ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主ノート159 『太陽を南から登らせる』邪馬台国畿内説

2024-06-27 15:51:45 | 邪馬台国

 わが国の古代史研究は「天皇家建国論」が大勢を占めているように思いますが、私は記紀・風土記と魏書東夷伝倭人条分析を通して、スサノオ・大国主7代による百余国の「葦原中国・豊葦原水穂国」=「委奴国(ふぃなのくに)」の建国からこの国の古代史研究は始めるべきと分析を続けてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 そして未だに決着がついていない邪馬台国論争については、百余国の「委奴国(ふぃなのくに)」から乱により30国が分離し、この30国は「相攻伐歴年」の後に卑弥呼を共立して「邪馬壹国連合」の「倭人国」となり、70余国の「天鄙国(あまのひなのくに)」と並立状態となり、卑弥呼の後継者争いに敗れた男王派のニニギは薩摩半島南西端の笠沙・阿多に逃げ、その4代目の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ:8世紀に神武天皇の諱=忌み名)が傭兵隊として宇佐→筑紫→安芸→吉備と16年間仕え、大和(おおわ)に入り、10代かけて崇神天皇の時に権力を奪ったと私は分析しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)等参照

 今回は、邪馬台国論争の要となる魏書東夷伝倭人条の「行程論」について、すでにこれまでSeesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」などに書いてきたことを、「里程日程」、「陸行水行」、「方位」、「津」の解釈から決着を付けたいとまとめました。

 

 昔むかしに流行ったエディット・ピアフ、越路吹雪の歌で有名な『愛の賛歌』のブレンダ・リーの英語歌詞の冒頭の「If the sun should tumble from the skies. If the sea should suddenly run dry. If you love me, really love me, let it happen  I won't care.」(もし太陽が空から落ちても、もし海が突然干上がっても、もしあなたが私を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)を思い出します。

 邪馬台国畿内説や近年の邪馬台国吉備説、丹後説、四国説などをみていると、この歌と重なってくるのです。

 「If the sun should rize from the south. If the moon should set in the north. If you love kinaisetu, really love kinaisetu, let it happen  I won't care.」(もし太陽が南から昇っても、もし太陽が北に沈んでも、もしあなたが畿内説を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)

 

 邪馬壹国がどこにあるのかは、魏書東夷伝倭人条の行程記録と、後漢・魏皇帝から与えられた金印、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅ りゅうもん てっきょう)、ガラス壁などの遺物、さらには記紀の記載や対応する地名、神社伝承などから決まります。ありふれた三角縁神獣鏡や纏向遺跡での各地の土器の集積、木製仮面、大量の桃の種、大型建物からは決ましません。これらは1~3世紀の奈良盆地の開拓者、スサノオ・大国主一族の祭祀の痕跡の可能性が高いからです。―邪馬台国ノート「44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」「47 『神武東征』について―若御毛沼命の河内湖通過時期「48  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点」参照 

 問題は、魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)の行程記をどう読むかですが、不彌国から「南至投馬国水行二十日・・・」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の記載の、水行の起点を邪馬台国畿内説は不彌国からとし、放射状読み九州説は伊都国からとしています。

 私はその水行の起点は、九州本土に魏使が到達した末盧国の天然の良港(津)の呼子港からとし、正使は陸行し、副使は水行したと考えています。

 倭人条を読んでみましょう。「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」(王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず)と書かれているのであり、津(天然の良港)から文書・賜遣物を伝送して女王に詣でているのです。

 「里程」でなく「日程」で示した「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の起点は、倭国本土の東松浦半島北端の「津」、末盧国の呼子港しかありえません。

 倭国の津から「伝送」したというのは魏の船荷を倭人の船に乗せ換えたのであり、瀬戸内海や日本海を「水行」したのであれば魏の大型船で安全・快適に航行でき、小さな和船で「伝送」する必要はありません。平底の和船に移し替えたのは、水深が浅く、干満差が大きい有明海から筑後川を遡る必要があったからです。

 そして「詣でる」とある以上、その伝送は倭人任せではなく副使が乗り、「太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝假倭王」(太守・弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、詔書・印綬を捧げて倭国へ行き、倭王に仮拝した)との記載からみても、「拝假(仮)倭王」(倭王の代理に拝した)のです。

