ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主ノート144 「じんざい→ぜんざい」はズーズー弁から?

2022-11-25 17:28:21 | 日本文明

 「国生み地図・表」を作成中ですが、ちょっと一息入れたいと思います。

 日テレの「遠くへ行きたい」11月6日、『「羽田美智子の島根旅!電車運転に挑戦&奥出雲でキノコ採り」』の録画を見ていたら、神在月で振る舞われていた「ぜんざい」は昔は「神在(じんざい)餅」とよばれ、ズーズー弁で「じ」が「ず」になり「ずんざい」と発音し、さらに「ぜんざい」になった、という説明がされていました。

 このズーズー弁由来説に対し、私はGooブログ「倭語論15 古日本語は『3母音』か『5母音』か?」(200218)などで明らかにしましたが、古日本語は「あいういぇうぉ」5母音であり琉球弁は「あいういう」母音が残り、本土弁は「あいうえお」母音に変わりますが、出雲弁にも「あいういう」5母音が残り「じんざい」と発音していたものが、「じ→ぜ」の変化により「ぜんざい」に変わったと考えています。

       

 松本清張の『砂の器』では犯人と被害者が交わした「カメダ」の地名が秋田の「亀田」ではなく、島根の「亀嵩」であることから犯人を突き止めるという有名な推理小説ですが、学生時代に読んだ時から「東北弁→島根弁」ではなく逆で、「島根弁→東北弁」ではないか、と考えていました。

          

 縄文研究をやるようになり、柳田圀男の「方言周圏論」を批判し、縄文語ドラヴィダ語起源説、方言北進・東進説を解明してきましたが、対馬暖流を下って「島根弁」が東北に伝わったのです。―縄文ノート「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋」「93 『カタツムリ名』琉球起源説―柳田國男の『方言周圏論』批判」「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」「97 『3母音』か『5母音』か?―縄文語考」「128チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」「153 倭語(縄文語)論の整理と課題」参照

 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:第2版)などでも書きましたが、西アフリカのニジェール川流域のヒョウタンが若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡で見つかり、沖縄の貝が靑森・北海道に、糸魚川のヒスイの勾玉が奥尻島や種子島に、黒曜石がシベリアにまで運ばれ、さらに丸木船をくり抜く道具の磨製石器の丸ノミ石斧(せきふ)(琉球から南九州にかけて分布し、約5,000年前の曽畑式土器が琉球の読谷(よみたん)村や北谷(ちゃたん)町や九州西岸の縄文時代前期の遺跡、韓国の釜山市の貝塚から発見されていることからみて、縄文人の「対馬暖流海道」―「ヒョウタンの道」「貝とヒスイと黒曜石の道」「丸木舟と土器の道」があったことは明らかです。

        

 さらに、琉球開びゃくの祖が「アマミキヨ」と伝わり、琉球列島に「天城町」や「奄美大島」があり、九州には「天草」「甘木」「天瀬」「天久保」「天ケ原」があり、隠岐には「海士(あま)(古くは海部)」などの地名があることからみて、海人(あま)族は「対馬暖流海道」を行き来していたことを示しています。

     

 以上のように、縄文語は縄文人とともに対馬暖流に乗って南から北へと運ばれ、その痕跡はヒョウタン・貝・ヒスイ・黒曜石・土器や「アマ」地名として各地に広がったのです。

 「神在餅」もまた、東へと伝わるうちに「あいういぇうぉ」5母音の「いぇ」音の変化にともない、「じんざい」が「ぜんざい」に変わったのです。畿内に渡来人(弥生人:中国人・朝鮮人)が流入し、「じんざい」方言が周辺だけに残ったのではありません。

 なお、Y染色体DNA、いも食・ソバ食・稲作・もち食、霊(ひ:祖先霊信仰)・神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)、ポンガの烏まつりなどの伝播については触れませんでしたが、これら全てもまた「縄文人南方起源」を示しています。

 縄文人も食べていた小豆を使った「ぜんざい」を食べる機会がありましたら、スサノオ・大国主一族は縄文人の末裔なのか、それとも弥生人(中国人・朝鮮人)の末裔なのか、考えてみていただければと思います。

     

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「スサノオ・大国主建国論1・2」の修正

2022-11-23 12:23:36 | 邪馬台国

 三雲・井原遺跡、今宿五郎江・大塚遺跡、板付遺跡、那珂遺跡で環濠城(集落)の発掘が進んでおり、「スサノオ・大国主建国論1」の図2を修正しました。パソコンを何度か変えたためイラストレーター(作図ソフト)が使えず、ワードの稚拙な図になっています。

 なお、伊都国―奴国―不彌国間がそれぞれ百里(約8㎞)の距離であることから、三雲・井原遺跡(伊都国)と須玖岡本遺跡(不彌国)の中間に奴国の王都・奴城(のき)があったと考えており、古代母音「ie=い、え」から「き→け」の転換があったと考え、野芥(のけ)櫛田神社あたりに奴国の王都があったと考えており、今後の発掘を期待しています。

 また、「スサノオ・大国主建国論2」では、文言の小修正を行いました。

 

<修正図>

<元図>

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スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点

2022-11-17 10:20:32 | スサノオ・大国主建国論

 「141 出雲大社の故地を推理する」(221027)で、「2019年3月に「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」というレジュメを書いて関係者に配布し、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本第2版:2000年1月)にも入れたのですが、なぜかブログにはアップしておらず、次回に掲載します」と書きましたが間違いでした。

 2000年1月28日、Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」として掲載していましたので、訂正いたします。―邪馬台国ノート2 纏向の大型建物は「卑弥呼の宮殿」か「大国主一族の建物」か: ヒナフキンの邪馬台国ノート (seesaa.net)

 スサノオ・大国主ノート141では、出雲大社が八雲山と琴引山を結んだ線上に立地している可能性に気付きましたので、纏向遺跡についてさらに分析を進め、なぜ古代人が「直線配置」「神名火山(神那霊山)配置」にこだわるのかについて検討しました。

 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」と合わせてみていただければ幸いです。

 

1.纏向遺跡の「直線配置」と「神那霊山型配置」

 邪馬台国ノート44の図を再掲しますが、この図1から纏向の古代の施設配置についてどのような法則性が読み取れるでしょうか?

    

 「アマテル太陽教」信者の大和中心史観・天皇中心史観の皆さんは、纏向で見つかった大型建物が日の出の方向を向いた神殿としていますが、肝心の「卑弥呼=アマテル=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)」説の箸墓や、同時代の崇神天皇陵・景行天皇陵は日の出の一定の方向を向いているでしょうか?

