1980年代は、1987年ニュー・ウェイブの溶解と共にはっきりしない「もやもやした」適当な時代へと入っていく。
そして、1989年頃には『ワールド・ミュージック』なる音楽業界が勝手に付けた、要は「何でもアリ」の世界の音楽のゴッタ煮、あるいは、ミクスチュアの世界に入っていく。
1989年は、東西冷戦終結・昭和の終わりの年だが、ここで細野さんは「オムニ・サイト・シーイング」・坂本龍一は「ビューティー」を発表する。
***
その後、「アンビエント」という名の水面下の動きが90年代に入って出てくる。
僕が「アンビエント」というコトバにすぐ反応したのは、元々、このコトバの概念を作り出した・提唱したのが、ブライアン・イーノであったからである。
「聴いても聴かなくても良い音楽」として、イーノが頭に描いていたのはエリック・サティの「家具の音楽」であった。
細野さんは、YMOをする傍ら、1980年前後、疲れたスタジオの缶詰め生活から帰宅して、独り聴いていたのがブライアン・イーノの「アンビエント・シリーズ」+α。
僕も1981年以降、「うるさい社会」と受験&極道的運動で心身ともに疲れて帰ってきて、部屋を真っ暗にして聴いていたのも、ブライアン・イーノの「アンビエント・シリーズ」やタンジェリン・ドリーム、フリップ&イーノ、ホルガー・シューカイ・・・・だった。
ジ・オーブの「リトル・フラッティ・クラウド」の入ったアルバムが出たのが1991年。
90年代に入り、オモテの世間では流通していないのに、「水面下で波紋のように広がっていく音楽。」(細野さん談)
「ヒット・チャートにも出ないのに、レコード屋さんに行くと売られていて、個・個がうわさレベルで情報を交換し合い、そこでだけ流通している音楽。」(細野さん談)
そこに、細野さんの関心は、移っていく。
まだ、ネット社会への移行前夜、レコード→CDにメディアが移行していくさなかの事。
***
1993年、YMOは周囲の圧力&広告代理店&業界のたくらみにだまされて「再生」し、「テクノドン」を発表し、2回だけのライブを武道館で行う。
個人的には、この「テクノドン」というアルバムは、とってもとっても素晴らしい曲がたくさん入った名盤だと思っており、今でも好きで、よく聴き続けている。
しかし、彼ら自身は「だまされた」という認識で、未だにここで作られた楽曲を再度演奏する事は無い。
BOOKOFFに行くと、こんな素晴らしいアルバムが、105円で売られている。
それは、YMO「再生」(再結成)に寄せた一般大衆の「期待」と、それに対する期待度のミス・マッチがあったためであり、多く売れて→多く(処分)売られた。
この1993年時点で、YMOが新作「テクノドン」を創るに当たって意識し・引用したのが、ジ・オーブを中心とした、「新しい解釈」での「アンビエント」だった。
坂本龍一は、当時、「この”再生”は、失敗だった。かつてあったYMOのような1つのムーヴメントを創れなかった。」と告白しているが、そこからも、この「再生」がかなり無理をしてムーヴメントを創ろうとした音楽業界の無理強いの暗躍が、本人たちの意図を離れてお膳立てされていた事がわかる。
声に、ウィリアム・バロウズを使ったり、「アンビエント」の「行ったら行ったっきり戻って来ない」という従来の起承転結方式では無い曲創りを意識したり・・・。
私は、決して失敗したなどと考えていないが、彼らは二度と、この「テクノドン」の曲を演奏しない。
ヒューマン・オーディオ・スポンジのインタビューの際にも、3人共「やりたくなかったが、舞台(ビッグ・プロジェクト)を周囲から勝手に作られて、ハメられた。」と言っている。
***
話は、細野さんにとっての「アンビエント」に戻る。
細野さんは「水面下で波紋のように広がっていく音楽。」に感心を寄せ、その精神を自分の音楽の中に吹き込みながら、ついに頂点とも言える決定版『メディスン・コンピレーション』を1993年3月21日に発表する。
「テクノドン」と同じ年だが、『メディスン・コンピレーション』は、本当に隅々までカンペキなほどに「アンビエント」な、ココロのしじまに染み入るような音楽集で、細野さんの音楽の旅の中でも、色んな実験を経た中での、1つの完成形を持っていた素晴らしいアルバムだった。
