福本清三氏の「どこかで誰かが見ていてくれる」という本を読みました。
何十年も映画やテレビで活躍して、台本なし、代表作なし、
脇役ですらない福本氏の「これしか出来ん。ただやってたらこうなった」
そんな言葉を読んで、もう一冊の本のことを思い出しました。
それは紀野一義氏の「ある禅者の夜話」という正法眼蔵随聞記を
解説した本。
その中に、『「只管打坐」というのは「ひたすら座る」という意味と
思われているけれど、実は「ただ座る」ということなのだ』という
一文がありました。
「ひたすら」では「悟り」とか「修行」とか「座る」ことを何かのための手段に
してしまうけれど、そうではなく、何も求めず、無になって
座るときだから座る、「ただ」座るのが禅である、というような意味だったと思います。
これをやったら評価されるかもしれないから、
誰かが見ていてくれるから
自分のスキルがあがるから・・・
いろんな思いを捨てて、「ただやる」そして
「ただ、やり続ける」
福本氏の半生にそんな姿を感じました。
あせらず、倦まず、たゆまず
目の前の仕事をただ、やる。
ついつい評価や名声や代償を期待してしまう凡人としては
この、「ただ」というのはかなり難しい。
難しいけれど、これが出来れば「ゆるがない」「ぶれない」
自分なりの「幸せ」の状態でいられるのではないかと思います。
福本氏自身はそんな気負いもなくやってこられたのかも
知れません。だからこそ、芯の強さというか
しなやかで折れない、本物の強さを感じました。
・・・・・「只管打坐」。
なんて読むんでしょうかね?