 図1に明らかなように、「纏向の大型建物」「箸墓」「10代崇神天皇陵」は穴師山を向いており、この地が穴師山を神名火山(神那霊山)とする出雲族の八百万神信仰の聖地であることを示しています。マスコミがもてはやす太陽神信仰の地ではありません。

       

 それだけではなく、「矢塚古墳―石塚古墳―大型建物―珠城山古墳」「箸墓古墳―ホケノ山古墳―穴師坐兵主神社(祭神:兵主神=大国主)」もまた穴師山を向いてほぼ直線状に配置されているのです。

 さらに、箸墓は三輪山と穴師山を底辺とした二等辺三角形の頂点にほぼ位置し、3世紀の石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・ホケノ山古墳の5基の帆立貝形式の前方後円墳には、「勝山古墳(3世紀前半)―矢塚古墳(同中頃)・石塚古墳(同初頭)」、「大型建物(同前半)―東田大塚古墳(同後半)・とホケノ山古墳(同中頃)」、「大型建物―ホケノ山古墳・珠城山(たまきやま)古墳(6世紀)」がそれぞれほぼ二等辺三角形をしています。

 この4つの「二等辺三角形配置」は、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りてくるという神那霊山(かんなびやま)信仰を地上に投影した「神那霊山型施設配置」と考えています。

 

2.神名火山(神那霊山)の神山天神信仰はアフリカをルーツとし、縄文時代から続く

 この富士山形の美しい「神那霊山」は「神名火山・神奈備山・甘南備山」などと書かれていますが、山上の神籬(ひもろぎ)(霊(ひ)(ひ)洩木)・磐座(いわくら))を神体としていることからみて、「神那霊山」(神の国(那)の霊(ひ)の山)から死者の霊が天に昇り降りてくるという神山天神信仰であると私は考えています。

 そして、そのルーツはアフリカであり、縄文時代から続いていると考えています。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57  4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」参照

    

    

   

3.穴師山を向いた「箸墓」「崇神天皇陵」と龍王山を向いた「黒塚古墳」

 今回、さらに調べると築造が4世紀初頭~前半とされ、三角縁神獣鏡33面とさらに古い画文帯神獣鏡1面が発見された黒塚古墳が龍王山を向いていることがわかりました。

     

 「3世紀中頃説」「4世紀前半説」のホケノ山古墳、4世紀前半の10代崇神天皇陵からみても、この地で神名火山(神那霊山)信仰のもとに古墳が配置されていたことが明らかです。

 なお12代景行天皇陵は少し軸がズレていますが、龍王山を向いているといえなくもありません。

4.狭井神社→ホケノ山古墳→崇神天皇陵の関係

 前方後円墳の前段階のホタテ貝型の前方後円墳のホケノ山古墳は不思議な古墳で、古墳の主軸が北西を向いているのに対し、遺体を収めた「石囲い木槨」は北北東を向いているのです。

   

 そこでホケノ山古墳の2つの軸を延長してみると、古墳軸は大神神社摂社の笹井神社(狭井坐大神荒魂(ささいにいますおおかみあらたま)神社)に、木槨軸は崇神天皇陵の後円部に向かっているのです。

 狭井神社は大神荒魂神を主神とし、大物主、媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)、勢夜多々良姫(せやたたらひめ)、事代主を配祀していますが、「大神」となるとスサノオ(大物主大神)しか考えれられず、大神神社より上の三輪山登拝口にある笹井神社は古くは大神神社の元宮であった可能性が高いと考えます。

      

 ホケノ山古墳はスサノオの子の大年(代々大物主を襲名)一族の王墓であり、狭井神社からの軸上に配置しているのは計算された配置とみて間違いありません。

それより後に築造され、穴師山を向いた前方後円墳の崇神天皇陵の後円部にホケノ山古墳の木槨軸が向いているのは、どう考えるべきでしょうか?

 ①形状や出土遺物から築造年代は3世紀中頃、②前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬、③木槨木材の炭素年代測定結果は4世紀前半も含む、④主体部西側に6世紀末頃の横穴式石室、という4点から考えると、美和(三輪)大物主王朝の間城を乗っ取った傭兵隊長の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)(諱=忌み名は崇神天皇)の一族が、3世紀中頃の大物主王墓を利用して4世紀前半に崇神天皇陵の石棺へ向けて木槨を配置して埋めた可能性が考えられます。

 「北向き配置にしょうとしたが少し東にズレてしまった」という説も考えられますが、北極星を知らなかったとしても、地面に棒を1本立てて太陽でできる影を記録すれば正確に北方位は割り出せますから、北向きがズレることなど考えにくいといえます。

 

5.石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳

 紀元3世紀の纏向型古墳5基の神那霊山との関係を見ると、図8のように矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳はほぼ龍王山方向、石塚古墳は三輪山、ホケノ山古墳は笹井神社を向いています。

 前述の穴師山を向いた箸墓と崇神天皇陵、を含めると、この地には三輪山、穴師山、龍王山の3つの神那霊山があったことが明らかです。

 ただ、次の3点は未解明です。

第1は、「矢塚古墳―石塚古墳―大型建物―珠城山古墳」「箸墓古墳―ホケノ山古墳―穴師坐兵主神社(祭神:兵主神=大国主)」が穴師山を向いてほぼ直線配置されている一方、それらの古墳が三輪山や龍王山を向いていることです。

第2は、箸墓や崇神天皇陵、八塚古墳や東田(ひがいだ)大塚古墳は後円部が神那霊山を向いているのに対し、勝山古墳・石塚古墳・ホケノ山古墳は前方部が神那霊山を向いていることです。

第3は、ホケノ山古墳が墓と槨の方向が異なっていることです(他の古墳については未調査)。

 これらの疑問点については、今後の調査・検討課題です。 

    

 

6.大坂(逢坂)・二上山と穴師山を結ぶ2本の「聖線」

 Gooブログ「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」では出雲大社が八雲山と琴引山を結んだ線上に立地していることを解明しましたが、大和にもまた穴師山と大坂(逢坂)・二上山を結んだ「聖線」がありました。

   

 図8の「二上山―穴師山」ライン、「大坂山口神社―穴師山」ラインを纏向あたりで拡大したのが図9ですが、大型建物と紀元3世紀のホタテ貝型前方後円墳の石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳の4基の帆立貝形前方後円墳がほぼこの2つのライン内に収まるのです。

     

 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』で私は次のように書いており、注を加えて再掲します。

 

 この墓づくりについて、日本書紀は次のように伝えている。

 日(ひる)は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。

 このリレー式に手で石を運ぶ様子は、すでに見た野見宿禰の竜野の墓の造成と同じである。この野見宿禰は、11代垂仁天皇の時、殉死の風習(魏志倭人伝によれば卑弥呼の墓では殉死が行われていた)を止めさせ、出雲から技術者を招き、代わりに埴輪を造って古墳に立てた、とされる土師(はじ)氏(注1)の祖先であり、この二つの墓づくりの話は、前方後円墳の造営が出雲の宗教=墓制に基づき、出雲族の土師氏によって行われたことを示している。箸墓は「土師(はじ)墓」からきているという森説を私は支持したい。

 ここで、15㎞も離れた奈良と大阪の間にある生駒山脈の「大坂山(逢坂山)の石」を遠くからリレーして運んだ(注2)という記述に注目したい。古墳の葺石は単なる構造物ではなく、神が宿る神聖な大坂山の磐座(いわくら)の石を運ぶ、という特別の宗教観があった可能性がある。

 この生駒山の大坂の地には伊勢街道を挟んで南北に二つの大坂山口神社(注3)があり、前者には「大山祇命、須佐之男命、神大市姫命(又は稻倉魂命)」が祀られている。大山祇命は神大市姫命の父、稻倉魂命=稲荷大神は須佐之男命と神大市姫命の子であることから、この大坂の地は須佐之男大神と神大市姫命が奈良盆地に入り、最初に拠点を構えた聖地であったと考えられる。この大坂の磐座から神の宿る石を運んで「大市墓(箸墓)」が造られていることからみて、大市墓は神大市姫命の子の大歳神(大物主神)の子孫の磯城王の王女の墓(注4)である可能性が高い。

 王の「ひつぎ(棺=霊継)」が、竜山石や阿蘇石など、その出身部族から「霊を運ぶ」霊継の道具として運ばれたように、大坂山の石(注5)が運ばれた可能性がある。なお、「日(ひる)は人作り、夜は神作る」という記載は、王の遺骸を「ひつぎ(柩、棺)」に納めて天に送り、天上から王の霊を次代の王が方壇(高御座=高御位)で受け継ぐという重要な「霊継(ひつぎ)」の埋葬儀式の一端を示している。ここでいう「神」とは、古事記によれば、伊邪那伎大神や須佐之男大神、大国主神の一族など、出雲の王族のことであり、「夜は神が作る」(注6)は、出雲の王族により死んだ王を埋葬する古墳の核心部が作られ、「日(ひる)は人が作り」(注6)とは、霊継の儀式を行う方壇部分(前方部分)が昼に後継王の一族によって作られたことを示している。そして、夜間に王の遺体を「棺」に収めて埋葬する儀式が行われ、夜が明けて、次代の王が、その死んだ王(天王)の霊を方壇で受け継ぐ、という儀式が行われたことをリアルに伝えていると考えられる。

 注1:大国主を国譲りさせた菩卑(穂日)の始祖神である。

 注2:大坂山より墓までリレー式に運んだというのは伝承ミスで、大阪(逢坂)から葛下川~大和川(初瀬川)~纏向川へと舟で運び、そこから墓までリレー式に運んだ可能性が高い。

 注3:大坂山口神社は近鉄大阪線の南の穴虫地区(二上山近く。祭神:大山祇・須佐之男・天児屋根)と北側の逢坂地区(祭神:大山祇・須佐之男・神大市比売)にあり、スサノオ一族の拠点であり、中臣・藤原氏の祖神の天児屋根は後世に習合されたと考えられる。

 注4:「箸墓」を「磯城王の王女墓」としたのは誤りで、「磯城王・大物主(太田田根子(おおたたねこ):意富多多泥古)と妻の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓」に訂正したい。

 注5:二上山凝灰岩は粗い白色の素地に黒い大粒の角礫が混ざっており、軽量軟質で加工・運搬が容易で大和の政治的・宗教的施設の造営に好んで使われた。一方、大国主・少彦名の「石の宝殿(筆者説:方殿)」のある高砂市の竜山でとれる青緑色ないしはクリーム色の流紋岩質凝灰岩は硬質で、天皇墓などの石棺に使用されている(奈文研ブログより要約)。

              

 注6:「日(ひる)は人作り、夜は神作る」は、昼は山人(やまと)族(天皇家:モモソヒメ系)、夜は海人(あま)族(天族=出雲族=大物主・大国主系)によって作られた、に停訂正したい。

 

 なお大坂はスサノオ(大物主大神)と神大市姫が御子の大歳(大物主)・宇迦之御魂(うかのみたま:倉稲魂)とともに奈良盆地に入った聖地であり、二上山山頂の葛木二上神社は大国魂(大国主)と豊布都霊(とよふつのみたま)(記紀からみて後世の合祀)を祀っており、大坂山(逢坂山)は二上山の麓の採石地でもある小山で、逢坂地名のあたりと考えられますが、古地図等で確認はできていません。

 箸墓に二上山凝灰岩が使われているのかどうか、古事記記載が史実かどうか、考古学者は確かめているのでしょうか?

 また、桜井市パンフの「纏向遺跡のイメージ図」は二上山が描かれており、二上山の方向を意識して書いていますが、大型建物が穴師山を向いているイメージ図も載せるべきでしょう。

        

 

7.大型建物と垂仁天皇宮跡・珠城山古墳群・景行天皇宮跡・穴師坐兵主神社・穴師山ライン

 邪馬台国畿内説論の学者とマスコミ支持者たちは、纏向の大型建物を卑弥呼=アマテルの宮殿としたり、中にはアマテル太陽神信仰の神殿とするなど大騒ぎしていますが、歴史学・考古学が非科学的な「古代ロマン」のレベルであることを証明してしまいました。

          

 大型建物の立地点をその地の遺跡や神社などと記紀に照らして即地的・文献的に検討するという基本的な検討を行うことなく空想の世界に遊んでいます。

 図12のように、大型建物の立地点は穴師坐兵主神社への鳥居の130mほどの西南西にあり、鳥居から穴師坐兵主神社までの直線距離で1.5㎞ほどの間には、11代垂仁天皇纏向珠城宮跡と珠城山古墳群(6世紀前・中・後期の3基の前方後円墳)、12代景行天皇纏向日代宮跡があるのです。大型建物は穴師山を神那霊山とする穴師坐兵主神社への参道の入口に位置しているのです。

   

 紀元2~3世紀頃の大型建物はスサノオ・大国主一族の神那霊山・穴師山を遥拝する神殿であり、その参道にそって4世紀に10代御間城入彦(崇神天皇)が妻問いした御間城姫の元で育った11代垂仁天皇の宮が置かれ、さらに12代景行天皇の宮も置かれたのです。なお、箸墓に葬られたとされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は第7代孝霊天皇の娘で大物主(大田田根子が襲名)の妻です。垂仁天皇陵は遠く離れた奈良市西方の宝来山古墳とされていますがその根拠はなく、珠城山古墳1号墳こそが垂仁天皇陵であると私は考えています。

 大和中心史観=天皇中心史観の大和邪馬台国畿内説論者は、「古事記」「日本書紀」をまともには読んではいないらしく、太陽神アマテル教徒なのか仏教教徒あるいは無宗教なのか、この国の霊(ひ:祖先霊)信仰=神那霊山信仰の八百万神神道を否定し、大型建物を垂仁天皇宮跡・珠城山古墳群・景行天皇宮跡・穴師坐兵主神社・穴師山などとは切り離し、卑弥呼やアマテルと結びつけています。スサノオ・大国主建国だけでなく記紀に書かれた古代天皇制との関係もまた全面無視です。

 右派は「アマテルつまみ食い病」に、左派は「反天皇制こじらせ病」の「スサノオ・大国主建国なかった病」にかかり、どちらももはや瀕死の重症のご臨終を迎えています。

 

8.纒向遺跡出土の桃の種は135~230年頃

 2018年5月、放射性炭素年代測定により纒向遺跡から出土した桃の種は西暦135~230年と推定され、卑弥呼の時代とされましたが、記紀によればスサノオの子の大年(大歳)がこの美和(三輪)の地に入り、その一族が拠点を築いた時代でもあるのです。大和中心史観の考古学者・歴史学者たちは紀元2~3世紀には桃が好きな人物は「卑弥 呼」しかいなかったとみているようで、大物主・大国主一族など眼中にはないようです。