 「其地無牛馬」の記載からも、津からの「伝送」は水行しか考えられません。また、「自為王以來少有見者」(王となりて以来、見る者少し)、「唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處」(ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りする)ということからみて、副使は卑弥呼に拝したのではなく辞を伝える「男子一人」に拝したので「拝假(仮)倭王」と書いたのです。

 重要な点は、九州北岸で魏の竜骨船(V字底船)が風と波を避けて長期間停船でき水深が深く、直接接岸できる天然の良港は末盧国の呼子港しかなく、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月(水行十日=陸行一月)」の起点は呼子港以外にありえません。

 「邪馬壹国博多湾岸説」の古田武彦さんやそれを受け継いだ推理小説家・高木彬光氏の「邪馬台国宇佐説」は、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月」の起点を帯方郡としましたが、「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露」の記載からみて、「水行」は倭国の「津」(呼子港)からしかありえません。また「自郡至女王國 萬二千餘里」と書き、帯方郡から末盧国までの「水行」を「里程」で書いている以上、わざわざ「水行二十日」「水行十日陸行一月」の「日程」表記で示す必要はありえません。末盧国の「津」から正使の「陸行里程」表記に対し、副使の伝送を「水行日程」で書き分けたのです。

 さらに図3のように、「周旋可五千餘里」は正使陸行・副使水行(陸行里程・水行日程)で実際に「參問倭地」して「周旋」したことを示しているのです。

 個人的には古田さんにいろいろと教えられ、高砂市の「石の宝殿」(万葉集記載)やその北の加古川市の「天下原古墳」(播磨国風土記に記載)を案内したこともありましたが、この水行起点帯方郡説は文献分析にこだわった古田さんらしからぬ間違いと考えます。

 ここで畿内説に戻りたいと思いますが、なんとなんと「南至投馬国」「南至邪馬壹国」の「南」を「東」の書き間違いとしているのです。

 畿内説を魏使になってタイムワープしてリアルに体験してみましょう。

 魏使の一行は不彌国で朝起き、東に向けて出航した時、太陽は正面から昇ったはずです。それを「南」としたというなら、太陽は「南」から昇ったことになります。投馬国までの「水行二十日」、邪馬壹国までの「水行十日陸行一月」の間、60日間、毎日、太陽が南から昇ったと魏使が体験していたというのが畿内トンデモ説なのです。

 これは瀬戸内航路説ですが、対馬暖流航路説(山陰航路説)はもっと奇妙です。丹後までは太陽は南から昇り、最後の丹後から大和までの「陸行一月」は太陽は東から昇ったことになります。

 いずれにしても、不彌国までは太陽は東から昇っていたのに、不彌国から先は南から昇り、さらに丹後からは東から昇るなど、「魏使方向音痴説」は冗談にもならない大嘘です。「科学」「専門家」など持ち出すまでもない、万人の「常識」問題です。

 邪馬台国畿内説、さらには吉備説、四国説(阿波説、讃岐説、高知説)、出雲説、丹後説の皆さんは、魏使は太陽が昇り、沈む方角もわからない方向音痴であるという明確な証明をしないかぎり、「倭人伝方位誤記説」を撤回すべきです。

 そして畿内説では、記紀に書かれた美和→大和(おおわ=大倭)の紀元1~4世紀の稲作の普及と建国は大物主(スサノオ=大物主大神の御子の大年)・大国主一族であるいう歴史研究へと転換を図るべきです。雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「邪馬台国ノート54 『神武東征』は『若御毛沼(わかみけぬ)東進』」の紹介

2024-02-02 17:47:34 | 邪馬台国

 Seesaaブログに「邪馬台国ノート54 『神武東征』は『若御毛沼(わかみけぬ)東進』」をアップしましたので紹介します。http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 笠沙天皇家3代の始祖ニニギの「天下り」なるものは、筑紫日向(ちくしのひな:旧甘木市の蜷城(ひなしろ))の高台・高天原の卑弥呼(霊御子=大霊留女=アマテル)の死後の後継者争いで女王派(壹与派)に敗れた男王派のニニギが女王派の国々を避け、険しい九州山地を薩摩半島南西端までの逃避行であることはすでに明らかにしました。

