ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団80 石の宝殿は誰が造ったか

2010-01-30 10:05:03 | 歴史小説
伊保山山頂近くの中腹にある石の宝殿(生石神社の拝殿と本殿の屋根のみ見える)


「それじゃあ、次に向かいましょう。ボクちゃん、説明してくれる」
広峰神社の駐車場まで歩き、車に乗り込むと待ち構えていたように、ヒメからのリクエストである。
「これから、古代の印南の地に向かいます。ここは、大国主の世界になります。まず、古代史の謎の巨大石造物『石の宝殿」を見ます。続いて、古代の皇族などの石棺に使われた竜山石の石切場を見たいと思います。
そこから北に向かい、播磨富士と言われる高御位(たかみくら)山の麓の高御位神社に行きます。
ここから加古川を東に越えて、ヤマトタケルの母の墓ではないかとされる日岡山に向かいます。最後に、加古川河口の右岸へ向かい、謡曲「高砂」で有名な高砂神社を見て、こちらに帰ってきます」
「ヒメは播州人として、これらの場所は行ったことがあるの?」
マルちゃんの質問はいつも市場調査になっている。
「近くに受験の神様として有名な鹿島神社があるのよね。父と大学受験の時にお詣りに行って、そのついでに石の宝殿を見に行ったかな」
「高砂神社は?」
「10代の頃には、神社なんて関心が無かったからね。高砂神社には行っていないけど、叔父の結婚式で、祖父が高砂や~、と謡ったことは覚えているよ」
「石の宝殿は、姫路や県内の皆さんはどの程度知っているの」
マルちゃんは追求の手を緩めない。
「名前を聞いたことはあると思うけど、わざわざ見に行く、という人はかなり歴史好きの人じゃあないかしら」
鹽竈神社の塩竈、霧島神社の天逆鉾とならび、「日本3奇」の1つとされる巨大な謎の石の宝殿も、地元での関心はそれほど高くないようだ。もっとも、高木にしても、出身地近くに石の宝殿とよく似た飛鳥最大の巨大石像物、益田岩船がたまたまあったので、石の宝殿のことを知っているにすぎない、偉そうなことは言えない。
「石の宝殿は誰が造ったのかしら? 今まで考えても見なかったけど」
ヒメのいう通りで、確かに石の宝殿や益田岩船は古代史の大きな謎である。
「一番古い記録は播磨国風土記です。『池之原の南に作石あり。形、屋のごとし。・・・名付けて大石と言う。伝えて言う。聖徳王の御世に弓削大連が作った所の石なり』と書かれています」
「それなら、ボクちゃん、決まりじゃないの?」
感度抜群のヒメは、早合点でもある。
「ところが、弓削大連というのは、蘇我氏や聖徳太子に滅ぼされた物部守屋のことですが、この印南の地に、物部一族がいたという痕跡が全く残っていません」
「それは不思議ね。他に資料はないの?」
「712年に古事記、713~5年に播磨国風土記が作成されていますが、ほぼ同時期に、万葉集が編纂されています。その第3巻に、生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の次のような歌が載っています。

大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座 志都乃石室者(しづのいわやは) 幾代将経(いくよへぬらむ)

この歌の作者『生石』は「生石(おおしこ)」の地名や「生石神社」がある石の宝殿のある場所、『志都乃石室』は「鎮める岩屋」と解釈する、という説があります」
「なんか奥歯に物の挟まったような説明じゃない?」
ヒメに促されて、高木は他の2説を紹介することにした。
「実は、平田篤胤は島根県大田市の海岸にある『静之窟(しづのいわや)』説を唱え、本居宣長は島根県邑南町岩屋の『志都岩屋神社』説です。このように、江戸時代になると、古事記や万葉集に併せて、伝承や神社などがいたるところで造られてきますから、要注意です」
「そこには、実際に岩屋があるの?」
「太田市の岩屋は海岸の奥行45m、高さ13mの洞窟です。島根県邑南町の志都岩屋神社に『くぐり岩』があるけど、とても岩屋とは言えませんね」
「他には、説はないの?」
「淡路島に岩屋という地名があり、少し南に行ったところに志筑(しづき)という地名があるわよ。『き』は『城』と考えられるから、このあたり一帯の地名は『志津』だった可能性があるわよね」
マルちゃんは、各地で仕事をしているだけあって、地名にはやたらと詳しい。これは新説だ。
「そこには、実際に岩屋があるの?」
ヒメは「岩屋」にこだわっている。
「そうね、両手を広げて歩いて5m程奥に進むと、小さな石の祠が祀ってあったかな」
「岩屋でみると、岩屋のない志都岩屋神社説はまず対象外かな。播磨国風土記や伊予国風土記に登場して大活躍する大国主と少彦名の国造りをしのぶ歌となると、大田市の『静之窟(しづのいわや)』説も考えにくい。淡路島の岩屋は小さな岩窟でスケールが小さいなあ。やはり、石の宝殿になるんじゃあないの」
ヒメの「一点突破力」にはいつも感心させられる。高木などは、いつもあれこれ考えているから、こう単純・明瞭には結論は出せない。