           

 古事記は、少彦名の死後、御諸山(美和山)に大物主(大物主大神=スサノオ)を祀ることを条件に、大国主と大物主は国を「共に相作」としています。大国主一族はこの地で大物主とともにスサノオを祀る霊継(ひつぎ)祭祀を全国ら一族を集めて行うとともに、三輪の北に隣接した纏向(間城向)の地に祭祀拠点を置いたのです。

 図11の「垂仁天皇纏向珠城宮跡」のすぐ下に「巻野内」の地名があることからみて、「纏向=巻向」はこの「巻野」にあった王都を向いていた地域を指しているのです。

 またこの地が「穴師」であることも見逃せません。穴師は鉱山師をさし、大国主の別名が「大穴牟遅(おおなむぢ)・「大穴持(おおあなもち)」であることや、播磨国風土記では穴師比売に妻問いしてフラれた話しがあること、御子の丹津日子の妻(あるいは姉・妹)の丹生都比売(にゅうつひめ)が辰砂(硫化水銀)、鉄朱(ベンガラ)採掘に携わった丹生氏の始祖神であることから、この地は鉱山師の穴師=大国主一族の製鉄拠点であったと考えられます。

 桃の種は食用ではなく、呪術に使われていたものとされ、卑弥呼と結びつけられていますが、まるで「桃から生まれた卑弥呼」のおとぎ話のようです。魏書東夷伝倭人条に書かれた魏王朝からの贈物の金印やガラス壁、銅鏡、鉛丹、絹織物や、卑弥呼の「宮室・楼観・城柵・鉄鏃・槨なし棺」などがワンセット発見されるなら認めますが、桃の種を卑弥呼と結び付けることなどできません。

 邪馬台国畿内説は、前には「全国各地からの搬入土器」「木製仮面」を邪馬台国の証拠として大騒ぎし、今度は「桃の種」ですが、これらは全て「メイド・イン・ジャパン」であり、「メイド・イン・ギ」は何も見つかっておらず、魏書東夷伝倭人条にも登場しません。 

 仮面なら卑弥呼といきなり結びつける前に、縄文の「仮面の女神」(茅野市中ツ原遺跡)や出雲神楽との関連について、まず述べるべきでしょう。

        

 さらに古事記によれば桃子(もものみ)で黄泉の雷神を追い払い「汝(注:桃子)、吾を助けたように、葦原中国のあらゆる現しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患い悩む時、助けるべし」と言ったというイヤナギの物語は出雲の揖屋の黄泉比良坂でのことであり、出雲族との関係をまず検討すべきです。学者・新聞・テレビの「木製仮面・桃の種・古代ロマン」を邪馬台国に結び付ける大騒ぎは「旧石器捏造事件」よりもはるかに悪質な「邪馬台国畿内説捏造事件」というべきでしょう。

 古代王の年代に初めて科学的な推計を行ったのは安本美典氏ですが、氏の推計方法を参考にして神話(伝承)時代32代に遡って最小二乗法による推計を行った結果が図12です。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』など参照

         

 纏向大型建物の「桃の実」の推計年135~230年は、225年のアマテル即位推計年や卑弥呼の239年の遣使、247年の死ともが時代が合いますが、スサノオ・大国主一族が美和山でスサノオ(大物主大神)を祀る祭祀を行っていた時代でもあるのです。桃の種は薩摩半島西南端笠沙の山人(やまと)族の若御毛沼(わかみけぬ)(忌み名:神武天皇)が奈良盆地に入る277年頃より前の時代のものであり、10代崇神天皇即位の370年頃からはざっと140~235年以上も前の時代になり、同時代のモモソヒメ(卑弥呼説)とは無関係です。 

 即地的・即物的・文献的・宗教的にみて、「纏向大型建物卑弥呼神殿説」はなに1つ根拠がなく、大国主一族の神那霊山信仰の神殿であることが裏付けられます。

 なお、記紀の記述だけによってみても、若御毛沼(わかみけぬ)が奈良盆地に入ったのはアマテルの5代目であり、そこからさらに9代後の崇神天皇の時代のモモソヒメの箸墓(筆者説は大物主・モモソヒメ夫婦墓)はアマテル、卑弥呼、桃の種のどれとも年代が合いません。

 

9.纏向の建物は出雲大社と類似

 黒田龍二神戸大准教授は正面の柱が奇数であることや屋根を支える棟持柱などから、記録上では最古の神殿である出雲大社本殿との類似性を指摘しており、私も氏の説を支持します。

      

 付け加えると、本殿(神殿)の前に拝殿をもうける神社建築の様式がいつからできたのかは分かりませんが、古出雲大社の本殿前に「引橋長一町」があり、日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれていることに注目する必要があります。

 本殿には「一町」=109mの直階段が付けられていたのではなく、「引橋=高橋+浮橋=桟橋」が付けられていたのであり、大国主が海に遊ぶだけでなく、この浮橋(浮き桟橋)は神殿を訪れる人たちが舟を付け、神殿に供え物を運ぶのにも使われたはずです。この「桟橋=桟道」はその後、地上の「桟道=参道」として現在も神域の鳥居から神殿を結び、さらに神那霊山に向かう直線として生きていると考えます。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

     

 大国主を国譲りさせて後継王となった天穂日の子孫の野見宿禰(のみのすくね)は垂仁天皇の時、当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)して勝ち、殉死に代わる埴輪を提案した土師氏の始祖ですが、前述の箸墓づくりなど古墳づくりを一族が指導したことが明らかであり、同時に出雲大社をルーツとする神殿建築もまた大国主一族が伝えたことは確実です。(注:前方後円墳の原型が野見宿禰が亡くなった播磨のたつの市であることは『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照)

 

10.「直線型」「神那霊山型」施設配置のルーツは縄文時代の神那霊山(神名火山)信仰

 縄文時代の竪穴式住宅が円形平面であり、広場を中心に円形に配置され、集団墓地もまた環状列石(ストーンサークル)かであるのはなぜか、そのルーツをアフリカに求めて、はてなブログ「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」(210415)を書きました。さらに「神那霊山(神名火山)」信仰についてもアフリカの「コニーデ式火山」からのであることを「縄文ノート56、57、61」などで明らかにしました。

 縄文時代の円形住宅や環状列石の集団墓地は、「地=土+也(女性器)」字が示すように母系制社会(母族社会)では死者は大地の人が生まれる丸い女性器に帰り、黄泉帰るという地母神信仰を示しています。―はてなブログ「縄文ノート148 「地・姓・委・奴・卑」字からの中国母系社会論」参照

 同時に、前述のように長野県茅野市の中ツ原遺跡や阿久・阿久尻遺跡の巨木建築や立石石列などからみて、死者の霊(ひ)が天に伸びる神山や高木から天に昇り、降りてくるという神那霊山(神名火山)信仰も行われていたことが明らかです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」参照

 宗教施設の神那霊山へ向かう「直線配置」とコニーデ型の火山(神那霊山)を模した「神那霊山型配置」は縄文時代の神那霊山(神名火山)信仰から生まれ、大国主の出雲大社神殿に引き継がれ、さらに纏向の施設配置に繋がったのです。―「縄文ノート154  縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判」参照

 

11.箸墓は大物主・モモソヒメの夫婦墓

 Seesaaブログ「邪馬台国ノート44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一の建物』か」の一部再掲ですが、これまでモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)の墓とされてきた箸墓は、夫の大物主(大田田根子)とモモソヒメの夫婦墓と私は考えます。

        

 それは全長278mの箸墓に対し、9代開化天皇陵(春日率川宮陵に比定)は約100m、10代崇神天皇陵(行燈山古墳)は242m、11代垂仁天皇陵(宝来山古墳に比定:筆者説は53mの珠城山古墳)は227m、12代景行天皇陵は300mであり、箸墓に葬られた人物は同時代の崇神・垂仁天皇よりも上位の人物であり、モモソヒメではありえず、それは記紀に書かれた大物主(大田田根子が襲名)しか考えられません。

 「役病多起し、人民死に盡(つ)きむとし」(古事記)た時、崇神天皇は河内のスサノオ一族の大田田根子を探し出して大物主大神(スサノオ)を祀らせたところ疫病がおさまったとされることから、大田田根子は人民から感謝され「大阪山かの石を運びて造る。即ち山より墓に至るまでに、人民相踵(つ)ぎて、手逓伝にして運ぶ」という巨大墓建造が可能となったと考えます。

 なお、備後国風土記逸文には「茅の輪をつけて家をでるな」と助言して蘇民将来一家を助けたというスサノオ伝承があり、京都で疫病が流行った時には、姫路の広峯神社(牛頭天王総本宮)からスサノオの霊を移し、京都の八坂神社(祇園社)に移して疫病退散の祇園祭を行うようになったとされています。古事記は大物主大神が活玉依比売のもとに通ってきて、鍵穴から去った時、「麻の三勾(みわ)」を残して美和山(御諸山:三輪山)に去り、産まれた子どもがオオタタネコだとしていますが、オオタタネコはスサノオの疫病退散の「茅の輪」にちなみ、「麻の三勾」を人々に広めて疫病退散を果たしたという史実が、大物主大神=蛇伝説に置きかわった可能性が高いと私は考えています。

 疫病が流行った時に外出を自粛して感染拡大を防ぐためにスサノオは「茅の輪」を活用し、それが美和の大物主=蛇の「麻の三勾(みわ)」神話となった、というのが「古事記ミステリー」の私の謎解きです。

 

12.邪馬台国畿内説の全面崩壊

 邪馬台国論争は、「魏書東夷伝倭人条、記紀、物証」の3証拠から論じられてきましたが、物証論では九州説の漢・魏皇帝由来の「漢委奴国王」の金印、龍文鉄鏡、ガラス壁の「漢・魏皇帝3物証」に対し、畿内説の纏向の「和製土器・仮面・桃の種3物証」では勝負にもなりません。また邪馬台国の墓が「有棺無槨」であり、筑紫などには甕棺を直接埋めているのに対し、同時代の纏古墳群は「有棺有槨」であり、箸墓には竪穴式石室があったとみられています。

 文献論では、魏書東夷伝倭人条の卑弥呼を記紀のモモソヒメに充てる畿内説は、そもそも百余国を「鬼道(祖先霊信仰)」で統一し、魏に使者を送り、狗奴国と戦った独身の「女王・卑弥呼」と大物主の妻となった「皇女・モモソヒメ」という人物像は合致せず、さらにモモソヒメは同時代の崇神天皇が通説では3世紀後半から4世紀前半(筆者説:4世紀後半)であり、3世紀前半の卑弥呼とは時代が異なります。 

 魏書東夷伝倭人条に記された行程からは、畿内説は「陸行水行直線読み説」、九州説は伊都国を起点とした「陸行水行放射状読み説」ですが、そもそ12000余里の総行程から不彌国までの11400里を引くと600余里しか残らず、畿内まで達することはできず、畿内説は成立しません。

  

 「伊都国に至る。・・・郡使の往来に常に駐(とど)まる所なり」「郡の倭國に使するや、皆、津に臨みて捜露(そうろ)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣で、差錯(ささく)するを得ず」「詔書・印綬を奉じて倭國に詣(いた)らせ、倭王に拝仮し、併せて詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を賜う」からみて、正使は陸行して伊都国に留まり、副使は水行して倭王に「拝仮」したことが明らかであり、陸行は不彌国(筆者説:須久岡本遺跡)から600余里、水行は大型船を長期停泊できる末盧国の呼子を起点とし、「末盧国より南水行十日(徒歩換算・陸行一月」の両条件を満たす邪馬壹国の位置は、地名からみても、有明海から筑後川を遡った甘木(天城)の高台(高天原)以外にはありえません。

       

 魏書東夷伝倭人条は末盧国から「正使陸行」は距離、「副使水行」は日数で書き分けられているのであり、「陸行水行チャンポン読み」の「直線読み説」「射状読み説」のどちらも誤りと言わざるをえません。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 奈良に一時期住んでいて愛着のある私としては邪馬台国畿内説をひいきにしたいのはやまやまですが、どこから見ても邪馬台国畿内説を支持できる根拠は見つかりません。纏向などを掘れば掘るほどスサノオ・大国主建国説の裏付けが増える一方です。

 「ここ掘れわんわん」の仮説検証型で発掘はどんどん進めて頂きたいと思いますが、「纏向卑弥呼王都仮説」は捨て、「纏向大国主一族拠点仮説」に変えるべき時です。

 また、邪馬台国九州説は「相攻伐歴年」にいつまでも安住している場合ではなく、文献から邪馬壹国を絞り込み、仮説検証型の発掘調査を行うべきです。

 そして、畿内説・九州説などの「コップの中のチマチマとした争い」ではなく、縄文時代からスサノオ・大国主建国へと続く古代史全体の中に位置付け、世界の新石器時代(土器鍋煮炊き食時代)からの母系制社会の解明に貢献を果たすべきと考えます。地域史から世界史への飛躍が求められ、『サイエンス』や『ナショナルジオグラフィック』などにどんどん発表し、世界的に活躍する若い世代の登場に期待しています。

 「発掘大国歴史貧国」に若い研究者はいつまでも甘んじているべきではありません。

 

13.文献学・物証学・伝承学などの統合へ

 纏向発掘で明らかになったのは、スサノオ・大国主一族による美和・纏向での国づくりであり、記紀に書かれた「大国主・大物主連合」の成立や御間城入彦(忌み名:崇神天皇)による権力奪取などが史実であることが裏付けられてきていることです。記紀神話などを8世紀の創作としてきた通説は全面的崩壊を迎えており、見直されるべき時です。

 門外漢から古代史を見ていると、日本の文献学はシュリーマン以前の「キリストはいなかった」レベルの「ヘーゲル左派」亜流か皇国史観修正学、考古学は開発の後追いの「たまたま発掘学」であり、それぞれ「タコつぼ学」「重箱の隅学」になり、民俗学や地名学、言語学、宗教学、文化人類学、遺伝学との総合的な連携ができていないように思えます。

 方法論は考古学は「唯物(ただもの)主義」の「演繹法」、文献学は皇国史観流の「アマテルつまみぐい史観」やヘーゲル左派流の記紀神話創作説の「帰納法」であり、仮説検証法による統合はまだまだできていにように思います。

 無人の荒野にどんどん若い人は挑戦し、スサノオ・大国主の墓、卑弥呼の墓の発見に若い考古学徒は挑んで欲しいものです。

 また、「世界を照らすアマテル太陽神」の後継者として現人神に祭り上げられて軍部に協力し、日中戦争・太平洋戦争でアジア諸国・アメリカ・日本人民に多くの被害を与えた天皇家の責任は消えることはなく、「人間宣言」を行った天皇家は薩摩半島南西端の笠沙出身で龍宮(琉球)から2代にわたり妻を迎えた人間天皇家の歴史を自ら明らかにすべきであり、天皇陵の科学的な調査を認めるべきと考えます。

 「人間宣言」を本物とし、日中戦争・太平洋戦争の死者たちへ責任を果たすべき時ではないでしょうか?

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

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スサノオ・大国主建国論4 古事記神話(伝承)の構成

2022-11-08 16:51:24 | スサノオ・大国主建国論

 前置き的な部分が長かったが、ここから本論に入りたい。

⑴ 古事記中心史観対日本書紀中心史観

 古代史、特に建国史の文献分析では、私は古事記を中心として日本書紀・風土記・万葉集、魏書東夷伝倭人条・三国史記新羅本紀、神社伝承、地名などで補充するという方法をとってきた。

           

 通説は日本書紀を正史として中心において分析しているが、私は古事記を日本最初の正史として扱い、分析の中心に置いたが、その理由は次の通りである。

 第1は、古事記編纂を命じた天武天皇は、日本の統治・軍事機構、都、宗教、歴史、文化の原型を作った天皇であり、その国家形成の一環として古事記・日本書紀の編纂を命じたのであり、古事記は名実ともに最古の史書であり、この国の建国史の基本を決めた歴史書であるからである。

 第2は、天武天皇は稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(せんだいくじ)(帝紀と旧辞)を詠み習わせ、太安万侶に書かせたものであり、この先代旧辞は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、蘇我家が滅んだときに焼ける前に取り出された国記(くにつふみ)の可能性が高く、文献的裏付けの明白な史書であるからである。稗田阿礼が暗記していた伝承をまとめたものなどではない。

 第3は、古事記は壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒して権力を握り、直接に政治・行政・軍事・宗教・文化を指導し、初めて「天皇」を名乗った多面的な高い才能(短歌なども)を備えた専制君主である天武天皇の直接的な指示で作られており、「4人の襲名アマテル」を一人に統合し、「スサノオ・大国主建国」に「天皇建国」を一体的に結合した歴史書は天武天皇でなければ構想できない構成であることである。帝皇日継と先代旧辞(せんだいくじ)を再編集しただけでは、「スサノオ・大国主建国」に「天皇建国」を巧妙に接ぎ木することなどできないからである。古事記分析は、浅薄な近代合理主義者の視点ではなく、天武天皇の立場から分析すべきである。

         

 第4は、凡海氏(海部一族)に養育された大海人(おおあま)皇子=天武天皇は、海人(あま)族系のスサノオ・大国主一族と、山人(やまと)族系の天皇家の両方の血を引いており、壬申の乱ではスサノオ・大国主系(元々、新羅と米鉄交易を行い建国した)の国々に支持されて圧倒的な勝利を収めており、国史作成においては海人(あま)族系のスサノオ・大国主建国を中心に置き、海人(あま)族系と山人(やまと)族系笠沙天皇家3代の両方の歴史を統合する必要があったことである。なお大海人(おおあま)=天武(あまたける=てんむ)から明らかなように、「あま」=「海=海人=天」、海人族=天族であり、高天原系の天皇一族を「天津神」、葦原中国系のスサノオ・大国主一族などを「国津神」と分類する皇国史観からは卒業すべきである。

 第5は、日本書紀もまた、天武天皇作成の古事記を幹とし、山人(やまと)系の各部族伝承を強化して付け加えたものであることである。天皇制の分析にしか興味のない皇国史観・天皇中心史観・大和中心史観の通説派は日本書紀中心史観であるが、スサノオ・大国主建国史の分析においては古事記を主とし、日本書紀などを補足資料として分析すべきである。

 以下、「古事記中心史観=スサノオ・大国主建国史観」と通説の「日本書紀中心史観=笠沙天皇家中心史観」の違いを意識しながら検討していただければと考える。

 これまで、古事記と日本書紀の記載の多くのズレやそれぞれの記載の多くの矛盾を分析し、記紀神話を8世紀の創作と決めつけた津田左右吉氏や、甚だしきは古事記偽書説・太安万侶不在説などは、それらの原因がスサノオ・大国主建国と笠沙3代天皇家建国を接ぎ木したことによるものであることを検討していない。

 

⑵ 日本神話(筆者説:スサノオ・大国主建国史)の知識

 「日本神話(記紀神話)」(筆者説:スサノオ・大国主建国史)についての私の元々の知識は、幼児の時に見たスサノオのヤマタノオロチ退治の備中神楽、小中高の歴史と高校の宮崎修学旅行(高千穂峡・霧島えびの高原・鵜戸神宮)、大学1年の出雲大社旅行によるもので、出雲での「イヤナギ・イヤナミの天下り」「国生み(教師たちが好きであったイヤナギの余ったところでイヤナミの足らないところを塞ぐという話)」「スサノオの八岐大蛇(やまたのおろち)退治」「国引き」「因幡の白兎」「大国主の国譲り」神話と天皇家の高天原での「天岩屋戸(あまのいわと)での天照の復活(教師の大好きなアメノウズメのストリップ話)」「天孫降臨」「山幸彦の龍宮訪問」くらいであり、宮崎修学旅行・出雲旅行の経験がなく丸暗記歴史に興味がなかった理科系の妻は「因幡の白兎」「八岐大蛇退治」「天岩屋戸」伝説しか知らなかった。

        

 おそらく多くの日本人の神話知識は私と妻の間くらいではないかと思われるが、これではスサノオ・大国主建国や天皇建国などには何の興味も持たれないに違いない。

 この国では皇国史観系の右派、反皇国史観の左派がともに協力して「記紀神話」全体を8世紀の創作として無視し、都合のいいアマテルだけをつまみ食いし、真実の建国史全体の解明を放棄してしまったからである。キリスト教支配の中世暗黒時代を打ち破り、ギリシア神話をもとにした西欧ルネサンス文化が花開いたのと較べると、わが国は神話否定の、文化的になんとも貧しい卑下史観・拝外主義の国といわざるをえない。

 私はこれら8世紀の創作神話とされてきた物語の大部分は真実の歴史の伝承(ドキュメンタリー)であり、一部に伝承を神話的表現でカモフラージュした表裏表現伝承(ミステリー)と、伝承を神話的な表現(ファンタジー)とした部分が見られると考えている。

 表1は日本神話(筆者説:スサノオ・大国主建国史)のうちのよく知られている点について、通説と筆者の説をまとめたものであるが、各論で具体的に説明したいと考える。

 

⑶ 古事記神話編(筆者:スサノオ・大国主建国編)の構成

 私が古事記に初めて目を通したのは40代後半のことであり、おそらくほとんどの人は読んでいないと思うので、その全体構成を『古事記』(倉野憲司校注の:岩波文庫)をもとにした図1によりざっと見ておきたい。

 

 第1にまず注目したいのは、スサノオ~大国主7代の活動範囲が広く西日本(方言区分の北陸方言、岐阜・愛知方言、九州方言の区域を含む)に及んでおり、「百余国」の「委奴国」に対応していることである。

 古事記にはスサノオ・大国主一族の活動が筑紫から大和、越まで及んでいることがはっきりと書かれており、出雲地域だけで論じるなどありえず、筑紫・大和の歴史分析においてもスサノオ・大国主一族の建国史を前提としないなどありない。邪馬壹国(やまのいのくに)や大和(筆者説:おおわ)の纏向(間城向)遺跡の分析においても、スサノオ・大国主一族との関係をまず分析すべきである。

 第2は、スサノオから八嶋士奴美(やじまじぬみ)―布波能母遲久奴須奴(ふわのもぢくぬすぬ)―深淵之水夜禮花(ふかぶちのみずやれはな)―淤美豆奴(おみずぬ)―天之冬衣(あめのふゆきぬ)―大国主は6代も離れており、出雲でイヤナミから生まれたスサノオの筑紫日向(ちくしのひな)生まれの異母妹のアマテル1と、大国主に国譲りさせたアマテル2は同一人物ではありえないことである。

 第3は、新唐書に「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以尊(みこと)爲號(ごう)、居筑紫城。彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と遣唐使が伝えたと書かれているが、古事記に書かれた天皇家は16代しかなく、スサノオ・大国主16代を組み込むと32代になるのであり、古事記はスサノオ・大国主7代の委奴国・倭国と筑紫大国主王朝10代の系譜を正確に伝え残しているのである。

 なお、天皇家は元々皇居において始祖神である天つ神5柱や天照大御神に対し祖先神として祀っていないのに対し、出雲大社では天つ神5柱を正面に祀っており、「天つ神5柱+神世7代」はスサノオ・大国主一族の先祖である。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 

 第4は、「大国主の神裔」として書かれた大国主の妻・鳥耳(とりみみ)からの10代の名前の「日名」「比那」「耳」「天」「八島」「志麻」「忍(おし)」「日腹」「多良」は全て北九州の地名にあり、「甕(みか)」名もまたこの地域の甕棺由来であり、新唐書に書かれた「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以尊(みこと)爲號(ごう)、居筑紫城」からみても、鳥耳からの10代は筑紫大国主王朝であることは動かせない。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

        

 鳥耳は襲名した筑紫日向(ちくしのひな)のアマテル2であり、出雲で大国主に国譲りさせた穂日・夷鳥(日名鳥)親子は鳥耳の子・孫である。

 第4は、スサノオは大兄としてイヤナギから海の支配を任され、異母弟の筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)を従えて後漢や新羅と交易を行い、宗像族の王女に妻問して宗像3女神をもうけ、母イヤナミの出雲を拠点としており、異母妹のアマテル1と高天原の支配を争うことなど考えにくいことである。

 高天原の支配を巡って争ったアマテルは、魏書東夷伝倭人条に書かれた卑弥呼と弟王の可能性が高い。図1の古事記伝承・神話全体の中に卑弥呼を位置付けるとすると筑紫大国主王朝10代の次にしか割り込む余地はなく、卑弥呼こそが筑紫大国主王朝11代目の襲名アマテル3であるとしか考えられない。その死後に岩屋戸から復活したとされるのは後継女王の壹与(襲名アマテル4)である。

 なお、図3は男系図としているが、本来は女系図として書き直すべきものである(『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』参照)。

 次の図4は、図1にアマテル1~4に関係するところを追加したものである。

 古事記は時代も経歴も異なる筑紫日向の4人の襲名アマテルを「スサノオの姉」として一人の人物として描き、薩摩半島南西端の笠沙(かささ)・阿多(あた)の山人族の笠沙天皇家3代をスサノオ・大国主一族の後継王に仕立てたのであるが、これは太安万侶の発案というより、天武天皇の政治的な判断であると私は考える。

 

 

 第6は、筑紫日向(ちくしのひな)の高天原(甘木=天城の高台)から薩摩半島南西端の笠沙(かささ)への壹与派の国々を避けた険しい九州山地を通ってのニニギ(邇邇芸)の天下りであるが、天上から地上の霧島連峰・高千穂峰への天下りなどではないことである。

 古事記の「高千穂之久士布流多気(くじふるだけ)」は大分県の旧久住町(現竹田市)の「くじふる岳=久住山(九重山)」であり、記紀に登場する筑紫日向から薩摩半島笠沙まで地名のほとんどは現存しており地上移動の逃避行を示している。

 第7は、ニニギは阿多の大山津見(おおやまつみ)の娘の「阿多都比売(あたつひめ)」を妻とし、別名を「木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)」としているが、播磨国風土記の宍禾郡(しそうのこおり)では「許乃波奈佐久夜比売(このはなさくやひめ)」は伊和大神(大国主)の妻としており、さらに大山津見の子の木花知流比売(このはなちるひめ)がスサノオと櫛名田比売の子の八島士奴美(やじましじぬみ)と結婚していることからみても、瀬戸内海の大三島の大山祇神社に祀られた大山津見の娘の「木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)」が薩摩半島西南端の阿多にいるはずなどないのである。

    

 古事記は笠沙天皇家を、イヤナギ・イヤナミの子の大山津見と結びつけるためにニニギの妻の阿多都比売の別名を「木花佐久夜毘売」としたのである。

 なお、古事記はアマテルの子の天忍穂耳(あめのおしほみみ)の子を天火明とニニギとしているが、播磨国風土記飾磨郡(しかまのこおり)では火明(ほあかり)は大国主の子としており、天照国照彦火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)を祀る粒坐天照神社がたつの市の日山にあることなどからみて、古事記にスサノオの異母妹のアマテル1の子として書かれた天之忍穂耳や天之菩卑などは大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテル2)の子とみるべきであり、火明(ほあかり)は大国主の子と考えられる。

 このように、古事記は笠沙天皇家3代の初代ニニギを「アマテル・アタツヒメ・アメノホアカリ」の3人を接着剤としてイヤナギ・スサノオ・大国主一族と結びつけているのであるが、そもそも出雲生まれのスサノオにたいし筑紫日向のアマテル1は異母妹で姉などではなく、瀬戸内海・大三島の大山津見が薩摩半島南西端の阿多にいて阿多都比売の父であるはずなどない。