 続く笠沙天皇家4代目の若御毛沼(ワカミケヌ)3兄弟の皇国史観のいうところの「神武東征」については、8世紀の創作とする反皇国史観や、邪馬壹国(邪馬台国)以前の「紀元前660年説」「紀元前40年説」「紀元前70~29年説」「紀元6年説」「2世紀中(150、168、187年)説」、安本美典氏の「紀元271年頃説」と私の同じ方法での「277年説」がありますが、日本書紀に書かれたワカミケヌらが「浪速の渡」を「遡流而上」って生駒山麓の白肩津まで進んだという記載は、「紀元前1050~50年の河内湾時代」「紀元前50~紀元150年の河内汽水湖時代ではなく、「紀元150~385年の河内湖時代」であることが明らかであり、安本・雛元説が正しいことが裏付けられます。

 なお高木修三氏(芥川賞受賞作家)「2世紀中説神武即位」説は「紀元150~385年の河内湖時代」には合致しますが、神武即位後に卑弥呼の邪馬壹国が畿内にあったか、という根本矛盾をはらんでいます。

 もしそうなら記紀の天皇紀には「146~189年頃の倭国乱、相攻伐歴年」「30国の女王・卑弥呼の共立」「魏との国交・鉄交易」「狗奴国との争い」「男王と女王・壹与の後継者争い」の大事件が記載されていなければなりませんが、何1つ記紀には記載されておらず、畿内にそのような伝承も争乱を裏付ける物証(鉄器や城柵など)もありません。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、スサノオ・大国主一族による「美和→大和(おおわ)」開拓と国づくりの後に、笠沙・阿多の山人(やまと:山幸彦=猟師)族の若御毛沼(ワカミケヌ)らの傭兵隊が大和(おおわ)盆地に入り、10代かけて御間城入彦(みまきいりひこ:後の崇神天皇)の時に美和王朝の権力を奪ったという天王スサノオ・大国主一族と天皇家の関係を解明する参考にしていただければと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

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 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「邪馬台国ノート53 『7里程』『2日程』条件から邪馬台国論争に決着を!」の紹介

2024-01-30 14:15:46 | 邪馬台国

 Seesaaブログに「邪馬台国ノート53 『7里程』『2日程』条件から邪馬台国論争に決着を!」をアップしましたので紹介します。http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 魏書東夷伝倭人条には、「自郡至女王国万二千余里」「東南陸行五百里到伊都国」「東南至奴国百里」「東行至不彌国百里」「参問倭地・・・周旋可五千余里」「女王国東渡海千余里 復有国」「侏儒国在其南・・・去女王四千余里」の7つの「陸行里程」と「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の2つの「水行日程」があります。その全てを合理的に見たす場所が邪馬壹国の位置になります。

 末盧国からの正使の陸行・里程の続きにある邪馬壹国と、副使の末盧国からの投馬国、邪馬壹国の水行・日程ルートは並行しているのであり、「陸行+水行」を連続した行程として読むべきではない、というのが私のオリジナルな主張です。

 邪馬台国論争がいまだに決着がついていない根本原因は、考古学者たちは発掘成果にハクを付け、住民は町おこし・村おこしのために魏書東夷伝倭人条と記紀の都合のいい部分だけをつまみ食いすることにあると考えます。

 私は小学校まで吉備の岡山市で過ごし、父の岡山県北の山村では熊野神社でスサノオのヤマタノオロチ退治の備中神楽を幼児の頃に見た記憶があり出雲とも関わりがあり、中学校からは播磨の姫路市に移り、大学・院時代には京都・奈良・大坂に住み、また京大の歴史学者たちは伝統的に畿内説のようですが、だからといって邪馬台国論において吉備説・出雲説・播磨説・畿内説などに我田引水したいとは思いません。

 卑弥呼の女王国を世界の母系制社会の歴史の中に位置づけるという大きな観点から、郷土意識や学閥などにとらわれず邪馬台国論争に決着をつけて卑弥呼の墓を突き止め、女王国の歴史を世界に情報発信することを若い世代の皆さんには期待したいと思います。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、スサノオ・大国主7代の男王の「委奴国」と女王・卑弥呼の邪馬壹国の関係を解明する参考にしていただければと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「邪馬台国ノート52 『旧百余国』から『邪馬台論』は始めるべき」の紹介

