神話探偵団29~37の繰り返しになりますが、スサノオを戦国時代から見てみたいと思います。
長引く風邪に不整脈が加わり、テレビをこんなにダラダラ見たのは人生で初めてです。ビデオデッキ2台(私と妻)とハードディスクに保存したものを減らそうと、見ては消去しました。
大河ドラマで明智光秀の「麒麟が来る」が始まることもあり、多くの本能寺の変の番組をコピーしましたが、「麒麟が来る」の歴史考証を担当した小和田哲男静岡大名誉教授を除き、どの説も私とは異なり、織田信長と明智光秀のどちらもが矮小化されていると感じました。
私の母方の先祖は石山本願寺合戦で播磨衆として織田軍と戦い、顕如宗主から法名を与えられており、白土三平氏の『忍者武芸帖』を愛読していたこともあり、私は織田信長が好きではありませんが、歴史は私情抜きに冷徹に判断しなければならない、と思っています。
1世紀からのスサノオ・大国主建国に対し、「やまと(山人)族」の天皇家が美和(三輪)の大物主(スサノオの子の大年の後継王:代々襲名)の大和(おおわ)国の権力を奪ったのは4世紀の御間城入彦(後に崇神天皇と命名)という記紀に書かれた歴史を追及してきた私は、信長はスサノオ天王の後継者として「天主・天王の絶対王政を目指し、明智光秀はこれを阻止した」と2009年の3~5月に次のブログで書いてきました。
・帆人の古代史メモ(livedoor)16「天主・織田信長は『天王スサノオ』の後継者たらんとした」(090328)
・神話探偵団(goo)29~37「津島神社の天王と天皇」「安土城の5階八角、6階四角の謎」「天主天王体制と天皇仏教体制」等(090404~0427)
・霊(ひ)の国の古事記論(FC2)1「古事記から古代史は再現できる」(090501)
ここに、「信長は天主・天王絶対王政を目指していた」という私の主張を要約して再掲しておきたいと思います。
① 織田家は福井県越前町織田にある劔神社(越前二の宮:主祭神は劔大神スサノオ)の神官であった。
② 織田家は海人族の拠点である尾張に移って後、津島神社(主祭神はスサノオ大神=牛頭天王、相殿:大国主)のある商都・津島の領主であった。
③ 52代嵯峨天皇はスサノオを「皇国の本主」として「神階正一位」と「日本総社」、66代一条天皇は「天王」の号を津島神社に贈っており、記紀のとおりに天皇家はスサノオこそ建国の「本主」であり「天王」として認めている。信長は自らをこのスサノオを継ぐ「本主」「天王」であった。
④ 信長は、天下統一のシンボルとして安土城を築いたが、その「天主閣(天守閣)」の5階は正八角形、6階は正方形であった。聖徳太子の夢殿、舒明・斉明・天智・天武・持統・文武天皇の八角墳に見られるように八角形は「四方八方」を支配する天皇家のシンボルであり、「四方の支配者」を示す四角は出雲の方墳や前方後方墳、神籬(霊漏木)の四角の方壇などに見られるようにスサノオ・大国主のシンボルであり、安土城天主閣は絶対王として信長が天皇家の上に立つことを示している。
⑤ 最上階の6階の壁には中国の3皇5帝、老子・孔子・七賢人が描かれており、その中央に玉座を置いた信長は明国を支配して天主となることを考えていたことを示している。
⑥ 桶狭間の戦いにおいて、スサノオの剣を祀る熱田神宮に兵を集め、戦勝祈願をおこない、今川義元を討ち取ったことにより、信長は「スサノオ天王」の神意を受け継ぐ「天主」と信じたに違いない。
