿本人麻呂の漢字表記からの古代史分析 

2020-04-02 16:58:42 | 倭語論
 2019年7月に書いたレジュメ「柿本人麻呂の『「漢字2重表意(ダブルミーニング)用法』」をもとに、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の執筆で当時の最大の難問であった「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読むか、「いのの国」「のの国」と読むか、などの論点について再考したものです。
 「のの国」と読んだ方が、魏書東夷伝倭人条に書かれた行程、伊都国から百里の奴国の王都の位置はが「野芥(のけ=のき=の城)」の稲田神社あたりになり、さらに百里先の不彌国の位置は須久岡本遺跡(現在、奴国の王都とされている所。弥生・弥永地名あり)になり、方位と距離、地名が一致するのです。
 この論点については、すでに「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」でもふれましたが、柿本人麻呂の漢字用法から遡り、紀元1~8世紀の漢字表記についての検討を紹介します。雛元昌弘

1.柿本人麻呂の七夕歌(2014)の表裏の2解釈
 ①原文 吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寳比尓徃奈 越方人邇
    (我らが待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも 匂いに行かな 越方人(をちかたひと)に
 ②表解釈 私たちが待っていた秋萩が咲いた。今こそ匂いに行こう、川向こうのあの人に。
 ④裏解釈 私が待っていた若い女の子の、開いた女の又の、今谷の毛を、匂いにいこう(その宝(寳)の間(比)に行こう)、越えてあの人の近くへ。

 この後者の私の解釈には、後世の朱子学派やキリスト教などの禁欲主義の人からは反対意見も多いと思いますが、土器(縄文)人のDNAを持った楽天派・快楽派の皆さんには違和感なく納得いただけるものと思います。
 かつて『島根日日新聞』(出雲市)で「奥の奥読み・奥の細道」(2016.3.9~9.21の29回)を連載させていただいたことがありますが、古事記を含めて「表読み・裏読み(表書き・裏書き)」はこの国の文学・歴史表現の伝統と考えています。それは、漢字を表意文字と表音文字として使い分ける、というわが国独特の倭流漢字表記が可能にしたものです。
 
2.柿本人麻呂の漢字表記例
 上記の歌から、柿本人麻呂がどのような漢字表記を行っていたか、整理すると次のようになります。
 
 
柿本人麻呂の漢字表記例



 倭語倭文は単純に漢字漢文を導入するのではなく、上記のような独自の倭流漢字用法を考え、音訓読み、当て字などにより、多様な表現方法を生み出してきました。それは、駄洒落(なぞかけ)大好き、言葉遊び大好きな国民性として、今に生きています。英語が入ってきても「ホテルで火照る」「インテル入ってる」など、その変わらない国民性は万葉集に遡ると考えます。
 私がこのような倭語・倭文の特徴に関心を持つようになったのは、古事記で「群品の祖」(人間のおや)とされた始祖神の「高御産巣日(たかみむすひ)神、神御産巣日(かみむすひ)神」を、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)尊、神高皇産霊(かみむすび)尊」と記し、「日=霊(ひ)」としていたことに気づき、記紀の「日」をすべて「霊(ひ)」の可能性がないか、検討してからです。
 その後、あるきっかけで松尾芭蕉の「奥の細道」を読みましたが、「2重表意漢字表記」だらけであり、江戸時代にもこのような多様な漢字表現は続いていたのです。―詳しくは山陰日日新聞(出雲市)で2016年3~9月に29回に分けて連載した「奥の奥読み・奥の細道」参照
 古事記などを読むときには、上記の6つの漢字用法を念頭において分析する必要がある、ということを、改めて強調しておきたいと考えます。