2024-01-28 18:20:58 | 邪馬台国

 Seesaaブログに「邪馬台国ノート52 『旧百余国』から『邪馬台論』は始めるべき」をアップしましたので紹介します。http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 邪馬台国論争は未だに「所在地論争」として決着がついておらず、卑弥呼の王都も墓も未発見ですが、いずれ九州説・畿内説の論争に関わっている歴史学者・考古学者の一方は頑迷な「古代史偽造者」の烙印を押されることになることを免れません。

 それ以上の大きな問題は、魏書東夷伝倭人条が冒頭で「倭人在帶方東南大海之中・・・舊百餘國・・・今使譯所通三十國」(倭人は帯方東南、大海の中に在り・・・旧百余国・・・今、使訳通ずる所は三十国」)と書いている以上、後漢が認めた「旧百余国王」を解明しようとしていないことです。私はこの「百余国王」は博多の志賀島で発見された金印に彫られた「委奴国王」であり、記紀に書かれたスサノオ以外にありえず、この国の建国者を示していると考えています。

 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院),『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をはじめ、何度も書いてきた繰り返しになりますが、本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、スサノオ・大国主一族と邪馬壹国の卑弥呼との関係について参考にしていただければと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

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「フェイスブック『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台」の紹介

2023-11-25 18:15:37 | 邪馬台国

 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」において、『邪馬台国ノート49 「卑弥呼王都=高天原」は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論』を2023年4月3日にアップしましたが、友人との議論のために加筆・修正し、フェイスブックのグループ「邪馬台国探究会」において雛元昌弘名で11月20日より毎日、1節ずつアップしています。

 「陸行水行呼子起点説」「正使陸行・副使水行説」、「奴国=野芥、不彌国=須久岡本遺跡説」、「消えた南陸行至邪馬壹国六百里説」、「卑弥呼(霊御子)の王都(高天原)甘木高台説」、「海の一大国(いのおおくに)に対する邪馬壹国(やまのいのくに)説」、「委奴(ふぃな)国王=イヤナギ・スサノオ・大国主8代説」、「4人のアマテル合体説」、「高天原筑紫日向(ひな)説」、「甘木―日田から笠沙・阿多への九州山地ニニギ天下り説」など、これまでにない新説から邪馬壹国の王都の位置を絞り込んでいます。

 私は縄文時代―弥生時代―古墳時代という「ドキドキバカ史観」を批判し、「土器時代―鉄器時代」という時代区分を提案していますが、この鉄先鋤による鉄器稲作時代を切り開いたのがスサノオ・大国主一族7代の「委奴国(いなのくに=ひなのくに)=葦原中国」の建国であることをこれまで『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)などで明らかにしてきました。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、大国主・鳥耳筑紫王朝や筑紫邪馬台国との関係は避けて通れないテーマであり、「ポスト大国主論」として、ご笑覧下さい。雛元昌弘

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「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」の紹介

2023-04-04 05:34:02 | 邪馬台国

 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 古代史の話をする機会があり、資料として『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)からピックアップした「邪馬台国ノート45 『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説(200206)」後の分析を加筆・修正したレジュメを作成しました。

 母系制社会の縄文時代から、米鉄交易によるスサノオ・大国主の委奴国(ふぃな=いな・ひなの国)建国の延長上に筑紫大国主王朝の卑弥呼の女王国があり、魏書東夷伝倭人条と古事記・日本書紀の地名・人名・距離分析から卑弥呼(霊御子)=アマテル(大霊留女:オオヒルメ)の王都が甘木高台(高天原)であることを突き止めています。

 卑弥呼の宮殿の場所については『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』からさらに絞り込みを行っており、近々、現地調査でその墓の場所を確かめたいと考えています。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、スサノオ・大国主7代の「委奴国(いな(ひな)のくに)」と大国主の筑紫妻・鳥耳(襲名アマテル)からの筑紫大国主王朝10代の関係、さらには大国主の国譲り(私説は鳥耳の子・穂日と事代主・建御名方の後継者争い)と倭国の大乱との関係、筑紫大国主王朝10代と卑弥呼の邪馬壹国との関係について、高天原から薩摩半島西南端の笠沙・阿多へのニニギの天下りと合わせて、総合的に検討する参考にしていただければ幸いです。