⑦ 比叡山は元々は「日枝山(ひえのやま)」であり、大津の日吉大社の神奈火山(神那霊山)で、スサノオの子の大歳(大物主)とその子の大山咋(おおやまくい)を祀っていた。反信長勢力の拠点である比叡山延暦寺を焼き討ちしたとされているが、信長は日吉大社の聖地を奪って建てられた比叡山延暦寺に反感を持っていた可能性がある。なお、日吉大社の神使は猿であり、日吉丸と呼ばれた秀吉を「さる」と呼んで信長が目をかけたのは、その実力をかうとともに信長が日吉丸を神使の猿に模していた可能性がある。
⑧ 平安京・御所の鬼門を守り、スサノオを祀る日吉大社や京都・八坂神社を神仏混合で支配していた延暦寺を焼き討ちしたことは、信長が京都・畿内の支配者として仏教を国教とした天皇家の上位にあることを人々に示したと考えられる。
⑨ 信長は「天主スサノオ」の霊(ひ)を受け継ぐ神権王として絶対王政の国づくりを進めるために光秀に「出雲・岩見の切り取り」を命じ、最高の神官の位置に光秀を置き、常備軍のトップに秀吉を置こうとしたという政権構想を持っていたと私は考えるが、光秀が理想とした「武家・天皇家、仏教・神道両立体制」の政権構想とは齟齬が生じたことが信長殺害の主原因であると私は考えます。
⑩ 信長殺害は光秀の私憤や誰かの教唆・陰謀などによるものではなく、国の将来をどうするか、という2人の構想の違いによるものである、という当時の最高の政治家の衝突というのが私の考えです。そのことを理解できたのは信長と光秀しかおらず、信長が光秀の襲撃を聞いて「是非に及ばず」と家来に発言したのは、自らと光秀の政権構想の「是非」は歴史に問おう、という意味であったと私は考えます。
⑪ かつてNHKの大河ドラマの「天地人」は、「天主=キリスト」の連想から、信長の部屋をキリスト教徒の部屋であるかのように描いているが、全くの間違いである。中国文化圏においては、「天主=周王」である。
信長殺害により、わが国は「重農主義・封建制度」から「重商主義・絶対王政」段階への移行を阻まれ、秀吉・家康によって300年にわたって歴史を停滞させられ、鎖国制度と重農制度、身分制度の固定化を迎えます。
もしも信長の絶対王政が成立していたなら、光秀は天主・信長天王の司祭者になるとともに官僚制度のトップに立ち、百姓出身の秀吉は鉄砲で武装した常備軍のトップに立ったと考えられます。信長が出雲と岩見の支配を命じたのは左遷ではなく、信長を天主天王とするためであった、と私は考えています。
この織田家絶対王政が誕生していれば、ブルジョアの誕生と百姓兵による市民革命へとつながったと考えられますが、光秀の信長殺害による反動化により、光秀が理想とした「武家・天皇家、仏教・神道両立体制」は徳川家康に引き継がれた、と私は考えます。信長殺害により、わが国は市民革命を経ることなく、明治維新の天皇絶対主義の帝国主義の道を歩むことになった、と考えています。
もっとも、信長は宣教師にそそのかされ、明国征服を計画していましたから、それを真似した秀吉の朝鮮出兵よりも格段に大きな被害を朝鮮・中国と日本の人民に与えた可能性があり、光秀の信長殺害はその惨禍を防いだとも言えます。
「天皇を超えようとした信長=鬼を退治した光秀」という指摘が小和田哲男氏だけということは、この国の歴史学者たちが天皇制と信長の関係について判断を回避する「皇国史観」にいまだとらわれていることを如実に示しています。残念ながら、小和田氏も「天皇を超えようとした信長」を「鬼」にし、信長の政権構想の革命性について判断を示していません。
他の歴史家たちは、光秀が信長を討った理由として、怨恨説、四国説(長曾我部元親討伐への反対)、構造改革反発説、暴走阻止説、黒幕説(秀吉・家康・朝廷・イエズス会等)などを主張していますが、それらは一因であったとしても、根本は重商主義・絶対王政を目指して天皇を超えようとした信長とその革命に反対した光秀との政権構想の戦いであった、という主因を抜きにしては、この2人の偉大な政治家についての評価を誤っていると言わざるをえません。
