こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年3月12日 水曜日 音楽風景 ~脱コードし続ける路~

2014-03-12 22:02:10 | 音楽帳

「天は二物を与えず」ということわざ。
それが、それが真っ赤なウソ、だと80年代、すでに知ってしまっていた。
たとえば、ケイト・ブッシュ、そして、愛するデヴィッド・シルヴィアンなどとの出会い。
ほれぼれするような容姿、という外見とは別に、稀有な才能を出力表現しきった音楽の数々。

中学3年生にして出会ったジャパンの作品「孤独な影」。
そのジャケットに刻まれた蒼白い表情。
ミーハーバンドとそれまで思い込んでいたジャパンの深層に、耳が到達した日。
まるで彫刻物のような、美しいデヴィッド・シルヴィアンの姿に、恋焦がれた。

英語のタイトルは「ジェントルマン・テイク・ポラロイド」だったが、それを「孤独な影」と邦題を付けたのは、ある意味正しかった。
「この人は、本気で、自分の個/孤をみずから背負う覚悟があるんだな」と少年は思った。
孤立無援の状況であれど、周囲と断ち切れたとしても。
自分の孤独な状況とのシンクロとシンパシー。

「才能は枯渇する」とは、立花ハジメの吐いた名言だが、それも否定される。
デヴィッド・シルヴィアンの才能は、ずんずんと、その後も「深化」し続け、ひたすら、わが道を行く。たった一人で。
その様に導かれ、酔い、励まされてきた自分は、同じ時代を生きてきて幸福だったと思っている。

そんな自分でも、2003年の作品「ブレミッシュ」なる新たな領域に踏み込んだとき、「まだまだ、この人は行くところまで行くんだな」と新たに思った。
昭和女子大学・人見記念講堂の最前列に座って、高木正勝が描く粒子の雨が降り続く映像の中、「静」を身体で現わす、数メートル先のデヴィッド・シルヴィアン。
後ろを振り帰ることの無い孤高の姿は、妙に切なく映った。

よく、みうらじゅんさんが「キープ・オン・ロックンロール、でなければいけないんだ」と言う。
「ロックンロール」には興味は無いが、何を言わんとしているかは明快である。
いずれ時代のおきざりにされる表現であってはならない、ということ。
決して、「時間だけが新しい」作品だけを創り続ける、という意味では一切ない。

自らの思い入れを除いても、デヴィッド・シルヴィアンのヴォーカルの表現力と美しさの天下一品さ。
それは、坂本龍一の作品「キャズム」におさめられた「ワールド・シティズン」を一例に挙げても、明白なる事実である。

既に7年が経過してはいるが、2007年、デヴィッド・シルヴィアンの作品に「WHEN LOUD WEATHER BUFFETED NAOSHIMA」なるものがある。
瀬戸内でのアート展。その開催に参加した大竹伸朗さん。
彼にコンタクトを取って来たデヴィッド・シルヴィアン。
旧友/同朋である2人は、船に乗り、直島へとゆるりと船出する。
デヴィッド・シルヴィアンは、瀬戸内の風景を見やりながら、録音機でフィールド・レコーディングを始める。
それを眺めるファンでもあり・友でもある大竹。

この様は、大竹さんの「ネオンと絵具箱」におさめらている。

「たった今、自分の興味をひく新しい音を録音し、早くまた次の音楽をつくりあげることへの喜びが、こちらにも伝わってきた。
船から美しい風景をぼーっと眺めることも、重要なことの一つではある。
しかし、それでは彼の中に在る『時間』はまっとうに過ぎ去ってくれないのだ。
音をつくり出すことでしか、納得のいく時間は流れてくれないのだ。
そう思った。」(大竹伸朗「ネオンと絵具箱」より)
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6 コメント

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才能 (四月の魚)
2014-03-14 18:49:14
「才能は枯渇する」それを聞いて怒ったのは教授。枯渇ではなく、スローダウンするだけだと、言い放った50代の坂本。
還暦を超えた今なら、なんて言うのかと思う。

japanは、ニューロマンチックの群生の一つとみなしていた自分。詩人の血を聴いて考えを改めました。

だがしかし…ロックに詰まると、アンビエントや音響派にいくのだと思ったのも、また事実。
自分のブログでも、この話はよく触れてあおますが…(笑)
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らせん (かたちんば→四月の魚さんへ)
2014-03-24 22:43:42
若気の至り、という言葉がありますが、若い時期でなければ出来なかった作品は大いにあるでしょう。
しかし、円熟した歳でなければ出てこない表情や表現もある。
そういうことかと思います。