3.委奴国・奴国の「奴」は漢人の蔑称か、倭人の尊称か?
 これまで、「漢委奴国王」「奴国」は「漢の倭の奴(な)の国王」「奴(な)国」と読まれてきました。さらに、「奴」字は「卑弥呼」と同じように、中国側が付けた卑字であるというのが通説でした。「奴」は「女+右手」で、奴卑・奴隷を表し、「匈奴」などに使われているからです。
 このような判断の前提として、漢字・漢文の導入は天皇家による大和朝廷であり、委奴国や倭国の頃には倭人は文字を知らなかった、という根強い思い込みがあったからです。
 ところが、魏書東夷伝倭人条には卑弥呼は魏皇帝に「上表」したと書かれており、そもそも1世紀に後漢に使いを出した「委奴国王」が国書を持参しなかったことなどありえません。漢が国王と認めた委奴国王に金印を与えたということは、倭人が国書をやりとりできる、ということを前提にしていたことを裏付けています。冊封国と認めたということは、それにふさわしい漢文化の国として認められたということであり、国書のやりとりのために金印が与えられたのです。
 その漢字の伝来は、紀元前3世紀の徐福の頃からの可能性が高いと考えます。
 「委奴国」「奴国」の「奴」は漢音・呉音では「ド」であることも、中国側が付けた国名ではないことが明らかです。というのは、スサノオ2代目の「八嶋士奴美」、3代目「布波能母遲久奴須奴」、5代目「淤美豆奴」や、大国主が妻問い(夜這い)した「奴奈川姫」(奴奈川は現在の糸魚川)、大国主・鳥耳の筑紫王朝4代目の「早甕之多氣佐波夜遲奴美」の名前に「奴」字は使われており、卑字とみなされていなかったことは明らかです。スサノオ・大国主時代の1~2世紀には「奴」は「ぬ」と読んでおり、「匈奴(きょうど)」のような「奴(ど)」読みではないのです。
 一方、3世紀の魏書東夷伝倭人条では、「奴」字は対馬国・壱岐国・奴国・不彌国の副官名の「卑奴母離」名にも使われていますが、「比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守」と書かれることがあることからみて、この時代には「奴」は「な」と読まれていたことが明らかです。従って3世紀の「奴国」もまた「なの国」の倭音読みであり、邪馬壹国側が主体的に付けた国名であることが明らかです。
 しかしながら、8世紀の記紀・万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれており、魏書東夷伝倭人条の3世紀頃だけが「な」読みであったことになります。
 では「奴」を倭人はどのような意味で使っていたのでしょうか?
 大国主が越の奴奈川姫からヒスイを手に入れ、出雲の玉造で加工した玉の王であり、各地で「大国魂」=「大国玉」名で祀られていることから見て、和語では「奴(ぬ)」は玉、ヒスイを表し、スサノオ・大国主一族の王名に使われたと見られます。
 辞書などない時代ですから、倭人は「奴」字を「女+又(股)」=女性性器と考え、霊(ひ)=魂がやどる女性の性器に当てていた可能性が高いと考えます。出雲では今も妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、沖縄の宮古地方では女性器を「ひー」、熊本の天草地方では「ひな」と呼び、栃木・茨城ではクリトリスを「ひなさき」と呼んでいたことからみても、「奴(ぬ)」は「霊(ひ)=魂」が宿る場所であり、魂が宿る石もまた「奴(ぬ)」と呼ばれたと考えます。
 白い「ひすい」は緑の羽の鳥の「翡翠」とは異なり、語源は不明とされていることからみて、和語の「ひすい」が漢に渡って「翡翠」の漢字とされた可能性が高く、倭語の「霊(ひ)吸い」を表した可能性が高く、「奴(ぬ)」=「霊(ひ)吸い」は女性の子宮と同じ神聖なものとして、て王名や国名に付けられたと考えます。
 柿本人麻呂の漢字用法からいえば、5番目の「漢字分解漢字表記」にあたるものであり、和語・和音の「ぬ」に「奴」の漢字を当てた可能性が高いと考えます。
 
4.母系制時代の中国でも「奴」は尊称であった
 「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」で述べたように、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示しているように、元々、孔子が理想と考えていた周王朝は母系制社会であり、「女+又」は霊(ひ)を育む女性性器を表し、尊称であったと考えます。
孔子が理想と考えていた周王朝は「女+臣」の姫氏の国であり、その一族の魏国は「禾+女+鬼」であり、女性が稲を祖先霊に奉げる鬼神信仰(鬼道)の国であったのです。それは「倭国大乱」の時の皇帝が「霊帝」であったことからも明らかです。
 「奴」が「女+又(右手)」とされ、奴隷を表すようになったのは、春秋・戦国時代に母系制社会から父系制社会になり、女奴隷が生まれてからと考えれられます。
 倭人が漢字を覚えた頃には、「女+又」は尊称で、そのままスサノオ・大国主一族に受け継がれた可能性が高いと考えられます。

