京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

「木乃婦」の客室・室内の設え

2022年07月15日 19時44分00秒 | 日記

「木乃婦」さんの一階のしつらえです。











「岩戸山」の町内にあり、入口も祇園祭仕様になっています。

今年から三代目ご主人高橋拓児さんが山鉾巡行に帯同されるそうです。









当日の会場となった2階の大広間です。

床の間には果林が生けられています。

ご主人のお話では初代から室町近辺の呉服商とのご縁が深く、当時お客様の9割は実に呉服商関係の方々だったそうです。

各店舗に来られたお客様にお弁当を配達し、上顧客の方は夜も「木乃婦」さんで食事をして帰られたそうです。

内装も呉服商の旦那衆の意見や好みが随所に施されています。

ご主人のご計らいで空いている一階の部屋を二部室見せて頂きました。









障子ひとつ取っても細かな意匠が施されています。

もう一部屋です。









茶室の様な天井です。
中庭を見ながら食事が出来ます。



その他に壁に「洛中洛外図」が掛けられた部屋もあるそうですが、お客様がおられ見学は出来ませんでした。

また、「木乃婦」さんでは初代ご主人の時代には"仕出し"が中心だったそうです。

今もその伝統を受け継がれ1日に700〜800もの弁当を配達されているそうです。

"味"よし、"雰囲気"よし、"接客"よし、"ご主人の人柄"よし、、、の京都の名店です。



祇園祭前祭 鉾建て・試し曳き

2022年07月13日 19時05分00秒 | 日記
 7月12日は祇園祭前祭の山鉾町を散策し試し曳きも見学する事が出来ました。











一番人気の"長刀鉾"です。
昨日7時からの鉾建てで大きな車輪の取り付けの真っ最中でした。

鉾の下に長い木材を差し、鉾の高さを調整して車輪を嵌めて行きます。
"てこ"を調整する方々との息が合わないと上手く行きません。

この日まではゆっくりと見学出来ますが
明日(13日からは粽の販売が始まるので会所前は凄い事になりそうです。





次に函谷鉾です。

鉾建ては10日には既に終わり12日は14時から試してが行われます。







鶏鉾(にわとりほこ)です。
こちらの鉾も10日に鉾建てが終わっています。

見送りは16世紀頃のベルギー製で国の重要文化財に指定されています。

12日の14時半から試し曳きが行われます。







岩戸山です。
こちらは一日遅く11日からの山建てです。
まだまだ続くコロナ禍の中ですが13日20時からは一般搭乗拝観が行われる予定です。

岩戸山の搭乗は今も"女人禁制"が守られています。







放下鉾の鉾建ての様子です。

勇ましいかけ声でジャッキーが巻かれ、徐々に鉾が建っていきます。



帰りに15時からの月鉾の"試し曳き"に遭遇しました。

高さ26m、重さ12tと、全山鉾な中で最も大きく、重量も最大です。

鉾建ての様子を拝見していると祭りに携わる方々の情熱と心意気を感じると共に伝統技師の継承の大切さを感じます。












神々が宿る神楽岡界隈をめぐる②

2022年07月13日 12時49分00秒 | 日記
 前回の続編です。

大元宮の東北には明治店の"胞衣塚(えなづか)があります。



近づくには参道を外れて菓祖神社脇の細い道を上がります。
余り知られたくはないのでしょうか?整備されていなく、明治天皇の胞衣塚を示す石碑もありません。

まだ江戸時代の事、皇子誕生に伴う諸行事は全て陰陽師の指示により進められ、胞衣塚もこの地に決まったようです。




菓祖神社です。

昭和32年に京都菓子業界の総意により鎮祭された神社で「菓子の祖神」として崇められています。

鳥居の横には「神の世に」の句碑があり、「神の世に 神集まりて 神楽丘 一鶴翁」と刻まれています。

一鶴翁の句とありますが、どのような人物か?や建碑者、建碑年もわかっていない不思議な句碑です。

竹中稲荷神社









ご由緒は明らかではないようですが、古記によると天長年間(824〜834)には既に社殿があり吉田神社の創建(貞観元年859年)より古くからあった事がわかります。



参道には多くの鳥居が奉納されていて、古伝には「幾千の鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず。」とあり、当時の稲荷詣の盛んな事が伺えます。

アパレルメーカーの吉忠株式会社の歴代社長も信仰していたようで鳥居が寄進されています。





竹中稲荷の奥には在原業平の墓と伝わる業平塚があります。

御塚



また、竹中稲荷社の背後には50社以上の御塚があります。
これらは稲荷神を信仰する1日の私的な守護神で"御塚信仰"と言われています。
(ちなみに伏見稲荷大社が鎮座される稲荷山には1万社以上の御塚があるそうです。





「紅もゆる歌碑」です。

三高同窓会90周年記念事業として製作され、昭和33年(1958)5月に完成除幕式が行われています。



この辺りは山頂に近く、東側には視界が開け如意ヶ岳大文字山が近くに見えます。

この後に「茂庵」に寄りカフェを頂くつもりでしたが定休日で叶わなかったのが残念です。
この日は火曜日で茂庵の定休日は月曜日だけと思っていましたが、いつからか月曜、火曜になっていました。









最後に吉田神社本宮です。

詳細は駒札をご覧下さい。

こうして吉田山を巡ると、山自体や大岩、川など自然なものに神々が宿ると考えてきた日本人の古来からの宗教観の一端が伺えます。

















神々の宿る神楽岡界隈をめぐる①

2022年07月13日 07時17分00秒 | 日記
 吉田神社の西側にはかって神官の住居である社家(しゃけ)が建ち並び、集落は構(かまえ)と呼ばれる柵や堀、土塁で囲われていて南北には"木戸"が設けられていました。





今では「重森三玲庭園美術館」など数件に当時の面影を残すのみとなっています。





東一条通の一筋南には、かっての吉田神社参道があります。

幕末期に尾張藩が現在の京都大学吉田キャンパス内に相当する敷地に下屋敷を構え、その南側の境界が今の東一条通です。

その様な事から東一条通が参道として整備されました。

地学的に吉田山は東山三十六峰のひとつに数えられますが、その成り立ちは花折断層が右横ずれを起こし、行き場を無くした地表面がその南端部で隆起したもので"末端膨隆丘"と呼ばれる山です。
(たんだか"ブラタモリ"みたいになっていますね!)



