ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

158 縄文・古代郷土史のすすめ

2024-06-20 14:44:49 | スサノオ・大国主建国論

 gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」で連載を始めた「スサノオ・大国主建国論」は7で中断したままですが、「2 私の古代史遍歴」(221013)で全国各地の郷土史の問題点について次のように書きました。

 全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ・大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ・大国主系の神社があり、しかもスサノオ・大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ・大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。

元:スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴 - ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート (goo.ne.jp)

 

 第1の問題点は、「未開の縄文、進んだ弥生」という、縄文時代から弥生時代(土器名による時代区分はすでに破綻)へ大転換がおきたとする縄文・弥生断絶史観です。

 1万数千年の母子主導の「採集栽培・漁労縄文社会」を男主導の「狩猟採集社会」としてとらえるとともに、「縄文農耕(芋豆穀実栽培)」から「水利水田稲作」への自立的・内発的な発展を無視していることです。

 瀬戸内海の淡路島やしまなみ海道、山陰の市町村などにまちづくり計画の仕事で通っている時、夕方になると釣竿とバケツ持って女性や高齢男性などが岸壁で釣りをして夕食の魚を釣っている光景をよく見かけ、各地の市町村での座談会では中高年の人たちが「子どもの頃の遊びは、ほとんど食料調達だった」と懐かしそうに話すのをよく聞きました。

 私も小学生低学年の頃は播磨の田舎にいくと又従兄弟と毎朝網をもって小川にでかけ、親戚一同は春には必ず潮干狩りに出かけ、又従兄弟たちと海に泳ぎに行くと貝を足で採り、時には伝馬船を借りて釣りに行き、揖保川ではヤスでアユやウナギを突き、投げ網を教えてもらい、山芋を掘ることもありました。岡山市の自宅では、春には町内会できのこ狩りに行き、近所の青年が空気銃で小鳥を撃つのに連れていってもらったこともありました。

 縄文時代から日本列島は豊かな海と山の幸に恵まれており、採集漁撈は子ども戦力であったのです。

 西洋中心史観は男性中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」であり、日本の多くの歴史家・考古学者も自然条件を無視してその受け売りに終始し、熱帯雨林での「糖質・DHA食」に支えられた人類の頭脳の発達を無視し、母子中心の「採集栽培・漁労進歩史」を認めていません。

 「戦争進歩史観」ですから武器にもなる「石先槍」には興味はあっても、骨製の「銛」や「釣り針」には関心が薄いのです。―縄文ノート「89 1段階進化説から3段階進化説へ」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」参照

 人類は何次にもわたってアフリカからアジア・ヨーロッパへ出ていますが、最も大規模な「出アフリカ」は約7万年前とされており、彼らは熱帯雨林で「銛」で魚やワニ、トカゲ、カエルなどを獲っていた文化を持ってアフリカを出て、多くは同じように食料の豊富な熱帯・亜熱帯に拡散したのです。

 日本文化は1万数千年の縄文社会を基底としているのであり、西欧中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」から離れ、縄文社会をベースにした郷土史を再構築して欲しいものです。

  第2の問題点は、各郷土史が「縄文時代→弥生時代→古代天皇制」の記述になっており、記紀(古事記・日本書紀)や出雲国・播磨国風土記などに書かれたスサノオ・大国主7代の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の建国史を無視し、各地にある神社伝承や祭り、民間伝承、地名などをスサノオ・大国主建国と結びつけて検討していないことです。

 私は「石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代」という分類基準に統一性のないガラパゴス的な時代区分を「イシ・ドキ・ドキ・バカ時代区分」として揶揄し、食生活と採集農耕漁労文化の道具を分類基準として「木骨石器→土器(土器鍋)→鉄器(鉄先鋤)」の時代区分を提案し、「縄文栽培・農耕」(芋豆穀実の焼畑農耕)から沖積平野での「鉄器水利水田稲作」への大転換こそ古代国家形成に関わる時代区分とすべきと考えてきました。

 そして、この後者こそ後漢書、魏書東夷伝倭人条などに登場する紀元1・2世紀の男王の7~80年の「百余国」の「委奴国(ふぃなのくに)」であり、スサノオ・大国主7代の「葦原中国」「豊葦原水穂国」であることを明らかにしてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 かつて古田武彦氏は「多元的古代」説を掲げましたが、縄文1万数千年の歴史を受け継いだ「委奴国」を構成する「多元的」な旧百余国の研究は進んでおらず、代わりに郷土愛から邪馬台国を九州各地、郷土・大和(おおわ)、吉備、出雲、阿波、丹後などに引っ張ってくる邪馬台国説が乱立しているありさまです。

 「スサノオ・大国主建国史無視・抹殺の郷土史」から、記紀・風土記などの記述と全国各地の豊富な遺跡・遺物、古社の祭神と伝承、民間伝承、地名・人名などを総合的に照合した「縄文・古代郷土史」を確立し、「鉄器王」(鉄先鋤王)スサノオ・大国主一族による「葦原中国・豊葦原水穂国」「委奴国」の全体像を解明したいものです。

 スサノオがヤマタノオロチ王を切った剣は「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」で韓の鉄先鋤の刃先を鍛え直した剣であり、大国主が「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」(出雲国風土記)と呼ばれ、御子に阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)がいることからみて、スサノオ・大国主7代は新羅から鉄先鋤を輸入し、寒冷化で収穫量が減った新羅に米を運ぶ「米鉄交易」により、「葦原」の開拓と「水路・水田整備」を進めたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」(2300402)参照