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道草日記 邪馬台国探偵団のお知らせ

2010-01-18 09:23:35 | 歴史小説
「不連続宣言」をしながら、「邪馬台国探偵団」(シーサーブログ:http:// yamataikokutanteidan.seesaa.net/)のブログ開始をお知らせします。予告編みたいなもので、本格的には4月から開始します。正月帰郷の列車の中で書いたものをアップしました。日南虎男

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神話探偵団 連載不連続化のおわび

2010-01-17 10:01:40 | 歴史小説
伊和神社(播磨国一宮:兵庫県宍粟市一宮町)


年度末になり、「ワーク・ライフ・バランス」が「ワーク」の方に傾いています。しばらく、週1回の執筆が難しくなり、不連続シリーズになります。ご容赦下さい。
1月3・4日には、播磨国一宮の「伊和神社」(祭神:伊和大神=大己貴神)や、たつの市の「中臣印達神社」(祭神:五十猛(イタケル)神)などを見てきました。

ウィキペディア:三つ山祭・一つ山祭
三つ山祭は61年に一度、一つ山祭は21年に一度催行される。三つ山とは白倉山・高畑山・花咲山、一つ山とは宮山のことで、これら四つの山は伊和神社を囲む位置にある。それぞれに岩磐と祠があり、祭礼では祠を整備し、これらの山を遥拝する。山岳信仰、磐座信仰の名残と見られる。

(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)

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神話探偵団79 御柱祭のルーツ

2010-01-08 22:52:34 | 歴史小説
御柱祭の柱が立てられる場所(囲いの中に柱を立てる穴がある)