長引く風邪に不整脈が加わり、テレビをこんなにダラダラ見たのは人生で初めてです。ビデオデッキ2台(私と妻)とハードディスクに保存したものを減らそうと、見ては消去しました。
大河ドラマで明智光秀の「麒麟が来る」が始まることもあり、多くの本能寺の変の番組をコピーしましたが、「麒麟が来る」の歴史考証を担当した小和田哲男静岡大名誉教授を除き、どの説も私とは異なり、織田信長と明智光秀のどちらもが矮小化されていると感じました。
私の母方の先祖は石山本願寺合戦で播磨衆として織田軍と戦い、顕如宗主から法名を与えられており、白土三平氏の『忍者武芸帖』を愛読していたこともあり、私は織田信長が好きではありませんが、歴史は私情抜きに冷徹に判断しなければならない、と思っています。
1世紀からのスサノオ・大国主建国に対し、「やまと(山人)族」の天皇家が美和(三輪)の大物主(スサノオの子の大年の後継王:代々襲名)の大和(おおわ)国の権力を奪ったのは4世紀の御間城入彦(後に崇神天皇と命名)という記紀に書かれた歴史を追及してきた私は、信長はスサノオ天王の後継者として「天主・天王の絶対王政を目指し、明智光秀はこれを阻止した」と2009年の3~5月に次のブログで書いてきました。
・帆人の古代史メモ(livedoor)16「天主・織田信長は『天王スサノオ』の後継者たらんとした」(090328)
・神話探偵団(goo)29~37「津島神社の天王と天皇」「安土城の5階八角、6階四角の謎」「天主天王体制と天皇仏教体制」等(090404~0427)
・霊(ひ)の国の古事記論(FC2)1「古事記から古代史は再現できる」(090501)
ここに、「信長は天主・天王絶対王政を目指していた」という私の主張を要約して再掲しておきたいと思います。
① 織田家は福井県越前町織田にある劔神社(越前二の宮:主祭神は劔大神スサノオ)の神官であった。
② 織田家は海人族の拠点である尾張に移って後、津島神社(主祭神はスサノオ大神=牛頭天王、相殿:大国主)のある商都・津島の領主であった。
③ 52代嵯峨天皇はスサノオを「皇国の本主」として「神階正一位」と「日本総社」、66代一条天皇は「天王」の号を津島神社に贈っており、記紀のとおりに天皇家はスサノオこそ建国の「本主」であり「天王」として認めている。信長は自らをこのスサノオを継ぐ「本主」「天王」であった。
④ 信長は、天下統一のシンボルとして安土城を築いたが、その「天主閣(天守閣)」の5階は正八角形、6階は正方形であった。聖徳太子の夢殿、舒明・斉明・天智・天武・持統・文武天皇の八角墳に見られるように八角形は「四方八方」を支配する天皇家のシンボルであり、「四方の支配者」を示す四角は出雲の方墳や前方後方墳、神籬(霊漏木)の四角の方壇などに見られるようにスサノオ・大国主のシンボルであり、安土城天主閣は絶対王として信長が天皇家の上に立つことを示している。
⑤ 最上階の6階の壁には中国の3皇5帝、老子・孔子・七賢人が描かれており、その中央に玉座を置いた信長は明国を支配して天主となることを考えていたことを示している。
⑥ 桶狭間の戦いにおいて、スサノオの剣を祀る熱田神宮に兵を集め、戦勝祈願をおこない、今川義元を討ち取ったことにより、信長は「スサノオ天王」の神意を受け継ぐ「天主」と信じたに違いない。
⑦ 比叡山は元々は「日枝山(ひえのやま)」であり、大津の日吉大社の神奈火山(神那霊山)で、スサノオの子の大歳(大物主)とその子の大山咋(おおやまくい)を祀っていた。反信長勢力の拠点である比叡山延暦寺を焼き討ちしたとされているが、信長は日吉大社の聖地を奪って建てられた比叡山延暦寺に反感を持っていた可能性がある。なお、日吉大社の神使は猿であり、日吉丸と呼ばれた秀吉を「さる」と呼んで信長が目をかけたのは、その実力をかうとともに信長が日吉丸を神使の猿に模していた可能性がある。