 なお掲載図27・表2から、主なものをピックアップして添付しました。 雛元昌弘

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキンの邪馬台国ノー      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

  ヒナフキンの縄文ノート       https://hinafkin.hatenablog.com/

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「スサノオ・大国主建国論1・2」の修正

2022-11-23 12:23:36 | 邪馬台国

 三雲・井原遺跡、今宿五郎江・大塚遺跡、板付遺跡、那珂遺跡で環濠城(集落)の発掘が進んでおり、「スサノオ・大国主建国論1」の図2を修正しました。パソコンを何度か変えたためイラストレーター(作図ソフト)が使えず、ワードの稚拙な図になっています。

 なお、伊都国―奴国―不彌国間がそれぞれ百里(約8㎞)の距離であることから、三雲・井原遺跡(伊都国)と須玖岡本遺跡(不彌国)の中間に奴国の王都・奴城(のき)があったと考えており、古代母音「ie=い、え」から「き→け」の転換があったと考え、野芥(のけ)櫛田神社あたりに奴国の王都があったと考えており、今後の発掘を期待しています。

 また、「スサノオ・大国主建国論2」では、文言の小修正を行いました。

 

<修正図>

<元図>

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「邪馬台国ノート4 「神籠石(磐座)」「神籠列石(磐境)」が示す霊(ひ)信仰」の紹介

2020-03-28 19:32:25 | 邪馬台国
 Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート4 「神籠石(磐座)」「神籠列石(磐境)」が示す霊(ひ)信仰」をアップしました。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 この小論は2017年7月に書いたレジュメ「『神籠(こうご)石・神籠列石』が示す霊(ひ)信仰の磐座(いわくら)と磐境(いわさか)」を加筆・修正したものです。
『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院、2009年)においては、邪馬台国甘木高台説にたち、朝倉市杷木町の杷木神籠石(はきこうごいし)や筑後国山門郡(みやま市瀬高町)の女山神籠石(ぞやまこうごいし)など、邪馬壹国を2重に囲む神籠石群を邪馬壹国防衛の山城としていましたが、このレジュメではこの前説を否定し、「神籠石(かみこもりいし)=磐座(いわくら)」「神籠列石(かみこもりれっせき)=磐境(いわさか)」の霊(ひ)宗教施設説に変更しました。
 邪馬壹国の卑弥呼(霊御子・霊巫女)の鬼道については、霊(ひ)信仰=祖先霊信仰としてきましたが、神籠石説で整合性を図っています。
 私は邪馬台国は筑紫大国主・鳥耳王朝と考えていますので、四角の磐境と方墳の関係など、スサノオ・大国主建国論に一環として目を通していただければ幸いです。雛元昌弘

宗像大社の高宮の「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)
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「『アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ』の『新皇国史観』を危惧する」の紹介

2020-02-12 17:57:27 | 邪馬台国
 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「『アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ』の『新皇国史観』を危惧する」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 裕仁天皇の人間宣言により、天皇を唯一絶対の太陽神とする戦前の「皇国史観」は息の根を止められましたが、「アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ」として天皇家の歴史を新たに創作しようとする「新皇国史観」とでもいう動きに危機感を感じています。
 この新たな天皇利用の動きに対し、記紀に書かれたスサノオ・大国主建国史とともに、薩摩半島南西端の笠沙(かささ)の阿多を本拠地とした猟師・山人(やまと)の人間天皇家の真の歴史を明らかにしたいと考えています。 雛元昌弘

卑弥呼の宮殿施設?(邪馬台国大研究/歴史倶楽部/223回例会・平野区考古学展より)inoues.net/club10/hiranoku201702.html



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倭語論12 「大和」は「おおわ」「だいわ」か「やまと」か?