4.「奴」は「ぬ」か「な」か?
 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の第2版を出すにあたり、一番頭を悩ませたのが「委奴国」を「いなの国(稲の国)」と読むか、「いのの国」と読むかでした。
 2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』の時には、倭国大乱の頃に倭国が「八倭人、九天鄙(あまのひな)」に分裂していたことや、九州の旧名「白日別」「豊日別」「建日向日豊久士比泥別」「建日別」が元の「日国(ひなの国)」から別れた国であること、海の「一大国(いのおおくに)=天一柱(あめのひとつはしら)=壱岐」と山の「邪馬壹(やまのいの)国=邪馬一国」、枕詞の「天離(ざ)かる鄙」「鄙離かる鄙」などから、「委奴国」を「ふぃなの国(いなの国、ひなの国)」としていましたが、あらたに「いのの国」説を考える必要がでてきたのです。
 結論は「倭語論11」で書いたように、「海の『うみ、あま』読み、『原』の『はる、はら』読みの『う=あ』『い=あ』母音併用の例から見て、『委奴国』は倭音では『いぬうあの国』と発音し、『いぬの国』とも『いなの国』ともとれる発音であり、『稲(いな)の国』として『委奴国』の国名を国書に印し、光武帝に上表した」と考えます。
 そして委奴国王の使いは魏で「奴」字が卑字であることを知り、次の倭王師升の時に「委奴国」の「奴」を取り、「委」に「人」を付けて「倭国(いの国)」と称したと考えれられます。
 
5.拝外史観・排外史観から自尊史観へ
 古事記序文で太安万侶は、参考にした「国記」「旧辞(くじ)」は音訓を併用していて、「すでに訓によりて述べたるは、詞(ことば)心におよばず」と漢字に独特の読み方を充てた訓読みや和語に独特の漢字を充てた訓読みが、漢文に長けた太安万侶には理解できなかったと書いています。
 天皇家の大和政権以前に、スサノオ・大国主の時代から独自の音訓和語表記が発達していたことを太安万侶は隠していません。そして蘇我一族によって編纂された「帝皇日継・先代旧辞」を稗田阿礼に「誦(よ)み習わせた」のです。この「旧辞漢字表記」とでもいうべき音訓混じりの漢字表記こそ、スサノオ・大国主の委奴国で使われていた漢字表記であることを示しています。
 大和朝廷の前には文字使用が行われておらず、稗田阿礼が暗唱していた口伝の物語をもとに古事記が作成されたなどという神話こそ、破棄されるべきです。漢字を使用する古代国家建設が天皇家であるとの「皇国神話」の虚構から覚め、スサノオ・大国主の建国を神話から歴史へと回復させるべきでしょう
 また漢字・漢文大好き・大得意の学者・知識人が、「倭国」を「わこく」、邪馬台国を「やまたいこく」、「邪馬壹国」を「やまいこく」と読むような古代史研究は全面的に見直される必要があると考えます。「大和」を「やまと」と倭流の当て字読みを行うなら、「大和国」は「おおわの国」と倭流で読むべきと考えます。音読み・訓読み・当て字読みチャンポンの古代史分析は見直す必要があると考えます。
私は言語学も漢文も和文も素人ですが、倭流漢字使用の研究から、古事記・日本書紀・風土記・万葉集研究は再検討される必要があると考えます。
 邪馬台国論争においては、「魏書東夷伝倭人条は信用できるが、記紀は信用できない」とする拝外主義、「記紀は信用できるが、魏書東夷伝倭人条は信用できない」とする排外主義から離れ、「魏書東夷伝倭人条、記紀ともほとんどは信用できる」とし、漢語漢文と倭語和文(倭流漢字表記)の両方からアプローチした分析が必要と考えます。
 なお、「文化は周辺に残る」ということから考えて、「奴」字のように本来の母系制社会での語源・用法は中国ではなく日本に残っている、という視点が必要と考えます。

「縄文ノート13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」の紹介

2020-04-01 20:46:28 | 縄文
 はてなブログに「縄文ノート13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
 2014年8月のレジュメ「『縄文日本の会』での意見へのメモ―7.古代史に見られる民衆レベルの母系制社会について」と、2018年12月に書いたレジュメ「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」を合体し、一部、言語論、土器(縄文)時代農耕論、土器(縄文)時代論などを加筆しました。
 「海人族の土器(縄文)社会の均一性」「母系制社会の妻問夫招婚」「土器(縄文)時代農耕による定住生活」と、今回は触れませんでしたが「霊(ひ)信仰」論を加えると、私は世界史の中で「日本列島文明」の主張が成立すると考えます。
 「縄文社会」を一国的な視点でとらえるのではなく、世界史の中での特徴的な「日本列島文明」として把握し、世界遺産登録運動を展開すべきと考えます。
スサノオ・大国主建国論においても、土器(縄文)社会との連続性についての分析が不可欠と考えます。雛元昌弘

「倭音(和音)」と記紀・琉球伝承などからみた土器(縄文)時代の五穀栽培