「ロックに詰まると、アンビエントや音響派にいく」
言わんとするように「逃げ込むには絶好の場所、と考える音楽家も居る」とは言えます。

だけれども、元々『ロック』なる概念が何たるか?
について、いまだにしっくりこない自分には、どうもよく分かりません。

細野さんがアンビエントを経由して、今一度、ナマの音に戻ったように、具象と抽象の間を行き交いながら、新しい血とエネルギーやヒントを経て、ループしつつ戻って行く。
そういうイメージが、自分の頭にはあります。
返信する
屈する (四月の魚)
2014-04-04 00:28:03
こんばんは
普段は「音楽シールド」で「無敵」ではありますが、今日はひどく心が疲れたので、Savath & Savalasのjourney's homeをエンドレスで聴いています。
そう、アンビエント…らしいですね、分類すると。

これを聴く時、泣いたら負けだ…というのが、私の定義です。
返信する
律儀に、なんか生きられない/生きたくはない (かたちんば→四月の魚さんへ)
2014-04-05 01:08:36
Savath & Savalasなるユニット?を聴いたのは初めてでした。

金曜日の夜だから言える、
のだと思うのですが、今生きているヒトのありさまというのは、生真面目すぎるように思うのです。
あるいは・・・破綻を自らに告知して、崩れていくことに躍起になっていたり。
両極でありながらも、いずれもが監獄の囚人。

先日、小学生の頃に大好きで聞いていたTBSラジオの録音を聞いたときにも、そう思いました。
それはノスタルジーではなくて。

こんなにも、ごくごくのヒトであってさえも、一挙手一投足が監視され・寸分のはみだし如きで、袋叩きにされる「未来」を、誰が望んだでしょうか?

みずから言葉に出しながらも、今夜、自分にうなずいたのは「他人にはどーでも良いことは、当人だけに、何かを示唆してくる。」
社会的な言語やあたかも「キチン」としたかのようなモノが、今の身の回りには鎮座していますが、昔なら「うさん臭い」「キナ臭い」と感じたものを、ごくごくその辺の人が語ってしまう危うい世界。

ドアーズに「ピープル・アー・ストレンジ」という曲がありますが、いったいどちらがキチガイなのか?
どちらが「サイケデリックな幻覚」の主で、どちらが客体なのか?
そういう感覚をよく覚えます。

「なれの果て」。
マンガ「漂流教室」だったかな?記憶に定かではありませんが、様々な有事・惨劇が起きる前と最後に、子供が三輪車でその前を通過する。
その子だけは何も変わらない日常との対比がされている。
そんなことも思い出されます。

世界はもはや止めようもない、ヤバイ濁流の方向に収斂されてきている、と感じています。
これが、わたしの定義、というより、皮膚感覚です。
返信する
夜はともだち (四月の魚)
2014-04-05 20:37:53
こんばんは。

まずは…ありがとうございます。

さすが、同士…という軽い言いっぷりですいません。
かたちんばさんも、相応に日々屈していると、勝手に理解しています。

TBSならばいっけ~いよしおの~、夜は~、ともだち~、よしいっけ~♪のジングルですね。なつかしい。
そして10時からはFM-NHKの「サウンドストリート」の火曜、木曜、金曜コースでしょうか?
ラジオ関東で「スネークマンショー」10分やってましたね。津嘉山正種さんナレーションのジェットストリームまでがフルコースでした。とりあえず「でる単」をくくりつつ(笑)。
うちは2歳下の弟が医大でしたので、私は音楽ジャンキーのダメ長女でした。

でも、日本を憂う気持ちは大学からずっとあり、自分以上にダメになってゆくことに今でも気に病んでいます。

大学時代に部活のお世話になった先輩カラミで特に深く考えずに某大手企業のCMに出るバイトをしたのですが、共演が女を武器にしているクソばかり。
その時に「おまえら氏ね」と心の中で思いました(笑)その世代が今の日本の中核を担っている。日本が崩壊するのは、当然の理。

希望的観測は失望の元!ですよ(笑)

てなわけで、私は「音楽だけが人生さ」と嘘くさいことをつぶやいちゃうのかもしれません。



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独白 (かたちんば→四月の魚さんへ)
2014-04-07 23:27:06
お察しの通り、「日々屈している」を通り越しています。

また、お察しの通り「夜はともだち」のことです。
小島一慶さんは、少年がはじめて愛した「DJ」でもあり、今でも大事な人です。
その日の、天気だったり、悲しいこと・ほんの少しの良かったことなど、日常を淡々と語るだけなのに、そこに幸福があった時。
そこと今の殺伐さの違いに、驚愕したのが正直な想いでした。

三島由紀夫さんの「ただ生きているだけで、魂は死んでいて構わないのか!」という痛切な訴えは、ココロに響けど、ヘタレの自分は「それでも」とだけ想いつつ、寸分の何かを探しつつ「生きねばならない」とだけ言い聞かせています。
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