2020-02-07 11:46:50 | 邪馬台国
 「大和」と書いて「やまと」と読むことについて、みなさんは疑問を持ちませんでしたか?
 小学生の時でした。何にでも疑問を持ってしまう私は、「だいわ」ではなく、「やまと」と読むのに疑問を持ちました。とりあえず「やまと」と丸暗記しましたが、納得はしていませんでした。その疑問をずっと持ち続けていましたが、古代史をやるようになってようやく「やまと」の謎をとくことができました。
 では「大和」はもともとどう読まれていたのでしょうか? 「大」は倭音「おお」、呉音「だい」、漢音「たい」の漢字読みから、倭語では大和は「おおわ」であり、大和国は「おおわの国」と読むべきと考えています。
記紀(古事記・日本書紀)は、「大和」を「大倭」とも書いていますから、「わのくに」は元々は「倭国」でその後に「和国」と書き替え、さらに「おおわのくに(大倭国、大和国)」ができ、それを「やまとの国」と呼ばせるようになった、と私は考えます。
 そもそも、わが国の国名は次のようなタイプがあります。 

1 穀物国名 「いなのくに(委奴国,伊那国:稲の国)」「わのくに(倭国:倭=人+禾(稲))」「きびのくに(吉備国:黍の国)」「あわのくに(阿波国:粟の国)」
2 自然国名 「ひの国(肥国:火の国)」「きのくに(紀国:木の国)」「まつらの国(末盧国:松浦の国)」「おおみのくに(近江国:おお海の国)」
3 地名国名(地名の由来は様々) 「つしまの国(津島国→対馬国)」「いづもの国(出雲国)」・・・

 では「やまと」読みは何からきているのでしょうか? 「山戸」「山門」「山処」などの自然名や地名やからきているという説がありますが、奈良盆地は大きな平野であり、この国を「山の国」とすることは考えられませんし、ゆかりの古い地名もありません。
 記紀によれば、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)の阿多(あた)にいた笠沙天皇家3代の2代目は猟師の「山幸彦」であり、兄は漁師の海幸彦とされています。その海幸彦の子孫は「はやと(隼人)」を名乗っていることからみて、山幸彦の子孫は「やまと(山人)」を部族名としていたと考えます。その笠沙天皇家4代目の「わかみけぬ(若御毛沼:8世紀に神武天皇の諡号=死号)」ら4兄弟は東遷して奈良盆地に入り、「大和天皇家」を建てたとされています。
 もともと奈良盆地は、スサノオ(大物主大神)の子の大年(大歳=大物主)が美和(三輪)の国を建て、出雲のスサノオ6代目の大国主の時に、大国主・大物主連合(大物主は代々襲名)が成立し、協力して国づくりを行ったと記紀は記しています。「美」は呉音「み」、漢音「び」に対し、倭音「うつく(しい)」ですから「美しい和の国」です。
 スサノオ・大国主一族の「わの国」は、「倭国」から「和国」に漢字を変え、それを受け継いだ大物主(スサノオの子の大年)一族は奈良盆地に入り、「美しい和の国」「みわの国」と称したのです。その後、スサノオ7代目の大国主の国づくりに協力し、大国主・大物主連合ができた頃に、大物主の「みわの国(美和国=三輪国)」は「おおわの国(大倭国=大和国)に名前を変えたのではないか、と私は考えています。

「倭(わ)」から「大倭・大和(おおわ)」、「大和(やまと)」への国名変遷



 そして、筑紫大国主王朝で数えて16代目頃に、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)・阿多の山人(やまと)族のワカミケヌ(後に神武天皇)が傭兵隊として美和国に入り、10代崇神天皇の時に大物主の王女・御間城姫を妻として権力を奪い、「おおわの国(大和国)」を「やまと国」と呼び変えさせた、と考えます。
 「大和」を「やまと」と覚えさせる「皇国史観」の暗記教育に私はずっと疑問を持っていましたが、70歳を越えてようやく国名変遷の謎を解くことができました。
 『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院、2009年)において「やまと=山人説」を展開しましたが、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元昌弘著者名のアマゾンキンドル本)で「委奴国」からの国名変遷の経過を解明しています。雛元昌弘
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「『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説」の紹介

2020-02-06 18:18:03 | 邪馬台国
 本日、Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説」をアップしました。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 卑弥呼の「鬼道(祖先霊信仰)」が祀った鬼は委奴国王スサノオ~大国主の霊(ひ)である、と考えるスサノオ・大国主建国論にとって、卑弥呼と記紀のアマテル(本居宣長説はアマテラス)神話との関係解明は避けて通れません。
 そのような観点で、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)ともども、目を通していただければ幸いです。雛元昌弘
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