鳥居が見える左側には藤原山陰の邸宅があったと言われており、奈良の長谷寺の観音像を二躰模刻し、一躰はここ神楽岡の邸宅に、もう一躰は大阪の茨木市にある総持寺に祀りました。
藤原山陰の邸宅は後に寺となり「新長谷寺」と号したと言われています。







参道を登ると視界が開け山陰神社が鎮座されています。

ご祭神は神社名からわかるように藤原山陰卿
で吉田神社創建に貢献された方です。

日本で初めてあらゆる食物を調理、調味したと言われ、古来より"包丁の神・料理飲食の祖神"として信仰されています。









斎宮所大元宮です。

吉田神社のご由緒は、貞観元年(859)に藤原山陰が氏神である春日四神を勧請したことに始まります。

祭祀は中臣氏(後の鈴鹿家)が勤めていましたが鎌倉時代以降は、朝廷の祭祀を司る神祇官である卜部(後の吉田家)が兼務するようになりました。

室町時代の応仁・文明の乱で一時衰退しますが吉田兼倶が出て独自の吉田神道(唯一神道)を唱え、それを具体的に実現する場所として、文明16年(1484)に卜部家邸内にあった斎場を移建し、大元宮を中心とした斎場所を造営しました。









大元宮には天神地祇(あまつかみ くにつかみ)八百万神がお祀りされ、その周囲には内宮・外宮と全国の延喜式内社3132座がお祀りされています。

2月の節分には大元宮で"疫神祭"が行われ、京都で一番賑わう"節分の日"です。



長くなるので以降は後日に書きたいと思います。



三千院あじさい祭と藍の生葉染め体験

2022年07月10日 06時46分00秒 | 日記
 7月2日はJR東海「そうだ 京都、行こう。」の会員限定企画で表題のイベントに参加しました。





京都駅からバスで1時間弱でこんな大自然を味わう事のできるのも京都の魅力のひとつです。



今回、藍の生葉(蓼たで)染め体験をさせて頂いた「大原工房」です。

なんと6月25日にNHKの「ブラタモリ」で放映された工房です。
その時に出演されていたご主人、奥さま、それに"大原女(おはらめ)"の姿で出られていた方まで居られてビックリでした‼️







予め収穫されていた藍の生葉を手でよく揉みます。
途中で塩を入れ、さらに藍の生葉を追加し、絹のハンカチを入れてさらによく揉み込みます。

途中でハンカチの一部を輪ゴムや紐で縛ります。

今度は冷たい井戸水で輪ゴムや紐を外しながら濯ぎます。

それを洗濯機で脱水し、アイロンをかければ完成です。





輪ゴムや紐で縛ったところだけが色がつきません。
真ん中の模様は"ハート"に見えないでしょうか?

世界で一枚だけの"絹のハンカチーフ"です。
思わず「木綿のハンカチーフ」を口ずさんでしまいました。(昭和ですね!)

次に徒歩で三千院へと向かいます。







途中に"ブラタモリ"でも紹介されたしそ畑や大原はらを一躍メジャーにしたデュースセイエスの"女ひとり"の歌碑があります。







客殿の前には池泉鑑賞式庭園で江戸時代の茶人・金森宗和により修築されたと伝わります。







三千院門跡は"梶井門跡"とも呼ばれる天台宗三箇門跡のひとつで格式の高いお寺です。









宸殿です。
門跡寺院特有の建物で歴大学天皇の御位牌が、お祀りされています。
(写真はネットお借りしました。)









宸殿前の庭園は"有清園"と呼ばれ多くの種類の"苔"が自生した非常に美しい池泉回遊式庭園です。

所々に静岡県出身の石彫刻家・杉村孝氏が、奉納された"わはべ地蔵"がこのお寺に親近感を抱かせています。

 

いよいよ三千院の"顔"とも言える往生極楽院です。

内部には阿弥陀三尊像(いずれも国宝)がお祀りされています。

脇侍の観音菩薩坐像と勢至菩薩坐像は"大和坐り"と言い、正座をされ前屈みになられた独特のお姿をされています。

これは一刻も早く衆生をお救いになろうとされようとされているお姿を表していると言われています。

天井は船底天井になっていて阿弥陀如来の後背を納める為の工夫です。

往生極楽院ではかって護摩が焚かれていた為に天井は煤で真っ黒になっています。







X線撮影や顔料の痕迹を元に再現された往生極楽院の内部がミュージアム円融蔵内に再現されています。

往生時に二十五菩薩が迎えに来られ、天には迦陵頻伽が舞っている当時の人々が理想とする往生極楽の世界観が広がっています。











最後にあじさい苑を周りましたが、さすがの大原三千院でも見頃を過ぎていました。




最後に御朱印を授与して頂き堺市の自宅へと帰路につきました。