 また、私の妻の実家の裏手にある「高御位山(たかみくらやま)」(播磨富士)の山頂には巨大な磐座(天御柱)があり、その下には石の宝殿の削り石を投げ捨てた「タイジャリ(鯛砂利)」があり、「鯛の形の頭が上を向いていたらここが日本の中心になるはずであった」という伝承(義母談)があり、近くには「大国里」(播磨国風土記)や「天下原(あまがはら:前同)」「天川」などの地名があります。

 高御位山の前の小山には500tの巨石の「石の宝殿」(筆者説は石の方殿)」があり、万葉集には生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經」(大汝(おおなむち)少彦名のいましけむ志都(しづ)の岩屋は幾世経ぬらむ)の歌があります。なおこの「石の宝殿」の大国主・少彦名を祭神とする「生石(おいしこ)神社」は生石村主真人一族の神社であったとみて間違いありません。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 そして、古事記には、少彦名の死後「いかにしてこの国を造ろう」と思い悩んでいた大国主命のところに、「御諸山(三輪山)に坐す神」の大物主大神(スサノオ)が海を光して来て、「よく我が前を治めれば、共に国作りを行おう」「自分を倭の青垣の東の山の上に奉れ」と言い大国主命の協力者となったとしています。さざ波によって海がキラキラと光り、その中から大物主大神の神意を伝える大物主が船で東から現れたという光景は、まさにこの地の瀬戸内海南岸の光景に外なりません(出雲北岸、四国北岸などでは海は光りません)。

 この石の宝殿のある「竜山石」は仁徳天皇をはじめとした畿内の大王や豪族などの石棺に使われ、紫宸殿に四角い台座の上に八角形の屋形を被せた「高御座(たかみくら)」で皇位継承の儀式をおこなうのは、この播磨の高御位山での大国主・大物主連合の建国儀式を継承したと考えます。

 私は縄文遺跡と記紀神話・神社伝承の繋がりについては諏訪の神名火山(神那霊山)信仰や石棒・金精信仰などある程度分析はできましたが、播磨の地で縄文遺跡と播磨国風土記・記紀や神社伝承などのスサノオ・大国主一族の建国との関係をまだ探究できていません。地元でしか解明できない「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の5点セットの縄文・古代史の宝庫は全国各地にまだ眠ったままであり、全国各地の郷土史家の研究に期待したところです。

第3の問題点は、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」や「弥生人大量渡来史観」とともに、「天皇家弥生人説」や「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」が見られることです。

 古事記は薩摩半島南西端の笠沙・阿多のニニギからの阿多天皇家の2代目を「海幸彦(漁師:隼人=はやと)」「山幸彦(猟師:山人=やまと)」兄弟とし、山幸彦・ホオリの妻は龍宮(琉球)の豊玉毘売(とよたまひめ)とし、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)は豊玉毘売の妹の玉依毘売(たまよりひめ)を妻としたと伝えています。そして、その子の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ)が大和(おおわ)に入り初代「神武天皇」(8世紀の諱=忌み名)になったとしていることから明らかなように、縄文人の一族とみなしており稲作民の王とはしていません。―「スサノオ・大国主ノート152 『やまと』は『山人』である」(240516)参照 

 また記紀によれば、高天原は「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」(地名からみて福岡県旧甘木市蜷城(ひなしろ))にあるとしており、高天原を朝鮮半島とする「天皇家弥生人(朝鮮人)説」が成立する余地などありません。天皇家は薩摩半島南西端の縄文山人(やまと)族なのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」も見られますが、記紀によればスサノオ・大国主一族のルーツは壱岐・対馬を拠点とした縄文海人族であり、魏書東夷伝倭人条や『三国史記』新羅本紀、記紀のどの史書からみても壱岐・対馬の海人族朝鮮人説など成立しません。最近、出雲人のDNA分析の結果は、出雲の人たちが縄文系であることが明らかとなっています。

 「万世一系」の天皇中心史観の歴史家たちは、天皇家を稲作文化・文明を担った弥生人の建国王とし、新羅と米鉄交易を行い「鉄器水利水田稲作」を全国に広めた縄文海人(あま)族のスサノオ・大国主一族の「葦原(沖積平野)」の「水穂国」づくを無視していますが、縄文1万数千年の文化・文明こそこの国の基底文化・文明であることを隠し、「弥生社会」像を全面に押し立てて「弥生天皇」像を創作しているのです。

 全国的に縄文遺跡の発掘が進み、民俗学の蓄積のあるわが国には、「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の縄文・古代史の宝庫が全国各地にあるにもかかわらず、バラバラにされて眠ったままなのです。

 「天皇中心史観(新皇国史観)」病にかかっていない若い世代の皆さんにより、1万数千年の縄文時代と紀元1~4世紀のスサノオ・大国主一族の建国史を「食・農耕・倭音倭語・祭り・宗教」などの文化・文明史として繋ぐ新たな縄文・古代郷土史が各地で生まれることを期待したいと思います。

 そしてさらに視野を世界に広げて、この縄文文化・文明こそ侵略神一神教以前にかつて全世界にあった母系制社会の文化・文明であり、縄文・古代郷土史から世界遺産登録に向けた取り組みを各地で開始して欲しいものです。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「160 『日本中央部縄文遺跡群』の世界遺産登録にむけて」「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」「166 日本中央部縄文文明世界遺産登録への研究課題」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」等参照

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)         http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)        https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/



最新の画像もっと見る

コメントを投稿