 古事記・播磨国風土記の両記載からみて天火明は鳥耳(アマテル2)と大国主の子であり、『日本書紀』一書によれば大国主を国譲りさせて後継王となった穂日の兄弟になる。

 第8は、新唐書の「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以尊(みこと)爲號(ごう)、居筑紫城。彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」の記載からみて、笠沙天皇家3代(ニニギ・ホオリ(山幸彦)・ウガヤフキアエズ(彦瀲(ひこなぎさ)))の始祖ニニギ(邇邇芸(ににぎ))は天御中主(あめのみなかぬし)から数えて30代目、スサノオから19代目、大国主から13代目にあたり、スサノオ異母妹のアマテル1、スサノオ7代目の大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテル2)の孫とするにはいずれも時代が合わない。鳥耳からの筑紫大国主王朝10代からの3代目になることであり、次の女王アマテル3(卑弥呼)の孫とするとぴったりと年代が合うのである。

 魏書東夷伝倭人条には248年の卑弥呼の死後に男王派(弟王)と女王派(壹与を擁立)の後継者争いが記載されていることからみて、「卑弥呼の後継者争いでの男王派の敗北」の邪馬壹国の史実をもとに2世紀遡らせてスサノオとアマテル1の高天原後継者争いが創作された可能性が高い。

 ニニギは卑弥呼の後継者争いで敗れた男王派で、投馬国の「さ・投馬(薩摩半島)」に逃れた10数人ほどの山人(やまと)族グループの一員であったと考えられる。名前に「邇岐志(にきし)国邇岐志」が付き、父が忍穂耳(おしほみみ)、母が萬幡豊秋津師(よろづんはたとよあきつし)比売であることからみて、父は「彌彌(みみ)・彌彌那利(みみなり)」という正副の官が置かれていた投馬国の出身者の可能性あり、母は豊後の国東半島の現安岐町の「津(港)」のあった「秋津」出身者で、邇岐志(にきし)国で生まれ育った筑紫大国主王朝の傍系であった可能性が高いと考える。

 決め手は邇岐志(にきし)国があったとされる「邇岐=二木・仁木・新木」地名であるが、北九州ではまだ見つけることができていない。

 記紀や魏書東夷伝倭人条にでてくる地名について、地名学者は全て候補地をあげて比定していただきたいものである。そうすれば、高天原天上説の皇国史観の名残や、邪馬壹国(やまのいのくに)畿内説など成立の余地はなくなるのは確実である。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

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スサノオ・大国主ノート142 綾子踊のルーツは出雲の阿国の「ややこ踊り」

2022-11-02 20:21:50 | スサノオ・大国主建国論

 11月1日の東京新聞夕刊は綾子踊などの「『風流踊』無形文化遺産登録へ」という記事を「ジブリパーク」の記事の隣に載せていました。

 この綾子踊については、1990年代に出雲大社の巫女であった出雲の阿国の「ややこ踊」がルーツであると書いたことがあり、今回、その原稿を探したのですが見つからなかったため(ワープロ・オアシスの時だったのでしょう)、再度、書いておきたいと思います。

 風流踊(ふりゅうおどり)は「中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊り」「後世、亡者慰霊のための念仏踊や盆踊り、雨乞踊、虫送り、太鼓踊、浮立(ふりゅう)、剣舞(けんばい)、迎講、仏舞(ほとけのまい)、小歌踊、願人踊(がんにんおどり)、綾踊、奴踊、花笠踊、棒踊、祭礼囃子、三匹獅子舞、太鼓打芸など、多くの民俗芸能、民俗行事の源流となった」(ウィキペディア)とされ、仕事先の諫早市で初めて知り、その後、各地にあることに気付きました。風流を「ふうりゅう」ではなく「ふりゅう」ということがずっと気にかかっています。

 国の重要無形民俗文化財である「綾子踊」は、香川県の綾歌郡の隣の綾歌町(現丸亀市)や満濃町(現まんのう町)の仕事で知り、さらに新潟県柏崎市で「綾子舞」の道路案内を偶然に見つけたこともあり、そのルーツを調べました。

 まんのう町(旧 仲南町)の綾子踊は男子が女装した子どもの踊りが中心で、「風流の一種で、雨乞いの祈願をその本旨とした念仏踊風のものである」「2年に3度、8月下旬か9月上旬の日曜日に佐文の加茂神社に奉納される」「曲目には、『水の踊』『四国踊』『綾子踊』『忍びの踊』など十二曲 があり、それぞれの小歌に合せて踊を展開する」「曲目には、「水の踊」「四国踊」「綾子踊」「忍びの踊」など十二曲があり、それぞれの小歌に合せて踊を展開する」「その芸態に初期歌舞伎踊風の面影を遺している」(ウィキペディア)とされています。

    

 弘法大師伝説起源も加わっていますが、大国主の子の阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)の別名の「迦毛大御神」からみて大国主系の可能性が高い加茂神社で奉納されていることからみて、私は出雲の阿国の「ややこ舞」、さらには出雲大社の巫女舞(みこまい)(筆者説:御子舞)の神事、さらには古事記に出てくる大国主の娘で阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)の妹の高比売(たかひめ)(下照比売(したてるひめ))が夫の暗殺された天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の際に歌い踊った「夷振(ひなぶり)」がルーツと考えていました。

 また、柏崎市女谷黒姫山の黒姫神社(一説では黒姫神は大国主の妻で建御名方(たけみなかた)の母の奴奈川媛(ぬなかわひめ)の母神とされる)の綾子舞は毎年9月に行われ、起源には「越後の守護職・上杉房能が討たれた際、奥方『綾子』が女谷に落ちのびて 伝えたという説」「北国武太夫という武士が、京都北野神社の巫女『文子(あやこ)』の舞を伝えたという説」がありますが、北野天満宮の祭神・菅原道真のルーツの菅原氏は天穂日(あめのほひ)(筆者説:大国主の筑紫妻・アマテル鳥耳の子)の子孫の野見宿禰(のみのすくね)を家祖としており、黒姫山信仰の年代からみても後者の説が有力と考えます。

      

 私は全ての死者の霊を神として祀る「八百万神神道」の出雲大社などの世界遺産登録においては、阿国歌舞伎とともに綾子踊などの『風流踊』も加えて申請を行うべきと考えており、さらなる研究が求められます。

 なお、韓国での痛ましいハロウィン事故が連日、報道されていますが、日本の伝統である男女・身分入れ替わりの「仮装踊り・仮装行列」をすっかり忘れてアイルランド・ケルト人のハロウィン祭りの商業戦略に踊らされるという薄っぺらい「拝外主義」には悲しいものがあります。

 そもそもアイルランドなどのケルト族のストーンサークルと縄文人のストーンサークルはアフリカに共通のルーツがあると私は考えており、世界の仮面祭りや仮装文化もまた同じ可能性があると考えています。ベニスのカーニバルなども、キリスト教の中世暗黒時代以前の宗教・文化を伝えていると考えています。

 私の通った姫路西高校の体育祭では各クラスで竹と紙で巨大な人形(播磨国総社・射楯兵主神社の一ツ山大祭・三ツ山大祭のお山、ねぶた祭の人形の影響か?)を作るとともに、仮装行列(私は友人とガンマンに)をやりましたが、ハロウインなどやらずに各地の「風流踊」の仮装行列を大々的に復活させるべきではないでしょうか?

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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