ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団83 生石村主真人の歌は誰に捧げられたか?

2010-02-20 14:23:10 | 歴史小説
「石の宝殿」へ昇るスロープ


「石の宝殿を見る前に、聖武天皇と生石村主真人の関係について、結論を出しません?」
駐車場に車を停めてさあ降りようという時に、ヒメが言い出した。ヒメは考えだしたら止まらない。皆はやっぱりね、と目配せして車に留まった。
「そうよね。なぜ聖武天皇はこの印南の地に行幸したのかなあ。それと、聖武天皇は天武天皇の血を引く一方、その母は藤原不比等の娘、妻も不比等の娘だから、藤原氏との関係が深い。それなのに藤原一族の拠点の平城京から恭仁京や難波京へ遷都した理由がよくわからないわね」
マルちゃんの質問は、5w1Hの「WHY」へと進んできた。
「聖武天皇即位の5年後には、天武天皇の孫の長屋王が藤原不比等の息子の藤原4兄弟によって謀反の疑いをかけられて殺されています。聖武天皇の時代は、天武天皇系の皇族と、藤原一族・天智系皇族の熾烈な権力闘争が戦われた時代と考えられています」
高木は常識的な答えを口にしたが、皆さんには言うまでもないことであった。
「聖武天皇は外戚の藤原氏の圧力と戦いながら、天武系の皇族による支配体制の強化を図ろうとしていたというわけね。そうすると、紀伊、吉野、難波、印南への行幸は、天武系の各地の氏族への根回し、ということになるのかな?」
マルちゃんは、答えを知りながら生徒に質問してくる長老みたいな言い方になってきた。
「紀伊はスサノオ、難波と印南は大国主一族の拠点だから、それは十分に考えられる。吉野は大海皇子、後の天武天皇挙兵の地だから、天武派の聖地になる」
いよいよカントクの出番である。こうなると止まらない。
「壬申の乱後、天武天皇は播磨・丹波の郡司に特別に禄を与えた。これは、大津皇子の西への退路を断つ重要な役割を播磨と丹波が果たしたことが評価されたことによると思われる。さらに、唐に対する国内最大の軍事拠点であった筑紫の美努王(三野王とも書く)は、大友皇子の軍派遣の要請を断っておる。大海皇子の拠点の美濃では、美濃王が大海皇子に付いている。美努王も美濃王も、美濃の母方で育てられた皇族であったと考えられる」
ここまで深くは考えていなかった高木にも、先は見えてきた。
「長屋王を殺した藤原4兄弟が天然痘で死んだ後、聖武天皇が美努王の子の橘諸兄を取り立て、国政を任せたとうのは、壬申の乱ネットワークの復活、ということですね」
「印南に行幸し、石の宝殿を見た聖武天皇は、この生石(おいし)の地で大国主の子孫と反藤原包囲網の相談をした、と考えるとワクワクとしてくるわね」
ヒメのキラキラした目の輝きをみていると、どうやら次の小説の世界に入ってしまったようだ。
「上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)は播磨国の国司で、藤原4兄弟が死んだ翌年に生石村主真人は美濃の少目(しょうさかん:補佐官)になっておる。これを見ると、生石一族は聖武天皇を支える有力な武人であった可能性があるな」
「上生石大夫の『上(かみ)』は『昔の、前の』というような意味もありますが、『神』の可能性もあります。もし『神』となると、スサノオ・大国主の一族を指すことになります」
高木にはとてもそこまでの考えは及ばなかった。ヒナちゃんの推理力には驚いた。

