こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

ブライアン・イーノの計算高さ

2008-07-15 00:08:12 | 音楽帳


イーノは、確かに有能な知的音楽の功績は大きいのだが、その反面、計算高さのようなものがちらついてしまって、そこが未だに素直に好きになれない部分でもあるのだ。

「ディスクリート・ミュージック」「ミュージック・フォー・エアポーツ」はその代表で、サティの「家具の音楽」、それに、フィリップ・グラス/テリー・ライリー/スティーブ・ライヒに影響を受けながらも、それを彼の独自の「機械=マシーン」で自動演奏させる「発想」はすごいが、聴いていくにつれ、それが機械の自動演奏だとわかると、音の中に入っていた自分は、つい、そこに醒めてしまって、一歩、音の外に出てしまう。

一方、イーノの好きなところは、その「計算」だけではない、ロマンティックな面と過激さである。それがなかったら、自分はイーノを聴き続けては来れなかったと思う。

***

80年代、<今はそう聞こえないのだが>、一時、音楽が全てそういう「合成物」にしか見えなくなって、感情を込めて聞こえなくなった時期があった。
その虚無感は、自分の性格や、置かれていた境遇にゆえんする部分が大きいが、それでも、その一部は、イーノの計算高さへの反発でもあった。

***

彼はユーロピアンである。
彼の70年代後半から80年代に向けての名作と呼ばれるものは、「白人音楽がいかにして黒人音楽を越えるか」という挑戦と挑発だったともいえる。

パンク~ニュー・ウエイヴ~テクノ、果てはハウス~アンビエントと、音の底を流れる深い流れに、常に影響を与え続けてきたのが、ブライアン・イーノであったのは事実であるが、そこに、ユーロピアンならではの知的・理性的戦略が見えてしまうときに、自分は今でも、その瞬間、醒めてしまうのである。

他人からどう言われても、自分には、どうしても起きてしまう現象であり、虚無感に包まれる瞬間なのだ。

音楽は、本来、感情と結びつき、「理屈ではなくて体が動き出しちゃうもの」(細野さん)なのであるが、そんな中、音の実験と知的手術の中、生み出されていくイーノの音楽には、実に冷静で醒めた感覚と視点を感じざるをえない瞬間がある。
とてもキケンをはらんだ怖い音楽、というか思想の固まりに見える瞬間がある。

まるで、太宰治の「トカトントン」の主人公、そのままの言い回しだが、自分の素直な感情でもある。
あと、同じようなことを「ミュージック・マガジン」の中村とうようさんも言っていたが。

***

そんなこと言いながらも、イーノの周辺の音楽からは、自分は逃れられないのだが。
YMOも、(良い意味の)イーノの影響を受けているわけだし・・・・。
とくに「BGM」は、イーノとのつながりの深い作品でもあるし。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする