ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

倭語論4 「倭人」の漢字使用

2020-01-26 17:46:23 | 倭語論
 「倭人」はいつ頃から漢字を使い、倭音・呉音・漢音で漢字を読むようになったのでしょうか? 
記録上、はっきりしているのは、「三国志魏書東夷伝」に卑弥呼は「使によって上表」と書かれていることです。「上表」とは「意見を書いた文書を、君主に奉ること。また、その文書」とされていますから、3世紀には漢字を使っていたことがはっきりとしています。
 さらに、「舊百餘國・・・今使譯所通三十國」(旧百余国・・・今、使訳通ずる所は三十国)と書かれていますから、元の百余国、今の三十国は漢語・漢字を使える通訳がいたと見られます。この旧百余国というのは、後漢や新羅と国交を結んだ「委奴国」「倭国」になります。後漢から倭国王に金印が与えられていることからみて、委奴国王は正式な国書を持たせ、通訳をつけて使者を皇帝のもとに送り、漢字文化圏の冊封国として金印が与えられたことは明らかです。
 中国南方の呉音が先に伝わり、後に漢音が入っているとみられることからみて、わが国では漢字は南方から先に伝わったことが明らかです。「琉球(龍宮)ルート」からの海人族による伝搬と、秦の始皇帝が紀元前3世紀に東方の三神山、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)に3,000人の童男童女と百工(技術者)を付けて徐福を浙江省(2度目)から派遣したという「徐福ルート」です。佐賀市や京都府伊根町、熊野市など各地に徐福伝説や徐福を祀る神社があることからみて、彼らもまた呉音漢字を伝えたと考えられます。
 それを裏付けるのが吉野ヶ里遺跡など北部九州を中心に松江市などから約40点発見された石硯と研石(墨をすりつぶすための道具)です。これらは紀元前2世紀末から紀元3世紀後半のものですから、わが国での倭音・呉音・漢音による漢字使用は紀元前からと見なければなりません。
 奈良盆地に4世紀に大和天皇家の政権が生まれるずっと前からわが国では海人(あま)族による「倭流漢字文化」が誕生していたのです。古代文化は天皇家から、という大和中心主義の歴史観は根底から見直さなければなりません。そして、和歌や俳句など、表音・表意文字を組み合わせた世界で独特の倭流漢字表記の豊かな文字文化を見直すべきです。
 朱子学の漢語ばかりの教育勅語や軍人勅諭を愛してやまない拝外主義の皇国史観など、くそくらえです。倭語から日本史と日本文化をとらえる必要があります。