当時、大阪で営業をしていた自分は、毎晩、この『メディスン・コンピレーション』を掛けながら、地球レベルでの大地や空や自然を感知させる音楽に、ピピッと反応していた。
(まさか、1995年1月に阪神・淡路大震災が起きるとは思わなかった前夜の事である。)
***
さらに、細野さんは、1995年に「N.D.E」(臨死体験)というアンビエントなアルバムを発表する。
これは細野さんとゴウ・ホトダ、荒くれ者=ビル・ラズウェル、寺田康彦との共同作業から生まれた作品だが、あくまでクレジットは細野さんである。
真っ黒いジャケットに、小さく人らしき形の「フライング・ヒューマノイド」みたいなものが浮かんでいる・・・
それ以外の情報やインナー・スリーブも無い無愛想なつくりだが、それは「音楽だけを聴け!」という細野さんのメッセージなのかもしれない。
このアルバムと同時に、ヴィデオも作られ、ジ・オーブがライヴで使っていたヴィデオの影響が感じられるが、水の流れのような文様が美しいヴィデオに仕上がっている。
毎年、夏には、この「N.D.E」も聴くが、その中でも個人的に大好きな曲が、この「ヘリオセラピー」である。
夏の朝~昼にかけての定番である。
涼しげな曲で、大好きなのだ。
そして、1989年頃には『ワールド・ミュージック』なる音楽業界が勝手に付けた、要は「何でもアリ」の世界の音楽のゴッタ煮、あるいは、ミクスチュアの世界に入っていく。
1989年は、東西冷戦終結・昭和の終わりの年だが、ここで細野さんは「オムニ・サイト・シーイング」・坂本龍一は「ビューティー」を発表する。
***
その後、「アンビエント」という名の水面下の動きが90年代に入って出てくる。
僕が「アンビエント」というコトバにすぐ反応したのは、元々、このコトバの概念を作り出した・提唱したのが、ブライアン・イーノであったからである。
「聴いても聴かなくても良い音楽」として、イーノが頭に描いていたのはエリック・サティの「家具の音楽」であった。
細野さんは、YMOをする傍ら、1980年前後、疲れたスタジオの缶詰め生活から帰宅して、独り聴いていたのがブライアン・イーノの「アンビエント・シリーズ」+α。
僕も1981年以降、「うるさい社会」と受験&極道的運動で心身ともに疲れて帰ってきて、部屋を真っ暗にして聴いていたのも、ブライアン・イーノの「アンビエント・シリーズ」やタンジェリン・ドリーム、フリップ&イーノ、ホルガー・シューカイ・・・・だった。
ジ・オーブの「リトル・フラッティ・クラウド」の入ったアルバムが出たのが1991年。
90年代に入り、オモテの世間では流通していないのに、「水面下で波紋のように広がっていく音楽。」(細野さん談)
「ヒット・チャートにも出ないのに、レコード屋さんに行くと売られていて、個・個がうわさレベルで情報を交換し合い、そこでだけ流通している音楽。」(細野さん談)
そこに、細野さんの関心は、移っていく。
まだ、ネット社会への移行前夜、レコード→CDにメディアが移行していくさなかの事。
***
1993年、YMOは周囲の圧力&広告代理店&業界のたくらみにだまされて「再生」し、「テクノドン」を発表し、2回だけのライブを武道館で行う。
個人的には、この「テクノドン」というアルバムは、とってもとっても素晴らしい曲がたくさん入った名盤だと思っており、今でも好きで、よく聴き続けている。
しかし、彼ら自身は「だまされた」という認識で、未だにここで作られた楽曲を再度演奏する事は無い。
BOOKOFFに行くと、こんな素晴らしいアルバムが、105円で売られている。
それは、YMO「再生」(再結成)に寄せた一般大衆の「期待」と、それに対する期待度のミス・マッチがあったためであり、多く売れて→多く(処分)売られた。
この1993年時点で、YMOが新作「テクノドン」を創るに当たって意識し・引用したのが、ジ・オーブを中心とした、「新しい解釈」での「アンビエント」だった。
坂本龍一は、当時、「この”再生”は、失敗だった。かつてあったYMOのような1つのムーヴメントを創れなかった。」と告白しているが、そこからも、この「再生」がかなり無理をしてムーヴメントを創ろうとした音楽業界の無理強いの暗躍が、本人たちの意図を離れてお膳立てされていた事がわかる。
声に、ウィリアム・バロウズを使ったり、「アンビエント」の「行ったら行ったっきり戻って来ない」という従来の起承転結方式では無い曲創りを意識したり・・・。
私は、決して失敗したなどと考えていないが、彼らは二度と、この「テクノドン」の曲を演奏しない。
ヒューマン・オーディオ・スポンジのインタビューの際にも、3人共「やりたくなかったが、舞台(ビッグ・プロジェクト)を周囲から勝手に作られて、ハメられた。」と言っている。
***
話は、細野さんにとっての「アンビエント」に戻る。
細野さんは「水面下で波紋のように広がっていく音楽。」に感心を寄せ、その精神を自分の音楽の中に吹き込みながら、ついに頂点とも言える決定版『メディスン・コンピレーション』を1993年3月21日に発表する。
「テクノドン」と同じ年だが、『メディスン・コンピレーション』は、本当に隅々までカンペキなほどに「アンビエント」な、ココロのしじまに染み入るような音楽集で、細野さんの音楽の旅の中でも、色んな実験を経た中での、1つの完成形を持っていた素晴らしいアルバムだった。
当時、大阪で営業をしていた自分は、毎晩、この『メディスン・コンピレーション』を掛けながら、地球レベルでの大地や空や自然を感知させる音楽に、ピピッと反応していた。
(まさか、1995年1月に阪神・淡路大震災が起きるとは思わなかった前夜の事である。)
***
さらに、細野さんは、1995年に「N.D.E」(臨死体験)というアンビエントなアルバムを発表する。
これは細野さんとゴウ・ホトダ、荒くれ者=ビル・ラズウェル、寺田康彦との共同作業から生まれた作品だが、あくまでクレジットは細野さんである。
真っ黒いジャケットに、小さく人らしき形の「フライング・ヒューマノイド」みたいなものが浮かんでいる・・・
それ以外の情報やインナー・スリーブも無い無愛想なつくりだが、それは「音楽だけを聴け!」という細野さんのメッセージなのかもしれない。
このアルバムと同時に、ヴィデオも作られ、ジ・オーブがライヴで使っていたヴィデオの影響が感じられるが、水の流れのような文様が美しいヴィデオに仕上がっている。
毎年、夏には、この「N.D.E」も聴くが、その中でも個人的に大好きな曲が、この「ヘリオセラピー」である。
夏の朝~昼にかけての定番である。
涼しげな曲で、大好きなのだ。
その剥離式スリーブの
アートワークとともに、
音楽内容は衝撃的でした・・。
はじめまして。
N.D.E.は、ビル・ラズウェルのせいか、少しハードな部分もあり、色んな面を持つアルバムですが、自分は「ヘリオセラピー」が一番好きです。
日本人で、これだけ多くのムーブメントに関わり、多様な音楽要素を聴きこみ・取り入れた音楽家は細野さん以外居ないんじゃないでしょうか?
とうに音楽界の「国宝人間」ですね、自分にとっては。
「細野さんの、あの夏向きのアンビエントなんだったっけなー」と思い、検索していましたらこちらにたどり着きました。
「HELIOTHERAPY」の動画があるなんて!ありがたい時代ですね~!
記事のおかげです。ありがとうございました!
こういう感想を頂くと、細々と自分の日記=死までの日々の綴りも、多少も浮かばれるというものです。
僕が、この映像を見たのは、1995年の高野寛さん&緒川たまき様の「土曜ソリトン SIDE-B」でしたが、僕自身もこの映像を納めたヴィデオを探していた1人でもありました。
時代はすごい事になりましたね。
だって、好きだった時代に、ワープ出来るのですから。
こういう人との出会いがあるから、ブログは辞められないのかもしれません。
時代に感謝です。
HeliotherapyのPVが存在していたなんて素敵ですね。
久方ぶりに過去記載したものを見て、たった二年前なのに随分と変わった位置に居る今の自分を認識します。
ユーチューブは削除されるのが早いですが「ヘリオセラピー」はまだあるのは意外でした。
憧れの沖縄でこの曲を聴いた夏休み。
またそういう夏を過ごせれば幸せなのですが。