⑧ 平安京・御所の鬼門を守り、スサノオを祀る日吉大社や京都・八坂神社を神仏混合で支配していた延暦寺を焼き討ちしたことは、信長が京都・畿内の支配者として仏教を国教とした天皇家の上位にあることを人々に示したと考えられる。
⑨ 信長は「天主スサノオ」の霊(ひ)を受け継ぐ神権王として絶対王政の国づくりを進めるために光秀に「出雲・岩見の切り取り」を命じ、最高の神官の位置に光秀を置き、常備軍のトップに秀吉を置こうとしたという政権構想を持っていたと私は考えるが、光秀が理想とした「武家・天皇家、仏教・神道両立体制」の政権構想とは齟齬が生じたことが信長殺害の主原因であると私は考えます。
⑩ 信長殺害は光秀の私憤や誰かの教唆・陰謀などによるものではなく、国の将来をどうするか、という2人の構想の違いによるものである、という当時の最高の政治家の衝突というのが私の考えです。そのことを理解できたのは信長と光秀しかおらず、信長が光秀の襲撃を聞いて「是非に及ばず」と家来に発言したのは、自らと光秀の政権構想の「是非」は歴史に問おう、という意味であったと私は考えます。
⑪ かつてNHKの大河ドラマの「天地人」は、「天主=キリスト」の連想から、信長の部屋をキリスト教徒の部屋であるかのように描いているが、全くの間違いである。中国文化圏においては、「天主=周王」である。
信長殺害により、わが国は「重農主義・封建制度」から「重商主義・絶対王政」段階への移行を阻まれ、秀吉・家康によって300年にわたって歴史を停滞させられ、鎖国制度と重農制度、身分制度の固定化を迎えます。
もしも信長の絶対王政が成立していたなら、光秀は天主・信長天王の司祭者になるとともに官僚制度のトップに立ち、百姓出身の秀吉は鉄砲で武装した常備軍のトップに立ったと考えられます。信長が出雲と岩見の支配を命じたのは左遷ではなく、信長を天主天王とするためであった、と私は考えています。
この織田家絶対王政が誕生していれば、ブルジョアの誕生と百姓兵による市民革命へとつながったと考えられますが、光秀の信長殺害による反動化により、光秀が理想とした「武家・天皇家、仏教・神道両立体制」は徳川家康に引き継がれた、と私は考えます。信長殺害により、わが国は市民革命を経ることなく、明治維新の天皇絶対主義の帝国主義の道を歩むことになった、と考えています。
もっとも、信長は宣教師にそそのかされ、明国征服を計画していましたから、それを真似した秀吉の朝鮮出兵よりも格段に大きな被害を朝鮮・中国と日本の人民に与えた可能性があり、光秀の信長殺害はその惨禍を防いだとも言えます。
「天皇を超えようとした信長=鬼を退治した光秀」という指摘が小和田哲男氏だけということは、この国の歴史学者たちが天皇制と信長の関係について判断を回避する「皇国史観」にいまだとらわれていることを如実に示しています。残念ながら、小和田氏も「天皇を超えようとした信長」を「鬼」にし、信長の政権構想の革命性について判断を示していません。
他の歴史家たちは、光秀が信長を討った理由として、怨恨説、四国説(長曾我部元親討伐への反対)、構造改革反発説、暴走阻止説、黒幕説(秀吉・家康・朝廷・イエズス会等)などを主張していますが、それらは一因であったとしても、根本は重商主義・絶対王政を目指して天皇を超えようとした信長とその革命に反対した光秀との政権構想の戦いであった、という主因を抜きにしては、この2人の偉大な政治家についての評価を誤っていると言わざるをえません。