京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

~ 大坂城歴史探訪ウオーク「大坂城をのぞむ、大坂城からのぞむ」

2024年03月28日 08時46分00秒 | 日記
 3月26日は、京阪電鉄主催の表題のツアーに参加しました。









大手門内の枡形に集合の後、2班に分かれて巡ります。

大阪城は戦国時代の大坂本願寺(石山本願寺)を前身とし、織田信長と戦った石山合戦、豊臣秀吉による築城、大坂の陣による落城、徳川幕府による再築、明治維新の動乱による焼失、明治維新後の陸軍管轄、戦後の公園整備と、日本の歴史とつねに深いかかわりを持ちながら現在に至っています。いま見ることができる石垣や堀、大手門・多聞櫓・千貫櫓などといった古建造物はすべて徳川時代以後のもので、一帯は国の特別史跡に、古建造物のほとんどは重要文化財に指定されています。(大阪城天守閣HPより)







大手門を入ると枡形があり、正面には徳川の権威を示すかのような巨石が配されています。





多聞櫓を潜り西の丸庭園内にある千貫櫓へ。












石垣に使われている石は主に瀬戸内から船で運ばれて来た花崗岩で、中には担当した大名の家紋が刻印されています。
(◎の刻印は肥後熊本藩二代加藤光尚が石垣を普請した事を示しています。)

千貫櫓(重文)は、大手口を北側から守る隅櫓で、西・南側は西外堀に面しています。

今回は内部には入っていませんが、西の丸の櫓としては伏見櫓に次ぐ規模を持ち、構造はかつて西隣にあった坤櫓とほぼ同じだそうです。
ただし、坤櫓にはない唐破風がつけられている事から、この櫓の格式の高さを表しています。

石山本願寺と織田信長との戦いで、この櫓を、攻めあぐねた信長軍が「千貫文の賞金を出してでも奪いたい櫓だ」と語り合ったと「武功雑記」に書かれています。
「千貫櫓」の名称の由来となったと言われています。

毎週の土曜日、日曜日、祝日に公開されています。





西の丸庭園を北上すると坤櫓跡があります。
残念ながら第二次世界大戦の大阪大空襲で消失しています。











更に北上すると、この日のメインイベント乾櫓内部の見学です。
実に9年振りの公開だそうです。

この櫓は西の丸の西北に建てられているため「乾櫓」と呼ばれています。
この櫓は徳川幕府による大坂城築城の最初の年(元和元年・1615)に築かれ、大手口の北に建つ千貫櫓と並び、現在の大阪城に残る古建造物の内でも最古となる建物です。

















乾櫓はL字形の2階建ての建物で一階と二階とが同じ広さになっていて大阪城内の他の櫓には無い珍しい構造の櫓です。

この櫓からは大手口・京橋口と、大阪城の二つの入口を望む事が出来ます。







乾櫓再築工事が完了して数年後の寛永11年(1634)閏7月25日、3代将軍家光は完成後はじめて大坂城に入城しています。
時代は変わり徳川の世になった事をアピールする事でした。

入城の翌日には、それまで大坂・堺・奈良に課していた地子(土地税・現在の固定資産税)を永久に免除すると宣言しました。



大阪城公園の西の丸庭園内に重要文化財「焔硝蔵(えんしょうぐら)」があります。焔硝とは火薬という意味です。

徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685年)に建造されたものです。





また、西の丸庭園内には大阪の桜の標本木があり、花が5〜6輪咲くと開花宣言がされます。





本丸への入口には巨石が据えられています。
見える面は巨大ですが、奥行きは70cmあまりだそうです。











大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)は。太平洋戦争の敗戦まで、大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア最大規模の軍事工場でした。

現在では、大坂城の歴史の変遷を示したパネル展示や飲食店やお土産店舗が入っています。







天守閣に登ろうとしましたが、結構な雨の中で多くの外国人の方が並んでいたので、この日には断念しました。