「上生石大夫を見つけ、生石村主真人の年表を作ったヒナちゃんには、全てお見通しだった、ということになるわね」
ヒナちゃんに「すごいね」と声をかけようとしていた高木であったが、マルちゃんに先を越されてしまった。高木の体内時計のテンポが遅いのは、長年の生活習慣なのか、それともDNAのせいなのか、なかなか改善できそうにない。
「生石村主真人が詠んだ『大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座 志都乃石室者 幾代将経』の歌は、いつ、どこで、誰に、何のために捧げられた歌かな、と考えたのがそもそものスタートなんです」
ヒナちゃんも5w1H派であったのか。
「志都乃石室の前に立って、生石村主真人が生石一族の先祖の大国主と少彦名のはるか昔の国づくりの偉業を懐かしんで詠んだ歌か、と最初は考えました。しかし、そんな単純な過去志向の歌かな、という疑問がすぐに湧いてきました。天武天皇の諡(し)号、『天渟中原瀛(あまのぬなはらおき)真人』と同じ『真人』を名前に持つ生石村主真人です。『真人』は道教においては不老不死の『仙人』の別称ですから、永遠に未来を生きる人という意味になります。大国主と少彦名の国造りに習って、これから悠久の国づくりを進めよう、という未来志向の歌の可能性はないかな、と考えました。
そこで年表を作ってみると、この歌は真人が石の宝殿を見た聖武天皇に捧げた歌では? とヒラメキました。そこで播磨国風土記を読み返してみると、上生石大夫の名前がでてきたので、この仮説に自信がでてきました」
「こんど『石の宝殿殺人事件』を書く時には、ヒナちゃんを主人公にしたいなあ。今回の調査旅行は面白くなってきたわね」
ヒメはやはり次の小説を考えていたようだ。ヒメに関しての高木のカンは悪くはない。
「ヒナちゃん、修士論文は『播磨国風土記』をテーマしたらいいと思うよ」
長老はいつものように指導教官口調である。
「あとは、石の宝殿を見てから、話を続けましょう」
やっと、ヒメの「なぜなぜ頭」の回転は止まったようである。

(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)
(日南虎男:そろそろと『邪馬台国探偵団』http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/を始めました。4月いっぱいは、週1更新は難しいかもしれませんが、よろしく)

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神話探偵団81 聖武天皇は石の宝殿を見たか?

2010-02-11 12:00:15 | 歴史小説
「石の宝殿」南の古代天皇の石棺に使われた竜山石の石切場


「しかし、生石村主真人が播磨の生石の出身なら、なぜ『志都乃石室』などと言ったんでしょうか?『石の宝殿』と分かるように詠むのではないでしょうか。播磨国風土記が物部守屋が作った、と記しているのも引っかかりますね」
高木はまだ納得がいかなかった。
「播磨国風土記や生石村主真人の関係を時系列で整理してみてくれない」
カントクが何か思いついたようだ。
「カントクの興味のある壬申の乱から、整理してみました。一覧表をコピーして用意しましたので見て下さい」
高木はあらためてヒナちゃんの実力を思い知らされた。そこには、次のような年表が整理されていた。

<聖武天皇と生石村主真人 年表>
672年 壬申の乱
686年 天武天皇死去、大津皇子処刑
710年 平城京遷都
712年 古事記作成。この頃、万葉集編纂開始。
713~15年 播磨国風土記
720年 日本書紀
724年 聖武天皇即位、紀伊国行幸
725年 聖武天皇、吉野・難波行幸
726年 聖武天皇、印南行幸、難波京造営に着手
729年 長屋王自殺(天武天皇の孫)、藤原夫人を皇后に。
737年 長屋王を自殺に追い込んだ藤原4兄弟死亡
738年 生石村主真人、美濃少目
740年 聖武天皇、恭仁(くに)京へ遷都。大仏造立を発願。
744年 難波京へ遷都
745年 平城京へ遷都
750年 生石村主真人、外従五位下
752年 大仏完成

「表を見て頂くと、生石村主真人は天武天皇の孫か曾孫の世代になります」
カントクやヒメの関心の高い壬申の乱から始めるとは、ヒナちゃんはおっとりした性格に似合わず、なかなか計算高い。
「これはいいねえ。こう整理してみるといろんな事が見えてくる。聖武天皇が即位の翌々年に印南に行幸し、直後に難波京造営に着手したというのは興味深いなあ」
カントクとヒナちゃんはまるで息を合わせているみたいだ。
「聖武天皇は、いったい印南のどこを訪ねたのかしら?」
マルちゃんの質問はいつも的確だ。5W1H、どこ、は重要だ。
「印南へ行ったとしたら、生石にある『石の宝殿』は確実に見たのではないでしょうか? それと、ヤマトタケル命の生地伝説があり、その母の播磨印南大郎女(はりまのいなみのおおいらつめ)の墓とされる日岡山、ヤマトタケル命の王子、仲哀天皇の后の神功皇后(息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと)が大国主神に戦勝を祈願し、建立したとされる高砂神社なども見た可能性があります」
ヒナちゃんの下調べは抜かりがない。
議論に夢中になっているうちに、車は生石神社に到着した。神社正面の急な石段の下には車を停める場所がなかったため、さらに先に進むと、神社の南側に駐車場が整備されていた。

(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)


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神話探偵団81 生石村主真人と石の宝殿

2010-02-07 21:09:37 | 歴史小説
石の宝殿を御神体とする生石(おうしこ)神社


「岩室からは石の宝殿が有力だけど、生石村主真人との繋がりはどうなるのかな?」
今日は長老がいつもになく積極的だ。
「『村主(すぐり)』の姓(かばね)は、仁徳期に阿智使主(あちのおみ)が百済から連れてきた氏族とされています。阿智使主は秦氏、漢(あや)氏の祖とされており、有名な坂上田村麻呂は東漢(やまとのあや)氏の子孫とされています」
高木は新幹線の中で調べてきたホヤホヤの知識を披露した。
「真人(まひと)はどうなのかな?」
教師の悪い癖で、誰でもゼミの学生扱いにして突っ込んでくる。
「真人(まひと)というと、天武天皇が定めた『八色(やくさ)の姓(かばね)』の最高位の姓です。天武天皇の和風諡号は『天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)』であり、もとは皇族にのみ与えられた姓です。しかし、天智系の天皇と藤原氏が権力を握ると、『真人』は皇族ではなく、天武系の人々に懲罰的に賜姓された、と考えられています」
「そうすると、それほど高い地位ではなかった、ということか」
高木の事前調査ではそこまで調べていなかった。
「続日本紀では、生石村主真人は天平10(738)年に美濃少目(みののしょうさかん)となり、天平勝宝2(750)年に外従五位下に叙されたとされています」
ヒナちゃんがスマートフォンを見ながら助け船を出してくれた。
「美濃というと、大海皇子、後の天武天皇の根拠地であり、壬申の乱において美濃の兵3000人が関ヶ原を塞ぎ、天武天皇軍勝利の重要な役割を果たしています。生石村主真人は壬申の乱で活躍した天武天皇直属の武人の子孫であった可能性が高いと考えられます」
壬申の乱となると、高木の出番であるが、思わぬところで生石村主真人との繋がりがでてきた。
「目(さかん)というのは何なの?」
ヒメの質問癖が始まった。
「目(さかん)は、国司として中央から派遣された四等官です。また、『外従五位下』の『外』位は中央の役人ではなく、国司などの地方の役人に与えられた官位で、五位から初位までの5階の最上位の下という位でした」
ヒナちゃんの調査はいつも詳しい。
「古代人の名前は、どこどこの誰々、と地名を頭に付けることが多いよね。『生石』について、出雲や播磨に繋がる手がかりはないの?」
ヒメはツボを外さない。
「残念ながら、生石村主真人については、他の国での経歴は分かっていません」
資料からは、ここまでしか分かりませんというほかなかった。
「ひとつ、手がかりがあります」
思いもかけぬヒナちゃんの発言に高木はびっくりした。
「こちらに来る前に、播磨国風土記を読んできたのですが、その播磨郡、今の姫路市のところに、『上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)、国司(くにのみこともち)として有りし時に、墓のほとりに池を築いた』と書かれています。「生石」一族に播磨国の国司がいることからみて、生石村主真人もまた播磨の「生石」ゆかりの一族であった可能性が高いといえます」
これは、予想もしない爆弾発言であった。
「播磨国風土記は、嘉永5年(1852年)になって初めて三条西家から世に出たものです。これは本居宣長や平田篤胤の死後になります。従って、本居宣長や平田篤胤が、生石村主真人を出雲に結びつけた判断は誤りであった可能性は高いと考えられます」
「そうすると、生石村主真人の『大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座 志都乃石室者 幾代将経』の詠んだ志都乃石室は、石の宝殿ということで決まりね」
ヒメは相変わらずの早合点である。

(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)

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