「諏訪大社の御柱祭も同じなのかしら?」
このヒメの質問には、神社に強いヒナちゃんの出番だ。
「諏訪大社は建御名方命を祀っていますが、御柱にはミシャグチ神が降りてくる『依り代』とされています。ミシャグチ神は東日本で信仰されており、白蛇の形をしているとも言われ、土着の神が集合されたと考えられています。神社の四方に4本の柱を立てるのは、広峯神社と異なっています」
さすがに、ヒナちゃんはよく調べていて、記憶力がいい。
「そういえば、前に仕事をした愛媛県の八幡浜市には、松の大木を海の水で清めてお宮に立て、松明を背負った赤鬼が登り、頂上で松明を投げ捨て、降りてくる、という行事があったわよ。確か、川名津柱松神事と言ったと思うけど」
マルちゃんは全国を仕事で歩いているので、現場の情報に詳しい。
「そういえば、福岡県にも柱祭りがある。瀬戸内海側の京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の等覚寺でも行われていたなあ」
カントクも思い出したようだ。
「広峰神社の祭りは11月の秋祭りに行われるけど、他の柱祭りもそうなの?」
ヒメの質問は、神無月を考えているようだ。
「諏訪大社の御柱祭は5月です」
「川名津柱松神事も5月だったと思う」
「等覚寺松会も5月だったかな」
「しかし、お寺で同じような祭りがあるというのは、どういことですかね?」 高木はうっかり疑問をぶつけてみた。例によって、すぐに反撃が帰ってきた。
「ボクちゃんの頭は、相変わらず固いのう。この国では、何でも混ぜてしまうんじゃ。チャンプル、チャンポン、神仏混合は、この国の正統な文化なんじゃ。妙なところで、厳密に考えるんじゃない」
「確かにそうですね。しかし、春祭りと秋祭りの違いはどう考えます?」
高木は早々に論点をすり替えた。
「三国志魏書志東夷伝の『馬韓』では、5月には種まきの後に鬼神を祭って昼夜休み無く歌舞・飲酒し、10月には農作業を終え、大木を立てて鬼神に仕える、と伝えています。これを見ると、柱祭りは秋祭りのようですが、春に鬼神を祭る時にも立てられていた可能性があります」
ヒナちゃんには、また、負けてしまった。だいたい、「三国志魏書東夷伝」を、学者達が勝手に「魏志倭人伝」などと言うから、その部分だけが一人歩きするんだ、高木は自分の調査不足を棚にあげて学者のせいにした。
「しかし、これらの柱祭りの起源はそんなに古いのかな? 神社が建てられて以降で、新しいんじゃありません? スサノオや卑弥呼の頃から行われていた、ということになりますかね?」
高木はさらに食いついてみた。
「吉野ヶ里遺跡や平原遺跡の柱跡から見て、もともとは共同体の祖先の墓の前で、天から祖先霊を迎える祭りが行われていた可能性が高いね。その後、世襲の王が誕生すると、王の霊を迎える場所は山上に磐座や山上の墓に移り、さらにその麓に霊が洩る木、ひもろぎ(神籬)を立てた、とは考えられないかな? 神社は、そのひもろぎ(神籬)の場所に後世になって建てられたのではないかな」
どうやら、柱祭りは長老のテーマと合致したようである。えらくはっきりと発言している。
「神社の前に竹を編んで『山』を立てたり、山車で山上の磐座に神社から霊を運んで天上に送り、再び迎えて神社に運ぶのも、同じことだと思います」
ヒナちゃんは、今やすっかり長老寄りである。
「今日のこれまでの話を整理しておこうか。
第1に、射楯(イタテ)とスサノオの子の五十猛(イタケル、イソタケル)が同一神かどうか、という議論をしたが、広峯神社の祭神がスサノオと五十猛で、神が降臨する背後の神那霊山(かんなびやま)が『伊多て神山』と呼ばれていたということは、射楯と五十猛は同一人物ということになる。この地に、スサノオと五十猛親子が進出していたというのはまず確かだと思われる。
第2に、吉備真備は陰陽道を広めるためにスサノオと五十猛の神籬(ひもろぎ)があったこの地に広峯神社を創建し、全国に「スサノオ天王=牛頭天王」として牛頭天王信仰を広めている。ということは、スサノオ天王信仰がすでに各地の人々の間にあり、それを利用するために、この地を聖地とした可能性が高い。この事実は、スサノオ・五十猛の祖先霊を信仰する有力な子孫がこの播磨にいたことを示している。
第3に、鬼神=祖先霊を天から降臨させる『神那霊山』や『霊(ひ)洩ろ木』がある場所に、神社が創建されたというのは、神社が創建される前にその地に祖先霊を祀る氏族がいたことを示している。神社の祭神は、その地の氏神を後世になって神社に移して祀るようになったものであり、神社の創建よりも氏神信仰はもっと古いことを示している。
第4に、魏志東夷伝に書かれた柱祭りが、広峯神社の創建の伝承によっても、卑弥呼の時代から吉備真備の時代、さらに現代まで続いていることが明らかになったことも大きい。
播磨の歴史は、魏志東夷伝と古事記を繋ぎ、古代史を解明する鍵を与える可能性がある」
長老は、いつもの慎重な学者らしからぬ張り切りである。
「織田信長の氏神の津島神社も『津島牛頭天王社』と呼ばれて、東海地方を中心に全国に約3千社あるということだったけど、牛頭天王社の元宮・総本社である広峯神社との関係はどうなるのかしら?」
マルちゃんの疑問はもっともだ。
「それは、尾張一族の祖の天照国照彦火明命とこの播磨との関係になるわよね。忘れていたけど、たつの市に火明命を祀る『粒坐天照神社』があるので、そこに行った時に議論しましょう」
ヒメの締めくくりで、広嶺山を後にした。

(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)

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